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「森林植物園のアジサイ」 徘徊日記 2024年6月10日(月)六甲山あたり さて、本日の自動車徘徊の最終目的地は森林植物園でした。お目当てはアジサイです。「もう、そろそろ、咲いとると思うんやが。」 森林植物園は六甲山の山中にありますが、南の市街から歩いたりすると、新神戸あたりから布引の滝を越えてという、まあ、ボクにとっては、とんでもないハイキングということになりますが、今日は自動車ですからね(笑)、午前中の和田岬からであれば、有馬街道をさかのぼって北区の山田町あたり、甲北高校とかがあるあたりですが、そこらあたりから六甲山の自動車道路にはいればすぐです。まあ、今日は、板宿でお昼を食べて、鵯峠を経由しましたが、あっという間です。 で、到着です。 ご覧のように、アジサイ園は緑でした(笑)。しかし、まあ、これはこれで壮観です。 実は、森林植物園にはたくさんの種類のアジサイが植わっていて、色づいた花ももちろんあったのですが写真を撮り忘れたのです(笑)。 で、まあ、撮った写真を並べますね。 案内図ですね。かなり広い公園で、起伏にも富んでいます。案内していただいたHさんは、ストック両手の歩行ですから、歩いたのは地図の左下あたりだけです。 さっきもありました。ヤマアジサイという系統のアジサイで七段花という花だそうです。江戸時代にオランダからやって来たシーボルトという人が「おタキさん」 と名付けた日本固有種らしいですね。Hさんが解説してくれました。 こちらも、ヤマアジサイ。 こちらは藍姫だそうです。 他にも、四国の剣山原産の剣の舞とか、伊予絞、伊予の盃、伊予の残雪と、まあ、お酒の名前にすればよさそうな花名の看板があって面白がって歩いたのですが、写真は撮り忘れました(笑)。 で、まあ、これが森林植物園! といえば、やっぱりメタセコイアの並木道ですね。 この辺りは人もいなくて、なかなかいい風情でした。 今日は月曜日ですが、結構な人出でしたよ。駐車場にもたくさん停まっていましたが、歩いて来ていらっしゃるハイカー風の方も多くて、みなさんボクより高齢の方に見えて、感心しました。お元気で何よりです。お目当てのアジサイには1週間ばかり早かったようですけどね(笑)。にほんブログ村
2024.06.27
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原泰久「キングダム 72」(集英社) トラキチクン、6月のマンガ便に入っていました。原泰久の「キングダム72」(集英社)です。 始皇15年、西暦、紀元前232年、趙軍30万 VS 秦軍25万 頭佐平原で激突する闘いの火ぶたは、すでに71巻で切って落とされていましたね。 趙将李牧の撹乱戦術に乗せられて、大慌ての李信の飛信隊の動きまで描かれていましたが、本戦場頭佐平原で、秦の総大将王翦に挑みかかるのは趙の新しい三大天、司馬尚、初登場です。 この人ですが、まあ、ものすごいですね。あやつるの、所謂、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)です。 で、これが一閃すると はい、こうなりますね。まあ、原さんの絵の特徴でもあるのですが、胴体も首も、そのまま、真っ二つです(笑)。ありえません!(笑) 趙軍の殿(しんがり)で、3万の兵を率いていたはずですが、敵味方が入り乱れる戦場の真ん中を、一気に突破し、秦軍総大将王翦の首を狙って急襲してきます。エー、ピンチちゃうの!?王翦、絶体絶命!やん。えー、どんなんの? 秦を贔屓する理由は何もないのですが、まあ、マンガを読んでいる地層いう気分になりますよね(笑)。 で、73巻に続くといういつものパターンなわけですね。 本巻は、戦場に次ぐ戦場の描写 の連続です。疲れます(笑)。一番困るのは、今、目の前で戦っているのは趙の将軍なのか、秦の武将なのか、誰が、どっちなのか、形勢がどうなっているのか、全くわからないことですね(笑)。 大雑把な紹介で、申し訳ありませんが、どうも、秦軍、大苦戦の模様ですね。まあ、次巻を読めば、少しは判るんじゃないかということで、73巻を待ちましょう(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.26
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カルロス・サウラ「壁は語る」元町映画館 ここのところ、なんとなく、ボンヤリ暮らしている毎日ですが、先週の土曜日に気を取り直して、元町映画館にやって来てみると、主演の役者さんのトークがあるとかで、満員札止め! でした。ありえないことが起こったと啞然としましたが、他にあてもないし、仕方がないので元町ケーキを買って帰りました。 格別見たい映画というわけではありませんでしたが、月曜日の今日、雨も上がったので、土曜日のリベンジというか、ちょっと、意地になって来てみるとプログラムがかわっていました。オーマイガー! 見ようと思っていたのは「東京カウボーイ」でしたが、その作品は朝の10時に変わっていて、やって来た、お昼の2時30分には、カルロス・サウラという、2023年に亡くなったらしい、スペインの監督の「壁は語る」というドキュメンタリーをやっていました。 仕方がないので見ましたが、これが、まあ、面白くて、納得して帰りました。こういうこともあるのですね(笑)監督自身が、1万年以上も前に壁に描いた人たちを訪ねて、たとえば、まず、アルタミラとか、ラスコーとかの洞窟を訪ねたり、洞窟絵画ののレプリカを作っている人のところに行ったり、で、もう一つは、現代、今、この時に壁に絵を描いている人を訪ねて、インタビューするというか、話し合うというかのシーンを組み合わせて映画にしているのですが、1万年以上の時を隔てて、その壁が語っていることは何なのか? ということをさぐろうとしたドキュメントでした。 コンピュータ用語に、タグ付けという言葉があります。よくわかりませんが、多分、元々は「荷札」のことだと思うのですが、壁に描く人たちは絵のどこかにタグをつけしている! という話が、ボクには面白かったですね。 壁に手をかざして、スプレーすれば、手形だけが白く残りますが、あの作業を、現在の壁描きアーティストたちも、1万年前の洞窟アーティストたちもやっているらしくて、洞窟絵画の中に手形が映し出された時には、「おー!」 でしたね(笑)。 いつだったか見た、バンクシーという人のドキュメンタリーも面白かったのですが、今回の映画に出てくる、現代の壁絵の制作過程も面白かったですね。 監督とアーティストのおしゃべりも刺激的で、おもしろかったのですが、この監督も亡くなったんですね。ザンネンです。 偶然見た映画でしたが、拍手!でした。 実は、この映画、カルロス・サウラという監督の「VIVA SAURA!」 という追悼特集の1本だったのですね。もう1本が「情熱の王国」という作品で、先週、元町映画館で掛かっていたらしいのですが、見損ねましたね。また、どこかで見られタライイナという、この映画の感触でした(笑)。 監督 カルロス・サウラ脚本 カルロス・サウラ ホセ・モリーリャス撮影 フアナ・ヒメネス リタ・ノリエガ編集 バネッサ・マリンベル音楽 アルフォンソ・G・アギラルキャストカルロス・サウラミケル・バルセロペドロ・サウラホセ・ルイス・アルスアガロベルト・オンタニョン2022年・75分・スペイン原題「Las paredes hablan」2024・06・24・no079・元町映画館no247
2024.06.25
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小林まこと「JJM女子柔道部物語 社会人編01」(EVENING KC 講談社) 久々に届きました。トラキチクンの2024年6月のマンガ便です。小林まこと「JJM女子柔道部物語」(講談社)の「社会人編」開幕!です。 第1話から第8話まで、高校生活最後のおバカシーンが満載です。で、いよいよ登場したのが、この方、柔ちゃんですね。 中学生選手として彗星のように現れて、やがて世界王者として一つの時代を作った、あの田村亮子さんがモデルです。1990年のことですが、テレビを見ているカムイ南高校の二瓶さんは、中学時代のヤワラちゃんと戦って、ぶん投げられていたんですね。このマンガに、そのシーンがあったのかどうか、まったく覚えていませんが、要するにその時代のことですね。 で、エモちゃんたちがカムイ南高校を卒業し、大学生、社会人として巣立っていったのが1991年の3月だったわけです。 エモちゃんは「音羽海上」という会社に就職が決まって、いよいよ上京するというのが第9話です。 全日本から世界へ向けての活躍がいよいよ始まりますが、親一人子一人で育てて来られたお母さんは、涙を隠してのお別れです。でも、まあ、当のエモちゃんは・・・(笑)。 第2巻、楽しみですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.24
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瀬田なつき「違国日記」シネリーブル神戸 予告編を見て、さてどうしたものか?? とためらっていると、看護士をなさっている、お友達の女性からメールが来て、「見ましたか?見ませんか?」 ということなので、結構、イソイソ出かけました。 見たのは瀬田なつきという、多分、お若い、女性監督の「違国日記」でした。「違国日記」ってなに? どういう意味? まあ、原作のマンガの題がそのまま使われているのでしょうね。見終えても、判然とはしませんでしたが、ひょっとしたら、主人公の一人、高校生のアサちゃんが、作家であるおばさんにすすめられてつけ始めたノートのことかなと思いましたが、まあ、確かではありません(笑)。 映画と関係があるか、ないかわかりませんが、この映画の、少女がオバサンにすすめられて「日記」を付けるという設定 は、乗代雄介という作家がデビュー作「十七八より」(講談社文庫)以来、「最高の任務」(講談社)あたりまで、何作か書き続けている、阿佐美景子という女性を主人公にして、彼女の日記を小説化している作品群とよく似ていると思いました。 映画では、両親に死に別れた少女である田汲朝ちゃんが、母親の妹で、母親とは、お互いに、互いの生き方を否定しあっていた、叔母で、小説家の高代槙生と暮らし始めるという設定でしたが、小説では「日記」を勧めた叔母は、すでに死んでしまっていて、主人公は両親や弟という家族と、平凡な日常を生きているというところが違うのですが、阿佐美景子という主人公の、小学生以来つけている、毎日の「日記」の書き出しが「あんた誰?」 というところが、おもしろい作品なのです。 で、映画を見ながらそれを思い出した理由はというと、この映画の主人公の二人をはじめとする、人と人の関係性の描き方を見ていて、登場人物たちが、朝ちゃんと槇生さんはもちろんですが、同級生の少女たちも、お友達の奈々さんや、信吾君、ああ、それから、おばあちゃんまでもが、自らに対して「あんた誰?」 という問いかけをすることで成立する「私」 として、他者と出会っている印象で、そこがこの作品の新しさだというように感じたからですね。 たとえば、主人公の朝ちゃんは、いかにも天真爛漫な様子で描かれていますが、自らに「あんた誰?」 と問いかけることで、両親に死なれてしまった不幸な少女を、ではなく、天真爛漫な少女を生きようとしてる、実は、かなりしたたかな少女だと感じましたね。 作中、確か、二度ほど映し出される、朝ちゃんが佇む、いや、渡るかな。跨線橋のシーンを見ながら、瀬田なつきという若い監督が、あらゆる人間が絡めたられてしまいがちな関係性の網のようなものを跨ごうとしている意欲のようなものを感じて、好感を持ちましたね。 ああ、映画には日記をつけるシーンはありますが、「あんた誰?」 なんていうセリフは、一度も出てきませんからね。もちろん、ボクの妄想ですよ(笑)。 見終えて、原作マンガで「こころを救われた」かどうだか知りませんが、チラシにあったから書きましたが、一緒に見た彼女がおっしゃってました。「マンガに比べて、なんか軽くて、拍子抜けしました(笑)」「ああ、そうなんですか?ボクは原作を知らないからいい加減なことをいいますが、「軽さ」が、この映画のいいところかもですね(笑)」さて、それで? という感じの映画でしたが、瀬田なつきという監督には期待を込めて拍手!でした(笑)。 結局、「違国日記」の意味は解りませんでしたが、一緒に見た彼女に教えられて、新垣結衣さんのお顔は覚えました。もっとお若い人だと思い込んでいましたが、お若い早瀬憩さんとともに、とりあえず拍手!ですね。監督・脚本・編集 瀬田なつき原作 ヤマシタトモコ撮影 四宮秀俊照明 永田ひでのり録音 髙田伸也美術 安宅紀史 田中直純衣装 纐纈春樹ヘアメイク 新井はるか音楽 高木正勝音楽プロデューサー 北原京子劇中歌作詞作曲 橋本絵莉子キャスト新垣結衣(高代槙生・叔母・小説家)早瀬憩(田汲朝・姪・高校生)夏帆(醍醐奈々・槙生の幼馴染)小宮山莉渚(楢えみり・朝の同級生)中村優子(高代実里・槙生の母・朝の祖母)伊礼姫奈(森本千世・優等生)滝澤エリカ(三森・軽音部)染谷将太(塔野和成・弁護士)銀粉蝶(高代京子・槙生の姉・朝の母)瀬戸康史(笠町信吾・槙生の男友達)2024年・139分・G・日本2024・06・22・no078・シネリーブル神戸no251
2024.06.23
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「あるじなき庭にアジサイです。」 徘徊日記 2024年6月18日芦屋・朝日ヶ丘あたり ここのところ、アジサイの花とよく出会います。まあ、季節が季節ですからあたりまえですが、今日は芦屋の丘の上のマンションの庭のアジサイです。 通りに面した一方はコンクリートの塀に囲まれた、広いとはとてもいえない、マンション1階の日当たりの悪い庭の隅に二株のアジサイがあって、誰に見てほしいわけでもないと思わせる花が咲いていました。 つい、先だって、この屋のご主人に去られてさみしい風情の花でした。 一月ほど前には、このバラが咲いていました。すでに、身動きが不自由で、車いすだったご主人に写真を撮ってお見せしたところにっこり微笑んでいらっしゃった! のが、ボクが最後に拝見したご主人の笑顔でした。 このバラの株は、ご主人に長年付き添い続けた方がご自宅でお世話続けるということで、今日は植木屋さんが掘りおこすお仕事をなさっていました。 通りと庭を隔てる壁をムカデのこどものような虫が這い上ろうとあえぐようにうごめいていました。何というか、むずむずと動く、小さくいながらも見かけだけは、やっぱりいいとはいえない姿に、思わず見入ってしまいました。 何度も、何度も、この屋のご主人と、数年前に去られた奥様の笑顔に出合いたい一心でおうかがいした部屋ですが、おうかがいするたびにボンヤリたばこを吸った庭です。 もう、ここに帰って来ることもないのでしょうね。にほんブログ村
2024.06.22
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勢古浩爾「定年後に見たい映画130本」(平凡社新書) 勢古浩爾という人は「まれにみるバカ」(洋泉社新書)で、20年ほど前にウケた人です。ボクは吉本隆明がらみの著作と、明治大学で橋川文三の門下だったということで興味を持って読んでいましたが、ここ10年、忘れていた人です。 市民図書館の新入荷の棚で見つけたのがこの本「定年後に見たい映画130本」(平凡社新書)ですが、2022年の新刊ですから、そんなに新しい本ではありません。 「定年後」と「見たい」と「映画」に目がとまりました。裏表紙でお年を確認すると1947年生まれですから、今年77歳です。2006年に、だから、59歳か60歳くらいでお勤めを退職されて、専業の文筆家ということですが、ボクが読んでいたのはサラリーマン時代の著作で、チョット言い捨てるような、それでいて、実はナイーブというニュアンスが好きだったような気がします。 で、定年後、10数年、お変わりになられたのでしょうか?フーン、映画ですか? まあ、そういう気分で読みました。 まえがきにこんなことが書いてあって笑いました。 現在でも、わたしは毎週のTSUTAYA通いがやめられない。おもしろそうな新作が入っていると、すこしうれしくなる。本と映画はわたしの趣味の両輪である。どちらか、ひとつだけになってしまうと、わたしは気持的に不完全になるような気がするのである。なにかお互いが補完しあっているようなのだ。 まあ、お暇なようですが、映画館というわけではなくて、TSUTAYA通いというところが、ボクとは違いますね。ボクの場合は映画館の人混みが好きというわけではないのですが、自宅で、まあ、大きかろうが、小さかろうが、テレビ画面の映画を一人でじっと見ているという姿を想像することが耐えられないのですね。その点、読書とセットであるらしい著者とは、多分、性格というか、性分というかが違うのでしょうね。 ちなみに、読書に関してであれば、ボクの場合、トイレか、電車か、午前零時を過ぎた夜中の台所なわけで、特に、定年後の「量」を読まなければ気がすまない場合の読書時間というのは午前零時以後がほとんどで、引きこもりを否定しているわけでもないのですが、映画に関しては、ほぼ、真反対なところで笑ってしまいました。 で、本書で紹介されている作品についてはこうおっしゃっています。本書で、わたしがひとまず推薦している映画は一三〇本である。その他、無番号のおススメ映画のタイトル(三六本)と、文章のなかだけで触れただけのタイトル(一五〇本)まで入れると、総数は三一六本になる。 と、いうことなのですが、上でも言いましたが、一九四七年生まれの著者は、現在77歳、おそらく、15年間くらいのサンデー毎日暮らし の中でのお楽しみでしょうから、ボクより10年ほど長いわけです。毎週5本の借り出しとして、年間50週くらいとして、250本。で、15年ですから、適当に概算すれば3800本くらいご覧になっているようで、その数が多いか少ないかはともかくとして、紹介のラインアップ作品は、下に写したのでご覧いただけばお分かりだと思いますが、案外、古い! ですね。130本のうち、ほぼ、半分が20年以上昔、1900年代の作品です。「定年後」を意識した選択なのかなとも思いますが、ボクが映画館に行くわけの一つは、こうなることを、ちょっと、オソレテいるからですね。そこは、まあ、人それぞれですがね。 で、130本の題名を写しながら、妙に懐かしかったのがこの映画ですね。《79》『Z』(1969・127分) コスタ・ガブラス監督。イブ・モンタン、ジャック・ペラン、ジャン・ルイ・トランティニャン。もう絶版で見られないかと思っていたら、TUTAYAで取り寄せができた。 映画では明示されないが、舞台は1963年、軍政下のギリシャの五十万人の地方都市。思想の病害をまき散らす人間として、Zと呼ばれる医師で大学教授でもある国会議員が街にやってくることになり、かれの暗殺計画が進行する。実行犯は街の選挙民たちだ。Zの仲間たちは広場での集会を中止するよう勧めるが、Zは強行し、実行犯たちに殴打され死亡する。憲兵隊も警察も一体になった街の上層部は、ただの交通事故として事件を隠蔽しようとするが、新聞記者(ジャック・ペラン)が取材をし、若き予備判事を動かす。しかしそれも次席検事によりもみ消される。それでも記者はあきらめず報道に成功する。検事総長まで事実が伝えられ、関係者は裁判で裁かれる。俊逸な政治サスペンス。 「現実の事件や人物との類似は意図的である」との文章が出る。当時、この映画を見たヨーロッパの観客たちは、これがギリシャで起きたあの事件だとわかっただろう。コスタ・ガブラスは他に、おなじイブ・モンタンを主演に据えた「告白」と「戒厳令」(合わせて政治三部作)がある。しかしレンタルの扱いはない。買うには高すぎる。アマゾンで2万4890円の値が付いている。(それもいまでは品切れ)。そこまで価値はない。(P168~P169) まあ、当たらず触らずの、こういう紹介ですが、ボクにとっては、ここで紹介されている三部作はイブ・モンタンという俳優を覚えただけでなく、たとえば、「Z」のエンドロールあたりだったと思いますが、「Z、彼は生きている。」 という、多分、ギリシア文字Zが含意していることばが流れた映画として、印象深く記憶している作品で、今、映画館でレトロなんとか企画で上映されれば必ず見るでしょうね。要するに、始まりの映画の1本というわけで、六甲道の勤労会館(今はもうありませんが)だったかで、自主上映を見た記憶がありますね。50年前のことです(笑)。思い出させていただいてありがとうという気分ですね(笑)。 まあ、サンデー毎日で、お暇な方が、適当に読み飛ばすのがいい1冊という感じです。ご本人も、そう思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。面白さの主張に何のこだわりもないところと、映画を観ると言わない、まあ、普通とは逆なこだわりが、この方らしくて、ちょっと笑えて、気楽に読めますね。 下に、映画の題名を写しました。興味をお持ちの方はそうぞ(笑)。目次第1章 人間ドラマは映画の王道1「摩天楼を夢みて」 2「アメリカン・ビューティー」 3「カンパニー・メン」 4「ファミリー・ツリー」 5「ジャージー・ボーイズ」 6「TED」 7「追いつめられて」 8「オーケストラ」 9「ニューオリンズ・トライアル」 10「ライフ」 11「アルゴ」 12「イントゥ・ザ・ワールド」 13「バートン・フェイク」 14「イエスタデイ」第2章 なんでもできる人間ドラマ15「ベンハー」 16「アルジェの戦い」 17「シービスケット」 18「サイダーハウス・ルール」 19「ターミナル」 20「チェンジリング」 21「ザ・ハリケーン」 22「ニュー・シネマ・パラダイス」 23「女神の見えざる手」 24「セッション」 25「ラスト・サムライ」 26「ドリーム」 27「ライト・スタッフ」 28「ブレイブハート」 29「JFK」 30「セブン・イヤーズ・イン・チベット」 31「フリーソロ」第3章 映画は凡作だけど、個人的に好きだ32「あゝ江田島」 33「エレキの若大将」 34「キック・アス」 35「エルビス・オン・ステージ」 36「燃えよドラゴン」第4章 わたしの一番好きなアクション&ミステリー映画37「アンタッチャブル」 38「ボディガード」 39「キングスマン」 40「トレーニングデイ」 41「タクシードライバー」 42「ダイ・ハード」 43「ブリット」 44「スピード」 45「ザ・ロック」 46「レオン」 47「欲望のバージニア」 48「パルプ・フィクション」 49「ザ・シークレットマン」 50「グッドフェローズ」 51「ミザリー」 52「デトロイト」 53「ノーカントリー」 54「96時間」 55「真実に彼方」 56「ファーゴ」 57「暗数殺人」第5章 日本映画の光と影58「用心棒」 59「椿三十郎」 60「上意討ち」 61「たそがれ清兵衛」 62「蝉しぐれ」63「最後の忠臣蔵」 64「殿、利息でござる!」 65「無法松の一生」 66「秋刀魚の味」 67「砂の器」 68「冬の華」 69「異人たちとの夏」 70「キッズ・リターン」 71「Shallwe ダンス?」 72「はやぶさHAYABUSA」 73「泣き虫しょったんの奇跡」第6章 社会派映画はリアルさが命74「弁護人」 75「1987、ある闘いの真実」 76「光州5・18」 77「ミシシッピー・バーニング」 78「ブラック・クランズマン」 79「Z」 80「顔のないヒトラーたち」 81「不都合な真実」 82「オフィシャル・シークレット」 83「コリー二事件」第7章 スポーツ映画があまりヒットしない理由84「ロッキー特別編」 85「フィールド・オブ・ドリームス」 86「マネー・ボール」 87「エニ・ギブン・サンデー」 88「しあわせの隠れ場所」 89「コンカッション」 90「タイタンズを忘れない」 91「コーチ・カーター」 92「炎のランナー」第8章 人間の業と戦争映画93「レッド・オクトーバーを追え!」 94「ア・フュー・グッドメン」 95「ブラックホーク・ダウン」 96「トラ・トラ・トラ」 97「プラトーン」 98「太陽の帝国」 99「イングロリアス・バスターズ」 100「フルメタル・ジャケット」 101「ホテル・ルワンダ」 102「ハート・ロッカー」 103「カジュアリティーズ」 104「アメリカン・スナイパー」 105「プライベート・ライアン」 106「アルキメデスの対戦」第9章 定年・老年映画が心に沁みる107「アバウト・シュミット」 108「わたしは、ダニエル・ブレイク」 109「ジョーブラックをよろしく」 110「クレイジー・ハード」 111「グラン・トリノ」 112「日の名残り」 113「世界最強のインディアン」 114「最高の人生のはじめ方」 115「ストレイト・ストーリー」第10章 これは傑作だ!わたしのベスト15116「七人の侍」 117「切腹」 118「逃亡地帯」 119「夜の台走査線」 120「セント・オブ・ウーマン」 121「カリートの路」 122「アポロ13」 123「ブラス!」 124「グリーンマイル」 125「リトル・ダンサー」 126「アトランティスのこころ」 127「冒険者たち」 128「ワールド・オブ・ライズ」 129「ジャンゴ」 130「ラ・ラ・ランド」 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.21
