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雪香楼箚記
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十一月十三日、神戸で松本和将さんのモーツアルトを聴いた。曲目はピアノ協奏曲二十番ニ短調(K.466)、金洪才指揮による大阪フィルハーモニー交響楽団との共演。
どの入門書にも書いてあることだが、二十番は一七八五年、モーツアルト二十九歳の年にウィーンで作曲されたもので、二十七曲のピアノ協奏曲のうち短調によるものはこの二十番と二十四番の二曲しかない。すくなくとも彼が活躍した時代には、ピアノ協奏曲といふのはピアニストの名人藝を見せるのが眼目であつたから、あかるい長調を用ゐて派手に華やかにゆくのがふつうだつたのである。
逆に言へば、モーツアルトとベートーベンの位置が逆転した近代のピアニストにとつて二十番および二十四番はモーツアルトの傑作といふことになる。おそらくしじゆうしかめつ面をして暮してゐたせいだらう、ベートーベンはみづからの内省と情熱のために作曲した(たとへ注文による作曲であつても)といふことになつてゐて、それならばほほ笑みを含んだ表情で肖像画を描かれてしまつたモーツアルトはたしかに天才ではありながらも、依頼者の意を汲むことに懸命だつたせいで自分のためだけに作曲することはめつたになかつた作曲家だと考へられてゐる。そのために、彼の当時のピアノ協奏曲において長調が売れ筋であつた事実からすれば、あへてその流行にさからつた二十番と二十四番は注文主の意を迎へることよりも、むしろモーツアルトにはめづらしい、みづからの深い心を内省的に表現しようとした「自分だけのための」作品といふことになつて、そこにベートーベン的なモーツアルトといふ価値を持つやうになり、実際に大半の音楽好きはさう思つてゐるのではないか。都合のいいことに、短調といふのは暗くて重くて、人生の苦悩と深淵を感じさせるのにふさはしくできてゐるものだから、ここでは二十三番のやうなあかるく軽快で天上的な(そのなかには天上的な憂愁と苦悩も含まれる)モーツアルトは口を閉ぢ、古典派といふよりも浪漫派に似た、なにか別な深さが屹立してゐるやうにも見えてくる。
モーツアルトは天才だといふことになつてゐても、彼の作品はどこか軽く見られてゐる。端的に言へばそれはモーツアルトがベートーベンではないからで、ベートーベンでないからと言つて悪ければ、モーツアルトの人生には苦悩がないからである。苦悩と戦ふ藝術家の人生はロマンチックであり、その陰翳ゆたかな表情が作品を美しく染めあげる効果を持つ。彼らは人生に挫折し、病や貧苦にあへぎ、恋にやぶれながら珠玉のやうな作品を織りなしてゆく天才であり、たとへそれが十九世紀のヨーロッパに特有の浪漫主義的な天才像であつてほかの世界のほかの時代に普遍性を持つものではないと言つてみたところで、西洋音楽が完成を見せたのが十九世紀のヨーロッパにおいてであつてみれば、三つ子の魂といふ言葉を思ひだして納得するしかない。しかしモーツアルトが一七五六年から一七九一年までといふ十八世紀を生きた音楽家であり、彼はまだ浪漫主義といふものを本格的には知らなかつたといふことだけは疑へない事実であつて、つまりモーツアルトはたしかに天才ではあつたが、彼と彼の時代が考へてゐた天才像はベートーベンやその地続きの子孫である現代の音楽家たちが考へてゐるそれとは違つたものであつた。ここで我々はモーツアルトの伝記を思ひうかべればいい。神童、曲芸のやうなピアノの演奏術―とりわけ早弾き―、即興演奏、三十数年の生涯にベートーベンの五倍も交響曲を書いてしまつた作曲の才能、サロンのなかでの社交、機嫌のいい表情と当意即妙の会話術、おしやれと身だしなみ(これこそはベートーベンの対局にあるものだ!)、パーティーと享楽を愛し浪費を重ねる若い晩年の姿……。モーツアルトにおける天才とはさういふ姿を持つてゐた。ひと言でいへば生活人としての申し分のない社交性と幸福。苦悩を知らない、知つていたとしても表には表さない自己統御。そして、注文に応じて他人を喜ばせながらみづからも喜ぶことを大切にした(彼は実に冗談の天才でもある)作曲。たとへばそれはゲーテやヴォルテールを思はせる古典主義的な天才像である。
