雪香楼箚記

夏____雨そそく






                                      藤原俊成
       雨そそく花橘に風過ぎて山郭公雲に鳴くなり










 今度は、橘とほととぎすとふたつを詠みこんだ歌。さすがに俊成、みごとに歌題を消化しきって、なんとも美しいたたずまいの歌です。歌意は、雨のふりそそぐ橘の花に風がさっと吹きすぎて、山のほととぎすが雲のどこかで鳴いた、というところ。

 五月雨を詠んだ歌です。詞書によると、もともとは、ほととぎす、という題で詠んだ歌だったようですが、ほととぎすのほかに、花橘、雨(五月雨)、風、雲、と、ずいぶんたくさんのものを詠みこんでいます。雨、風、雲は、すべて縁のもの(関りあいのあるもの)ですが、それにしても、これだけいろいろと道具を取りそろえて、しかもそれぞれのイメージが喧嘩せず、それどころか、かえってごくさり気ない雰囲気の歌に仕上っているのは、なまなかの技量では不可能なことです。いったいに、俊成の歌風は、どちらかと言えば、定家や俊成女、あるいは後鳥羽院などとは異なったもので、あまり派手ではなく、甘口の抒情において欠けるところが多いと言えるでしょう。むしろ、言葉やイメージのきらめきよりは歌意で勝負する作品が多く、西行や式子内親王に近いものがあります。ですから、全体としておちついた姿の歌が多いのですが、この歌のようにかなり派手な道具立てを用意しても、イメージがしっとりと落ちついて、ごく自然な存在感を持つ作品になるというのは、技量もさることながら、俊成の好みというものを考えあわせてもいいのかもしれません。

 と、いうのは、この歌、純粋に叙景歌なのですね。見たままの景色を詠んで、主観や自分の感情を排除している。これが、古典和歌のなかには、あるようでいて、案外ないのです。たいがいの場合、四季の歌の巻(巻一~六)のなかに収められている歌であっても、一首のなかに、四季の抒景のほかに、恋や、嘆老や、別離や、そのほかいろいろの抒情が複雑にこめられている。当時は、和歌は文学作品である以上に、社交のための道具であったわけですから、そこにさまざまな人間の感情が仮託されるのは仕方がないことですし、様々な和文による作品は生れていたものの、まだまだそうした散文によって自分の感情を相手に伝えるという風俗の確立していない時期でしたので(特に女性において)、和歌が抒情と叙景に截然と分類できないのは、当然のことなのです。むしろ、そうした抒情と叙景の融合に見出された美が頂点を迎えたのが新古今集だったのです。

 が、俊成や西行といった、平安時代の常識から言えばやや異風な歌を詠む人々の作品のなかに、純粋の叙景歌がなかったわけではないのですね。その例がこの歌なのです。

 まず、「雨そそく」という表現。これが簡単なようでいて、ちょっと珍しいのです。卒論の関係で、古典和歌に出てくる「そそぐ(く)」という言葉をすべて検索して読んでみたのですが(現在では『新編国歌大観』という、鎌倉までの古典和歌をほぼすべて、室町の大部分を、網羅した本のCD-ROMが出ておりまして、パソコンで簡単に用例を検索できます。読むのは大変ですが……)、まず、平安時代にはほとんど和歌に用いられなかった言葉なのです。考えてみれば、そそぐという言葉は、ある対象にむけて液体などを移動させるというニュアンスのある言葉ですから(子供に愛情をそそぐ、コップに水をそそぐ)、なんらかの対象に向けて降っているわけではない雨に用いるのは、ちょっとした発想の転換が必要です。自分の視線の対象になっている花橘をめざして、この雨は降っているのだ、というふうな現実の切取り方があってこそ「雨そそく」という表現が可能になるわけで、現実は現実としていつの時代も同じでありながら、それをどう見るか、どう見立て、どう切りとるか、という歌人の意識が問題になるのです。この一句は、さり気ないけれども、大きな背景をはらんでいます。

 その花橘に、風が吹きすぎる。俊成は禁欲的に、ただ風が吹きすぎたとしか書いていませんが、もちろんこれは、こう書くだけで読者は情景を充分に想像できると判断したからにほかなりません。橘は、有名な古歌があるくらいでして(次の歌のところで紹介しますが)、花以上に花の香りを愛でるべき植物なのです。梅と同じように、半ば嗅覚的なものとして扱われているのが橘でして、ですから、橘の花に風が吹きすぎたとくれば、これはもう、読者はだれしも、「では鼻の先に橘の香りがふっと匂ってきたのだな」と想像します。そこを言わないで、読者に想像させる。─これが余情というものだというのは、もう何度も言ってきたことですが、上でも書いたように、俊成はイメージの派手さがないので、余情にしても、定家のように派手なものにはなりません。読者に想像させて、しかも「自分で想像したんだ」という意識は持たせないほどにさり気ないたたずまいが、いかにも俊成ですね。

