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雪香楼箚記
恋(4)_消えわびぬ
藤原定家
消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露
いかにも定家らしく、非常に技巧的な歌です。まず、「秋」が、秋、と、飽き、の、「こがらし」が、木枯し、と、焦がす、の、「森」が、森、と、漏り、の、それぞれ掛詞。「うつろふ」は、人の心変りと木の葉の紅葉の、「露」は、露と涙の、両義で用いられ、さらに、消え、と、露、が縁語。また、一首全体が女の立場からの題詠です。木枯しの森は歌枕のひとつ。現在の静岡市にあるとか。意味は、この身も消えはててしまいそうなほどのもの思いです、木々の葉が紅葉するように、いともたやすく心を変えてしまうあなたが私に飽きてしまっても、私は身を焦がすほどに想いつづけ、木枯しの森の梢から漏り落ちてくる下露のように、はかなく恋いつづけているのです。―歌なら一行で言うところを、現代語訳すると四行。さすがに定家です。
ちなみに、本歌は
読人しらず
人知れぬ思ひするがの国にこそ身を木枯しの森はありけれ
ですが(人知れぬもの思いをして、駿河の木枯しの森のように、身を焦がすことだ)、定家の歌に比べるとじつに構造が簡単です。掛詞を二箇所使っていますが、定家の歌のように、ちょっと見ただけではどれが掛詞かはっきりしない、というような複雑なものではありませんし、縁語やイメージの統一、歌の世界の深まりという点ではじつに単純な歌です。
この本歌と定家の歌のいちばん大きな相違点は、「露」という言葉があるかないかですね。この相違はかなり大きい。なぜなら、本歌では木枯しの森と言っても、なんだか抽象的で、読み手にイメージが湧いてくるような描写がなかったのですが(その辺が、この歌があまり尊重されなかった理由のひとつでしょう。『古今和歌六帖』という平安時代初期の歌集にあるだけで、勅撰集に採られていないところを見ると、資料的な価値はともかく、文学作品としてはあまり評価されてなかったようです)、そこに、「森の下露」という一言が入るだけで、見たこともない駿河の木枯しの森の様子が、なんだか手に取るような迫真性を持って読者に伝わるようになっています。こうした相違は、単に定家の作とこの本歌の関係だけに言えることではなくて、むしろ、新古今集時代とそれ以前の歌の大きな相違と言っていいのではないかと思うのですが、定家をはじめとする新古今歌人たちの歌は、イメージがくっきりと際立ち、非常に生き生きとして深い情感を味わせてくれます。
これには様々な原因があるのでしょうが、ひとつ言うことができるのは、彼らの時代になって和歌という文学形式の発展が頂点にまで達し、それまでの意味(歌の内容)、趣向(技巧的な面)を中心にかたちづくられてきた和歌に、新たにイメージ、それも読者に与えるイメージを念頭においた作歌態度があらたな概念として加わったゆえではないか、という点です。極端に観念的な方向で(つまりは空想的な方向で)深化した新古今集時代の歌風にあっては、そうしたイメージや印象に関する計算は大いにありえたことなのではないでしょうか?
歌全体としては、非常にいいできではないかと思います。人によっては技巧が過ぎるという人もいるかもしれませんが、それを補うイメージの芳醇さもありますし、第一、技巧が表立って見えない分、読者は定家の歌の世界に遊んでいれば充分に満足できるほど完成度の高い作品です。一首全体としての姿が非常に美しく、また、歌境の面から言っても、定家の言う幽玄美を体得していると言えましょう。─しかし、まあ、そうむつかしいことを言わなくても、恋歌としての身を焦がすような切ない激情を歌った面と、秋も終りの木枯しの森を詠んだ叙景歌としての面が、一首のなかに絶妙に織りまざって配置されているのがじつに美しく、華麗で、しかも妖艶。ほんとうの傑作であることはだれの目にも明らかでしょう。
初句に「消えわびぬ」というような言葉をもってきて、いちどそこで句切れをつくってしまうのは、ふつう、非常につよい調子を生むものなのですが、この歌にはそういう感じがありません。むしろ、わりとなだらかな調子で歌がはじまっている。ここは定家の苦心のあとなのかもしれませんね。おそらく、「この身も消えてしまいそうなほど」、つまり「死ぬほど」という、たいへんきつい内容の句ですから、そこを不必要に強調しては一首の雰囲気が台無しになってしまう、という配慮があったのではないかと思います。そこで、「消ゆ」というわりとおとなしい言葉ですらりとはじめることにしたのでしょう。これならば露との縁語でもあり、一首のなかで不必要に悪目立ちすることもありません。例えば「玉の緒よ絶えなば……」という歌の、わざと調子のつよさを狙うのとは、まったく逆の作業をしているわけでして、それが端的に「消ゆ」と「絶ゆ」という語感の相違にあらわれています。
