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第1話 誰を参考にすればいいんですか?「先輩って、誰を参考にすればいいんですか?」新人が、待機所で唐突に聞いた。秋雄はスマホから顔を上げた。「誰って?」「この会社、いろんな先輩いるじゃないですか」「いるね」「営業が上手い人もいるし、地理に詳しい人もいるし、面倒見のいい人もいる」「うん」新人は少し声を落とした。「でも、正直……癖が強い人もいますよね」秋雄が笑った。「それもいるね」「だから、誰をお手本にすればいいのかなって」秋雄は少し考えてから言った。「全部参考にすればいいよ」新人が目を丸くした。「全部?」「うん」「いやいや、全部は危なくないですか?」「だから、全部真似しろとは言ってない」新人は首をかしげた。「じゃあ、どういう意味です?」秋雄は営業所の方へ目を向けた。何人かの運転手が、それぞれ好きなことを話している。「この会社にさ」秋雄が言った。「何から何まで真似したくなるような人、いる?」新人も営業所を見た。少し考えてから、「……いないですね」「だろ?」新人が笑った。「先輩、身も蓋もないですね」「でも、逆にさ」秋雄は続けた。「何も参考にならない人ばっかりか?」新人はまた少し考えた。「それも違いますね」「だろ?」「じゃあ……」新人が秋雄を見る。「どこを参考にして、どこを真似しないかってことですか?」秋雄は笑った。「そこから先が、この会社の歩き方だよ」「簡単に見分けられます?」「簡単だったら、みんな苦労しないよ」新人はもう一度、営業所の中を見た。さっきまでただの先輩だった人たちが、少し違って見えた。つづく明日10:00に更新
2026年09月07日
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第5話 会社の中にも、地図がある「会社の中にも、地図があるって何ですか?」新人が聞いた。秋雄は少し考えた。「そのままだよ」「道路地図みたいな?」「そこまで分かりやすくないけどな」新人は首をかしげた。秋雄は指を折った。「配車のことなら、この人」一本。「地理なら、この人」もう一本。「車のことなら、この人」さらに一本。「予約のことで迷ったら、この人に聞けば話が早い」新人が笑った。「いっぱいいますね」「一人で全部知ってる人なんて、そうそういないよ」「先輩に全部聞けばいいと思ってました」「やめてくれ」秋雄は笑った。「俺だって知らないことはいくらでもある」「じゃあ、知らないことがあったら?」「知ってそうな人に聞く」「その人も知らなかったら?」「また別の人に聞く」新人は少し考えた。「それが、会社の中の地図?」「そう」秋雄は頷いた。「道路なら、どこを曲がればどこへ出るか覚えるだろ?」「はい」「会社の中も同じだよ。誰に聞けば、どこへつながるかを覚えていく」新人は配車室の方を見た。「配車係だけじゃないんですね」「もちろん」「先輩運転手も?」「そうだよ」秋雄は言った。「だから、普段から挨拶しておくんだ」「あ、戻った」「戻るよ」新人が笑った。「必要になった時だけ突然話しかけるより、普段から顔が分かってる方が話しやすいだろ」「確かに」「行き違ったら、そのままにしない」「はい」「出勤したら、元気に挨拶する」「はい」「分からないことがあったら、一人で抱え込まずに聞く」新人が頷いた。「それが全部、社内営業?」「俺はそう思ってる」「でも、仕事をもらうためにやるわけじゃない」「そこ、大事な」秋雄は言った。「いい仕事をくれってお願いして回るのが社内営業じゃない」「じゃあ?」「仕事を任せてもらえる状態を、普段から作っておく」新人は少し黙った。「それで結果的に、仕事が来ることもある?」「あるだろうね」「来ないことも?」「もちろんある」「じゃあ、やっぱり保証はないんですね」秋雄は笑った。「営業なんだから、そんなものだよ」「外でも中でも?」「外でも中でも」少し間が空いた。新人が言った。「タクシーって、道路を覚えて、お客さん乗せてればいい仕事じゃないんですね」「十年やってても、それだけじゃ済まないよ」秋雄は営業所の中を見回した。配車係がいる。整備のことに詳しい人がいる。地理に強い人がいる。新人の面倒を見るのが好きな人もいる。癖の強い人だっている。「会社の中にも、いろんな道がある」秋雄が言った。「全部通る必要はないけどな」「じゃあ、どう歩けばいいんです?」秋雄は少し笑った。「それは、また別の話だな」第13章終わり来週月曜日10:00に更新
2026年09月04日
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第4話 元気に出社するのも仕事「先輩、挨拶ってそんなに大事ですか?」新人が聞いた。「大事だよ」「でも、毎日同じじゃないですか」「同じだからいいんだよ」新人が首をかしげた。秋雄は言った。「おはようございます。本日もよろしくお願いします」「それですよね」「それを毎回、ちゃんと元気に言う」「元気に?」「そう」新人は少し笑った。「なんか小学生みたいですね」「タクシー会社なんて、案外そんなもんだよ」秋雄も笑った。「でもな、挨拶って礼儀だけじゃないんだ」「じゃあ何です?」「今日の自分を見せるんだよ」「今日の自分?」「今日も普通に仕事できますよ、って」新人は少し考えた。秋雄は続けた。「毎回元気に挨拶してる運転手が、ある日だけ声が小さかったらどう思う?」「体調悪いのかな、って思います」「だろ?」「でも、それって気づいてもらった方がいいんじゃないですか?」「本当に体調が悪いならな」秋雄は頷いた。「でも、ただ寝不足でぼんやりしてるとか、機嫌が悪そうとか、そういう状態で出てきたらどう見える?」新人は黙った。「仕事を振る側からしたら、ちょっと心配になる」「仕事を振る側……」「配車係だって、誰に仕事を振るか考えることがあるだろ」「ありますね」「ちょっと大事な仕事がある。誰に任せようかって時に、朝から元気なく入ってきた運転手と、いつも通り元気に挨拶してきた運転手がいる」秋雄は新人を見た。「どっちに振りたくなる?」新人は苦笑した。「元気な方ですね」「そういうこと」「じゃあ、仕事をもらうために元気に挨拶するんですか?」「違うよ」秋雄はすぐに答えた。「仕事をもらうために元気なふりをするんじゃない」「はい」「仕事を任せても大丈夫な状態で出社するんだよ」新人は少し真面目な顔になった。「毎回?」「出勤するたびに」秋雄は言った。「運転手って、車に乗ってから仕事が始まると思いがちだけど、その前から見られてるんだよ」「見られてる……」「監視されてるって意味じゃないぞ」「分かってます」「普通に顔を合わせて、普通に挨拶する。その積み重ねで、『今日も大丈夫そうだな』って思ってもらえる」新人は配車室の方を見た。「逆に、今日はやめとこうって思われることもある?」「あるだろうね」「本人には分からないですよね」「そこが怖いところだよ」秋雄は笑った。「『最近いい仕事が来ないな』って思ってても、そもそも候補から外されてるかもしれない」「そんなの分からないじゃないですか」「分からないよ」「じゃあ怖いなあ」「だから、変な小細工をするんじゃなくて、毎回ちゃんと出社するんだよ」新人は頷いた。「元気に挨拶する」「そう」「今日も任せて大丈夫だと思ってもらう」「そういうこと」秋雄は少し間を置いた。「社内営業って、気に入られることじゃないんだよ」「信用を積む?」「それに近いな」「でも、目には見えない」「売上みたいに数字では出ないからな」新人は笑った。「面倒ですね、社内営業」秋雄も笑った。「でも、道路だけ覚えてれば済む仕事でもないんだよ」新人が顔を上げた。「まだあるんですか?」「あるよ」「何がです?」秋雄は配車室の方を見た。「会社の中にも、地図がある」つづく明日10:00に更新
2026年09月03日
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第3話 行き違ったら、自分から行く「先輩、配車室とちょっと揉めちゃったんですよ」待機所で、新人が言った。「揉めた?」「揉めたっていうほどじゃないですけど」「じゃあ何?」「配車のことで、ちょっと言い方が悪かったみたいで」秋雄は新人を見た。「向こうが?」「いや……俺がです」「じゃあ謝ってきたら?」新人が少し困った顔をした。「でも、向こうにも原因ありますよ」「あるんだろうね」「だったら、俺だけ謝るのも違いません?」秋雄は少し笑った。「また始まったな」「何がです?」「どっちが悪いか決めないと謝れないやつ」新人は黙った。「別に、全部こっちが悪かったって言いに行くんじゃないよ」「じゃあ何て言うんです?」「さっきは言い方悪くてすみません、でいいじゃん」「それだけ?」「それだけ」新人は配車室の方を見た。「なんか負けた感じしません?」「何に勝とうとしてるんだよ」秋雄が笑った。「配車室と勝負してどうするの」「いや、そういうつもりじゃ……」「明日も明後日も仕事するんだろ?」「しますよ」「だったら、今日の行き違いを明日まで持っていく方が面倒だよ」新人は少し考えた。「向こうが悪かったところは?」「それは向こうが考えればいい」「こっちは?」「自分の言い方が悪かったと思うなら、そこだけ謝る」新人が頷いた。「全部背負わなくていいんですね」「そういうこと」秋雄は少し間を置いた。「会社の中ってさ、道路みたいに一回通って終わりじゃないんだよ」「また会いますもんね」「毎日会うよ」新人が苦笑した。「確かに」「配車室だって人間だからな。行き違うことくらいある」「先輩もあります?」「あるよ」「そのたびに謝りに行くんですか?」「俺が悪かったと思ったところがあればね」「向こうから来るのを待たない?」「待ってる時間がもったいないだろ」新人は少し笑った。「先輩、そういうところ妙にあっさりしてますね」「仕事だからね」秋雄は配車室の方を見た。「仲良しになる必要はないよ」「はい」「でも、次に何かあった時に普通に話せる関係には戻しておく」新人も同じ方向を見た。「それも社内営業ですか?」「俺はそう思ってる」会社の中では、ちょっとした行き違いは起きる。そのたびに、どちらが悪いかを決めていたら、仕事より人間関係の方が面倒になる。自分に悪かったところがあるなら、そこだけ謝る。そして、次の日も普通に話せる状態に戻しておく。社内営業は、誰かに気に入られるためのものではない。仕事の話を、仕事の話として続けられる関係を作ることだ。つづく明日10:00に更新
2026年09月02日
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第2話 配車室に聞けばいい新人が、少し困った顔で言った。「先輩、配車が入ったんですけど、このあと予約があるんですよ」秋雄は時計を見た。「何時?」「九時です」「今の配車、行って戻って間に合いそうか?」「たぶん……」新人の声が小さくなった。秋雄は笑った。「その“たぶん”が一番危ないんだよ」「でも、配車を断ったら怒られませんか?」「断るかどうかを、自分一人で決めなくていい」新人が首をかしげた。「じゃあ、どうするんですか?」「配車室に聞けばいい」「聞く?」「この配車を取って、九時の予約に間に合いますかって」新人は少し考えた。「そんなこと、いちいち聞いていいんですか?」「いいんだよ。むしろ、予約を持ってるなら確認した方がいい」秋雄は続けた。「配車室だって、こっちの予定を全部頭に入れているわけじゃない。運転手側で気づいたなら、伝えればいい」「でも、行けるかもしれないですよね」「かもしれない、で予約を賭けるなよ」新人は黙った。「通常の配車なら、別の車へ振れることもある。でも予約は、その時間にその車が行く前提で組まれている」「予約の方を優先する?」「それを決めるのも、配車室と相談すればいい」秋雄は少し間を置いた。「大事なのは、自分だけで抱え込まないことだ」「抱え込む?」「配車を取ったら遅れそう。でも断ったら怒られそう。だから、とりあえず行ってみる」新人が苦笑した。「やりそうです」「それで渋滞に捕まって、予約に遅れる。そうなると一番面倒だろ」「確かに……」「だから、微妙だと思った時点で聞く」秋雄は指を一本立てた。「『この仕事を取って大丈夫ですか』」もう一本。「『予約を優先した方がいいですよね』」「それだけですか?」「それだけ」新人は少し拍子抜けした顔をした。秋雄は笑った。「社内営業って、何でも自分で解決することじゃないんだよ」「相談するのも、社内営業?」「相談できる関係を作っておく。それも仕事だ」新人は配車室の方を見た。「でも、普段ほとんど話したことないんですよね」秋雄は頷いた。「だから次の話になる」「次?」「相談したい時だけ話しかけても、話しにくいだろ」新人は、少し納得した顔をした。「普段から、ですか」「そういうこと」秋雄は立ち上がった。「まずは挨拶からでいいよ」つづく明日10:00に更新
2026年09月01日
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第1話 まず、顔を見て挨拶する「新人のうちは、社内営業も大事だぞ」出庫前、秋雄が新人に言った。「車内営業?」「違う違う」秋雄が笑った。「社内。会社の中」「会社の中で営業するんですか?」「そう」「誰に?」「まずは配車室かな」新人が少し警戒した顔をした。「仕事を回してもらうためですか?」「そういう意味じゃないよ」「じゃあ、何するんです?」秋雄は配車室の方を見た。「まず挨拶」「挨拶?」「そう」秋雄は配車室に顔を向けた。「おはようございます。本日もよろしくお願いします」配車係が秋雄を見て、「はい、おはよう。今日もよろしくね」と返した。秋雄は新人を見た。「まずはこれ」新人が少し拍子抜けした顔をした。「それ、社内営業なんですか?」「俺はそう思ってるよ」「普通の挨拶じゃないですか」「普通の挨拶だよ」 二人は車へ向かった。「でもな」秋雄が言った。「毎回ちゃんと顔を見て挨拶してれば、向こうも顔を覚えるだろ」「まあ、そうですね」「こっちも、誰が配車してるのか分かるようになる」「はい」「そのうち声だけでも分かるようになる」新人が笑った。「そこまで?」「毎日やってれば分かるよ」 新人は少し考えた。「でも、顔を覚えてもらうと何か違うんですか?」「違うと思うよ」「仕事を多く回してくれる?」「だから、そっちじゃないって」秋雄が笑った。「顔が分からない相手って、どうしても雑になりやすいんだよ」「雑?」「配車室から見れば、俺たちは何号車っていう一台になる」「はい」「こっちから見れば、向こうはただの配車室になる」「まあ、そうですね」「そうなると、『なんでこんな配車よこすんだよ』って思ったりする」新人が笑った。「あります」「向こうだって、『なんでこの車は行かないんだ』って思うかもしれない」「ありそうですね」「お互い顔が見えないと、相手じゃなくて仕事だけ見るようになるんだよ」新人が少し考えた。「でも、顔が分かってれば?」「少なくとも、誰と話してるのかは分かる」「秋雄さんに頼んでる、みたいな?」「そう。こっちも、誰から頼まれてるのか分かる」 新人は配車室の方を振り返った。「それだけでも違うものですかね」「俺は違うと思うよ」「先輩、配車係の人みんな知ってます?」「だいたいはね」「仲いいんですか?」「別に全員と仲良しじゃないよ」新人が笑った。「じゃあ、社内営業失敗じゃないですか」「仲良しになるのが目的じゃないから」「じゃあ、何が目的なんです?」秋雄は少し考えた。「仕事をしやすくすることかな」「仕事をしやすく?」「うん」 秋雄は車のドアを開けた。「仕事してれば、そのうち行き違うこともあるよ」「配車室と?」「あるよ。こっちはこういうつもりだった。向こうは違うつもりだった」「揉めたりします?」「することもある」「そういう時はどうするんです?」「こっちにも悪いところがあったなと思ったら、俺は謝りに行くよ」「先輩から?」「うん」「向こうが悪くても?」「どっちが何割悪いかなんて数えてもしょうがないだろ」新人が黙った。「明日も同じ会社で仕事するんだから」「……なるほど」「『さっきはすみませんでした。こっちも言い方が悪かったです』で済むなら、その方が楽だよ」「それも社内営業?」「俺はそう思ってる」 新人は少し考えてから笑った。「思ってた営業と全然違いますね」「何を想像してたんだよ」「もっとこう、偉い人に顔を売ったり」「そんな器用なことできないよ」「仕事を回してもらったり」「それやったら別の話になっちゃうだろ」二人で笑った。 社内営業といっても、特別なことをするわけではない。 顔を見て、「おはようございます。本日もよろしくお願いします」と言う。 仕事で行き違ったら、必要なら自分から話しに行く。 それを繰り返していれば、配車室にとって自分は、ただの「何号車」ではなくなっていく。 こちらにとっても、相手はただの「配車室」ではなくなっていく。 まずは、お互いの顔が分かるところから。 社内営業は、そこから始まる。 明日10:00に更新