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「芦屋の親王塚ってごぞんじですか?」 徘徊日記 2024年6月18日(火)芦屋・翠ヶ丘あたり 雨がパラつく午後でしたが、JR芦屋駅を降りて、東に歩きました。大原町、親王塚町と、40年以上も昔、何度か寄せていただいたことがある、学生時代の恩師の旧居を探したのですが、まあ、当時、借家だったこともあったのでしょう、今ではもう見あたりませんでした。 しようがないので、少し北に歩くとうっそうとした森が見えてきました。 このあたりは翠ヶ丘町という地名らしいですが、静かな住宅街です。芦屋ですね(笑)。 緑の木立のまわりをぐるっと半周すると正面にやって来ました。平安時代の始まりの頃、平安京を開いた(?)桓武帝の跡取りだった平城帝の皇子、阿保親王のお墓ですね。通称、親王塚と呼ばれている墓所ですね。 平城帝が薬子の変だったかに関わったことから、ご本人も流浪の人生で、ホントはどこで亡くなったのかわからない人ですが、ボクは在原行平、在原業平兄弟の父親として名前を知っていました。 ここは本物の古墳だそうですが、実は平安時代よりずっと古い古墳で、阿保親王が埋葬されているわけではないそうですが、親王の塚として宮内庁が管理しているようです。 正門には宮内庁の看板があって、立ち入りの禁止と、動植物の保護を訴えていますが、柵も低いし、管理事務所もありませんから、入ろうと思えば入れます。ボクのように、もう、ちょっと奥までどうなっているか気になったり、昆虫採集の好きな方なら入っちゃいそうですね(笑)。 まあ、今日は入りませんけど(笑)。 すぐ、西には、宮川が流れています。まあ、今日の目的地はここではなくて、もう少し丘の上なので、ちょっと、川沿いを歩こうかな、という気分です。 このまま、道ぞいに歩けば、本物のお金持ちの住んでいらしゃる六麓荘の方というか、夙川の北の甲陽園というかに到るはずですが、この先のあたりで左折して、市民プールの方に向かって歩きます。バスに乗ればすぐなのですが、こうやって、芦屋とかにやって来ることも、これからはなくなりそうですし、約束の時刻に少し早いので、あれこれ思い出しながら歩きました。にほんブログ村
2024.06.20
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松岡正剛「うたかたの国」(工作舎) 今回の読書案内は、久しぶりに読んだ、あの松岡正剛の工作舎本です。 松岡正剛「うたかたの国」(工作舎)ですね。上の表紙をご覧になればわかりますが、本書の著者、書き手は松岡正剛となっているのですが、本の作りがいかにも工作舎です。奥付に出てきますが、米山拓也と米澤敬という二人の編集者による松岡正剛の発言、あるいは記述のコラージュ本なのです。で、この案内を読んでいただいているみなさんはコラージュ本て?となるわけですが、ようするに、松岡正剛という表現者が、過去、数十年に、十数年ではなく数十年! に渡って、たとえばネット上であれば「千夜千冊」であるとか、書籍であるなら、たとえば「花鳥風月の科学」(中公文庫)、「フラジャイル 弱さからの出発」(ちくま学芸文庫)として書籍化されてきた表現全体を対象に、特定のテーマによって、再び、貼り合わせることによって、新たな発見、あるいは、ああ、そうだったのか! という面白さの再構築をもくろんだ本で、これが見事に炸裂しているのです。で、本書のテーマは「うたかた」です。うたかたというのは,一つの言葉ととして読めば「泡・あわ」ですが、「歌方」と読めば、うたの移り変わり、詩的意識の変遷ということでもあるわけで、「うたかたの国」と、後ろに「国」が付けば、特定の地域、まあ、日本ですが、その国における「うた」の来歴について、松岡正剛が何を語って来たのか、あるいは、語ろうとしてきたのかを、一冊、一冊、一場、一場では、平面的発言でしかなかった言説を、いかに立体化するか! という意図によって、まあ、松岡正剛用語的に言えば「再編集」されているわけですが、かなりいまくいっていいますね。歌が歌を求めて漂泊する。歌人がさまようのではなく、歌そのものが「さすらい人」という日本古来に芽吹いた母型を使って漂泊する。(千夜千冊)本歌取り●本歌取りとは、その歌にはモト歌があるということで、たとえば「新古今集」は冒頭からして「春立つというふばかりにやみ吉野の山も霞てけさはみゆらむ」という「拾遺集」の歌を本歌として、「み吉野の山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり」を置き、続いて「万葉集」の「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」を引いて、「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」を続けてみせた。(千夜千冊・書籍未収録) と、冒頭37ページ、万葉から、新古今に至る「うたの苗床」と題した章が、まあ、こういう調子で編集され始めて、そこから、360ページ後、393ページには死ぬ鳥に春の色出る秋の暮れ 永田耕衣 という一句が、突如引用され、 耕衣は老いてからだんだん凄まじい。そういう老人力というものは昔から数多いけれど、ぼくが接した範囲でも老人になって何でもないようなのはもともと何でもなかったわけで、たとえば野尻抱影、湯川秀樹、白川静、白井晟一、大岡昇平、野間宏・・・・みんな凄かった。なんというのか、みんな深々とした妖気のようなものを放っていた。正統の妖気である。 それが耕衣にあっては少々異なっていた。もうちょっと静謐なバサラのようなものがあって、俳諧が前へ行っているのか、沈みこんだのか、上下しているのか、飛来なのか飛散なのか、そういうことが見当がつかない横着が平ちゃらになっていくのである。(千夜千冊・求龍堂) と、まあ、こんなふうにコラージュされているのですが、ボクは、耕衣の句を口ずさみながら、本歌取りの章で引用されていた「歌が歌を求めて漂泊する」という断片にもどったりするわけです。 なんとなく、思いついた例を引きましたが、本書全体が、松岡ファンであれば、どこかで読んだ一言、一行が、よくぞまあ! というしかないような取り合わせで編集され、松岡理解の新しい地平! が開けている印象ですね。 なにはともあれ、ファンの方にはおススメですね。一応、下に目次を貼っておきますが、要するにこの国の「詩意識」の変遷を、万葉以前から、現代詩に到るまで、松岡発言でたどってみせた本です。彼を追いかけてきた人には、格好のRemix、まあ、音楽なら再演でしょうが、ボクには松岡正剛の読み直し始まりの一冊!になりそうですね(笑)。【目次】まえがきひぃ─うたの苗床─◉音と声と霊 方法の声 目当てと景色 文字霊か言霊か ふぅ─記紀万葉のモダリティ─◉古代 袖振る万葉 代作と枕詞 漢詩を少々 みぃ─仮名とあわせと無常感─◉平安 擬装する貫之 浄土と女房 いろはと五十音よ ─百月一首─◉うたの幕間 闇夜と月の詩歌いつ─数寄の周辺─◉中世 消息の拡大 古今と今様 すさびと念仏 連歌の時分むぅ─道行三百年─◉近世 俳諧の企み 歌う国学 三味線の言葉 なな─封印された言葉─◉近現代 断絶の近世 寅と鬼と童 世紀の背中あとがき 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.19
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ダニエル・ゴールドハーバー「HOW TO BLOW UP」シネリーブル神戸 ここのところ、精神的に引き籠り化してしまいそうなシマクマ君ですが、何とか元気の出そうな映画という気分でやってきたのがダニエル・ゴールドハーバーという監督の「HOW TO BLOW UP」という、全部横文字の作品でした。「どうやって炎上させるか」 かな、とか、「爆破の方法」 かな、とか、ない頭で、あれこれ訳を考えながらやって来ましたが、原題を見ると「How to Blow Up a Pipeline」で、何だ、パイプライン爆破の方法じゃないか!と納得して見始めました。 で、結構、ハラハラ・ドキドキの苦心惨憺の末、テキサスの石油パイプラインを本当に爆破するのがうまくいって、ちょっとホッとしながら、「おー、やった!やった!」 と、思わず拍手!しそうでした(笑)。 まあ、あとからわかったことですが、FBIが「環境テロを助長する!」 と上映に警告したことが話題の作品らしいということを知ったのですが、ボク自身は、こういう方法を選ぶタイプの環境保護思想には、今一、共感できませんし、リアリティも感じませんから助長されるわけではありませんが、この映画のように、たとえば、パイプラインを爆破してやろうと考える人がいることには、何の違和感も感じません。そりゃあ、いるでしょう! たとえばの話、東北の震災で、どこかの電力会社が国と結託してやったことと、その後始末のやり方を、被害の当事者の目で見れば、想定外とかいう無責任用語で開き直った経緯は暴力以外のなにものでもないとしか思えませんからね。そういえば、水俣病の患者さんの公聴会で、患者さんの代表の発言中に平気でマイクのスイッチを切る国の役人がいたことも、最近ありましたね。震災や公害に対する、そういう対応というのは、時代が時代なら、暴力で対抗しようと考える人がいても不思議ではないと、ボクは感じていますからね。 で、映画で、それをやったのは環境保護の活動家とか、パイプライン建設に恨みを持っている人たち、総勢8人で、足がつかないで逃げ切るには多すぎる人数! だと思いましたが、足がつかない工夫もあって、まあ、ちょっとご都合主義でしたが、無事成功という結末でした。 正直、結末には無理がありますね。FBIに限らず、どこの国でも、国家レベルでの情報管理は、もっと、有無を言わせなもので、そんなに甘くないでしょう。 ただ、拍手しながらいうのもなんですが、この映画が「環境テロを助長する」などというのは、むしろ、国家権力による環境保護運動に対する規制強化の正当化発言ではないかという印象で、残念ながら、プロパガンダ作品としては、それほどの説得力は感じませんでしたね(笑)。 余談ですが、環境保護運動とかが、こういう展開への方向性へ向かう一面があるとか、最近、読んだ「文学は地球を想像する」(岩波新書)に出てきましたが、文学研究の分野でもエコクリティシズムなんていう分野がすでにあるとか、なんだかポカン?としてしまいますね。いや、ホント、これからどうなっていくんでしょうね(笑)。監督 ダニエル・ゴールドハーバー原作 アンドレアス・マルム脚本 アリエラ・ベアラー ダニエル・ゴールドハーバー撮影 テイラ・デ・カストロ美術 アドリ・シリワット衣装 ユーニス・ジェラ・リー編集ダニエル・ガーバー音楽 ギャビン・ブリビクキャストアリエラ・ベアラー(ソチトル)サッシャ・レイン(テオ)ルーカス・ゲイジ(ローガン)フォレスト・グッドラック(マイケル)クリスティン・フロセス(ショーン)ジェイミー・ローソン(アリーシャ)ジェイク・ウェアリー(ドウェイン)アイリーン・ベダード2022年・104分・PG12・アメリカ原題「How to Blow Up a Pipeline」2024・06・17・no077・シネリーブル神戸no250追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.18
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「一遍上人遷化の地・真光寺」徘徊日記 2024年6月10日(月)和田岬あたり 6月10日の徘徊の続きです。 ジャカランダの花の普照院からすぐでした。もっとも、自動車で運転手付きですから、どっち向きにすぐだったのか、ちっともわかりませんが、乗せていただいたHさんがおっしゃるには「あんな、一遍上人って知ってるやろ。その人はな、ここでなくなりはってんや。そやから見といで。まだ昼には早いからな。」 で、下車するとザクロの木でした。 すぐ隣に「一遍示寂之地」の石碑です。ついて降りて来たHさんが言いました。「この示寂って、なんて読むんや。どういう意味や?」「知らん、しじゃくかな。死んだいうことちゃうかな?」 まあ、愚かしい会話をしていますが(笑)、「じじゃく」と読んで、立派なお坊さんが亡くなることですね。入滅とか入寂、入定とかと、同じような意味ですね(笑)。ちなみに、今日の徘徊の題にしている遷化も、「せんげ」と読んで、ほぼ同じ意味のようです。で、その近くに「大檀林」と彫られたでかい碑です。「檀林は?」「ああ、それは、多分、学校とか修業場やと思うで。」 そのようですね、ここは時宗の中心的なお寺の一つということですね。 チャンとお寺と一遍上人の由緒を書いた看板もありますが、素通りして境内です。 Hさんは、「ほんなら行っといで。わし、駐禁取られたらいややから、車停めるとこ探すわ。」 で、境内ですが、右手に鐘撞堂です。1995年の震災の跡での再建のようです。自由に鐘を撞いていいのかどうかわかりませんが、通り過ぎた後、後ろから来ていたはずの誰かが撞いたのでしょうかゴーン・・・ といい響きがして、あれ??? と思って振り向くとチッチキ夫人が小走りで追い抜いて行きましたが、ほかには誰もいません。素早い動きでしたね(笑)。 で、結構、広い境内で、右手は修業場とか、いや、阿弥陀堂でしょうか。右手の奥にお賽銭箱があって、なかなかの風情の面白い石仏さんが座っておられました。 で、左手にあるのが一遍上人の五輪塔ですね。旅ころも 木の根 かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき こんな和歌というか、御詠歌というかがある人ですね。鎌倉時代、もともとは伊予の松山の人のようですが、この地でなくなったようですね。所謂、遊行聖と呼ばれて、時宗の開祖ですね。 で、この隣にあったのが、石塔でつくりあげられているピラミッドでした。上にも貼りましたがもう一枚ね。なかなか壮観でしたよ。 戦前には、ここに阿弥陀堂があったそうですが、多分、戦災で焼けてしまったのでしょうね、戦後になって、無縁供養のために建立された無縁如来塔だそうです。戦災の中で、多くの人が無縁仏として亡くなったわけですが、町中全部が焼けたこの地に、こんなピラミッドがあったとは! と、心底驚きました。 一番下には、こんなかわいらしい石仏さんたちが並んでいはりましたよ。 隣には六人のお地蔵さんです。六地蔵というのだそうですが、お一人、お一人がちがう所作をなさっているのが面白いですね。 最後に、本殿の前のデカい石灯篭です。 なんか、これは、古そうです。戦災にも地震にもマケズニここにいたという感じがいいですよね(笑) さて、今日は、もう少し徘徊です。運転手付きの自動車徘徊は便利でいいですね(笑)。じゃあ、続きも覗いてね(笑)にほんブログ村
2024.06.17
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「ジャカランダってご存知ですか?」 徘徊日記 2024年6月10日(月)和田岬あたり あのー、ボクは知らなかったんですが、世界三大花木とかいう言い方があって、南アフリカ原産の「カエンボク」、マダガスカルが原産の「ホウオウボク」、またの名を火炎樹ともいうそうです。 で、もう一つがブラジルとかの熱帯アメリカが原産の「ジャカランダ」をいうのだそうです。 先週、お友達からメールがあって、「あんな、和田岬に世界三大花木のジャカランダいう木があって、今、咲いてるはずやねんけど、行くか?」「行く、行く、チッチキ夫人も一緒でもええか?」「ええで、ええで、うちのは孫見なあかんから行かれへんいうてるけどな。」 というわけで、6月10日の月曜日、家までお迎えいただいて、和田岬めざしてぴゅー と思いきや、国道43号線を南に下ったあたりで、「あんな、最近、このへんわからんようになるねん。ちょと、ナビ、ナビ。」「県工のとこらへんやろ。兵庫駅の東南ちゃうの。」「うん、そうやねん普照院いうお寺やねんけどな。」 誘っていただいて、運転手していただいているHさんは、生まれも育ちも、長田区の住人で、和田岬は、一応地元なのですが・・・・。「えっ?あれ県工やから、そこちゃうの?」「ああ、そやそや。」 で、やって来たのが普照院というお寺の駐車場でした。 これですね(笑)。ジャカランダという花です! 実際には青紫色が、写真よりあざやかにかんじます。 どうも、満開の時期は過ぎているらしく、足元には、独特の形の花がたくさん散っていますが、充分見ごたえがある花ですね。 青空に紫がかったハナブサが映えていいですねえ(笑)。 かなりな大木です。根もとに看板がありました。南アメリカ原産のノウゼンカズラ科の木だそうです。根っこからの太い幹には、何故か包帯(?)が巻いてありますね(笑)。 ちょっと離れると、こんなふうです。左の奥にネットが見えますが、県立の兵庫工業高校のグランドです。このあたりは、三菱とか川崎重工とかの工場群だった(今でもそうですが)こともあってでしょうね、1945年の空襲で、集中的に爆撃されて、焼け野原になった地域ですね。 お寺の本堂に上がる階段の横にお地蔵さんです。本堂は撮り忘れましたが、新しい建物で、一遍上人の時宗の寺院のようです。 お寺の今日の言葉です。慈悲ですね。励ましといたわりだそうです。最近、まあ、年のせいでしょうね、こういう言葉が身に沁みますね。 お寺の横に自動車を止めていたのですが、実はお隣は清盛塚で、北側は兵庫運河でした。お寺の前から北の方角はこんな風景です。 大輪田の泊まりとか、兵庫の津とか呼ばれていたところです。向うが神戸の町です。 さて、ここからどこに行くのでしょうね。まだお昼には少し早い時間ですが。徘徊はまだまだ続きますよ。 にほんブログ村
2024.06.16
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「メタモルフォーゼ!アゲハが巣立っています!」 ベランダだより 2024年6月14日(金) ベランダあたり 今日は6月14日の金曜日です。シマクマ君は、ここの所あれこれいろいろあって、さすがにおつかれで、朝寝をきめこんでいまたしたがベランダから洗濯物を干していたチッチキ夫人の声が聞こえてきて目覚めました。「ちょっとぉ、アゲハが次々よ。えーっと、このカメラ、これで写ってるの?あー、飛んじゃった。アッ、こっちも!ちょっと、ジッとしててよ!」 どうやら、自分ではいらないといい張っているスマホを持ち出して写真を撮っているようです。 写っていたのがこの写真です。ちゃんとピントが合っているのが不思議ですが、アゲハの巣立ち(?)です。二匹(?)、いや二頭(?)、まあ、どう数えるのかわかりませんが、次々と飛び立っていったようです。 実は、三日ほど前にも一頭、巣立っていって、それが下の写真です。スマホの持ち主が撮ったのですが、こちらはピンボケですね(笑)。 サナギだったころは、下の写真のような様子でした。6月になって、気温が一気に上がったからでしょうか?次々と孵化しています。 こんな格好で一冬過ごして、アゲハに変身するのですからね。メタモルフォーゼ! とかいう言葉がありますが、文字通り変身! ですね。不思議ですね(笑)。 で、こちらが、4月の15日だったかに、今年、最初に飛び立つのを見つけたアゲハです。翅がスムーズに開かなくて、変身に苦労してましたね。 もう一枚、6月14日の孵化、変身の姿です。 まだ、サナギがあるようで、もう少し続きがあるかもしれませんね。この日の前日の6月13日、86歳で去られた恩師を送ったばかりの朝の出来事でした。、にほんブログ村
2024.06.15