わびぬ、というのは、聞きなれない言葉かもしれません。わび、さび、のわびのことでして、これはもともと動詞として用いていた言葉なのです(日本語では動詞の連用形が名詞化します。歩く、が、歩き、になるように。わぶ、の連用形が「わび」)。時代がたつにつれ、専ら名詞の侘びばかり使われるようになりましたが、今でも「わび住まい」などというときの「わび」には、多少動詞の面影がのこっています。意味としては、なんとなく縮こまって、落胆したり、嘆いたり、ということです。わび住まい、といえば、逼塞して粗末なところに暮らしていることですし、茶道のわびというのも、豪奢な室町時代の茶に対して、あえて粗末な二畳や三畳の茶室で、地味な道具を使って茶を点てる利休の茶道の特徴を言ったものです。『鉢木』という能に「この木やわぶると思ひしが」という台詞がありますが、これは、なかなか花の咲かない桜の木を言ったものでして、木が縮こまって、萎縮している、と言っているのですね。ですから、この定家の歌も、わびぬ、という言葉で、恋にうち嘆き、悩んでいる様子を言ったものです。それも、外界に発散されるようなものではなくて、内側に沈みこむ種類のもの思いであることが、ことばの響きからわかります。
うつろう、という言葉を、人の心について使うのも、古典和歌では非常によくあることです。これは、だれか別の人に思いの対象を移す、というよりは、むしろ心変わりという意味で使われる言葉で、「移動」ではなく、「変化」を表すものだと考えていただければいいでしょう。こうした人の心のはかなさは、さまざまなものに例えられました。いちばん多いのは、花。これはもちろん、梅や菊ではなくて、咲くとすぐに散ってしまう桜ですね。うつろいやすい花。それから、染色にもよく例えられます。古代の染色は、色止めの技術が未発達だったので、濡れたりするとすぐに色が散ってしまうため、ちょうど浮気な恋人の心に例えられたのです。特に、紅いろはすぐに色が落ちてしまうため、恋歌では「紅の袖」という言葉がよく出てきます。そのほか、変わったところでは、「花摺り衣」と言って、秋草の野を歩くと、露で潤った草の花が衣の袖にすれて色が移る。その色は非常に落ちやすいとされていまして、ことに月草(今の露草)で染まった袖が恋歌によく詠まれます。そして……、三つ目の代表格が、この紅葉です。紅葉を、葉が赤く染まる、と見るのではなく、葉が色を変える、と見れば、これは格好の恋歌の歌題になりました。ちょうど、この歌の「秋の色」という掛詞でもわかるように、季節を表す「秋」という言葉が、「飽き」にも掛けられて、非常に都合がよかったこともありますが、華やかなものの内側に、そこからとりのこされた女の切なさを描く、というイメージが歌人たちに愛されたせいもあるのでしょう。みずからを取りまくものが華やかであればこそ、哀愁は深くなる。
身をこがらしの、というのは、これも一種の常套句でして、以前にも説明したとおり、「思ひ」はよく「火」に掛けられた言葉ですので、そこから、恋の思いに身を焼く、という表現が生まれました。百人一首の定家の歌にも、
藤原定家
来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ
というのがありますね(来てはくださらないあの人を待ちつづける私は、松帆の浦の夕暮の、波の静かなころに、塩を取るために藻を煮る火のように、恋に身も焦がれているのです。―当時は、海水につけた藻を煮詰めて製塩した)。けれども、ここでは、もうすでに「身を焦がす」という表現が、実際の火のイメージからは遠くなって、単なる焦燥を表す表現になっています。だからこそ、定家は木枯しの森という言葉と掛けているのでしょう(もちろん、本歌の影響もあります)。
この歌の魅力は、やはり下の句のよさにあると言うことができるかもしれません。まず、木枯しの森、という歌枕の使い方が非常にいい。本歌では、この歌枕を詠むにあたって、特に季節は決めていないのですね。純粋な抒情歌にしている。ところが定家は、紅葉や露といった言葉を用いて、この歌全体を秋の歌と規定することによって、木枯しの森という一句を、単なる地名ではなく、ひとつのイメージを喚起する言葉として扱っているのですね。この言葉を、晩秋の森につめたい風が吹きぬけてゆくような充実した写実に昇華して、ほとんど一般名詞の域にまで近づけている。おそらく定家は、静岡にあるという木枯しの森を見たこともなければ、見たいと思ったこともないのでしょうが、ここではそうした態度が、木枯しの森という言葉を、地名としてよりも以前に、ひとつの言葉として用いることによって、如実に示されているのです。
下露、という言葉、これがまことに見事というほかはありません。言葉そのものは、草木から落ちてくる露、ということですが、それ以上に、露という言葉にも、下という言葉にも、この歌の恋歌としての性格に深く関る意味がこめられています。露はもちろん涙の象徴であり、さらには、はかないもの思いを表す小道具でもあります。そこに「下」という言葉をつければ、「降ってくる露」というイメージが鮮明になって、涙を暗示するうえでより効果的になるのはもちろんのことですが、さらに、「下に思う」というニュアンスもつけくわえることができるのですね。下に思う、とは、ひそかに、こっそりと思うこと。私のもの思いは人知れぬものなのです、と、言わず語らずのうちに、読者に感じさせる仕組みになっているのです。
全体を通じて、森のため息のように、女性の嘆きがひっそりと伝わってくるような歌だと思いませんか? 消えわびぬ、という初句が、心の状態でもあり、薄暗い晩秋の森の様子でもあるような、そんな印象を与えます。ここまでいたれば、もはや女ごころの独白と言うべきで、男の視線はほとんど考えられていないのではないでしょうか? 深沈として自らに問い、紅落の森に問うて、なぐさめきれない心だけが残る。そういう境地だと思います。しみじみと余情深く、さみしく、あるいは切なくあるのは、森の光景なのか、女ごころなのか、判然と区別のつけられない歌境の幽玄。
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