雪香楼箚記

花明り



                                                                          式子内親王
                                             はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば花にもの思ふ春ぞ経にける 





               1



 浩ちやん、とその人は僕を呼ぶ。 ――浩ちやん、今日はふたりでデートやで。澄んだその声を受話器の向うで耳にするだけで、僕は気押されたみたいになつてしまつて、ただ「うん」としか答へられない。

「六時に、飯田橋の〔五線譜〕つていふ喫茶店で待つててな。晩ご飯のお店はもう予約したあるから。いつしよにお祝ひしよ」

 かかつてきた電話はそれで切れた。けつきよく僕は「ぢやあ、夕方ね」と言つただけ。

 幸せな結婚を控へた年上の従姉と、二度目でやつと希望の大学へ合格した十九歳の少年。それはいかにも花のころに相応しい取合はせのやうに思へた。大学の手続は終つたし、予備校と受験勉強を言ひわけに、浪人のあひだ一度も帰省しなかつた神戸へは明日帰る予定。今晩は東京の春を満喫すればいい。

 朝からの雨は夕方になつても降りやまず、小さな喫茶店の硝子窓を濡らしてゐる。僕は二杯目の珈琲を口にしながら時計のほうへ眼を遣つた。六時半。何かあつたのかな? こんなに待たされるのなら、もういちど花束を買ひにゆけばよかつた。婚約のお祝ひにと、せつかく下宿の近くの花屋で作つてもらつたやつは、混んでゐた電車の網棚につい置きわすれてしまつたのだ。智ちやん(八つも離れた従姉のことを、そう呼ぶのが僕のくせ)の好きな黄色の薔薇とかすみ草の、あまり大きくない、けれども品よくすらりとした恰好の花束。花びらがシュー・クリームのカスタードのやうな色で、はかないくらゐつくりものめいた印象のその薔薇は、雨のなかをまるで恋人の腕のやうに、ふはりとやはらかく僕の手に抱かれてゐたのに……。

 さういへば写真のなかのあの人が抱いてたのも黄色い薔薇の花束―。ふとそんなことを思つたとき、扉のほうでからんと音がして、華やかな人影が目に入つた。すらつとした長身に、軽くウエーブした黒髪。いつか僕に「これしやれてると思はへん」と自慢してゐたあはい空色のスーツ姿で、雨傘の滴をきつてゐるのは智ちやんだつた。

「お待たせ」
「遅かつたね」
「これでも早いほうなんやけどなあ。急に依頼の来た先生がゐはつて、資料がどこにあるか判らへんていふから……」

 法律事務所の雇員は、紅茶といちごのタルトを注文すると、ふうと溜息をひとつつく。

「ふうん。疲れてない? だいじようぶ?」

 東京に来てからめつたに使はなくなつた僕の関西ことばがをかしかつたのか、九年もこつちに住みながらことばを改める気ぶりのまつたくない彼女は、くすつと笑つて僕の目を覗きこみながら言ふ。

「ありがと。優しい男はもてるで」
「どうかなあ。そんなにもてないよ」
「ほんま?」
「ほんとだつて」
「まあ、浩ちやんはおくてやさかいに」
「さう?」

 さうよ、と無理に標準語を使つて、やつぱりあかんなあ、浩ちやん器用やわ、とひとりごとを言ひながら、年上の従姉は水の入つたグラスを所在なげにもてあそぶ。色白な右手の人差し指に修正インキがすこしついてゐるのが、何かの判じものめいてゐた。

「優しうて、誠実で、相手をぜつたいに傷つけへんし……。女の子を幸せにできるタイプ」
「物足りない男、つて皮肉られてるみたい」
「あ、バレた?」
「ひどいなあ」
「ふふふ、うそうそ。ほめたうんよ」
「理想の結婚相手、つてやつ?」
「あ、さうかも。でも、そのかはり優柔不断で、いつでも傷つくのは自分。違ふ?」

