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イ・ウォンテ「対外秘」キノシネマ神戸国際 サンデー毎日のいい身分で、することがないので映画館徘徊を始めて7年くらいたちました。通算すると、そろそろ600本ぐらい見たことになります。20代の学生時代から30代のはじめくらいには、そこそこの映画狂いだったものの、1990年代から2010年代の30年間ほとんど見ていないということもあって、普通の映画好きの方とは話が合いません。読書でも映画でも、まあ、質より量に傾くタイプなので、自分の、本当のところの好みもよくわかっていないのですが、2024年の秋の時点では、なにはともあれ、ここのところ「なんだ、これは!」 と面白がっている韓国映画を見て、韓国小説を読もう。という気分です。 で、目に付いた新作には出かけることにしていますが、今回見たのはイ・ウォンテという監督の「対外秘」でした。「対外秘」ってなに? ですが、要するに、都市計画に関する公的な内部文書のことでした。公開される前に知って、こっそり土地とか買えばお金が儲かるという、あれです。 地元への利益誘導を叫んで国会議員とかになろうとしている人物。で、そういう議員さんとかになりたがる人物たちから「センセー」とか呼ばれている黒幕というか、フィクサーというかの人物。利益誘導にからんで寄ってくるヤクザや、ヤクザまがいの不動産業者。まあ、そういう人たちの「お金儲け」をめぐるお話でした。 アメリカあたりでも、2000年になったころから、所謂「公共性」が、真っ向から批判され、社会全体における「エゴイズム」というか、私的な利益誘導を正当化する風潮が、露骨に表面に出てきていて、たとえば、まあ、トランプみたいな人が大統領になったりしているわけですが、おそらく、中国とか韓国とかのアジアの諸国、もちろん日本も含めて、そういう社会へ向かいつつあることに対することを予感して作られている映画だという気がしました。 主要登場人物は「悪人」ばかりで、最終的に、悪人性が否定されていない! のが、この映画の特徴で、ボクが唸ったところです。映画が描く欲望追及形態が、まあ、選挙がらみの話ということもあって、少し古いのですね。なんだか、70年代の終わりころの日本のヤクザ映画みたいな空気がありましたが、設定が90年代くらいではあるのですが、やっぱり、これは韓国の現代映画なのですよね。 ボク自身は、そういう世界にほとんど関心がありませんし、私的な利益誘導に奔走したあげく、自己肯定するタイプのものの考え方自体が嫌いですから、見終えて「アホか!」 なのですが、映画製作者の意図が、状況報告=こんなもんやで、なのか、状況批判=これでいいのか!なのか、どのあたりにあるのかということだけは気になりました。ボクが見る限り「こんなもんやで!」だった気がするのですが(笑)。 アメリカではトランプの伝記映画が出来ているそうで、近々、日本でも公開されるようですが同じ意味で、少し興味がありますね。 まあ、それにしても疲れる話でした(笑) 監督・脚本 イ・ウォンテ原案 イ・スジン撮影 キム・ソンアン編集 ホ・ソンミ チョ・ハヌル音楽 チョ・ヨンウクキャストチョ・ジヌン(へウン)イ・ソンミン(スンテ)キム・ムヨル(ピルド)ウォン・ヒョンジュン(ハンモ)キム・ミンジェ(ムン本部長)パク・セジン(ソン記者)キム・ユンソン(パク課長)ソン・ヨウン(サンミ)2023年・116分・G・韓国原題「対外秘」英題「The Devil's Deal」2024・11・22・no151・キノシネマ神戸国際no17追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.23
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笠井千晶「拳と祈り 袴田巖の生涯」元町映画館 東京のほうで先にご覧になった方から勧められて見ました。実は、この映画が撮っている袴田事件について、冤罪事件であるらしいという、その経緯というか大筋というかについて、かなり昔に関心を持ったことがありましたが、忘れていました。 今回、見たのは笠井千晶という監督が、2024年9月26日の再審無罪という判決を機に公開した「拳と祈り 袴田巖の生涯」というドキュメンタリー映画でした。 映画は2014年、東京拘置所から釈放された袴田巌さんが乗る自動車のシーンから始まりました。そこから、彼自身と彼の無実を信じ続けてきたお姉さんの袴田秀子さんの生活が映し続けられていますが、ボクの脳裏に刻まれたのは彼の歩く姿!でした。 はじめは、故郷、浜松に帰ってきて暮らし始めた秀子さんのマンションの部屋の中でした。部屋から外に出ることが出来ない袴田巌さんは、部屋から部屋へ、行ってはかえり、また、行ってはかえり、歩き続けます。 やがて、なんとか外に出られるようになると、帽子をかぶり少し猫背で、がに股、半歩づつ前に進むかのようによちよち歩き続けます。その、袴田巌さんの後をカメラがついて歩き、彼の後姿を撮りつづけます。 ボクは、その後姿に見入りながらことばを失いました。 目の前のスクリーンを歩いているその男は80歳を越えていて、まだ、死刑囚なのでした。 で、死刑囚の姉という境遇を58年間生き抜き、弟の無実を信じ続け、ついには弟の冤罪を晴らした袴田秀子という女性の笑顔に圧倒されました。最後に「もう、死刑囚じゃないよ。」 と弟さんに笑いながら語りかけられた時、彼女は90歳でした。 言葉を失うとはこういうことですね。正直、全編を見終えた今も言葉を失ってしまっている映画でした。 ボーっとして見るしかない映画の迫力ということに思いを致すならば、このお二人の生活をカメラとマイクをを持って20年以上もの年月、徹底的に追い続けた笠井千晶という監督にも唸るような気持ちがこみ上げてきます。 繰り返しになりますが、見ているあいだも、見終えた後も、なんと言っていいかわからない、なにを言えばいいのかわからない、ただ、浮かんでくるのは彼の後ろ姿なのですが、その後姿をボンヤリと思い浮かべながら、人間という生き物がこの世に生まれて生きるということがどういうことなのか? ボクも、もちろん、その一人であるところの人間というものについて、漠然とした思いが浮かんでくるのでした。 帰ってきて、2024年10月8日の検察庁の控訴断念の記事をネット上で探しました。そこで検事総長が語っていることを読んで、唖然としました。ボクが読んだNHKの記事の一部を写してみます。 本判決では、いわゆる「5点の衣類」として発見された白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型が袴田さんのものと一致するか、袴田さんは事件当時鉄紺色のズボンを着用することができたかといった多くの争点について、弁護人の主張が排斥されています。 しかしながら、1年以上みそ漬けにされた着衣の血痕の赤みは消失するか、との争点について、多くの科学者による「『赤み』が必ず消失することは科学的に説明できない」という見解やその根拠に十分な検討を加えないまま、醸造について専門性のない科学者の一見解に依拠し、「5点の衣類を1号タンク内で1年以上みそ漬けした場合には、その血痕は赤みを失って黒褐色化するものと認められる」と断定したことについては大きな疑念を抱かざるを得ません。 加えて、本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。 それどころか、理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている上、推論の過程には、論理則・経験則に反する部分が多々あり、本判決が「5点の衣類」を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません。 このように、本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。 しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました。 語っている人は自分を何様だとお考えなのでしょうかね。 検察がしなければならないことは、まず、裁判においては一人の人間を死刑にするに十分な説得力を持ちうる証拠物件を示すことであり、その証拠物件の正当性を証明することですね。で、もしも、その証拠について捜査過程での捏造が裁判所に疑われたのであれば、その疑いを晴らすことだとボクは思いますが、エライ人たちというのは自分は振り返らなくてもいいようにできているのですね。 「無実」の人間を68年間も「死刑囚」として、まあ、法的地位だか何だか知りませんが、取り扱ってきたことについてどう考えていらっしゃるのですかね。 映画の中で、袴田巌さんが「検察庁」という看板を見て「ここには用がないから帰る。」 といって、踵を返されたシーンがありましたが、そこには誰も笑うことのできない袴田巌という一人の人間の人生の姿を、ボクは感じたのですが、彼を死刑囚として「取り扱った」人たちは、そのあたりについてどんなふうにお考えなのでしょうね。 描写されている世界に圧倒されて、どうしていいのかわからないのですが、やっぱり拍手!ですね。すごい作品でした。監督・撮影・編集 笠井千晶整音 浅井豊音楽 スティーブン・ポッティンジャーナレーター 中本修 棚橋真典タイトル題字 金澤翔子キャスト袴田巖袴田秀子2024年・159分・G・日本2024・11・18・no149・元町映画館no267追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.22
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谷川俊太郎「はだか 谷川俊太郎詩集」(佐野洋子絵 筑摩書房)「さようなら」谷川俊太郎ぼくもういかなきゃなんないすぐいかなきゃなんないどこへいくのかわからないけどさくらなみきのしたをとおっておおどおりをしんごうでわたっていつもながめているやまをめじるしにひとりでいかなきゃなんないどうしてなのかしらないけどおかあさんごめんなさいおとうさんにやさしくしてあげてぼくすききらいいわずになんでもたべるほんもいまよりたくさんよむとおもうよるになったらほしをみるひるはいろんなひととはなしをするそしてきっといちばんすきなものをみつけるみつけたらたいせつにしてしぬまでいきるだからとおくにいてもさびしくないよぼくもういかなきゃなんない 詩人の谷川俊太郎が亡くなったそうです。2024年の11月13日のことだそうです。 11月19日、月曜日の朝起きるとチッチキ夫人が寝ぼけまなこのボクにいいました。「谷川俊太郎がなくなったって。」 で、その日のフェイスブックで、友達が詩人の死を悼んでいました。谷川俊太郎さん「さようなら」ですね。 谷川俊太郎が、もう、30年以上も昔にだした「はだか」(筑摩書房)という詩集をチッチキ夫人が大切にしていたことを思い出しました。 上の写真が、箱装の外箱です。で、これが中の姿です。醜いかもしれませんが、何かの包み紙でカバーしてあって、真ん中にはだかと谷川俊太郎という文字が赤エンピツで書かれています。 ホコリを払って「はい、これ。」といって渡すと「ぼくもういかなきゃなんない、でしょ。」「うん、挿絵は佐野洋子さん。彼って、いったさきで大変ちゃうの?」「そうねえ、少なくとも三人は確実に待ってるからねえ(笑)」 で、これが皮をむいた姿。 美しい詩集ですね。1988年の出版です。挿絵は佐野洋子さん、装幀は平野甲賀さん、最初の詩が「さようなら」です。懐かしいですね。 で、これが、この詩集のオシマイの詩「とおく」のページの写真です。 佐野洋子さんの挿絵ですね。読めますか?読みにくいので、詩は書き写しておきますね。とおくわたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもうただしくんよりもとおくへきたとおもうごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもうもしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりもごろーはいつかすいようびにいえをでていってにちようびのよるおそくかえってきたやせてどろだらけでいつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいたごろーがどこへいっていたのかだれにもわからないこのままずうっとあるいていくとどこにでるのだろうしらないうちにわたしはおばあさんになるのかしらきょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしらここよりももっととおいところでそのときひとりでいいからすきなひとがいるといいなそのひとはもうしんでてもいいからどうしてもわすれられないおもいでがあるといいなどこからかうみのにおいがしてくるでもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける 「うみよりももっととおく」へ行ってしまった谷川俊太郎の声が、やっぱり聴こえてくるようですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.21
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荒勝俊「日本狛犬大全」(さくら舎) 徘徊暮らしを始めて7年ほどたちました。自宅を出るときはホンダのスーパーカブです。で、最寄りの駅の駐輪場に止めて電車に乗ります。JRの神戸線です。いや、本当は山陽本線と呼ぶのが正しいのかもしれませんね。垂水駅から電車で出発です。で、まあ、気が向いたところ降りて歩き始めます。元町駅あたりで降りて、映画館を目指して、というのが一番普通のパターンです。 で、最寄りの駅から歩き始めて、小さな神社の境内とか小さな公園、JRの高架下、時には道端とかで座っておにぎりとかを食べたりタバコを吸ったりします。もちろん、お茶は自宅から持参したペットボトルが必須です。寒くなると保温水筒にコーヒーがある場合もあります。 徘徊ですから、道端も、格別、苦にすることはありません。神社に立ち寄る時には、まあ公園とかでもですが、写真を撮ることがあります。神社の場合の場合の被写体はたいてい狛犬です。 あの、狛犬に共通した、「やる気」があるようで、実は「やる気」が固まってしまっているように見える、まあ、たいがい石ですから固まって当然なのですが、なりというか、風情が好きなんです。 で、市民図書館の新入荷の棚にこんな本を見つけました。「日本狛犬大全」(さくら舎)です。狛犬の図鑑です。世の中には狛犬が好きな人がいるのですね。著者の荒勝俊という人は、早稲田の理系、バイオなんちゃらの教授らしいのですが、まあ、すきがこうじてということだと思いますが、すでに、同じさくら舎というところから「江戸狛犬図鑑」という、文字通り図鑑を出版されているようです。ほとんど研究者です(笑)。 ページを繰ると、狛犬の解説があって、北は北海道から南は沖縄まで狛犬の所在神社、写真、および解説です。 何が面白いといって、みんな違う顔なのです。狛犬といえば、一応、対で座っていて、それぞれが「阿」と「吽」という口の形をしているものだと思っていました、そうと決まったわけでもなさそうです。動作には、型はあるようですが、一匹というか一頭というか、それぞれの個性が溢れていて写真を見ているだけで笑えます。 適当に開いたこのページは山梨県です。見にくいかもしれませんが、かなりユニークというか、個性があるというかですね。山梨とか長野の狛犬は、この図鑑を見る限りやる気のかたまり方に独特の愛嬌があって、とりあえず、一度お出会いしたい! という気になりますね。こういうのが近所にいると思うと、徘徊も精が出ますよね(笑)。 ちなみにこちらが兵庫県です。何と地元の海神社の子連れ狛犬が出ています。もちろん、知っていますが、チョット嬉しいですね。 とりあえず、神戸市内の狛犬探索徘徊を始めるしかありませんね。東灘から西区まで、ウロウロして、どれくらいの狛犬さんと出会えるんでしょうね。そういえば、北区もありますよね。そう考えると、神戸市は広いですね(笑)。まあ、そうはいいながら、そのうち狛犬写真帳かなんかを、このブログに載せ始めるかもですよ。がんばります!(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.20
