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雪香楼箚記
恋(1)_わが恋は
慈 円
わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さはぐなり
さて、なんともむずかしい歌ですが、これこそ新古今集を代表する恋歌です。後代になって、ほとんど無数にアレンジされ、本歌取りされつづけた、日本文学を代表する傑作のひとつ、といっても過言ではありません。作者の慈円は関白藤原忠通の息子で、比叡山で出家し、天台座主(天台宗の最高位者)となった人。新古今集では西行につぐ入選数二位の歌人です(でもぼくはあまり好きではない)。『愚管抄』という歴史書を著し、『平家物語』も彼のサロンに出入りしていた人間が書いたであろうと言われています。
「わが恋は」は、残りの七五七七すべてを指します。「松を時雨の染めかねて」というのは、古典和歌の常識では、紅葉というものは時雨(秋から冬の雨)が葉を染めているのだ、と捉えられていたために、逆に常緑の松は時雨にも染まらない、と言っているものです。「真葛」の「真」は、立派な、美しい、というくらいの接頭語。真鯛、真っ青、の真。同じような接頭語に御(み。美とも書く)があります。「真葛が原」は葛のしげった原、くらいの意味。葛が古典和歌に出てきたら思い出さなくてはならないのは、「恨み」という言葉です。葛の葉を見ればわかりますが、あれは大きくて軽いから、風にひるがえって裏を見せやすい。しかも、表は緑なのに、裏は白っぽいので、裏が見えるとすぐ目につく。すなわち、葛といえば「裏見」。これが掛詞で「恨み」になる。この歌では、その掛詞も省略して「真葛」で「恨み」のニュアンスを察せよ、というのですね。だから、「さはぐ」のは風や葛の葉だけでなく、恨みの心も含まれます。
訳すれば、わたしの恋は、時雨が松の色を紅葉させられず(にいるように、あなたの心をふりむかせることができず)、真葛が原に風がさわいで葛の葉が裏を見せてひるがえる(ように、つれないあなたの心を恨みに思う気持が胸のなかにたちさわいでいる)ようなものです、という感じでしょうか。三十一文字でこれだけのことが言える。
片恋も放っておくとこうなってしまいます、というような見本の歌ですね。ほとんど自家中毒をおこしかけているような、でも、じつに妖艶なイメージを与えてくれる。まず、松に降りかかる時雨に片想いの恋心を掛けた手際がさすがです。ギリシア神話に、ゼウスが人間の女のところに妻の目を忍んでゆくのに黄金の雨に身を変える、というのがありましたが、そうでなくても洋の東西を問わず、雨、あるいは水というのは非常にエロチックなイメージがある。松に「ふりかかる雨」となればなおさらですね。たぶんこれは、稲妻が稲と交わって稲の実が実る、という古代信仰が無意識のうちに変形されたものではないかと思うのですが(稲妻は男だと考えられていました。古語では、「配偶者」という意味で「つま」という言葉を使うので、男女両方を指せます)、それにしてもすばらしい発想だとは思いませんか。ふりかかり、すべてをつつみこもうとする雨。それを無視して色を変えようともしない(それを「染めかねる」と表現する詩情!)松。いかにも、女の、やわらかい、それだけに絶望的な、拒否を表現するにはぴったりだという気がします。そもそも、漢文では、松といえば、色を変えないことから、節操や高潔さの象徴とされていますが、それを難攻不落の女心に翻訳するとは、さすが恋愛好きの日本人ですねえ。
(註。この「恋愛好きの日本人」というのが解りにくいので、解説を。中国文学、というか、漢文学の伝統には恋愛に関する作品はほとんどありません。あっても極端に低いものと位置づけられています。『詩経』という儒教の聖典ともいうべき詩集には、恋愛の歌が多く載っていますが、これさえ、代々の学者によって、「これは皇帝がよき人材を女に例えて、忠臣を恋い求めた詩」「これは皇帝と后のむつまじさをいのる詩」というふうに、わざわざ誤読をしてきました。中国人が好きなのは、愛情の文学でなくて、友情の文学である、というのはよく言われる話です。いっぽうで、日本の文学作品は恋愛だらけ。『古事記』『万葉集』といい、『古今集』『源氏物語』といい、だいたいが格の高い古典とされるものには必ず色ごとが出てくる。この違いに頭を悩ませた人が、例えば本居宣長ですね。「我々は、じつはものすごく品性下劣な民族なんじゃないか」と悩んでしまった。そこで彼は、発想を転換させてみたわけです、『古事記』を研究しながら。「いや、中国人は恋愛をするのに、それを隠して文学には記さない。連中は嘘つきなのである。逆に、日本人のように正直に恋愛のことを書く民族のほうがすぐれている」……。今ならなんの不思議なことはない、文学というのは恋愛を書くものである、というのは西欧文学のいちばんの基本的な特質ですから、中国文学のほうが異常であるといえるのですが、宣長は鎖国の時代の人であるうえに、当時の知識人は「文明、すなわち中国」という先入観があるから仕方がなかったんです。まあ、日本人が恋愛好きなことには変りがないのですが。)