2026年08月31日
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第5話 暇な日に、仕事を追いかけるな「先輩、今日は本当に暇ですね」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「暇だな」「さっきから全然動かない」「そうだね」新人は前に並んでいる車を見た。「こういう日って、やっぱり焦ります」「売上?」「はい」「俺も気になるよ」「あといくら足りないとか、考えません?」「考える」「このままで大丈夫かな、とか」「考えるよ」新人が笑った。「先輩でも同じなんですね」「そりゃそうだよ」 新人は少し黙った。「でも、前だったらもう動いてたと思います」「どこへ?」「それが分からないから、とりあえず走る」「やってたな」「はい」「今日は動かないの?」「今のところは」「なんで?」新人は周りを見た。「ここにいる理由が、まだあるからです」「へえ」「この時間なら、もう少し人が動くかもしれない」「うん」「前にも、このくらいの時間に仕事が出たことがある」「うん」「だから、もう少しだけ待ってみます」秋雄が頷いた。「いいんじゃない?」「でも、外すかもしれませんけどね」「外したら?」「覚えておきます」秋雄が笑った。「ずいぶん変わったな」「先輩が何回も言うからですよ」 少しして、新人が聞いた。「でも先輩」「何?」「結局、暇な日に売上を作る方法ってないんですか?」秋雄は笑った。「急に身も蓋もないこと聞くな」「だって、そこが一番知りたいじゃないですか」「そりゃそうだな」「どこへ行けば仕事があるとか」「分かったら俺も行くよ」「ですよね」「街が暇でも、仕事を取ってる車はいるよ」「じゃあ、その車は何が違うんです?」「判断が良かったのかもしれない」「はい」「たまたまかもしれない」「はい」「いつものお客さんから呼ばれたのかもしれない」「それもありますね」「外から見ただけじゃ分からないよ」新人は頷いた。 「だから俺は、暇な日に他の車を追いかけないようにしてる」 「他の車?」「誰かが仕事を取ったのを見て、あそこが正解だったって思ったり」「ああ」「長い仕事をやったって聞いて、俺もそっちへ行けばよかったって思ったり」「ありますね」「でも、それって結果を見てるだけだろ?」新人が少し考えた。「その人が、なんでそこにいたかは分からない」「そう」「偶然かもしれない」「そういうこと」 新人は前を見た。「じゃあ、自分の判断を積み重ねるしかない?」「俺はそうしてきたよ」「待つ理由を考えて」「うん」「動く理由も考えて」「うん」「外したら覚えておく」「うん」「当たっても、一回で正解にしない」「そうだな」新人は苦笑した。「地味ですね」「タクシーって、そんなもんじゃない?」 新人は少し考えた。「でも、それを続けていけば」「うん」「ここはもう薄いな、とか」「うん」「この時間なら、もう少し待ってみよう、とか」「うん」「少しずつ分かるようになる?」「なると思うよ」「先輩みたいに?」秋雄は笑った。「俺だって今日外すかもしれないぞ」「十年やってても?」「十年やってても」新人も笑った。 「じゃあ、暇な日はどうすればいいんです?」秋雄は少し考えた。 「暇な日に、仕事を追いかけすぎないことかな」 「追いかけすぎない?」「需要が薄いのに、不安だからって走り回っても、お客さんが増えるわけじゃないだろ」「そうですね」「待つ理由があるなら待つ」「はい」「動く理由があるなら動く」「はい」「どっちもなければ?」新人は少し考えた。「休む?」「それもありだな」 「暇な日は、暇じゃない日の走り方をしない」 新人が秋雄を見た。「それ、覚えておきます」「外すかもしれないけどな」「そこまでセットですか」「そこまでセット」二人で笑った。 仕事を探すことと、仕事を追いかけることは、少し違う。 待つ。動く。休む。 どれを選んでも、必ず仕事につながるわけではない。 だから、外したことも覚えておく。当たったことも、一度で正解にはしない。 そうやって少しずつ、自分なりの判断材料を増やしていく。 街が暇な日に、焦って仕事を追いかけすぎない。 暇な日は、暇な日の走り方をすればいい。 第12章終わり 来週月曜日10:00に更新
2026年08月28日
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第4話 動くにも理由がいる「先輩、そろそろ動こうと思うんですけど」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「いいんじゃない?」「止めないんですか?」「なんで俺が止めるんだよ」「いや、この前から待つ理由の話してたじゃないですか」「してたね」「だから、もう少し待てって言われるかと思って」秋雄は新人の車の前を見た。「なんで動こうと思ったの?」「全然仕事がないからですよ」「それだけ?」「それだけじゃダメですか?」「ダメとは言ってないよ」「じゃあ、動きます」「どこ行くの?」新人が黙った。「……それは、まだ決めてないです」秋雄が笑った。「それで走り出すの?」「だって、ここにいても出ないじゃないですか」「そうかもしれないな」「だったら動いた方がいいかなって」「どこへ?」「だから、それは走りながら……」 秋雄は少し考えた。「それ、仕事を探してるのか?」 「そうですよ」「それとも、ここにいるのが不安なだけ?」新人が黙った。「……ちょっと、それもあります」「俺もあるよ」「先輩も?」「ある。全然仕事がないところに止まってると、何かしなきゃって思う」「ですよね」「走ってる方が仕事してる気もするし」「そうなんですよ」新人が頷いた。「止まってると、サボってるみたいな気がして」「でも、空車で走ったら売上になる?」「なりません」「燃料は?」「使います」「事故の可能性は?」「走れば増えますね」「疲れる?」「まあ……疲れます」秋雄が笑った。「結構使うな」「何も売れてないのに」「そういうこと」 新人は少し考えた。「じゃあ、動かない方がいいんですか?」「そういう話でもないよ」「またですか」「まただよ」二人で笑った。 「待つのに理由がいるなら、動くのにも理由があっていいんじゃない?」 「たとえば?」「もう人の動きがなくなった」「はい」「狙ってた時間が終わった」「はい」「次に人が動きそうな場所がある」「なるほど」「飯を食いに行くでもいい」新人が笑った。「それも理由ですか?」「立派な理由だろ」「営業じゃないですよ」「暇なんだろ?」「暇です」「だったら暇な時間に飯食って、動きそうな時間に戻ればいいじゃん」新人は少し考えた。「そういう動き方もあるのか」「俺はするよ」 新人は前の道路を見た。「じゃあ、ここがダメだから動く、じゃなくて」「うん」「次に行く理由があるから動く?」「そう考えた方が、俺は楽かな」「仕事があるかどうかは?」「分からないよ」「やっぱり」「分かったら苦労しないって」新人が笑った。 「でも、それなら外しても分かりやすいですね」「何が?」「次はここだと思って動いた。でも何もなかった」「うん」「だったら、それも覚えておけばいい」「そうだな」「何も考えず走り回って、今日はダメだった、よりは残るものがある」秋雄が頷いた。「俺はそう思ってるよ」 新人は少し考えてから言った。「じゃあ、俺、飯食ってきます」「急だな」「だって暇なんでしょ?」「そうだけど」「暇な時間に飯食って、動きそうな時間に戻ってきます」秋雄が笑った。「それなら理由はあるな」「でしょ?」 仕事がない。ここにいても不安になる。だから、とりあえず走る。 それも一つの判断かもしれない。でも、走る前に一つだけ考えてみる。 次に行く理由はあるか。 なければ、飯を食うのもいい。休憩するのもいい。 暇な時間まで、無理に営業に変えなくてもいい。 明日10:00に更新
2026年08月27日
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第3話 そこにいる理由はあるか「先輩、今日はここで待つんですか?」新人が秋雄の車の横に止まった。「しばらくね」「ここ、そんなに出るんですか?」「どうだろう」「どうだろうって……」新人が苦笑した。「先輩がいるから、何かあるのかと思いました」「何かあるかもしれないよ」「なんですか、それ」秋雄が笑った。「さっき近くでお客さん降ろしたんだよ」「はい」「それで、すぐ元の待機場所に戻るほどでもないかなと思って」「だからここに?」「うん」「ここで次のお客さんが出ると思ってるんですか?」「出たらいいな、くらい」新人が首をかしげた。「それって、勘ですか?」「勘もあるだろうな」「やっぱり」「でも、勘だけでもないよ」「というと?」 秋雄は周りを見た。「この辺、店もあるし、人も動いてるだろ」「はい」「時間も、まだ人が動きそうな時間だ」「そうですね」「だったら少し様子を見てもいいかなって」「それだけ?」「それだけ」新人は少し考えた。「ここから絶対に仕事が出る、じゃないんですね」「そんなの分からないよ」「でも、ここにいる理由はある」「一応ね」 新人は前の道路を見た。「俺、この前ずっと駅で待ってたんですよ」「うん」「全然動かなかったんですけど」「なんでそこにいたの?」新人が黙った。「駅だから……ですかね」「それも理由ではあるよ」「でも、弱い?」「弱いかどうかは俺には分からない」「じゃあ、どう考えるんです?」秋雄は少し考えた。「自分に聞いてみればいいんじゃない?」「何を?」 「俺、なんでここにいるんだろうって」 新人が笑った。「なんか急に哲学みたいですね」「乗ってくれるお客さん待ってるだけだよ」「ですよね」二人で笑った。 「でも、本当にそれくらいでいいと思うよ」秋雄は続けた。「駅に着く電車があるから」「はい」「病院が終わる時間だから」「はい」「近くで降ろしたから、少し様子を見る」「はい」「前にこの曜日、この時間に仕事が出たことがあるから」新人が頷いた。「そういう理由を一個持つ?」「最初はそれでいいんじゃない?」「外れたら?」「外れたなって覚えておく」「またそれですか」「またそれだよ」新人が笑った。 「じゃあ、理由があればずっと待ってていいんですか?」「そこが難しいんだよな」「ほら、また難しくなった」「だって、最初は理由があっても、時間が経てば条件が変わるだろ」「電車が着いても誰も来なかったとか?」「そう」「病院から人が出てこなかったとか」「そう」「人通りがなくなったとか」「そういうのもある」新人は少し考えた。「じゃあ、待ち始めた時の理由がなくなったら?」「俺なら、もう一回考えるかな」「動くかどうか?」「うん」「すぐ動きます?」「それも、その時による」新人が顔をしかめた。「またそれだ」秋雄が笑った。「しょうがないだろ。正解表がないんだから」 新人は少し黙ってから言った。「でも、前よりは分かる気がします」「何が?」「今までは『ここで待ってれば出るかな』しか考えてなかったんですよ」「うん」「これからは『なんで俺はここで待ってるんだろう』も考える」「それでいいんじゃない?」新人は頷いた。「理由が間違ってても?」「最初から全部当てようとするなよ」「外したら、また材料にする」「そういうこと」 仕事が出る場所を、最初から知っている新人はいない。 だから最初は、小さな理由でいい。 この時間だから。人が動いているから。近くで降ろしたから。前に仕事が出たことがあるから。 そして、待ちながら見る。その理由は、まだ残っているか。 正解を探すより、自分がそこにいる理由を一つ持ってみる。 明日10:00に更新
2026年08月26日
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第2話 場所だけ覚えても足りない「先輩、この前の話なんですけど」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「暇な日に走り回った話?」「そうです」「今日は走り回ってない?」「まだ大丈夫です」「まだ、なんだ」新人が笑った。「それで、ちょっと考えたんですよ」「何を?」「外したことも覚えておけば、次の判断材料になるって言ってたじゃないですか」「言ったね」「だったら、仕事がなかった場所を覚えておけばいいんですよね?」秋雄は少し考えた。「それだけだと、ちょっと足りないかな」「また難しくする」「俺のせいじゃないよ」「じゃあ、何が足りないんです?」 「場所だけ覚えてもしょうがないんだよ」 新人が首をかしげた。「どういうことです?」「たとえば、駅で一時間待って何もなかったとするだろ」「はい」「それで『あの駅はダメだ』って覚える?」「まあ……覚えそうですね」「でも、それ何曜日?」新人が少し考えた。「曜日?」「何時?」「時間も?」「天気は?」「そこまで見るんですか?」「ほかにもあるよ」秋雄は指を折った。「電車が着く時間だったのか。ほかの空車は何台いたのか。人は歩いてたのか」「結構ありますね」「病院なら診察が終わる頃なのか。店なら開店前なのか閉店後なのか」新人が苦笑した。「そんなの全部覚えられませんよ」「全部覚えなくていいよ」「いいんですか?」「俺だって全部は覚えてない」「じゃあ、何を見るんです?」秋雄は少し考えた。「最初は一個でいいんじゃない?」「一個?」「今日は月曜日の昼だった、とか」「それだけ?」「うん。次に同じような時間に来た時に、『前も暇だったな』って思い出せればいい」新人が頷いた。「それを何回か繰り返す?」「そう」「そうすると、月曜日の昼は薄いかもしれないって分かってくる」「かもしれない、な」「言い切らないんですね」「だって来週は忙しいかもしれないだろ」「確かに」 新人は少し考えた。「じゃあ、逆もあります?」「逆?」「ここで仕事を取れたから、次も来る」「あるある」「俺、やります」「俺もやったよ」「やっぱり」「一回いい仕事を取ると、その場所が急に良く見えるんだよ」新人が笑った。「ありますね」「でも、次に行ったら何もない」「あります」「それでも『前は出たから』って待つ」「……あります」秋雄が笑った。「ずいぶん心当たりあるな」「ありますよ」 「だから、仕事が出た場所も、出なかった場所も同じなんだよ」 「同じ?」「一回だけで決めない」新人が頷いた。「当たったから正解でもない」「うん」「外したから不正解でもない」「そう」「その時の条件も一緒に見る」「俺はそうしてるよ」 新人は少し黙ってから言った。「なんか、地図を覚えるのとは違いますね」「何が?」「営業を覚えるってことです」「どう違う?」「地図なら、道を覚えれば次も同じじゃないですか」「まあな」「でも営業は、同じ場所でも答えが変わる」秋雄が頷いた。「そうだな」「だから難しいのか」「その代わり、少しずつ分かるようにはなるよ」「十年かかります?」「そんなに待ってたら新人じゃなくなるだろ」新人が笑った。 場所だけでは、仕事は決まらない。同じ駅でも、曜日が違う。時間が違う。天気が違う。人の動きが違う。 一度当たった場所を、正解にしない。一度外した場所を、不正解にしない。 その時、何が違ったのか。一つずつ覚えていけばいい。 明日10:00に更新