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「三島市の柿田川公園って知ってました?」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり 三島市を徘徊しています。駅前のホテルを出発して三島大社、それから三島暦師の館と、ウロウロして三島大社の鳥居の前からタクシーです。「あんな、シマクマ君、三島に来たらこれを見ないと、という場所が柿田川公園やねん。」「何、それ?来たことあるんですか?」「うん、学生時代の友だちと箱根を散策して、連れてきてもらった。」「その友だちって、やっぱり…」「いや、男性やで。」「えー。いつもと違ますやん。で、なにがあるの?」「富士の湧水や。」 で、到着したのが柿田川湧水群のある柿田川公園です。 鬱蒼とした木立の中を歩いていくと、向こうに大きな川が流れているようです。柿田川なのでしょうかね。ボクは三島大社からタクシーに乗ったせいで、どちらが北でどちらが南かわからなくなっていたのですが、どうも、右手が富士山のある北、左手が駿河湾のある南のようです。 川の手前の展望台になっているところから真下を覗きこみます。 ありました。井戸のようにまわりをコンクリートで囲った湧水池です。この向こうに川が流れていますす。「すごいやろ!」「すごいです!」 青みがかった深い色の底から、もこもこ水が湧き上がっています。スゴイです(笑)。モコモコ感がうまく写真には写らないのが残念です。 小さな、浅く、細い流れにも、少しも濁ることなくわらわらと水が湧き出しているところがあります。下の写真がそれですが、ボクの写真では単なる小川にしか見えません。ザンネンです(笑)。 さっき、木立の向うに見えた流れがずっと見通せる場所に出てきました。ボート遊びもできるようです。大きな流れです。みんな湧水でしょうか? 大木が林立している森の道があって、その大木のふもとにワラワラ、もこもこ、湧き出しているのが見えます。 あちこちにある湧水を次々と見て歩きながらM君が面白い事を言いました。「シマクマ君、こういう森の中を歩いていると、なんだか、ムラムラしてこないかい?」「ムラムラって何ですか?」「だから、ムラムラだよ。」 もこもこと湧きあがる「生命力」が巨木化するイメージからの発言ですかね? 一緒に歩いていた東京から来ていたMさんが「私はしませんね。」「うん、意味不明やんな。」 M君はたしか75歳、Mさんはもうすぐ70歳でシマクマ君と同い年。「いつまでも、若いねえ(笑)」 と、隣で歩いていたNくん、ちなみに、彼も確か75歳が仲を取り持っていましたが、 これが、看板です。 で、こちらが「柿田川公園」の入口です。 確かに、一見の価値がありましたね。富士といえば、樹海を想像していたのですが、すそ野の広さというか、すそ野の地底を流れる水流群がこうして吹き上がってきていて、湧水群をつくっているんですね。地底の流水群を想像すると、ちょっと興奮しません? で、それが駿河湾へということらしいです。「だから、駿河湾の水はきれいやねん。だから、ここのウナギがおいしいねん。」 というわけで、次はウナギ屋さんまで歩くそうです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.19
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「高倉台の夕焼け!ピンボケ(笑)」 徘徊日記 2024年11月14日(木)須磨・高倉台あたり 週に一度だけのお仕事が終わって、校舎から出てくると夕焼けです。帰りを急ぐ女子大生さんも立ち止まって見上げていました。 もっとも、写真はピンボケです(笑)。 先々週は、ここに鞄を置き忘れました。この日は教卓に老眼鏡を忘れていることにも気づかず空を見上げてため息をついていました。「おおー、・・・」夕焼けが、やけに身にしみる年になりましたね(笑)夕焼うつくしく今日一日はつつましく 種田山頭火 さすが、山頭火ですね。何もいうことはありませんね(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.18
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イリヤ・ポボロツキー「grace グレース」元町映画館 まあ、なんといっても、出だしのシーンで鷲摑みでした!(笑) 風景がすごいんですね(笑)。小さな滝というか、湧き水の水口で若い女性が水を飲んでいるのか、手を洗っているのか、いや、水を汲んでいたらしいのですが、彼女が水の入ったポリタンクを持って歩き始める、その動きに沿ってカメラが引いて行って、小さく細い水の流れが、ものすごい谷の底を流れていく川になっていって、崩れた崖の谷間の上の大きな山々、その山の麓に点在する集落が遠くにあって、彼女が歩いていく先には立ち木なんて一本もない、なんだか荒涼とした丘の上に赤いキャンピングカーがとまっていました。おおー、スゴイ! 見たのはイリヤ・ポボロツキーという、ロシアの若い監督の作品、「グレース」でした。 キャンピングカーで移動して、野外映画会を興行している父親と娘の旅 のお話のようです。現代ロシア版ニューシネマパラダイスやん(笑) とか、なんとか、お気楽に見ていましたが、どうも違うようです。現代ロシア版地獄めぐりというのとはちょっとちがいますが、現代ロシア版辺境めぐり という風情のロード・ムービーでした(笑)。 老眼のボクには、なんというか、画面のトーンが暗くて、眠くて仕方がない映像だったのですが、にもかかわらず、面白かったですね(笑)。 まず、主役の娘さんが、まあ、彼女も暗いっちゃア暗いんですが、実にいいんですね。それから少年、親父さんも、親父さんとわけわからん関係になる、観測所とかで一人暮らしのおばさん、まあ、みんなよかったですね。会話らしい会話はほとんどなくて、どの組み合わせも、たがいにずっと喧嘩しているようにしか見えない関係なのですが、父と娘、少年と少女、旅の興行師と観測所の女、それぞれの描き方が、絶妙なのですね。人間同士ってのはこういうもんでしょ。 まあ、監督さんがそうおっしゃっている感じで、納得しちゃうんですね。 それから、先日、ゴンドラという映画で気に入った、多分、コーカサスあたりの山岳風景、都市のアパート群、ショッピングモール、娘が海に行きたい というので、そうはいってもロシアですからねえ、どこの海に行くんだろう? と思っていると、多分、北極海に面した北方地域の海ですね。で、そのあたりの空き家ばかりのお屋敷群、遠くに見えている海、何も通らない道路。ドキュメンタリィータッチでジーっと、だからロングショットで映し出される風景があって、その画面のどこかを走る赤いキャンピングカー、何もない山の間からフッと出て来たり、目を凝らしていないと見えないと思っていると消えてしまったり、アカン、寝てまう! で、まあ、とどのつまりに、寒そうな海にじゃぶじゃぶ入っていった娘がすることを見て、ようやく、ああ、そういうことか! と腑に落ちて、納得でした。 いや、いや、この監督、この映画の娘の描き方もちょっとしたものですが、今後に期待しちゃいますね。拍手!です。 この映画で、印象深いのは現代ロシアの社会の描き方 ですね。都市と辺境、男と女、子供と大人、要素はたくさんあるのですが、なんだか、とてもアンバランスで、そこがとてもリアルなんですね。 それから映画のトーンですね。画面のトーンじゃなくて、お話の筋立てですが、暗さとしか受け取られかねない展開なのですが、最後にたどりついたところに「希望」というか、未来への可能性を暗示しているとボクは思いました。拍手!です。監督・製作・脚本・編集 イリヤ・ポボロツキー製作 イバン・ニチャエフ 撮影 ニコライ・ゼルドビッチ音楽 ザーカス・テプラキャストマリア・ルキャノバ(娘)ジェラ・チタバ(父)エルダル・サフィカノフ(少年)クセニヤ・クテポワ(観測所の女性)2023年・119分・ロシア英題「Grace」2024・11・17・no148・元町映画館no266追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.18
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パブロ・ベルヘル「ロボット・ドリームズ」シネリーブル神戸 久しぶりに洋物のアニメの新作を見ました。パブロ・ベルヘルというスペインだかの監督の「ロボット・ドリームズ」です。 思いのほかよくできていましたね(笑)。人間は出てきません。犬とかアライグマとか、熊とか犀とか、動物大国のお話でした。名前はわかりませんがワンちゃんが主役で、で、相方がロボット君です。 ワンちゃんは生きものですがロボット君は、ワンちゃんがネットショッピングで購入した作りものの生きものです。でも、どこか生きものでした。 「スペインの監督が、なんでニューヨークなの?」 と思いましたが、サラ・バロンという人の原作があるようで、それの舞台がニューヨークのようですね。時代は、少しだけ昔という感じです。1990年代かな?ネットショッピングはありますがスマホはありません。 で、笑ったのは「セリフ」と「ナレーション」がない事でしたね。所謂、サイレントではありません。音楽とか効果音はあるのですが、音としてのことばがありません。 今週、このタイプの映画、これで「ゴンドラ」に続いて2本目です。 だからかどうかわかりませんが、登場する動物君たちが人間に見えました。そういう人っているね(笑) という感じです。 ニューヨークの古びた小さなアパートで暮らすワンちゃんが働いていないのがちょっと気にかかりましたが、友だちがいない孤独な学生さん、あるいは、ニートの若者のイメージです。 その昔、いると思って訪ねると、卒業したんでしょうか、空き部屋になっている6畳だけがあって、消息はまったくわからなくなっていて、それから50年、何の音信もない友だちがいたことを思い出しました。 まあ、ボクのような老人が見ると頭のどこかにあった記憶が揺さぶられる印象の作品で、結構、リアルでしたが、今ごろの若い人がどんなふうにご覧になるのか、ちょっと興味がわきました。 なにはともあれ、全編、素直な展開で、いいヤツだよな!もちゃんと出てきて納得でした。拍手!監督・製作・脚本 パブロ・ベルヘル原作 サラ・バロンアニメーション監督 ブノワ・フルーモン編集 フェルナンド・フランコ音楽 アルフォンソ・デ・ビラジョンガ2023年・102分・G・スペイン・フランス合作原題「Robot Dreams」2024・11・11・no145・シネリーブル神戸no280追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.17
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ファニー・ブロイニング「旅路」元町映画館 神戸の元町映画館だけで、先週の11月9日の土曜日から1週間、ヘルヴェティカ・スイス映画祭というスイス映画上映の企画をやっていました。気になっていたのですが、何故か、ちょっとお忙しの1週間で「まあ、いいか」 とか思っていたのですが、映画館の前を通りすがると「なぜ来ないんですか?」 とか声をかけられたりして、「まあ、最後の1本はお愛想して行けそうだ。」 というわけで、最終日の11月15日の金曜日にやっと出かけました。で、これがチラシですね。 見たのはファニー・ブロイニングという女性の監督の「旅路」という作品でした。 イヤーぁ、ビックリ仰天! 拍手!拍手! でしたね(笑)。 映画は1頭のイルカが海を泳ぐシーンで始まりました。スイスなのにイルカかよ? まあ、何の知識もないこともあって、そんなことを考えならが見始めましたが、最後に同じシーンが映し出されて、で、暗転した時にはそうか、全身を躍動させて、水しぶきをあげて泳ぐイルカか。そうだよな、それが、生きることだよな! と、つくづく納得したのでした(笑)。 おそらく30代で、所謂、多発性硬化症と呼ばれている症状を発症し介護的補助なしではベッドから起き上がることもできない女性と、写真家だった仕事をやめ、その女性の介護のために24時間付き添い続ける男性という夫婦が、キャンピング・カーでギリシア旅行をする様子を、二人の娘であるファニー・ブロイニングという監督が撮ったドキュメンタリー映画でした。 二人は美術大学の同級生で、この旅をした2018年当時、68歳だったかという老夫婦です。 イラストレイターだった妻アネッティが若いころに描いた1枚のイラスト、縦横にたくさんの、多分、同じ女性の姿が繰り返し描かれていて、足が消えていたり、手が消えていたり、クイズのようなその絵が娘のファニーのお気に入りだったというナレーションとともにクローズアップされて、続けて夫婦の日常生活の様子が映し出されます。 で、夫のニッギが寝たきりの妻アネッティに美しいギリシアの自然を見せようと旅に出る決意をし、キャンピング・カーを改造しはじめます。アネッティは旅にそなえて洋服や下着、化粧品の用意を介護士の女性に頼みます。 で、旅が始まります。助手席がアネッティの定位置です。後ろに改造ベッドがあって、車中泊です。フェリーに乗り甲板に出たり、遺跡を訪ねたり、海辺や市場、噴煙を上げる山、沈む夕日、自動車を止め、とにかく車椅子で行ける場所へアネッティを運ぶのはニッギの役目です。 親指が痛い・・・ とニッギが顔をしかめ、もっと、大勢の人と出会える家に帰りたい・・・ と娘に甘えるアネッティのつぶやきが聞こえてきて旅も終わりのようです。イルカが泳ぐシーンが映り、画面は暗転しました。 ここまで、触れませんでしたが、旅のシーン、シーンには娘が母に問い、父に問う会話と、若かりし日の二人と家族の写真が挿入されます。それが、もう一つの「旅」を描いていく印象です。 ドイツ語ではIMMER UND EWIGと題されているようで、まあ、「ずっと永遠に」くらいの意味だと思いますが、映画が描いている二人が生きてきた、そして生きていく旅の姿は、二人の境遇のものすごさを超えて、映画を見ている70歳の老人を励ますのでした。イルカのように全身で泳いで生きる姿は、病身のアネッティの希求であるのは勿論ですが、世話をしているニッギの希求でこそあるのだというファニー・ブロイニングの穏やかな声が聞こえて来るかの作品でした。 映画に映るすべての人と美しい世界に拍手!でした。 これが、今回のヘルヴェティカ・スイス映画祭のラインアップです。来年以降もやるようです。来年は頑張って見たいですね(笑)。監督 ファニー・ブロイニング 原題「IMMER UND EWIG」 2018年・85分・スイス ・スイスドイツ語2024・11・15・no147・元町映画館no265追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.16
