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日本は、 国連の難民条約に署名しています。 しかし 入管では、恐るべき出来事が起きているのです。SYIはその実態を多くの善良な国民に知ってもらいたいのです。日本は、こんな国でいいのでしょうか 今 外国人のいや日本人の人権すら危ない。そこは、虐待と差別と偏見とに満ち溢れている悪魔の館だった。私たちは東京入管(東京入国管理局)に抗議し、また、閉じ込められた難民・移民たちを はげますアクションを、毎月1回、行っています。そのアクションも10回目。このたび日程が決まりました。2010年 11月5日(金曜)11:00~ 品川駅 港南口 通行人へのアピールとビラくばり12:00~ 入管前でアクション13:00~ 収容され閉じ込められている難民・移民たちとの面会平日の昼です。仕事や予定があって、参加することが難しいと考えている人でも、ただ、ふらりと通りすがりにその場で声を掛けてくれるなら、私たちとしてはとても有意義なことなのです。途中参加、途中抜けOK。みなさんの、様々なスタンス、あり方、関わり方に基づく、多様な参加をお待ちしております。入管前で、お会いしましょう。あなたたちを、私たちは待っています。ではでは!※なお、面会の際に「身分証明書」の提示を求められるのが入管というところです。筋違いな話ではありますが、面会を希望される方は「パスポート」「運転免許証」「健康保険証」等をご持参ください。
2010年10月31日
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うーんつらいトイレにいくのも食事するのも、左手ってこんなに大事だったのかあらためてその存在意義に気付いた。それに子供や旦那の世話で忙しい妹を呼びつけての包帯の交換。しょうがないなっていう感じかな妹としては。素敵でなかった兄としてはすまない気持ちでいっばいなのです。こんなことがありましたあれは私が高校三年生、妹が高校一年生、私は自慢の派手な自転車それにどこからみても不良然としたいでたち仲間とちょっと一服そこへちよっとかわいいセーラー服の女の子。待ってましたとばかり歩み寄る。「暇ですか?」と私。困ったような女の子そこへ「いそがしいのよ」と妹がセーラー服姿。妹も兄と気付いて茫然自失。「ちようどいい」と私。「あなた誰?」と妹。「兄ですあなたの」とにやけて笑っていると「冗談言わないで下さい さようなら」妹はもう一人の女の子を連れて早足で歩きだした。そうか言えないよなこれがわたしの兄ですって ショボン寅さんではないがやくざな兄貴とは俺のこと。反省しきり。それからだいぶ月日が過ぎた。兄と妹不思議だよなって思う。もし兄と妹でなければこんなにやさしく包帯を巻いてくれないだろう。「どうしたの?」われに返った私に、妹が言った。「不思議だなっておもっただけさ」「何が?」「なんでもないさ」わたしは、妹をみつめていた。もうすぐ一か月。私は、左腕をゆっくり動かしてみた。つ、つながっているその感触が左腕全体に感じられる。一体感がある。私は。やったーと思わず声を上げていた。もう少しだ。そう思った。その夜。電話がなった。受話器をとった。「もしもし 私、わたしアンナの友達。頼まれて電話しているんだけど、あなたまだ独身なの ? 恋人は?」「え ――」私は、息がとまるほど驚いていた。8ヶ月前行き違いで音信不通になっていた。もと彼女の友達の電話だった。
2010年10月27日
