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雪香楼箚記
桜のうた(8)
†
(02春下0113)
藤原家隆
このほどは知るも知らぬもたまぼこのゆき交ふ袖は花の香ぞする
このごろは、知っている人も知らない人も、道を行きかう人の袖はみな花の香りがすることだ。(たまぼこの、は道の枕詞。)
ことさらに主張する類の歌ではありませんが、感覚の繊細さに忘れがたいものがあります。桜のころのさんざめくようなふしぎな気持、季節をめぐって知る人も、知らない人も、みなひとつにつながっているというやわらかな心が歌のなかにあって、「袖は花の香ぞする」は地味な詠みくちですが幽艶な趣をたたえています。
山辺赤人
1) ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ
にはいかにも万葉ぶり、古今ぶりのあかるいしたしさがありましたが、この家隆の歌は、それよりもほそみを帯びた歌びとの叙情を持っています。知るも知らぬも、にただようひとかけらの屈折。赤人は春の日ざしのもとに人を隔てるものを知りませんでしたが、家隆はそれを知っています。知っていて、しかし桜はそれをさえ無意味にする、と信じている。それが「知るも知らぬも」なのです。陽光ではなく、かげろう日のいろに似合う桜。家隆の不安がいったい何であるのか、我々はそれを具体的に知ることはできません。ただ、この歌のなかには一抹の憂いがある。――「このほど」をめぐる風雅の一体感のなかに、人をしてものを思わしめる深々とした色がほのにおいます。
†
(02春下0116)
能因
山里の春の夕暮来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける
山里の春の夕暮れに来あわせてみると、入相の鐘に花が散っていることだ。(入相の鐘は日没につく鐘のこと。)
しらべの歌です。ことに上の句の、構えのおおきな言葉のひびきあい、うつりあいが美しい。説明にすぎない句ですが、その説明にすぎない句を読みくだすだけでふと心のなかに暮春の夕暮れがにおってくるのは、ひとえにこの歌にあるしらべの美しさによるものです。山里の、で場所、春の夕暮れ、で時、来てみれば、で主体、を描写しているわけですが、これはむしろ、説明や描写というよりも、歌の雰囲気を言葉のなかにとじこめる工夫だと言っていいでしょう。春の夕暮れ来てみれば、というのは、いかにも大まかで大ぶりな描写ですが、それがかえって悠然とこせつなかい心を織りなしていて、春の気配にみごとに相当している。言葉のはしばしに、「意味」以上に、こころや情がじわりとにじんでいるのがよくわかります。言葉が持つのは決して意味だけではありません。そのひびきやすがたのなかに、意味以上のこころ、情、雰囲気といったものが含まれている。それが歌のしらべになるのです。
――それから言えば下の句がいかにも不出来です。入相の鐘ニ、という助詞の使い方、散りケルという留めにぎこちなさが残るあたり、どうもおもしろくない。入相の鐘を無理に歌のなかに詠みこもうとしたせいだと思うのですが、さすがに花の歌ではあまりなじみのない題材だけにややこなれがわるいようです。なお、夕暮れの花は鎌倉中期以降に流行した歌題で、
永福門院
2) 夕づく日軒端の影はうつり消えて花のうへにぞしばし残れる
といった佳品がありますが、新古今集ではこれ一首のみ。むしろ能因の進取の気を偉とするべきか。
能因は平安中期の歌僧。漢詩や隠棲趣味、田園趣味に取材した歌を好んで詠み、王朝末の歌風の転換を準備した歌人の一人です。
(02春下0118)
康資王母
山桜花の下風吹きにけり木のもとごとの雪のむら消え
山桜の花の下を風が吹くと、散りしいた花でひと木ごとに消えのこる雪ができることだ。
なによりもイメージの清新な美しさが心に残ります。花の下風という言い方も艶麗で、しかも新鮮な感覚があっていい。描写は一度上の句で切断されます。まず落花の風景。そして、画面は花の雪へと切りかわる。切断されたカットとカットのあいだに、幻想のような叙情がくっきりと浮かびあがり、人のこころをやわらかに締めつける。「木のもとごとの雪のむら消え」というのはなんということもない句ですが、そのなんということもない句の使い方がこの歌人はうまいのです。凡庸な画が、花の下風とむすびつけられてまったく新たな美しさを持つ。二つの風景が重ねあわされ、詩を生む瞬間。――映画の手法をよく心得ている。
康資王母(やすすけおうのはは)は平安後期の女流歌人。
(02春下0120)
源重之
かりがねの帰る羽風やさそふらん過ぎゆく峰の花も残らぬ
雁の帰ってゆく羽ばたきの風が誘うのだろうか、飛びすぎてゆく峰の花が残らず散ることだ。
