雪香楼箚記

春(2)_風通ふ






                                      藤原俊成女
       風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢










 定家の「夢の浮橋」の歌と並ぶ、新古今集春歌を代表する傑作。三十一音という短詩形を極限にまでつきつめたこの歌を見ていると、和歌の持っている底知れない凄みを感じさせます。作者は、ふじはらのとしなりの(しゆんぜいの)むすめ。俊成の外孫で、定家の姪ですが、祖父の養女になったので、俊成女と言われています。後鳥羽院に女官として使え、定家、後鳥羽院の次世代を代表する女流歌人でした。

 一首の歌意は、風が吹きとおってくるこの寝間でふと目覚めると、庭の桜の香りが我が袖にまで届いている、同じように花の匂いに包まれたこの枕で、つい先ほどまで美しい春の夜の夢を見ていたのだが、といったところ。

 ふしぎな歌です。「花の香」というのを桜についてもちいるというのが、めずらしい。ご存知のように桜というのはあまり香りのつよくない花ですので、まあリアリズムからははずれた歌であるということは言えると思います。闇夜のなかに花の姿は見えず、香りだけただよってくる、というのは、古今集のむかしから、梅について言われてきたことでした。桜は、香りよりも、花の姿のほうを愛でるのが一般的です。ですから、むしろ、この「花の香」は、嗅覚で感じるものではなく、意識のなかにただよってくるものだと考えるべきなのではないでしょうか。夜半の寝覚めに、ふっと鼻腔をくすぐるものがあったのかどうかはわかりませんが、庭に桜が咲いていることを意識したときに、袖さえ花の香ににおうような気がした。この、「気がした」という心の働きが、実際に「においがした」という事実より大切なわけでして、何度も言うように、新古今集の美は心象の美です。写実主義の美ではない。ほんとうであることよりも、ほんとうらしく感じられることのほうが重要なのであって、これは、まあ、文学全体に共通することなのですが、特に新古今集はその傾向がつよい。実際に、文学の読者にとって、作者の鼻が香りをとらえたかどうかなどというのは、どうでもいいことであって、問題は、作品を読んだときに、自分自身が花の香りをかいだような気分になれるかどうか、なわけです。そして、その点に関しては、この歌の「袖の花の香にかおる」という表現は、しみいるように我々の心をとらえてはなさないイメージを持っているとは思いませんか?

 寝覚め、という状況設定がうまいのでしょうね。多少、嘘っぽいことをいっても、これなら通る。意識がぼんやりとして、混濁してるから、「花の香りが袖のところににおってた」というのが、意識の中身を描写したものとしては、逆にリアリティーがあるようにもとれるわけです。作者は、この歌のなかで、花の香りがにおったような、におわないような、どっちつかずの状況を読者に提示することに成功している(言葉のうえではにおったことになっていますが、読者に与えられた印象ではそうではない)。

 桜の花の香りというのは、どんな香りなのでしょう? たぶん、作者も実感があって詠んでいるわけではないので(なにしろこの歌も題詠です)、そこは読者のほうで自由に想像すればいいわけですが、もちろん、そんなに強烈なものではないことはなんとなくわかります。うっすらとした、清冽な感じの香りなのではないでしょうかね、なんとなくそう思います。「風通う」という言葉の使い方が、きっと、さわやかな印象を与えているためでしょう。そして、その花の香りは、きっと、この歌の主人公(いちおう女性と考えておきましょうか)の鼻には単独では届いていないはずです。当時の貴族の女性は、みだしなみとして衣装と髪に香をたきしめていました。ですから、自分の香のにおいも、花の香りにまざってただよっているはずです。あるいは、それを、わざと誤解して「花の香」と表現してみせたのかもしれませんが。そして、もうひとつ読みを深めるとすれば、ここには三つめの香りが登場するはずです。そう、男が衣にたきしめていた香のにおい。この歌の主人公は、ひとりで寝ているのではなく、男と添い伏しをしているのではないでしょうか? 枕、さらには、袖という恋の言葉(袖を重ねる、とくれば、これは共寝の隠喩ですし、袖が濡れるのは必ず恋の涙です)が出てきていれば、どうしてもそういう連想を誘います。定家の「春の夜の夢の浮橋……」、百人一首の

                            周防内侍
  春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

という、春の夜を詠んだ恋の名歌(春の夜の夢のようにはかないめぐり逢いで、なにごともなかった二人の間柄なのに、たまたま交した手まくらのせいでありもしない浮名が立ってしまうのはほんとうに口惜しいことです。ですから、あなたのような浮気な方のお言葉には応じかねます)もあります。歌の風情そのものが、恋歌としての解釈を誘っているのです。