さう、たしかにモーツアルトはベートーベンではない。あらゆる意味でロマン・ロランが見た苦悩の人としてのベートーベンではありえない。そしてそれは音楽においても意識的に、あるいはまた無意識的に顔を出してゐる。しかしそのことがかならずしもベートーベンとベートーベン的な作曲家たちの優越を意味するものではない。
ピアノ協奏曲二十番において、人間として、あるいは音楽として、モーツアルトがベートーベンの表情を見せるがゆゑに評価されてゐるとすれば、それは一面では正しく、一面では誤つてゐる。たしかに十八世紀の終末を全速力で駈けぬけたこの作曲家には浪漫派的なものの予感があつた。そしてそれが濃厚に二十番には顕れてゐる。ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を書いたやうに、彼のなかにベートーベンの面影があったことは事実であらう。しかし、何度も繰返すがモーツアルトはベートーベンではないのである。ベートーベンは古典派の骨董じみた器のなかに浪漫派的なものを盛つたが、モーツアルトは古典派の輝きのなかに無意識の予兆として浪漫派を描きだした。両者のあひだには、わづかな、しかしかなり決定的な断絶がある。フェルメールとレンブラントのやうに。十七世紀オランダのふたりの画家だけを比較すればそのあひだに大きな断絶はないだらう。しかしレンブラントのむかう側にベラスケスを見ようとすればどうだらうか。おなじやうにベートーベンのむかう側にはショパンやリストがゐる……。
簡単に言ふならば二十番といふ曲はモーツアルトの輻輳するふたつの性格を見せてくれる。ここにあるのはモーツアルトの複雑さだ。意識と夢がまつたく逆の方向を向いて、しかもそれが矛盾するどころかよりいつそう豊かな世界を生みださうとしてゐる天才の複雑な味ひ。つまり多くのピアニストや音楽好きが思つてゐるやうに、ここには短調を選びとつたモーツアルトの浪漫派的な表情がある。人生の暗がりを見つめるモーツアルトの横顔、『若きウェルテル』によつてドイツ浪漫派の「疾風怒濤」が出発したやうに、無意識の夢のなかで浪漫派をうながしつつ古典派の掉尾を飾つた天才の横顔。―しかし一方において、二十番でさへもモーツアルトはモーツアルトである。意識的に。オーケストラとピアノの切れ目のない流麗なおしやべり、管楽器の特徴的な使ひ方、さざ波のやうに浮きたつひとつひとつの音。あまりに甘美な歌声で人の苦悩を歌はうとするやはらかな純粋さは、まぎれもなくバッハやハイドンを昇華したモーツアルトの姿にほかならない。そしてそのむかう側には、ショパンもなく、リストもなく、ベートーベンとでさへ深い断絶を感ぜせしめずにはゐないだらう。
切符のことをお願ひしに松本さんとメールでやりとりしたときには、若いピアニストはモーツアルトを弾く自分自身をめづらしがつてゐた。たしかにあれだけ美しくラフマニノフを弾き、ショパンを弾く人にモーツアルトは少々毛色が違ふだらう。またモーツアルトでも十七番や二十一番ではあるまい。二十番といふのはオーケストラのほうの注文だつたさうだが、自分で選べるとしてもモーツアルトなら二十番と言つてゐたから、そこに松本和将といふピアニストの確乎としたものがもうすでにある。こつちは二十一番か二十三番、それもルービンシュタインのCDが、などといふと、紳士的な、しかしモーツアルトとベートーベンのあひだにぼくが感じてゐるのよりもつと大きな断絶を礼儀正しく感じさせる口調で「やつぱりルービンシュタインとかそつちのほうなんだ」と言はれてしまつた。
モーツアルトのモーツアルトらしさは―言ひかへれば古典派らしさは―、もちろん二十一番にあり、二十三番にあり、十七番にある。あるいは代表的名作とは決していへないにしても十五番のやうな曲をバーンスタインが弾けば、無上にモーツアルトらしいモーツアルトが生れる。それにもかかはらず二十番といふのは、おそらく松本さんの「確乎としたもの」がそれを嗜好するからだらう。そしてそれは、特別モーツアルト弾きと言はれないピアニストの場合でも二十番や二十四番ならレパートリーに含まれてゐるのと、おほまかにいへばおなじことを意味する。いや、おなじことを意味するのだらうと、すくなくとも演奏を聴くまでのぼくはさう思ひこんでゐたのだ。……モーツアルトはあまり好きではないけれど、でも弾くとすれば二十番。モーツアルトのモーツアルト的なものは苦手だけど、二十番にはそれがあまり濃厚ではないからこれなら弾ける。―松本さんの「確乎としたもの」が現実とのあひだにさうやつて折合ひをつけた結果が二十番といふ選択なのだと思つてゐた。