理屈というほどのこともない理屈の歌ですが、どことなくのんびりした詠みくちがおもしろい。雁が帰る、というのは越冬を終えた鳥が北帰する春の景物。和歌にはよく出てきます。――さそふらん、という人ごとのような推察が、花を惜しんでいるのか、落花の風情を愛でているのか、ともかくもこせつかずに目の前の春景色をながめる気配が出ていて、だからこそ一首にあわい哀しみのような余韻をただよわせることになるのでしょう。花モ残らぬ、とする歌びとの心は、雁も去り、花も去り、それを哀しみ、また愛でる複雑な心を経て、のびやかな哀しみの色へとつながっています。
源重之は平安中期の人。奇抜な歌風で能因に先立つような存在ですが、ことに新古今集において再評価された歌人です。
(02春下0122)
源経信
山深み杉の群立ち見えぬまでに尾の上の風に花の散るかな
山が深いので峰から吹きおろす風もつよく、杉木立が見えなくなるまで花の散ることだ。
歌としては
宮内卿
3) 逢坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら
のほうが新古今ぶりで美しい作ですが、山深みの一句で、経信の作は杉の緑がより濃くにおい立ちます。花のいろよりもそちらの印象が心に深く残る。緑いろのクレヨンで塗った画面の色彩が暗くかがやいています。「逢坂や」の緑は水彩でしょう……。したがって叙述も艶麗というよりは、白と緑の対照がじつに剛直な、ざくりとした手ざわりを生んでいます。樫の木でもたたき割ったような、豪放で素朴な存在感。宮内卿のたおやめぶりに対する、ますらおぶりの歌と言うことができましょう。
†
(02春下0135)
後鳥羽院
今日だにも庭をさかりとうつる花消えずはありとも雪かとも見よ
落花のさかりと言わんばかりに庭に散る花をあなたに贈るので、明日どころか今日であっても、また、消えずに残っていたとしても、(業平の歌のように)雪だと御覧になってください。
本歌の
在原業平
4) 今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや
がないとやや意味がわかりにくい作ですが、この歌の前にある定家の
藤原定家
5) 桜色の庭の春風跡もなし訪はばぞ人の雪とだに見ん
のように、本歌の世界が一首の性格に深く根ざしているというわけではなく、「今日見なければ明日には雪となる花」という趣向を、ただ趣向として借りてきた歌です。その分、艶麗ではありますが、いささか味がうすいということは言えましょう。
詞書きに「ひととせ、忍びて大内の花見にまかりて侍りしに、庭に散りて侍りし花を硯のふたに入れて、摂政のもとに遣はし侍りし」(註6)とあります。摂政とは、後鳥羽院とともに新古今歌人たちのパトロンであった藤原良経のこと。花見の席にいなかった友のために、せめて花びらだけでも、と詠んだ歌なのです。良経からの返歌はまた紹介致しますが、この歌がややうす味であるのはおそらくそこのところに理由があるのだと思います。とっさの作であり、また、相手の心を誘うための見舞いの歌でありますから、あまり立入りすぎない瀟洒な社交の感覚が必要になる。そのために歌の腰がやや引けているのです。俊成に
後鳥羽院
7) 桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
という挨拶の歌の傑作を贈った人ではありますが、あれはやはり特別な例外であると考えるべきでしょう。
消えずはありとも、というのがこの歌のえくぼです。桜の花が消えるはずがない。それが、雪だと見立てるから、もし消えることもあろうか、と戯れてみせる。そこにあるのは、歌を贈られた相手に対する後鳥羽院の語らいであり、心づかいにほかなりません。あなたがここにいないのがなんとも気づかわれるのです。どうかこれを御覧になってください……。その冗談めかした心づかいのなかに、やわらかな愛嬌があるのです。華やかで、艶っぽくて、瀟洒な愛嬌が。
(02春下0136)
藤原良経
さそはれぬ人のためとや残りけん明日よりさきの花の白雪
わたしのようにお誘いのなかった者のために残っていてくれたのでしょうか。(業平の歌のように)「明日」を待たずに白雪となってしまった、この桜の花は。
前歌に対する良経の返歌。さそはれぬ人のためとや、は花の心づくしに挨拶する心ですが、それと同時に後鳥羽院への挨拶でもあります。それをうちつけに歌のおもてに出さず、花への思いに託すこともまた、社交というもののこころ。明日よりさきの花の白雪、がいかにも美しい言葉です。時間のなかにただよう桜の花のイメージが歌のこころをより深く染めあげるはたらきをしています。
(02春下0137)
式子内親王
八重にほふ軒端の桜うつろひぬ風よりさきに訪ふ人もがな
八重に咲きほこる軒ちかくの桜もさかりを過ぎてしまいました。風が花を散らしに来るよりも前に尋ねてくる人はいないものでしょうか。
