雪香楼箚記

海坂


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 列車は時間通りに着いた。海辺の小さな町。僕はぼんやりと改札のあたりに立つて、同じ列車に乗つてゐたはずの彼女を探してゐる。三月、いや四月ぶりだらうか。記憶のなかの白い顔は少しぼやけはじめてゐた。

「おひさしぶり」

 どことなく遠慮がちで他人行儀な声に振返ると、高校時代とちつとも変らない、しかしそれでゐてどこか垢抜けた感じのする彼女─藤沢さん─だつた。

「元気だつた?」
「ええ、忙しかつたけど」

 会話はそこで途切れて、僕らは気まづい沈黙のまま駅舎の外へ出る。この町には、雑踏も、騒音も、走りまはる車もない。死のやうに静かな真昼。僕はふとそんな詩句(小説の一節だつたかもしれない)を思ひ出した。初めて訪れる町の一隅で、昔目にした文章が浮かぶのは何となく不思議な気がする。あれはどこで読んだのだらう。親父の書斎? それとも学校の図書室?

 藤沢さんとは高校時代ずつと同じクラスだつた。席が隣どうしだつたこともある。寡黙で、淑やかで、聡明な女の子(しかもかなりの美人)のことが、僕は好きだつた。片恋。さう、臆病な恋。最後の文化祭のときも、卒業のときも、たまたま二人きりになつた冬の日の放課後も、想ひを告げることはなかつた。臆病な僕は何かを恐れてゐたのだ。秘やかな慕情をうちあけたのは、僕が京都の、彼女が東京近郊の大学へ進んだ後のこと。そして夏のはじめに、あなたの気持には添へないといふ丁寧な返事をもらつた。淡い水色の便箋に数行、まるで申しわけなさに謝つてゐるかのやうにやはらかな文字で記されたその手紙を、あはれな男はいまだに大切にしまつてある。まるでみづからの愚かさを嗤ふやうに。

 振つた女と振られた男は日ざかりの街を歩いてゆく。この小旅行を言ひだしたのは僕のほうだつた。二年間受けもつてくれた高校の恩師が、家業を継いでこの町にゐる。ほんとうはかつての級友がほかに三人同行するはずだつたが、なりたての大学生は夏休みもそれぞれに忙しく、結局いちばん気まづい取合せの二人が残つた。

 旅は大半の人間を開放的に、あかるくする。ことに、海と空と夏の日ざしといふ三つの要素がその効き目を増してくれるはずなのだが、僕たちはいつこうに開放的でも、あかるくふるまふわけでもなつた。

「静かな町」

 沈黙に耐へきれなくなつたやうに彼女が言ふ。僕は思はず、その整つた横顔を偸み見る。かつて好きだつた、いや、今でも好きなのかもしれない人の、あえやかな面影は街路樹の翳りの下で上気したやうに息づいてゐた。

「篠田先生とは半年ぶりくらゐ?」
「さうね。卒業式の後でお会ひしたから」
「神主さんなんだよな、あの先生が」
「似合はない?」
「ちよつと。いや、だいぶ、かな?」

 ここで神職者兼教育者である人物を尊敬してゐた少女はくすつと笑い、そこがいいのよ、と言つた。相槌のかはりに僕もほほゑむ。寡黙、といふ高校時代の印象は訂正したほうがいいやうだ。

 国道から脇へ入り、さらに小路のやうな通りをしばらく歩く。向うのほうに海が見えた。凪いだ洋上にはいくつもの光のかけらが浮かんで、まるで音でもたててゐるかのやうだつた。

「海ね。高知の」
「色が違ふんだ。ほかの海みないに青や紺ぢやなくて、碧。深い色」
「さうね、いい色……。向うで海を見るたびに思ひ出すの、高知のこと」 


海坂




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 社務所の前で茫然と立ちつくしてゐると、訪ひを請ふた藤沢さんが出てきて、
「先生、これからお勤め(つて言ふのかしら)だから、荷物を置いて海にでも行つておいでだつて」
 と、くすくす笑ひながら言ふ。