2026年08月25日
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第1話 今日は、街が暇なんだ「先輩、今日ダメです」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「何が?」「売上ですよ。全然できてません」「何件やった?」「それも少ないです」「そっか」新人は少し不満そうな顔をした。「朝からいろいろ動いたんですよ」「どこ行ったの?」「最初の待機場所が全然動かなかったから、別のところへ行って」「うん」「そこもダメだったから、今度は駅に行って」「うん」「駅も車が多かったから、また移動して」秋雄が笑った。「ずいぶん走ったな」「走りましたよ。でも全然ダメです」「忙しかったじゃん」「空車でですよ」「それは忙しいな」「笑い事じゃないですよ」新人も少し笑った。 「で、先輩ならどこに行きます?」 秋雄は少し考えた。「今日は、あんまり行くところないんじゃない?」「え?」「街が暇だもん」新人が秋雄を見た。「でも、どこかにはお客さんいますよね?」「いるだろうな」「だったら、その場所を探した方がよくないですか?」「探して見つかるならね」「先輩は探さないんですか?」「動くことはあるよ」「じゃあ、どこへ?」「それは、その時によるな」新人が苦笑した。「一番困る答えですよ、それ」「そう?」「だって俺、それが分からないんですよ」 秋雄は新人を見た。「何が?」「どこで待てばいいのか。いつ動けばいいのか」「うん」「先輩は『ここはもう薄いな』とか、『ここなら少し待ってみよう』とか言うじゃないですか」「言うね」「その見極めが分からないんです」新人は少し考えて続けた。「だから仕事がないと、とりあえず動いちゃうんですよ」「ここじゃないかもしれないって?」「そうです」「で、移動した先でも仕事がない」「はい」「また動く」「はい」秋雄が笑った。「今日はそれを繰り返したわけだ」「そうですよ」新人はため息をついた。 「先輩は、どうやって分かるようになったんです?」 秋雄は少し考えた。「最初から分かってたわけじゃないよ」「じゃあ、どうしたんです?」「外したんだよ」「外した?」「ここなら仕事あるかなって待って、何もなかった」「はい」「こっちへ動いた方がいいかなって動いて、何もなかった」「それ、今日の俺じゃないですか」「そうだよ」新人が秋雄を見た。「じゃあ、今日の俺も間違ってない?」「間違ってたかどうかは、まだ分からないな」「どういうことです?」「今日走り回って、『全然ダメだった』だけで終わったら、もったいないだろ」「じゃあ?」 「外したことも、覚えておけばいいんだよ」 新人は少し黙った。「失敗を?」「失敗かどうかも分からないよ」「でも、仕事なかったですよ」「今日、この時間、この条件ではな」新人が少し考えた。「今日、この時間、この条件……」「曜日が違えばどうなるか。時間が違えばどうなるか。天気が違えばどうなるか」「同じ場所でも違う?」「違うことはあるだろ」「じゃあ、一回ダメだっただけで『ここはダメ』とも言えない」「俺はそう思うよ」新人は自分の車を見た。「なんか、面倒ですね」「面倒だよ」「もっと簡単に分かる方法ないんですか?」「あるなら俺も知りたいよ」新人が笑った。 「じゃあ先輩も、今でも外すんですか?」「外すよ」「十年やってても?」「十年やったら未来が見えるようになると思ってる?」「ちょっとくらい見えてるのかと思ってました」「見えないよ」二人で笑った。 仕事がないと、不安になる。ここじゃない。あっちなら。もっと動けば。どこかにお客さんがいるはずだ。 でも、街そのものが暇な日もある。そして、どこへ行けばいいのか最初から分かる人はいない。 外したなら、その一回も次の判断材料にすればいい。 明日10:00に更新
2026年08月24日
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第5話 売上より先に、無事に帰れ「先輩、最近ずっと休む話してません?」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「そうだっけ?」「小さいミスが続いたら休む」「うん」「疲れてたら、出庫したばかりでも寝る」「うん」「なんとなく調子が悪かったら、いったん車から降りる」「うん」「それでも戻らなかったら、早めに帰る」「そうだな」新人は少し笑った。「なんか、こうやって並べると仕事しない人みたいですね」秋雄が笑った。「確かにな」「でも、そういう話じゃないですよね?」「どういうこと?」「売上なんかどうでもいいから、疲れたら休めって話じゃないですよね」秋雄は頷いた。「俺はそんなつもりで話してないよ」「ですよね」「売上は欲しいよ」「俺も欲しいです」「できれば毎日ちゃんと作りたい」「俺もです」「だったら話は早いじゃん」新人が笑った。「そこは意見が合いますね」 秋雄は少し考えた。「数字を作ろうとするから、無理するんだよ」「あと一本やりたくなりますからね」「仕事が続けば休みたくない」「配車が入ったら取りたくなります」「売上が足りなければ取り返したくなる」「ありますね」「それ自体は悪いことじゃないと思うよ」新人が頷いた。「じゃあ、どこで止めるかですね」「俺はそこが難しいと思ってる」 新人は少し考えた。「先輩は、何を基準にしてるんです?」「決まった基準なんてないよ」「ないんですか?」「眠いなら寝る。小さいミスが続いたら一回止まる。なんか変だと思ったら車から降りる」「それでもダメなら?」「帰ることもある」「結局、自分で気付くしかない?」「そうだな」新人は苦笑した。「難しいですね」「難しいよ」「数字みたいに、ここまで来たら休憩って出れば楽なのに」「車に疲労メーターでも付いてればな」「赤くなったら強制休憩」「誰か作ってくれないかな」二人で笑った。 しばらくして、新人が言った。「でも、売上は数字で見えるんですよね」「うん」「あといくら足りないとか、今日は何件やったとか」「見えるな」「疲れは見えない」秋雄は頷いた。「そうだな」「だから売上の方を優先しちゃうのかな」「あるかもしれないな」新人は少し黙った。 「でも、事故をやったら売上どころじゃないですよね」 秋雄は新人を見た。「そうなんだよ」「車も止まるかもしれない」「うん」「仕事もできなくなるかもしれない」「そうだな」「相手がいたら、もっと大変ですし」秋雄は頷いた。 「だから俺は、売上を作ることと安全に帰ることを別々には考えてないよ」 「別々じゃない?」「無事に帰るところまでが、その日の営業だと思ってる」新人が少し考えた。「売上を作って、最後に安全運転するんじゃなくて?」「最初から最後まで全部込み」「なるほど」「どれだけ売れても、帰れなかったら困るだろ」「それはそうですね」 新人は自分の日報を見た。「この前、日報は次の乗務の作戦表だって言ってましたよね」「言ったな」「だったら、次の乗務ができる状態で帰ってこないと意味がない」秋雄が笑った。「そういうことだな」 新人は少し考えてから言った。「売上より先に、無事に帰れ」「なんだよ、急に」「いや、今の話をまとめると」「ずいぶん偉そうになったな」「先輩に教わったんですよ」二人で笑った。 売上は大事だ。件数も欲しい。あと一本できるなら、やりたい。 だからこそ、小さなミスに気付く。必要なら休む。一度、車から降りる。そして時には、あと一本をやめる。 仕事から逃げるためではない。明日もまた、ちゃんと仕事をするために。 売上より先に、無事に帰れ。 第11章終わり 来週月曜日10:00に更新
2026年08月21日
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第4話 あと一本をやめる「先輩、今日はもう上がるんですか?」営業所へ戻ってきた秋雄に、新人が声をかけた。「うん。今日はもういいかな」「でも、まだ少し早いですよね?」「ちょっと体調が良くなくてね」新人は時計を見た。「あと一本くらい、できそうじゃないですか?」「できるかもしれないな」「だったら、もったいなくないですか?」秋雄は笑った。「俺もそう思うよ」「じゃあ、なんで帰るんです?」「今日は、その一本をやめることにした」「あと一本を?」「うん」新人は少し不思議そうな顔をした。「先輩でも、売上は気になりますよね?」「そりゃ気になるよ」「あと少しで目標に届く日だったら?」「もっと気になる」「じゃあ、やりたくなりません?」「なるよ」新人は笑った。「全部なるじゃないですか」「なるから困るんだよ」秋雄も笑った。「あと一本って、不思議なんだよな」「何がです?」「一本だけって思ってても、どこへ行くか分からないだろ」「ああ……確かに」「近くで終わるかもしれない。遠くへ行くかもしれない」「それは分からないですね」「降ろしたところで配車が入るかもしれない」「そうなると、もう一本やりたくなるかもしれません」「だろ?」「一本だけのつもりが、二本、三本になる」「そういうこともある」新人は少し考えた。「でも、そこでやめればいいんじゃないですか?」「もちろん断れるよ」「だったら、あと一本くらい……」秋雄は少し黙った。「その一本で何もなければ、やってよかったって思うだろ?」「はい」「売上も増えますし」「そうだな」秋雄は新人を見た。 「でも、その一本でぶつけたら?」 新人の表情が変わった。「事故……ですか」「別に大きな事故じゃなくてもいい。ちょっと擦ったとか、何か見落としたとか」「はい」「その時、どう思う?」新人は答えなかった。「今日は調子が良くないって、自分で気付いてたんだぞ」「……ああ」「小さいミスも続いてた。休んでも、なんとなく戻らない。それでも『あと一本くらい』って走った」新人は黙って聞いていた。 「俺、それが一番嫌なんだよ」 「事故そのものより?」「事故はもちろん嫌だよ」秋雄は少し考えた。「でも、自分で気付いてたのに無視したってなったら、俺はたぶん後悔する」「走らなければよかったって?」「思うだろうな」新人は時計を見た。「あと一本やれば、売上は増えるかもしれない」「うん」「何も起きないかもしれない」「たぶんな」「でも、何か起きるかもしれない」「それはいつ走ってても同じだよ」「じゃあ……」新人は言葉を探した。「今日は、その可能性がいつもより気になる?」秋雄が頷いた。「俺はそう思ったから帰る」 新人は少し考えた。「でも、体調が悪いって言って早く帰るの、言いにくくないですか?」「最初はね」「会社になんて言うんです?」「そのままだよ」秋雄は笑った。「『あんまり体調が良くないので、今日は早めに上がります』って」「それだけですか?」「それだけ」「売上が足りなかったら?」「足りない日は足りないよ」「割り切れます?」秋雄は少し考えた。「毎回きれいには割り切れないよ」「ですよね」「帰りながら、あと一本できたかなって思う日もある」「やっぱり」「でも、帰るって決めた自分までひっくり返さないようにはしてる」「どうしてです?」 「調子が悪いって気付いたのも、自分だからな」 新人が秋雄を見た。「走りたい自分と、今日はやめた方がいいと思った自分がいる?」「そういうこと」「どっちを信用するか、ですか」「俺は、やめた方がいいって思った自分を無視しないようにしてる」新人は少し考えてから言った。「あと一本できるか、じゃないんですね」「うん?」「今の自分で、その一本をやるかどうか」秋雄は頷いた。「俺はそっちを考えるかな」 終業まで、まだ時間がある。あと一本くらいなら、できるかもしれない。その一本で何も起きなければ、売上は増える。 でも、今日は少しおかしい。そう自分で気付いていたのに走って、何かあったら。 あと一本をやらなかったことは、日報には残らない。売上にもならない。 それでも、その一本をやらずに帰るという選択もある。 明日10:00に更新
2026年08月20日
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第3話 一度、営業のリズムを切る「先輩、疲れてたら寝るっていうのは分かりました」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「うん」「でも、寝るほどじゃない時ってありません?」「あるよ」「眠くはない。体もそんなに重くない。でも、なんとなく調子が悪い」「あるな」「そういう時はどうするんです?」秋雄は少し考えた。「俺なら、いったん車を止めるかな」「休憩ですか?」「まあ、そうなんだけど。寝るほどじゃないなら、コーヒー飲んだり、トイレ行ったり」「それだけですか?」「それだけ」新人は少し拍子抜けした顔をした。「何か特別なことするのかと思いました」「何を期待してるんだよ」「いや、ベテランだけが知ってる疲労回復法とか」「そんなものがあったら、俺が教えてほしいよ」新人が笑った。「じゃあ、コーヒー飲んで終わりですか?」「コーヒーが大事なんじゃないんだよ」「というと?」 「一回、営業を切るんだよ」 新人が首をかしげた。「営業を切る?」「そう。車からいったん降りる」「車から?」「うん」「それが大事なんですか?」「俺は大事だと思ってる」秋雄は続けた。「車の中にいると、休んでるつもりでも仕事から離れられないんだよ」「どういうことです?」「空車が通れば見るだろ。お客さんが歩いてれば気になる。配車が入るかもしれないって思う」新人が頷いた。「確かに」「仕事が続いてる時なんて、頭の中もずっと次の仕事を探してる」「降ろしたら次はどこへ行く。配車が入るか。あそこに空車が何台いる。もう一本できるか」「そう。それがずっと続く」新人は少し考えた。「だから、車から降りる?」「うん。コンビニに入ってもいい。コーヒー買って外で飲んでもいい。トイレに行ってもいい」「とにかく一回、運転席から離れる」「俺はそうしてるよ」 新人が頷いた。「売れてる日は特に、車から降りたくないですよね」「そうなんだよ」「仕事が続いてるから、止まりたくない」「次があるかもしれないって思うからな」「でも、そういう時ほど自分が雑になってるのに気付かないこともある」「あるね」新人は少し考えた。「調子がいいから走れてるのか、止まれなくなってるだけなのか、分からなくなる?」「そういう時もあるな」 「でも、車から降りてる間に配車が入ったら、もったいなくないですか?」「もったいないと思うよ」「やっぱり」「でも、それを気にしてたら休めないだろ」「確かに」「一本逃したからって、その日の営業が終わるわけじゃない」新人は少し黙った。「でも、売上が足りない日は焦りますよ」「俺も焦るよ」「先輩でも?」「当たり前だろ」秋雄は笑った。「だから休まなくていい、にはならないけどな」新人は頷いた。「売上が悪いと、取り返そうとして動き回るじゃないですか」「あるな」「でも、それで余計にリズムを崩すこともある」「あるね」新人は少し考えた。「だったら一回車から降りて、仕切り直す」秋雄が頷いた。「俺はそうしてるよ」 新人は少し考えてから笑った。「なんか、休憩も営業の一部みたいですね」「そうかもな」 走る。乗せる。降ろす。また次を探す。それを繰り返していると、自分がどんな状態なのか分からなくなることがある。 そんな時は、車を止める。そして、いったん運転席から降りる。コーヒーでも飲んで、仕事の流れから少し離れる。 また走るかどうかは、そのあと決めればいい。 明日10:00に更新
2026年08月19日