恨み、といっても、これは相手の女性を恨むということではないでしょう、おそらく。いや、その気味もないわけではないですが、それよりはむしろ、自分の想いが相手をなびかせないことを恨んでいる。恨む、というときついですが、要するに拗ねているわけです。これも古典和歌の特徴ですが、とにかく拗ねてみせるんですね。あとでいくつも実例がでてくると思うので、一々は言いませんが、例えば、新まくらの翌朝の歌でさえ「あなたはなんだか冷たかったじゃないか、ぼくはこんなに愛しているのに」という歌を贈って拗ねてみる。恋愛のなかでいちばんうれしい瞬間にさえ、喜びを歌いあげるのではなくて、相手の気持の薄さに拗ねてみる。非難するよりも拗ねてみるんですね。これは、ひねくれているというよりも、むしろ、彼らが恋愛というものを「想う」という行為だと定義していたからだ、ということができるかもしれません。相手の想いと自分の想いが交錯するときに恋愛が成立するとすれば、いきおいその温度差には敏感になるでしょう。かなわないがゆえにいっそうつのる恋心は、相手はともかくも、自分がつよく想っていることの現れですからね。
それから、拗ねるという行為は、相手がいないとなりたちません。対象は必要ないだろうけど、傍観者くらいはいないと、拗ねるという行為は不可能でしょう。拗ねるのは、(現代語で言う)恨むのとはちがって、ひとりでこっそりやるわけにはゆかないので、他者の視線が必要になる。例えばこの歌にしても、これは家に籠って一人で詠んで自分をなぐさめる歌ではありません。慈円の歌の場合は、百首歌(勅撰集を選ぶ際に、特に当代の代表的な歌人に新作を百首詠ませるもの)の題詠、つまり、こういう題で詠め、といわれて頭のなかだけで作った歌であることが詞書から解りますが、当時の、例えば普通の貴族たちは、こういう片恋の歌を詠んで、せっせと相手の女の人のところへ贈っていたのです。意外かも知れませんが、片恋で切ないよ、とか、あなたがふりむいてくれないので悲しいんだ、という歌を、平気で相手の女性に届けていた。要するに、こうやって拗ねてみるのが、当時の(いや、今でもそうなのだろうか?)恋愛テクニックのひとつだったのです。だから、「恨み」というのは恋愛の初期段階でも、たいせつなキー・ワードだったわけですね。
それを葛に掛けて詠む。だいたい、この歌は前半で時雨に濡れた松が出てくるので、もう多少イメージ過多になりかけています。あんまりものがたくさんでてくると、印象が分散させられて、詩としての質が落ちるわけですが、こういう場合は、前の公任の歌のように、でてくるもの自体を減らすか、あるいはものは減らさずに、イメージを統一して分散を防ぐか、どちらかの方法を、ふつうは採ります(イメージを統一するというのは、例えば、時雨に松とくれば、あとは雲とか風とか寒さとか袖が濡れるとか、そういう無難なところでまとめるということ)。ところが、この歌は、そのどちらでもない。新たに、真葛が原の風という別種のイメージを出してきた。まあ、風は時雨から類推がききますが、三十一音のなかになんのつながりもない植物がふたつ(松と葛)というのは、いくらなんでもうるさすぎる。……ところが、それで名歌ができあがるから不思議です。
成功の鍵は、ひとつには「染めかねて」と「風さわぐなり」の対句のようになった表現でしょう。このふたつが対句のようになっているから、その上に乗っているものも対句のように見える。すると、全然つながりのないものがふたつ並んでいてもあまり煩雑な感じはしない。例を引きますと、杜甫の
感時濺花涙 時に感じては花に涙を濺(そそ)ぎ
恨別驚鳥心 別れを恨んでは鳥に心を驚かす
という対句がありますが、これなど、花と鳥、涙と心、と、普通に羅列してしまえばうるさすぎるほどイメージのつよいものがきちんと同居して、ひとつの秩序的な美を構成できている。対句というものの特性であると言えます。
しかし、それ以上に重要なのは、松といい、時雨といい、葛といい、風といい、それらがすぐに別なイメージ、恋のイメージに変換されてゆくから、印象どうしの衝突を避けることができたのであるという点でしょう。ここに古典和歌のつよみがあるわけですが(多義的な意味やイメージを駆使できない現代和歌には不可能な領域です)、意味を捉えようとすると、言葉そのものがするりと手のうちから逃げてしまう。イメージが固定的なひとつのものにならない。しかも、ふたつ目のイメージ、つまり、松や葛の暗喩としてのイメージは、すべて作者の恋心によって統一されている。したがって、この歌にでてくる、たくさんの「もの」から受ける印象は、けっして分散した、ばらついたものにはならない。まして、第一句で「わが恋は」と歌の性格自体を明言しているわけですから、この繊細な言葉のイメージの調整が、しっかりと確実性を帯びるようになっているわけです。
こうした技法、つまり、第一に(表面上の)イメージ過多、「もの」過多をあえて行うこと、第二にしかし、それらのイメージや「もの」をふたつ目の意味において、恋心という主題に即した、統一されたものへと調整すること、第三に、第二の技法の効果を確実なものにするために第一句を置く(しかし、あまり押しつけがましく、作りあげた世界を破壊するほどに、高圧的な、決めつけるような表現は使わない)こと、の成功は、慈円の歌人としての才能をありありと見せつけるものです。それだけに、怨ずるような、甘えるような、片恋の「恨み」が、真実みを帯び、妖艶な感覚さえ漂わせて我々にせまってくる。技法を解剖してしまえばなんのことはありませんが、これを自分で詠もうとすれば、たいへんな歌です。
こういう歌は、読んで、酔っぱらってるにかぎります。くれぐれも、自分で作ろうなんて思わないほうがいい。酒屋よりは、酔っぱらいのほうが幸せな職業ですから。
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