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穂村弘×東直子「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫) 唐突ですが、あの小野小町にこんな和歌がありますよね。恋ひわび しばしも寝ばや 夢のうちに 見ゆれば逢ひぬ 見ねば忘れぬ「こひわび」なのか「おもひわび」なのか、ボクには、まあ、判然としませんが、それはともかく、恋する乙女には「夢」なんですよね、カギは。 で、これに返事する人が出てくれば「相聞歌」ですよね。今回の読書案内「回転ドアは、順番に」(ちくま文庫)は穂村弘と東直子という現代歌人二人による、いわば、相聞歌集なのですね。 もっとも、お二人とも還暦を過ぎていらっしゃるようですから、まあ、ごっこというこというか、気鋭の現代歌人共作の相聞和歌小説とでもいうべきかもでしょうね。 で、平安の昔であれば文であったのでしょうが、現代では、お二人の間を取り持つのはメールです。 俳諧には付け句ということがありますが、連歌の伝統を考えれば和歌にもあったはずで、それをお二人でやっていらっしゃるという面白みですね。 出会いは、ある年の春です。で、やがてめぐってきた再びの春に別れがやって来ますね。ボクは一年間の出来事として読みましたが、さて、短歌とメールが描き出す歌物語の主人公にはどれほどの歳月だったのか、まあ、お読みくださいという感じですね。 最初のページにこんな短歌が出てきます。遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた夢見ていた夢の中でボクは自転車に乗っていた(P9) 巻頭、この歌を詠み、「夢見ていた」とメールに書いているのは東直子さんです。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出す と答えて、夢から覚めたのが穂村弘さん。恋の季節の始まりです。歩くなら一人がいいの青空に象のこどもがうまれたようにおはよう。今、こちらは、朝です。生まれたての今日を、歩いています。ゆうべ少し降った雨が、空気にとけていて、音が遠くから近くからひびきます。清潔な音だな、と思います。わたしたちの身体は、どのくらい同じ時間をすごしたのだっけ。わたしたちを動かしていたものは、なんだったのかな。いちどあなたの身体にふれたものは、あなたのにおいが消えないね。ねえ、蜘蛛の巣があるよ。露をびっしりとまとって、それがひかりをはねかして、とてもきれい。ここに棲んでみたいよ。じょうだんでもかまわないから、あなたと、あなたのにおいと。ありがとう、時間。おはよう、時間。さよなら、あなたの身体。(P169) 東直子さんのオシマイの短歌とメールです。メールで相聞される短歌がやがて、こんなふうにとじられるまで、さて、何首の歌が詠まれたのか。で、二人に何があったのか。そのあたりはお読みいただいて、ということですね。なかなか、いけますよ(笑)。 最後の最後は、元に戻って、こんな結末でした。日溜りのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出すジテンシャデユクネ遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた 1冊にまとめられた、二人の夢の跡ということでしょうか。まあ、それにしても、達者なものですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.14
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池内紀「101冊の図書館」(丸善ライブラリー101) 本棚から転がり落ちて来たので案内しますね。2019年に亡くなってしまったドイツ文学者の池内紀さんが1990年代に「サンデー毎日」とか、茶道の雑誌だと思いますが「なごみ」とかに連載していらっしゃった書評をまとめた新書です。 書名は「101冊の図書館」で、丸善ライブラリーの1冊です。出版は平成五年ですから、1993年、30年前の本です。ふるー! というところですが、案外古びていません、というのは、紹介されている本のほとんどが、もっと古いのですね(笑)。 要するに読書エッセイの達人が、知られていそうで知られていない、まあ、まったく知らなかった本もありますが、いつの時代に持ってきても、ナルホドという名著をネタにうーん! と唸るしかないような文章を、さらりと認めていらっしゃるのを読むというわけですからね、古びませんね。 で、100冊、どんな本かということですが、ネットの書誌にも出てこないので、仕方がありません。全部写してみました。ついでに、取り上げられている作品の出版社もつけておきます。目次1 H・メルヴィル「白鯨」(岩波文庫) 2 飯島友治編「古典落語志ん生集」(ちくま 文庫) 3 尾崎士郎「ホーデン侍従」(暁書房) 4 クラウゼヴィッツ「戦争論」(岩波文庫) 5 梶井基次郎「桜の樹の下には」(ちくま文庫) 6 杉浦茂「猿飛佐助」(筑摩書房) 7 カザノヴァ「回想録」(河出文庫) 8 兼常清佐「与謝野晶子」(角川文庫) 9 柳田國男「山島民譚集」(平凡社) 10 アンデルセン「童話集」(岩波文庫) 11 R・バルト「エッフェル塔」(審美社) 12 「食道楽」(五月書房) 13 寺山修司「一握の砂補遺」 14 宮武骸骨「滑稽新聞」(筑摩書房) 15 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(河出書房新社) 16 シェイクスピア「フォルスタッフ」(白水社) 17 マクルーハン「グーテンベルグの銀河系」(みすず書房) 18 室町京之介「香具師口上集」(創拓社) 19 ガルシア・マルケス「族長の秋」(集英社) 20 宮本常一「忘れられた日本人」(岩波文庫) 21 シャイラー「ベルリン日記」(筑摩書房) 22 シムノン「メグレ警視シリーズ」(河出書房新社) 23 子母澤寛「遊侠奇談」(桃源社) 24 平岩米吉「犬の生態」(築地書房) 25 ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」(角川文庫) 26 野崎万理他「上方はなし」(三一書房) 27 モリエール「守銭奴」(岩波文庫) 28 丸山薫「帆・ランプ・鷗」(中公文庫) 29 吉田健一「私の古生物誌」(ちくま文庫) 30 辻まこと「虫類図鑑」(みすず書房) 31 コナン・ドイル「名前の研究」(新潮文庫) 32 曾良「随行日記」(小川書房) 33 セルバンテス「ドン・キホーテ」(岩波文庫) 34 三田村鳶魚「大衆文藝評判記」(中公文庫) 35 フロベール「ブヴァールとペキシュ」(岩波文庫) 36 佐藤春夫「殉情詩集」(筑摩書房) 37 滝田ゆう「寺島町奇譚」(ちくま文庫) 38 岡本一平「へぼ胡瓜」(旺文社文庫) 39 ワイルド「ドリアン・グレイの画像」(岩波文庫) 40 フロイト「夢判断」(新潮文庫) 41 和田誠「倫敦巴里」(話の特集編集室) 42 森銑三「佐藤信淵」(中央公論社) 43 魯迅「雑文集」(龍渓書舎) 44 坪内稔典「おまけの名作」(いんてる社) 45 ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」(鹿島出版会) 46 石川恒太郎「日本浪人史」(西田書店) 47 篠田一士「世界文学「食」紀行」(朝日新聞社) 48 橋本万平「狛犬を探して」(私家本) 49 アメリ―「自らに手をくだし」(法政大学出版局) 50 玉林晴朗「文身百姿」(文川堂書房) 51 ピセツキー「モードのイタリア史」(平凡社) 52 大佛次郎「パナマ事件」(朝日文庫) 53 岡本誠之「鋏」(法政大学出版局) 54 ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(法政大学出版局) 55 ベンヤミン「ドイツの人々」(晶文社) 56 名和弓雄「拷問刑罰史」(雄山閣) 57 カフカ「変身」(新潮文庫) 58 中瀬喜陽「熊野中辺路・詩歌」(熊野中辺路刊行会) 59 森銑三「明治東京逸聞史」(平凡社) 60 今官一「隅田川のMISSISSIPPI」(津軽書房) 61 カネッティ「マラケシュの声」(法政大学出版局) 62 ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(岩波文庫) 63 ゴーゴリ「鼻」(岩波文庫) 64 矢野目源一訳「ヴィヨン詩抄」(椎の木社) 65 槇有恒「山行」(五月書房) 66 尾佐竹猛「賭博と掏摸の研究」(總葉社) 67 大石真人「全国いで湯ガイド」(山と渓谷社) 68 岡本綺堂「半七捕物帖」(光文社文庫) 69 シェイクスピア「ヴェニスの商人」(新潮文庫) 70 小林太市郎「芸術の理解のために」(淡交社) 71 ジョフィン・テイ「時の娘」(ハヤカワ文庫) 72 チャンドラー「大いなる眠り」(創元推理文庫) 73 柳田國男「還らざりし人」(ちくま文庫) 74 北原白秋「日野国」(菊竹金文堂) 75 カフカ「城」(新潮文庫) 76 牧野信一「ゼーロン」(岩波文庫) 77 神西清「みいらヲカナシム歌」(文治堂書店) 78 レ二・リーフェンシュタール「回想」(文藝春秋) 79 チェーホフ「犬を連れた奥さん」(岩波文庫) 80 シュニッツラー「死人に口なし」(岩波文庫) 81 横光利一「名月」(河出書房新社) 82 南波松太郎「日和山」(法政大学出版局) 83 村井弦斎「食道楽」(柴田書房) 84 平塚武二「太陽よりも月よりも」(童心社) 85 西山松之助「しぶらの里」(吉川弘文館) 86 カネッティ「群衆と権力」(法政大学出版局) 87 橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社) 88 エイメ「壁抜け男」(早川書房) 89 幸田文「父―その死」(新潮文庫) 90 石井研堂編「異国漂流奇譚集」(新人物往来社) 91 マリオ・プラーツ「記憶の女神ムネモシュネ」(美術出版社) 92 穂積勝次郎「姫路藩の人物像」(私家本) 93 内田百閒「東京日記」(岩波文庫) 94 レニエ「ヴェニス物語」(弘文堂) 95 木下杢太郎「食後の唄」(中公文庫) 96 伊藤整「雪明りの路」(新潮社) 97 樋口一葉「恋歌」(筑摩書房) 98 寒川鼠骨「鼠骨集」(改造社) 99 三好達治「郷愁」(岩波文庫) 100 辻まこと「山で一泊」(創文社)あとがきにかえて いかがでしょう、気になる本はありましたでしょうか?まあ、これでは味もそっけもないので、一番最後、100冊目の辻まこと「山で一泊」をちょっと紹介しますね。 辻まことという人は辻潤という餓死したアナーキストの息子ですが、お母さんが甘粕事件で大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝ですね。辻まこと自身も1970年代だったと思いますが、60数歳で自ら命を絶った人です。虫とか山とか、独特のエッセイ、絵画作品を残しています。 辻まことの作品を収めた書籍としては、みすず書房の「辻まことの世界 正 続」、「辻まこと全集 全6巻」とか、ちくま文庫の「虫類図譜」とか、平凡社ライブラリーの「辻まことセレクション1・2」とか、今では色々出ていますが、池内さんが取り上げているのは創文社の「山からの絵本」だと思います。 で、書評ですが、蒼穹 辻まこと「山で一泊」と題されていて、こんなふうに書きだされています。 静かな雨に閉ざされた夜のテントに一人いるとしよう。「実際にいま私はそうなんです・・・・めったにない貴重な時間です。」 私たちはみな生まれてこのかた「おまえは人間だ、人間だ」といわれ続けてきた。たまにそういう強制的な「契約意識」から解き放たれてみてもいい。人間の権利、義務、家庭、仕事、エトセトラ。人間、人間といい続けるほど、これは上等な生きものだろうか。「君がもしいま稜線の手頃な岩に腰をおろして、ハイマツの上を吹きぬけてくる風に吹かれているとする」 あるいは倒木にもたれて、木々の間をすぎる風の音を聴いているとしよう。そんあとき、どんな感じがするものか。サワサワと鳴る囁きにのせて。彼らの経験してきた旅の話が聴こえてこないか。谷間の陽かげに湧く小さな泉の話。そのそばの苔の香り。しばらく運んだ渡り鳥の群れのこと。話を聴くばかりでなく、ときには頼んで風に心を乗せてもらえないか。 まあ、こんな感じです。辻まことが、どこかに出てきているのか、まだなのか。まあ、よくわかりませんが、続けて写すと名前が出てきます。 辻まことはこの本の中で、福島と栃木の県境の帝釈山地で出くわしたヤマノヒトのことを書いている。世間との交渉を一切絶って山中に消えた男。その眼は茫漠としていたが異常な気配はまったくなかった。寂しい悲しみを思わせる表情があったという。ひとことも口をきかない。声だと思ったのは、小石に皮を張った古風な鹿笛であることが、あとでわかった。 もはや言葉を忘れ、気もふれてーと人はいうだろうが、はたしてそうか。計画と用意と忍耐がなければ、長い雪の中の生活を過ごしていけるわけがない。経験を推考する言葉がなくて、どうして厳しい環境を克服できるだろう。人は正気を失うと狂気とだというが、正気でも狂気でもない世界があるのではないだろうか。「文化動物」として馴育される秩序をはなれた精神状態。混乱でも混沌でもない、まるきり別の意識でもって環境に適応する。というよりも、環境の意味を変えていく、そういう精神世界があるような気がする。 と、まあ、やっぱり、辻まことがどこにいるのかわからないまま、もう少し続いて、結論はこうでした。 私は夢見ている。おだやかな晴れた朝だ。なんとなく運のいい山旅のような気がする。水筒にみずをつめ、地図をたしかめたのち歩きだす。「左うぐいす右うぐいす」、そんな草野心平を辻まことも引いている。混成林の緑の底でうごめいていると、まるで全身を緑色で染められたような気持がする。 昼すぎ、山頂。「ちょっと下った岩の上から日本海が見晴らせる。潮風が涼しい。食事にする」(P212) ね、見事なものでしょ。 まあ、こういう書評というよりもエッセイが100冊分載っていて、この本と合わせて101冊なのでしょうね。この本自体、手に入るかどうか、むずかしいかもしれませんが、いかがでしょう。 今回、目次を写しながら、一番驚いたのはこのかたですね。橘樹まゆみ「日本の女」(晧星社)。すぐにお気づきの方はえらいですね。谷根千の森まゆみさんの最初のペンネームなんだそうですね。池内訳の「カフカ全集」も、読まなきゃと思うばかり滞っていますが、ここでまたしても、「読まなきゃ本」が増えてしまいました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.13
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イーサン・コーエン「ドライブアウェイ・ドールズ」シネリーブル神戸 なんとなく、なにをどうしたいということが思い浮かばない一日でしたが、家にずっといるのもなあ・・・ というのでやって来たシネリーブル神戸です。暗そうな邦画はやめて選んだのがこの作品です。イーサン・コーエン監督の「ドライブアウェイ・ドールズ」でした。 イーサン・コーエンという人は知りませんでしたし、「ドライブアウェイってなんだ?」 でしたが、女性二人のロード・ムービー ということなのでテルマとルーズの現代版かな? とか思って見ましたが、まあ、のけぞりそうでした(笑)。 しょっぱなから、女性同士の、まあ、ラブシーンで、その後も繰り返し、似たようなシーンが出てきますが、なんというか、寝てしまいそう・・・ で困りました(笑)。 ドライブアウェイというのは、自動車の配送という仕事の名前で、スーキーという、マッチョで、お仕事がK官という恋人と別れて、やけくそ気味のジェイミーというオネーサンが、ちょうどそっちの方のおばあさんの家に行きたがっていた、ウブな文学少女崩れのマリアンと二人連れで自動車を運ぶ旅をするというわけですが、その自動車のトランクに積まれていた荷物が問題でした(笑)。 まあ、お笑い映画なのですが、アメリカの人とか、こういうのを笑うのか?! というのがボクの率直な感想で、ちょと雑な作品でしたね。 まあ、文学少女が読んでいるヘンリー・ジェイムスの意味もわからないわけですから、眠くなっても仕方ありませんね(笑)。 何故か最後のオチでマット・デイモンが出てきたりして、ちょっと驚かせるのですが、久しぶりに、中途半端な、ドタバタ、お笑いポルノ映画を見た印象ですが、主役のお二人はなかなか美人で、とりあえず拍手!ですね。 ヤレヤレ、トホホでした。監督 イーサン・コーエン脚本 イーサン・コーエン トリシア・クック撮影 アリ・ウェグナー美術 ヨン・オク・リー衣装 ペギー・シュニツァー編集 トリシア・クック音楽 カーター・バーウェルキャストマーガレット・クアリー(ジェイミー)ジェラルディン・ビスワナサン(マリアン)ビーニー・フェルドスタイン(スーキー:ジェイミーの彼女)ジョーイ・スロトニック(追っかけてくるギャング)C・J・ウィルソン(追っかけてくるギャング)ボスコールマン・ドミンゴ(ギャングのチーフ)ペドロ・パスカル(何のコレクター)ビル・キャンプ(配送の依頼人)マット・デイモン(ゲイリー・チャネル上院議員)マイリー・サイラス2024年・85分・PG12・アメリカ原題「Drive-Away Dolls」2024・06・11・no076・シネリーブル神戸no249
2024.06.12
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「今年も咲いてくれました!」 ベランダだより 2024年6月9日(日)ベランダあたり 毎年、それも、一年に何度か咲いてくれることもあるサボテンの、我が家ではタンゲ丸くんとか花盛丸くんとか、まあ、正しい名前は知りませんが(笑)、勝手に呼んでいる花が、今年も咲きました。 今年は二輪の花です。お隣ではカラーの花もいろ好き始めています。松山のサカナクンのカヨちゃんおかみからの、数年前の贈り物だったのですが、無事に生き延びて、毎年、こうして花を咲かせてくれるのがうれしいですね(笑)。 ああ、タンゲ丸くんの全景を忘れるところでした(笑)。 まあ、こんな感じですね。2024年の6月9日日曜日の朝のベランダでした。にほんブログ村
2024.06.11
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立花隆「思索紀行 上」(ちくま文庫) 元町の古本屋さんの棚で、この本を見つけたときに、著者でである立花隆という希代のジャーナリストが2021年、80歳で亡くなったことをふと思い出しました。角栄とか、日本共産党とか、まあ、あんまり興味を感じなかったのですが、それ以後のサル学とか宇宙とか、いろいろ思い浮かんできて、手に取ってパラパラしながら、あれ? これ、読んでないな。 で、買ってしまいました(笑)。 買い込んだのは立花隆「思索紀行 上・下」(ちくま文庫)で、今回の案内は上巻です。2020年にちくま文庫になった本ですが、元々は2004年に書籍情報社というところから出されていた本のようです。で、中の記事はというと、下の目次の後ろに書き添えたとおり、かなり古いわけですが、ボクには今でも十分面白かったですね。 目次序論 世界の認識は「旅」から始まる(2004)1 無人島生活六日間(1982・週刊文春)2 モンゴル「皆既日食」体験(1997・SINRA)3「ガルガンチュア風」暴飲暴食の旅(1984・文芸春秋)4 フランスの岩盤深きところより(1987・太陽)5 ヨーロッパチーズの旅(1986・月刊専門料理別冊)6 神のための音楽(1984・FMファン)7 神の王国イグアス紀行(1987・文芸春秋)8 ヨーロッパ反核無銭旅行(1996・書籍情報社インタビュー) 本の作り方については、序論の終わりにご本人がこんなふうにまとめていらっしゃいます。 これは相当に変な作りの本である。何しろ、あちこちが未完だらけなのである。それでもそれでよしとする理由があってそうしたということは、先に述べたとおりである。 本人はこれをまとめるにあたって、楽しみながらまとめたので、読者諸氏におかれても楽しんでいただければ幸いである。質量ともに楽しむに足るだけのいろんな材料をとにかく詰め込みに詰め込んだ、幕の内弁当のような作りになっているので、たいていの人に楽しんでもらえるはずと思っている。(幕の内弁当と同じで、残らず食べくださっても、もちろんけっこうだが、気にいったところだけつまみ食いしていただいても、もちろんよい)。(P110~P111) 要するに、雑誌等の記事として発表はされたけれども、書籍化できていなかった「旅の記録」、ルポルタージュを、2004年に書籍化したという本らしいですね。 彼は「旅」について序論の始めころにこんなふうにいっています。 まず、 日常性に支配された、パターン化された行動(ルーチン)の繰り返しからは、新しいものは何も生まれてこない。知性も感性も眠りこむばかりだろうし、意欲ある行動も生まれてこない。人間の脳は、知情意のすべてにわたって、ルーチン化されたものはいっさい意意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。そして、そのようにして処理したものは、記憶もされないようになっている。意識の上にのぼり記憶されるのは、ノヴェルティ(新奇さ)の要素があるだけのものなのである。(P42) で、 旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべての刺激がノヴェルティの要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。旅では経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と後では、その人は同じ人ではありえない。(P42) と、まあ、結論して、もう一言付け加えます。 旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の小さな旅の、あるいは「大きな旅の無数の小さな構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってもよい。(P43) ボクは、生まれて初めての入院という体験をしながらこの本を読んでいたのですが、まあ、こういう記述に文句なしにうなずきながら眠れない夜を過ごしたのでした。 消灯時間は、午後9時だったのですが、枕許の灯りについてはお小言なしで、その上、ひっきりなしに呻いていらっしゃる同室の意識不明の方々のお世話で、繰り返しやって来られる夜勤の看護師さんたちの元気な行動をカーテン越しに伺いながら、初体験の「ノヴェルティ」に興奮しながらの夜を徹しての読書でした。ベッドに寝ころんでいただけですから、旅をしたのかどうかはともかく、まあ、ウトウトして目覚めると、昨日までの日常の風景とは違うところに寝そべっていたことは間違いないですね。 というわけで、この上巻で、おもしろかったのは、もちろん、「無人島生活六日間」でしたね。皆さんも、病院のベッドとかでいかがですか(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.10