いかにも式子内親王らしい哀艶なこころの歌です。風よりさきに、という花のさかりを過ぎた嘆きにつつましく、哀切なひびきがあって、とりかえしのつかない過去を思う心が美しい。相手に対する恨みごとというよりも、述懐に似たやさしいさみしさが歌のなかにあるのは、訪ふ人もがな、と言いながらも、深沈とみずからのうちに問いかけてゆくこの歌の風情によるものでしょう。軒端の桜うつろひぬ、というあたりに、もうとりかえしのつかない過去になってしまったのだ、というあきらめが色濃くにおいます。ヌはもと去ヌから出た助動詞で、主体の意志の外部にあって、うつろってゆくこと、うつろってしまってもうとりもどせないこと、を言うための言葉です。みずからの外側にあってすべてが過ぎさってしまったことを思う心があるからこそ、歌は他者に対する恨みごとにはならず、自省の思いへと沈んでゆくのですが、それは同時に、うつろう世のながれに抗するすべを知らないひとりの女性の肖像でもあります。
式子内親王の歌にはいつもそうした風情が離れない。どこかさびしげで、ふしあわせな、泣きぬれた瞳がよく似合う女のひと……。たしかにその実人生においても決して女性としての幸福を手にした人であったとは言えない歌人なのですが、しかし歌のなかにある彼女の風貌は実人生以上にはかなくあわれです。歌に対するとき、内親王の心に去来していたのはいったいどのような想いだったのか、今はただ想像するほかはありませんが、おそらく彼女の心のなかで結晶化されてゆく「現実」の純度は、その哀しみの部分においてほかの歌びとよりはるかにまさっていたのでしょう。ただ、内親王は世のながれに抗するすべを知らぬさびしげな女性ではありましたが、決してよわい人ではありませんでした。そのことは、うつろひヌ、という外界への切りつけるようにはげしい認識と、その認識をみずからのうちにひきうけようとする覚悟のなかにあらわれています。現実に抗するすべを知らなくとも、彼女は現実から逃げるよわさなどは持たぬ人でした。あるいは、すくなくともそうしたよわさとは無縁のところに彼女の歌はあります。だからこそ、歌のなかに深い内省があらわれるのです。
訪ふ人もがな、とは、訪う人がいればなあ、という願望ですが、それが、軒端の桜うつろひヌ、という現実の認識と重なるとき、願望は内省へと昇華してゆきます。ああ、だれ一人としてここには尋ねてこない、という慨嘆の思いが、しずかに胸のうちにひろがってゆく。しかし、それは決して感傷にはならない。感傷の甘みにひたるには、歌びとはあまりに苛烈なまなざしを持っています。現実の苦しみのなかで、その苦しみに正対しようとする心が、感傷よりもむしろ深沈とした内省を歌のなかに呼ぶ。啄木は歌を「悲しき玩具」と呼びました。おそらく内親王にもその思いはあてはまるでしょう。しかし、彼女はその玩具に歌人として甘えるよわさを持たなかった。啄木が感傷のなかに溺死する覚悟を決めたように、彼女は「悲しき玩具」によって現実の苦しみをひきうけようとする覚悟を決めてしまっているのです。それがあるからこそ、この歌の凛然として清らかな、さみしい風情が生きてくる。
†
(02春下0140)
藤原俊成女
恨みずや憂き世を花のいとひつつさそふ風あらばと思ひけるをば
ああ、恨めしいことだ。このつらい世のなかをむなしく思って、誘う風さえあれば散ってしまおうと、花までも思っているというのは。
哀しみというのはゆきつくとここまでくるものなのでしょうか。花の哀しみ、それを見る人のかなしみ。水が溢れてくるように、心のなかにしみとおるようなつよさのある歌です。しらべがととのっているとは決して言われないけれど、ことに「恨みずや」の一語、情感は深い。ヤは反語(~であろうか、いや~ではないはずだ)の助詞ですが、その淵源は、古代の歌謡に用いられた囃子ことば。感動詞の一種です。この歌についてはその心を見るべきでしょう。――こんなにつらいことばかり多い世の中で、あなたまでがいなくなってしまったら、わたしはどうすればいいんでしょうと語りかける歌人の思いは、そのまま花と自分だけが、この世のつらさ、苦しさを分かち持っているという哀しみです。人は哀しみながら生きてゆかなくてはならない、という、哀婉なこころ。
【引用歌註】
1) 桜のうた(3)参照。
2) 夕暮れの光に軒端の影はうつろいながらうすらぎ、花のうえにしばし残って消えてゆく。永福門院は鎌倉中期の女流歌人。
3) 桜のうた(4)参照。
4) 今日来なければ、明日には雪となって散りさってしまうことでしょう。消えずに残っていたとしても、どうしてそんなものを花であると思うことができましょうか。
5) 桜のうた(6)参照。
6) ある年、忍んで内裏の花を見にまいりましたおりに、庭に散っておりました花を硯のふたに入れて、摂政のもとに遣わしましたときの歌。硯のふた、は硯箱の蓋のことで、平安びとは盆などの代りによく用いた。
7) 桜のうた(1)参照。
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