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第2話 出庫したばかりでも寝る「先輩、この前の話なんですけど」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「小さいミスが続いたら、一回休むって話?」「そうです」「休んだ?」「休みましたよ」「寝た?」「いや、コーヒー飲んで少しぼーっとしてました」「それで?」「そのあとは普通に戻りました」「なら、よかったじゃん」新人は頷いた。「でも、ちょっと気になったんですよ」「何が?」「先輩、出庫したばかりでも休むって言ってたじゃないですか」「言ったな」「どのくらい早く休んだことあります?」秋雄は少し考えた。「出庫して、そんなに経ってないのに寝たことあるよ」「寝たんですか?」「寝た」新人が笑った。「早すぎません?」「そう?」「だって、仕事始めたばっかりですよ」「でも疲れてたんだよ」「出庫したばかりなのに?」秋雄は笑った。「またそこに戻るの?」「だって気になりますよ」 秋雄は少し考えてから聞いた。「お前、出庫する時って体力満タンなの?」 「いや……毎回ってわけじゃないです」「だろ?」「前の日にあまり寝られなかった日もありますし」「休みでも結構動いちゃったりな」「ありますね」「仕事が終わったら、疲れが全部消えるわけでもない」新人が頷いた。「そう考えると、出庫した時点で疲れてる日もありますね」「あるよ」「でも、仕事始めたばっかりだと休みにくくないですか?」「なんで?」「なんとなくですよ。まだ何もしてないのに休むのかって」「誰に言われるの?」「誰って……」新人は言葉に詰まった。「自分ですかね」「たぶんな」二人で笑った。 「俺も昔は、休むのがもったいないと思ってたよ」 「売上が止まりますもんね」「そう。休んでる間はメーター上がらないから」「だったら走りたくなりますよ」「でも、疲れてるのに走って、小さいミスを重ねたら?」新人の表情が少し変わった。「この前の俺みたいになりますね」「そういうこと」「それでも無理して走ったら……」秋雄は答えなかった。新人もその先は言わなかった。 しばらくして、新人が聞いた。「先輩は、そういう時どうするんです?」「疲れが溜まってるなと思ったら寝る」「どのくらい?」「時間を決めるより、いったん営業をやめる」「出庫したばかりでも?」「出庫したばかりでも」「お客さん探さない?」「探さない」「配車も?」「休むって決めたなら取らない」新人は少し驚いた。「そこまで切るんですね」「中途半端に休んでも、頭が仕事のままだからな」 新人は少し考えた。「休む時間も、自分で決めるってことですか」「そうだな」「売上が遅れてても?」「あとで取り返せるかもしれないだろ」「取り返せなかったら?」秋雄は笑った。「そういう日もあるよ」 新人も笑った。「先輩、そこはあっさりしてますね」「毎日全部うまくいくなら苦労しないって」 出庫した時刻は、仕事の始まりを示している。でも、自分の疲れまでそこから始まるわけではない。 まだ走り始めたばかりだから。まだ売上ができていないから。そんな理由で、自分の疲れを後回しにしない。 休む必要があるなら、出庫したばかりでも休めばいい。 明日10:00に更新
2026年08月18日
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第1話 小さいミスが続いたら「先輩、今日なんかダメなんですよ」待機所で、新人が秋雄に声をかけた。「売れてないの?」「いや、売上じゃなくて」「じゃあ何?」新人は少し考えた。「さっき曲がるところを通り過ぎたんです」「お客さん乗せて?」「はい。でも、すぐ気付いて謝って戻りました」「それは災難だったな」「それだけじゃないんですよ」新人は指を折りながら話し始めた。「その前は配車場所を一回勘違いして」「うん」「コンビニに入れようとしたら、駐車枠に一発で入らなくて」「うん」「さっきはお客さんに言われた行き先を、一回聞き返しました」秋雄が新人を見た。「珍しいな」「ですよね」「で、このあとどうする?」「どうするって……」新人は前に並んでいるタクシーを見た。「順番が来たら乗せますよ。せっかくここまで並んだんですから」「まあ、そうだよな」「売上だって、まだ全然できてませんし」秋雄は頷いた。「今日、何回ミスした?」新人がさっきの話を思い出した。「四つ……ですかね」「普段からそれくらいする?」「しませんよ」「じゃあ、なんで今日はするんだろうな」新人は少し考えた。「疲れてるんですかね」「かもしれないな」「でも、眠くないですよ」「眠くなければ疲れてないの?」新人は答えなかった。秋雄は続けた。「俺もあるよ」「先輩も?」「ある。道を一本間違えたり、いつもなら迷わないところで一瞬迷ったり」「はい」「車庫入れが妙に決まらなかったり」新人が笑った。「それ、今日の俺じゃないですか」「だから気になるんだよ」「一個なら、そんな日もある。二個目も、まあある」秋雄は少し間を置いた。「でも三つ、四つって続いたら、俺はちょっと疑う」「何をですか?」 「自分を」 新人が秋雄を見た。「自分?」「今日はいつもの俺じゃないかもしれない、って」「そんなこと考えるんですか?」「考えるよ」「まだ出庫したばかりでも?」「出庫したら、昨日までの疲れが全部消えるのか?」新人は少し考えた。「……消えないですね」「だろ?」前のタクシーが一台、客を乗せて待機所を出ていった。列が少し前へ進んだ。「じゃあ、先輩ならどうします?」「俺なら、この一本やったら休むかな」「今すぐじゃないんですか?」「せっかくここまで並んだんだろ?」「はい」「なら、順番が来たら一本やる。ただし、そのあと続けて走らない」新人は頷いた。「一本やって、いったん休憩」「そう」「まだ出庫したばかりでも?」 「疲れに出庫時刻なんて関係ないだろ」 新人は少し笑った。「確かに」また一台、前のタクシーが出ていった。新人は自分の車を少し前へ進めた。「じゃあ、この一本やったら休みます」「そうすれば?」「売上、遅れますけどね」「それは休んでから考えればいい」新人は頷いた。 大きな事故は起きていない。今日も普通に走れている。ただ、いつもならしない小さなミスが続いている。それも、自分から出ているサインなのかもしれない。 明日10:00に更新
2026年08月17日
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「先輩」「何?」「この連載、5話目だけ読めばいいんじゃないですか?」秋雄が新人を見た。「なんで?」「だって、最後にだいたい答えが出るじゃないですか」「まあ、出ることもあるな」「だったら最初から5話目を読めば早いですよね」「いいんじゃない?」新人が少し驚いた。「いいんですか?」「読む順番なんて、俺が決めることじゃないだろ」「ですよね」「5話目だけ読んで分かるなら、それでいいよ」新人は少し得意そうな顔をした。「やっぱりそうですよね」「うん」秋雄は頷いた。「で、明日それ使える?」新人の顔が止まった。「……え?」「読んだ答え。明日、自分で使える?」「それは……」「今日と同じ条件なら使えるかもしれないな」「はい」「でも、時間が違ったら?」「変わるかもしれません」「曜日が違ったら?」「それも」「天気が違ったら?」「……変わりますね」「じゃあ、どうする?」新人は黙った。 秋雄が笑った。「答えを先に知るのが悪いって言ってるんじゃないよ」「はい」「俺だって、分からない漢字があったら読み方だけ教えてほしいし」「僕もです」「パソコンの操作が分からなかったら?」「やり方だけ早く教えてほしいです」「だろ?」「はい」「答えだけで済むこともあるんだよ」 新人は少し考えた。「でも、この仕事は違う?」「違うことが多いかな」「なんでです?」「同じ場面が、あんまりないから」「なるほど」「昨日うまくいったことが、今日もうまくいくとは限らない」「はい」「俺がうまくいったことを、お前がそのままやってうまくいくとも限らない」新人が秋雄を見た。「じゃあ、先輩の話を聞いても意味ないじゃないですか」「そうなる?」「だって、同じようにやってもダメかもしれないんでしょ?」「同じことをするために聞くならな」「じゃあ、何を聞くんです?」秋雄は少し考えた。「なんで、そうしたのか」 新人が黙った。 「どこへ行ったかじゃなくて、なんでそこへ行ったのか」「はい」「待ったか、動いたかじゃなくて、なんでそう決めたのか」「はい」「それなら条件が変わっても、自分で考える材料にはなるだろ?」新人は頷いた。「なるほど」「だから5話目だけ読んで、そこまで分かるなら」「分かるなら?」「俺は何も言わないよ」新人が苦笑した。「なんか言い方がずるいなあ」「そう?」「最初から読めって言われた方が、まだ素直に読めますよ」「じゃあ、最初から読め」「急に言うんですか」二人で笑った。 答えだけ知りたい時はある。 読み方の分からない漢字。パソコンの計算式。スマートフォンの操作。 そんな時まで、最初から全部勉強し直す必要はない。 でも、判断の仕方まで知りたいなら、最後に出てきた答えだけでは足りないことがある。 何を見たのか。何を考えたのか。どこで迷ったのか。なぜ、その答えになったのか。 たぶん、持って帰ってほしいのは、そちらの方だ。 だから、5話目から読んでも構わない。 ただし。 途中に何か落ちていても、こちらは拾って届けませんので。 番外編 おわり
2026年08月16日
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第5話 次の乗務で一つだけ変える「先輩、昨日の日報、見直してみました」新人が言った。秋雄は振り返った。「へえ。珍しい」「珍しいって何ですか」「いや、ちゃんと続いてるなと思って」「一応、言われたことはやってますよ」「一応ね」新人は少し笑って、日報を広げた。「売上だけじゃなくて、件数と、仕事のつながりと、空白時間も見ました」「うん」「配車でつながったところと、自分で動いたところと、たまたま長かったところも分けてみました」秋雄は頷いた。「で?」新人は少し考えた。 「直したいところが、いっぱい出てきました」 「だろうな」「ここは戻らなくてもよかったかもしれないし」新人が一か所を指した。「ここは待ちすぎた気がするし」別のところを指した。「この辺は休憩を入れた方がよかったかもしれません」「うん」「あと、こっちは……」秋雄が手を上げた。「ちょっと待て」「はい?」「全部やる気か?」「ダメですか?」「明日の乗務で?」「せっかく気付いたんだから、直した方がいいでしょう?」秋雄は笑った。 「一つでいいよ」 「一つ?」「うん」「でも、他にも直すところありますよ」「あるだろうな」「だったら……」「全部いっぺんに変えたら、何が良かったのか分からなくなるだろ」新人が黙った。「それに、そんなに考えながら運転してたら疲れるぞ」「ああ……」「タクシーは試験じゃないんだから」 新人は日報を見た。「じゃあ、一つだけ選ぶんですか?」「俺ならそうする」「どれがいいですか?」「それも自分で決めろよ」「またそれですか」新人は苦笑した。秋雄も笑った。「明日の自分が一番変えやすそうなところでいいんじゃないか」新人はしばらく日報を眺めた。「じゃあ……」一か所を指した。「一本終わるたびに、同じ乗り場へ戻るのをやめてみます」「やめる?」「いや、必ず戻らないって意味じゃなくて」「うん」「降ろした場所で、まず次の仕事がないか考えてみる」秋雄は頷いた。「それならいいんじゃないか」 「で、次の日報で確認する?」 「はい」「うまくいったら?」「続ける」「ダメだったら?」「戻すか、また考える」「それでいい」新人は少し嬉しそうに日報を閉じた。 しばらくして、また開いた。「先輩」「なんだ?」「日報って、反省するためのものだと思ってました」「違うの?」「いや、反省もするんですけど」新人は言葉を探した。「なんていうか……次にどうするか考えるためのものなんですね」秋雄は少し笑った。「そうだな」 「今日の点数表じゃない」 新人が顔を上げた。秋雄は日報を指した。 「次の乗務の作戦表だ」 新人はその言葉を少し考えてから頷いた。「じゃあ、売上が低かった日も?」「材料になる」「売上が高かった日も?」「もちろん」「配車で売れた日も?」「見る」「当たりを引いた日も?」「ありがたく喜んでから見る」新人が笑った。 「結局、全部見るんですね」「せっかく一日走ったんだからな」 新人は日報をしまった。「じゃあ明日は、一つだけ試してみます」「うん」「ちゃんと休憩も入れながら」秋雄は頷いた。「それが一番大事かもしれないな」「売上より?」秋雄は少し考えた。 「無事に帰ってこないと、次の日報はないからな」 新人は一瞬黙ってから、「それ、先に言ってくださいよ」と笑った。秋雄も笑った。 日報は、その日の終わりに書く。でも、そこに残っているのは、終わった仕事だけではない。 次の乗務で試せることも残っている。 第10章終わり来週月曜日10:00に更新
2026年08月14日
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第4話 当たった判断が正しいとは限らない「先輩、今日は売れましたよ」新人が少し得意そうに日報を見せた。秋雄は一番下の金額を見た。「お、いいじゃん」「ですよね」「今日は何が良かった?」新人の顔が止まった。「何がって……売れたことじゃないですか?」「それはそうなんだけど」秋雄は日報を上から追った。「この長いの、結構いったな」「当たりでした」「いいなあ」「今日は運が良かったです」秋雄は頷いた。 「じゃあ、この一本がなかったら?」 新人は日報を見た。しばらく計算してから苦笑した。「だいぶ違いますね」「だろ?」「でも、長いのを引いたのも今日の売上ですよね?」「もちろん」「じゃあ、喜んでいいんですよね?」「喜べばいいじゃん」「なんだ。てっきり怒られるのかと思いました」二人で笑った。 新人はもう一度、日報を見た。「でも……」「うん?」「この売上って、全部同じ『売れた』なんですかね」秋雄は新人を見た。「どういうこと?」新人は一行を指した。「これは長いのをたまたま引いた」別のところを指した。「こっちは配車が続いた」さらに別の行を見る。「ここは、降ろしたあとに自分で場所を変えて乗せた」「うん」「なんか、同じ売上でも中身が違いますね」 秋雄は少し笑った。「そう見える?」「はい」 新人は日報を上からたどっていった。「ここは配車ですね」「そうだな」「一本終わったら、また次の配車が入ってる」「うん」「この辺は、ほとんど自分で考えずに走ってますね」秋雄は首を振った。「でも、配車には協力したんだろ?」「はい」「なら、それで仕事がつながった日だな」新人は頷いた。「じゃあ、配車で売れたのも悪くないんですね」「悪くないよ」「タクシーが少なくて、配車がどんどん入るなら、その方が効率いいこともありますよね?」「そういう地域もあるな」「配車係を意識して走っていれば、仕事をつないでもらえる」「うん」「それで十分売れるなら、無理に自分で探さなくてもいい」「そういうこと」 新人は少し考えた。「でも、車が増えて配車が減ったら?」秋雄は何も言わなかった。新人は日報を見たまま続けた。「自分でも仕事をつながないと、売上が作りにくくなる」「かもしれないな」 新人は今度は別の一行を指した。「ここは、降ろしたあとに自分で動いたところです」「なんで動いた?」「その時間なら、元の乗り場へ戻るより、こっちの方が仕事になるかなと思って」「で?」「乗りました」「じゃあ、それは?」新人は少し考えた。「自分の判断がうまくいったところ、ですかね」秋雄が頷いた。「そうだな」 新人は指で日報を追った。「長いのは、ありがたい当たり」「そうだな」「配車が続いたところは、配車に協力して仕事がつながった」「うん」新人はもう一つの行を指した。「で、自分で動いて乗せたところは、自分の判断がうまく働いた」「そういう見方でいいんじゃないか」 新人は日報を眺めながら笑った。「こうやって見ると、今日の売上って一種類じゃないんですね」「そうだな」「先輩、最初から分かってたでしょう?」秋雄は笑った。「さあな」「絶対分かってましたよね」「自分で気付いた方が忘れないだろ」 新人は日報をもう一度見た。売上の数字は一つ。でも、その数字の中には、配車でつながった仕事も、自分で考えて動いた仕事も、偶然の当たりも入っている。 どれか一つだけが正しいわけではない。その日の売上が、何からできていたのか。ただ分けて見てみる。 「日報って、思ったより色々書いてありますね」秋雄が笑った。「数字しか書いてないけどな」 明日10:00に更新