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ラジ・リ「バティモン5」シネリーブル神戸 今日は69歳最後の日です。午前中、退院後初めての通院で「快癒」と診断されて、すっかり元気になって出かけたシネリーブルでしたが、それで?それで? と畳みかけられるように見終えて、すっかり元気を失った作品でした(笑)。これが現実なのですね。 見たのは、数年前に見た「レ・ミゼラブル」で、フランスにおける貧困の、移民や難民の、実相を描いていて度肝を抜かれた、自身もアフリカ生まれのフランスの監督ラジ・リの最新作「バティモン5」でした。 副題に「望まれざる者」とついていますが、原題は「Batiment 5」、フランスにやって来た「移民」たちが、長年住んできた高層の「老朽アパート」が立ち並び、塀には「落書き」が書き散らされ、子供たちが「深夜徘徊」し、店をもてない「違法営業」が横行するパリのスラム地区の通称のようです。 この「バティモン5」の再開発をめぐり、クリスマスの夜におこった出来事が映画の事件でした。 見終えて、ナチスのホロコーストで、ユダヤ人輸送の責任者だったアイヒマンという人物が裁判で語ったと言われている「命令に従っただけです。」 という言葉を思い出しました。 この映画でも、市政の懸案事項である、「バティモン5」再開発計画を実行に移す市長がいて、市長の立ち退き強制執行の命令書を住民に届ける市役所員がいて、市役所員の安全を確保する武装警察官が出てきます。公的な、だから、普通、正しいと思い込んでしまう命令があり、命令に従って行動する公務員や警官がいて、スラム街撤去計画は実行され、裕福でのんきな市民は楽しいクリスマスの夜を過ごしています。 映画は、市長のスタンドプレイだか人気取りだかによる強制退去命令によって、そこで暮らす人々が生活そのものを奪われた「バティモン5」で暮らす二人の若い男女の行動がクライマックスでしたが、その一人であるブラズは、心情的にはボクも強い共感を感じましたが、怒りのあまり「テロ」への誘惑に取りつかれ、クリスマスを祝う市長宅の焼き討ちを実行しはじめますが、「テロ」を否定するもう一人、アビーはブラズの凶行をすんでのところで押しとどめながらも、「個」としてなすすべのない現実の闇の中を立ち去っていくのでした。 この、なんともいえないなすすべのないラストに、この若い監督の足掻きのようなものを実感しました。 人間の社会というのは、その社会を構成する「普通」の構成員、所謂、市民ですが、その市民による共同的な思い込みによってなりたっているわけで、「国家」とか、「地方公共団体」とかの制度であれ、「法」や、「規則」であれ、あるいは「自由」とか「平等」とかのスローガンであれ、「市長」とか、「警察官」とか、「市民」とかいう、職掌や身分(?)も、作中での「クリスマス」をめぐるアビーの発言が如実に語っていますが、みんな思い込みで成り立っているのだ! と思います。市長として、自分の亭主が何をしたかなんて、市長の奥さんにさえわからない。わからせるためには、まあ、市長の家に火でもつけるしかないという考えも浮かぶわけですが、それでは解決にならないわけです。 まあ、そういう、のんきな人たちによる思い込みから消し去られた「現実」が、いかに苛酷であるかを、ここまでまっすぐに突き付けようと足掻いているかの作品には、そうそう、出逢えるものではないのではないでしょうか。 「貧困」、「移民」という現代フランス社会、あるいは世界中の社会の実態を直視しようとする意志に満ちた監督の足掻きとためらいに拍手!でした。 まあ、理由を考えだすと、あれこれ長くなりそうなのですが、この作品に対して極東の島国の映画配給業者が「望まれざる者」と副題を付け、「不都合な真実」とチラシで謳っているのですが、見終えたボクは、なんか、引っかかったんですね。うまくいえませんが、この作品を、そういう第三者的視点で見ることって、極東の島国の住人には可能なんでしょうかね?監督 ラジ・リ製作 トゥフィク・アヤディ クリストフ・バラル脚本 ラジ・リ ジョルダーノ・ジェデルリーニ撮影 ジュリアン・プパール編集 フローラ・ボルピエール音楽 ピンク・ノイズキャストアンタ・ディアウ(アビー:アフリカ系移民)アリストート・ルインドゥラ(ブラズ:アフリカ系移民)アレクシス・マネンティ(ピエール・フォルジュ:新任市長・小児科医)オレリア・プティ(ナタリー・フォルジュ:市長の妻)スティーブ・ティアンチュー(ロジェ・ロシュ:副市長)ジャンヌ・バリバール(アニエス・ミアス:政党幹部)2023年・105分・G・フランス・ベルギー合作原題「Batiment 5」2024・06・04・no075・シネリーブル神戸no248追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.09
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ジョージ・ミラー「マッドマックス フュリオサ」109ハットno44 なんか、パーッと面白い映画! を見たいなと思って、2カ月ぶりにやって来た109ハットです。見たのはジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」の最新版「フュリオサ」でした。原題が「Furiosa A Mad Max Saga」となっていて、こっちの方が、初めて、まあ、メル・ギブソンのマッドマックスは、はるか昔に見たことがあるような気はしますが、ほぼ、初めてこのシリーズを見るボクには、映画の外枠というかがわかりやすいと思いましたが、まあ、こだわるほどのことではありませんね(笑)。 で、見終えてですが、ナルホド、人気が出るはずやなあ! と、ズット引っ張り続けるかの展開には納得したものの、少々草臥れました。 多分、これまでのシリーズで、すでに登場しているのであろうフュリオサという女性の、少女の頃に人さらいにあった始まりからの成長譚だったわけですが、とどのつまりのディメンタスとの対決と最終決着のあたりは、ちょっとめんどくさかったですネ(笑)。 でも、フュリオサという、この主人公は、なかなかよかったわい! とか思いだしながら帰り道に、劇場前のポスターを見ると、上の写真ですが、なんだか猿の惑星みたいな様子で映っていて、えっ?こんな顔やったか? と驚いてしまいました(笑)。 1980年代くらいだったと思いますが、はじめの頃の、このシリーズを見た記憶では、まあ、確たる根拠があるわけではありませんが、オーストラリア映画! という印象が強かったのですが、今回も似たような印象を受けました。まあ、この映画が、実際のオーストラリアの風景を撮っているのかどうか、定かではありませんが、要するに、背景の自然がいいんですよね。砂漠とか荒野の感じが、アメリカ大陸の感じでもないし、中国の砂漠とかでもない感じでよかったですね(笑)。 とか、何とかいってますが、前作の「怒りのデス・ロード」とか、どこかでやっていたら、ちょっと見てみたいなと思ったわけで、やっぱり、初体験、面白かったんでしょうね(笑)。 なにはともあれ、フュリオサ役のアニヤ・テイラー=ジョイ、アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)に拍手!でした。監督 ジョージ・ミラー製作 ジョージ・ミラー ダグ・ミッチェル脚本 ジョージ・ミラー ニック・ラザウリス撮影 サイモン・ダガン美術 コリン・ギブソン衣装 ジェニー・ビーバン編集 エリオット・ナップマン マーガレット・シクセル音楽 トム・ホルケンボルフ視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソンキャストアニヤ・テイラー=ジョイ(フュリオサ)アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)クリス・ヘムズワース(ディメンタス)トム・バーク(警護隊長ジャック)チャーリー・フレイザー(メリー・ジャバサ)ラッキー・ヒューム(リズデール・ペル/イモータン・ジョー)ジョン・ハワード(人食い男爵)リー・ペリー(武器将軍))アンガス・サンプソン(オーガニック・メカニック)2024年・148分・PG12・アメリカ原題「Furiosa A Mad Max Saga」2024・06・08・no076・109ハットno44追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.08
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「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、古稀だそうです!」 ベランダだより 2024年6月5日(水) 6月5日は、徘徊老人の誕生日でした。70歳、古稀なのだそうです。 年明け早々、半年後の運転免許の書き換えに対して、「高齢者講習」とかが必要だという通知はがきを受け取って、「そういう年齢か?!」 と、なんとなくな覚悟のようなものの必要を突き付けられたのですが、気持ちの上ではガキ化! とでもいうべき、ここのところ得意の退行が進行するばかりで、集まりで交わされるあたりまえの発言に我慢がならないとでもいう、わけのわらない憤激のまま、40代からお付き合いさせていただいていた本を読む会を挨拶一つせず脱会したりで、永年仲良くしていただいたメンバーの皆さん、世間の皆さんに対して無礼千万、意味不明の行動を、あちらこちらで繰り返す醜態の半年で、なにはともあれ、勝手、気まま、まことに申し訳ありませんでした。 と、お詫び申し上げます。 ようやく、年齢相応の反省の気分ですが、まあ、後の祭りですね。 で、とどのつまりは、トラキチ君にいわれましたが、今更! の虫垂炎手術で、人生初の病気入院、全身麻酔体験でしたが軽い病状にホッとしたものの、まあ、何事でもそうなのですが、初めてというのはなかなかな体験でしたが、まあ、そういう次第で60代を終えました。 で、誕生日、当日の6月5日ですが、朝から宅配のピンポンが鳴って、まず届いたのが愛媛の石鎚酒造の銘酒「石鎚」のセットでした。ゆかいな仲間、サカナクン、贔屓の酒屋さんですね。おいしいんですよね、これ。 しばらくして、また、ピンポンで、箱一杯のビールセットでした。世界中のビールの箱詰めです。トラキチクンからのプレゼントです。テーブルに広げて大喜びです。イヤハヤ、ありがとうの一言ですが、とても、封を切る勇気はありません(笑)。 夕食をチッチキ夫人と二人でとりながら、ためらっていると、「どうして、飲まないの?」「だって、飲んだらなくなるし、勿体ないじゃん。」「今日は、焼き肉よ。飲みなさいよ。」「うん、じゃあ、一つだけ。」 ドイツのビールだそうです。ピルスナー、どうのこうのと書いてあります。まあ、どっちにしてもグラスに氷をいっぱいにしてオンザ・ロックで飲むビール ですから、味も何にもあったもんじゃないわけですが、しみる味でしたね(笑)。 で、チッチキ夫人がとり出したのが、最初の写真の徘徊用の帽子です。頭に逢う大きさを探すのに苦労したと思いますが、ありがとう!でした。 フェイスブックとかで、沢山のお祝いの言葉をいただき、ちょっと感激でした。本当にありがとうございます。 まあ、これからは、あんまり人さまに迷惑をかけないことを肝に銘じて、ヨタヨタ徘徊暮らしを続けようと思っています。このブログも、ほとんど生きがいのようになっていて、恥ずかしいのですが、1000冊の読書案内、1000本の映画鑑賞を目標にして毎日更新していくつもりです。どうぞ、よろしくね(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)とらきち
2024.06.07
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「団地はアジサイ!」 徘徊日記 2024年6月6日(木)団地あたり 三泊のお泊りの病院から帰ってきて、まあ、それでも、フラフラ、ヨタヨタ、団地を歩いていると、団地はアジサイの季節! でした。夏ですね。 どこの棟の前の庭もアジサイです。みんなおんなじかと思っていましたが、どうも違うようです。咲き方が違いますね。キッと名前も違うのでしょうね。 花言葉とか調べてみると、こちらもいろいろあるようですね。「家族」「団らん」 とかは、まあ、想像がつきますが、「移り気」「冷淡」「辛抱強さ」「高慢」「七変化」「高嶺の花」「You are cold」 ですからね。笑っちゃいました。 もっとも、こういう赤い色系の花は「強い愛情」「元気な女性」 とかだそうで、まあ、一安心ですね(笑)。 こういうのはガクアジサイとかいうのでしょうかね。ちょっとちがった風情でいいですね。 呼び名もいろいろあるようですが、正岡子規にこんな句もありましたね。紫陽花やきのふのの誠けふの嘘紫陽花や赤に化けたる雨上がり 紫陽花をあじさいと読むのが、まあ、なんといってもかっこいいですね(笑)。 ああ、これば、バラですね。ついでです(笑)。ついでついでに調べると、ピンクのバラの花ことばは「感謝」とか、「幸福」とか だそうです。漢字も薔薇ですしね。紫陽花が、ちょっと、かわいそうですね(笑)。にほんブログ村
2024.06.06
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佐藤真「まひるのほし」シネリーブル神戸 前日、同じ佐藤真監督のサイードを見たのですが、病み上がりの徘徊老人、いてもたってもいられなくて、今日もシネリーブル神戸にやって来ました。今日は付き添いなしで一人です。 見たのは、もちろん、「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の2本め、佐藤真監督、1999年の作品、「まひるのほし」です。 この写真が西宮のすずかけ作業所に通いながらゴシゴシ絵を描くシュウちゃん。 彼の、夢中になってクレパスとかを使っている顔に、フッと浮かぶあどけなさが見ているボクの心を揺さぶるように、激しくうちます。 最初のチラシの正面写真が、神奈川の絵(かい)という工房にやって来る「ボクは女の人が好きだ 。女性が好きだ。 女子高生。 女子学生。 女子短大生。 女子大生が好きだ。シゲちゃんと呼んでほしい。」 と叫び、延々とカードを書き続けるのがシゲちゃんです。 写真はありませんが、結構、お年のおじさんで、「なさけない、ああ、なさけない、いや、ありがとう。なさけない。」 と呟き続けながら信楽で穴だらけの焼き物を焼いていたのがヨシヒコさん。 他にも、個性あふれる筆遣いの人たちは出てくるのですが、名前で記憶できた、この三人の方のインパクトは格別でした。 上のチラシの写真ですが、江の島の海岸の水際で、ここでもやっぱり「シゲちゃんとよんで!」 と、沖のウインド・サーファーの女性たちに向かって叫んでいるシゲちゃんの後ろ姿を捉えるカメラの、まあ、視線に深いとか浅いとかあるのかどうかはともかく、深い、心のこもった視線に、監督佐藤真の「愛」が込められていると強く感じたたラストですが、そこに流れて来た井上陽水の歌がこんなにも哀切だったことに気付かされたのもオドロキの大発見でした。 スクリーンの映し出されるすべての人に拍手! そんな、思いで見終えました。映画から25年、映画を撮った佐藤真はすでにこの世の人でありませんが、きにかかるのは、映画に出てこられた、みなさん、お元気にしていらしゃるのでしょうか? ということで、この作品は、そういう映画だったと思いました。 芸術表現人の根底に迫るとチラシは謳っていますが、普通の人間が普通に生きている姿を、人間をそのまま撮りたい監督やカメラマンが、深く、あたたかい眼差しで、静かに見つめ続けている。 そういう映画だと思いました。まさに、ドキュメンタリーの傑作ですね。拍手!監督 佐藤真製作 山上徹二郎 庄幸司郎撮影監督 田島征三撮影 大津幸四郎録音 久保田幸雄録音応援 菊池信之助監督 飯塚聡挿入歌 井上陽水キャスト舛次崇(しゅうじたかし:しゅうちゃん)西尾繁(にししげる:しげちゃん)伊藤喜彦(いとうよしひこ:よしひこさん)竹村幸恵富塚純光川村紀子松本孝夫1999年・93分・日本2024・06・02・no074・シネリーブル神戸no247追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.05
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養老孟司×名越康文「二ホンという病」(日刊現代・講談社) 市民図書館の新刊の棚にありました。養老孟司と名越康文、元解剖学者と精神科医、まあ、お二人ともお医者さんですね、だから、まあ、「二ホンという病」ということになったんだろうと思います(笑)。名越という方の文章を読むのは、初めてですが、養老孟司は「バカの壁」(新潮新書)でバカ受けする、はるか以前からのファンです。 ボクにとっては、おしゃることが、まあ、最近、そういう方は減ってしまいましたが、その数少ない、信用できる方のお一人ですね。 というわけで、借り出してきて、なんだか、すらすら読み終えて、やっぱり、ありましたね。養老 僕はなんだか、日本の原題を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。 中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしてましたね。 中略名越 そうか、叙勲も何もないんだ。異様ですね。養老 そんなことより、戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。 中略 別にほめなくてもいいけど、どう位置付けるかでしょうね。個人の自立って話だけど、中村さんなんかは典型的にそうですけど、今度はそれをどう評価するかっていう問題があって、何の物差しも持っていないですよ。ポカンっていう感じですよね。 まあ、二ホンという社会の「病」の話ですから、ここからは、いや、ここまでも、思想抜きのアホ政治、いつの頃からの流行か忘れましたが「リアル・ポリティクス」とかいう言葉が作り出した「現実」の「病」の指摘ですね。問題は思想抜きってどういうこと? ですが、そこは、この対談だけ読んでも、多分すぐにはわかりませんね。要するに普遍的に判断する基本がないってことですが、そこを考え始める本かもですね。 日刊ゲンダイという夕刊紙の連載対談ということもあって、コロナとかウクライナとか、話題は多岐に広がっていますが、こういう発言がポロリと出てくるとホッとしますね。 で、もう1か所、最後のコラムでこんなことをおっしゃっていて、笑いました。 日本の喫煙所はね、絶対にたばこを吸わない人考えたんですよ。あんな閉鎖的なところで吸ってもちっともおいしくない。東京に出ているときにね、たばこのことを考えるとすぐに家に帰りたくなりますよ。家では好きな時に吸えますからね。そう言えば、「丸」が生きていた時、あいつの前で吸っていても大目に見てくれていましたね(笑)。(「コラム②タバコと価値観」P204 ) 世の中に、ちょっと、イラっとすることがあるけど、まあ、木から落ちてくる虫や、道端の花の世界に取り合っている方がいいや! とか、どうせ、おれは喫煙者だし・・・ というタイプの人向けの本ですね。でも、考え始める気があるなら、ヒントは山盛りです。さすがですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.04
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佐藤真「エドワード・サイード OUT OF PLACE」シネリーブル神戸 2024年の5月の下旬から、ちょっとした病院通いと入院があって、月末に何とかして病院からのトンズラを考えたときには、さすがに、「これを見るのは、やっぱり無理やろうな・・・」 とか思っていたのですが、出てきて映画館のスケジュールを見て、「行くしかない!」 と、まあ、大げさですが決心して出かけた映画です。「多分、これは、見て、ソンはないと思うよ!」 そんなふうに声をかけると、まあ、安静を指示された同居人が、退院早々、三宮くんだりまで映画を見に行こうとしてることに対する心配もあったのでしょう、本当なら、ここのところ哀れな結末が続いているだめトラ(笑)の応援でテレビにかじりつくつもりだったのを変更してのお付き合いで、同伴鑑賞と相成りました。 見たのは「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の1本、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」でした。 久しぶりに見てよかった! あれこれ、いうのが気が引けるほど堪能しました(笑)。「どう、よかった?」「うん、よかった。サイードいう人、当たり前のこというてた人やて、ようわかった。」「本人、写真と子供の時のビデオでしか出てけえへんのにな。」「エンド・ロールに重信メイいう名前があった。」「うん、レバノンに居ってんやろ。」「サイードって、平凡社ライブラリーの『オリエンタリズム』の人やんな。」「うん。元々は比較文学。2003年に亡くなったんやけど、白血病、そのころにはパレスチナについての発言がいっぱいや。みすずから出てたやろ。最後は『晩年のスタイル』、大江がマネして、自分の小説に題もろたやつ。それ以外にも何冊か、帰ったらあるはずやで。映画でわかるけど、生き方がエエねんな。」「本はむずい?」「うん、どれもこれも読みかけみたいな感じやな。やっぱり読み直さなあかんなっておもた。」「また、読まなあかん本ばっかり増えるねえ。」「バレンボイム、よかったな。最後に出てきて、静かなシューベルトやったなあ。なんか、聴いてて涙がとまらへんかった。」「ピアノの横の誰も座ってない赤いイスとか、コロンビア大学の空っぽの部屋の机とかよかったなあ。」「パレスチナって、きれいなとこやったなあ。」「結局、サイードいう人もそうやけど、帰って行かれへん人ばっかり出てて、その人らの様子が、怒る人も、哀しむ人も、ヨーロッパのどこかからパレスチナに来て笑って暮らしてる人も、何で、こうなったのかわらへんいうてはったパレスチナから追い出された人も、他の宗教の人らとも仲よう暮らしてたのにいうてはった人も、みんな、どっか哀しい。」「うん、佐藤真いう人の考え方いうか、人柄いうか。賢い監督やなあって思ったなあ。」 エドワード・サイード、彼の家族、ダニエル・バレンボイム、出てきた人みんな、そして佐藤真と、撮影スタッフ、みなさんに拍手!でした。 帰ってきて、この作品を撮った監督の佐藤真が、この映画の2年後に自ら命を絶っていることを知って、言葉を失いました。彼も、もう、帰ってこれない場所に行ってしまっていたのですね。 ここ、二日、チッチキ夫人はバレンボイムのモーツァルトのCDをラジカセで聴いているようです。ボクは、部屋のどこにあるかわからないサイードの著作を探して、大わらわです。監督 佐藤真企画・制作 山上徹二郎撮影 大津幸四郎 栗原朗 佐藤真編集 秦岳志助監督 ナジーブ・エルカシュ 屋山久美子 石田優子ナレーション 宝亀克寿テキスト朗読 山川建夫キャストマリアム・サイードナジュラ・サイードワディー・サイードノーム・チョムスキーダニエル・バレンボイム2005年・137分・日本2024・06・01・no073・シネリーブル神戸no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.03