 新古今集を読むうえで大切なのは、意味やイメージをひとつに限定しないこと、むしろ、わきおこる連想や類推を切りすてずに、与えられた解釈や意味から流れだし、逃げてゆくことです。そうしなければ、歌人たちの意図した、芳醇な文学世界を味うことは不可能なのです。おそろしいことに、彼らは、そうした深読みや連想まで(ある程度は)計算して、歌を詠んでいるのですから。

 さて、初句から順番にゆきましょう。「風通ふ」。そうだ、この「通ふ」からして、もう恋歌の幻影をひきずってますね。風は男の隠喩で、恋人の訪問をにおわせている。こう読むと、なにげない一句に深い陰翳ができるようで、ずいぶん味いが増すとは思いませんか? 春風のように、ふっと尋ねてくる恋人。女のほうは、ずいぶん待ちわびていたのではないでしょうか? この女を、作者自身と重ねてみるなら、女房(女官)というのはあまり身分の高くないものです。実家だって、いくら歌の名人とはいえ、官位も大したことのない中流貴族。こういう女性は、よくある話ですが、身分の高い男の人につまみ食いされやすい。むこうも、俊成女のような才能のある女性なら、おもしろがって何度か関係は持つのでしょうが、むろん身分につりあった恋人もいるわけで、数か月に何度かやってくればいいとしたようなもの。しかもそういう男にかぎって、女性にとっては魅力的だったりするから、待っているほうは切ない思いに身を焦がすわけですね。そこまで読んでもいいのかもしれません、この歌は。

「寝覚めの袖」という言葉がいいですねえ。これは、「の」という助詞のよさなのですが、多少つながらないふたつの言葉でも、なんとなく意味が通るようにくっつけることができる。この表現など、英語のofでは対応できない「の」のちからです。そして、詩情というのは、こういう部分から生れるのですね。レトリックと言ってもいい。例えば、「赤い袖」といっても、この表現はすごくともなんともないわけです。赤い、という修飾語と、袖、という被修飾語は、ごく自然に組みあわせることのできるものであって、言ってみれば陳腐でさえある。もちろん、陳腐な文句もなくては詩は作れないのですが、詩の中心となるような部分には相応しくない。これは「詩」ではなく、ただの叙述だからです(もちろん、主語と述語や、述語と目的語、補語の関係でも同じこと)。ところが、常識では組みあわせられないような、例えば「寝覚め」と「袖」というような言葉を、無理にびつけてみる。当然のことですが、このふたつの言葉は、ふだんいっしょに用いられるものではないわけですから、そこに摩擦が生じる。言ってみれば、この意味やイメージの摩擦というものが、「詩」やレトリックといったものの基礎となるのです。「おや、なんかしっくりこないな」という、言葉の摩擦が、いい方向へ動けば、そこには、人の心をひきつけるひとつの表現が生れたことになる。これをあまりに使いすぎるとうるさくなって、かえって逆効果ですが、ひとつふたつ勘所で上手に使うと、非常に印象がつよまる。

  シモーヌよ、君の髪の毛の森のなかには、
  大きな謎が隠れている。

というグールモンの詩がありますが、これなども、髪の毛と謎というものを結びつけたところから、一編の詩の世界が始っているわけです。この、「寝覚めの袖」という表現にしても同じことで(こうした傾向を極端にすればシュールレアリスムが生れてくるわけです)、詩といものの基本的な技法は、洋の東西を問いません。ただ、日本の場合、幸いなことに「の」という便利な助詞があったために、実に気軽にこうした技法が使えるわけでして、新古今集ではこういう「の」が頻繁に出てきます。

「かをる枕」という言葉の艶っぽさもじつにうまい。枕、なんてなんということのない言葉ですし、「かをる」というのも花の香から自然に出てきた表現なのでしょうが、その何気なく選びだされたふたつの言葉のたたずまいはほんとうに見事です。嗅覚というのはいちばん原始的な感覚なので、性にもっとも深く関るものである、という説があるそうですが(そういえば、漱石の『それから』のなかで、百合のつよい香りとヒロインのイメージを重ねている描写がありましたね)、いわれてみると、こういうふうに匂いにまつわる言葉で描写されたものは、艶冶な響きを帯びるようです。枕がかおる、という表現は、おそらく古典和歌のなかではかなり少数派に属する、奇異なものなのでしょうが、ここでは歌全体のなかにしっくりと位置を占めていて、作りあげた世界を上手にまとめあげる小道具になっています。

「春の夜の夢」については、上で説明したとおり、恋歌の有名な用例がいくつもあることばです。それでなくても、春の夜の、あのなんともなまめかしい雰囲気を思い出せば、この歌の情趣はいっそう深まってくるはず。春の闇夜は、ほかの季節のそれとは違って、なにやら生きもののような存在感を持って我々にせまってきます。そこを上手に使った表現でしょう。