 下の句は、上の句とはまったく関係がないと、言えば言えるものです。橘に風が吹いた、ほととぎすが鳴いた、というものですから、両者にはべつだん因果関係もなにもなくて……、だからダメだというのが和歌や俳句を批判するときの常套手段ですが、まあ、これは日本的な美意識を象徴するようなものでして、これがダメというのなら、日本の芸術作品のたいがいがダメということになりかねないのですねえ。要するにこれは、余白の関係なのです。例えば、なんでもいいのですが、雪舟の『天橋立図』にしましょうか? 日本の絵には、よく霞がかかっていまして、霞の部分は、空白(余白)になっている。『天橋立図』にしても、ところどころ松の絵を描いたところが切れていて、そこには霞がかかっていることになっているのです。で、しばらく余白があって、また絵がつながる。画像としては切れているのですが、文脈としてはなんとなくつながっているわけです。音楽にしてもそうで、例えば邦楽で大事なのは「間」である。間といっても、ぼくらが気にするのは、だいたい一秒の四分の一くらいの空白のことなのですが、これが、二分の一秒か、四分の一秒かで、名演とそうでないものの違いが生れるわけです。これにしても、間という空白をはさんで、前後には流れがある。けれども、その流れ(文脈)がやや飛躍している。それを間で補い、場面転換しているわけです。

 ですから……、このつながるようなつながらないような、あるいは論理でつながらなくてイメージや雰囲気でつながっているようなものを、間や空白でくっつけるのが、日本的な美意識というものなのでして、和歌の場合は、空白を作りようがないから、むりやり飛躍したものをくっつけて、間は読者のほうで作ってください、ということになっています。これが極端になるのは俳句で、例えば子規の

  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺       子規

とか(柿食ったから鐘が鳴ったわけじゃないのに……)、久保田万太郎の

  湯どうふやいのちのはてのうすあかり   万太郎

とか(湯どうふといのちのはてのうすあかりが、雰囲気としてはつながりが解るが―大病をからくも助かった男が湯豆腐で一杯やっているのでしょう、おそらく―、あまり判然としない)とか、中村草田男の

  万緑のなかや吾子の歯生えそむる     草田男

とか(いつも木陰で子育てしてるわけじゃないだろう……)、まことにつながるようなつながらないような……。そこに、和歌や俳句の滋味というのがあるのでして、まあ、論理的ではないけれど、情緒的なよさ、あるいは、むつかしく象徴派の味いがあると言ってもいいわけです。

 この歌だって、ただイメージだけでくっつけているわけではありません。部屋のなかにいて、橘の香りが風に乗ってやってくるのに気づく。必然的に、人は上の方を見ます。すると、ちょうど時を合わせたようにほととぎすの鳴き声が聞こえたというのですね。

 鳥の声が雲にまぎれてきこえる、あるいは「雲に鳴くなり」というのは、古典和歌のなかでしばしば出てくる表現で(といっても、古典和歌によく出てくる鳥は、鴬、雁、ほととぎす、おしどり、と相場が決まっていて、鳴き声が愛でられるのは、鴬か雁かほととぎすなのですが)、特に、雨の多い時期に鳴くほととぎすや、春になって北に帰ってゆく雁(やがて雲にまぎれて姿が見えなくなってしまうから)などについてよく使われます。当時から、すでに、姿は見えないのに、声だけが聞こえる、という表現の形式が確立していたのでしょう。同じことは、香りについても言えます。梅の花でとくに顕著なのですが、匂いだけがして姿が見えない(例えば月のない闇夜であるために)、という歌が無数にある。橘に関しては、そういう歌はあまり見かけないのですが、すくなくとも匂いというものが、視覚から独立して、単独でも鑑賞できるものである点は、ほととぎすの声と同列なのですね。

 そもそも、平安時代の貴族たちは、雨の日の外出をあまり好みませんでした。当時の染色技術では、色を染めてもそれを定着させる方法がなかったために、雨に濡れると衣装の染料が溶けてしまって、せっかくのお洒落が台無しになってしまうからです。ですから、おそらく雨の日は極力外に出かけないようにして、家のなかでじっとしていたはず。もしかすると、戸なども立てきって、庭の雨もよいなどもあまり眺めることはなかったのではないでしょうか?

 そういうふうにして、室内に引きこもっているとき、それでも否応なく歌人をとらえるものは、やはり、匂いと声、嗅覚と聴覚だったのではないかと考えるのは、あながちうがちすぎとも言いきれないでしょう。そういう感覚を、匂いと声に代表させて、視覚的効果を背景におしやりながら、一首の叙景歌を作りあげた俊成の才能はさすがです。

 雲路の忍び音に、夏のうつろいを感じさせる作。


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