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森井勇佑「ルート29」シネリーブル神戸 なんとなくですが、スクリーンに出てくるとうれしいという方が、何人かいらっしゃって、まあ、そのお一人が綾瀬はるかさんなんですね、ボクの場合(笑)。だから、まあ、封切り初日に駆けつけることになるわけで、駆け付けました。森井勇佑監督の「ルート29」です。 で、どうだったか????!! ?マーク三つで、!マーク二つです。!マークは綾瀬はるか演じるトンボと大沢一菜演じるハルちゃんの存在感です。 ?マークは、映画の筋立てから結末、シーンの作り方、まあ、全部ですね。映画製作者、だから監督ということになりますが、彼が準備した結末がボクには「そうだったの???」という印象だったのですが、そこまでの、まあ、謎に満ちた、それなりに意味深で面白かった、あれこれのシーンが一気に色あせていくというか、うっかり気づかないまま見ていましたが、それじゃあ、たとえば、トンボがずっと着ていた掃除婦の衣装は囚人服だったということなんですかねというか、「あんた、なにしたの?」 途中、お姉さんにそう訊かせましたが、トンボとハルは何をしたんですか? と、やっぱり問い直したくなる結末でしたね。 せっかくの綾瀬はるかさんだったのですが、まあ、結末を見て、こんなふうにイラつくのは、見ているボクの映画を見る目なのか、人を見る目なのかがないからなのでしょうかね。 この監督の作品でキレるのはこれで二度目ですね。前作の「こちらあみ子」でも、ほぼ、同じようなキレ方をしたと思うのですが、理由が共通していることは自分では感じますが、では、その理由は何なのかがよくわかりません。ただ、映画を見ながらの印象ですが、あんたら、人のこと、わかったふうな目で見てへんか?なんか、ちがうんちゃうか? まあ、意味不明ですが、そんな感じですね。 最近の日本映画に、イマイチ乗り切れないというか、見ていてシラケることの多い徘徊老人ですがついにいってしまったという感じですね(笑)。 いやはや、老人の繰り言なのかもしれませんが、なんとも後味の悪い作品でしたね。ちょっと、拍手する気になりません(笑)監督・脚本 森井勇佑原作 中尾太一撮影 飯岡幸子編集 早野亮音楽 Bialystocksキャスト綾瀬はるか(中井のり子・トンボ)大沢一菜(木村ハル)伊佐山ひろ子(赤い服の女)高良健吾(森の父)原田琥之佑(森の少年)2024年・120分・G・日本2024・11・08・no144・シネリーブル神戸no279追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.15
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アンダース・エンブレム「ヒューマン・ポジション」元町映画館 今週で終わってしまうというので、焦って駆け付けました。元町映画館でやっている「ヒューマンポジション」というノルウェーの映画です。監督はアンダース・エンブレムという人ですが知らない人です。「ノルウェーか、気になるなあ。題名も気にかかるしなあ。」 まあ、そういうノリでしたが、見終えて納得でした。「これは、いいやん!」 でしたね(笑)。 出てくるのは、上のチラシの女性二人です。ああ、それから猫ね。白い服の一人は新聞記者をしているアスタ(アマリエ・イプセン・ジェンセン)で、黒っぽい服の、もう一人は、劇中の発言を聴いていて、「どこかから難民とかできた人かな?」 というニュアンスが感じられるライヴ(マリア・アグマロ)ですが、彼女は二人で暮らしているアパートでイスのリニューアルをしたり、英語の歌を作って歌ったりする女性です。 何だか古い建物の窓が繰り返し映ります。どうも、二人が暮らしている隣の建物のようです。二人は、同性の恋人同士のようで、何となくゴロゴロしているチラシのシーンも繰り返し映ります。部屋には、なかなかいい雰囲気の猫もすんでいます。それから、町の坂道、丘の上から見えるフィヨルドだなあと感じる海。並木道が繰り返し映し出されます。 先日見たゴンドラという作品が、この映画と似たような年頃の女性二人の映画で、風景にしろ、室内の描写にしろ、人物の撮り方にしろ、映像の雰囲気が何となく似ている気がしてええー、ひょっとしてこの映画もしゃべらないの?と、ちょっと焦って見ていると、ちゃんと会話がありました。それも、たとえば新聞記事に出てきた難民の処遇を巡っての結構シリアスな会話だったりします。 まあ、アスタという女性の仕事が新聞記者で、町の出来事について、現場で取材して記事を書くわけで、違和感やわざとらしさはありません。何だ、これは? と思ったのは、最初のあたりのシーンでノルウェー家具を巡って日本での評判の話が出てくるのですが、そのあたりが始まりで、二人の関心が日本に向けられている描写が続くのですね。箸を使った食事に始まって、柔道着や着物を着ていたり、わけのわかららん碁石並べのシーンがあったり、とどのつまりには、多分、小津の映画だと思いますが日本映画のセリフまで聴こえてきて笑っちゃいました。 でもね、なんだか雑然とした若い二人の女性の暮らしの描写なのですが、背後に題名になっているA Human Position、まあ、ボク的には「人として暮らすこと」 くらいの意味にとったのですが、それに対する登場人物二人のしずかな意思というか、態度というかが揺るがないのですよね。 で、そこのところに、作り手、だから監督の意識の誠実さがキラキラしていたと思いますね。まあ、その結果ですかね、毎朝の歯を磨いている二人のシーンを撮るのですが、その様子のコミカルというか、ちょっとづつ違うというかの描写とかが光っているんですよね(笑)。「人間としての在り方」 を真摯に実践する時には、やっぱり、歯磨きは必須なんです(笑)。 ふたりの女優さんのくずれない演技に拍手!でした。それから監督の猫と人間に対する思いやりに共感の拍手!でしたよ。 ここのところ、立て続けにみてきた若い人たちの「生きる姿」を描いた作品 の中では、頭一つ抜けていると思いました。もう一度、拍手!ですね。 監督・製作・脚本・編集 アンダース・エンブレム製作 スティアン・スキャルタッド 撮影 マイケル・マーク・ランハム音楽 エイリク・スリニング・コルネスキャストアマリエ・イプセン・ジェンセン(アスタ)マリア・アグマロ(ライヴ)2021年・78分・ノルウェー原題「A Human Position」2024・11・12・no146・元町映画館no264追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.14
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キルメン・ウリベ「ムシエ 小さな英雄の物語」(金子奈美訳・白水社) キルメン・ウリベという1970年生まれのスペインの作家がいます。バスク語で書いている作家だそうです。だいたい、ボクは、ヨーロッパにどれだけの言葉があって、どんなふうに分布しているのか、全く想像できない、まあ、バスク語とか言われても何にもわからないジジイですが、スペインとフランスの北の国境付近がバスクという地域で、そこには、言語をはじめとして、スペインとかフランスとかいうふうに単純にレッテルを張るわけにはいかない独自の文化空間があるようだというくらいの理解はなんとかあるのですが、ウリベという人はそこの作家で、そこの言葉、バスク語にこだわって書いている人のようです。 今回、ボクが読んだのは白水社のエクスリブリスシーズの翻訳で、もちろん原書を読む力など毛頭ありませんので、そこの言葉で! ということは、残念ながら実感することはできません。 で、こんな書き出しでした。 ゲルニカ爆撃のあと、スペインのバスク自治州首班であったホセ・アントニオ・アギーレは、ついに子どもたちを疎開させる決意を固めた。一九三七年の五月から六月にかけて、一万九千人の子供たちがビルバオの港からヨーロッパ各地に向けて出発した。彼らの多くはフランス、ソ連、イギリス、そしてベルギーへ逃れた。たった数名の教師に付き添われて、親元を遠く離れ、子供たちばかりで異国の地に向かったのだった。 語っているのは、作家自身です。冒頭のゲルニカ爆撃という記述を読んでピカソの壁画を思い浮かべる人もいらっしゃるでしょう。 一九三七年四月二六日、ナチスとイタリアのファシスト党がフランコを支持し、バスク地方の町ゲルニカを爆撃して数百人の市民を殺害した。これに対するピカソの抵抗が、この非人間的な様子を描いた《ゲルニカ》である。幅八メートル近いモノクロの絵は、さながらニュース映画の映像だ。キュビズムの手法を使い、炎と泣き叫ぶ女性や動物、死んだ子供、倒れた兵士という悪夢のような情景で爆撃の様子をあらわしたこの作品は、壮大な反戦メッセージとして、後にヨーロッパとアメリカを巡回することになる。(「若い読者のための美術史」Chapter32 政治化する芸術P365すばる舎) 偶然、同時に読んでいたシャーロット・マリンズという方の「美術史」(すばる舎)という本で出合った記述ですが、ピカソのゲルニカは、1937年のパリの万博のスペイン館に展示された作品だそうです。 案内している「ムシエ 小さな英雄の物語」に戻りますね。題名になっているムシエというのは、上の引用の疎開でバスクのビルバオという港からハバナ号という船に乗せられた3278人の子供たちの一人としてベルギーに送られたカルメンチュという、1937年当時、8歳だった疎開少女を引きとった、ベルギーの作家ロベール・ムシェという人の名前です。 上の表紙写真がロベールと、その妻ヴィック、娘のカルメンの家族写真ですね。 で、簡単に言ってしまえば、そのロベール・ムシエというベルギーの作家の短い生涯を「小さな英雄の物語」として描いたのがこの作品です。ただ、まじめに紹介するとなると、ちょっと大変なんです。 バスクの青年作家キルメン・ウリベが、1940年代のベルギーで生きていたロベール・ムシエという名を知るのは当人の死から60年後です。で、そこから、反ナチ活動家として収容されていたノイエンガメ収容所が1945年のナチスの敗戦を機に解放された後に消息を絶ったロベール・ムシエというベルギーの作家の、まだ、生きていた姿を小説として描ているわけですが、バスクの青年が彼が書くことになる作品の主人公にたどりつくまでの「すべて」 が、この小説の世界です。 バスクの作家を、戦時中ベルギーで生きたロベール・ムシエという作家の小さな英雄としての短い生涯に案内するのはカルメン・ムシエというロベールの娘です。上の写真で、お父さんにだっこされている赤んぼうですね。 1937年、ロベール・ムシエが、バスクから疎開してきた少女を里親として預かります。で、彼はカルメンチュウというその少女の名を、その後生まれた自分の娘に名づけます。 そのあたりの、バスクからの疎開児童たちその後の経緯は、当時のスペイン市民戦争の顛末、あるいは、ナチスによるベルギー侵攻という社会状況に蹂躙されていくわけですが、そこは、まあ、本書をお読みください。 で、名前をもらった、カルメンという娘が、父の死の50年後、ノイエンガメ収容所解放50周年を機に調べた事実、彼女は、自分の名前になったバスクの少女カルメンチュウのその後も調べつくしたようですが、その内容がキルメン・ウリベという若い作家に語られ、「小さな英雄の物語」というこの作品が生まれたようです。「英雄はそこかしこにいる、昔も今も、ここにだって、世界中のどこにでも。人のために身を捧げる小さな英雄が」 2010年、キルメン・ウリベの友だちが彼に言った言葉だそうです。その結果、1940年代、ファシズムのあらしが吹き荒れる時代、逃げてきたバスクの少女を救い、自らはナチスの収容所で命を落とした生涯を、忘れ形見として50年の戦後を生きた女性をはじめ、カルメンチュウとともにベルギーに送られて、何とか生き延びている人々を繰り返し取材することで書きあげた作品です。 静かで、穏やかな印象の作品ですが、久々に傑作だ! と実感しました。 私たちは2020年代という時代を生きているわけですが、現代という社会の歴史を見つめ直し、人間の社会で生きていくときに何が大切かということを穏やかに語っている作品ですね。歴史をたどるとは、今生きている場所、言葉、考え方、感じ方を問い直すことなのですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.13
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「三島暦師の館」 徘徊日記 2024年10月20(日)三島あたり 三島大社を東の裏口から出て金木犀が匂う住宅地を、ほんの数分歩くとなんだか立派なお屋敷があって、玄関にはカンカンと叩く板木(ばんぎ)が置いてあります。 ちょうど、庭あたりで掃除をしていらっしゃったオジサンがお声をかけてくださいました。「その、板、叩いてごらんなさい。」 で、4人組の二人が交互にカンカンと叩くと、中からセンセー!という雰囲気のおじいさん が出ていらっしゃって、お屋敷の案内が始まりました。三嶋暦師の館の主(ぬし) のようです。 お屋敷は、昔の代官所の建物を移築保存していらっしゃるようで、玄関の正面には三島の宿の古地図です。というわけで、ご講義が始まりました。 そもそも「三嶋暦」とは何かに始まって、三島の地理、歴史、三島暦の歴史、ああ、それから中国の暦と日本の暦の歴史、イヤアー、ベンキョーになります(笑)。 で、これがパンフレットです。「三嶋暦師の館」というのは三島市が管理運営している公共の場のようです。 こちらが、今も作り続けていらっしゃる三嶋暦です。大判とポケットサイズとあります。購入を希望すると、「いやあ、来年の暦の時期になってましてね。新しいのが来週届くのですが、これでいいですか?」「もちろん!です。」「じゃあ、ポケットサイズはサービスです。持ってってください。」 お年は、平均年齢70歳越えの4人組の一回り上という雰囲気で、頑固なオジーさんの雰囲気でしたが、とても御親切で丁寧な方でした。 これが、三嶋暦です。大きい方は見開きで吊り下げられるカレンダーです。一年間の月の形の変化が印刷されているのが、まあ、あたり前ですが特徴です。 壁掛けタイプが500円でしたよ。 開いてみるとレイアウトというか、デザインというかはこんな感じ。 お伺いした日の2024年10月20日を調べて見ると、縦向きに「九月十八日・月は十八夜・ひのとみ・日・友引・秋の土用の入り・19:07~09:16」 でした。最後が月の出、月の入りの時刻でしょうね。 庭には小さなお社があります。お祀りしてあるのは加茂神社の神さんらしいです。 で、その前の庭に何気ないのですが日時計です。暦は月齢の旧暦ですが、一日の暮らしは日時計という感じでしょうね。なんか、いい雰囲気でしたね。 これが、建物の看板です。三島市の歴史的風致形成建造物だそうです。 もしもですが、三島の町とか徘徊なさることがおありでしたらおススメですね。もっとも、シマクマ君は、たとえば二十四節季とかが、結局、「太陽暦」なのか「陰暦」なのか、まあ、よくわからないままなので、必ずしも、かしこくなれるとは限りませんけど(笑)。 さて、いったん三島大社に帰って、次はどこでしょうね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.12