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吉本隆明「ちひさな群への挨拶」「吉本隆明代表詩選」(思潮社)より 三泊した病室で天井をボンヤリ見ながら、周りから聞こえてくるうめき声やしわぶき、ときどき響き渡るモニターの発信音を聞きながら、何故か、50年ほど昔の下宿暮らしの頃に、天井に貼っていた詩の文句が浮かんできて、スマホを取り出してググってみると、結構、出てくるもので、しばらく、自分が今いる境遇を忘れて読みふけっていると時間もいつの間にかたっていて、少しうとうとできるという体験をしました。 自宅に帰ってきて、もう一度、今度はそれぞれの詩集とかで読み直しながら、2024年の5月の月末の備忘録のような気持ちで、思い出した詩を写しておくことにします。 とりあえず、一つ目は吉本隆明の「ちひさな群への挨拶」です。 ちひさな群への挨拶 吉本隆明あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ冬は背中からぼくをこごえさせるから冬の真むかうへでてゆくためにぼくはちひさな微温をたちきるをはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれるぼくが街路へほうりだされたために地球の脳髄は弛緩してしまふぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために冬は女たちを遠ざけるぼくは何処までゆかうとも第四級の風てん病院をでられないちひさなやさしい群よ昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげるそうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにするこわれやすい神経をもつたぼくの仲間よフロストの皮膜のしたで睡れそのあひだにぼくは立去ろうぼくたちの味方は破れ戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだからちひさなやさしい群よ苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるときぼくは何をしたらうぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから記憶という記憶はうつちやらなくてはいけないみんなのやさしさといっしょにぼくはでてゆく冬の圧力の真むかうへひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だからひとりつきりで抗争できないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だからぼくはでてゆくすべての時刻がむかうかわに加担してもぼくたちがしはらつたものをずつと以前のぶんまでとりかへすためにすでにいらなくなつたものはそれを思いしらせるためにちひさなやさしい群よみんなは思い出のひとつひとつだぼくはでてゆく嫌悪のひとつひとつに出遇ふためにぼくはでてゆく無数の敵のどまん中へぼくは疲れてゐるがぼくの瞋りは無尽蔵だぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられるぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられるぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれるもたれあうことをきらった反抗がたふれるぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐるぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえすだから ちひさなやさしい群よみんなのひとつひとつの貌よさやうなら 今回、書き写すために参照したのは思潮社の「吉本隆明代表詩選」というアンソロジー詩集ですが、その中に、10年ほど前に亡くなった詩人、辻井喬さん、実業家としての名は堤清二で、西武百貨店の重役だった人ですが、彼のこんな言葉がのっています。 吉本隆明の作品を考える場合、「詩」という言葉でどこまで含めたらいいかという問題にぶつかります。というのは、たとえば「マチウ書試論」は感性に訴える思想の運動を記した詩作品だと思うからです。しかし、不本意ながら慣習に従うなら「転位のための十篇」のなかの「ちひさな群への挨拶」でしょう。辻井喬 ボクが記憶していたのはひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから という2行でしたが、1974年に二十歳だった青年は何を考えていたのでしょうね。でも、まあ、そういう時代が50年前にあったことは事実で、そういう感受性というのは、どこかに眠っているのかもしれませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.02
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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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「三日で出所(笑)!」 徘徊日記 2024年5月30日(木)舞子あたり 虫垂炎の除去手術で、入院でしたが、実に物分かりのいい主治医さんで、「どうせ寝ているだけなら帰りたい!」 というと「じゃあ、帰りますか。ホントに寝てるんですよ!」 というわけで、三泊四日で出所! 病院前のバス停で黄色い花が咲いていてしみじみのぞき込みました。 出て来たばっかりの建物を振り返りながら、なにをしてるんだ?! ですが、肺活量、94歳程度! と診断されてドキドキしたことを、もう忘れていますね。 四日目の朝、5月30日の明石大橋。やっぱり絶景でしたが、さようなら(笑)ですね。通院はしばらく続くようですが、無事退院の報告でした。 皆さん、色々心配していただいてありがとうございました。追記 2024・06・02 上の黄色い花の名前ですが、同居人に尋ねると「金糸梅(きんしばい)」、ブログを読んでくれた年上のおばさんは「ビヨウヤナギ」、年下なのにボクを弟扱いして50年来のオネ~さんは「弟切草(オトギリソウ)」、みんな違うことをおっしゃるので調べたら、みなさん御正解!(笑) みなさん、よくご存知ですね(笑)。にほんブログ村
2024.05.31
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「目覚めたら、目の前に明石大橋!」 徘徊日記 2024年5月29日(水)舞子あたり 2024年の5月29日(水)の朝、まあ、生まれて初めての手術とかの体験から目覚めて、とはいっても、手術といっても何も覚えていないし、その後も、ほとんど起きているのか寝ているのかわからない一晩でしたが、何故かおしっこだけはくりかえししたくなって、これまた、生まれて初めて、看護師さんにおしっこをとっていただくという不思議な体験を繰り返しして、で、夜が明けて、三度目のおしっこで、もう、歩いて自分で行ってもいいの?はい、がんばって!とか、はげまされて、フラフラ、おしっこに行って、窓から見える快晴の明石大橋を見てホッとしました。 まあ、虫垂炎ごときで、なにを大げさなとお笑いでしょうが、70歳を目前にした初体験、なかなかな体験でした。 それにしても、この風景、なかなか、絶景でしたね。にほんブログ村
2024.05.29
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岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書) 今回の案内は音楽学者、岡田暁生の「音楽の聴き方」(中公新書)です。下に目次を貼りましたが、この本自体は、ボクのような、まあ、ただ、ただ、ボンヤリ聴いてきて、演奏者の名前もすぐ忘れるし、演奏形式や楽器についても関心が深まるわけではなくて、「好き」とか「イイネ」とかで過ごしてきたタイプの人をわかった気にさせてくれる入門書 ですね(笑)。 スラスラ読めて、ちょっと賢くなった気がして楽しい本です。もっとも、彼が「フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルのブルックナーの第八交響曲」が「本当に素晴らしかった。」とおわりにで書いていらっしゃることが、本当にわかったかどうか、まあ、怪しいのですけどね。 で、なぜ「案内」か? というと、最近、映画を見るとか、まあ、小説を読むとかでもそうなのですが、自分が、なにをおもしろがっているのかよくわからないことがよくあって、にもかかわらず、他の人に「おもしろかったですか?」とか、「何処がいいですか」とか問われると、困惑というか、自己嫌悪というかに落ち込む経験を繰り返していて、ちょっと、イラついた日々を過ごしていたのですが、偶然手に取ったこの本のこういう所に、「うん、そうだよな」 という感じで、ちょっと落ち着いたので「案内」という次第です。 芸術の嗜好についての議論において、本来それは「蓼食う虫も好き好き」の「たかだか芸術談義」でしかないはずなのに、なぜ私たちはしばしばかくも憤激したり傷ついたりするのかを、パイヤール(フランスの文学理論家)は次のように説明する。「われわれが何年もかけて築き上げてきた、われわれの大切な書物を秘蔵する〈内なる図書館〉は、会話の各瞬間において、他人の〈内なる図書館〉と関係をもつ。そしてこの関係は摩擦と衝突の危険を孕んでいる。というのも、われわれはたんに〈内なる図書館〉を内部に宿しているだけではないからである。(中略)われわれの〈内なる図書館〉の本を中傷するような発言は、われわれを最も深い部分において傷つけるのである」(「読んでいない本について堂々と語る方法」(筑摩書房)P96) まあ、ボクの気を鎮めてくれたのは、この一節なので、ここまででいいのですが、これを著者がも一度まとめていますから、それも引用します。 これまでどういう本(音楽)に囲まれてきたか。どのような価値観をそこから 植えつけられてきたか。それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。一見生得的とも見える「相性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。それはいまや自分の身体生理の一部となっているところの、私たちがその中で育ってきた環境そのものなのだ。だからこそ芸術談義における相性の問題は、時として互いの皮膚を傷つけるような摩擦を引き起こしもするし、反対にそれがぴったり合った時は、あんなにも嬉のだろう。での人たかが相性、されど相性。「相性の良し悪し」は、私たち一人一人のこれまでの人生そのものにかかわってくる問題だとも言えよう。芸術鑑賞の下部構造はこういうものによって規定されている。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」とはブリア・サラヴァン「美味礼賛」の中の有名な一節だが、音楽についても同じことが当てはまるはずである。」(P13~14 ) 第1章のこのあたりで、芸術鑑賞における、「すきずきの」の固有性 とでもいうことについて書いていらっしゃるのですが、まあ、いってしまえばありきたりな一般論です。なのですが、スラスラ読める文章作法というか、ちょっとおもしろい逸話や、個人的体験の挿入がお上手で、あきずに読めていいです(笑)。 そもそもは10年前の本で、ボクもそのころ読んだんですけどね。 ああ、岡田暁生という人は1960年生まれで、京大の人文研の先生ですね。「オペラの運命(中公新書・サントリー学芸賞)、「ピアニストになりたい!」(春秋社・芸術選奨文部科学大臣新人賞)、最近では、ちくまプリマ―新書の よみがえる天才シリーズで「モーツァルト」とか、素人向けにいい人みたいですね(笑)。 目次、あげておきますね。目次はじめに第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ第3章 音楽を読む―言語としての音楽第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からないおわりに文献ガイド まあ、お暇な方、いかが?ですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.28
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ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン「シド・バレット 独りぼっちの狂気」シネリーブル神戸 多分というか、おそらくというか、まあ、思い込みだけですがというか、1970年に高校1年生だった、ボクくらいの年齢の人で、1974年に大学生になって、初めて自分の小遣いで買ったロックのLPレコードがピンクフロイドの「おせっかい」で、その次に買ったのが「原子心母」だったというような始まりがあって、6畳一間の学生アパートでヘッドホンで繰り返し聞きながら田舎ものから脱皮しようとあがいたような20歳だったような人というのはそんなにいないんじゃないでしょうかね。 だって、ポスト・ビートルズのあの時代 に、同じロックというなら、すでに伝説だったジミ・ヘンや、ジャニス・ジョップリン、やたらにかっこよかったクリームや、ツェッペリン、ジム・モリソンが亡くなって伝説化しつつあったドアーズならまだしも、「エコーズって知ってる?」 とか、あんまり一般的じゃなかった気がしますね(笑)。大学とかの同級生とかにも、まあ、そんな話をした覚えもありませんし。 その後、音楽に対する好みがどう変わっていったかなんていう話は、まあ、今日はどうでもよくて、あの、半年ほどの音の記憶にはピンクフロイドがどっかと座り込んでいて、こう書きながら、久しぶりにヘッドフォンから「原子心母」の出だしの砲声、オートバイの爆音、そして、あのメロディーが流れてくるのを聞いていると、チョット、いても立ってもいられないような気分になりますね。 シネリーブルでは、同時に坂本龍一とかジョン・レノンの映画もやっていたのですが、ボクは、やっぱり、ピンクフロイドの伝説の人、シド・バレット からですね。 で、見たのは「シド・バレット 独りぼっちの狂気」、シド・バレットの映っている古いフィルムを集めて、その頃のみんなが語っているというドキュメンタリーでした。さて、感想は、というわけですが、実は、上に書いた「おせっかい」や「原子心母」の頃には彼はもう、バンドにはいませんからね。だから、よく知らなかったんですよね。でも、映画の中で、彼のことを語っているのが、その頃のメンバーなのです。なんか、ちっともエラそうじゃないおじいさんになっているロジャー・ウォーターズやデビッド・ギルモアを見ていて、シミジミしちゃいましたね。もう、それで十分でした。 まあ、それにしても、神戸が都会なのか田舎なのか、ここで50年暮らしてきましたが、田舎者脱皮作戦はうまくいったわけではなさそうですね(笑)。監督ロディ・ボガワ ストーム・トーガソン音楽 シド・バレット ピンク・フロイドナレーション ジェイソン・アイザックスキャストロジャー・ウォーターズデビッド・ギルモアニック・メイスンピート・タウンゼントグレアム・コクソンミック・ロックダギー・フィールズノエル・フィールディングトム・ストッパードアンドリュー・バンウィンガーデン2023年・94分・PG12・イギリス原題「Have You Got It Yet? The Story of Syd Barrett and Pink Floyd」2024・05・24・no071・シネリーブル神戸no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.27
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NTLive サム・イェーツ「ワーニャ」シネリーブル神戸 実は、ここのところ、珍しく体調を壊していて、徘徊もままならない徘徊老人シマクマ君ですが、今週逃せば見損ないそうなのでやって来たシネリーブル神戸、見たのはNTLiveで、演目は「ワーニャ」でした。アントン・チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の翻案(?)でした。まあ、チェーホフだから、とにかく、行こ! というのが正直なところです。 で、見終えて唸りました。 いやー、すごい! の一言ですね。 原作では大学教授だったアレクサンダーが映画監督ですが、呼び名は同じで、彼の若い妻(エレーナ)がヘレナ、すでに亡くなっている先妻の娘(ソーニャ)がソニア、で、ソーニャが恋する医師(アーストロフ)がマイケルと呼ばれていて、ソーニャの母の兄である主人公ワーニャ伯父の呼び名はアイヴァンとなっていました。ほかにも、祖母エリザベスとか乳母とか、不動産屋とか登場するお芝居ですが、お話が現代風にアレンジされてはいるものの、見終えた印象は、戯曲として読んだことのある「ワーニャ伯父さん」と、まあ、同じでした。 しかし、今回、見ながらへたり込みそうになるほど驚いたのは、まず、上に書き上げた登場人物を、男女をとわずアンドリュー・スコットという俳優さんが、一人で演じたということです。 瞬間、瞬間、いったい誰が誰にしゃべっているのかわからない、複数の人物の、複数のセリフのやりとりを、すべて一人の男性の俳優がやり切っていて、見ていてシラケないどころか、だんだんお話の展開がリアルになっていったことですね。落語のような「語り」ではなくて、戯曲のセリフがそのままです。 開幕直後は、その段取りが理解できませんから、少々当惑しますが、お話が煮詰まってアイヴァン(ワーニャ伯父)が銃(原作ではピストル、この芝居では猟銃)を持ち出したり、モルヒネ自殺を図ろうとするあたりから、ソニア(ソーニャ)の名セリフの山場では、見ているこちらは思わず涙を流してしまうありさまで、久しぶりのチェーホフ芝居に堪能しました(笑)。まあ、あのセリフが聴きたいばかりにやってきたわけですからね、拍手!でしたね。 一人芝居を観るという経験が、あまりないのでよくわかりませんが、この舞台ではアンドリュー・スコットが登場人物全員を演じ、あろうことかヘレナとマイケルの不倫ベッドシーンまで「ナルホドそうやるのか!」 という艶めかしさで演じてみせて、その直後、部屋に入って来る夫アレクサンダーに早変わりしながら、身づくろいを整えるエレナだったりする場面もあったりして、感心というより、ちょっと笑いそうでしたが、やるもんですねえ・・・ アンドリュー・スコットという俳優は、同じNTLiveの「プレゼント・ラフター」というお芝居と、サム・メンデス監督の「1917」という映画で見たことがありましたが、今回のお芝居は出色でしたね。 ボクとしては、やはり、チェーホフが好き! ということがあっての観劇でしたが、もう、何十年も前に見た岸田今日子のラネフスカヤ夫人以来の納得でした。今でも記憶に残っている彼女の舞台上での存在感とは全く違った趣向の舞台でしたが、ボクの中に、新たなチェーホフ戯曲を焼きつけたような印象でした。役者というのは、ここまでやるんですね! もう一度、拍手!ですね(笑)。演出 サム・イェーツ原作 アントン・チェーホフ脚本 サイモン・スティーブンスキャストアンドリュー・スコット2024年・117分・イギリス原題 National Theatre Live「Vanya」2024・05・25・no072・シネリーブル神戸no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.26
