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2024.06.26
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カテゴリ: 学術



【福澤諭吉をめぐる人々】 小幡篤次郎

​​​三田評論 ONLINE より 転載 ​​​

https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/202406-1.html

福澤研究センター蔵
  • 西澤 直子 (にしざわ なおこ)

    慶應義塾福澤研究センター教授

『福澤諭吉全集』の編者 富田正文 氏は、『三田評論』第621号(1963年12月)で、小幡篤次郎(おばたとくじろう)について、「福澤先生が慶應義塾を開いて今日の大を成したその蔭には、終始一貫、この人の働きがあったことを、われわれは決して忘れてはならないのである。小幡篤次郎こそは、福澤先生の女房役として、蔭の力として、慶應義塾の大成の上に最も大きな功績のあった人で、福澤先生に対してはその門下の第一人者であり、塾外に対しては福澤先生に代って義塾を代表するのはこの人を措いて外に人はなかったといってよい」と語っている。

福澤の協力者という小幡像は、同時代人の認識でもあった。たとえば明治23(1890)年3月5日付の朝野新聞には「慶應義塾あることを知るもの、必ず小幡篤次郎君あることを知り。福澤翁の名を知るもの、誰か君の名を記せざらん」とあり、歿後の各紙の訃報も「氏資性温厚、深く故福澤先生の信任を受け、厚く同社中に敬重せられ、就中(なかんずく)慶應義塾子弟の教育上、貢献する処甚だ大なりし」(明治38年4月18日付『毎日新聞』)、「夙(つと)に英学を修め福澤諭吉氏を助けて我邦文化の先導者たり」(同日付『二六新聞』)と報じている。しかし、時代を経るごとに小幡の名前は「決して忘れてはならない」どころか、慶應義塾の中ですら、知る人の少ない存在となってしまった。

初の著作集

彼にはこれまで伝記らしい伝記がなく、歿後『時事新報』に明治38年5月14日から12回に亘って掲載された「小幡先生逸話」と、彼の遺志と寄付で設立された中津図書館が、大正15(1926)年の「読書週間」に作成した『小幡篤次郎先生小伝 幷小幡記念図書館の沿革概要』という小冊子程度である。

ようやく2022年3月から、慶應義塾と一般社団法人福澤諭吉協会の共同事業として、初の 著作集 の刊行が開始された。彼には ウェーランド 、トクヴィル、J・S・ミルらの著作からの訳出や実用本の翻訳、小学生向けの歴史書・地誌の執筆など様々な業績がある。第1巻には『英文熟語集』『天変地異』『博物新編補遺』『生産道案内』、小幡篤次郎小伝、第2巻には『西洋各国銭穀出納表』『上木自由之論』『弥児(ミル)氏宗教三論』『議事必携』および明治11年までの新聞・雑誌掲載文、第3巻には『英氏経済論』、第4巻には『小学歴史階梯』『小学歴史』『小学地誌階梯』および明治12年以降の新聞・雑誌掲載文が収録され、後続巻には『英式艦砲全書』『舶用汽機新書』、差出書簡等を収録する予定である。

福澤の塾に入る

小幡篤次郎は天保13(1842)年、福澤諭吉に遅れること7年、豊前国中津(現大分県中津市)に生まれた。ともに中津藩士の子であったが、諭吉の父 百助 (ひゃくすけ)が十三石二人扶持の下士であったのに対し、篤次郎は二百石取りの上士の子であった。父から四書五経の句読を習い、その後中津藩の儒者野本白巌(はくがん) らに学び、藩校進脩館に入学、同校で教育に従事するまでになった。儒学で身を立てていた彼に転機が訪れたのは、元治元(1864)年のことであった。文久2(1862)年のヨーロッパ視察で、その文明の高さを目の当たりにした福澤は、洋学による人材育成を急務と考え、自らの塾の改革のために協力者を中津に求め、小幡に白羽の矢を立てたのである。

小幡の最晩年の回想(『慶應義塾五十年史』)によれば、福澤とは「伯父」を通じ、腹掛一枚を着けた4、5歳の頃からの知り合いで、『西洋事情』は刊行前に「閲読するの栄」を得ていた。しかしこの時はすでに父が亡くなっていたため残される母を思い、福澤に誘われないよう面会を避けていた。ところが「伯母の宅」で図らずも邂逅し、「江戸にて書生の餓死せるを聴かず」と強く説得され江戸へ赴くことになった。

慶應義塾之記

幕末から明治初期に入塾した門下生の回想によると、小幡は自らも学びまた講義する傍ら、入塾の手続きや寄宿生の監督も行っていた(『三田評論』第223号、第233号、第250号他)。福澤は「大君のモナルキ」のもと安定した封建体制下で文明開化が進むと考えていたが、幕府は予想以上に早く終焉を迎えた。咸臨丸の提督であった 木村喜毅 (よしたけ)の慶応4(1868)年2月の日記を見ると、福澤はその頃「学校」について相談している。そして4月になると、新たな学塾の創立宣言といえる「慶應義塾之記」が発表される。 松山棟庵 によれば、小幡の文案であった(『慶應義塾百年史』上巻)。