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今福龍太「霧のコミューン」(みすず書房) 今日の案内は、まあ、学者さんの評論集ということもあって、なかなか、こんな本というふうには案内しづらいのですが、ボク的には、かなり引き込まれたことは事実なわけで、とりあえず案内しておこうと思います。 今福龍太「霧のコミューン」(みすず書房)。2024年7月の新刊です。 著者の今福龍太という人は、まあ、文化人類学というあたりがご専門の学者さんで、「群島」とか、「クレオール」とかいう言葉に惹かれて、あれこれ齧り読みさせていただいてきていて、お名前とお仕事の輪郭だけは存じ上げていたのですが、この夏、何となくパレスチナが気になっていた時に、市民図書館の新刊の棚にこの本があって、ちょうど読んでいたゴンティソーロというスペインの作家の「パレスチナ日記」(みすず書房)が、この本の中のいくつかの文章でジャスト・ミートしていることに気付いて借り出しました。 ボク自身と、ほぼ、同世代の方であることを、再認識しながら、その思考の方向性に、強く誘惑されました。 で、まあ、思考の方向性とかいってもなんのことだかわかりませんが、「現代」という時代を生きていくうえでの考え方の構えのような事ですね。 それを、彼は「霧」という自然現象を象徴的なイメージとすることで語っています。 まあ、説明しようがないので緒言のなかの一節を引用しておきます。 「霧のコミューン」とは何か。この謎めいた符牒のような言葉に私があるときからこめようとした意味。それは第一に「予兆」をめぐるものである。霧は、霧の向うに見え隠れする何かをつねに暗示する。来るべき何かを。しかしその「何か」を明らかにすることが重要なのではない。むしろ何かわからないものがそこにあり、それが私たちの真実を撃つためにいつか顕れてくるかもしれないと感じるときの、その兆しを繊細に感じとる間隔こそが、霧の本性であるように私には思えた。その意味で、霧のコミューンとは予兆を予兆として感受し、そこに希望を認め、その予兆を大切に育もうとする共同体(コミューン)のことである。 第二にそれは「秘密」を暗示する。権力による隠蔽の対極にあって、人類の知が「隠される」ことによってむしろ守られてきた歴史を深いところで諾う意思である。なぜ秘密が必要か。それは、可視化され利用されることなく、霧に隠れることで力をためる何かが存在するからである。霧とは、真実なるものの至高の隠れ蓑にほかならない。この点でそれは、ナチス・ドイツが政権に反対する者たちを夜と霧に紛れて隔離・投獄・殺害した「夜と霧」の指令によって真の意味を剥奪された「霧」を、むしろ抵抗者たちの拠点として復権させる共同体でもある。夜闇も霧もそれ自体の横溢と主張を持っていることを歴史は証明してきた。 第三に、それは「偶有性(コンタンジャンス)」へと開かれてゆく共同体である。「私は自分自身を世界のなかに混合し、世界の方もまた私に混合している」(ミッシェル・セール「五感」)。皮膚を界面として、私たちは世界とやすみなく接触し、お互いを混合させている。すべての事物にそなわった皮膜は、内と外を隔てる分断面ではなく、むしろ世界そのものが触れ合い愛撫しあう混合面なのだ。そんな揺らぐインターフェースこそ、固定化を離れて「世界」をつねに別様なものへと更新しつづける「偶有性」の現場であり、時間と空間を超えて「共-接触(コン・タンジャス)」が果たされる界面である。皮膚というヴェールにまつわりつく霧のような偶然性、偶発性のヴェール。ヴェールの向うに隠された真実があるのではなく、真実自体がヴェールの複合体なのである。その霧、その波形模様やギャザーや糸屑やほつれのなかで、私たちは無限の「出会い」の可能性を持つ。非接触テクノロジーの日常への浸透によって断たれつつある真の「接触タンジャンス」を奪還し、それを分有する共同体。それが「霧のコミューン」にほかならない。 えらく長い引用になりましたが、ボク自身は、当分、この今福龍太の道案内で、霧のなかを彷徨う ことになりそうです。いずれ、彷徨い先については、折りにふれて報告することになると思いますが、今日はとりあえずここまでです。 ついでなので目次と出版社がまとめている来歴を載せておきます。目次緒言Prologue小鳥もカタルーニャ語でさえずる街で バルセロナ 叛コロナ日記I負のメフィストフェレス 広島のバラク・オバマ〈対岸〉からの思想的挑発 フアン・ゴイティソーロ追悼II遠漂浪(とおざれ)きの魂、震える群島 石牟礼道子の億土からアジアのなかの沖繩 川満信一への手紙III微気象のくにで すべてのグレタ・トゥーンベリにマスクの時代の仮面 問いつづける身体のためにIV霧のなかのルイーズ・グリュック 寡黙な声のコミューン〈白い日〉と歴史 戦火から遠く離れてEpilogue霧のコミューン 生成と予兆Coda希望の王国 今福龍太(いまふくりゅうた) 1955年東京生まれ。文化人類学者・批評家。東京外国語大学名誉教授。メキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジル、奄美・沖縄群島などで広範なフィールドワークを行う。国内外の大学で教鞭をとり、2000年にはサンパウロ大学客員教授、2003年にはサンパウロ・カトリック大学客員教授などを歴任。2002年より、奄美・沖縄・台湾を結ぶ遊動型の野外学舎〈奄美自由大学〉を主宰。奄美では唄者、沖縄では吟遊詩人としても知られる。詩誌『KANA』同人。主な著書に『ここではない場所』『ミニマ・グラシア』『薄墨色の文法』『ジェロニモたちの方舟』(以上、岩波書店)、『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(みすず書房・讀売文学賞受賞)『ブラジル映画史講義』(現代企画室)『宮沢賢治 デクノボーの叡智』(新潮選書・宮沢賢治賞/角川財団学芸賞受賞)『ボルヘス「伝奇集」 迷宮の夢見る虎』(慶應義塾大学出版会)『原写真論』(赤々舎)『言葉以前の哲学 戸井田道三論』(新泉社)など多数。主著『クレオール主義』『群島-世界論』を含む著作集『今福龍太コレクション《パルティータ》』(全五巻、水声社)が2018年に完結。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.11
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岸田奈美「傘のさし方がわからない」(小学館) 小学館からシリーズ(?)で出ている岸田奈美さんの3冊目です。ついでに「もうあかんわ日記」(ライツ社)も読みましたから、ボクとしては4冊目ですね。ちょっと、飽きてきた!ゴメン。 というのが正直な感想ですが、理由ははっきりしている気がします。困ったことに、売れっ子の「作家さん」の文章 になりつつあるんですよね。 要するに、商品としての文章といえばいいのでしょうか。 彼女の文章の持ち味は、ボクのようなボンヤリ人生では気づかない、まあ、ナイーブな感受性の持ち主である岸田さんだからこそ直面する「突然の危機」があって、そこで彼女が、「いかに開き直るか」の体験のスリルとサスペンスなのでしたが、身の回りから、ひょっとしたら面白いかもというエピソードを探し始めていらっしゃる、まあ、そういうニュアンスを、何となくなのですが感じてしまうのですね。着地点は、彼女らしい柔らかな感受性、おおらかさ、というのは変わらないのですが。 ネット上に記事を書きつづけるという難しさもあるのでしょうね。題名になっている「傘のさし方を忘れてしまったお母さんの話」なんて、相変わらず、だいじょうぶ! と声をかけたくなる話なのですが、「作家」としての岸田さん、最初の正念場に差し掛かっていらっしゃるようですね。 まあ、しかし、新しい本が出れば、ボクは読みますね。ボクにとってはそういう方です、彼女は(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.10
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「立冬の日の須磨の海」 徘徊日記 2024年11月7日(木) 須磨・一の谷あたり 2024年、11月7日、木曜日、ちょうど正午です。今日は立冬だそうです。ここは須磨、一の谷の丘の上です。海には西へ行く船、空には東にながれるクジラくんたちが群れています。 ここに座ると、柄にもないことを思いつきます。熊掌は、形勢不利になると碁盤をかきまぜる困った奴に碁ガタキがつけてくれた名前です。もう、30年以上も昔のことです。霜月やクジラ群れ飛ぶ須磨の空 風強し今日は立冬須磨の海 熊掌 そういえば、最近、目の前の海にクジラくんが迷い込んで保護されたというニュースがありました。 一の谷の丘の上では、まだ、朝顔が咲き続けていました。朝顔の季は秋だと思いますが、まあ、そうはいっても、今日は立冬ですからねえ(笑)。 さて、一服して、今から高倉台です。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.09
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ファイト・ヘルマー「ゴンドラ」シネリーブル神戸 ここのところ、高校生の男の子同士とか、若い男女三人とかの作品を立て続けに見ていたので、おっ、女の子二人の映画か、面白ろそうやん! というノリで見ました。ドイツの映画らしいということには気付いていましたが、監督がどんな人で、どこで撮ったのかというようなことは全く知らないで見て、驚きの連続でした。 舞台はドイツだとか思っていたら、まあ、ドイツの田舎との違いがわかるわけじゃないんですが、グルジアだか、コーカサスだかのド田舎だし、その上、この映画、いつまでたっても登場人物たちがしゃべらないんですね。セリフがないんですよ!!(笑) 見たのはファイト・ヘルマーというドイツの監督の「ゴンドラ」でした。 見終えて、一番率直な感想は「なんや、作りかけみたいやったなあ。」 でした。 理由はハッキリしていて、登場人物にセリフがないからですよね。 最初、なんだか偉そうにしている、ゴンドラ、要するにロープウェイの運転係というか、駅長というかのオッサンが乗りにやってくる車椅子のオッサンに邪険にしたり、どうも亭主が死んだらしいオバはんが新入りの乗車員の女の子に、やたらニラムだけで、愛想も何もない様子に「なんでやねん?!」 だったのですが、結局、最後まで誰もしゃべらない映画 なのでした。 言ってしまえば、みんな見る人任せなわけですからね、「なんで?」「何してんの?」 の連発で、いつもと勝手が違ったのですが、一方で、やたら面白かったりしたわけです。 まず、ゴンドラからというか、ゴンドラをというかの風景がいいですね。 ゴンドラは山の下から上へではなくて、上から上へとしか思えない様子で、俗世を下に見ながら天空を渡るんです。下に谷あいの村があって、牛とかヒツジとかがいて、あと、ズーと山です。そこを渡っていくんです。 誰かが亡くなったんでしょうね。ゴンドラから棺桶の前と後ろがはみだしたまま運ぶのですが圧巻でした。「えー、落としたらどうするん?!」 棺桶が空を渡っていく様子が映って、で、それを見上げる村の人や子供やが下に見えて、帽子をとったり、中には手を振る子供もいたりして、なんともいえないというか、心に刻まれるというか、そういうシーンで始まるんです。 それから、天空を日に何度もわたり続けるのがお仕事のはずの二人の娘さんがゴンドラをおもちゃにしてというか遊び場にしてというか、まあ、いろいろやってくれるんですが、そのやることなすことの痛快さとか、毎朝乗ってくる二人の子供のイノセンスな仲良しぶりとか、牛や鶏を運ぶ村の人の生活ぶりとか、欲張りでエラそうな駅長のがんばって意地悪な表情とか、何故か映っている画面の中で搭乗するのはほんの数人なのに一日が終わると小銭がジャラジャラ出てくる料金鞄とか、みんないいですね。 先日、中国のド田舎の山の上の湖をワクワクして待ってすかされたんですが、こちらはヨーロッパのド田舎の天空を、実際に車椅子がゴンドラにぶら下がってが渡っていくのです。ボク的には、まあ、こっちに拍手!でしたね(笑)。 まあ、ストーリーがあるにはあるんですが、で、若いお二人の関係とか、とどのつまりの悪役駅長の天罰とか、それぞれ、「そんなんせんでええやん!」 という気もしたのです。だって、明日もノンビリというか、平和にというか、天国暮らし、いや、天空渡りか、続けてほしいじゃないですか。セリフもないんやから、ドラマもいらんで(笑)。 まあ、そういう勝手な気分でしたね。でも、拍手!ですよ、やっぱり(笑)。 監督・製作・脚本 ファイト・ヘルマー製作 ツィアコ・アベサゼ ノシュレ・チュハイゼ撮影 ゴガ・デブダリアニ美術 バチョ・マハラゼ編集 イオルダニス・カライサリディス モリッツ・ガイザー ニコロズ・グルア音楽 マルコム・アリソン ソーレイ・ステファンスドッティルキャストマチルデ・イルマン(イヴァ:新入り)ニニ・ソセリア(ニノ:多分、転職思案中)ズカ・パプアシビリ(駅長)ニアラ・チチナゼ(未亡人)バチャガン・パポビアン(車椅子の男)ルカ・ツェツクラゼ(少年)エレネ・シャバゼ(少女)合唱ダレジャン・ゲペリザ合唱ニノ・パチコリア合唱ペリデ・カランディア2023年・85分・ドイツ・ジョージア合作原題「Gondola」2024・11・03・no142・シネリーブル神戸no277追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.08