 すこし照明が暗く感じられてきた店のなかで、ぼんやりと白くかがやく従姉の顔を見ながら、僕はひとりの少女を思ひ出してゐる。片想ひのまま卒業した高校の同級生のことを。

 神戸の大学の教育学部に進んで、この春には二年生(いや、二回生か)になるはずのその子は、智ちやんのやうに華やかな印象ではないにしても申し分のない美人だつたが、なぜかおなじ絃楽部にゐた僕とは変に気が合つて、ひどく不器用なバイオリン奏者のことをいつも助けてくれた。彼女自身もバイオリンの担当だつたけれども、部活のあひまに音楽室で弾いてゐたピアノと、趣味だといつてときをり楽譜を見せてくれた作曲のことを思へば、音楽に対する熱意も、技術も、僕とは比べものになどならないことは解りきつてゐたから、それがかへつてよかつたのかもしれない。僕は夢中になつてゐた詩と小説の話をし(そのころはどこかの大学の仏文科にゆきたかつた)、彼女はモーツアルトやアシュケナージや、将来は小学校の音楽の先生になりたいといふ夢を話して、それでけつこう平仄があつてゐたのだ。本やCDを交換したり、いつしよに映画を見にいつて、気が向くと喫茶店に入つたり、まるで藝のない小説に出てくる恋人どうしみたいね、とふたりでをかしがるやうな関係の女友達……。

 僕はいつか、彼女のことを好きになつてゐた。胸に迫るやうな切なさを抱いてしか彼女の顔を見られないやうになつてゐた。初めて、この人のことを愛したいといふ気持を持つた。

 あれは、やはり恋だつたのだらうか?

「え~、それはどうだろ」

 軽くかへすつもりだつたのに、声が妙にしめつてゐる。

「ぢや、実は神戸で泣いてる子がゐてたりしてね。『成瀬くん、ひどいわ……』つて」
「案外さうかもよ」
「え~、イメージ壊れるからやめてえ」

 彼女にとつては、僕は永遠にむかしの「浩ちやん」のまま、かはいらしい年下の従弟で、いつまでも「智ちやんのおうちの近くまで来たけど道が解らへん」と泣きながら電話をかけてきたり(これは八つのとき)、「智ちやんの弟になる」と駄々をこねたり(これは六つのとき)しなくてはならないらしい。なるほどイメージを守るのも簡単ぢやないね、とひとしきり笑つてから、やつと来た紅茶に砂糖を入れてゐた智ちやんがだしぬけに言つた。

「あたし、浩ちやんの秘密知つたうんよ」
「え、なに?」
「気がついてないやろけど、浩ちやんてふだん二重やのに、瞼が腫れると一重になるんやで。寝が足りへんときとか、泣いたあととか」
「あ、さうなんだ。気がつかなかつた」
「今も」
「へ?」
「一重瞼になつたう」

 慌てて、今朝は泣いたりしなかつたよな、と記憶を探りながら瞼に手をやると、まるで剣道部の主将だつた学生時代の勘が戻つたみたいに、いい呼吸でとどめをさした。「だれのせいで寝不足なん、泣き虫浩ちやん?」。



         2



 あれは、やはり恋だつたのだらうか?

 けつきよくなにも言はないまま、僕たちは高校を卒業した。お互ひにとてもいい友達だつたけれど、笑顔で「ぢや、またそのうちにね」つて別れるやうな関係でしかなくて、彼女は最後まで早咲きの桜の下で微笑んでゐた。風がふいて梢がかすかに揺れるたびに、白い花がほのかに光の下でひるがへり、夢覚めのまぼろしのやうに明滅する。花ににほふやうな影があつた。

 あれは、きつと恋なんかぢやなかつたんだ。

 はつきりさう思つたとき、わきあがるやうにして愛しいといふ感情にとらはれた。押さへてゐた心のうちが静かに乱れてゆくのがありありと感ぜられて、僕はうろたへる。そんな気持、あの人には迷惑なだけなんぢやないのか? 好きとか、愛しいとか、それだけぢやどうしやうもないことだつてあるんだ……。