もちろん言ふまでもないことだが、いい演奏のために必要な条件は演奏者が求めてゐるもの(歌舞伎でいふところの仁)に曲がよくあつてゐることで、その点からすれば松本さんにモーツアルトを弾いてもらふには協奏曲二十番といふのがおそらく最善の選択であらう。穿つた見方をすれば、浪漫派風味のモーツアルトなら松本さんも食指が動くはずである。そして、本人は「ぼくの激しすぎるピアノでは生粋のモーツアルト好きには……」などと予防線を張るやうなことを言つてみたり、帰りにたまたま地下鉄の駅でちよつと立ち話をしたときも「どうだつたかわからないけど……」とえらくご謙遜だつたが、実際のところあれはじつに素晴しい演奏だつたと思ふ。今の段階でほとんど最善にちかい松本さんのモーツアルトを聴かせてもらつたと言つても過言ではないだらう。
しかしそれは、それまでぼくが思つてゐたやうな「松本さんがモーツアルトを弾くとすれば」といふいかにも消極的な条件のもとでの最善ではなかつた。あの晩聴いたものは、モーツアルトの二十番といふ曲を心から愛してゐるからこそ生れてきた、純粋で、美しく、そしてどこまでも澄みきつた音色にほかならない。そこには借りものではない、松本和将その人のモーツアルトがしつかりと存在し、ラフマニノフでもショパンでもなんでもいいけれど、松本さんが好きだと公言し何度も弾いている作曲家の作品となんら遜色ない輝きと完成度を帯びてゐた。「モーツアルトの曲で」といふただし書きなどつけなくとも、それは彼がこれまで弾いてきたもののなかで指折りに美しいと確信させるに足る演奏であり、それ自身で完結した「最善」の価値を与へられた作品であつて、ぼくが勘ぐつたやうに浪漫派で味つけされたモーツアルトなどでは決してなく、むしろ二十番に特有の、古典派の夢の彼方で浪漫派が鳴りひびくやうな複雑でゆたかな味ひ―あのモーツアルトの輻輳する両義性を両義性のまま味はせてくれる芳醇さ―を持つてゐたのである。ひと言でいへば、松本さんは二十番のモーツアルトをたしかに弾いた。それも、自分のなかの「確乎としたもの」にすこしも背くことなく。
二十番は先に書いてきたとほりとても豊かな複雑さを抱いてゐる。そして複雑なことを単純にしてしまうのはむづかしいことではない。むしろそれは安易ですらある。しかし複雑なことを複雑なまま聴衆にむかつて伝へようとすれば、表現者にはさまざまな困難がつきまとふ。松本さんのピアノはその困難さに対してきちんとした答へを出し、しかも答へをただ出したことに安住せず、充分に人を酔はせうるだけのものをしつかりと含んだ演奏だつた。こまかいことは後のほうに書くけれど、その晩の演奏はまづそのことがつよくぼくの印象に残つた。
複雑であることを複雑であるままに示しうる誠実さと、その誠実さを可能にする松本さん自身のあり方……。それは彼のピアニストとしての単純なうまさの問題ではなくて、作曲家と我々を仲介してくれる音楽家としての豊かな資質を示してゐる。すくなくともぼくはその夜、松本さんのおかげで二十番のなかにゐるモーツアルトをかなり明確な手ざはりをもつて感じることができた。複雑なものを複雑に手渡され、複雑なまま味ふことができた。そしてそれを可能にしたのは、演奏者に曲に対する腰のすはつた読み解きがあり、しかもそれを正確に聴衆に伝へうるところまで研ぎあげた音づくりがあるからだらう。
人はそれをピアニストとしてはよけいな色気だといふかもしれない。もつと譜に忠実に、作曲者の意図どほり弾くことだけを考へればすべてはうまくゆくと言ふものもゐるだらう。多くの場合、作曲家の意図どほり、といふ言ひまはしが曲を読み解く楽しみを放棄し、なにかうつろでかちんこちんになつた音を作つてゆくことと同義だとしても、である。