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ローレン・ハダウェイ「ノーヴィス」シネリーブル神戸 予告編を見ててめんどくさそうなので、かなり躊躇したんですが、まあ、見てみようか・・・ という程度の気分で見ました。 実は、ちゃんと気付いたのは見終えてからなのですが、チラシで「あの「セッション」のクリエーターが挑んだ狂気の物語」 とか仰々しく謳っていて、クリエーターって監督だったチャゼルのことかな? とか、相変わらずボケたことを考えていたのですが、あの映画の音響係の女性が自分で脚本を書いて、自分で作った作品だったとわかって納得しました。 別に、狂気の姿を描いたりした作品じゃなくて、至極まっとうにアメリカ社会、まあ、日本もそうだという気がしますが、を、正面から批判して、かなりよくできた作品だったと思いました。 見たのはローレン・ハダウェイという、多分、女性の監督の「The Noviceノーヴィス」、訳せば「初心者」だそうです。 エリートの集まっているらしい大学に入って、クソしんどそうなボート部とかに入部して、なんとしてもレギュラーポジションを手に入れたいと、徹底的に自分を追い込んでいく主人公のたどり着いた様子を「狂気」というような言葉で宣伝する感覚がまかり通っている社会こそが、彼女を追いつめているというのがボクの率直な感想ですね。 「成果主義」というのでしょうか、結果を、経済性や社会性における、成功とか失敗とかのためだけに子どもを躾たり、努力を讃えたりすれば、徹底的に素直な子供はこうなりますということで、だからといって、そうなった子どもは、別に病気でも何でもありません。素直なだけです。ただ、たどり着いた地点で表彰状を手に入れられなかった素直な子供は行き場を失うだけですね。 別に、ライバルだったジェイミーちゃんが悪いわけでも、コーチの配慮が足りなかったわけでもないのです。要領が悪いとか噂して、まあ、映画でも口走る子がいましたがサイコとか陰口を聴いて、いなくなったらホッとするわけです。 メンバー表から自分の名前を消したダルちゃんは、チームからも大学からも去るでしょう。で、どこに行けばいいのか、彼女は答を持っていませんよね。 そこが、見ていて、辛くてしようがないところなのですが、どなたか答えられる人はいるのでしょうか? この監督は、そのあたりについて、かなり頭にきているようで、ボクは好感を持ちましたね。こういう、まあ、癇癪持ちの映画監督って好きですね。拍手! ただ、70歳の老人には、見終えた印象が暗いのですね。そのあたりが、何とかならないかとも思うのですが、大統領とかの選び方とか見てても、しようがない感じですね。まあ、次の作品に期待ですね(笑)。監督・脚本・編集 ローレン・ハダウェイ撮影 トッド・マーティン美術 エバ・コズローバ編集 ネイサン・ヌーゲント音楽 アレックス・ウェストンキャストイザベル・ファーマン(アレックス・ダル:新入生)ディロン(ダニ)エイミー・フォーサイス(ジェイミー・ブリル:ライバル)ジョナサン・チェリー(ピート:コーチ)ケイト・ドラモンド(エドワーズ:コーチ)シャーロッテ・ウベン(エリン)ジェニー・ロス(ウィノナ)2021年・97分・G・アメリカ原題「The Novice」2024・11・05・no143・シネリーブル神戸no278追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.07
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「大蔵海岸から明石大橋!」 徘徊日記 2024年10月30日(水)明石あたり秋の空! ですね。 誰もいない秋の大蔵海岸です。明石と朝霧の間くらいの国道2号線沿いにある公園です。夏の間は水遊びをする人たちでにぎわいます。近くに、何とか温泉とかもあります。目の前に明石大橋が一望できます。 淡路島側から舞子まで、スマホで一遍に撮ることが出来ません。やっぱり、大きな橋なのですねえ(笑)。 こちらが、舞子側です。ちょうど飛行機が橋の上を飛んでいましたが、もちろん、それを写す技術はありません。船だって、さっきからたくさん通過しているのですが・・・💦。 これが、大蔵海岸です。さっきから繰り返し公園の放送が禁煙を促しています。受動喫煙防止にご協力ください! とか何とか、「あのぉー、誰もいないんですけど・・・」 愚か者で小心者のシマクマ君はタバコがやめられません。こういう風景を見ながら・・・、なのですが、放送が気になってお茶だけです。 松林の中に、こんな彫刻(?)がありました。片方がこけたまま放置されているのかとかおもいましたが、まあ、あたりまえですが、違いました(笑)。 写真の表示は読めないかも、ですが、「明日」という彫刻だそうです。1995年の震災のモニュメントのようです。30年、あっという間というか、ボクは、相変わらず「明日」とか、「希望」とかいう言葉が好きですが、時間はどんどん経つのですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.06
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「三島大社」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり 昨日、2024年10月19日は三島に泊まりました。ドーミン・インとかいう人気のホテルでした。夜泣きソバのサービスと展望風呂が売りですが、久しぶりの旧友交歓の一夜でバタンキューの宿泊でした。(笑) 朝起きると窓から見える目の前は工事中でした。JRの三島駅の駅前広場が新しくなるようです。 で、東京組のMさんと大阪組のMくん、Nくん、そしてシマクマ君の4人で三島徘徊に出発です。先導は、一緒にどこに行っても、たいていの観光地を知っている、まあ、三島の町も初めてではないらしい、Mくんです。「まずは三島大社に行こう!」 の掛け声、一声、ホテルから歩いて行けるらしい三島大社とやらに向かって出発です。 10分ほど南に向かって歩くと鎮守の森が見えてきました。 由緒正しい神社のようです。東海道を歩いてくると、次は箱根越えという最後の宿場にある神社です。 北東の方角から歩いてきたので、正面ではなくて東側の通用門というか、裏口というかから入りました。植樹は鬱蒼としていて、いい雰囲気ですが、絵馬の祀ってある手前に何かあります。 向うに写っているのは神楽殿ですが、面白そうなのは手前の石です。 千年ほど昔、源頼朝と北条政子が座った石だそうです。ナルホド!というか、ホントかよ?というかですが、源頼朝が源氏再興を祈った由緒正しいお宮で、大山祇命を祀っている伊豆一宮だそうで、そういえばここから南に向かえば伊豆半島ですね。 神楽殿ですね。とりあえず撮った写真はのせようかなということで(笑)。 きんもくせいが天然記念物だそうで、大変な古木なのですが、季節なのに花が咲いていません。そういえば、昨日の富士霊園も、この季節の名物は金木犀だとか、何処かに書いてありましたね。オヤ、神社の一画に鹿がいます。周りは柵で囲まれているようで、入って行くことはできません。 神鹿園だそうです。どこかに縁が書かれているのでしょうが、思い浮かぶのはお酒の名前ですが、あれは白鹿でしたかね。そんなことを考えながらのぞき込んでいると、大阪組のNくんが何かいい始めました。「あんな、この鹿の向こうに、三島暦の館かなんかいうて、暦つくってるとこがあるはずやねん。」「三島暦?」「暦ってカレンダー?」「ああ、昔のな。」 早速スマホかなんかでM君が調べています。「ああ、あっちや。」 というわけで、鹿園の向うの神社の裏口からウロウロ出て行く4人組です。 で、三島暦の館(仔細は「三島暦師の館」の記事でどうぞ)でお勉強した4人組が再び三島大社に戻ってきました。 南の、正面の鳥居です。神社の境内は休日ということもあって、かなりな人出だったのですが、4人組は、だれ一人、本殿に参拝した形跡がないのが、まあ、そういうお友達ですね。かくいうボクも、「何が祀ってあるのだろう?」 の興味はありましたが、行列してお参りしていらっしゃる人たちの列に入る根性はありませんでした(笑)。 神社の前の道が、昔の東海道だそうです。 さて、これからどうしようなのですが、やっぱり、Mくんです。「じゃあ、次は柿田川公園に向かうよ!」 というわけで、三島徘徊は続きます(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.06
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いしいしんじ「いしいしんじの本」(白水社) いしいしんじの文章が好きなのですね。 で、市民図書館とかの新入荷とかの棚で見つけるとかならず借りるんです。横着なので日本の作家の「イ」の棚に行ったりはしないんです。 で、今回も新入荷の棚で見つけたのですが、ほぼ10年前、2013年の一刷の本で、???だったのですが、やっぱり楽しく読みました。 書評とか、まあ、流行の言葉でいえばブックレビューとか、文庫本の解説とか、新聞の文芸欄の記事とかを集めたエッセイ集でした。 いしいしんじのなにがどう好きなのかと問われると返答に困るんですね。好きだから好きだというしかないところが、多分、彼の文章の特徴だと、まあ、ボクは思っているわけで、たとえばこんな本の紹介があって、よしよしなのです。『ペルソナ』鬼海弘雄鬼海弘雄が今日も写真を撮りつづけているというのは、おおげさでなく、人類の希望だと思う。このように人間を見、人間の姿をこの世に残すことが、ひとりの人間にできるというのは、この現代においてほとんど奇跡。『ペルソナ』は、写真集はもうこれ一冊でいいという本。ときどき、本はこれ一冊あれば、という気持ちにもなる。(P201ふたば書店選書リスト2011「おすすめの30冊」) で、そのとなりに斎藤道雄の「悩む力」、もうちょっと先に「海街dairy」だったりします。「海街dairy」吉田秋生よくいわれていることかも知れませんが、小津安二郎の作品を想起させます。けれども、ある意味小津を超えている。日本漫画にしかできないことが、ここでは易々と、あらゆるページ、あらゆるコマのなかで魔法みたいに達成されている。鞄に入れて持ち運べル、ポータブル鎌倉。波音や蝉時雨、谷をわたってくる風音つき。(P204) まあ、書きかたもですが、ラインアップがいいですね。手元に置きたい本ですが、やたら買いの結果の積読の山の再来に陥るのが怖いので、市民図書館です。 とりあえず、目次を載せておきます。一つ一つの文章が短いので、ちょっと、大変な量ですが、後ろに、そこで話題になっている作品名、書名、をつけました。作家の名前も付ければいいのですが・・・、一応クイズということで(笑)。 まあ、ボンヤリ眺めていただければいいかなと。ボクは新しい本と出合うのが嬉しくて、こういう本を読むことが多いですね。目次はじめに ティーンエイジャーのいしいしんじ 「婦人画報」韓国のひとたちへ 「トリツカレ男」本を読んで大きくなる 「漱石・太宰・賢治」みさきのすきま 「エクソフォニー他」浮遊する世界 「パンク侍」アメリカの幸福 「世界のすべての八月」林芙美子の庭 背中のなかの巨大な手 「もうおうちへかえりましょう」問いかける言葉 「自分と自分以外」ケストナーさんへ 軽々と歩くひと 「恋するように旅をして」サイン本の絵柄 旧制高校の必読書 「愛と認識との出発 他」詩の起源 「おわりの雪」舞い降りる物語の断片 「おわりの雪」「わからないもの」のかたち 「ハミザベス」主人公の気持ち 「梶井 他」うみうしのあわい 「ポーの話」ふたりの旅人 「200X年文学の旅」本が置かれる棚 「アメリカの鱒釣り」仕事をしていない人間はひとりもいない 「流刑地にて」他円、矢印、方形 「残光」わからなさの楽しみ 「こどもの一生」本は向うからやって来る 「ジャコメッティ」収縮する距離 「海」ことばをドリブルする 「聖女チェレステ団の悪童」イリノイの夏 「レイ・ブラッドベリ大全集」「もの」にまつわる「ものがたり」 「古いものに恋して」寄席に入ってきいてみる 「圓太郎馬車」巡礼路の光景 「たいようオルガン」「めくり終える式」読書 「天才バカボン」他洞窟ツアー 「たいようオルガン」中原中也の詩を読む、という出来事流れていくに委せる 「ノルゲ」自分でハワイをやる 「金毘羅」他多数文章が「揺れ動く」 「土星の環 イギリス行脚」闇の中の物語 「灯台守の話」書くということ 「大竹伸朗」霧のなかの本 「きりのなかのサーカス」透明な穴に飛び込む 「中島らも」動物ばかり 「白痴」(ドストエフスキー)中国という感覚にのみこまれる 「転生夢現」時間に遅れる子ども 「走れメロス」他ページのむこうの特別な時間 「原っぱと遊園地2」笑える本 「吾輩は猫である」他開かれた小説 「ボディ・アンド・ソウル」とっておきの秘密の沼で 「四人の兵士」ボロボロになった背表紙 「デカルトからベイトソンへ」多次元のスポロガム 「大洪水」広大な宇宙の暗み 「見えない音、聴こえない絵」ふたつの北極 「極北で」大正時代の聖書 ハマチとの子 「夏の水の半魚人」金木町のブルース 「津軽」他厚い本に手が伸びる 「魔の山」他西脇順三郎という水を飲む 「葦」見えないけどそこにある 「冥途」他鬼海村と戌井村 「まずいスープ」「夢」と「ロマン」 「真鶴」他小説を「生きる」時間 「坊っちゃん」他様変わりする風景 「がらくた」本はSP盤のように 「メイスン&ディクソン」他乱反射するいのち 「馬鹿たちの学校」トーマス・マンの菩提樹 「魔の山」おすすめの三十冊 「灯台へ」他目がさめるまでの時間 「火山の下」他寝ているあいだに小説は育つ 「ジュージュー」名指ししたことのない光 「星へ落ちる」たちのぼり、流し去る 「ウォーターランド」大坂で笑い、のたくることば 「あめりかむら」人間を拡げる心地よい違和感 「野生の探偵たち」他まどろみの読書 「失われた時を求めて」ともに歩いていく仲間 「野蛮な読書」妄想の花 「円朝芝居噺 夫婦幽霊」猫の卵 「ふしぎなたまご」たくらみと、自然なふくらみ 「持ち重りする薔薇の花」まわりつづけるノイズ 「一一一一一」戦うボニー 「ぶらんこ乗り」みんなと「ともだち」 「サブ・ローザ」目で読む音楽 「注文の多い料理店」他ブラジルから響く、遠い新しい声 「遠い声」(松井太郎)「はじめて」の作家 「ブラッドベリ」ふくらみの物語 「許されざる者」恋愛の幾何学模様に風が吹いて 「ひらいて」小説を書いているあいだ 長新太の海 塗師のうつわ 「名前のない道」 いや、ホンマに膨大になりました。ここまでお付き合いご苦労様でしたね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.05
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「10月も末の夕顔 その2 」 ベランダだより 2024年10月31日(木) ベランダあたり 2024年、10月30日、水曜日の宵の夕顔です。神無月もあと2日です。2日経てば、11月、霜月ですが、我が家の夕顔は毎晩、一つか二つづ咲き続けています。 咲く限りは、写真に残してやろうというのがシマクマ君の気持ちです。 おんなじような写真ばかりで芸がないので、俳句を探しました。夕顔に女世帯の小家かな 正岡子規 夕顔やかつて手捲きの蓄音機 森澄雄明日のこと口には出さず夕顔に 稲畑汀子 夕顔といえば、正岡子規の句の感じですが、森澄雄のユーモアセンスと、稲畑さんの心の姿の描写がいいですよね。 で、こちらが、10月31日の朝、咲き残っていた花です。普通、朝日が当たると萎れるのですが、気温が20度を切って、少々寒いということもあるのでしょうね、朝になっても咲き続けています。 さて、いつまで咲き続けるのでしょうね。 チッチキ夫人は春の鉢植えの準備がしたいようですが、夕顔と風船カズラ、まだ、お元気で、植木鉢を譲ってくれそうもありませんね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2024.11.04