同書では「会社」をたて「同志諸子相共に講究切磋」し洋学に従事することは「私」ではないと述べ、広く「公」として、「士民を問わず」志ある者すべての来学を望むとある。すなわち慶應義塾は、知の共有をめざしていた。小幡は明治3、4年頃に山口良蔵に宛てた書簡で、福澤を「マーストル」と呼び「吾党」を意識する。小幡にとって、福澤は先達であり同志でもあった。

小幡(左)と松山棟庵(慶応3 [1867]年頃)
(福澤研究センター蔵)

翻訳出版活動

小幡は、『天変地異』や『博物新編補遺』などの出版を通じ、女性や子どもも含めた幅広い層に、物理学や生物学などに基づいた新しい知識を紹介した。その活動は『天変地異』と福澤諭吉著『訓蒙窮理図解』(明治元年初秋)が、お互いの書中で補完関係にあることを明示しているように、福澤と相協力しあうものであった。また福澤を受け継いで講義を担当したフランシス・ウェーランドの経済書は、明治4(1871)年から足かけ7年の歳月をかけて完訳している(『英氏経済論』全9巻)。

『学問のすゝめ』初編が、福澤と「同著」であることはよく知られているが、小幡は名義貸しにすぎないと捉えられている。福澤も、生前の全集で自身の著作としている。ただ同編には、最後の4分の1程度を除きほぼ同文の「県内士民え文学告諭文」という前身がある。中津県ではこれを、「新聞紙」同様に普く世の中に流布させるために、上木伺いを大蔵省に提出していた。『学問のすゝめ』初編との内容の相違から考えて、県の大小参事らと進めたであろう「県内士民え文学告諭文」に全く小幡の関与はないのか、再考の余地があろう。

福澤は小幡の学識を深く信頼し、明治8(1875)年の『文明論之概略』緒言では小幡の添削を受けて、理論の「品価」が大いに増したと述べ、明治15年『時事新報』発兌の際にも、論説について「特に福澤小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はす」とある。明治14年刊行の津田権平編『新聞投書家列伝』には、儒学の素養は小幡が一歩先んじているが故に、福澤は「西書」を翻訳する際には必ず小幡の「校正雌黄」を経なければ上梓しない、と記されている。

福澤との関係

それでは福澤と小幡は常に良好な関係であったのか。明治20(1887)年になると福澤は、専門科を設けて、慶應義塾を「ユニヴハシチ」にしたいと考えるようになる。当時大蔵省に出仕していた 小泉信吉 を総長として迎え、そのもとで浜野定四郎、 門野幾之進 、益田英次による改革が行われることになった。しかしそこに小幡の名はなかった。福澤の甥中上川彦次郎は心配して福澤に進言したが、それに対して「いらざる心配」で、小幡は「顧問」「隠居之地位」になると述べている(明治20年10月1日付書簡)。

この時の小幡の反応は明らかではないが、明治10年暮れには1年滞在する予定であったロンドンから半年強で帰国を余儀なくされ、経営悪化の時期に福澤から廃塾の相談を受けながら、双肩に慶應義塾の運営を担い、明治16年に学生に乞われて行った講義では「平生事務鞅掌、単に眼を載籍に注ぐを得ず。故に十分の講談を為して諸君をして満足せしむる能はず」と言い訳せねばならない程、小幡は忙しく学事に尽くしてきた。突然の隠居の引導は、納得できるものであったのだろうか。結局小泉体制はうまくゆかず、とりまとめたのは小幡であり、明治23年3月には塾長に就任した。

さらに明治29年には、大幅な赤字を出し続ける大学部の存続をめぐって、当時塾長であった小幡は、大学部を廃止して高等科を充実させるという中上川の案に賛成し、評議員会で廃止、高等科への学科増設が決定した。ところが福澤はあくまでも存続を主張し、次の評議員会で決定を覆してしまった。小幡は後任も決まらぬうちに、30年8月13日付で塾長を辞任する。彼としては、最高議決機関の決定を等閑視することは組織の長として許されないことである、と考えたのではないか。その後8か月弱で副社頭になるが、『時事新報』「小幡先生逸話(九)」には、「塾務に関係せず」「唯事の大体を総攬するのみ」になったので「最早や安心なり」と中津へ戻るつもりであったところ、福澤から小幡でなければ「誰れか本山第二の住職たるものぞ」と述べて引き留められたとある。福澤歿後の明治34年10月に慶應義塾社頭に就任、38年4月16日に胃癌により亡くなった。墓所は東京広尾祥雲寺である。

小幡研究の重要性

貴族院の議事録を読むと、議員としての小幡の発言すら、背景に福澤の意見があることを勘繰られ、小幡が「私一己ノ考」であると反論する場面も見られる。そして世間だけでなく、福澤にも小幡を自身と同化する一面があったことは否めない。

初の著作集に収められた著作や書簡からは、小幡自身の社会構想が明らかになり、彼自身の信念として、慶應義塾や交詢社の運営に携わったことがわかる。今後研究が進み、多方面から小幡の業績が明らかになることを望みたい。それはとりもなおさず、日本の近代化の現実の担い手は誰であったのか、すなわち明治維新の本質の解明に繋がるであろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。








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最終更新日  2024.06.26 10:47:50


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