 さて、「夢」ということばですが、この時代には、いわゆる、希望という意味での用法はありませんでした(これはおそらく明治以降、英語の影響で生れた用法なのではないでしょうか)。その代りに、夜に見る「夢」のなかに、現代語よりも広いニュアンスがあったようです。例えば新古今集には、

                            赤染衛門
  夢や夢うつつや夢と分かぬかないかなる世にか覚めんとすらん

という歌があります。夢が夢なのか、現実が夢なのか、区別などわからない、いったいいつの世になればこの夢のような生から目覚めるのであろう、という意味ですが、ここでは、夢が現実(うつつ)と対比されています。夢幻、という言葉からもわかるように、現実ならぬ幻のようなものとして夢が扱われ、そこからさらに、夢のように儚く、現実感のない人間の生を比喩する言葉となったわけです。小野小町の有名な歌に

                            小野小町
  うたた寝に恋ひしき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

というものがありますが、これなども、夢のようなはかないものまで頼りにしはじめたのは、夢のなかで恋しい人に逢ったからです、という歌で、夢のはかなさに力点があります。

 小町の歌でも判りますが、当時、夢と恋愛は深く結びついていました。夢のなかで恋人に逢うのは、相手が自分のことを想っているからだ、と考えられていたので、それを題材にした歌がたくさんあります。しかし、同時に、夢のはかなさにも人々は目をむけていたのです。逢えたといっても夢のなかのこと、いつかは覚めてしまうものでしかない、実際の恋愛もまた同じことで、人はいつか人生という夢から覚めるときを迎える……。はなかさの象徴としての「夢」と、恋しさの象徴としての「夢」。ふたつの相反するイメージをたくみに利用しながら、古典和歌は複雑な味わいを持った作品を生みだしてきました。恋歌で夢を用いれば、夢で逢えたという嬉しさにはかなさの影がさす。あるいは、釈教歌といって仏教の教えを歌で詠むという分野で用いれば、恋を通して人間の無常を歌うことができる。「夢」という言葉は、新古今集に代表される古典和歌の芳醇な複雑さの、象徴でもありましょう。

 この歌のなかで、「夢」は「寝覚め」とともに用いられています。夢が、ただよい、流れ、固まらないものであるとすれば、現実(古語では、うつつといいますが)はその逆であり、寝覚めは、夢から現実へと移りかわる契機にほかなりません。つまり、この歌で詠まれている状況は、今までひたっていた夢の世界が、うっすらと終りはじめているような様子なのです。もちろん、夜半に目覚めた主人公は、また枕に頭をもどして夢の世界にひきもどされる、という可能性は充分にありますが、それ以上に大事なことは、ここで彼女が夢の裂け目、夢の終りを一瞬であれ、覗いてしまったという事実なのではないでしょうか? 花にかおる袖や枕の艶めいたありさまは、むろんのこと夢の一部であると考えるべきでしょう。しかし、そこからもう一歩踏み出せば、そうした世界は彼女の後方へと退き、現実というものが押しよせてくる。その、あやうい、しかし美しい、微妙な均衡の上に立って、この歌は夜の花を眺めているわけです。もう数歩、現実のほうへと歩いてゆけば、この歌のなかに閉じこめられた春の情景は、ごくつまらないものへと堕してしまうおそれが充分にあるのです。そのおそれを、彼女は意識しながら、この歌を詠んでいる。それが、夢の裂け目を見た、ということなのです。

 夢の終りは、恋の終りとも、人生の終りとも、重ねあわせることができます。そこにどれだけのものを読みとるかは読者の自由ですが、ただ、この美しさは永遠にはつづかない、といううっすらとした不安だけは、あまりにも美しすぎる言葉の裏側からただよってきます。

 定家を中心とした新古今歌人たちがめざしたのは「幽玄」という境地でした。この言葉は、たいへんに説明がむずかしいのですが、象徴的な言い方で言うのならば、朝の霞と光に桜の花がたゆたっているような、その木のもとを美しい女性が通りすぎて、向こうのほうへ見えなくなってゆくような、そんな風情です。輪郭のぼやけた、幽遠で艶麗な境地。対象そのものではなくて、余情や風情、残り香のなかに見出される美。従って、モノそのものを描写するのではなく、モノの与えてくる雰囲気を描写することこそが、新古今集の理想でした。この歌もまた、その例にもれず、中心であるはずの「花」が不在です。香りもある。それを感じている人もいる。しかし、花そのものが、どのような姿をして、どこで咲いているかということについて、言葉はまったく費やされていない。ぽっかりと歌の中心が空白になって、ただ、その存在をにおわせるような雰囲気が、言葉によって作られている。

 これこそ、幽玄無上の歌というべきでしょう。


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