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やはり手術は、いやだ。だいいち異物が骨の中に挿入されるなんて考えただけでもゾッとする。私の体も心も手術に対して拒否反応を示した。さあ一体どうするか 自然につながるのを待つか?一体昔の人はどうやって骨折をなおしたのだろうか 若ければ骨の成長も早いし自然につながるのも速いらしい。あとは寝たきり老人のように、なるべく動かないでくっ付くのを待つかそのうちになんだかそんなことにチャレンジしてみていいと思った。無謀だよと妹。じゃつながらなかったらどうするのと言われた。私にどれだけの生命力、回復力があるか試してみようと変に興奮した。これを口実に人生ひと休み。てなわけで会社に報告。もちろん大目玉だ。今すぐにだって出てきてほしいんだ。いつ出てこれるんだ。骨折ぐらい命にかかわることでもないだろ。電話の向こうの上司の声は狂ったように怒っていた。当然だよな上司の立場だったらと妙に同情した。しかしこっちにはこっちの都合と言うものがあるんだ。とはいわなかったがまあそんな雰囲気は、伝わった。電話をきった。すでに心は決まっていた。それからの私は、左腕を病院からもらった固定用の金具入りのスポンジのようなちょうど左腕全体カバーする長さのものでそので包帯を巻いて手を固定しまたその上から包帯を巻くという状態で日々過ごすこととなったのだ。包帯は妹に2日に一回新しいのと取り替えてもらった。多分私の感じでは1か月もすればくっつくさ。後は寝たきり老人。ビデオ三昧、読書三昧と心を躍らせた。脳天気な奴だ。と思われてもしかたなかった。その結果会社を辞めるはめになってしまったのだ。身から出た錆。そう、いま錆び落としをしているんだよと自分に言い訳した。ロシアの彼女には、本当のことを話そう。心配するけどそれはそれでしょうがない。事故にあってものの見方も変わってきた。何かに追い立てられて見えなかったものそれがなんなのか 私は心のそこから知りたくなっていたのである。読書三昧もビデオ三昧も1週間もすると飽きてきた。寝たきりとはいわないがなるべく動かないで寝ているというのは大変なことだ。ストレスだってけっこうたまる。それに骨がつくのかつかないのか不安だ。片手だけになっちゃうのかな・・・・しかしここで方針をかえたら男がすたる。わたしは、新たに1ヶ月という目標をきめていた。ロシアの彼女との電話のやりとりでいつ骨折が治りそうなのか彼女はしきりと心配していた。仕事をやめたなんてとても言える雰囲気ではなかった。ついつい言いそびれていた。早く日本で会いたい二人は、そう思っていた。それに離れていることがこんなにつらいことなのかとお互い感じだしていた。「治りしだいすぐ日本に呼ぶよ」「うんうんうん」うれしそうな彼女の声がかえってきた。さあ頑張らねば。ただあまり動けないのは、わたしにとって、わたしの体の体形をよりふくよかすぎる状態にしかねかねない。体形維持は、愛の維持にもつながる。だれがいったってそれはわたし自身がもう一人のわたしにいったのだ。名言だよな。変に自画自賛。俺ってやっぱり変?
2010年10月20日
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気を紛らわすためにひさしぶりに友人に電話をしてロシア訪問と事故のいきさつを話した。「へえ それは災難だったね」友人はびっくりした声をあげた。「本気なのかい」怪訝そうに友人が言った。「勿論さ」私が強い口調で言うと「やめといたほうがいいんじやないかい、外国人なんてものは日本のビザとか国籍が欲しいだけのことなんだから」私は返ってきた言葉にがっかりした。その言葉があまりにも偏見と独断と誤解に満ちたものであったから。特に歳をとると常識的というか余りにも新しい事柄に対して否定的になるのはいったいなぜなんだろうか。まあそういっておけば波風もたたないし誰もが納得する考え方だからなのかもしれない。だがそれは悲し過ぎることではないかな。私たちは色々な情報の洪水にさらされている。それはそれで一面的にはいいことかもしれないがそのことで物事の真相を理解してしまったと思ってしまうことは余りにも危険すぎはしないだろうか。私は受話器を置いてふと考えこんでいた。われわれはものごとを考えているようで実は考えていないのではないか。ふと背筋が寒くなるのを感じた。たとえばその結論があらかじめ用意されていてどんな思考経路をとったとしてもたどり着くところが同じだとしたら・・・・そして自分では考えたと思っていても無意識的にそこへ導かれたとしたら。