 そのとき、そんなふうにむりな理窟で自分を納得させてまで、僕の心に歯止めをかけさせたのが、実際にはなんであつたのかよく解らない。単に臆病で、袖にされるのが怖かつただけなのかもしれないし、あるいは、彼女が大学生で自分は浪人といふ現実的な問題のせいだつたかもしれなかつた(もつとも浪人などといふ話は、高校三年の夏に医学部へ志望を変えたとき、ほとんど確定してゐたやうなものだつたが)。ただ確かなのは、そのとき僕が、追へばまだ間にあふはずのなにかを追はうとはしなかつたといふこと。そしてそのことが、いまだ去りあへずに、愚かな男をとらへつづけてゐることは間違ひない。

「高校の子?」

 心なしか、さう尋ねる声まですこしくぐもつて聞へた。窓をつたふ雨の滴が、テーブルクロスの上に輪郭のぼやけた影を落してゐる。

「藤沢さん、つていふんだけど、たぶん会つたことあるよ」
「あの、部活でいつしよやいふてた子?」
「覚えてた?」
「えつと、おとどしやつたつけ、絃楽部? の全国大会で東京に来たとき……」
「さう。いつしよに智ちやんちに遊びにいつたのが藤沢さん」
「バイオリン聞かせてくれたから」
「あ、それで」
「ふふふ、あの子かあ。たしかに浩ちやんのタイプやな」
「さう?」
「ひかへ目で、芯がつよさうな、髪の長い子。全部あてはまつたうやん」
「うん。それに美人」
「かはいらしい感じのね」
「性格だつて、やさしい人で……」
「ますますぴつたり」
「割と人気あつたんだ、クラスで」
「で、浩ちやんはかはいい恋人を残したまま東京へ来て?」
「とんでもない」
「ちがふ?」
「片想ひだつたんだ、最後まで」
「告白、せえへんかつたの? 卒業式とか」
「……」
「あ、さうか。それどころやなかつた」

 うん、できなかつた。さう答へたけれど、ほんとうはさうぢやない。あのとき、僕は逃げたんだ。

 受験のことで頭がいつぱいだつたのも事実だし、今までの関係を壊してしまふことに臆病になつてゐたのも嘘ではないけれど、あのときの僕はそれ以上に、自分が抱いていた気持を彼女に否定されるのが怖かつた。何度心のなかで打消してみても、僕が抱いてゐたのはやはり思慕の念にほかならなくて、しかし、彼女がもしそれを受入れられないといふのなら、かうして片想ひに思ふことさへ許されなくなつてしまふ……。気持がつよまればつよまるほど、さうした不安はふくれあがつてゆく。僕には、彼女の態度が好意なのか愛情なのかを判断するだけの経験もなかつたし、自分が特別だといふ自信も持てなかつた。

「せやけど忘れられへん?」
「あきらめた、つていふと嘘になるけど……」
「けど?」
「でも、ダメなんだ。あきらめなくちや」
「……?」
「しつかり振られたから」

 店の中に流れてゐた音楽がやみ、ややして別な曲がかかる。ゆるやかな絃の響きはモーツアルトの協奏曲だつた。いつかあの人がその名の由来を教へてくれた作曲家、神の愛でたる者が奏でるのは優美なる愛の声。旋律はあくまで甘く僕らを襲ひ、沈黙をあざやかに彩りながら、終らない過去をよびさます。

