若いときには感じなかった或る意識をはっきり判別することが再々ある。
運よくわずかな%で生き残って、病をいくつか抱えながら暮らしている知り合いは貴重な存在で、
彼らにはなるべく長生きをしてもらいたい。
区別することなく付き合える年代になったからには少々の不快感は受け入れていても、 気持ちの持ち方が同じではない。
年を重ねるにつれ丸くなっている者と一方で我が強くなり他人の粗探しみたいなことが沁みついている者と、
その両者の違いがはっきりしてきているということだ。
後者では品性がむき出しになったということか。
20代でも多少のトラブルはあったが、それはその事実だけを非難していたのであって、
姑息に相手を貶める言葉は吐かない事例だったような気がする。
思い出のアルバムをめくってみてもそこにはきれいな可愛い顔の友の姿ばかりで、 それぞれが未来の可能性を夢見ている顔つきだ。
仲良しはあっても、いつまでも固執して憎み合う暇など持つ必要がないということだ。
ところがどうだろう。
若かりしころとは別人のように変貌しつつもなお根性が悪く他人の秘密をばらすという 哀しき行為をする気がまだあるのかと驚くときがある。
死ぬまでの期間がそれほどに短いにもかかわらず、そういう無駄な神経を張り巡らし、 正常な認知さえおぼつかないというのに実に情けないと思わずにはいられない。
それとは真逆の生き方をしているひと、このまま不必要な雑念を持たず自分を守ることだけを懸命に生きている人もいる。
ゆく道に品性の落差ができるのは年をとってからの心構えとして必要なことであるし、元からであれば積み重ねともいえるかもしれない。