私は、窓の外に広がる星空に目をむけていた。涙が知らず知らずにあふれでてきていた。それから3日後、困り果てたような接骨院の先生の顔が私のすぐ前にあった。「くっ付かないかもしれませんね」いまさらそりゃないだろう。私は、落胆したように肩を落とした。「知り合いの整形外科の先生を紹介するから」「やはり手術ですか?」接骨院の先生は申し訳なさそうにうなずいた。「でもその先生手術は好きじやないですからもしかしたら」私はその言葉に一縷の望みを託していた。接骨院の先生の車で案内されたのは東京から1時間ぐらい離れたとある街の鉄筋コンクリートの三階建の整形外科医院だった。そして私を待ち構えていたのは7,8名のインターンの医者たちだった。医院長が葬式で、30分ぐらいもどってこないということでわたしは、かれらのモルモットにされたようなものだった。インターんはわけの分からない医学用語のキャッチボールをしていた。医院長がもどって出た言葉は「手術ですね」私は怒っていた。なにが手術だ。インターンにもて遊ばれてそのうえ手術と簡単に言って欲しくなかった。私は心のそこから怒りがわきあがってくるのを感じていた。「あなたの近くの病院に紹介状書くから それに手術ていったって麻酔がかかって眠っている間に終わっちゃうし」翌日自宅そばの総合病院にいった。レントゲン写真を見ながら30代くらいの医師が眠そうに目をこすって言った。「手術ですね、まあ、ねたきり老人のようになってればつかないこともないけど仕事で忙しいでしょ 棒条の金属のチタンは親和性があって骨と相性がいいんですそれを肩から穴をあけて通します。簡単ですよ」何が簡単だよ。私はやや、いやおもいきり怒りたくなっていた。つぎの瞬間薄ピンク色のナースの服装が視界にはいってきた。視線を上に向けていくと口許が可愛く笑っている。「包帯を交換しましょう」小さな顔に大きな瞳そして抜けるような白い肌。カ、カワイイ! 単純に胸が躍った。体さえも踊りだしたかった。それって反則じゃないの 色仕掛けで商売。まいったな・・・・病院だってサービス業なんだ。無愛想な看護婦さんよりかわいい方が病気の治りだって早いかもしれない。病は気からっていうしね。よーーーしずうっと入院だ。それに彼女を指名だ。同伴だって毎日だ。ギヤ、ハハハハハハハ・・・・・あほかここはコスプレのお店じやないの。もう一人の自分が言った。そしてそう思った瞬間ロシアの彼女の顔が私の脳裏イッパイに浮かんでいた。脳細胞のほとんどは、すでに彼女の無言の支配をうけていたのである。
2010年10月17日
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左腕は、ギブスで固定され三角巾で首から吊り下げられていた。痛々しかった。だから明るく振舞わないとなどと思った。彼女のママとパパは不運を自分のことのように心配していた。ギブスで固定された左腕は、段々と自分の腕ではないかのように重くなっていった。包帯で巻かれたその腕の血行が悪くなって首で左腕をささえている感じだった。包帯が首にくいこんできていた。右手しか使えないことがこんなにも苦痛だとは考えてもみなかった。使えなくなって初めて左手の役割を知った。ズボンをぬぐときも、チャックを下ろすときも。右手の手助けをしている。食事をしている時もだ。寝る時も不自由だった。寝返りが打てないので常に天井を見ている姿勢が続いた。日本に帰ってすぐ仕事に復帰できるのだろうか?不安な瞳が天井をみつめていると彼女が入ってきた。私は意味もなく微笑んでいた。こんなことで負けてたまるか。「退屈だから 散歩でもしよう」そう私が言うと彼女は、うなずいていた。事故の後二人の気持ちに変化があった。彼女は、不測の事態にわたしのとった言動に信頼をより寄せていた。突然の出来事に相手の本性がみえるということはある。私の場合は、単に鈍感なだけだょ。頼りがいのある人と思われたのはいいが後でメッキが剥がれたら大変である。剥がれる前にもうひと塗りふた塗りしておこう。