「手紙をね、書いたんだ」
「いつ?」
「二週間くらゐまへ。合格が決つてから」
「告白、したん?」
「うん」
「さう。それで……」
「振られた。はつきり」



         3



「さう……。つらい?」
「うん」
「ごめん、あたりまへやな」
「でもね、つらいつていふより、情けなくなるんだ。自分が」
「どうして? だつて……」
「返事、手紙でもらつた」
「つきあへない、つて?」
「うん。それ読んだら、なんか……」
「ひどいこと書いとつた?」
「ううん」
「いい加減な手紙やつたとか?」
「そんなことない。便箋も、字もちやんとしてたし、文章も丁寧だつた」
「……」
「ほんとにやさしい手紙だつたんだ。振つた本人がこつちのことなぐさめてくれてて」
「だからよけいに……」
「さう。それで、自分でもよくわからなくなつちやふ」
「わからへんつて?」
「自分の気持が」
「……?」
「最初に手紙を読んだときは、自分でも、これであきらめがついたつて、いや、今はむりでも、いつかつくだらうつて思つたんだ。僕はこの人のことが好きで、彼女だつてそれを別に迷惑だなんて思つてない。きちんと『嬉しいけど』つて書いてくれてある。だから……、いつか忘れられるまで、ゆつくり自分の気持とつきあひながら、ゐればいいつて」
「うん」
「でも……」
「でも、なに?」
「……」
「どうしたん。なんでも言ふてみ」

 こんなこと言つてしまつていいのかな、といふ心と、せめて智ちやんだけには体面をつくろふのはやめたい、といふ心が、胸のうちでややこしくせめぎあつてゐた。それを察したのか、相手は年上らしく軽く微笑んで、むりに聞き出さうとは思はないけど、といふ様子を作つて待つてゐる。

「え?」
「しやしん、がね……」
「写真がどうしたん?」
「手紙といつしよに入つてたんだ」
「もしかして、それ」
「恋人と撮つた写真」
「ぢや、振られたて……」
「好きな人がゐるから、つて」
「せやけど、わざわざそんなん……」

 口調は遠慮がちに、目は歴然と、相手のやり方を非難してゐるのが判つた。しかしそれは、僕には慰めといふよりも、ふたたび悲しみをよびさますものとしか感ぜられない。

「ほら、バイオリンもさうだけど、ピアノも上手な人だつたでしよ」
「うん」
「だから、きつと発表会かなんかのあとに写したんだらうね。うすい桜色のドレスで、黄色い薔薇の花束を抱へて、ちよつと澄ました感じで笑つてて、隣に……」
「新しい恋人?」
「新しい、つていふか、僕とつきあつてたわけぢやないから。野崎つていつてね、同級生なんだ。高校の」

 写真のなかで静かに微笑む白い顔を見たとき、僕が最初に気づいたのは、自分が彼女を憎んでゐるといふ事実だつた。悲しいのでも、愛しいのでもなくて、僕は彼女を憎んでゐた。

 理由もなしに、裏切られたといふ思ひにとりつかれてゐた。軽薄で、偽善的で、お上品ぶつてゐるくせに本心ではスノビズム丸出しの人なんだと、無意識のうちに彼女を貶めてゐた。手紙のやさしい文章は表面上のことで、ほんとうは僕を嘲笑つてゐるんだらうと……。

 なにかを思ひ出したやうに絃が高まり、ピアノが何度目かの主題を弾く。

「浩ちやん……」
「ねえ、人を好きになるつて、どういふことなのかな」
「え?」
「僕はあの人のことを、好きだつた。好きなつもりだつたんだ」
「うん」
「でも、あの写真を見たとき、僕がどう感じたんだと思ふ?」
「……」
「憎い、と思つたんだ。好きだつたはずの人のことを」
「でも、それは……」
「だから、自信が持てなくなつた。自分がこの人を好きだ、つていふ気持が、わからなくなつちやつた」

 さうした暗い感情のはたらきは、むろん無意識のうちのことだつたにちがひない。僕の心はあまりに深く傷つきすぎてゐて、そんなふうにあの人のことを憎みでもしなければ精神の平静さへ保てなかつた、さうやつて無意識のうちに、自分の壊れさうな心を護らうとしてゐた。そんないひわけも成りたつだらう。