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アンソニー・チェン「国境ナイトクルージング」シネリーブル神戸 見終えたのは、まだ三日前なのですが、なんだかずっと昔に見て、思い出したような気がする映画を見ました。 最初、スクリーンに写った風景は湖か川なのでしょうね、凍り付いているようで、そこから氷の塊を切り出して、どこかに運んでいるシーンでした。 どこなんだろう? そう思いながら見ていましたが、中国の吉林省、延吉という町の、だから、北朝鮮との国境に流れている川の風景なのでした。 アンソニー・チェン監督の「国境ナイトクルージング」です。 それぞれ、20代かな、という印象の男2人、女1人の3人の若者の出会いと、まあ、よくいえば、新しい出発のお話でした。 広い、中国の最北部の町で、そこに、事情はそれぞれでしたが、3人の若い男女が流れ着いていて、「ナイトクルージング」するのですが、まあ、見ながら、こういう設定のお話ってたしか・・・、 と、ボンヤリ浮かんだのはフーボーという監督の「象は静かに座っている」という映画でしたが、夜中の動物園に忍び込むわ、とどのつまりは熊まで出てきたのには、ちょっと笑いました。 フーボーの映画は満州里でしたから、ロシアとの国境ですが、こちらは延吉で朝鮮との国境です。こちらの国境には、中国名は長白山というらしいですが、朝鮮では白頭山と呼ばれている、まあ、信仰の山があって、高校の世界史では高句麗という名で覚えた地域ですね。朝鮮族の町で、映画の中で白頭山を歌うアリランの歌が歌われて、話の筋と何の関係もなような気もしたのですが、ボクには違和感どころか、妙な感動が湧き上がってしまって、うーん、これって何の映画なん? という気もしました(笑)。 北京や上海に暮らす中国の人たちにとっては最果ての地の一つなのでしょうね。もっとも、見ているボクは、さっきも言いましたが、そこが面白くて、たとえば、白頭山の天池について、「天池に行こう!」 と主人公の一人が口にした時に、「エッ?天池?!」 と、またしてもボクの頭に浮かんできてしまったのですね。 日野啓三という贔屓の作家の晩年の作品に「天池」ってあるんですよね。そも小説の「天池」が、この映画の「天池」だったのかどうか、まあ、小説の内容はまるで忘れていたのですが、それが浮かんできて、「天池って?」 という興奮なのですが、映画の3人は途中で挫折してしまって、引き返しちゃってガッカリなのでしすが、まあ、2700メートルはあろうかという冬の白頭山に、あの格好で登るのはさすがに無理でしょうね。 興味津々だった天池ですが、最後の方で、ちょっとだけ出てきただけで、あんまりピンときませんでしたね。残念! まあ、そうはいいながらですが、出ている3人の役者さんが、それぞれ印象的でよかったですね。 観光ガイドをしていて、やたらタバコを吸うナナを演じていたチョウ・ドンユイ周冬雨さんという女優さんは、中国ではかなりな人気俳優さんらしいですが、確かに気に入っちゃいましたね。拍手! でも、残りの二人の、上海から来たらしいハオフォン役のリウ・ハオラン劉昊然くん、四川から流れてきたシャオ役のチュー・チューシャオ屈楚蕭くん、二人ともよかったですね。こっちも拍手!。 日本の若い俳優さんの演技って、何となくシラケてしまうのですが、同じ東洋系の顔なのに、中国とか韓国の俳優さんの振舞いはシラケないのはなんででしょうね。まあ、一つは日本語をしゃべらないからだと思うのですが、どうも、それだけじゃないですね。 そういえば、監督のアンソニー・チェンさんですが、つい昨日見た「HAPPYEND」のプロデューサーに名を連ねていましたね。若い人たちの、大人との距離感が似ているテイストの青春群像映画だと思いましたが、こっちの方が自然な印象をうけたのは外国の話だからでしょうかね。 ただ、この映画について、よくわからないことが一つあったんですね。話の端々に「指名手配」の犯罪者の存在が暗示されていて、とどのつまりには逮捕されるシーンまであるんです。上海から来たハオフォン君、当人か、彼がらみの何かがあるのかと思いましたが、どうも違うようです。だとしたら、あのエピソードは何なんやったんや? なのですが、やっぱり、最果ての国境の町、という設定と関係があるのでしょうかね。監督・脚本・製作 アンソニー・チェン製作 メン・シェ撮影 ユー・ジンピン編集 ホーピング・チェン スー・ムン・タイ音楽 キン・レオンキャストチョウ・ドンユイ周冬雨(ナナ)リウ・ハオラン劉昊然(ハオフォン)チュー・チューシャオ屈楚蕭(シャオ)2023年・100分・PG12・中国・シンガポール合作原題「燃冬」英題「The Breaking Ice」2024・10・26・no138・・シネリーブル神戸no276追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.04
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岩井圭也「われは熊楠」(文藝春秋社) 岩井圭也という人の「われは熊楠」(文藝春秋社)という、南方熊楠という人物の生涯を描いた伝記小説を読みました。 岩井圭也という人の作品を読むのは初めてですが、直木賞の候補に選ばれた作品のようです。南方熊楠という、明治から昭和にかけて生きた人物の生涯を追った作品でした。南方熊楠って誰?なんて読むの? 若い人たちには、まあ、そういう感じで受け取られる人物であり、名前なんじゃないかと思いますが、実は、かなり有名な方で、伝記を小説化した作品では、ボクが読んだことのある作品だけでも、かなり古いのですが、1980年代の終わりころの作品で、神坂次郎の「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」(新潮文庫)、津本陽の「巨人伝」(文春文庫上・下)という、それぞれかなりな大作(内容は覚えていませんが)がすでにあります。 それから、たとえば、1990年ころですが、当時、ニューアカの旗手の一人だった中沢新一というような人も「森のバロック」(せりか書房・講談社学術文庫)とか、「熊楠の星の時間」(講談社メチエ)とかで繰り返し話題にしていて、多分、ある種の熊楠ブームだったんでしょうね。 ボク自身は興味を持っていて、結構、読んだ人ですが、ああ、そうそう、坪内祐三という方に「慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代」(講談社文芸文庫)という面白い評論?エッセイ?にも名前が出てきますね。 ちょっと話がそれますが坪内祐三のこの本は「明治」という時代に興味をお持ちの方にはおススメですね。司馬遼太郎の「坂の上の雲」(文春文庫・全8巻)が、到達点からの振り返りだとすれば、こっちは、慶応三年というのは、翌年が明治元年ですからね、明治と同い年の人物たちの生きざまを始まりからの視点で追ったという意味で面白いですね。 というわけで、南方熊楠、みなみかたくまぐす、くまくすと読む場合もあるようですが、慶応3年生まれの一人である彼が何者だったのか? というわけですが、慶応3年、1867年5月18日に生を受け、昭和16年、1841年12月29日に亡くなるまでの74年間、坪内風にいうならつむじを曲げ続けて、学問だけを生きた人です。天才とか、奇人とか、孤高の巨人とか、大博物学者とか、まあ、いろいろの呼び名がありますが、ボクには、その正体を一言でいう根性も知識もありません。だって、粘菌とか、曼荼羅とか、大英博物館とか。だいたい、粘菌って、わかります?(笑) でも、やっぱり気になるんですよね。で、まあ、目の前にこういう本があると読んでしまうわけです。 もし、ウキペディアとかで調べてみて興味がわくようなら、この「われは熊楠」を読むと、熊楠の生涯のあれこれが、まあ、年齢に沿ってとても分かりよく描かれていて、ああ、そうか、面白い人だな! と腑に落ちます(笑)。 本書は、それぞれ、第1章「緑樹」から第2章「星花」、第3章「幽谷」、第4章「閑夜」、第5章「風雪」、そして第6章「紫花」と題し、6章立てで、南方熊楠の生涯を追っています。 和歌浦には爽やかな風が吹いていた。 梅雨の名残りを一掃するような快晴であった。片男波の砂浜には漁網が拡げられ、その網で壮年の漁師が煙管を使っている。和歌川河口に浮かぶ妹背山には夕刻の日差しが降りそそぎ、多宝塔を眩く照らしていた。 妹背山から二町ほどの距離に、不老橋という橋が架かっている。紀州徳川家の御成道として、三十数年前に建造されたものであった。弓なりに反った石橋で、勾欄には湯浅の名工の手によって見事な雲が彫られている。 その雲に、南方熊楠はまたがっていた。(P5) これが書きだしです。で、ネタバレみたいですが下が結句です。 人魂となった熊楠は、夏野原を駆けていく。熊楠は世界であり、世界は熊楠だった。沖の方角から、爽やかな海風がふわりと吹いた。 それは、熊楠がこの世に生を受けた日の風であった。(P128) 生まれたときから、魂となって飛び去って行くまで「爽やかな風」に吹かれて生きた男というのが、この作家の南方熊楠です。だからでしょうね、希代の奇人の生涯を気持ちよく読み通すことが出来ます。 まあ、そこがこの作品のよさでもあり、物足りなさでもあるのでしょうが、ボクは、この若い作家が、今時、南方熊楠なんぞに挑んで「こんな人がいた!」 と世にさしだしている姿勢というか、態度に好感を持ちました。なんとなく、一つの時代が終わりつつあることをボクは、実感というか、肌合いというかでは、かなり、リアルに感じています。新しい時代が、新しいはじまりの時代なのか、破滅の時代なのかはともかくとして、とりあえず、南方熊楠なんていう、変人に関心を持つ人がいることに、何となくな期待と希望を感じます。若い人に読んでほしい作品ですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.03
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「10月も末の夕顔。その1」 ベランダだより 2024年10月29日(火)ベランダあたり もう10月も末だというのに夕顔です(笑)。 ここのところ、毎晩、一つか二つづつ咲いています。夕顔のホントの季節は知りません、でも、やっぱり、夏の終わりのけだるい夕暮れ をイメージしますが・・・(笑)。 で、最初の上の写真が10月26日(土)です。 こちらが10月27日(日)。どれも同じに見えるかもしれませんがちがいます(笑)。 で、これが10月28日(月)。2枚あります。下の写真も10月28日の花です。 で、この下の写真が10月29日(火)です。 玄関の花瓶には山茶花です。歌にもありますが、初冬から、冬にかけての花ですよね。そういえば、町を歩いていてたき火がなつかしい季節 を実感し始めています。 40年ほど前の団地では、1年に何度か、たき火をする風景もあったのですが、町でもそうですが、見なくなりましたね。 まあ、火事が起こってはという安全の配慮と洗濯物がすすけるという煙の苦情によるのでしょうかね、焚火はいろんなところで禁止されています。但馬の田舎だってたき火したら叱られるんですからね。 安全と安心が大事なの時代ですが、夕顔が11月になっても咲いてる時代でもあります。 たき火でお芋を焼く楽しさを知らない子供たちが「落ち葉焚き」の歌なんて、歌うはずがないですよね(笑)。寂しい時代になりましたね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.02
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キム・ドクミン「DOG DAYS 君といつまでも」キノシネマ神戸国際 予告編で見かけて、封切りを待っていました。雨の金曜日でしたが出かけて見ました。はい、文句ありません!(笑) 登場人物は皆さんいい人ばかりで、出てくるワンちゃんはみんな芸達者、子役のユン・チェナちゃんも、お話の展開にはいなくてはならないとてもいい役柄で、演技もあどけなくてしっかりしていて、大健闘でしたね。いや、ホント、ほのぼのとさせていただきました(笑)。 ああ、そうそう、見たのはキム・ドクミン監督の「DOG DAYS 君といつまでも」でした。 わが家では「三食ごはん」とか、「ユン食堂」とかいう、韓国のテレビ番組が人気なのですが、映画「ミナリ」で拝見して以来、「ユン食堂」の店主さんとして応援させていただいているユン・ヨジョンさんが、ワンちゃんのワンダくんとの二人(?)暮らしの女性建築家で、筋の通ったインテリとして登場し、三食ごはんとかで、魚の扱いが苦手なおじさんとして笑わせていただいているユ・ヘジンさんが、犬嫌いで、その場しのぎで、見るからにモテない不細工オヤジで、でも、ホントは、人のいい不動産屋を演じていて、まあ、安心して見ていられる作品なのですが、ボクが気に入ったのはアルバイターのジヌ君を演じるタン・ジュンサンくんと動物病院の先生をやっていたキム・ソヒョンさんですね。 まあ、また、すぐに忘れてしまうのでしょうが、それぞれ、たたずまいというか、いい雰囲気の俳優さんだと思いました。拍手!です。 それにしても、これだけホンワカ罪のない話 で2時間楽しませてくれるのですから、やっぱり韓国映画おそるべし!(笑) 何がやねん(笑) ですね。拍手!監督 キム・ドクミンキャストユン・ヨジョン(ミンソ:建築家)タン・ジュンサン(ジヌ:ミンソと犬を探すアルバイト)ユ・ヘジン(ミンサン:不動産屋)キム・ソヒョン(ジニョン:ミンサンに家を借りている動物病院DOG DAYS院長)キム・ユンジン(ジョンア:ソニョンの妻)チョン・ソンファ(ソニョン作曲家)ユン・チェナ(ジユ:ジョンアとソニョンの養女)ダニエル・ヘニー(ダニエル)イ・ヒョヌ(ヒョン:男前のバンドマン)2024年・120分・G・韓国原題「도그데이즈」英題「Dog Days」2024・11・01・no141・キノシネマ神戸国際no16追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.02