まあ誤解から愛は育つし枯れもするからそれはそれでいいか。散歩から戻って、忘れていたわが家、わが両親、妹の写真をみせた。この際あまり見栄を張ってもしようがない。まあ写真だけでは東京の生活ぶりはわからないから一度日本に招待しなければならないだろう。東京に、戻った私は、すぐに駅前で待ち構えていた妹とともに駅前の接骨院にむかった。私が手術をおもいっきり嫌ったので妹がしょうがなく予約しておいてくれたのだ。私は、ギブスを外される際の電動のこぎりのような器具に恐ろしく臆病になっていた。先生の説明では、手は切れることはないといっていたが。ギブスの石膏を切る鈍い音は充分過ぎるくらいにおそろしかった。「ロシアの旅行で」というと「へぇ、ロシアですかなんでまた?」「ハワイじゃなきゃいけないんですか」と言いたいのをぐっとこらえて「ペレストロイカ後のロシアの地方都市の経済状況についてという研究論文のために」などと言いたかったが「アムール川で釣りをしたかったんです」とか適当なことをいった。第一お見合いなんていって笑われるのが落ちだろ。接骨院の先生は、やや自信なさそうに骨はくっ付くでしようといった。頼むよ左手が使えなければ熱い抱擁ができないだろ、。たわけ!ポコチン(息子)だって首を長くしてまちのぞんでいるんだ。期待を裏切らないでくれ 私は心の中で無限に叫び続けたかった。
2010年10月16日
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街角が黄昏に包まれだしていた。私と彼女は、夕食をということでタクシーをひろった。程よい疲れがふたりをリラックスさせていた。タクシーは、長い坂道を軽快にくだっていった。私は、彼女の手をそっとにぎった。 不運は、私たちの幸せに、激しく嫉妬するように襲ってきた。車が右に曲がって、加速した次の瞬間、激しい衝撃と恐ろしい音で二人の体を前のシートへ向けてたたきつけていた。一瞬なにが起きたかわからなかった。心臓が早鐘をうっていた。左腕に激痛が走っていた。一瞬気を失ったらしかった。だがすぐに「大丈夫ですか」わたしは、彼女にむかって日本語で何度も叫んでいた。彼女は、頭を抑えて私の方を見た。何が起きたのかのみこめていなかった。ようやく、私が左腕をかばっているのに彼女が気付くと「痛い?」「少し」と私。顔が言葉とは裏腹にゆがんでいた。「わたしは,あたま、少し」と彼女。「ごめん」私は、意味もなく謝っていた。「何で」「俺のせいかも」「違う」彼女は、心配そうに私をみつめていた。その時初めてタクシーが停車中の車に激突したのを知った。救急車がこんなにも遅いのかと感じた。実際は7,8分だろうがこのときは、ゴムひもをイッパイに伸ばしたように間延びした時間があった。病院に向かう救急車は、ややでこぼこの道を上下しながら走っていた。上下の振動のたびに左腕には、激痛が走った。レントゲン室の女の技師が面倒くさそうに、ゼスチャーで指示をだしていた。それが終わると、待合のくたびれきった椅子に私と彼女は、腰をおろしていた。どうやら彼女のほうは、大丈夫のようだ。アレだけの衝撃で運がいいのかもしれない。私のうっすらとした記憶には腕がぺちゃんこに押しつぶされたような感じをうけたのだったから私は。出発前に母がそっと財布の中に入れていた御守りのことをおもいだしていた。診察室にとうされた。背の高いハンサムな医師がわたしをみた。そしてロシア語で話してきたがわかるはずがなかった。レントゲン写真を見せられて腕の上のほうが骨折しているのがはっきりとわかった。彼女が私のそばによりそっていたがうまく説明できない。ただメスで切る格好をしきりとしていた。多分手術が必要といいたかったのだろうかその医師は、やや困ったふうに首を横にふると、今度は英語ではなした。オペレーションという単語が耳に入ってきて私はやはり手術が必要なんだと思った。その時この前の通訳が、部屋にはいってきた。日本語だ。彼女が呼んだのだろう。いますぐ手術が必要だということを医師が告げていた。私は、動揺した。今すぐにでも日本に帰りたかった。しかし日本へ向かう飛行機は、3日後でなければなかった。通訳が、応急処置をして日本に帰国後すぐ手術するようにという意味のことをいった。私は、少しほっとしたように彼女を見た。彼女は、いつの間にか私の右手をにぎりしめていた。