2026年08月13日
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第3話 空白時間を見ろ「先輩、昨日言ってた『間』って、ここですか?」新人が日報の時刻を指さした。前の仕事を終えてから、次のお客さんを乗せるまで。四十分ほど空いている。「そう。そこ」「四十分も空いてますね」「何してた?」「駅で待ってました」「ずっと?」「はい」秋雄は日報を見た。「じゃあ、こっちの三十分は?」「昼飯です」「こっちは?」「トイレ行って、コーヒー飲んでました」新人が苦笑した。「空白だらけですね」 「全部、一緒にするなよ」 「え?」「同じ三十分でも、中身が違うだろ」秋雄は最初の空白を指した。「これは待ってた三十分」次を指した。「これは飯を食ってた三十分」さらにその次。「これは休憩してた三十分」「でも、売上は全部ゼロですよ」「売上だけ見ればな」新人が日報を眺めた。「じゃあ、空白時間は短い方がいいってわけじゃないんですか?」「もちろん短い方が仕事はつながってる」「ですよね」「でも、ゼロにしようとするな」 新人が顔を上げた。「ゼロじゃダメなんですか?」「いつ飯食うんだよ」「あ」「トイレは?」「行きます」「疲れたら?」「休みます」「だろ?」 秋雄は椅子の背にもたれた。「いい日報ってな、ずっと実車が並んでる日報じゃないんだよ」「違うんですか?」「仕事と仕事の間が短くて、その中に待機と休憩がちゃんと入ってる」「休憩も?」「入ってた方がいい」新人は少し意外そうな顔をした。 「休憩まで削って売上作って、事故ったら何にもならないだろ」 新人が黙った。「タクシーって、仕事が続くと止まりづらいんだよ」「分かります」「売れてる日は特にな」「もう一本、もう一本ってなります」「そう。それが怖い」秋雄は日報を指で叩いた。「だから、空白を見る時は『何分空いてる』だけじゃなくて、『その時間を何に使ったか』を見る」「待機なのか」「うん」「移動なのか」「うん」「休憩なのか」「そう」新人は少し考えた。「何となく時間が過ぎてた、っていうのもありますね」「それもある」 「一番見るべきなのは、そこかもしれないな」 「何となく過ぎた時間?」「そう」「待つと決めて待ったなら、自分の判断だ」「はい」「休むと決めて休んだなら、それも自分の判断」「はい」「でも、どうしようかなって考えてるうちに四十分経ってたら?」新人が笑った。「……ありますね」「俺もあるよ」「先輩も?」「あるに決まってるだろ」二人で笑った。 秋雄は日報を新人に返した。「空白時間を見るって、自分を責めるためじゃない」「じゃあ?」「自分で使った時間だったか、何となく消えた時間だったかを見るんだよ」 新人は日報の時刻を、もう一度追い始めた。仕事をした時間だけではない。待った時間。動いた時間。休んだ時間。そして、何となく過ぎてしまった時間。 日報には、売上にならなかった時間まで残っていた。 明日10:00に更新
2026年08月12日
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第2話 何件乗せた? 「先輩、昨日の続きなんですけど」 「うん」 「売上だけじゃ、その日の営業が良かったか悪かったか分からないって話」 「そうだな」 新人は日報を広げた。 「で、先輩は最初に『何件乗せた?』って聞きましたよね」 「聞いた」 「なんで件数なんですか?」 秋雄は少し考えてから言った。 「売上を分解するためだよ」 「分解?」 「たとえば同じ三万円でも、三件で三万円と、十五件で三万円じゃ中身が全然違うだろ」 「ああ」 「一本一万円級が三本なら、かなり偏ってる」 「確かに」 「逆に十五件なら、短いのも混じってるだろうけど、それなりに仕事が続いてる」 新人は日報を見た。 「じゃあ、件数が多い方がいいんですか?」 「そうとも限らない」 「またですか」 「タクシーは、すぐ○か×かにしたがるな」 「分かりやすい方がいいじゃないですか」 「分かりやすいけど、雑になる」 秋雄は新人の日報の一行を指した。 「ここ。一本やってるな」 「はい」 「で、このあと?」 「また同じ乗り場に戻りました」 「次も?」 「戻りました」 「その次も?」 新人は黙って日報を見た。 「……戻ってますね」 秋雄は笑った。 「お前、今日ずっとその乗り場に飼われてたのか?」 「飼われてたって……」 「だって、一本終わるたびに帰ってるじゃん」 「そこなら乗ると思ったんですよ」 「それで乗れたなら、その判断自体は間違いじゃない」 「じゃあ、いいじゃないですか」 「でも、それしかやってないなら話は別だ」 新人が首をかしげた。 「どういうことです?」 「降ろした先で次の仕事につながる日ってあるだろ」 「あります」 「乗り込みでも、配車でもいい。降ろして、少し動いたら次が入る。また降ろした先で次が出る」 「ありますね」 「そういう日は、売上がそこまで高くなくても、俺は悪くないと思う」 「なんでです?」 「仕事が流れてるからだよ」 新人はもう一度、日報を上から見直した。 「じゃあ、件数を見るっていうのは、何本やったかだけじゃないんですね」 「そう」 「どうつながったかも見る」 「そういうこと」 秋雄は続けた。 「一本終わるたびに、長い空車で元の場所へ戻ってるのか」 「はい」 「それとも、降ろした場所を次の営業のスタート地点にできてるのか」 「はい」 「同じ十件でも、ずいぶん違うだろ」 新人は少し笑った。 「日報って、数字ばっかり見てました」 「普通はそうなる」 「売上と件数だけ」 「でも、件数もただ数えればいいわけじゃない」 秋雄は日報を閉じた。 「何件乗せたかより、どう仕事がつながったか」 「そこを見るんですね」 「うん」 「じゃあ次は?」 秋雄は時計を見た。 「次は、その間だな」 「間?」 「一本終わってから、次の一本まで何してたか」 新人は日報を見た。 数字と数字の間にある時間が、急に気になり始めた。 明日10:00に更新
2026年08月11日
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第1話 今日はダメでした「先輩、今日はダメでした」営業所に戻ってきた新人が、日報を見ながらため息をついた。秋雄は自分の片付けをしながら聞いた。「いくらだった?」新人が今日の売上を答える。「なるほど」「やっぱりダメですよね」 「いや。まだ分からん」 「え?」秋雄は新人の日報を指さした。「何件乗せた?」「件数ですか?」「そう」新人は日報を上から数え始めた。「一、二、三……」「先輩、売上聞いたじゃないですか」「聞いたよ」「じゃあ、だいたい分かるでしょう?」 秋雄は首を振った。「売上だけじゃ、その日の営業が良かったか悪かったか分からないんだよ」 「でも、給料は売上で決まりますよね?」「決まる」「だったら売上が低ければ、ダメな日じゃないですか」「会社から見ればな」新人が少し困った顔をした。「自分から見たら違うんですか?」「違う」 秋雄は新人の日報をもう一度見た。「売上が低くても、悪くない営業をした日はある」「逆に売上が高くても、あんまり参考にならない日もある」 「売上が高いのに?」「たまたま長いのを一本引いたとか」「ああ……」「配車が一日中つながって、配車係に使われるまま走ってたら売上ができたとか」「それ、いい日じゃないんですか?」「いい日だよ。売上的にはな」「じゃあ、何がダメなんです?」「ダメとは言ってない」秋雄は笑った。 「明日も同じことができるかって話だよ」 新人が黙った。「たまたま引いた長い仕事を、明日も引く方法なんてないだろ?」「……ないですね」「配車だって、明日も同じだけ入るとは限らない」「はい」「だから日報を見る時は、売上の数字だけ見て一喜一憂しない」秋雄は日報の一か所を指でなぞった。「どこで乗せて、どこで降ろしたか」その次を指した。「降ろしてから、次のお客さんまで何をしてたか」さらにその次。「それがどうつながって、一日の売上になったか」新人も日報をのぞき込んだ。「そんなところまで見るんですか?」「見る」 「日報は売上表じゃないからな」 「じゃあ、何なんです?」秋雄は答えず、新人に日報を返した。「まず自分で見てみろ」「何をです?」「今日、お前がどうやって仕事してたのか」 新人はもう一度、自分の日報を開いた。さっきまで一番下の売上金額しか見ていなかった紙に、乗車時刻と降車時刻が並んでいる。 同じ一日の記録なのに、少し違って見えた。 明日10:00に更新
2026年08月10日
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第5話 タクシーは、そんなに難しくない 新人が一件の仕事を終えて、営業所へ戻ってきた。 「先輩、さっきのお客さんに、安心して乗れましたって言われました」 「よかったな」 「でも、特別なことは何もしてないんです」 「何をした?」 「最初に挨拶して、走り出す前に道を確認しました」 「それから?」 「急ブレーキをかけないようにして、目的地まで普通に走りました」 「ほかには?」 「降りる時に、ありがとうございましたって言いました」 「十分じゃないか」 新人は、拍子抜けしたような顔をした。 「そんなことでいいんですか?」 「そんなことでいいんだよ」 秋雄は、自分の車のボンネットに落ちていた小さなゴミを拾った。 「タクシーなんて、そんなに難しい仕事じゃない」 「でも、道も覚えないといけないし、売上も考えないといけませんよね?」 「もちろん、それも必要だよ」 「やっぱり難しいじゃないですか」 「難しく考えることと、やるべきことを雑にするのは別だ」 新人は、少し考えた。 秋雄は、指を折りながら続けた。 「車をきれいにする」 「はい」 「臭いに気をつける」 「はい」 「挨拶して、感じよく接する」 「はい」 「安全に目的地まで送る」 「はい」 「まずは、それを毎回やる」 新人は、そこで黙った。 「一回なら、僕にもできます」 「一回できたなら、次もやればいい」 「毎回ですか?」 「毎回だよ」 秋雄は、拾ったゴミを捨てた。 「普通のことを普通にやる。 それだけで選ばれることがあるのが、この仕事だよ」 新人は、自分の車を振り返った。 「難しく考えすぎなくていい。 でも、普通のことを雑にしちゃいけない」 「そういうこと」 秋雄は運転席のドアを開けた。 「じゃあ、次の一件も感じよく行ってこい」 「心の底からじゃなくても?」 「お客さんが乗っている間でいいよ」 第9章終わり 来週月曜日10:00に更新
2026年08月07日
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第4話 難しい営業論の前にやること 新人は、休憩室でノートを広げていた。 駅の到着時刻。 病院の診察終了時間。 配車が入りやすかった場所。 待機した時間と、乗せた件数。 秋雄が、横からノートをのぞいた。 「ずいぶん勉強してるな」 「どこで待てば売上が上がるか、整理してるんです」 「悪くないな」 「ほかに覚えた方がいいこと、ありますか?」 「あるよ」 「何ですか?」 「後ろの窓を拭け」 新人は顔を上げた。 「窓ですか?」 「手の跡がついてる」 二人で駐車場へ出ると、新人の車の後ろの窓には、薄く指の跡が残っていた。 「こんなの、お客さんは気にしますかね?」 「気にしない人もいる」 「じゃあ……」 「気にする人もいる」 秋雄は、後部座席の足元を見た。 「マットにも砂が残ってるな」 「売上に関係あります?」 「直接いくら増えるかは、俺にも分からないよ」 新人は、少し安心したような、困ったような顔をした。 「ただ、難しい営業論を覚える前に、減らせる不快感は減らしておけ」 「新しい車じゃないとダメですか?」 「そんなことはない」 秋雄は、自分の車を指した。 「俺の車だって新しくはない。 でも、古い車と汚れた車は同じじゃないだろ」 新人は布を持ってきて、窓を拭き始めた。 「車をきれいにして、臭いに気をつけて、挨拶をする」 「それから、感じよく安全に送る」 「そんなことで、選ばれるんですか?」 「選ばれることはあるよ」 秋雄は、新人が拭いた窓を確認した。 「普通のことを普通にやる運転手なら、この人に頼んでも大丈夫そうだと思ってもらえるからな」 新人はノートを閉じた。 「今日は営業分析より、掃除ですね」 「窓を拭きながら考えればいいよ」 明日10:00に更新
2026年08月06日
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第3話 感じよくやれば、それでいい 休憩中、新人が缶コーヒーを飲みながら言った。 「毎回、感じよく接するのって難しくないですか?」 「難しい日もあるな」 「先輩でも、機嫌が悪い日はあります?」 「あるよ。 人間だからな」 「でも、お客さんには見せないんですよね?」 「なるべくな」 新人は、少し納得できない顔をした。 「それって、無理に愛想よくしてるだけじゃないですか?」 「それでいいんだよ」 「表面的でもいいんですか?」 「いいよ」 秋雄は、残っていたコーヒーを飲み干した。 「心の底から感じのいい人になる必要はない。 お客さんが乗っている間、感じよくやればいい」 「なんだか、嘘をついてるみたいです」 「お客さんに、自分の内面を披露する仕事じゃないからな」 「内面を披露する仕事じゃない……」 「疲れていても、最初に挨拶する。 聞かれたことには穏やかに答える。 乱暴な運転をしない。 降りる時まで態度を崩さない」 「それが接客ですか?」 「接客だよ」 秋雄は、空になった缶をゴミ箱へ入れた。 「お客さんだって、運転手に心から好かれたいわけじゃない」 「そうなんですか?」 「嫌な思いをせず、安全に目的地へ着きたいんだよ」 新人は、自分の缶コーヒーを見つめた。 「じゃあ、無理に面白い話をしなくてもいい?」 「頼まれてもいない自分語りもしなくていい」 「黙っていてもいい?」 「感じよく黙っていればな」 新人が笑った。 「それなら、僕にもできそうです」 「機嫌は自分の荷物だ。
2026年08月05日
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第2話 お客さんは乗る前に実力を知らない 新人は、秋雄が運転するワゴン車を見ながら言った。 「僕も地理を覚えたら、予約を任せてもらえますかね?」 「それは会社に聞かないと分からないな」 「じゃあ、接客を磨けばいいんですか?」 「それも大事だよ」 「やっぱり、選ばれる運転手になるには、いろいろ必要なんですね」 秋雄は、ワゴン車の窓を拭きながら聞いた。 「お客さんは、乗る前にお前の実力を知ってるか?」 「知りません」 「道を知ってるかどうかは?」 「分かりません」 「運転がうまいかどうかは?」 「それも、乗ってみないと分かりません」 「じゃあ、お客さんは何を見て、この車なら大丈夫そうだと判断する?」 新人は、しばらく考えた。 「車ですか?」 「そうだな」 「ほかには……運転手の見た目?」 「車が汚れていないか。変な臭いがしないか。 ドアが開いた時に、ちゃんと挨拶するか」 秋雄は、拭き終えた窓を外から確認した。 「表情や声の調子も見られてる」 「そんな短い時間でですか?」 「短い時間だからこそだよ」 「でも、本当の実力とは関係ないですよね?」 「関係ないようで、関係ある」 秋雄は布を畳んだ。 「実力は、乗ってからじゃないと分からない。 でも、感じの悪さは、乗る前に伝わることがある」 新人は、自分の車の方を振り返った。 「乗ってもらってからが接客だと思ってました」 「ドアが開く前から始まってるよ」 「最初の数秒で、大丈夫そうか見られてるんですね」 「そういうこと」 秋雄は、もう一度ワゴン車を眺めた。 「お客さんは、運転手の経歴書を読んで乗るわけじゃない。 目の前にある車と、最初の挨拶で判断するしかないんだよ」 明日10:00に更新