しかし音楽家であることがピアニストにとつてよけいな色気だとすればピアニストとはいつたい何であるのか。あるいはよけいな色気を出さずにかちんこちんになつたものを音楽だといふのならば藝術とはいつたい何であるか。生きるといふことはかちんこちんであることとは対局にあり、そのかちんこちんでないよろこびをたしかめるためのものが藝術なのであるとすれば、音楽は藝術とも、生きるといふこととも無縁の、なにか不思議なものであるといふことになる。
そしてすくなくともここにひとつ、それとはまつたく逆の音楽があつて、我々はそれを聴けば充分に満たされることを知つてゐる。だとすれば、ほんとうのピアノといふのはやはりかういふものだといふことになりはしまいか。もしさういふことにならないのならぼくは音楽などいらない。
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第一楽章は弦楽器の沈んだ音色ではじまる。暗く、深く、重く、そして水のなかにたらしたインクがまたたく間に拡がつてしまふやうな不気味な迅さ―ながれるやうな暗い迅さを持つてゐる。
いつたいにこの楽章は暗い。暗いだけならまだしも、なにか割りきれない、まとはりつくやうな空気が全体にただよつてゐるやうで、それが二十番といふ曲全体を印象づけてゐる。この曲が「悪魔的」とさへ評されるゆゑんであらう。
しかしモーツアルトの不思議さは彼が暗さを暗さとして、あるいは暗い情念を暗い情念として生きず、また書かなかつた点にある。そしてそのかぎりにおいて二十番もやはりモーツアルトの作であることはいふまでもない。たしかに第一楽章、特にそのオーケストラ・パートには暗雲の立ちこめるやうな不気味さがある。しかしその不気味さは我々にとつて親しみぶかい不気味さである。決して未知の、なにか忌まわしい、恐怖の対象となるやうな不気味さではない。ベートーベンの弦楽四重奏曲第十五番のやうな、あるいはショパンの《別れの曲》のやうな、人生の深淵へ引きずりこまれてゆくのに似た暗い情念を、この曲は秘めてゐない。ベートーベンには悲愴さがあつた。人生とこの世の暗がりを認め、それと戦はうとする意志の美しさである。それは陰に陽に彼の作曲を性格づけ、例へばその陰たるものが弦楽四重奏曲第十五番であるとすれば、陽は《テンペスト》や《熱情》であつたと言へる。一方でショパンには絶望の美しさがある。詩人がみづからのなかに見出してしまつた苦悩、そしてそれを感傷によつて歌ひあげる甘美さ。《別れの曲》も、ピアノ協奏曲第一番も、ショパンは甘く美しい。しかしさういつたものがただ甘つたるいだけではないのは、彼が暗がりにある絶望をのぞきこみ、苦渋にまみれながら、それを美しく歌いたいと覚悟してしまつてゐるからである。
だが―、モーツアルトには悲愴も絶望もありえない。我々はベートーベンやショパンの見たものを恐しいと感じる。彼らの曲をこの上なく美しいものと認めつつも、さうした恐しいことがわが身の上には決して起らないようにと心のどこかで思つてゐる。あの深淵にからめとられたら人生のすべてを投げだすよりほかはない、と無意識のうちに人を畏れさせるなにかがそこにはたしかにあるのだ。すくなくともベートーベンほどに靱くなく、ショパンのように弱さに生きる覚悟も持てないぼくは、いつもさう思つて彼らの音楽を聴いてゐる。彼らこそは「悪魔的」と呼ぶにふさはしい暗さをたたへ、そしてそれと対峙する作曲者の心のうちを、あるいは悲愴に、あるいは絶望的に描いた音楽だといへるだらう。そしてさうしたものを悪魔的と呼ぶのならば、モーツアルトは悪魔的ではない。たとへそれが二十番であつたとしても。
二十番において、あるいはそれ以外の交響曲四十番のやうな曲でモーツアルトが見せる不気味さは、決して忌まはしさを含んではゐない。我々はそれが不気味であることを知つてゐる。しかし同時に、さうしたものは人が生きてゆく上でどうしても避けられない暗がりであり、苦悩であり、しかしそれだけに専念して悩みつづけることはばかげてゐて、あるときは時間が解決し、あるときは我々自身のちいさな努力が解決するやうなたぐひの、親しみぶかい表情を持つた不気味さにほかならないのである。モーツアルトは長調で哀しい曲を書いた天才であると言はれてゐて、それならば逆もまたありうることであり、彼は短調でもあかるさを描けた。二十番にある暗いテーマは、ベートーベンやショパンの見たものとは本質的に違ふものなのではないのか。そこにあるのは悲愴でも絶望でもなく、ただ憂愁とでも呼ぶべきものであつて、決して触れてはならない悪魔的な人生の暗がりだとはぼくには思へないのである。