 けれども、心のどこかで彼女のことを憎み、貶めようとしたのも嘘ではなかつた。むしろ、意識の及ばない感情の面で、さうした心のうごきがあつたことが、僕をひどく落ちこませたといつていい。かつて狂つてしまひさうになるまでに思ひつづけてゐたはずの彼女を、感情の面でも、あるいは理性の面でも、あきらかに思慕の情だと認めうる思ひを抱いてゐたはずの彼女を、憎んでゐる? 僕が? だれよりも愛しく、好きだと思つたはずのあの人のことを、無意識のうちでなりと「軽薄で、偽善的で、お上品ぶつてゐるくせに本心ではスノビズム丸出しの人」と貶めた? たかだか彼女が、僕の気持を受入れることはできない、といつたくらゐで?

 それは、彼女のやさしさや美しさを侮辱したといふ以上に、自己に対する侮辱だつた。あれほど純粋な感情の対象であつたはずの人を、ほとんど勝手な思ひこみといつていい理由で憎むことは、そのまま自分が抱いていたはずの感情をも貶めることではないのか? かつて、相手に否定されるのが怖くて、打ちあけるのをためらひつづけたほど、大切だつたはずの感情を、僕は自分の手で否定したのにほかならない。否定し、憎み、貶め、侮辱した。自らを。そして、彼女を。そんな人間が抱いてゐた感情を、恋などと呼んでいいのだらうか?

 情けないよ、と、ぽつりと呟いた。自分が自分でゆるせなかつた。



          4



 それから僕たちは、何かを忘れようとするみたいにいろんな話をした。まづ神戸の桜はもう咲いてゐるだらうかといふあてのない予想、次にあの港町で花を見るならどこがいいかといふ批評と、まだ小さいころ家族で見にいつた須磨の桜の思ひ出。「あれはものすごく綺麗だつた。華やかで、淋しくて、見てるだけで心がしめつけられるやうで」と僕が感想を口にすると、自分の故郷をむやみに褒められた智ちやんは、すこし照れたみたいに「さう? でも、海際の桜つていふのもめづらしいしな」と謙遜とも自慢ともつかないやうなことをいふ。話題は神戸の西はづれの街から『源氏物語』へ、そして小説一般へととりとめもなくひろがり、彼女はアメリカとイギリスの探偵小説を一冊づつ、僕は恋愛ものを二冊(日本とドイツの著者)と大きな賞を取つたフランス詩の批評を一つ、おたがひに勧めあつた。そしてCDを勧められないのは忙しくてあまり新しいものを聴いてないから、といふところから仕事と結婚の準備の話が出て、改めてお祝ひをいふと、向うも今度はあまり照れずに「ありがたう」と真顔で応へる。

「お祝ひに花束を買つたんだ」
「もう、そんなんええのに」
「それがね、来るときに、網棚に載せといたら、そのまま降りるときに忘れちやつて」
「ほんまあ? 残念」
「せつかく二千円もしたんだから、いちおう報告くらゐはしとかなきやね」
「手ぶらで祝ひにきたんぢやないぞ、つて?」
「さう。この心を受取つて下さい、つて」
「ふふふ、調子ええなあ」

 ここでふたたび華やかに笑ひあつふと、なにかふんぎりがついたやうになつて、僕たちはどちらからともなく、

「そろそろ行こか」
「うん」

 と、低い声でささきあつた。

 宵闇のなかにこまかく降りこめる雨が、アスファルトの路面をひそやかに濡らしてゆく。道はゆるやかに下り坂になつて、両側の花の梢には音もなく風が宿つてゐた。「浩ちやん、相合傘しよ」。すこしかすれたやうな声でさう言ふと、彼女は僕の肩をぐつと引きよせて腕をからませる。髪の香り、服の手ざはり、肌のあたたかさ……。