2026年08月04日
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第1話 どうして先輩に予約が入るんですか 営業所へ戻ると、秋雄は配車係からワゴン車の鍵を渡された。 新人が、不思議そうにその様子を見ていた。 「先輩、今日はいつもの車じゃないんですか?」 「予約が入ってるんだよ」 「また予約ですか」 新人は、少し考えてから聞いた。 「先輩って、どうして予約の仕事を任されるんですか?」 「どうしてって?」 「道をよく知ってるとか、接客がうまいとか。何か特別な理由があるんですよね?」 秋雄は、受け取った鍵を見ながら答えた。 「タバコを吸わないから、ってこともあるよ」 「えっ、それだけですか?」 「それだけ、とは言えないな」 秋雄はワゴン車のドアを開けた。 「車の中は、逃げ場がないからな」 「逃げ場?」 「電車なら席を移れる。店なら外へ出ることもできる。 でも、タクシーは目的地に着くまで降りにくいだろ」 新人は、後部座席をのぞき込んだ。 「タバコを吸わないことも、接客になるんですか?」 「吸わないことが偉いわけじゃない。 臭いがしない車を用意してほしい、という予約もあるってことだよ」 「もっと特別な技術が必要なのかと思ってました」 「俺が特別に優秀だから選ばれたと思った?」 「少しだけ」 「期待させて悪かったな」 新人は笑った。 秋雄は、車内の臭いを確かめるように息を吸った。 「でもな、こういう単純な条件で仕事が決まることはある」 「単純な条件……」 「難しい営業論を考える前に、まず、お客さんが安心して乗れる車にしておくことだよ」 明日10:00に更新
2026年08月03日
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第5話 謝るだけでは、自分が削れる「じゃあ、新人のうちは謝り続けるしかないんですね」新人が言った。「そんな訳あるか」秋雄は、すぐに否定した。「謝るだけでは、自分が削れていく」道を間違えるたびに謝る。お客様の希望と違う道を走り、そのたびに謝る。分からない場所へ向かい、同じような失敗を繰り返す。それでは、仕事をすること自体が嫌になってしまう。「だから、地理を覚えるんだ」秋雄は言った。「一度教わった店を覚える。目印を覚える。いつも使われる道を覚える」「接客対応も必要ですか?」「走り出す前に希望を聞けば、食い違いを防げる。説明の仕方を覚えれば、お客様を不安にさせずに確認できる」地理を覚えて、間違いを減らす。接客対応を磨いて、食い違いを防ぐ。それでも起きた失敗は、きちんと謝って立て直す。「ベテランになれば、謝らなくて済みますか?」「ベテランだって謝るよ」秋雄は答えた。「ただし、同じ準備不足で何度も謝らないようにする」「謝る回数を減らすんですね」「そうだ」秋雄は新人を見た。「謝るのは、新人が通る道だ。そこに住みつくな」そして、もう一度言った。「謝り方を覚えるのが最初の仕事なら、謝らなくて済む自分を作るのが、その次の仕事だ」第8章終わり来週月曜日10:00に更新
2026年07月31日
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第4話 謝ったら死ぬ病「でも、先に謝ったら、僕が全部悪いみたいになりませんか?」新人が言った。秋雄は、少しだけ首を傾けた。「世の中には、謝ったら死ぬ病に罹っている人が結構いる」「そんな病気があるんですか?」「医学書には載ってない。しかも、患者本人には自覚がない」新人は困った顔をした。「道を間違えても謝らない。ナビが悪い。お客様の説明が悪い。会社が教えなかった。自分以外の何かを悪者にしないと気が済まない」秋雄は、新人の顔を見た。「キミはそうなのか?」「違いますよ」「なら、自分の確認が足りなかった時は謝れ。道を間違えた時も謝れ」「謝れば済むんですか?」「謝るだけじゃ済まない」まず、自分の確認不足を認める。それから、正しい目的地とルートを確認する。どのように戻るのか、お客様へ伝える。「申し訳ありません、だけではダメなんですね」「当たり前だ」秋雄は言った。「すみませんを何回並べても、車は目的地に着かないからな」謝ることは、話を終わらせるためではない。お客様と運転手が、もう一度同じ目的地へ向かうために必要なことだった。明日10:00に更新
2026年07月30日
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第3話 道を知っているふりをするな「知らない場所を言われた時は、どうすればいいんですか?」新人が尋ねた。「確認すればいい」「でも、運転手なのに知らないと思われますよ」「知ったふりをして、反対方向へ走るよりいいだろ」新人は返事をしなかった。行き先の名前を聞いたことはある。しかし、正確な場所までは分からない。そんな時、新人は黙ってナビを操作してしまう。「何も言わずに画面を触り始めたら、お客様は不安になる」「分かりません、と言えばいいんですか?」「言い方がある」秋雄は、お客様へ話すように言った。「申し訳ありません。場所を正確に確認させてください」続けて、ナビを操作するしぐさをした。「こちらの施設で間違いないでしょうか」「それなら、知らないとは言っていませんね」「知らないことをごまかしてもいない」目的地を正確に確認する。ナビで場所を見る。必要なら、お客様へ目印を聞く。分からないまま発車するより、その場で確認した方がいい。「確認するのは、恥ずかしいことじゃないんですね」「確認しないで走る方が恥ずかしい」秋雄は言った。「道を知らないことより、知らない道を知っているふりして走る方が危ないんだよ」明日10:00に更新
2026年07月29日
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第2話 希望を聞くのと、丸投げは違う翌日。新人は、お客様へ希望の道を聞いた。教わった通りに実践したはずだった。ところが、お客様から少し嫌な顔をされたという。「何て聞いたんだ?」秋雄が尋ねた。「どの道を通ればいいですか、と聞きました」「それは、道案内を丸投げしただけだ」「希望を聞けと言ったじゃないですか」「希望を聞けとは言った。お客様に運転手をやらせろとは言ってない」新人は黙った。「ご希望のルートはありますか、と聞くんだ」「同じことじゃないんですか?」「違う」お客様に希望があれば、その道を確認する。特に希望がなければ、運転手が道を考える。「お任せしますと言われたら、どうするんですか?」「では、大通りを経由してまいります。そう伝えればいい」「ナビ通りで行きます、ではダメですか?」「ナビを参考にして決めるのはいい。だが、お客様へ説明するのは運転手だ」お客様に希望を聞くのは、責任から逃げるためではない。どの道を使うか、走り出す前に認識を合わせるためだ。「希望を聞いて、最後は自分で決めるんですね」「そうだ」秋雄は言った。「希望を聞くのと、道案内を丸投げするのは違う。運転するのは、お前なんだからな」明日10:00に更新
2026年07月28日
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第1話 走り出す前に聞け「先輩。お客様に、いつもの道と違うと言われました」営業所へ戻ってきた新人が言った。「いつ言われたんだ?」「大きな交差点を曲がったあとです」「それじゃ遅い」「でも、行き先はちゃんと聞きましたよ」「行き先と、そこまでの道は別だ」同じ目的地へ向かうにも、道は一つではない。距離の短い道。混雑を避ける道。お客様が普段から使っている道。「お客様から希望を言ってくれればいいのに」「言わない人もいる。運転手なら、いつもの道で行ってくれると思っている人もいるからな」「じゃあ、どう聞けばいいんですか?」秋雄は答えた。「ご希望のルートはありますか」「いつも使っている道はありますか」「この二つを、走り出す前に聞くんだ」「ナビを設定してからですか?」「目的地を確認して、ナビで場所とルートを見る。その上で、お客様の希望を聞けばいい」「特に希望がないと言われたら?」「自分が使う道を伝えてから走り出す」新人は、小さくうなずいた。「道を間違えないために聞くんですね」「それだけじゃない」秋雄は言った。「お客様と運転手が、同じ道を考えているか確認するために聞くんだ」車が走り出してからでは、戻るにも距離と料金がかかる。「ルートの食い違いは、走り出す前なら防げる」秋雄は新人を見た。「だから、走り出す前に聞け」明日10:00に更新
2026年07月27日
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第5話 お力になれれば「じゃあ、新人のうちは駅へ行かない方がいいんですね」「基本はな」秋雄は答えた。「地理を覚えないまま、駅のタクシープールへ並び続けるのは勧めない」「やっぱり、駅は禁止ですか?」「禁止とは言ってない」秋雄は続けた。「タクシープールに空車が一台もいなくて、お客様が並んでいる時は行け」「そこが試験会場なんですよね?」「試験のために、お客様を使うな」新人は、少し黙った。「空車がなくて、お客様が困っている。だから応援に入るんだ。その仕事が、結果として自分の地理の試験にもなる」「知らない行き先を言われたら、どうするんですか?」「事情を正直に伝えて、丁寧に確認する」秋雄は、お客様へ話すような口調で言った。「普段、この辺りでは営業していないのですが、駅に空車がなかったので、少しでもお力になれればと思いまして」それから、続けた。「ご希望のルートはありますか。いつも使っている道はありますか」「それなら、多少は教えてもらえますかね」「お客様へ道案内を丸投げするんじゃないぞ。ナビで目的地を確認して、お客様の希望を聞いて、自分でルートを考えるんだ」配車で地理を覚える。空車がいない駅で、自分の地理を試す。分からなかった場所は、次に覚える。その繰り返しで、営業できる地域は少しずつ広がっていく。「先輩」「何だ」「ナビがあれば、道を知らなくても仕事を始められますか?」「始めることはできる」新人の表情が、少し明るくなった。秋雄は続けた。「でも、道を知らないままで続けられる仕事じゃない」第7章終わり次の章は来週月曜日10:00更新
2026年07月24日
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第4話 配車を教室にする「じゃあ、地理はどうやって覚えればいいんですか?」新人が尋ねた。「本来なら、流し営業をやるのが一番早い」「流しですか?」「走りながらお客様を乗せて、いろいろな場所へ行く。仕事をするたびに、町がつながっていく」「でも、この辺りで流しても、お客様はいませんよ」「だから、配車をやるんだ」配車で指定された迎車先へ向かう。町名を知る。住宅地へ入る道を覚える。そこで暮らすお客様を乗せ、普段使っている店や病院へ送る。「でも、行き先は乗せるまで分かりませんよね?」「だから、接客対応が必要になる」秋雄は言った。「ご希望のルートはありますか」「いつも使っている道はありますか」「そうやって丁寧に聞けば、お客様がよく使う道を教えてくれる」地元で知られている店。曲がる時の目印。混雑を避ける抜け道。建物へ入りやすい方向。お客様は、その地域で暮らすために必要な地理を知っている。「お客様に道を教えてもらうんですね」「丸投げするんじゃない。一度教わったことを、次の仕事で使えるように覚えるんだ」迎車先と目的地が、地図の上の点になる。その間を走った道が、線になる。点と線が増えれば、町の空白は少しずつ埋まっていく。「地図を端から丸暗記しようとするな」秋雄は言った。「お客様がよく使う店と、目印と、抜け道から覚えろ。それが、早い時期に地域のプロになる近道だ」「配車が、地理の勉強になるんですね」「仕事をもらうだけじゃない」秋雄は答えた。「配車を、自分の教室にするんだよ」明日10:00更新につづく
2026年07月23日
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第3話 ナビは料金を払わない「でも、目的地さえナビに入れば、道を知らなくてもできるんですよね?」新人は、真顔で言った。秋雄は数秒、新人の顔を見た。「んな訳ないだろ」「でも、目的地を入力すれば、ルートが表示されますよ」「表示されるのは、ルートの候補だ。お客様が希望している道とは限らない」ナビが選んだ道と、お客様がいつも使っている道が違うことはある。距離が長くなれば、料金も変わる。「ナビ通りに走ったと説明すれば、分かってもらえませんか?」「その料金を払うのは、ナビか?」「……お客様です」「だったら、ナビが出した線を、そのまま正解にするな」ナビに頼り切ると、お客様へ希望の道を確認しなくなる。表示された矢印だけを追うため、通った道路や目印も覚えない。地理を覚えないから、次の仕事でもナビへ頼る。そして、画面ばかり気にしていれば、安全運転からも離れていく。「じゃあ、ナビは使わない方がいいんですか?」「誰がそんなことを言った」秋雄は答えた。「ナビで目的地を確認する。表示されたルートを見る。お客様の希望も聞く。その上で、どの道を使うか考えるんだ」「走り出す前に、ルートを決めるんですね」「そうだ」秋雄は前を指さした。「ナビは、道を考えるための道具だ。運転手の代わりに考える道具じゃない」明日10:00更新につづく
2026年07月22日
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第2話 その街だけで通じる暗号「先輩。南の本店って、結局、何なんですか」新人は、まだ引っかかっている様子だった。秋雄が店の場所と正式な名前を説明すると、新人は小さく声を上げた。名前だけは、どこかで聞いたことがあるらしい。「でも、お客様は正式な店名を言ってくれませんでした」「地元の人にとっては、あの呼び方で十分なんだよ」「初めて聞いた人には分かりませんよ」「そうだな。知らない人間には、暗号みたいなものだ」その街だけで通じる呼び方がある。移転した病院を、昔の名前で呼ぶ人。閉店した店を、今でも交差点の目印にする人。正式な施設名ではなく、以前から使われている呼び名を使う人。地元で暮らしている人は、それで話が通じる。「ナビで検索すれば、出てきますか?」「その呼び方で登録されているとは限らない」「じゃあ、どうするんですか」「少しずつ覚えるしかない」秋雄は言った。「地理っていうのは、道路や町名だけじゃない。お客様が、その町を何と呼んでいるかまで含めて地理なんだ」「お客様の言葉を覚えるんですか」「そうだ」秋雄は新人を見た。「お客様が口にした暗号を、地図の上の場所に変える。それも、タクシー運転手の仕事だよ」明日10:00更新につづく
2026年07月21日
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第1話『駅なら簡単だと思った』「先輩。駅で、お客様に断られました」営業所に戻ってきた新人が、浮かない顔で言った。「お前が乗車を断ったんじゃないのか」「逆です。僕が断られたんです」「どうやったら、運転手がお客様から断られるんだよ」新人は、駅のタクシープールに入った。しばらく待つと、ひとりのお客様が近づいてきた。ここまでは、何も問題なかった。新人が後部ドアを開けると、お客様は乗り込みながら行き先を告げた。「南の本店まで」新人は返事ができなかった。何の本店なのか。店なのか、会社なのか。どの辺りにあるのかも分からなかった。「……南の本店、ですか?」新人が聞き返すと、お客様は少し黙った。「分からないなら、後ろの車に乗るよ」お客様は車を降り、そのまま後ろのタクシーへ向かった。「駅なら、お客様が向こうから来てくれるので、簡単だと思ったんです」新人が言った。「乗せるところまではな」「え?」「駅では、お客様を探さなくていい。その代わり、行き先は選べない」秋雄は、新人の顔を見た。「地理が分からないのに、駅の乗り場につけてどうするんだ。まず配車をやれ」「駅には、つけない方がいいんですか?」「そういう話じゃない」秋雄は言った。「駅は、お客様を探さなくていい場所だ。道を知らなくていい場所じゃない」明日10:00更新につづく