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村上春樹「村上春樹 翻訳 ほとんど全仕事」(中央公論新社) 今日は、2017年に出された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)の案内です。目次まえがき翻訳作品クロニクル一九八一 - 二〇一七対談 村上春樹×柴田元幸 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈前編〉サヴォイでストンプ オーティス・ファーガソン 村上春樹訳 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈後編〉寄稿 都甲幸治 教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランド 村上春樹の翻訳 作家村上春樹の翻訳に関する、まあ、彼自身が語っている著書は、柴田元幸と語り合っている本はもちろんのことですがたくさんあります。 で、この本でも、柴田との対談がメインディッシュなわけですが、その前に、村上春樹の翻訳した仕事がすべて、多分、二〇一七年の時点で、お仕事を振り返ってというコンセプトなのでしょうね、その本の写真に村上自身のエッセイが添えられているところがミソで、結構、楽しめます。 たとえば、彼が訳したサリンジャーの「キャッチャー」とオブライエンの「世界のすべての7月」のページはこんな感じです。 キャッチャーの思い出の中で、「僕としては正直な話、表現はあまりよくないかもしれないが、猫さんの首に鈴をかけるネズミくんのような心境だった。そして予想どおりというか、あるいは予想を超えてというか、最初のうちは厳しいことをいろいろ言われた。」 と振り返っていたりするのが、興味を引きますね。 今でも、村上訳の「キャッチャー」が、サリンジャーの原作の、あるいは野崎孝の初訳の「ライ麦畑」という翻訳の、小説家村上春樹による歪曲のような言われ方を耳にすることがありますが、まあ、そのあたりについて村上自身の耳に何が聞こえてきて、彼がどう考えたのかあたりは、20年前の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)あたりでしゃべっているかもしれませんが、ボクは、彼の翻訳態度というのは、作家としても真摯だ というふうに感じていて、翻訳作業において、原作のハルキ化、いってしまえば歪曲が起こっているというふうには考えたことがないので、まあ、なんともいえませんね。 で、柴田元幸との対談はというと、今までに書籍化されているものに比べて、10年以上も新しいというところがポイントですね。お二人とも、以前のお二人では、もうないのです。まあ、「翻訳夜話1・2」(文春新書)あたりで、耳にした話が繰り返されているわけですから、語り口のどこかしらに、時間が過ぎたことを、ボクは感じました。 もう一つ、本書で、おもしろかったのは都甲幸治の「ハルキ論」ともいうべき、教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランドという短いエッセイでしたね。 彼(村上)の語る国家の論理との戦いは、翻訳する作品を選定するうえでも大きな役割を果たしている。なぜなら、その多くで戦争が扱われているからだ。国家は必要とあらば個人をたやすく殺し得る。その極限の形が戦争だ。オブライエン「本当の戦争の話をしよう」所収の「レイニー川」の青年は、ベトナム戦争は間違っているとわかっていながら兵役を拒否できない。フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公は第一次大戦帰りで、ときどき人を殺したことがありそうな目をする。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書いたサリンジャーは第二次大戦で数々の激戦に参加した。そして彼らの作品と、国家や宗教教団について考える村上春樹は地続きだ。(P195~196)都甲幸治 そうか、そういう経路で考えるのか、と、まあ、そういう感じでしたが、村上春樹という作家の不幸は、加藤典洋亡き後、彼を正面から論じる批評家がいないことだとボクは思っていますが、ないものねだりなのでしょうかね(笑)。 掲載されている翻訳の書籍がカラー写真だということもあって、オシャレな本ですが、なかなか読みでもありましたよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.25
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「久しぶりに武庫川を越えました。」 徘徊日記 2024年5月8日(水) 関西労災病院あたり 生まれて初めて、介護タクシーという乗り物に乗りました。通院のお手伝いをしていた恩師が、入院していらっしゃった病院の医師から別の病院での診察を指示されての付き添いです。 半月ほど前には、乗用車から車椅子への乗り換えのお手伝いだったのですが、いよいよ、介護タクシーに頼らなければならないご様子で、タクシー内でのお話相手です。 タクシーが、西宮市内から武庫川を渡ったあたりで、「あの時ね、別世界だったんだよね。」「あの時?」「うん、震災の時。」 武庫川の川面を見ながら神戸の震災の時のことを思い出されたようでした。「そうでしたね、西宮までと、尼とは別世界でしたね。」 人のよさそうな、運転手さんが、相槌を打たれて、「うん、尼崎は、別世界だった。」「センセー、やっぱり、あの地震は…」「うん、はっきり、覚えているよ。久しぶりの尼崎だね(笑)。」 武庫川を越えて病院はすぐでした。 待合室で、付き添いをバトンタッチです。新た検査や採血やで、長い待ち時間の間、することもなくて、庭に降りて来て一服です。 病院の前の岩はバラ園した。白や赤のバラが満開でした。 関西労災病院の前の庭です。待合室の先生に写真を見せるとニッコリされていました。 帰り道のことですが、阪急の今津線を通過したあたりで「先生、あのころ、N君が、このあたりに棲んでいたんですよ。」「N ? ・・・ ああ、Nくんか。」 若くして亡くなった愛弟子のことを、チョット思い出されたようでした。 このブログをご覧になった方には、何の変哲もない会話ですが、タクシーの中で、先生が、うまく、まわらない口でおっしゃったことは、一句、一句、この日の一月後に亡くなってしまった恩師のことばを記録しておきたくて書いています。 他の人に言うべきことではないかもしれませんが、ご容赦くだいね。にほんブログ村
2024.05.24
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フリーヌル・パルマソン「ゴッドランド GODLAND」シネリーブル神戸 見終えて、1カ月ほどたちました。覚えているのは「氷原」、「溶岩の流れ出す火口」、「馬」、「十字架」、「人々の無表情な顔」、そして「カメラ機材を担ぐ牧師」です。 舞台がアイスランドということで関心が湧きました。文字通り、地の果て、海の果ての世界です。サーガという言葉がありますが、北欧神話に出てくる女神の島です。なんとなく、そういう所を期待して見ましたが、ハズレのような、アタリのような印象を持ちました。 映画が始まって、まず、勘違いしていたことをなんとなく感じました。18世紀、カメラが実用化され始めた時代に、おそらく北欧カトリックだったこの島に、新しいプロテスタントの信仰を広めようとカメラを担いで渡って来た牧師 の話に神話なんてありえないということです。 カメラを担いだ若者が撮りたかったのはエキゾチックな風景と支配に従う人々のポートレイトでした。要するに能天気なのです。 彼には新たなる信仰の伝道とでもいうのでしょうか、敬虔な信仰があるとはとても見えません。宗主国の使いという、そこで暮らす人間には、エラそうなだけの存在であることには気づくことのできない、ただのカメラ小僧の好奇心があるだけのように見えました。 映画を見ていて、彼が、辺境の海岸から十字架を馬に担がせ、自らはカメラを担いで旅をして目的地の集落に到着したあたりで、実は島の中心地の目的地近くに港があることがわかります。 で、彼は、にもかかわらず、この「試練の旅」の旅程を選んでいたとわかったあたりから、おそらく、世界の辺境の地で、たとえば、極東の島国にオランダのプロテスタントがやって来たのは15世紀ころだったわけですが、そのころから幾度も繰り返されたにちがいない宗教的伝道者たちの試練の旅をなぞろうとしている人物なのではないかと予感のような思いが浮かびました。だから、カメラなのです。 18世紀末、カメラにうながされるように始まった、どうもインチキ臭い試練の旅の記録が数葉の古びた写真で残されていて。それを見た21世紀の映画監督は、おそらく、世界最初のカメラ小僧の一人だった、この若い牧師が「行って、見て、帰ってくる」はずの旅の中で、被写体に対する、ただの好奇心で撮って、偶然、残されたにすぎない数葉の写真の足跡を追えばが、本人が気付いていたかどうかはともかくも、サーガの地の「神話的世界」とそこでを生きる人間が浮かび上がってくる、そんなモチーフだったのではないでしょうか。 この映画の面白さは、多分そこからでした。カメラのレンズに神の威信を託した愚かな若い牧師は、哀しいことに現像液の消費とともに神の威力を失い、野ざらしの白骨となって朽ちて消えてゆきます。残された数葉写真が語る出来事はアイスランドの自然、あるいは「神話的世界」の歴史の小さなエピソードとして21世紀のカメラ小僧であるフリーヌル・パルマソン監督によって復元されますが、彼が映し出したのは開拓者として渡って来た人間たちや、彼らが持ち込んだ新来の宗教を越えたアイスランドそのもの! だったのではないでしょうか。 主人公の若い牧師が、おろかな現代人にしか見えなかったというのが、この作品の印象でした。新奇な科学技術や思想や宗教を寄せ付けない厳然たる世界がある! ということを感じた作品でした。監督・脚本 フリーヌル・パルマソン撮影 マリア・フォン・ハウスボルフ美術 フロスティ・フリズリクソン衣装 ニーナ・グロンランド編集 ユリウス・クレブス・ダムスボ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャストエリオット・クロセット・ホーブ(ルーカス)イングバール・E・シーグルズソン(ラグナル)ビクトリア・カルメン・ゾンネ(アンナ)ヤコブ・ローマン(カール)イーダ・メッキン・フリンスドッティル(イーダ)ワーゲ・サンド(ヴィンセント)ヒルマル・グズヨウンソン(通訳)2022年・143分・G・デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作原題「Vanskabte Land」2024・04・15・no059・シネリーブル神戸no238・SCCno21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.23
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アグニエシュカ・ホランド「人間の境界」シネリーブル神戸 なんとなくな、予感のようなものにうながされて見ました。アグニエシュカ・ホランドというポーランドの監督の「人間の境界」です。 映画の、そもそものタイトルであるGreen Borderという文字が白色のフォントで現れて、やがて、緑色に変わります。 で、映像では、緑の森林 がモノクロになって、場面は飛行機の機内に変わり映画が始まりました。 正確な小題は忘れてしまいましたが、「難民」、「国境警備兵」、「支援」という小タイトルが付けられて、いわば、三つの視点かららのオムニバス形式でGreen Borderの現実が描かれていました。 で、Green Borderとは何か? というと、映画の解説によれば、ポーランド語(?)ではZielona Granicaと書くらしいですが、「緑の国境を越える」=「政府の許可なく非合法に越境する」 という意味だそうで、EU圏内の国境自由通過を定めたシェンゲン協定(1995)以降、EU圏内における国境は自由通過らしいですが、この作品が映し出していたのはEU圏外から「誰」が、「何故」、EU圏内への、いや、ポーランドへの「非合法越境」のために、隣国ベラルーシに集まり、そこからZielona Granicaを越境しポーランドへの入国を求めているのか。そこで何が起きているのか? ということでした。 で、映画の最初に映し出された「緑の森」のシーンこそ、その現場であり、恐るべき「現実の場所」であるという作品でしたが、映し出される映像には言葉を失い、目を瞠る他になすすべがない印象の映画でした。「国家」と「国家」のボーダー、境界線であらわになる「国家」という共同幻想の悪夢のような現実の中に誰もが、無自覚に存在していて、その悪夢の中で、人間たちが「人権」も、「生存権」も、「モラル」も、「勇気」も、「善悪の判断」も、「誇り」も、みんな失って「ゴミ」くずとして存在している。 そんな印象でした。 映画に出てくる「難民」と呼ばれている人たちも、支援者たちも、あるいは、双方の国境警備の兵士たちや警官たちも、もう少し広げていえば、ただの市民を生活の場所から追い出した国家指導者たち、政治家たちや宗教原理主義者たちも、ついでにいえば、世界の「難民」の現実など、かけらも気にかけない生活を送る極東の島国の徘徊老人も、人間を失った、その悪夢の中に生きているという現実認識、それを突き付けてくる迫力がこの作品にはありました。 支援に参加し、国家のルールを越えて活動しようとするエリアという女性医師が登場し、彼女に対して、アナキストの一人が「あなたを見直したよ。てっきり自己評価を高めるために支援グループに入ったんだと思ったけど、違ったね。」 と語りかけるシーンに「映画は無力ではない!」 とチラシで語っているアグニエシュカ・ホランド監督の言葉の真意が木霊すのを感じました。 いや、それにしても、もう一度「人間」を取り戻すために、何をすればいいのか、を問いかけてくるというか、まあ、途方もない作品! でした。拍手!監督 アグニエシュカ・ホランド脚本マチェイ・ピスク ガブリエラ・ワザルキェビチ=シェチコ アグニエシュカ・ホランド撮影 トマシュ・ナウミュク美術 カタジナ・イェンジェイチク衣装 カタジナ・レビンスカ編集 パベル・ハリチカ音楽 フレデリック・ベルシュバルキャストジャラル・アルタウィル(バシール:シリア難民)マヤ・オスタシェフスカ(ユリア:精神科医)トマシュ・ブウォソク(ヤン:ポーランド国境警備兵)ベヒ・ジャナティ・アタイ(レイラ:アフガニスタン難民女性)モハマド・アル・ラシ(祖父:シリア難民)ダリア・ナウス(アミーナ)2023年・152分・G・ポーランド・フランス・チェコ・ベルギー合作原題「Zielona Granica」「Green Border」2024・05・15・no069・シネリーブル神戸no243追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.22
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村上春樹 柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書) ここのところ、サリンジャーが再、再、再、・・・噴火しています。まあ、もちろん、個人的な話ですが、ボクの中でのサリンジャー・ブームは、ほぼ、50年前、だから20歳ごろに大噴火があって、その後、数年おきに小噴火を繰り返し、まあ、50歳を境にして、何となく、もう、イイかな、という雰囲気で鎮火していたのですが、昨年末から読んでいる乗代雄介という作家にうながされるように、20年ぶりの噴火状態です。 で、今回案内するのが2003年、ちょうど20年前に、だからボクが50歳のときに出版された、村上春樹と柴田元幸の対談集、「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)というわけです。出版されてすぐに読んだのですが、ブームにうながされて読み直して面白かったので案内しています。こんな目次です。目次ライ麦畑の翻訳者たち―まえがきにかえて(村上春樹)対話1 ホールデンはサリンジャーなのか? 対話2 『キャッチャー』は謎に満ちている『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説(村上春樹)Call Me Holden(柴田元幸)あとがき 柴田元幸 村上春樹と柴田元幸の翻訳談義は、この「翻訳夜話1・2」(文春新書)のあと、柴田元幸がやっていた、たしか「モンキー」という文芸誌で繰り返し対談していて、それを本にした「本当の翻訳の話をしよう」(新潮文庫)とか、最近では「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)とか、たくさんあります。 まあ、その中で、サリンジャーに特化して喋りあっているのが本書です。目次をご覧になれば気づかれると思うのですが、村上訳「The Cathcher in the Rye」、野崎訳「ライ麦畑でつかまえて」について、かなり突っ込んだ対談で、まあそこが、本書の読みどころだとは思うのですが、実は、今回、読み直しておもしろかったのは「Call Me Holden」という、まあ、東大の先生であった柴田元幸の「サリンジャー講義」なのですが、なかなかシャレていたので紹介します。 こんな書き出しです。 だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ、なんて最後の最後に言ったけど、ほんとそのとおりで、あんな話書いちまったものだから、あれからもう五十年以上、要するに君はあの本で何が言いたかったんだいとか、あの話に全体について君はいまどう感じているんだいとか、ろくでもない質問を僕はさんざん浴びせられてきた。そんなこと、答えられるわけないよ。何が言いたいかわかっていたら、何もあんな長い話なんかせずに、はじめっからそれを言ってしまえばいいわけだし、あの話についてどう感じるかって訊かれたって、語ってしまったからにはあれはもう僕だけの話じゃなくて君の話でもあるわけで、君はどう感じているんだいってこっちが訊きたいくらいなのに、そういう質問する人に限って、だってこれは君自身の物語だろう、君自身のことは君がいちばんよくわかってるはずじゃないか、なんて言ったりする。それって物語について、というか人間について何か勘違いしてるんじゃないかな。語ることで、君は君自身から隔たってしまうんだよ、よくも悪くもね。嘘だと思ったら、君もやってみるといい。だけどそうは言っても、そうやって語って、自分自身から離れてみることでしか、自分に近づく道はない気もする。よくわからないんだけどさ。(P226) まあ、こんな感じです。ここから、ハックルベリーを経由して、ラルフ・エリスン、フィリップ・ロスへと展開していくところが、まあ、東大なのですが、おもしろいのは「君」の使用法と「語り」に関する言及ですね。「キャッチャー」でホールデンが語りかける「君」とはだれかというのは、小説の話法としてかなり重要な問題ですが、誰なのでしょうね?アメリカ現代文学を引っ張り出してきて、柴田が語ろうとしていることのポイントの一つがそこにあるんじゃないでしょうか。まあ、それ以上は、お読みいただくほかありませんが、引用部だけでもかなり面白いことをいっていると、ボクは思うのですね(笑)。 で、本章を終えた柴田元幸が、本書の最後の「あとがき」で 小説について、ああでもないこうでもないと話し合うことは、今日ではだんだん少なくなってきているかもしれない。この本がそういう流れを少しでも逆転させることができたら、こんな嬉しいことはない。(P246 ) とおっしゃっているのを読んで、チョット、感無量でしたね。こんなふうに思っていたこともあったなあ。でも、疲れちゃうこともあるんですよね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.21
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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王兵(ワン・ビン)「青春」元町映画館 すごい映画を見ました。現代中国の資本主義化の心臓部ともいえる長江デルタ地域、織里という町にある子供服縫製工場で働く、ほぼ、十代後半から二十代の青年男女の住居とセットになっている仕事場での日常を、おそらく、監督であるワン・ビン一人のカメラで徹底的にドキュメントした215分でした。 「死霊魂」で度肝を抜かれたワン・ビン監督の最新ドキュメンタリー「青春」です。 視点の取りようによって、まさに資本主義の搾取の現場のドキュメントであり、青春を生きる若者たちの出会いの姿であり、田舎からやって来た素人の少年・少女たちが縫製の、ミシン仕事のプロになっていく成長譚であり、まあ、まとめていえば、徹底的な現実凝視のフィルムの中で、年収3万元にも満たない低賃金住み込み労働の青年たちの生活の姿、今を生きている姿が、生き生きと、いってしまえば肯定的に描かれていて、だからこそ、現代中国では、決して公開されない、いや、出来ないであろうという、実にスリリングで、矛盾に満ちたフィルムでした。ワン・ビン監督は怒りや同情を封印して、被写体である「人間」に肯定的に焦点を当てることで、中国にかぎらず「現代社会」の現実である貧しさを文字通り根底から描くことに成功している傑作でした。もうそれ以上言葉はないですね。 実は、この映画を見終えての帰路、電車の中で貧血を起こし、スマホに夢中の乗客たちは青ざめてしゃがみこんでいる老人に気付くこともなく、意識朦朧とした老人は普段は乗るはずもないタクシーで、やっとのことで帰宅し、翌朝、日曜日の救急診療に転がり込んで、まあ、事なきを得るという経験をしたのですが、「映画」に当たったのでしょうかね(笑)。 腹痛と貧血の冷や汗に耐えながら、ものすごい勢いでミシンを操っていた青年たちを思い浮かべながら「そうだよな、もう少し、世界を見てからでないとな。」 とか、なんとか、意地を張ってはいたのですが、もう年ですね(笑)。それにしても、意識朦朧の老人を励ましてくれた王兵(ワン・ビン)監督に拍手!でした。監督 ワン・ビン2023年・215分・フランス・ルクセンブルク・オランダ合作原題「青春 Youth (Spring)」2024・05・18・no070・元町映画館no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.19
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濱口竜介「悪は存在しない」元町映画館 濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」を見ました。 つくづく、この監督の作品との相性の悪さを実感して見終えました。なんだかわけがわからない気分で座り込んでいると、ちょうど、一席空けた隣の席に座っていらっしゃった長髪でおひげを蓄えていらっしゃった、まあ、20代の後半か30代くらいのの男性が他のお客たちが出て行かれるのを待つような様子で座っておられたので、思わず声をかけました。「おもしろかったですか?」「はい。」「この監督の作品は、よくご覧になるのですか?」「はい、ドライブマイカーとか見ました。」 まあ、それだけの会話だったのですが、ちょっと、ホッとしました。 ボクには、始まりから最後まで、なんだかわからない落ち着かなさしかなくて、とどのつまりのラストは、ただ、ただ、ポカーンでした。 もう、それ以上、あれこれ言うことはないのですが、少し、言い訳を書くと、実は、この監督の作品は神戸を舞台にした長編に始まって、短編のオムニバス、何とか賞だかで騒がれた、隣の男性がご覧になったらしい作品まで、みんな見ているのですが、どの作品も、作品の方からスーッと離れていく感覚なのですね。 今回は、「おかワサビ」の話、「水を汲む」シーン、「薪を割る」シーンなんかが、スーッと、映画がボクから離れていった記憶として残ったのですが、どれも、ボクの生活の記憶に少しずれているというか、なんかウソやなと感じたからですね。 たとえば、一つ上げれば、ワサビは畑でも、まあ、田舎の家なら裏庭の日陰でも育ちます。葉っぱは、水気が少ないだけで、水辺のワサビと同じです。信州での、そばの薬味としての扱われ方は知りませんが、「そうなの?何を大げさな。」 という感じ浮かんできました。 映画が、そのシーンで背景化しようとしているのは「文化」や「自然」の歴史性というようなものかなとか思いながらも、たとえば「自然」に対する、この「話題」の作り手の作為というか、思いつきのようなものを感じてしまっているのかもしれませんが、そのあたりから、主人公らしき男性、そして、親子の「自然さ」に対する、ほんの幽かな疑い、まあ、白々しさの感覚から離れらなくなってしまうのですね。 その結果でしょうか、あたかも静かに錯綜するかの自然な会話が、異様に劇的というか、思わせぶりな意味を漂わせ始めて、まあ、それはそれで面白いのですが、やっぱり、「なんだかなあ???」 が浮かんできてしまうのです。 で、あのラストで、題名が「悪は存在しない」ですからね。「観る者誰もが無関係でいられない、心を揺さぶる物語」 なのだそうですが、今度は「よし!よし!」かなと期待して見たのですが、ボクには、やはり、「無関係」でした(笑)。 この人の映画、「青年団」という劇団の役者さんたちが出てくるのが楽しみの一つなのですが、今回も、少し老けられた山村崇子さんとかの姿を見つけたりしてなつかしかったですね。監督・脚本 濱口竜介撮影 北川喜雄編集 濱口竜介 山崎梓音楽 石橋英子キャスト大美賀均(巧)西川玲(花)小坂竜士(高橋)渋谷采郁(黛)菊池葉月三浦博之鳥井雄人山村崇子長尾卓磨宮田佳典田村泰二郎2023年・106分・G・日本2024・05・07・no065・元町映画館no245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.18