「慰めてほしい?」

 遠くににぢむともしびを見つめながら、不意に智ちやんが訊ねる。

「え?」
「だつて、浩ちやん、ほんとにつらさうやし……。それに、傷ついてるから」
「傷ついてるんぢやないよ、僕は……」
「傷つけられたんやなくて、自分で自分の気持を傷つけた、つて、さう言ひたいん?」
「だから、慰めてなんかもらへない。自分のために泣くのは、ただの感傷だから」
「でも……」
「でも?」
「浩ちやんは今、心が壊れさうになつてる。傷ついてるにしても、傷つけられたにしても」

 風が雨つぶを運んで、すこし顔を濡らした。

「……うん。さうかも、しれない」
「それやつたら、やつぱり心をどつかへ逃してあげな」
「逃げたくないんだ、情けない自分から」
「さうやつて、傷ついた自分をずつと悲しんでるつもり?」
「……」
「逃げることとはちがふんやで、泣くのは」



          5



 逃げることとはちがふんやで、泣くのは。泣くのは、今ここで心が壊れさうになつてゐることを自分自身に教へてあげるため。心で感じてゐる涙を、意識のなかに伝へてあげるため……。

「ほら、えーつと、フロイト?」
「え?」
「世界は、そこにあるだけでは存在したことにならない、つて」
「ソシュール。ものを名づけることによつて言葉で意識化したときに、世界ははじめて存在しはじめる、つてやつね」
「それといつしよ。心が壊れてることも、泣いてあげへんと、ほんとうには解らない」
「勝手な理窟」

 と思はず僕が笑ふと、智ちやんがすこしふくれてやりかへす。

「せやけど、これ、浩ちやんが言ふたんやで」
「うそ~」
「嘘やないつて。去年の今ごろ、大学落つこちてこつちに来たとき」
「そんなこと言つたかなあ」
「言うたやない。せやから、どうしてもお医者さんになりたいんや、て」
「……?」
「医者に治せへん病気はいつぱいある。でも、診断することはできる。病気の人に『あなたは病気です』つて教へてあげられる……」

 僕は、病ひを単なる健康状態の欠損、あるいは恢復を待つべき危機の状況だとは考へたくなかつた。それならば、医者といふ仕事はあまりにも無力でありすぎる。この世にはまだ医療の追ひつかない病気がいくらでもあるし、それに、そもそも医療といふ行為は患者が恢復するのを支へることしかできない。医者が治すのではなく、患者が治るのだ。だとすれば、なんとむなしい行為であらうか。

 病ひは一種の擬似的な死である(と、これはひところ夢中になつてゐたフランス詩の、コンテクストを無視した引用)、と僕は思ひたかつた。「死」であればこそ、そこを経て恢復に向ふとき、人はもとの状態を取りもどすだけではなく、生に対しての態度を以前にもまして深めることが可能になる。ちようどヘミングウェーのいくつかの短篇が、敢へて挑戦的に「死」と対面することで自らの生を強烈に意識し、深めてゆくといふ趣向において構成されてゐるやうに、病ひの状況もまた、それを意識化することによつて生の深りといふ恢復を得るはず。だから人間にとつての病ひは、危機の状況でありつつ、同時にそこを乗りこえたときの深りを予測させる希望であらねばならない。さうであればこそ、僕たちは恢復のあとに生の充実を感じとるのだし、たとへそれが実際の死といふかたちで訪れたとしても、人はしつかりと死ねるのではないか。さう、たとへば、長い闘病生活の後、二年前の春先に亡くなつて、僕に医学部へ進む道を採らせることになつた祖母のやうに。

 もしかうした考へ方が正しいとすれば、医者は、危機と希望を兼ねたものとしての病ひにある人のために、恢復への準備をおこなふべき職業ではないのか。そしてそのためには、まづなによりも患者である人々に対して、彼らがおかれてゐる状況を理解し、実感するための手助けをせねばならない。さうやつて、自分が危機に直面してゐるのを明確に意識することこそ、恢復への第一歩なのだから。