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岸田奈美「もうあかんわ日記」(ライツ社) 今日の読書案内は「だいじょうぶ!」 の掛け声が気に入って立て続けに読んでいる岸田奈美さんのエッセイですが、なんと、こんどは「もうあかんわ日記」(ライツ社)です。 彼女が中学生だったころお父さんが亡くなって、心臓病で大手術の結果、下半身不随、車椅子生活を余儀なくされているおかあさんと、身の回りのことはなんとかできるけれど、やっぱりダウン症ということで、あれこれ心配な弟との三人の生活を、「だいじょうぶ!」の掛け声のもと、なかなかユニークなエッセイを、多分、ネット上で発表されて、それが書籍化された本なのでしょうね、それぞれ、同じような装丁で小学館から出ている「国道沿いでだいじょうぶ100回」、「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」と、発表順は逆ですが、読み続けている岸田奈美さんの三冊目は、「もうあかんわ」 でした(笑)。 ネット世代の新しい作家として大忙しの岸田さん自身の生活と、作業所やグループホームでの暮らしで、日々変貌を遂げる弟良太くん、車椅子生活者として、積極的に社会的活動を始めたお母さんのことを語る岸田節が面白くて、すっかりはまっていたのですが、「もうあかんわ」でした。 危機の始まりは、お母さんを襲い始めた日々の発熱で、まあ、お読みになればすぐにわかりますが、かつて手術なさった心臓の部品の老朽化のために、再度の命がけの手術が必要だという大事件の勃発でした。 多忙な東京生活から、神戸への帰省を余儀なくされた岸田さんですが、新たな関門は、コロナの騒ぎのなかでのお母さんの病状確認、通院、入院の経緯もさることながら、おバーちゃんでした。お母さんのおかあさんということで同居が始まっていたおバーちゃんは老化によるタイムスリップが常態化していたのでした。 母の大病の心配、入院までのあれこれ、手術の経過、言葉によるコミュニケーションが、今一つ成り立たない弟と祖母との生活、その上、ベランダの鳩(笑)まで、そりゃあ、「だいじょうぶ」とも言っていられませんよね。 本書はお母さんの発病から、退院まで、ほぼ二月間の日記的エッセイです。前半の数日は、ちょっと可哀そうで見てられませんという気分でしたが、手術が成功して、帰宅という頃になると、やっぱり「だいじょうぶ!」という感じで、ハラハラドキドキしますが読ませます。いやー、聖火リレー、大丈夫でよかったね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.01
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想田和宏「五香宮の猫」元町映画館 想田和宏の最新作「五香宮の猫」です。見ました。はい、何もいうことはありません。ただ一言、満足! でいいです。 でも、なんか、感想を言いたい気分でもあります(笑)。 小説とかエッセイとか、文章には「文体」という言い方がありますが、映画とかではなんといえばいいのでしようね。 想田和宏の場合、映像を撮るのも編集するのも、彼一人による作業だからでしょうか、たとえばこの映画だと、最初の桜のシーンから、最後の桜のシーンまで、カメラが想田和宏という人の「眼」なのですね。 スクリーンではサビキで鰺釣りをしているおじさんから一匹もらった母猫が、それをくわえて走ります。すると、向こうから子猫がやってきて、その母猫から鰺をもらいます。その向うに、もう一匹の子猫がいて、それを見ています。 で、見ている子猫をカメラは見ています。 しばらくして、別の日でしょうね、今度は、多分、同じ母猫がオジサンが釣り上げて、針から外す前に鰺に跳びついて、また、駆けていきます。すると、さっきのシーンで、遠くにいた子猫がその鰺をもらって、さっきのシーンの子猫が、それにじゃれつきます。それをずっと見ている「眼」があることに、共感というか、「うん、うん」 というか、スクリーンに映るシーンから目が離せません。 10数人の小学1年生が、先生に連れられて、新学期でしょうね、町の見学をしています。カメラとマイクに気づいて話しかけてきます。カメラが返事をします。「好きなものなに?」「カレー」「あっ、おんなじや。」「なにしとん?」「それ、マイク?」 で、何やかや声をかけ合いながら横断歩道です。「右向いて、左向いて、右向いて、大丈夫!さあ、渡ろう。」 先生が叫ぶように声をかけて、子どもたちが、ワヤワヤと横断歩道を渡るのを撮り続けています。いいなあ・・・! 徘徊老人ではこうはいきません。いつも見ているだけです。 神社の石段を登って行くオジーさん、小さな祠にお参りするオバーさん、スマホを持って猫に餌をやりながら写真を撮っている若いおねーさん、去勢・避妊する猫を捕まえている女性たち、嵐の中で玄関にやってきた猫、寄り合いで相談する町の人たち、捨てられた子猫。 カメラは、町で起こる小さな出来事を見続けていて、その眼差しの柔らかさ?!が見ている徘徊老人の胸に沁みていきます。町を歩きながら、こんなふうに見ることが出来たらいいなあ。 玄関にやってきた中学生の少女が夏の宿題のインタビューだそうで、カメラの眼に向かって問いかけます。「映画監督になるには、資格とか免許とかいるんですか。」「なんにもいりません。」 ね、いい会話でしょ。 瀬戸内の港町牛窓の五香宮という鎮守の小さなお社や、その町内で暮らす猫くんたち。母猫がいて、子猫もいます。ネコ騒動に奮闘するおばさんやオジサン。掃除をしたり花の世話をしたりするオジーさんやハヤクチ言葉の集まりではしゃぐオバーちゃんたち。小学生や釣りをするオジサン。破れた御簾を何とかしたい宮司さん。 海があって、港があって、前島があって、向こうに、いつかの牡蠣工場がある町に夫婦で暮らして、なんの資格も免許も持たず、世間噺をしながら映画を撮り続けている人がいる! まあ、それだけのことですが、それだけのことが神戸の郊外で古い団地に暮らしている徘徊老人を涙がこぼれてしまうほど励ますのですね。拍手!監督・製作・撮影・編集 想田和弘製作 柏木規与子2024年・119分・G・日本配給 東風2024・10・27・no139・元町映画館no263追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.31
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小松莊一良「恋するピアニスト フジコ・ヘミング」キノシネマ神戸国際2024年10月28日月曜日です。フジコ・ヘミングか、久しぶりに、ノンビリ、ピアノが聴けるかな? とか、まあ、柄でもないことを思いついてやってきました。迂闊にも、時々ユーチューブとかで聴いていたフジコ・ヘミングというピアニストが、今年2024年4月に亡くなったということにも気づいていないのですから、いい加減なものです。 映画が始まってシューベルトのピアノ曲が流れ始めて、涙が出てきました。で、ショパン、リスト、ラベル、ドビュッシー、どの曲も、どの曲も、子どものころ姉が弾いていたり、ピーチ姫やチッチキ夫人が弾いていた姿が浮かんできて、目の前のスクリーンの、ごっついおばさんの後ろ姿や、ごっつい手が鍵盤を撫でまわしながら魔法のような音を響かせるに目を瞠り、耳を澄ませながらも、何のとこはない思い出にひたらせていただいた2時間でした。 ユーチューブとかで見ていた、大きいけれど、ふっくらしていた彼女の手じゃなくて、いや、彼女の手なのですが、明らかに、92歳の方の手なのですね。そこが、やっぱり、この映画の凄さだと思いましたけど。足がしびれてとかおっしゃりながらも、ピアノは毎日練習なさるそうです。そこも、スゴイですよね。 ああ、見たのは小松莊一良のドキュメンタリィー「恋するピアニスト フジコ・ヘミング」でした。 映画が暗転する直前になって、ショパンの黒鍵のエチュードを聴きながら、ようやく、今年、2024年の4月にフジコ・ヘミングが亡くなって作られた追悼映画であることに気付いたのですが、90歳を越えているおばあさんのごっつい手ですが、その手に背中をさすっていただいているような音色 の「ラ・カンパネラ」といい、「月の光」といい、普段、ピアノなんて聴くことのなくなった70歳の老人が聞こえて来るなつかしい音の群れに、ボンヤリと思い出にひたるというか、先に逝った人の生きざまに励まされるというか、まあ、いらんことをクヨクヨ考える必要のない、いってしまえば至福の時間 だったことが腑に落ちた気がしましたね。「フジコさん、いいけど、音はずれるよ(笑)。」 出がけに、チッチキ夫人が笑って言っていましたが、ボクの耳には関係ありませんでしたね。拍手!でした。 帰り道、午後6時を過ぎて暗くなったモトコーの路地を歩きながら、「ピーチ姫は見たんかなあ?」 愉快な仲間のピーチ姫が好きだったはずのビュッシーの「月の光」を思い出して、そんなことが浮かんで来たり、1曲、1曲が、始まりから終わりまで聴こえていたのがこの映画のいいところで、こころが途切れないんですよね。 まあ、それにしても、ここでも、一つの時代が終わった・・・ という感慨が沸いてしまうのはしようがないのでしょうね。もう一度、フジコ・ヘミングさんの人生と演奏と、ごっつい手と後ろ姿に拍手!です。監督・構成・編集 小松莊一良撮影監督 藤本誠司録音・整音 井筒康仁音楽 フジコ・ヘミングキャストフジコ・ヘミング2024年・119分・G・日本2024・10・28・no140・キノシネマ神戸国際no15追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.30
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「宵の夕顔」 ベランダだより 2024年10月5日(土) ベランダあたり こちらは、夕方、所謂、宵の口に、気づいて撮った写真です。名づけて「宵の夕顔」。 で、写真を貼っただけで投稿するのを忘れていました。もう3週間も前のことですが、備忘録も兼ねているので投稿しますね(笑)。 2024年の10月は、夕顔が、やたらと気にかかるベランダでした。チッチキ夫人は、そろそろ、春に向けて、次の種を用意したようなのですが、いったいいつまで咲き続けるのでしょうね(笑) まあ、しかし、咲いてくれる花に文句はありません。これを書いているのは10月29日ですが、今日も二つ咲いていました。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.29
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空音央「HAPPYEND」シネリーブル神戸 「スーパー・ハッピィ―・フォーエバー」という若い監督の日本映画を見て、「こりゃ、結構イイネ!」だったので、勢いに乗って、で、題名にもつられて、こっちも見ました(笑)。 空音央監督の「HAPPYEND」です。チラシによればありえるかもしれない未来を舞台に描く青春映画の新たなる金字塔 なんだそうです。金字塔とか、みんな待ってるんですね(笑)。 確かに、カメラによる監視システムというのが近未来を感じさせるのかもしれませんが、未来というよりも、ボクが30数年暮らしてきた「学校」の、まあ、思い出すのも鬱陶しい管理体制の戯画という感じで、なんだかめんどくさかったのですが、教室での外国籍生徒の多さ、保護者の妙な低姿勢と教育制度に対する依存、そして、まあ、佐野史郎君が、なんというか、おためごかしを振り回しながらも、論旨としては終わっている校長を頑張って演じていましたが、教育という理念を忘れ去って、官僚的ご都合主義の権化と化している教員の姿、ああ、それからやたら永住証明書の提示を求める警官もですが、そういう登場人物の描き方の中に「未来」というよりも、有ったか無かったか議論のいるところかもしれませんが、所謂「戦後民主主義」の崩壊していく現在がクローズアップされている印象でした。「これって金字塔じゃなくて、墓碑なんじゃないの?」 まあ、そう思わせてくれたマンガ的展開と結末は、ナルホド、映画の製作者たちの八方ふさがり的現在の状況に対する焦りのようなものを感じさせてくれて、そこに浮き上がってくるリアリティはなかなかでした(笑)。この映画に漂うそのあたりの感覚は悪くないですね。 でもね、ボクが面白かったことは、そことはちょっと違うことで、二つありました。一つは、「クソくらえ節」が繰り返し歌われていたことですね。岡林信康、名前をいっても若い人は「???」でしょうが、「友よ」という歌が音楽の教科書に載ったこともある(?)、60年代の(まだ、生きていらっしゃると思いますが)フォークソング歌手です。で、「クソくらえ節」というのは、たとえばボクのような年代が、50年ほど前に口ずさんだプロテストソングで、今でも歌えますが、こんな歌詞です。ある日学校の先生が生徒の前で説教したテストで百点とらへんとりっぱな人にはなれまへんくそくらえったら死んじまえくそくらえったら死んじまえこの世で一番えらいのは電子計算機♪ 映画では、この1番しか歌われませんが、2番、3番の方が面白いかもしれませんね。こんな歌詞です。ある日会社の社長はん社員の前で訓示した君達ワタスを離れてはマンズ生きてはゆけない身の上サくそくらえったら死んじまえくそくらえったら死んじまえ金で買われた奴隷だけれど心は俺のもの♪ある日政府のおエラ方新聞記者に発表した正義と自由を守るため戦争をしなくちゃならないのウソこくなこの野郎こきゃがったなこの野郎おまはん等がもうけるためにワテラを殺すのけ……♪ なんか、妙にリアルだと思いませんか?50年以上昔に流行った歌ですよ。たぶん、どうしてこの歌を、今、わざわざ、劇中で歌わせるのかが問題! というわけですが、何となくわかりますね。岡林君が夢みた「夜明け」がこないまま、AIとかが「賢い」の代名詞化する、まあ、いってしまえば電子計算機が一番偉い 社会になっているのですからね。 若い人たちはAIをくそくらえなんて思っているとはとても思えないこんな社会になるとは岡林君も驚いていらっしゃるでしょうね。だって、今や、とても「くそくらえ」では済みそうにないですもんね(笑)。 もっとも、ボクの驚きは、まだ、30代の空監督が、どこでこの歌を知ったのだろうという方でしたが(笑)。 もう一つの面白さは、映画を見ていて、「えっ?これ、科技高ちゃうの?」ではじまりました。映画を見終えた後で馴染みのスタッフからいただいたのがこの地図です。 ロケ地が神戸だったんですね。それも、ほとんどの場所が日ごろの徘徊エリアじゃないですか。学校が市立の高校だと思ったのは間違いじゃなかったのですが、そのときは疑心暗鬼でしたが、「ここはどこ? つぎはどこや?」 見ながら、ワクワク、とどのつまりには改装中のポートタワーまで登場して、「見てみ、どこが東京やねん!学校も町も神戸やんけ!」 誰に向かって、何をいきっているのか意味不明ですが、映画館のスタッフさんによれば、ロケ地の人々やエキストラで出演した人たちで先週は盛況だったそうで、メデタイことですね(笑)。拍手!監督・脚本 空音央撮影 ビル・キルスタイン編集 アルバート・トーレン音楽 リア・オユヤン・ルスリキャスト栗原颯人(ユウタ)コウ日高由起刀(コウ)林裕太(アタちゃん)シナ・ペン(ミン)ARAZI(トム)祷キララ(フミ)中島歩(岡田先生)矢作マサル(平)PUSHIM(福子)渡辺真起子(陽子)佐野史郎(長井校長)2024年・113分・PG12・日本・アメリカ合作2024・10・23・no136・シネリーブル神戸no275追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.29
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「酔芙蓉、酔った時(笑)。」 ベランダだより 2024年10月26日(土)団地あたり 住んでいる棟の前の自転車や原付を置いているあたりの植え込みで、酔芙蓉の花が咲き続けています。最初に白い花で咲いて、徐々に色を変えていって、萎む寸前になって、なんともいえないピンク色に色づきます。 今日は、ちょうどピンク色に色づいた花に出くわしたので写真が撮れました。 お茶席の花とか聞いたことがありますが、俳句とかにも詠まれていますね。さかづきのめぐりそめけり酔芙蓉 水原秋櫻子一輪のはや大酔や酔芙蓉 水原秋櫻子にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.28