憂愁は曇り空に似てゐる。永遠につづく憂愁などはありえない。たしかに曇り空は人を不機嫌にさせるだらう。悲しくも、暗鬱にもさせるだらう。けれどもそれが絶対的で、いつまでも終りのこないものではないことはだれでも解つてゐる。それは、だれもが生涯に何度かはつきあはねばならない薄暗いひとときであり、ひと休みしながらやりすごすべき沈鬱な一時期にほかならない。我々はそれを鬱陶しく思ふ。しかし畏れはしない。むしろなにか親しいものとしてさへ扱つたりする……。そしてそれならばその暗さを美しく歌ひあげてみてなにが悪い、といふのがモーツアルトであつて、もしかうしたモーツアルト論が間違ひであるとすれば、すくなくともピアノ協奏曲二十番にはそれを感じさせるだけのなにかがある。
あるいはそのことを言ふには、その晩のオーケストラの音色を挙げるのがいちばんいいのかもしれなくて、これがともかくも愁ひ顔のモーツアルトであつた。上等の紅茶茶碗のやうに磁器の肌に似たほどのよい硬さがあり、それでゐて、もしくはさうであるがゆゑに音に微温のぬくもりがあつたやうに思ふ。要するに鈍重ではなかつた。テンポそのものは決してふつうの演奏に比べて軽いとも速いとも感じられなかつたし、おそらくごく常識的な線であると言つてさしつかへないのだらうから、それはやはり純粋に音色の問題である。音色が重すぎず、鈍くもなく、よく澄んでいて、しかしピアノの領分を侵すほど綺麗すぎはしないなんどりした感じも充分にして、ひと言でいへば北国の冬の曇り空のやうな憂愁の色が、最初の管楽器が聞こえはじめるあたりから濃厚に漂ひはじめた。
いちどさういふ映像的な印象にとらはれればそれから逃れられないのがぼくの性格だから、ここから先は印象批評になるのをおそれずにこのイメージを演繹して書いてしまふことにする。北国の冬の曇り空と書いたが、モーツアルトが生きたドイツやオーストリアを思ひうかべる必要は必ずしもない。それはロンドンでも、パリでも、ニュー・ヨークでもよく、いつそ弘前や、金沢や、松江や、さういふ街の曇り空でも構はない。モーツアルトは、もしくは音楽は、形而下の世界にむかつてひろやかに開かれてゐて我々に豊かにものを考へさせてくれる。むしろこの曲の最初の数小節を耳にすれば、さうしたことよりもまづさきに、何処ともしれぬ町に冬が訪れて、憂鬱で重苦しい、しかし一方ではひとめぐりしてきた季節へのいとほしさとぬくもり―なじみ深いものがまたやつてきたといふ安心によつて呼びさまされるぬくもり―を感じさせる雪雲が空を覆ひはじめる光景が、意識のなかに浮んできてやがてそれが抜き差しならないものになつてしまふ。
そしてそれにつづくピアノの音は「かそけき」といふ古語でも使はなければ表現のしやうのないものであつた。ことに松本さんの演奏はさう思はせるものを豊富に持つてゐた。具体的に言葉にするなら、音のやはらかさと余韻とでも言へばいいのだらうか。雪雲に逆らつて微光が顔をのぞかせるやうな、顔をのぞかせながらももはや日の光の季節が過ぎさつてしまつたことへのはぢらひを含んでゐるやうな、さみしく叙情的な風情。音のひとつひとつが次の音をさそひながら粒になつてぽろぽろとしたたりおちてゆくやうな感触があり、それがいつそうちからを失つた初冬の日の光を思はせる。