「思ひ出した?」
「うん。なんとなく」
「だから、お医者さんは病気の人といつしよに泣いてあげんとあかん、つて」
「……」
「さうやつて、心や体が壊れてゐることを改めて相手に伝へてあげれるから」
「それが、ほんとうの意味で慰めるつていふことで……」
「かつ、恢復といふ名の深化にほかならない」

と、相手が自分の文章の癖を大いに真似て見栄をきつたところで、傷心の男はこのいかにも文学的な医学論が、長口舌をふるつただけでは満足できずにわざわざ手紙に書いて相手のもとに送つたものであつたことをやつと思ひ出した。どうも、人生のいたるところで恥の多い手紙を書きつづけてゐる男ではある。

「だから泣け、つて?」
「さういふわけでもないけど、でも、泣いたら? ついでやから」
「ついで、つて」

 思はず笑ひさうになると、

「せやかてさうでも言わんと、浩ちやん、ずつとひとりでメソメソしてるだけなんやもん」

 と、これはもう仕掛けのバレてしまつた手品師のやうなやさしい表情で、智ちやんがいふ。かすかに微笑んだ顔が暗がりの花の下でぼんやりと白く輝いてゐた。

「優柔不断で、いつでも傷つくのは自分……」
「当つてるやろ?」
「うん。当つてる」
「……」
「……」
「どう? つらい?」

 雨の音が夜のなかに消えた。

「……つらい。つらいよ」

 つらくて、悲しくて、泣きたくて、傷ついてて、僕の心は壊れさうなんだ。僕は、あの人に振られて、自分で自分の恋心を踏みにぢつて、今、ここで、心が壊れさうなんだ。

 感傷でもなんでもなく、僕が味つてゐるのはやはり悲嘆とでもしか呼びやうのない感情だつた。あの人のせいで、自分のせいで、といふのはただの無意味な区別に過ぎず、涙は心が欲してゐるのだ。理由もなく泣きたくなるほどに、悲嘆は深く僕のすべてを覆ひ、心がなにも感ぜられるないほどに、壊れかかつてゐる。欠損、危機、あるいは「死」としての病ひ。しかし、それらはいつか、もつと明いものへと転ずるはず……。

 だから、僕はもう、そこから恢復しなくてはならない。

 泣いてええよ、といふ声が意識と無意識とのあはひで遠く響き、僕はかすかに涙を流してゐる自分に気がついた。

「肩、貸そか?」
「いいよ。だいじようぶ」
「ええから」

 さういふと、智ちやんがそつと僕の頭を抱きよせた。香水も、化粧もしてゐるはずなのに、肩のあたりは昔と変らない匂ひがする。香りにつつまれて、酔つたやうに自分のなかのなにかが遠のいてゆく。

 行き先を失つた恋心の幻影が、傘のなかのふたりをとらへてゆく。それは、ひとたびはあの人によつて否定され、ひとたびは僕自身によつて否定されたはずの感情だつた。

 かつて僕は、さうした感情は消えさつてしまふしかないものだと思つてゐた。相手も、自分も、否定してしまへば、それは存在しなくなるはずだ、と。けれどもそれは愚かな思ひこみに過ぎず、あの甘美な感情はたしかに今ここにある。ここにあつて、まだゆくりなく僕の心のうちを離れない。さう、まるで、僕の手からも、智ちやんの手からもはぐれてしまつたのに、まだあの地下鉄の網棚のうへで遥けき旅を続けてゐる、あの花束のやうに。

 泣いてええよ、泣いてええよ……。言ひきかせるやうに繰りかえされる言葉のなかで目をあげると、街灯にぼんやりと照らされた桜の梢が視界のうちにやはらかくにぢんでゐた。

 暖くゆらめくその光を感じながら、これもまた花明りとでも呼ぶべきものだらうか、と思ふ僕は、まだ智ちやんの目を見られない。


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