「ぢやあ、お供しますか」
「待つて、日傘ささなくちや」

 さういへばクラスでいちばん肌が白い子だつたつけ。

 参道はまつすぐに続き、海へとつらなる。海と繋つたお宮ね、素敵、と彼女が呟く。

 野良猫が浜に寝てゐた。漁師町だから暮しやすいのかもしれない。僕は三毛の痩せたやつを抱いて彼女の側に坐る。古ぼけた木のベンチだつたけれど、高校生のときには思ひもよらなかつた大胆さだつた。かたちのうえではもうはつきりと終つたはずの(そして気持のなかでは永遠に終りはしないはずの)片恋が、それを許したのかもしれない。悲しい近さを無心に喜んでゐるのは、隣の美人に頭を撫でてもらつてご満悦の、三毛のほうだつた。

「白鳥は哀しからずや、つて歌、覚えてる?」
「国語の教科書に載つてた、あの……」
「あれつて高知の海には似合はないわね。悲しいつて感じぢやないもの」
「あかるい海?」
「さう、何か、やすらぐやうなあかるさ」
「さうかな。僕には、あかるすぎてかへつて悲しい気がする。ほら、楽しいことをすればするほど、心の底では『この楽しさだつて永久のものぢやないんだ』つていふ悲しさが湧いてくるぢやない。ああいふ感じ。あかるすぎて、悲しい」
「悲観主義者ね」
「さうかもしれない。悲観主義で、感傷的で……。文学少年だつたから」

 さう、いつも本を読んでゐたわね。恋愛になんか興味がないんだと思つてた─―。

「意外だつたわ。あなたからラブ・レターをもらふなんて」
「僕は恋愛の対象外だつた?」
「解らない。でも……、あの手紙をもらつたときは戸惑つたのよ。あなたのこと何となく尊敬してたから。もし、高校のときに言つてくれてたら、断らなかつたかもしれない」

 ゆるやかな後悔と感傷の想ひが胸のなかを静かにかき乱し、僕らは沈黙した。今、好きな人がゐます。彼女の手紙には、さう書きそへてあつた。遅すぎたんだ。勇気を出すのが。

 天と海とが接するあたりはのびやかな光に満たされて、ふた色の青をやはらかに分つてゐる。砂浜から望むその光景はなぜかなつかしい。

「空と海がまじわるところを海坂つていふんだつてね。船が水平線を越すと見えなくなつちやうから、坂があると思つたのかもしれないな。昔の人は」
「……」
「僕も、藤沢さんも、もう海坂を越してこつちからは帆影も見えなくなつた船なんだ。高校のころのことは─―」
「過去?」
「さう、ふりかえれば航跡の白い波は見えるけど、もう取返しはつかない」
「なんだか悲しい」

 僕とこの人が恋人どうしになれたかもしれない可能性。これがその答へなんだ。可能性は、可能性にすぎない。僕らは、さういふ未来も用意されてゐた過去のことを、すこし悲しく、すこし感傷的に、そして心からなつかしく振りかえればいい。

「ねえ」

 彼女が白い日傘をすこし傾けた。

「これからも、いい友だちでゐてね」
「もちろん」

 翻訳小説のやうな科白のやりとりをしながら、僕は隣に坐つてゐるのが聡明な女の子であることを幸せに思つた。文学少年の感慨(のやうな未練)をよく理解してくれているし、それが危くもたれてはならないものにもたれかかりさうになれば、やはらかにおしもどしてくれる。

「ひとひらの雲ゆきすぎぬ海坂に夏のひかりのしづかにながれ、か」
「牧水の歌?」
「僕の作つた歌」

 将来の大歌人と、寡黙ではなくなつた女子大生は晴れやかに笑ひあつた。遠くで、聞きおぼえのある声が二人を呼んでゐる。

「先生!」

 藤沢さんが立ちあがつた。お勤めは、終つたらしい。

 そのとき、海の輝きとともに、旅はすこしかたちを変へたやうだつた。


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