第一楽章のピアノ、特に独奏部分は、曇り空からさしてくる光に例へうる存在ではないだらうか。ぼくはずつとそれをフェルメール光線(そんな言葉はないけれど、『手紙を読む女』の画面に満ちてゐるあの光線……)に似た存在だと思つてゐた。オーケストラとピアノの対照的な色合ひは、本来モーツアルトにおいてはレンブラント光線のやうに劇的な明暗の対立をもたらすものではなく、やはらかくひとつに溶けてゆきながら画面をただよふ満ちたりた静謐さの象徴である。そして、雪雲の隙間から差しこむうすく淡い光は、繰りかへされる弦楽器の音色の彼方で気づかないうちに雪へと変つてゆく。実際のところ、ベートーベンのカデンツァは、光か雪か判然としないなにかがただ輝くものとして天上から降つてくる一瞬の美しさにすべてを捧げてゐるし、ぼくの好きなルービンシュタインのCDはピアノの音が実に清新かつ芳醇でまさにフェルメールと呼ぶにふさはしいのである。そして松本さんが「ぼくの激しすぎるピアノでは生粋のモーツアルト好きには……」とメールを送つてきてくれたとき、浅はかにもぼくは彼がレンブラント光線で第一楽章を弾かうとしてゐるのだと誤解してゐた。なにしろ次に出るCDは《熱情》なんて話を聞いてゐるのだから、すつかりモーツアルト風味の浪漫派を(浪漫派風味のモーツアルトではなくて)聴かされると覚悟したのである。
しかし客席で聴いたのは決して『テュルプ博士の解剖学講義』ではなかつた。それはむしろ含めるだけ叙情性を含んだピアノの美しさ、もしこんな言ひ方がゆるされるのであればターナー光線としての音色であり、たしかに浪漫派的なモーツアルトではあつたが、それはベートーベンのやうな前期のドラマチックなそれではなく、グリーグでもリストでもいいけれど後期浪漫派に特有な光の海にたゆたふのに似た輝きを放つてゐた。『雨、蒸気、速度』の画面にあるやうな光と水蒸気とが視覚のなかで溶けあつた味ひ。モーツアルトを夢見心地といふ人は多いが、しかしほんとうに夢見心地のモーツアルトを演奏した例はほとんどないのではあるまいか。彼の作品はたしかに酔はされるみたいな黄金の輝きを持つてゐるけれど、さうかといつてリストのやうな音楽とはすこし違ふ部分がある。リストはかぐはしい夕霧のなかへと人をいざなふ美しさを音に秘めてゐるが、モーツアルトはあくまで玲瓏とした明澄な世界であつて、それだけにモーツアルトにリストを見出した松本さんの音にはなにか不思議な感じがし、初冬の光のうつすらとはぢらひを含んだ色に酔はされる感覚を味つた。片方に明澄な世界の輝きをしつかりと持ちつつも、ひとつひとつの音には花の枝に宿るしづくのやうにはかなく朧化された美しさがあつたのである。もし夢のなかでこの曲を聞くことがあればあるいはこんなふうに聞こえることがあるのかもしれない。
もちろん以上はごく一部分の印象にすぎない。全体として言へば、第一楽章の松本さんはいつものやうに情熱的であり、たしかに激しく(しかし激しすぎたとは決して思はない)、特にオーケストラとの掛合に関しては力いつぱいの演奏で応へ、それが堅牢な建築物を思はせる美しさ―例へば水晶で作りあげた楼閣のやうな―をなしてゐた。そこにはたしかにやや悲愴味がややまさつたやうにも感じられるけれどまぎれもく憂愁を秘めたモーツアルトがゐて、そのことに充分ぼくは満足した。ことに後半部分の匂ひたつやうに壮麗な音色と運び方は特筆に値ひする。
しかし独奏部分の激しい旋律に隠れるやうにして、何度も静かなピアノのフレーズが第一楽章では繰返される。さうした場面で一再ならずぼくが耳にしたものは、あのはぢらひにみちた冬の日ざしだつた。雪雲の厚みからやはらかく投げかけられるそのきらめきは、夢の彼方にあるなにかいとほしいものをたくさん含んでやはらかく世界を照らしてゐた。そしてぽたりぽたりと惜しげもなく撒かれてゆくさうした光が、やがて意識の内側で意味を失つてただの輝くものへと変じさらにはそこからいつの間にか雪片にと化してしまふ過程をぼくたちは目にすることになる。カデンツァが終つたころには、そこにはたしかに光の代りに雪が降つてゐた。日ざしはつひに空から去り、雪雲が勝利を収めたのである。しかしそれは勝利を収めたといふにはあまりにも美しすぎる光景だつた。そして美しすぎるがゆゑに、ただ光の代りに雪が降りはじめたのだとしか思へなかつた。
ひとひらの雪となつてさへピアノの音はなにかいとほしいものをたくさん含んでゐる。もしそれが雪であるとすればあたかも冬のはじめにふさはしいぼたん雪のやうにも思はれる風情だつた。
第一楽章が終つても、その雪が降りやむことはなかつた。
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