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鈴ノ木ユウ「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社) 快調に幕末史を駆け抜けるように描いている鈴ノ木ユウの「竜馬がゆく 8 」(文藝春秋社)がトラキチクンの2024年5月、二度目のマンガ便に入っていました。 土佐に帰った竜馬の苦闘が描かれている巻でしたが年代を整理すると、第8巻の巻頭の71話からの事件が、後に「井口村刃傷事件」と呼ばれている土佐藩の郷士、上士がぶつかり合う血みどろの幕開けの事件で、1861年3月、続く事件が「土佐勤王党」の結党で、同年8月、で、この巻では、まだわからない龍馬脱藩が1862年3月です。 7巻で江戸から帰国した竜馬が土佐で巻き込まれたのは、関ケ原以前の領主、長曾我部の家臣と、以後の山之内の家臣を「郷士」、「上士」と分けて、身分的上下関係で統治してきた幕末土佐藩の宿痾! ともいうべき現実で、78話あたりから登場した参政吉田東洋の暗殺、まだ姿を現さない山之内容堂の復権、武市半平太の処刑と続く、幕末史の中でも、とりわけ殺伐とした藩内闘争のはじまりのシーンなのですね。 坂本龍馬が幕末の志士と呼ばれている人たちの中で、独特のスタンスに立った理由の一つは、まあ、素人考えですが、土佐藩の、この内情をその目で見たということが関係していると思いますね。 で、8巻の名場面はこれです。 江戸の長州藩の藩邸で開かれた草莽決起の集会 に登場した高杉晋作ですね。まあ、それにしても、独特な顔で描きましたね。ちょっと笑ってしまいましたが、竜馬、晋作と登場して、まだ、当分、出てきそうもありませんが、西郷隆盛はどんな顔で描かれるのか、チョット楽しみですね。 8巻の、もう一人の新顔は乾退助ですね。彼は上士であるにもかかわらず、やがて勤王党に参加するはずですが、8巻ではまだ吉田東洋の周辺人物です。ハイ、自由民権のあの人、板垣退助として100円札だったかで有名になる人です。 まあ、とにかく、次号はどうなるのかな、脱藩まで行くのかな?そういう感じですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.17
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イ・ハン「マイ・スイート・ハニー」キノシネマ神戸国際 昨日はトニー・レオン見たさに中国製スパイ・ノワール「無名」でしたが、今日はユ・へジン見たさで、韓国製ラブ・コメ映画でした。見たのはイ・ハン監督の「マイ・スイート・ハニー」で、同居人と同伴鑑賞でした。 見ながら、思わず声を出して笑いました。ユ・へジンさん、さすがですね。たぶん、実年齢は50歳を超えていらっしゃると思いますが、この映画で演じていらっしゃるのはチャ・チホさんといって、45歳、お菓子会社の研究員だそうで、豆腐チップを開発していて、お菓子ばっかり食べていて、栄養失調状態だという中年男でした。 目覚まし時計が山ほどある部屋で目覚めて、時計の指示する時刻どおり行動するという、まあ、ちょっとアブナイ人物を演じていらっしゃるのですが、あのお顔の唐変木が45歳にして、初めて恋に落ちるのですね。トンチンカンをいかに演じるか勝負だったと思うのですが、さすがの演技でしたね。 で、その唐変木のお相手は、大学生の娘さんと「私たち」で暮らしていらっしゃるイ・イルヨンさんというシングル・マザーで、演じていらっしゃるのがキム・ヒソンさんとおっしゃる女優さんでしたが、可愛らしいお顔立ちなのですが、この方も、脱・世俗というか、かなりぶっ飛んでいらっしゃるキャラなのですが、なかなかの熱演で、笑えました。 チラシにある通り、ちょっと変な二人の「最初の恋」と「最後の恋」の激突! で、ベタといえばベタ、アンマリといえば、あまりにアンマリな展開ですが、まったくシラケさせないのは、主役のお二人の熱演ももちろんですが、韓国映画の実力! という気がしました。 例えば、チン・ソンギュさんという男前の俳優さんが演じるビョンフンさんという、チャ・チホさんの上役の室長さんとかが登場するのですが、その彼が部下を相手にこんな演説をするシーンがあります。「僕がなんで出世が早いか分かるか?」「お父さんが社長だから」「違う」「祖父が創業者だから」「違う」「母親が理事だから」「違う。」「???」「愛だ」 要するに、自分はモテるということを言いたいだけのおバカ演説なのですが、笑えるんですね。 他にも、大学生のお嬢さんの、これでもか! と言わんばかりのチョー甘いマスクの恋人が、なんと、軽トラックを家の前に横付けして、二階のベランダに向かって「ロミオ」じゃあるまいし! の告白・熱唱シーンといい、薬屋さんのおねーさんとの人生相談といい、うまいものです。 まあ、なにはともあれ、カップルのお二人に拍手!ですね。監督 イ・ハン脚本 イ・ビョンホン撮影 イ・テユン音楽 チョ・ヨンウク美術 キム・ヒョノク編集 ナム・ナヨンキャストユ・ヘジン(チャ・チホ)キム・ヒソン(イ・イルヨン)チャ・インピョ(兄ソクホ)チン・ソンギュ(上役ビョンフン)ハン・ソナ(ウンスク)2023年・118分・G・韓国原題「Honey Sweet」2024・05・14・no068・キノシネマ神戸国際no09追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.16
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谷川俊太郎「みみをすます」 中村稔「現代詩人論 下」(青土社)より 中村稔の「現代詩人論」(青土社)の下巻です。上巻もそうでしたが700ページを越える大著です。下巻では飯島耕一、清岡卓行、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、安藤元雄、高橋睦郎、吉増剛造、荒川洋治の9人の詩人が論じられています。 フーン、とか思いながら最初に開いたページが谷川俊太郎でした。 谷川俊太郎は多能・多芸の詩人である。「ことばあそび」の詩も書いているが、平仮名だけで書いた詩集「みみをすます」がある。一九八二年に刊行されている。これには表題作「みみをすます」の他、五編の詩が収められているが、私はやはり「みみをすます」に注目する。ただ、たぶん一五〇行はゆうに越す長編詩なので、全文を紹介することは到底できない。かいつまんでこの詩を読むことにする。 ここで論じられているのはこの詩集ですね。 本棚でほこりをかぶって立っていました。谷川俊太郎「耳を澄ます」(福音館書店)、チッチキ夫人の蔵書ですが、ボクも何度か読んだことのある懐かしい詩集です。箱入りです。箱から出すと表紙がこんな感じです。 わが家の愉快な仲間たちが小学生のころ、多分、教科書で出逢った詩です。今でも教科書に載っているのでしょうか。 子供向けのやさしい詩だと思っていましたが、今回読み直してみて、少し感想がかわりました。 まあ、それはともかくとして、中村稔はこう続けています。 まず短い第一節は次のとおりである。みみをすますきのうのあまだれにみみをすます いかに耳を澄ましても、私たちは、昨日の雨だれの音を聞くことはできない。読者は不可能なことを強いられる。次々に不可能な行為を読者の耳に強制する。みみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすます 恐竜の呻きを聞くことができるはずはもないし、燃える木の叫び、プランクトンの音、まして自分の産声を聞くことができるはずもない。「みみをすます」は全編、こうした、いかに耳を澄ましても聞くことができるはずもない音、声などに耳を澄ますのだ、という。作者は読者が空想の世界、想像の世界に遊ぶように誘っているのである。読者が空想、想像の世界に遊ぶ愉しさを知るように、この詩を読者に提示しているのである。たとえば、山林火災で樹木が燃え上がる時、燃える樹木が泣き叫んでいると思いやることは私たちにとって決して理解できないことではない。この感情を拡張し、深化し、豊かにする契機をこの詩は私たちに提示しているのである。 こうした試みによって、谷川俊太郎は現代詩に新しい世界をもたらしたのである。彼でなくてはできないことであった。(P269~P370) ただ、ただ、ナルホド! ですね。この詩が書かれた時代、つまり、1980年代の始めころから、当時、三十代だったボクたちの世代が、十代で出逢った戦後詩の世界に新しい風が吹き始めていたのですね。 この詩を学校の教科書で読んで大きくなった愉快な仲間たちも、もう、40代です。今でも教科書に載っているのか、いないのか、そこのところはわかりませんが、小学校や中学校の教員とかになろうとしている、若い人たちに、是非、手に取ってほしい、読んでほしい詩集! ですね。 せっかくなので、谷川俊太郎の詩集にもどって中村稔が引用しきれなかった「みみをすます」全文を写してみたいと思います。みみをすます 谷川俊太郎みみをすますきのうのあまだれにみみをすますみみをすますいつからつづいてきたともしれぬひとびとのあしおとにみみをすますめをつむりみみをすますハイヒールのこつこつながぐつのどたどたぽっくりのぽくぽくみみをすますほうばのからんころんあみあげのざっくざっくぞうりのぺたぺたみみをすますわらぐつのさくさくきぐつのことことモカシンのすたすたわらじのてくてくそうしてはだしのひたひた・・・・・にまじるへびのするするこのはのかさこそきえかかるひのくすぶりくらやみのおくのみみなりみみをすますしんでゆくきょうりゅうのうめきにみみをすますかみなりにうたれもえあがるきのさけびになりやまぬしおざいにおともなくふりつもるプランクトンにみみをすますなにがだれをよんでいるのかじぶんのうぶごえにみみをすますそのよるのみずおととびらのきしみささやきとわらいにみみをすますこだまするおかあさんのこもりうたにおとうさんのしんぞうのおとにみみをすますおじいさんのとおいせきおばあさんのはたのひびきたけやぶをわたるかぜとそのかぜにのるああめんとなんまいだしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすますくさをかるおとてつをうつおときをけずるおとふえをふくおとにくのにえるおとさけをつぐおととをたたくおとひとりごとうったえるこえおしえるこえめいれいするこえこばむこえあざけるこえねこなでごえときのこえそしておし・・・・・・みみをすますうまのいななきとゆみのつるおとやりがよろいをつらぬくおとみみもとにうなるたまおとひきずられるくさりふりおろされるむちののしりとのろいくびつりだいきのこぐもつきることのないあらそいのかんだかいものおとにまじるたかいびきとやがてすずめのさえずりかわらぬあさのしずけさにみみをすます(ひとつのおとにひとつのこえにみみをすますことがもうひとつのおとにもうひとつのこえにみみをふさぐことにならないように)みみをすますじゅうねんまえのむすめのすすりなきにみみをすますみみをすますひやくねんまえのひゃくしょうのしゃっくりにみみをすますみみをすますせんねんまえのいざりのいのりにみみをすますみみをすますいちまんねんまえのあかんぼのあくびにみみをすますみみをすますじゅうまんねんまえのこじかのなきごえにひゃくまんねんまえのしだのそよぎにせんまんねんまえのなだれにいちおくねんまえのほしのささやきにいっちょうねんまえのうちゅうのとどろきにみみをすますみみをすますみちばたのいしころにみみをすますかすかにうなるコンピュータにみみをすますくちごもるとなりのひとにみみをすますどこかでギターのつまびきどこかでさらがわれるどこかであいうえおざわめきのそこのいまにみみをすますみみをすますきょうへとながれこむあしたのまだきこえないおがわのせせらぎにみみをすます 中村稔が言うとおり、結構、長い詩です。あのころと違った感想と上で書きましたが、今回読み直して、たとえばしょうがっこうのあしぶみおるがんうみをわたってきたみしらぬくにのふるいうたにみみをすます というあたりに、今の、ボクのこころは強く動くのですが、あのころには、その感じはあまりなかったわけで、この詩が「ひらがな」で書かれていることの意味というか、効果というか、が、子供に向けてということではなくて、ボクのような年齢になった人間の、まあ、年齢は関係ないのかもしれませんが、ある種の「記憶」は「ひらがな」である! ということこそ、この詩の眼目だったんじゃないかという驚きですね。 詩人は「ひらがな」という方法の意味についてわかってこう書いているにちがいないのでしょうね。実感としてとしか言えませんが、「小学校の足踏みオルガン」ではなくて、「しょうがっこうのあしぶみおるがん」という表記が、老人の思い出を、記憶の底の方から揺さぶるのです。大したものですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.15
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チェン・アル「無名」シネリーブル神戸 ボクでも知っている香港映画のスター、トニー・レオンがあの顔でこっちを見ているポスターとか、上のチラシとかを見て、「やっぱり見ておきましょう!」 と思っていました。 で、神戸では封切りから10日くらいたっていますが、最初は、まあ、連休中ということもあって、ずっと満員でしたが、ようやく落ち着いてきたのを見計らってやって来たというわけです。チェン・アル監督の「無名」です。 1940年代の上海が舞台で、日本軍の特務、共産党の工作員、国民党、南京政府の政治保衛部、とりあえず、そのあたりが入り乱れてのスパイ映画でしたが、そこそこ面白かったですね。 この時代の上海は、まあ、わけが分かんない世界なのですが、国民党も重慶にいる蒋介石と南京の汪兆銘が争っていて、中日戦争の最中なのに、蒋介石は米・英と組んでいて、延安の共産党はソビエト・ロシアと、で、南京政府は日本と、というわけで、シッチャカメッチャカなわけで、なんでもありの舞台ですね。要するに、奇々怪々の時代なのです。 実際、トニー・レオン演じる、汪兆銘政権の保衛部のフーさんも、その部下イエくんを演じるワン・イーボーくんも、どうせ二重、三重スパイに決まっていると思っていたら、ホントにそういうことだったので笑ってしまいました。 間抜けだったのは、一番、偉そうにしていた日本の特務の渡部さんだったという結末は、ちょっと、中国でのウケ狙いを感じるご都合主義を感じましたが、彼が繰り広げる大東亜戦争遂行をめぐっての近衛、東条、石原のドタバタ無責任三つ巴論も、結構、外側からの視線という趣で面白かったのですが、満州での権益もみんな失って、スパイする必要がなくなった渡部くんが、「アレだけ迷惑をかけておいて、家に帰ってノンビリ百姓とかできると思うなよな!」 とばかりに、あっさりイエくんにとどめを刺されるのを見ていて、「やっぱり、中国共産党プロパガンダ映画かな?」 とか思ったりもしたわけです。 映画のシーンが、最後は香港に戻って来て、そのまた最後の最後に、イエくんが共産主義者なんだよ! と告白するシーンで終わるのも、意味深な気がしましたが、まあよくわかりませんね。 ボク自身は、見ていて、この時期の上海にヨーロッパ系というか、たとえば白系ロシア人とかの白人が全然いないことが、何となく不思議だなあとか考えながら、そういえば、この時期に堀田善衛と武田泰淳が上海にいたんだよなと思い出したのですが、これは、まあ、映画とは何の関係もない話ですね(笑)。監督・脚本・編集 チェン・アル:程耳撮影 ツァイ・タオキャストトニー・レオン:梁 朝偉(フー)ワン・イーボー:王一博(イエ)ジョウ・シュン(チェン)ホアン・レイ(ジャン)森博之(渡部)ダー・ポン(タン)エリック・ワン(ワン)チャン・ジンイー(ファン)2023年・131分・G・中国原題「無名」「Hidden Blade」2024・05・13・no067・シネリーブル神戸no242追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.14
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ノラ・フィングシャイト「システム・クラッシャー」元町映画館 2024年の5月、連休の最中でした。これならあんまり人おらんやろ。 題名の意味がよくわからないので、まあ、適当に狙って行ったのがノラ・フィングシャイトという、多分、ドイツの女性の監督の「システム・クラッシャー」という作品でした。「システム・クラッシャーって何?」 そう思って見ていたのですが、なんというか、もちろん、ボクなんかにはとても打ち返すことのできない真ん中高めの剛速球のストライクを投げ込まれ、キャッチャーもいて、その後ろに防球ネットを立てて見ていたにもかかわらず、びっくりしてひっくり返った! 感じの映画でした。とりあえず立ち上がって、拍手!拍手! 画面に登場した主人公のベニーという9歳だかの少女の行動の一部始終が映し出されていくにつれて、その言葉は、彼女、ベニーの生活圏において、常識的な秩序を維持しようと努力している医者や、教員や、ソーシャルワーカーやといった大人たち、それから、学校とか、施設とか、家庭とかで秩序のルールを守ったり、頼ったりして暮らしている大人や子供、親や、兄弟や、友達、そういう人たちが、そっと目配せして「彼女はあれなのよ。」 と囁き合う言葉だということのようでした。 実際に映画の中では、この言葉は、一度出て来たかどうかでしたし、もちろん「あれ」と口に出す人なんて、誰もいません。にもかかわらず、彼女は徹底的に「あれ」扱いでした。それが、この映画の描きかたなのですが、ボク自身は見ながら30年以上も昔の体験を思い出していました。 あの頃勤めていた仕事場でも、職員は、残念ながらボク自身も含めて、まあ、映画のベニーと症状はちがいますが、学校に来ることができない子供たち と出会うと、とりあえず、あれこれ試行錯誤はするのです。しかし、結局、医者やカウンセラーへ誘導し、「○×障害」とか「△△病」とか、症状に名前が付けられて、職員(ボク)自身は個人的な対応から解放されて一安心するというようなことが、何度もあったわけですが、その、何度もの、当の子供たちに安心がやってくることが、一度でもあったわけではありませんでした。子どもたちは、どうしようもない生きづらさを抱えて、そのまま社会に出て行ったのでした。そんなことを思い出しながら見ていると、映画の終盤、逃げていくベニーを追いかけながら、諦めて立ち尽くしてしまう通学付添人ミヒャの姿 が映し出されました。ミヒャは、この映画の中でベニーとつながる可能性を感じさせる数少ない人物だったのですが、その彼が立ち尽くすのを見て、ボク自身が打ちのめされたような気分になりましたね。 監督は情け容赦なく、ベニーのありのままを描いていきます。見ているこちらに、共感や同情、あるいは理解さえ求めているニュアンスはまるでありません。打てるもんなら打って見ろ! といわんばかりの剛速球です。しかし、徘徊老人はこの少女ベニーと、映画を撮ったノラ・フィングシャイトという監督に鷲づかみにされてしまったんです。 少女ベニーに対しては、さすがに、どうしてあげたらいいのかはわからないのですが、ガンバレ、あなたは何も悪くない! という気持ちだけは伝えてあげたいんですよね。 飴玉くわえている上のチラシの顔、イイでしょう!(笑) これ演技なんですよね。ベニーもすごいですが、演じたヘレナ・ゼンゲルという少女もすごいですね。拍手! それから、70になろうかという老人に、そんなふうに豪速球を投げ込んだ監督さん、確かに、少々高めでアッ!と思いましたが、すばらしい作品だと思いました。アホな感想しか書けなくてごめんなさいね、でも、あなたのボールの威力は腹に応えましたよ。拍手! でした。 監督・脚本 ノラ・フィングシャイト撮影 ユヌス・ロイ・イメール編集 ステファン・ベヒャンガー音楽 ジョン・ギュルトラーキャストヘレナ・ゼンゲル(バーナデット「ベニー」・クラース)アルブレヒト・シュッフ(非暴力トレーナー:ミヒャ)ガブリエラ・マリア・シュマイデ(ソーシャルワーカー:バファネ)リザ・ハーグマイスター(母:ビアンカ・クラース)メラニー・シュトラオプビクトリア・トラウトマンスドルフマリアム・ザリーテドロス・テクレプラン2019年・125分・ドイツ原題「Systemsprenger」2024・05・04・no064・元町映画館no244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.13