2026年07月20日
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第5話 運を営業方法にするな数日後。駅近くの会場で、また大きなイベントが開かれていた。 終了時刻が近づくと、後輩は駅前へ向かった。タクシー乗り場には、すでに長い待機列ができている。 後輩は列の最後尾へ入らず、少し離れた場所に車を停めた。改札から出てくる人の数。タクシーを待つ人の数。並んでいる空車の数。 しばらく様子を見た。 イベント客は多い。けれど、それ以上に空車が集まっている。 後輩は、駅前を離れた。 向かったのは、普段なら数台のタクシーが待っている病院の周辺だった。その日は、待機している車が一台もいない。 ほどなくして配車が入った。病院から住宅地まで。 お客様を降ろすと、近くのスーパーマーケットから手が上がった。そこから別の住宅地へ。 さらに、住宅地で降ろした直後、近くの会社から配車が入った。 長い仕事ではない。それでも、空車でいる時間は短かった。 夕方。後輩は、駅前をもう一度通った。待機列はまだ長い。 昨日までの自分なら、最後尾に並んでいたかもしれない。後輩は速度を落とさず、そのまま通り過ぎた。 夜。営業所へ戻ると、先輩が洗車をしていた。 「今日はどうだった」 「ロングはありませんでした」 「そうか」 「でも、病院から住宅地。スーパーから住宅地。会社から駅。それから配車が二件」 「ずいぶん乗せたな」 後輩は日報を見せた。 「昨日みたいな大きな金額はありません」 「売上は?」 「昨日より上です」 先輩は洗車用のホースを止めた。 「じゃあ、今日は当たりが多かったな」 後輩は少し笑った。 「先輩の言っていた意味が、やっと分かりました」 「何がだ」 「当たりは、ロングだけじゃない」 「そうだな」 「空車になった場所で、次の仕事に出会えることも当たりです」 先輩はうなずいた。 「駅には行かなかったのか」 「様子だけ見ました」 「昨日の成功体験は?」 「置いてきました」 「もったいないな。県境まで行けたかもしれないぞ」 後輩は、一瞬だけ先輩の顔を見た。 「もう引っかかりませんよ」 先輩は笑った。 たまたま、大きな仕事に出会う日もある。それを喜ぶのは悪くない。 けれど、その偶然を、毎日の営業方法にしてはいけない。 後輩は日報を閉じた。 「濡れ手で粟は、たまにあります」 先輩が洗車を再開する。 「でも、それを実力だと思うな」 水しぶきが、車の屋根を流れていった。 昨日の当たりは、昨日のものだ。今日のお客様は、今日の街の中にいる。第6章 おわり次の章は来週月曜日10:00更新
2026年07月17日
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第4話 当たりを丸ごと真似するな翌日。後輩は病院近くのコンビニで、先輩の車を見つけた。缶コーヒーを二本買い、一本を先輩に渡した。 「昨日のことなんですけど」 「駅で待ち続けた話か」 「はい」 後輩は自分の缶を開けた。 「イベントの終了時刻と、特急の到着時刻を見たこと自体は、間違ってなかったですよね」 「間違ってない」 「じゃあ、何が駄目だったんでしょう」 「昨日のロングまで、同じように出ると思ったことだ」 後輩は少し考えた。 「でも、同じイベントで、同じ特急でした」 「昨日のお客様は、なぜ県境近くのホテルまで行った」 「駅の近くが満室だったからです」 「今日は?」 「分かりません」 「送迎バスがあったかもしれない。空いているホテルがあったかもしれない」 先輩は缶コーヒーをひと口飲んだ。 「そもそも、同じようなお客様が来るとは限らない」 後輩は、昨日の日報を思い出した。 イベントが終わった。特急が着いた。県境までのお客様が乗った。 三つの出来事を、後輩は一つにつなげていた。 「イベントと特急は、人が動く理由です」 後輩が言った。 「そうだな」 「でも、県境まで行ったのは、そのお客様個人の事情だった」 「そういうことだ」 「そこまで再現できると思ったのが、勘違いだったんですね」 先輩はうなずいた。 「昨日うまくいった時は、何が再現できて、何が偶然だったのか分けて考えろ」 「イベントの時間は調べられる」 「ああ」 「特急の到着も分かる」 「ああ」 「駅に集まっている空車の数も見られる」 「そこまで見れば、昨日より一つ先へ進める」 後輩は缶コーヒーを持ったまま、先輩を見た。 「ロングが出るかどうかは?」 「分からない」 「やっぱり、分からないんですか」 「行き先は、お客様が決めるからな」 先輩は車へ戻ろうとして、足を止めた。 「当たりを丸ごと真似するな」 後輩が顔を上げる。 「使える条件だけ拾え」 先輩は車に乗り込んだ。後輩は、駅で待ち続けた二時間半を思い出した。 自分が信じていたのは、分析ではなかった。昨日の結果を、もう一度欲しがっていただけだった。明日10:00更新につづく
2026年07月16日
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第3話 今日は当たりが多かったな夜。後輩は営業所へ戻った。結局、駅前から大きな仕事は出なかった。 何件か乗せたが、売上は思ったほど伸びていない。車を停めると、近くで先輩が日報を書いていた。 先輩は、いつもより少し機嫌がよさそうだった。 「お疲れさまです」 「おう。今日は当たりが多かったな」 後輩は顔を上げた。 「ロングですか」 「いや、ロングはない」 「予約ですか」 「予約もない」 後輩は、自分の日報を持ったまま先輩の方へ歩いた。 「じゃあ、何が当たったんですか」 「住宅地から病院。病院の近くから住宅地」 先輩は日報を指で追った。 「そのあと会社から駅。ホテルから飲食店。そこからまた配車」 「全部、それほど遠くないですよね」 「遠くはないな」 「それで当たりなんですか」 「空車になるたびに、次の仕事に当たった」 後輩は、自分の日報を見た。先輩には、昨日のロングほど大きな料金はない。 それでも件数が多く、売上は後輩より伸びていた。 「駅前は、どうだった」 「車が多すぎました」 「そうだろうな」 「でも、イベントもあったし、特急も来たんです」 「みんな同じことを考えたんだろ」 「だから先輩も、駅に来たんじゃないんですか」 「様子を見にな」 先輩は日報を閉じた。 「みんなが駅に集まったから、俺は出た」 「なぜですか」 「普段使いの場所から、空車が消えるからだ」 後輩は黙った。 「住宅地も、病院も、薬局も、いつもなら近くに空車がいる」 先輩は続けた。 「でも今日は、その車まで駅へ行った」 「だから、先輩は駅の外で乗せられた」 「そういうことだ」 後輩は、昼間の長い待機列を思い出した。イベントがある。駅に人が集まる。だから、駅へ行く。 間違った考えではなかった。ただ、同じことを考えた運転手が多すぎた。 「客が集まる場所だけ見るな」 先輩が言った。 「車が消えた場所も見ろ」 後輩は、自分の日報を見た。昨日の成功を再現しようとして、今日の流れを見ていなかった。 「お前は昨日のロングを見てた」 先輩は立ち上がった。 「俺は今日の空車不足を見てた」 後輩は何も言えなかった。 先輩は洗車場へ向かいながら、足を止めた。 「お前が待ってたのは、今日のお客様じゃない」 後輩が顔を上げる。 「昨日の成功体験だ」 先輩は、そのまま歩いていった。後輩は、昨日の日報と今日の日報を並べた。 同じ時間。同じ乗り場。同じイベント。 違っていたのは、お客様だけではない。空車タクシーの動きも、昨日とは違っていた。明日10:00更新につづく
2026年07月15日
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第2話 待った時間が、足をつかむイベントが終わる時刻を過ぎた。特急列車も到着した。 駅から人は出てくる。けれど、タクシー乗り場へ向かう人は思ったほど多くなかった。 待機列には、昨日より多くの車が並んでいる。一台が出ても、次のお客様が来るまでに時間がかかった。 後輩は時計を見た。昨日、県境までのお客様が乗った時刻を、十分過ぎていた。 さらに二十分が過ぎた。今日の売上を頭の中で足す。 このままでは、目標に届かない。一度、乗り場を出た方がいい。 そう思った時、前の車のドアが開いた。後輩は、動くのをやめた。 次は自分かもしれない。昨日のような県外客かもしれない。 ようやく先頭に出た時には、駅に入ってから一時間半が過ぎていた。駅から一人の男性が歩いてきた。 後輩は姿勢を正した。男性が後部座席に乗る。 「駅の裏側までお願いします」 「かしこまりました」 後輩は、いつも通り丁寧に車を出した。男性を降ろし、笑顔で頭を下げた。 「ありがとうございました」 ドアが閉まった。後輩は、メーターの金額を見た。 一時間半待って、この金額か。 昨日は十五分で、県境まで行った。 お客様が悪いわけではない。分かっていても、昨日との差を比べずにはいられなかった。 時計を見る。売上を見る。残っている勤務時間を考える。 焦りが、急に現実の金額になった。 このまま別の場所へ向かった方がいい。そう思って車を走らせた。 けれど、交差点に差しかかると、後輩は駅の方向を見た。 自分が離れた直後に、次の車がロングを引くかもしれない。ここで取り返さなければ、待った時間まで無駄になる気がした。 後輩は、もう一度駅前へ戻った。待機列は、さらに長くなっていた。 その頃。先輩は住宅地から病院まで、お客様を乗せていた。 病院で降ろした直後、近くの薬局から手が上がった。薬局から住宅地へ一件。 お客様を降ろすと、近くの会社から配車が入った。会社から駅へ一件。 駅で降ろした先輩は、待機列には入らず、そのまま駅前を離れた。 イベントに合わせて、多くの空車が駅へ集まっている。その分、住宅地や病院の周りから、普段いるはずのタクシーが消えていた。 駅前では、後輩が何度も時計を見ていた。前の車が動くたびに、期待する。動かないたびに、焦りが増える。 気づけば、最初に駅へ入ってから二時間半が過ぎていた。 離れにくくなっていたのは、乗り場ではない。ここで使ってしまった時間だった。明日10:00更新につづく
2026年07月14日
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第1話 昨日ロングが出た乗り場昨日の夕方。駅近くの会場で、大きなイベントが終わる時刻だった。 ほぼ同じ頃、特急列車が駅に到着した。改札から大勢の人が出てきて、駅前のタクシー乗り場は急に動き始めた。 後輩が先頭に出てから、十五分ほど経った時だった。大きな荷物を持った男性が、後部座席に乗り込んだ。 「県境近くのホテルまでお願いします」 「県境近くですか」 「駅の周りが全部満室で、そこしか取れなかったんです」 料金は、普段の何件分にもなった。営業所へ戻った後輩は、何度も日報を見直した。 イベントが終わる時間。特急列車が着く時間。駅前に人が集中する時間。 条件が重なれば、駅から大きな仕事が出る。後輩は、そう考えた。 翌日。イベントは、今日も開催されている。終了時刻も同じ。昨日と同じ特急列車も来る。 後輩は、昨日とほぼ同じ時刻に駅前の乗り場へ入った。すでに多くのタクシーが並んでいた。 待機列の少し前に、先輩の車がいた。後輩は車を降りると、先輩の窓を軽く叩いた。 「先輩、今日もイベントがありますよ」 「知ってる」 「昨日は、この時間に県境まで行きました」 「聞いたよ」 「昨日と同じ特急も来ます」 先輩は、長くなった待機列を見た。 「今日は車が多いな」 「それだけ仕事が出ると思って、みんな来てるんでしょうね」 「そうだろうな」 後輩は自分の車へ戻った。イベントが終われば、人が駅へ流れてくる。特急から降りる人もいる。 昨日と条件は同じだ。今日も、大きな仕事が出るかもしれない。 しばらくすると、先輩の車が待機列から外れた。お客様は乗っていない。 後輩は窓を開けた。 「先輩、出るんですか」 「車が集まりすぎてる」 「でも、これからイベントが終わりますよ」 「だから出るんだ」 「どういうことですか」 「あとでな」 先輩の車は、駅前を離れていった。後輩は、長い待機列をひとつ前へ進めた。 昨日は十五分だった。今日も、そろそろ動くはずだ。明日10:00更新につづく
2026年07月13日
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第5話 鎧は脱げ。道具まで捨てるな翌日の夕方。後輩は駅前の待機列に入っていた。前には先輩の車がいる。 しばらくして、一人の男性客が後輩の車に乗った。 「この近くのホテルまでお願いします」 「かしこまりました。ご希望の道はありますか」 「初めて来たので、分かりません」 「では、大通りを使って向かいます。混んでいれば、途中で状況をご案内します」 「お願いします」 後輩は静かに車を出した。途中、少し渋滞している場所があった。 「この先が少し混んでいます。別の道もありますが、道幅が狭くなります」 「それなら、このままで大丈夫です」 「承知しました」 後輩は、それ以上説明を重ねなかった。男性も、窓の外を眺めながら静かに座っていた。 ホテルに着くと、入口に近い場所へ車を寄せた。 「こちらが正面玄関です」 「分かりやすく説明してくれて、助かりました」 「ありがとうございます」 後輩は、前職の話を一つもしなかった。それでも、以前の仕事で身につけたものは使っていた。相手の希望を聞く。選択肢を短く伝える。決めるために必要な情報だけを渡す。 仕事を終えて駅前へ戻ると、先輩の車がまだ待機していた。後輩は後ろにつき、窓を開けた。 「先輩」 「何だ」 「今日、前職の経験を使えた気がします」 「何を話した」 「何も話してませんよ」 「軍曹も?」 「もう忘れてください」 先輩は笑った。 「お客様の希望を聞いて、道の選択肢を説明しました」 「それで?」 「分かりやすかったと言ってもらえました」 「なら、ちゃんと使えてる」 後輩は少し考えた。 「前職の鎧を脱ぐって、前職を全部捨てることじゃないんですね」 「当たり前だ」 「肩書きや自慢話はいらない。でも、身につけたスキルは使っていい」 先輩は前を向いたまま言った。 「鎧は脱げ。道具まで捨てるな」 後輩は、静かにうなずいた。 前職で何をしていたかを、お客様に知ってもらう必要はない。今の運転。今の接客。今の説明。そこに生きていれば、それでいい。 先輩の車の前に、お客様が近づいてきた。ドアが開く。 発進する直前、先輩が窓越しに言った。 「じゃあな、軍曹」 「最後にそれを言いますか」 先輩の車が出ていった。後輩は苦笑いしながら、待機列をひとつ前へ進めた。もう、前職を語ろうとは思わなかった。使えるものだけを、今の仕事に差し出せばいい。第5章 おわり次の章は来週月曜日10:00更新
2026年07月10日