2010年10月10日
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彼女のパパを交えて夕食のテーブルを囲んでいた。パパは大学で歴史学を教えているらしい。父親の心情は複雑だろう。ママと彼女が作った料理がテーブルに並べられている。私の場合、緊張しているがそのことと食欲とは別のことだ。緊張より食欲の方が勝っているだからこんな体形だ。よけいなお世話だ。体形で人間を判断して欲しくないなんていいながら、スレンダーな美人が好きなんだから自己矛盾もはなはだしい。彼女のママの横顔もよく見ると乙女のころの輪郭を残している。うーーん、彼女も年をとったらこの体形か・・・だから今のうち ヒヒヒヒヒ・・・変態か俺は・・・・・・ 多分ウオッカのせいで頭に異常をきたしているのかもしれない。ムシャムシャ食べてる私に、彼女がハムを受け皿にとってくれた。「トウキョウ ワ ドウデスカ?」パパが言った。「忙しいところです」と私。彼女が通訳している。わかったのだろうか「イッパイ ヒト」「イエス」彫りの深いいかつい顔立ちだが笑うと少年のような顔になる。ママとは対照的にすらっとしていて骨太ではあるが引き締まった感じの体だ。言葉が分からないというのはこういった場合いいことだ。お互いによく解釈すれば万事うまくいく。なまじコミニュケーションができたばっかりに言葉尻でケンカってのもいただけない。国際カップルがコミュニケーションがうまくできない間はなかが良かったが良くできるようになったら離婚したなんて皮肉な話があるくらいだ。だから夫婦うまくいくには、ある程度新婚を楽しんだら、距離を置いてたまにあったりしたほうがいいかもしれない。いくらうまい寿司でも毎日じゃ飽きる。たまには、お茶漬けでさらり だから三年目の浮気てなことになる。だからマンネリを防ぐための努力が必要。なんか夫婦円満成功の法則みたいになってきたので話題を変えよう。彼女は、ママとはパパの家から少し離れたところの団地に家があった。てっきり一緒だとおもったが泊りは、ママの家だ。落胆して肩を落としていると彼女の娘がやってきた。私が笑うと恥ずかしそうに姿を消した。後、10年したらこの娘にプロポーズするか??私が大きくあくびすると猫がやってきた。まだ敵意をもっているようだ。大きなベットで目を覚ますと朝陽が窓ガラスに反射してまぶしい。時計を見ると8時を回っていた。そうか今日は日曜日。体が重いのでトイレで楽になろうとおもったが食生活の違いからうーーんでるものが出ない。出るのは音だけ。へたなラッパじやないつうの ブウーーーーーー! 遠くで聞こえるママの笑い声。破談だ100パーセント。私は、意を決して下半身に力をいれていた。朝食の後、私と彼女は、ハバロフスクの繁華街にタクシーを,とばしていた。日曜日ということもあって家族ずれの姿も多くみられた。旧式の路面電車がうるさ過ぎる音を発してとうりすぎていった。街角の路上の売店で、ビンビールを買うと彼女は、歩きながらうまそうに飲んだ。東京だと恥ずかしいかもしれないか゜わたしも負けないように飲んだ。楽しかった。こんな単純なことが幸せだった。だから二人で幸せになろうとおもつた。しかし予期せぬ出来事は、二人が映画を見終わってほっとしていた時におきた。不吉な時間の流れにまきこまれてしまうとは、この時まで思いもよらなかったのである。
2010年10月09日