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アンドレアス・ドレーゼン「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」シネリーブル神戸 2024年のゴールデンウィークも終わってしまいましたが、まあ、3月くらいからその気配は感じてはいたのですが、映画館は結構盛況です。メデタイことなのですが、人がいない映画館にすっかり慣れてしまった徘徊老人にはチョット・・・、というわけで、この映画はいないだろうを探して見つけたのがこの作品でした。 アンドレアス・ドレーゼンというドイツの監督の「ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ」です。 会場は数人という所で、ノンビリ見ましたが、アタリ! でした。 ドイツのブレーメンという町のクルナスさんというトルコ系の移民の家族の長男、ムラートくんという二十歳前の青年が、町のイスラム教の祈祷所でオルグされパキスタンに行ってしまうのですが、そこで、タリバンとして米軍に逮捕されて、悪名高い、あのグアンタナモ収容所に収監されてしまうというのが事件の背景でした。だから、アフガニスタンを本拠地化したタリバンを標的化してやっつけるのに、アメリカが躍起になった2001年の9月11日のテロ事件以降の世界が舞台でした。 で、映画が描いた事件というか、物語は、この無実の青年の奪還なのですが、主役はママのラビエ・クルナスさん、演じているのはメルテン・カプタンという、実はコメディアンらしいのですが、デカい、中年のおばちゃんで、相手役が「まあ、ドイツのインテリはこういう顔してるんでしょうな」という感じの弁護士ベルンハルトさんという二人組の、世界を股にかけて飛び回る物語でした。「電話帳で予約したわよ!」 と叫んで、弁護士事務所に登場し、インテリ弁護士を圧倒してしまう始まりのシーンは見ものですよ。笑えます! ベンツのスポーツカーのアクセルを目いっぱい踏み込んで、ワキミ運転はするわ、一方通行を平気で逆進して、対向車に明るく挨拶するわの、このトルコから来たおばちゃんが、とどのつまりは、アメリカの最高裁にジョージ・W・ブッシュを訴えるという展開で、かなり楽しい映画でした。 でもね、ベトナムの頃でもそうだったんだと思いますが、国外の米軍基地を治外法権の収容所にすることで、国内向けには「正義」を演出してきたアメリカの世界の軍事統治の実相 をかなり鋭くえぐって見せているところとか、ヨーロッパの、この映画の場合はドイツですが、流入する移民政策の裏側 というか、あまり知られていない部分を暴いているわけで、これだけの社会批判を「お笑い」的にヒューマン・コメディで描いてみせる この監督の手腕には感心しました。拍手!ですね。で、なんといっても、最初から最後まで、まあ、疲れ果てながら、大活躍のおカーちゃんラビエ・クルナスさんを演じていたメルテン・カプタンに拍手!でした。 そこがトルコ的なのか、そのあたりはよくわかりませんが、おかーちゃんは大忙しでブッシュとか相手にしているのですが、おとーちゃんは知らん顔とか、それでいて、おカーちゃんがあこがれているベンツのスポーツカーを買ってあげるとか、いいご夫婦でしたね。もちろん、二人いる弟君たちもいいカンジ、いい家族でしたよ。 そのあたりの描き方が、この監督はうまいですね。 この映画で弁護士を演じていたのが、アレクサンダー・シェアーという俳優さんでしたが「ああ、あの人だ!」 と、三年ほど前に見た東ドイツの秘密警察のスパイだった「グンダーマン」という人を描ていた作品でグンダーマンを演じていた人だった人だと気づいて、この映画が、同じアンドレアス・ドレーゼンという監督の作品だということにようやくたどり着くという迂闊さだったのですが、この人たちの名前は、俳優も監督も今回で覚えました(笑)。監督 アンドレアス・ドレーゼン脚本 ライラ・シュティーラー撮影 アンドレアス・フーファー美術 ズザンネ・ホップフ編集 イョルク・ハウシルトキャストメルテン・カプタン(母ラビエ・クルナス)アレクサンダー・シェアー(ベルンハルト・ドッケ)マーク・ストッカーチャーリー・ヒュブナーナズミ・キリク2022年・119分・G・ドイツ・フランス合作原題「Rabiye Kurnaz gegen George W. Bush」2024・05・10・no066・シネリーブル神戸no241追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.12
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滝口悠生「水平線」(新潮社) 今回、案内するのは滝口悠生の新しい作品で「水平線」(新潮社)です。 昨年(2023年)一番記憶に残ったのがこの作品でした。昨年の夏ごろだったかに読み終えて、傑作だと思いましたが、うまくいえないので、放ったらかしになっていました(笑)。 滝口悠生という人は「死んでいないもの」(文春文庫)という、「死んでいなくなった」のか、「死んではいない」のか、わからないという、まあ、人をくった題で、葬式に集まった人間たちを描いて2016年だかに芥川賞をかっさらった作品で気に入ってから、何となく読み継いでできた作家です。 1982年生まれで、2003年には41歳。若い作家ですね。同世代の作家たちと、ちょっと味わいの違う中編小説の人だと思っていましたが、今回の「水平線」は26章、503ページの大作でした。 書き出しはこんな感じです。 屋上のデッキからは、洋上に快晴が広がりつつあるのが見えた。風は穏やかだったが、航行する船上では向かい風が生じ、風を受けた耳元からがぼうぼう鳴った。風は海から来て、船を抜け、また海に吹き去る。ときどき、そこに誰かの酔いが紛れているような気がしたが、それがゆうべの酒の残りなのか船酔いなのかわからない。どの方向に目をやっても、島影は全然見えない。いまデッキ上には誰もいない。(P3)船はいまも確かに一つの時間を前に進んでいる。昨日の昼前に東京の竹芝桟橋の港を出て、一晩を越えた。貨物船おがさわら丸の行き先はその名の通り小笠原諸島父島である。夜の明けた太平洋を南進している。(P4) ここでの語り手は横多平(よこたたいら)という登場人物自身のようですが、38歳、フリーの編集者だそうです。今、小笠原諸島の父島行きのおがさわら丸に乗っています。 彼が、なぜ、この船に乗っているのか。広大な「水平線」を越えて、彼はどこに向かっていて、そこで何が起きるのか。まあ、そんなムードで小説は始まりました。 しばらく読むと語り手が、三森来未(みつもりくるみ)というパン屋さんで働いている36歳の女性に替わって、今度は自衛隊入間基地の飛行場で出発を待っているこんな描写になります。 私の胸には、三森来未(みつもりくるみ)、と名前の書かれた札がついている。今日輸送されるのは私たち、つまり人間で、一瞬なにか物のように扱われているような気になるが、考えてみれば輸送機と言っても運ぶのは物資や資材に限った話ではなく、ふだんから人材つまり自衛隊員の輸送を担うものであるわけだった。自衛隊員にはそもそも旅客機なんかないだろうし。いや、もしかしたらあるのかな。いや、ないか。中略 私たちは戦場に派遣されないし、イラクにもクウェートにも派遣されない。輸送機の行き先は小笠原にある硫黄島という島である。東京都が春のお彼岸に行ってくる、硫黄島の元住民に向けた墓参事業は、かつて島に暮らしていたひとだけでなく、その親族も対象とされていて、ここに集まっているのはその参加者だ。(P15 ~P16) 小説は東京都の南の果て小笠原諸島の、そのまた南の果ての硫黄島に向かう二人の男女の姿を描くことから始まっているのですが、この三森来未さんの語りに続いて、硫黄島というのは、クリント・イーストウッドが映画で描いた、あの硫黄島のことで、1960年代の終わりにアメリカから返還されて以来、2010年現在、自衛隊の基地があるだけで、一般住民は一人も生活していない島だということ、太平洋戦争の末期、1944年に強制された全島疎開以前は1000人を超える島民が暮らしていらしいのですが、その後、硫黄島の争奪をめぐる激戦で日本陸軍の軍人20129人、100人近くの現地徴用の島民、6821人のアメリカ兵が亡くなり、今でも、10000人以上の遺骨が眠っているということを記したうえで、展開していきます。 もう少し登場人物と、この小説が描く物語の発端を説明すると、船に乗っている横多平と、自衛隊の輸送機を待っている三森来未は、来未さんが、離婚した母の旧姓を名乗っているだけで、それぞれ独身の実の兄妹です。その兄妹が、なぜ、今、硫黄島か? まあ、そういう疑問で読み進めたわけですが、その二人の携帯電話にフイにかかってくる電話がすべての始まりでした。 二人が生まれる40年以上も昔に、現地徴用されて硫黄島で亡くなったり、疎開した伊豆の町から蒸発したはずの祖父の弟や祖母の妹から電話がかかってくるという奇想的現実を発端に兄、妹を動かし始めるのです。 そこから、若い二人の現在の生活が描かれるのですが、その、「今」そのものの生活にケータイ電話から、いたずら電話を思わせる明るさで「過去」が響いてくる中で、語り手を変幻に替えていくことで、故郷を知らない二人とその家族、戦中、戦後を生きた祖父母の人生、1940年代の島の暮らしが重層的に重ねられていく書きぶりで、忘れられつつある戦後を背景に「現代」を描くという、久々の本格小説だと思いました。 まあ、ボクの感想ではさっぱり要領を得ないのですが、新潮社のホームページで作家の松家仁之さんが「死者から届く親しげな挨拶」と題して書評していらっしゃるので、関心のある方はそちらをどうぞ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.11
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100days 100bookcovers Challenge備忘録 (81日目~90日目) コロナが蔓延し始めた2020年の5月に友達と始めた「ブックカヴァーチャレンジ」の備忘録です。当時、フェイスブック上とかで「7デイズ・7ブックカヴァーズ」というのが流行だったのですが、お調子者のわれわれは「100デイズ、100ブックカヴァーズ」に挑戦したのですが、コロナの流行が、何となく忘れられて、戦争とか、神戸や東北の震災とかと同じように、教科書の片隅に記載される歴史事象の一つであったかのような「空気」が蔓延し始めていて、その上、お正月早々、能登半島を大きな地震が襲い大勢の人が苦しんでいらっしゃる2024年の3月現在、ようやく97冊目にたどり着いて、ゴールを目前にしています。この投稿は2024年5月で、6年目に突入しましたが、まだゴールはしていません(笑)。 紹介してきた書物のライン・アップに、格別の意味があるわけではありませんが、ほぼ、6年にわたるコロナ社会の生活を映してきた鏡であったかもしれません。少なくとも、紹介に参加した5人のメンバーは確かに6年の歳月を生きてきたわけですし、できれば、その時間を忘れないための備忘録でもあるわけです。 それぞれの書名か表紙写真をクリックしていただければリンク先の記事にたどりつけると思います。no81(2022・02・10 K・S)フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(高杉一郎訳・岩波書店)no82(2022・03・05 T・K)伊集院静「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社文庫)no83(2022・03・22 E・D)久住邦晴「奇跡の本屋を創りたい」(ミシマ社) no84(2022・04・08 T・S) 山下和美「天才柳澤教授の生活1~8」(講談社文庫)no85(2022・05・06・N・Y)なかにし礼「長崎ぶらぶら節」(文藝春秋)no86(2022・05・30・K・S)川端康成「雪国」(新潮文庫)no87(2022・06・30・T・K)ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書 ルシア・ベルリン作品集」(岸本佐知子訳 講談社文庫)no88(2022・07・30・E・DE)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(くぼたのぞみ訳 河出書房新社)no89(2023・08・31・T・S)嵐山光三郎「漂流怪人・きだみのる」(小学館文庫)no90(2022・10・28・N・Y)檀ふみ『父の縁側、私の書斎』(新潮社)追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目)(81日目~90日目)というかたちまとめています。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.10
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乗代雄介「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会) 乗代雄介という作家にはまっています。まあ、何が面白いのかよくわからないままなのですが、とりあえずみんな読んでみようか!? というはまり方です。 というわけで、今回の読書案内は「掠れうる星たちの実験」(国書刊行会)という評論集です。少し長めの評論が一つ、書評、創作をまとめた本です。具体的な内容は後ろに目次を貼りましたからそれをご覧ください。 案内するのは(まあ、案内になっていない木もしますが)表題の評論「掠れうる星たちの実験」です。 読む作品、読む作品、語り手や登場人物の配置について、かなり意識的な方法論に基づいて書いているんじゃないかと、まあ、読み手のボクに思わせる乗代雄介という作家の「小説」に対する、自分では「考え事」といっていますが、まあ、小説論というのは少し大げさかもしれませんが、ようするに「考え事」が書かれている50ページほどの論考です。 で、手に取って、まあ、最近は評論とか面倒なのですが、ついつい、読み続けたきっかけは、チョット、ボクには並べて考えるなんて、とても思いつきそうもない二人の人物を引っ張り出してきて「考え事」を始めていたからです。 二人とは、「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーと「遠野物語」の柳田國男でした。まず、この取り合わせが面白いと思いませんか? このお二人が、乗代雄介の「考え事」に呼び出されていると聞いて、「語り」と「記述」、「書きことば」と「話ことば」、まあ、そのあたりを思い浮かべられた方は、なかなか、鋭いと思います。 で、書き出しあたりに、乗代雄介はこんなことをいっています まずは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが、子供の頃エイグルティンガー先生に土曜日ごとに連れていかれた自然科学博物館について述懐する場面を見てみたい。ペアを組んだ女の子の汗ばんだ手、守衛の注意から、インディアンやエスキモー、鹿や南に渡っていく鳥の剥製を並べたジオラマ展示について詳述された後で「でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ」とホールデンは語る。「何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ」と続け、さらに変わるとは厳密にいえば「こっちが年をとる」ようなことではないと注釈をくわえている。(P11) 作家の考え事は、「変わること」と「変わらないこと」に焦点をあてて進みそうなのですが、続けて作家が引用したのは、下のような二つの文章でした。 こっちがいつも同じではないという、それだけのことなんだ。オーバーを着てるときがあったり、あるいはこのまえ組になった子が猩紅熱になって、今度は別な子と組になってたり、あるいはまた、エイグルティンガー先生に故障があって代わりの先生に引率されてたり、両親がバスルームですごい夫婦喧嘩をやったのを聞かされた後だったり、道路の水たまりにガソリンの虹が浮かんでくるとこを通ってきたばかりであったり。要するにどこか違ってるんだ―うまく説明できないけどさ。いや、かりにできるとしても、説明する気になるかどうかわかんないな。(「ライ麦畑でつかまえて」サリンジャー) 誰にでもいつ行ってもきっと好い景色などというものは、ないとさえ思っている。季節にもよろうしお天気都合や時刻のいかんもあろうし、はなはだしきはこちらの頭のぐあい胃腸の加減によっても、風景はよく見えたり悪く見えたりするものだと思っている。(「豆の葉と太陽」柳田國男) 乗代雄介はサリンジャーがホールデン少年に「説明する気になるかどうかわかんないな。」 と言わせていることの、小説の書き手にとっての問題について考えてみようとしているわけですが、それがどういう結論にたどりつくのか、あるいは、たどり着かないのか、そのあたりは、この論考をお読みいただくほかはないわけですが、この「考え事」の題としている「掠れうる星たち」を暗示する二つの引用で論をとじています。「自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。」(柳田國男「幻覚の実験」)「おまえの星たちはほどんそ出そろったか?おまえは心情を書きつくすことにはげんだか?」(サリンジャー「シーモア序章」) 最近、ボクが、小説とか読んだり、映画とかを見ながら、引っかかっているのは、読んだり見たりしているボクが、それぞれの作品のどこに「ホントウノコト」を感じているのか、わけがわからないと思いながら、そのわけのわからなさに惹かれるのは何故か、そこにぼく自身が何を見たり、読んだりしているのか、まあ、そういうことで、できれば、それをちょっと言葉に出来ればいいのですが、「涙がとまりません」とか、「笑えました」とかいういい方でしか言葉にできないことを訝しく思っているのですが、乗代雄介という作家が、どうも、そのあたりのことにこだわって小説を書こうとしているようだと思わせる「考え事」でした。 要をえない案内ですが、ボクには、かなり面白い考え事でしたよ。で、本書の目次を貼っていきます。興味がわいたら、図書館へどうぞ(笑)。 目次評論掠れうる星たちの実験 P5書評 P61『職業としての小説家』村上春樹 『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J・D・サリンジャー(金原瑞人訳) 『アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア短編集』フェルナンド・ペソア(近藤紀子訳) 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』ジェイ・ルービン編『ののの』太田靖久 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』J・D・サリンジャー(野崎孝、井上謙治訳) 『サピエンス前戯』木下古栗 『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』竹内康浩、朴 舜起 『柳田國男全集31』柳田國男 『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』ベン・マッキンタイアー(小林朋則訳) 『揺れうごく鳥と樹々のつながり 裏庭と書庫からはじめる生態学』吉川徹朗 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』梯久美子 『いまだ、おしまいの地』こだま 『契れないひと』たかたけし 『自然な構造体 自然と技術における形と構造、そしてその発生プロセス』フライス・オットー 他(岩村和夫訳) 『記憶よ、語れ 自伝再訪』ウラジーミル・ナボコフ(若島正訳) 『鷗外随筆集』森鷗外(千葉俊二編) 『佐倉牧野馬土手は泣いている(続)』青木更吉 『松本隆対談集KAZEMACHI CAFE』松本隆 他 『現代児童文学作家対談5 那須正幹・舟崎克彦・三田村信行』神宮輝夫 『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット(東辻賢治郎訳) 『トンネル』ベルンハルト・ケラーマン(秦豊吉訳) 『今日を歩く』いがらしみきお 『手賀沼周辺の水害 ―水と人とのたたかい400年―』中尾正己 『海とサルデーニャ 紀行・イタリアの島』D・H・ロレンス(武藤浩史訳) 『声と日本人』米山文明 『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー(野崎孝訳) 『案内係 ほか』フェリスベルト・エルナンデス(浜田和範訳) 創作 P217八月七日のポップコーン センリュウ・イッパツ 水戸ひとりの記 両さん像とツバメたち 鎌とドライバー 本当は怖い職業体験 This Time Tomorrow 六回裏、東北楽天イーグルスの攻撃は フィリフヨンカのべっぴんさん 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.09
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浦沢直樹「あさドラ 8」(小学館) 2024年5月のマンガ便に入っていました。浦沢直樹くんの「あさドラ」(小学館)の第8巻です。 第7巻が2022年の11月の発売でしたが、第8巻は2024年の1月の発売で、ホント、久しぶりですね。浦沢くんも1960年生まれで、還暦を越えていらっしゃるわけで、お身体とか、いろいろあったのかもしれませんが、無事、ご復活のようでメデタシ、メデタシですね(笑) で、表紙を見るとアサちゃんのお顔が変わっていますね。ちょっと、オネーサンになられたようです。読み終えてわかりました。7巻が1964年、東京オリンピックの年が舞台だったのですが、第8巻では、それから4年後、1968年になっていました。 そもそもこのマンガは1958年の伊勢湾台風が始まりで、その時に12歳だった浅田アサちゃんが、1964年には、当然、18歳で、なんと、飛行機乗りになっていて、問題の「アレ」と戦うという展開だったわけですが、みなさん、お忘れでしょうね(笑)。 というわけで、まず、8巻の人物紹介と目次です。 前半、第52話の「オーディション」から第54話「1964年の青春」あたりまでが、高校時代ですね。同級生のヨネちゃんの歌手デビューとか、ミヤコちゃんの女子プロレスの話です。で、55話「潮騒の踊子」くらいから1968年、22歳になったアサちゃんに新しい出会いがありますね。それがこのシーンです。 このシーンに登場してきたのがリバー・エスリッジという脱走したアメリカ兵です。そうです。お話は、東京オリンピックをへて、ベトナム戦争の時代に突入してきたというわけです。 伊勢湾台風、東京オリンピック、和製ポップ歌手、女子プロレス、そしてベトナム戦争です。 浦沢直樹くんは「戦後」の日本を生きた人たちの姿、だから、1946年生まれの少女を主人公に描いているとボクは思っているわけですが、アサちゃんより8歳年下のボクが、このマンガに強く惹かれているのはそのあたりなのですね。 脱走アメリカ兵とくれば、次はべ平連(ベトナムに平和を市民連合)なわけですが、そのあたり、どうなるのでしょうね。「でな、このマンガ、アレはどうなったんかな?」 トラキチ君の言葉ですが、いや、ホント、このマンガのつかみはアレだったはずなんですが、どうなるんでしょうね。 まあ、なにはともあれアサちゃんはどんどん大人になるし、時代は70年代に突入となると、ほんと、目が離せませんね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.08
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