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第4話 説明力は、黙って使え午後。後輩は駅前から、年配の男性を乗せた。行き先は、市内の大きな病院だった。 「初めて行くんだけど、正面玄関でいいのかな」 男性は、少し不安そうだった。 「診療科はお分かりになりますか」 「紙には書いてあるんだけどね」 男性が、封筒から案内用紙を取り出した。後輩は信号待ちの間に、書かれている建物名だけを確認した。 「正面玄関ではなく、隣の建物に入るようですね」 「そうなのか」 「入口の近くまでお送りします。着いたら、受付の場所も確認します」 「助かるよ。病院って建物が多くて、よく分からないんだ」 「初めてだと分かりにくいですよね」 後輩は、それ以上余計な説明をしなかった。病院に着くと、案内表示が見える位置で車を停めた。 「こちらの入口です。入って右側に受付があるようです」 「なるほど。右側ね」 「はい。案内用紙は、すぐ見せられるように持っておくと分かりやすいと思います」 男性は紙を手に持ち直した。 「丁寧に教えてくれて、ありがとう」 「お気をつけて」 男性が建物へ入るのを確認してから、後輩は車を出した。 夕方。病院近くのコンビニで、先輩に会った。 「今日、初めて病院へ行くお客様を乗せました」 「迷わなかったか」 「案内用紙を見せてもらって、入口を確認しました」 「そうか」 「受付の場所も、短く説明しました」 「前の仕事では、人を教えてましたって話したのか」 「話してません」 「軍曹だったことも?」 「話すわけないでしょう」 先輩は少し笑った。 「でも、説明はできたんだな」 「はい」 後輩は缶コーヒーを開けた。 「前職で、人に順番をつけて説明する癖がついていたので」 「それでいい」 「経歴を話さなくても、前職の経験は使えるんですね」 「むしろ、その方がいい」 先輩は病院の建物を見ながら言った。 「説明力は、説明力として使え」 「自分の紹介には使うな、ですか」 「そういうことだ」 後輩は、先ほどの男性の言葉を思い出した。丁寧に教えてくれて、ありがとう。 お客様に伝わったのは、前職の肩書きではない。今のタクシー接客だった。明日10:00更新につづく
2026年07月09日
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第3話 話すより、先に聞け午後。後輩は駅前から一人の女性客を乗せた。行き先は、後輩もよく知っている場所だった。 「いつもの道はありますか」 後輩が聞くと、女性は少し考えた。 「大通りを通ってもらえますか」 「かしこまりました」 大通りは、少し距離が長い。裏道を使えば、もう少し早く着く。以前の後輩なら、そう説明していたかもしれない。 けれど、その日は何も言わず、大通りへ車を向けた。 しばらく走ると、女性が口を開いた。 「細い道が、ちょっと苦手なんです」 「そうでしたか」 「前に、狭い道で怖い思いをしたことがあって」 後輩は、それ以上理由を聞かなかった。 「では、このまま大通りで向かいます」 「お願いします」 女性の声が、少し安心したように聞こえた。目的地に着くと、女性は料金を支払いながら言った。 「最初に道を聞いてくれて、助かりました」 「ありがとうございます」 後輩は、それだけ答えた。 そのあと、病院近くのコンビニで先輩の車を見つけた。後輩は缶コーヒーを買い、先輩のところへ歩いていった。 「先輩、さっきのお客様に、道を確認してから出ました」 「普通だろ」 「知っている行き先だったんです」 「それでも確認したのか」 「はい。大通りを希望されました」 「理由は」 「細い道が苦手だったそうです」 先輩はうなずいた。 「もし先に、裏道の方が早いですよって説明してたら、たぶん余計な話になってました」 「そうだな」 「前の仕事では、こちらから正しい方法を提案することが多かったんです」 「タクシーでは、正しさが一つとは限らない」 「早い道が、安心できる道とは限らない」 「分かってきたな」 後輩は缶コーヒーをひと口飲んだ。 「教えるより先に、聞くんですね」 「お客様の希望を知らないまま、正解を出すな」 後輩は、先ほどの女性の言葉を思い出した。最初に道を聞いてくれて、助かりました。 前職で身につけた説明力は、捨てなくていい。ただし、説明するのは相手の希望を聞いたあとだ。 「今日は前職の話、しなかったのか」 先輩が聞いた。 「しませんでした」 「軍曹も?」 「絶対にしません」 先輩は少し笑った。後輩も、今度は赤くならずに笑った。明日10:00更新につづく
2026年07月08日
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第2話 前職は語るより使え翌日。後輩は駅前の待機列で、先輩の後ろについた。昨日の「軍曹」がまだ頭に残っているのか、いつもより少し静かだった。 しばらくして、後輩が窓を開けた。 「先輩」 「何だ、軍曹」 「もうやめてくださいよ」 先輩は少し笑った。 「で、何だ」 「お客様と会話するのは、悪いことじゃないですよね」 「悪くない」 「前職の話だって、会話のきっかけになるじゃないですか」 「なる時もある」 「じゃあ、昨日の何がいけなかったんですか」 先輩は、駅前を歩く人たちを見ながら答えた。 「お前が話したかっただけだからだ」 後輩は黙った。 「でも、お客様は笑って聞いてくれました」 「聞いてくれたことと、聞きたかったことは別だって言っただろ」 「はい」 「タクシーの接客は、お前の経歴を紹介する時間じゃない」 後輩は、ハンドルに置いた指を動かした。 「じゃあ、前職の経験は役に立たないんですか」 「そんなことはない」 「人を教えてきた経験も?」 「説明する時に使える」 「責任者をしていた経験は?」 「周りを見る時に使える」 「お客様と話してきた経験は?」 「相手が話したいのか、静かに乗りたいのかを考える時に使える」 後輩は少し考えた。 「前職の話をするんじゃなくて、前職で覚えたことを使う」 「そうだ」 先輩は前を向いたまま言った。 「前職を語るな。そこで身につけたものを、黙って差し出せ」 後輩は、その言葉を繰り返した。 「黙って差し出す」 「感じのいい接客だった。説明が分かりやすかった。安心して乗れた」 先輩は続けた。 「お客様がそう思えば、前職の経験はちゃんと生きてる」 「軍曹だったことは、知られなくてもいい」 「むしろ知られない方がいい」 後輩は苦笑いした。その時、乗り場に一人のお客様が近づいてきた。先輩の車のドアが開く。 発進する直前、先輩が窓越しに言った。 「肩書きを話すより、仕事で見せろ」 先輩の車が出ていった。後輩は列をひとつ前へ進めた。明日10:00更新につづく
2026年07月07日
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第1話 前の仕事の話が長い運転手駅前から乗ってきた女性は、行き先を告げると、後部座席で楽しそうに話し始めた。 「この前ね、ずいぶん話好きな運転手さんに乗ったのよ」 「そうでしたか」 「前は、人を教える仕事をしていたんですって」 先輩は前を向いたまま、相づちを打った。 「責任者もしていたそうよ。前の会社ではこうだったとか、今の仕事ももっと効率よくできるはずだとか、いろいろ教えてもらっちゃった」 女性は怒っているわけではない。むしろ、面白かった出来事を思い出すように笑っている。 「前の職場では、何て呼ばれていたと思う?」 「何でしょう」 「軍曹ですって」 先輩の頭に、ひとりの後輩の顔が浮かんだ。 ん? それ、あいつじゃないか。 「ニックネームまで教えてもらったんですか」 「そうなの。悪い人じゃないのよ。とても熱心な人でね」 女性は少し間を置いて、窓の外を見た。 「ただ、私はほとんど聞いているだけだったけど」 先輩は、それ以上何も聞かなかった。目的地に着くと、女性は機嫌よく降りていった。 そのあと、先輩は病院近くのコンビニに車を入れた。駐車場の端に、後輩の車が停まっている。後輩は車の横で、缶コーヒーを飲んでいた。 先輩は後ろから近づくと、気安く肩をぽんと叩いた。 「よぉ、軍曹」 後輩が振り返った。 「……は?」 「さっきのお客様、お前の前職にずいぶん詳しかったぞ」 後輩は、しばらく先輩の顔を見ていた。そして、半拍遅れて目を見開いた。 「……あっ」 顔がみるみる赤くなった。 「ニックネームまで話したのか」 「いや、その……話の流れで、ちょっと」 「ちょっとで、軍曹まで行くか?」 後輩は目をそらした。 「でも、お客様も楽しそうに聞いてましたよ」 先輩は缶コーヒーのふたを開けた。 「聞いてくれたことと、聞きたかったことは別だ」 後輩は何も言えなかった。前職の経験を話すことが、悪いわけではない。けれど、タクシーのお客様が乗りたいのは、自分の経歴ではない。 先輩は、赤くなった後輩の顔を見ながら言った。 「前職の話は、もう少し短くしろ」 「はい……」 「続きは明日だ、軍曹」 「それ、もう呼ばないでください」 先輩は少し笑った。後輩の顔は、まだ赤いままだった。明日10:00更新につづく
2026年07月06日
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第5話 今いる場所からやり直す翌日の午後。後輩は病院近くのコンビニに車を入れた。運転手仲間のグループチャットには、朝から何件か当たり報告が流れていた。遠い仕事。予約の連続。大きな売上。後輩は一度だけ画面を見て、そのまま閉じた。今日は追わなかった。駅が動いたと書かれていても、今いる場所から駅までは遠い。病院が動いたという情報も、送られた時刻は一時間前だった。今さら向かっても遅い。後輩は、自分の現在地を見た。近くには病院。住宅街。ドラッグストア。少し先には駅へ向かう道路がある。今ここから、何ができるか。考えていると、配車が入った。迎え先は近くの住宅。行き先は駅だった。後輩は落ち着いて応答した。お客様を駅まで送り届けると、そのまま乗り場へ入った。少し待つと、今度は荷物を持った女性が乗ってきた。行き先は近くのホテルだった。大きな仕事ではない。けれど、二件続いた。夕方、病院近くのコンビニで先輩に会った。「今日はどうだった」「普通です」「普通か」「はい。長いのはありませんでした」「残念だったな」後輩は少し笑った。「でも、他の車の後は追いませんでした」「そうか」「今いる場所から考えました」「それで?」「近くの配車を取って、駅へ送って、そのまま乗り場に入りました」「悪くない」「ホテルまででしたけど」「乗せたんだろ」「はい」「じゃあ仕事だ」後輩は、以前にも同じ言葉を聞いた気がした。「先輩」「何だ」「取れなかった仕事って、忘れた方がいいんですか」先輩は少し考えた。「失敗として覚えておくのはいい」「でも、売上として数えない」「そうだ」「他の人の当たりも、参考にはする」「でも、追いかけない」「はい」先輩は缶コーヒーを開けた。「過去の仕事は、地図の後ろにある」「地図の後ろ?」「今いる場所からは見えないってことだ」後輩は少し笑った。「先輩、たまに分かりにくいこと言いますね」「分かればいい」「今いる場所からやり直せ、ってことですよね」「そういうことだ」後輩はスマートフォンを開いた。グループチャットには、また新しい当たり報告が流れていた。少しだけ画面を眺めた。それから、右上のメニューを押した。「退会する」確認画面が表示された。後輩は迷わず押した。「抜けたのか」「はい」「参考にするんじゃなかったのか」「見なくていい情報まで追いかける癖がつくので」先輩は少し笑った。後輩はスマートフォンを伏せた。自分の空車は、今ここにある。次の仕事も、今いる場所から始まる。第4章 おわり次の章は来週月曜日10:00更新
2026年07月03日
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第4話 次の一件まで逃す夕方、後輩は駅前の待機列に入っていた。前には三台。長く待つほどではない。けれど、後輩の頭の中には、昼間の配車がまだ残っていた。現着した時に表示された、遠い行き先。画面の中を急速に遠ざかっていった、お客様の位置情報。あれに乗れていれば。何度考えても、同じところに戻ってくる。その時、乗り場の横を一人の女性が通り過ぎた。後輩は気づくのが遅れた。女性は少し先で手を上げた。道路を走ってきた空車が止まり、そのまま乗せていった。「今の、乗れたんじゃないか」後ろから声がした。先輩の車だった。後輩は窓を開けた。「気づくのが遅れました」「何見てた」「別に何も」「昼間のロングか」後輩は黙った。先輩はため息をついた。「取れなかった一件を追って、次の一件まで逃したな」「でも、乗り場の前を通り過ぎたんですよ」「手を上げた時には、もう別の空車が来てた」「はい」「お前が先に気づいていれば、声をかけられたかもしれない」後輩は、女性を乗せたタクシーが走り去るのを見た。昼間の遠い仕事。今の目の前の仕事。どちらも、もう戻ってこない。「悔しいですね」「昼間の分か」「両方です」「なら、次は切り替えろ」「簡単に言いますね」「簡単じゃない」先輩は静かに言った。「俺も昔、取れなかった仕事を引きずって、そのあと二件逃したことがある」後輩は少し驚いた。「先輩でも?」「あるよ」「どうしたんですか」「三件目で、ようやく自分が馬鹿らしくなった」後輩は思わず笑った。「遅いですね」「遅い。だからお前には二件目で気づけと言ってる」駅前に電車が着いたらしい。改札の方から、人が少しずつ出てくる。先輩が前を向いた。「取れなかった仕事は、過去だ」「はい」「次の仕事は、今いる場所に来る」後輩も駅舎の方を見た。今度は、画面の中ではなく、目の前の人の流れを見た。明日10:00更新につづく
2026年07月02日
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第3話 グループチャットの当たり昼過ぎ、運転手仲間のグループチャットにメッセージが入った。〈駅から県外まで来ました〉続けて、料金が分かる写真も送られてきた。後輩は思わず画面を見直した。かなり大きな金額だった。さらに別の運転手が書き込んだ。〈病院前からも長いのが出たらしい〉後輩は、今いるコンビニの駐車場から駅へ向かった。駅前なら、もう一本出るかもしれない。しかし、着いてみると待機列は長かった。しばらく待ったが、列はほとんど動かない。今度はグループチャットに、別の情報が流れた。〈今日は病院が動いてる〉後輩は駅を離れ、病院へ向かった。ところが到着した頃には、病院前も静かになっていた。夕方、営業所の洗車場で先輩に会った。「今日は忙しかったか」「移動は忙しかったです」「仕事は」「それが、あまり」先輩は後輩の顔を見た。「何を追ってた」「グループチャットです」「なるほど」「駅から遠いのが出たっていうから駅へ行って、病院が動いてるっていうから病院へ行きました」「それで?」「着いた時には、どっちも終わってました」先輩は洗車用のタオルを絞った。「グループチャットに出た時点で、その仕事はもう過去だ」「でも、流れが続くこともあるじゃないですか」「ある」「なら、参考にはなりますよね」「参考にはしろ。答えにはするな」後輩は少し考えた。「違うんですか」「その人が当たりを引いた時刻と、お前が画面を見た時刻は違う」「はい」「その人がいた位置と、お前がいた位置も違う」「はい」「情報を見てから移動していたら、街の流れより一歩遅い」後輩は今日の動きを思い返した。ずっと、誰かが乗せたあとの場所へ向かっていた。「俺、他の車の後を追ってたんですね」「正確には、他の車が終えた仕事の後だな」「一番遅いやつですね」「気づいただけ偉い」先輩は少し笑った。「他人の当たりは、景気の参考にはなる」「はい」「でも、次も同じ場所から出るとは限らない」後輩はグループチャットを閉じた。画面の中には、誰かの大きな売上が残っている。自分の空車は、今ここにある。「人のロングを追うより、自分が次に動ける場所を考えろ」後輩はうなずいた。今日はじめて、他人の仕事ではなく、自分の現在地を見た。明日10:00更新につづく
2026年07月01日
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