1.前夜のこと
はじめに
ミニチュアカー以前:中島飛行機~1959年
昨2002年NHKのプロジェクトXで放映され、本編だけでなく再放送も2度3度されましたので、「日本初のマイカー てんとう虫町を行く」をご覧になり、改めてスバルとそのスバルを作った富士重工を見直された方も多いと思います。中島みゆきの「かぜのなかのスゥバル~♪」という唸り声(失礼)は、プロジェクトXの主題歌というよりも、このスバルの物語の主題歌だとちちは思っております。(笑)
ミニチュアカーはもともと子供の玩具ではありますが、自動車そのものが社会や家庭に密着しその時代時代を反映したものでもあり、ミニチュアカーはそれらを凝縮した姿であると思います。ここではそのミニチュアカー、わけてもちちの好きなスバルのミニチュアカーの歴史をたどってみたいと思い、ちちの思い出と重ねながらまとめてみました。
ちちは大学に入学した1975年に運転免許を取得しましたが、父親が当時乗っていたスバルR-2を、やはり大学生だった兄と共に最初の愛車として乗り回すようになったのでした。1976年に兄は大学を卒業し就職したのですが、通勤用に新車を購入することになり、ちちは当然のようにスバルを推奨し、レオーネSEEC-Tが我が家に初めての普通乗用車としてやって来ました。普段のバイトの足としてR-2に乗り、たまにデートで遠出する時は兄のレオーネを借りる。こうしてちちのスバル人生が始まったのでした。もっとも大学を卒業後、東京でアパート暮しという苦難の貧乏時代を長年過ごし、次にスバル車のオーナーになったのは結婚後の1992年初頭のことでした。
現在のスバルの名を冠した自動車および航空機を製造している富士重工業の前身は、起源を戦前の大正年代に遡った中島飛行機製作所でした。この中島飛行機を創立した元海軍機関大尉中島知久平氏(翁)と中島飛行機の発展については、多くの書物やインターネット上のホームページなどで数多紹介されております。ここではミニチュアカーの歴史と題していますので、ごく簡単に触れたいと思います。
日本の陸海軍航空機の歴史は中島飛行機なくしては語れないと言っても過言ではないようです。巷間有名な機体だけを下記に列挙します。
陸軍機:97式戦闘機、100式重爆撃機呑竜、1式戦闘機隼、2式単座戦闘機鍾馗、4式戦闘機疾風等
海軍機:97式艦上攻撃機、夜間戦闘機月光、艦上攻撃機天山、艦上偵察機彩雲等
これらにそのほかの機種や試作機を加えると、26000機近くの航空機が開発・製造されていました。また発動機(エンジン)に至っては46000基以上で他の航空機メーカーにも多数供給され、かの有名な零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)は三菱の機体でしたが、発動機は自社の瑞星では性能が出ず中島の栄(陸軍名ハ-25)に換装して傑作機と呼ばれるようになったのでした。言ってみればランエボが自社製エンジンでは芽が出なくてEJ20に載せ替えたようなもんです。また、太平洋戦争末期に登場し、かの源田実元司令により少々過剰なまでに優秀な戦闘機隊として喧伝された第343航空隊の主力戦闘機紫電21型(紫電改)に搭載された誉(ハ-45)発動機も中島製でした。
こうした悲惨な戦時下ではあってもある意味で華やかな時代が過ぎ、敗戦後の中島飛行機は苦難の時代を迎えます。占領軍の財閥解体指令により中島飛行機(敗戦後富士産業と改称)は十数社に解体されてしまいました。この時期にスクーターの代名詞とも言われた「ラビット」を製造していたのがそのうちの一社であり、戦時中の航空機の部品を使用していたのはあまりにも有名な話です。また後に日産自動車と合併してしまいますが、あのスカイラインを産んだプリンス自動車もやはりそのうちの一社でした。その後航空機生産の再開と自動車の開発を目指して六社が合併し、新生富士重工業が実質的にスタートしたのが1955年、ちちの生まれる前年のことでした。六社、というのが後年スバルのシンボルとなる六連星(むつらぼし)に繋がったとも言われているようです。
そうしてちちの少年時代と重なるようにして、富士重工は合併前の1954年の試作乗用車「P-1」(後にすばる1500と呼ばれた)の経験を基に、1958年にスバル360を発売し再び脚光を浴びることになるわけです。
ちちは実を言いますと、ミニチュアカー以外に旧日本陸海軍航空機に関しても、別に相当なコレクションがあり(汗)、いずれそちらもご紹介したいと思います。ちちの少年時代は、もちろん戦後ですが、時の経済白書で「もはや戦後ではない」とされた時代であり、少年漫画紙には“0戦太郎”(零戦ではありません、ゼロ戦と読みます。以下同じ)、“0戦はやと”、“0戦仮面”そしてかの有名な“紫電改のタカ”と言った戦記ものが連載されており、結構胸躍らせながら読んでいたものです。
ちちは大いにそれらに触発され、時代遅れの軍国少年として成長していきながら、かつての日本陸海軍機の面影をスバルに求めて来たのかも知れません。




こうした資料や、インターネットで検索したスバル好きの皆さんからの情報を元にして、このホームページ作成に至っております。
中でも、株式会社ネコパブリッシングの「国産ミニチュアカー考古学」の充実ぶりにちちは非常な感銘を受け、これをちちのコレクション紹介の柱にさせてもらおうと思いました。ちちからのぶしつけな転載許可依頼に、快く丁寧に対応していただきましたモデルカーズの長尾循編集長には感謝しております。
以下に参考にさせていただいた資料その他を挙げさせていただきます。(順不同)
THE HISTORY OF SUBARU(富士重工業のHP)
スバルの30年、スバルの40年(富士重工業)
カートピア各号(富士重工業)
スバル車各種カタログ(富士重工業)
モーターファン別冊ニューモデル速報○○のすべてスバル車掲載各号(三栄書房)
プロジェクトX「日本初のマイカー てんとう虫町を行く」(NHK)
カラーブックス「日本のミニカー」中島登著(保育社)
ミニチュア・カー Nov./1987/No.229(日本ミニチュア・カー・クラブ)
ミニカーマガジン 1997/5/ Vol.32他各号(ミニカーショップイケダ)
モデルビークル各号(イカロス出版)
model cars 45 アールエムモデルズ1999-4増刊(ネコ・パブリッシング)
ミニチュアカー大図鑑各号(ネコ・パブリッシング)
そして
国産ミニチュアカー考古学 model cars特別編集(ネコ・パブリッシング)
というわけで、次からがスバルミニチュアカーの歴史になります。(笑)
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最終更新日 2003/02/22