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彼女は、、超スピードで日本語の単語をおぼえていった。しかし文法はめちゃくちゃだから一瞬意味が伝わらないこともあり誤解なんかもあることはあるがだいたいは、通ずる。電話が終わってはっきり意味がわからないでいる時に謎解きがはじまる。あれは、どういった意味なのか たとえば「子供、寝る、作る」といったことがあってすぐに電話が切れた。えつ?? 私は、助平な彼女を想像した。美人の仮面の下にいやらしい欲望がいっぱい 俺と同じか 波長があうってことかななどと鼻の下をのばした。しかしよく考えてみると 後で電話という言葉が最後についっていた。つまり子供を寝かしつけるので、後で電話してくださいという意味のことを言いたかったのだと思いしばらくして電話すると私は思いっきり赤面しなければならない羽目になっていた。私の推測通りだったから・・・ もちろんだれも見ていたわけでないけど・・私は乙女のように赤面していた。 いやそれはお酒のせいかもしれないけど。日々の電話のやり取りは、想像以上に二人の気持ちを近づけていた。いよいよ彼女のパパとママそれに8歳の娘にあわなければならない。私は、覚悟を決めていた。9月といえばロシアハバロフスクは、だいぶ涼しく、日陰などでは、寒くさえあるようだ。今度はイトーヨーカドーでなくて三越デパートとあたりでおしゃれなカーデガンでも買おう。心はすでにハバロフスクいや彼女の心の中に飛んでいた。9月中旬、ハバロフスク空港で彼女と再会していた。映画の様に駆け寄り熱く抱擁しなかったが 空間に二人だけの世界があった。気恥ずかしかった。彼女のパパとママの家へ向かうタクシーの中でふたりは、押し黙っていた。窓の外には色づき出した木々の葉が秋の深まりを演出していた。「また会えたね」私が言うとあふれんばかりの笑みで顔を私の胸に沈めてきた。タクシーで40分くらい走っただろうか。木々の向こうに巨大な団地群が姿をあらわしていた。6,7階は、あるだろう。タクシーは。まだ舗装の行き届いていないでこぼこ道を土煙をあげながらそのうちの一棟の建物の前すべりこんでとまった。彼女にうながされながら入り口を入ると壁にはおびただしい落書きがあった。またエレベーターは、故障しているらしく階段で5階まであがらなければならなかった。ズドラストビッチェ(こんにちわ)単語を繰り返しつぶやいていた。「ダイジョブ」彼女がいった。玄関を入り応接間にとうされて、私は目を丸くしていた。それというのも内装のきらびやかさに。ソファーや本棚、そしてシャンデリアどれもわが東京のマッチ箱のような私の家とは、比較にならなかった。すべての調度品が重厚ある気品と趣をもっていた。私はなめるように部屋の中をみまわしていた。ふと気がつくと彼女とママがたっていた。あわてて「ズドラ、スト、 ビッ・・チェ」とたどたどしく自信なさそうに言うと「ズドラストビッチェ」と笑顔にあふれた彼女のママは、ふくよか過ぎる大きな体を誇示するかのように立っていた。私は緊張のあまりその場にかたまっていた。彼女のママは、ひとのよさそうな笑みでわたしをソファーに座るようにうながした。わたしは、多分困惑したようにソファーに腰を下ろしていた。ママの背後で小さな人影が動いた。ママのうしろから彼女の8才の女の子が恥ずかしそうに顔をだした。金髪のまるでお人形さんのようなかわいい女の子だった。すぐに彼女のママの背後に顔をかくした。あとでパパがかえってきたら一緒に食事をしましょう。ということで彼女とママは、料理をつくりだしていた。しばらくソファーでビールをのみながらくつろいでいると、何かの気配がして私がそちらに視線わ向けると白い猫が私をにらみつけていた。突然の闖入者に敵意をみせている。猫は、恫喝するように歩み出てきた。私が身を乗り出すと後ずさりした。その時彼女の娘が現れると猫を追い払おうとした。猫はいきなりその娘の足にかみついていた。私が「あっ!」と声をあげると猫は、逃げていった。騒ぎに気付いて彼女が来た。猫が子供の足をとジェスチャーを交えて話すと「靴下はいてるからだいじょぶ あれパパの猫」と彼女が言った廊下の闇の中に猫の目が冷たくひかっていた。
2010年10月03日
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