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閆非・彭大魔「抓娃娃(じゅあわわ) ―後継者養成計画」シネリーブル神戸 中国で流行ったエンタメ映画、まあ、そういう興味に惹かれて見ました。後継者養成計画という、解説的副題がついてはいますが、「抓娃娃」という中国語の題名のままの邦題ですから、本来ならポカーンとなるところですが、見終えてよくわかりました。ナルホド、ウケるはずだ! 帰ってきて、一応、調べて見ると、「抓」の中国音(ピンイン)はzhuā、意味は摘むから鍛えるまであって、「娃娃」の読みがwá・waで、意味は赤ちゃんのようです。だから「抓娃娃」の読みは「じゅあわわ」で意味は「赤ちゃんを鍛える」でした。 明治時代の終わりか、昭和の始めころを背景にした日本映画でもありそうな話です。「金持ちの後継ぎとして、右も左もわからない子供のときから鍛える。」 なんか、森鴎外とかが浮かんできそうですが、違うのは、森家とかの「家」の保全ではなくて、貧乏人から成りあがった父親が苦労してようやく築いた、一代限りの「財産」の保全のために、子どもの時からだんだん金持ちになっていった暮らしを知っている兄はスポイルして、金持ちになってから生まれてきて、まだ、なんにも知らない幼児だった弟を貧乏人の子として、刻苦勉励の暮らしで躾ようという、まあ、金持ちにしかできない完全コントロール、見るも侘しいボロ家に始まって、生活すべてについて、少年の前では、親族、両親、偽の祖母まであつらえて、みなさんで雁首揃えて偽りの貧乏人を演じながら子育てをするという育児映画(笑)でした。貧乏から努力で這い上がる人格の形成!(笑) まあ、そういう舞台をあつらえるということで、そこが、このコメディの肝というわけです。 こう書くと、なんだか、チョー、アホらしい話なのですが、まあ、実際にチョー、アホらしい話なわけですが、これがなかなか笑えた上に、とどのつまりは「凧じゃなくて風になりたい」 という主題歌に乗って、両親のもとを去る主人公の少年の姿見ていてを、なんだかとても胸打たれてしまいました(笑)。 要するに、中国政府が続けてきた「一人っ子政策」が煽ったにちがいない、たぶん、歪んだ教育熱、80年代以降の資本主義化で生まれた富豪層に対する揶揄が笑いの背景にはあるのでしょうが、まあ、それはそれとして、子どもを育てた経験のある方なら思い当たるに違いない、自由に大きくしたい、でも、どこか、凧のように糸をつけておきたい。 という感じの、多分、結構ありがちな親の気分のご都合主義を笑い飛ばしているところが爽快なのでした。拍手! 監督 イェン・フェイ(閆非) ポン・ダーモー(彭大魔)キャストシェン・トン瀋騰(マー・チェンガン馬成鋼:父) マー・リー馬麗(チュン・ラン春蘭:母)シー・ポンユアン(史彭元)サリナー(萨日娜)シャオ・ボーチェン(肖帛辰)2024年・133分・G・中国原題「抓娃娃」「Successor」2024・10・25・no137・シネリーブル神戸no276追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.28
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「高倉台の夕焼け!」 徘徊日記 2024年10月24日(木)須磨あたり あのー、今日はお仕事で須磨の高倉台に出かけました。だから、まあ、徘徊というわけではないのですが、で、お仕事が終わって、いつものことなのですがお仕事場から出たところの道端の石垣に腰かけて一服します。 見上げると、この空でした。スゴイ! ですね(笑)。 先週は、ここで、一服して、鞄を忘れました。家に帰ると、「ナップサックはどうしたの?」「えっ????」 道中は愛車のスーパーカブ号ですが、そういえば身が軽かったのです。そうだ、あそこだ! というわけで、現場まで30分引き返しました。で、忘れ物は道端にちゃんとあって、無事回収しました(笑)。 今日は出がけに「カバン、忘れちゃだめよ!」 と声をかけられていたので、この空にポカンと見とれましたが無事帰ってきました(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.27
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岸田奈美「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」(小学館) お勤め先の学校の図書館の貸出禁止処置から解放されて、久しぶりに借りた本が岸田奈美という方の「国道沿いで、だいじょうぶ100回」(小学館)というエッセイ集で、感想をブログに書き終えて、返す時に予約したのが、同じ岸田奈美という著者で「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」(小学館)でした。 まあ、貸出だけじゃなくて、予約とかもできるのかどうか試し予約の意味もありましたが、1冊目が、そこそこ面白くて、すぐ読めたから、とりあえず、ある本はみんな借りてみようかと、同じ著者で、その図書館にある本、全部予約しました。まあ、そういう本の読み方をするタイプなのですが、1週間後に全部借り出せて、とりあえず、デビュー作らしいこの本を読み終えました。 気がつけば、作家になっていた。 いや、本当に作家なのかしら。代表作といえるものはないし、小説や詩を書いたこともない。下手の横好きが肥大化して、下手の縦横無尽好きのようになっただけだ。身のまわりに起こった愛しいことを言葉にして、花咲じいさんのように四方八方まき散らしたら、たくさんの人に読んでもらえた。ただそれだけだ。 中略 わたしは、父が大好きだった。 それなのに、反抗期だった中学2年生のわたしはいってしまった。ささいないい争いがきっかけで。「パパなんか死んでしまえ」って。目も合わさなかった。 その夜、父は急性心筋梗塞で病院に運ばれた。2週間、父は目を開けないまま、息を引きとった。 いちばん大好きな父との、最期の会話が、いちばん伝えたくなかった言葉になった。わたしはずっと後悔していた。どれだけ泣いても謝っても、父はもなにもいわない。 「パパはね、救急車に乗るとき、何回もいってた。『奈美ちゃんは大丈夫や』『奈美ちゃんはオレに似とる』『だから絶対に大丈夫や』って。たぶん、もう自分が助からんってわかってたんやろうね」 母はいった。わたしは、父が残した大丈夫の意味を、ずっと探し続けている。(P5~P7) 本書のまえがきの一節ですが、読んでいて笑いました。先に読んだ「国道沿いで、だいじょうぶ100回」(小学館)で大丈夫を叫んだのは、弟の良太くんを、危機一髪で助けたお母さんでしたが、このデビュー作で大丈夫を繰り返したのは、奈美さんが中学生の時に亡くなったお父さんでした。 で、奈美さんは「死んでしまえ」といったら死んでしまったお父さんが残した大丈夫という言葉の意味を探し続けて、日々、書きつづける「作家」になったというわけでした。 なるほど、どの文章も、だいじょうぶ? だいじょうぶ! という、問いと答えの世界が描かれていて、彼女を愛し、彼女が愛している家族の姿 が活写されていてどんどん読めてしまいます。読んでいる、こちらも、いつの間にか「ええー?だいじょうぶ?」「よかったね、だいじょうぶやったやん(笑)」 まあ、そんな言葉をつぶやきながら、次々ページを繰り続けて、ふと、時計を見ると、あれ、まあ、もう、午前3時やん! の読了でした。70歳の老人読書、目もかすむのに、ちょっと、大丈夫ちゃいますね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.26
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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「二つの季節しかない村」シネリーブル神戸 40年近く学校というところで働いてきたからでしょうか、学校が舞台で、なおかつ、教員と生徒、教員と教員のやりとりとかでドラマが構成される映画は苦手です。生徒さんはともかく、同僚とか、上司とか、もう、思い出すのもイヤかもしれません(笑)。 まあ、そうはいいながらもそうはいってもトルコとかやし! とか思って見に来たのがヌリ・ビルゲ・ジェイランという監督の「二つの季節しかない村」でした。 一面、雪の広野の真ん中にバスが止まって、一人の乗客が下りて、どっちかわからない方に向かってあるきはじめます トルコの東部、アナトリアという地方にあるインジェス村という田舎の村の学校が舞台だそうですが、世界地図を思い浮かべても何も浮かんできません。薄暗く、白い映像に、人の踏み跡でつけられた道は、ボクにとっては、この映画で一番印象的! といってもいいシーンでした。 ボクは兵庫県の北部の山間部の育ちですが、こういう薄暗い雪道は記憶にありますね。ただ、ボクの記憶では、すぐそこに山があって、深く積もった雪にかぶさるように山そのものの暗さが迫って来るのですが、映画のシーンには途方もない遠さ、広さのイメージが広がっていて、これがトルコか!?でしたね。 198分の映画の始まりです。 雪の中を歩いていたのがサメットくんでした。年齢は40歳を越えているとしか思えません。村の学校、日本でいえば小学生から中学生に当たる年齢の子供たちが通う学校の美術の教員で、担任をしていました。「尊大で狭量」とチラシに書かれている男ですが、この男の姿を映し続ける映画を見終えていえることは、「なんだか、疲れました。」 ですね。 何故、疲れたのか。いろいろ書くのはめんどうなのでいってしまいますが、まず、サメットくんがその年頃のわたし自身だった! と感じたからじゃないでしょうかね。 もちろん、女生徒にこっそりコンパクトを贈ったり、リベラルな女性教師を口説いたり、教室で気分任せの権力を振り回したりした経験があるわけではありません。しかし、彼が「教育」という現場にいながら、現場にいるからこそ、リアルに認識しているはずの社会に充満している「虚偽」について、正面から向きあうことをどんどん迂回していきながら、自己正当化の穴倉の中の開き直りに至り着き、自己弁護の末に「イスタンブールに転勤したい」 という、現実逃避の姿は、ある時期の「私自身」を思い浮かべましたね。 もちろん、現場で、そんなことを口にしたことはありませんし、誰かとそういう論点で言い争ったこともありません。だまって、40年勤めました。この映画の感想で、こんな事を書くのは、家に帰って、いろんなレビューを見ていると、サメット君が、この映画を見た世間の人たちからボロクソに言われているのを見たからということもあります。 確かに、ヌライさんのような生き方もあります。しかし、世の中の多くの方はサメット君を小馬鹿にすることが出来る生き方をなさっているのでしょうか? ヌリ・ビルゲ・ジェイランという監督は、どうもただものではありませんね。この映画を見ながら「サメットはあなただ!」 というメッセージを感じたりするのは、ボクだけかもしれませんが、映画の、終わりになって、降りしきる雪の中の女生徒セヴィムちゃんのクローズアップ、そうです、上のチラシの写真のシーンが映し出されてきたときに、ギョッとしました。 旧弊な、田舎社会のなかで、似非インテリの教員が、いわば、その旧弊さに無批判にのっかって、ノホホンと胡坐をかきながら自己弁護に気を取られ、ただの気まぐれで、その実、横暴な教員として、我が儘な権力を振り回している教室でセヴィムちゃん達は大きくなるわけです。彼女たちに未来はあるのでしょうか。 降りしきる雪の中の彼女の姿が、見ているボクに訴えかけるものは希望ではなくて絶望だったところが、この監督の凄さだと、ボクは思いました。拍手! 映画はトルコの果ての村の話でしたが、30数年の教員暮らしで見てきた世界そのものなのですから、そりゃあ、疲れますよね(笑)。他人ごとだとサイラス君の悪口なんかいってられませんからね(笑)。 監督・製作・脚本・編集ヌリ・ビルゲ・ジェイラン脚本 エブル・ジェイラン アキン・アクス撮影 ジェバヒル・シャヒン キュルシャット・ウレシン編集 オウズ・アタバシュ 音楽 ジュゼッペ・ベルディキャストデニズ・ジェリオウル(サメット:美術の教員)メルベ・ディズダル(ヌライ:町の学校の英語の教員)ムサブ・エキチ(ケナン:同僚)エジェ・バージ(セヴィム:女生徒)エルデム・シェンオジャク(トルガ:同僚)ユクセル・アクス(ヴァヒト:獣医)ミュニル ジャン・ジンドルク(フェイヤズ:飲み屋のおやじ)オヌル・ベルク・アルスランオウル(ベキル校長)ユルドゥルム・ギュジュク(教育部長)ジェンギズ・ボズクルト(ナイル)S・エムラ・オズデミル(軍曹)エリフ・ウルセ(サイメ副校長)エリト・アンダチャム(フィルデヴス)ナラン・クルチム(ケヴセル)フェルハト・アクグン(アタカン:カウンセラー)エイレム・ジャンポラト(ハリメ)2023年・198分・G・トルコ・フランス・ドイツ合作原題「Kuru Otlar Ustune」英題「About Dry Grasses」2024・10・14・no134・シネリーブル神戸no274追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.25
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「富士山の裾野って、やっぱり、すごいわ!」 徘徊日記 2024年10月19日(土)富士霊園あたり 新大阪を出発して、三島駅到着。「ヒカリ」号でしたが、やっぱり早いですね。「あっ」というまでした。(ウソですけど) 三島駅からはレンタカーです。東京からやってこられた数名と合流して、レンタカー2台、いざ!富士霊園へ! 東名高速だか、新東名だか、全くわかっていませんが車窓からは富士! です。 目的地到着です。富士霊園管理事務所前の駐車場です。ここからも富士山が見えます。この方向のちょうど反対、南東が箱根、箱根の手前が足柄山ではなくて金時山、金時山の南が南足柄市という町らしいですね。ここは駿東郡小山町という地名らしいですが、金太郎さんの町でもあるようですね。 富士山が見えるこの場所は、ちょうど、広大な墓苑の真ん中あたりのようです。で、お墓のお守りは金太郎さんのお仕事のようです。ここから北側の斜面を登って行くと日本文芸家協会のお墓がありました。 こんな感じです。墓碑の手前にお骨を収める溝があります。到着すると、すでに蓋が開けてあって納骨の準備が整っていました。 ここが、恩師、野口武彦さんの墓所です。 東京から関西にやってこられて、芦屋の地で60年暮らされた先生でしたが、生前、ご夫婦で選ばれていた終の栖は富士の裾野の丘の上です。 で、墓碑に刻まれている代表作は2015年に講談社から出された「花の忠臣蔵」です。 先生の墓碑の裏側には奥様の墓碑があります。亡くなられて5年の歳月が過ぎました。「シマクマさん、モモちゃんは元気?」 お出会いする、その度に、ほんのりした笑顔でわが家の愉快な仲間たちのことを気遣っていただいたことが昨日のことのようです。 文学碑公苑と名づけられているこの丘の上からは西に延々と広がっている富士の裾野が一望できます。広大な敷地に広がっている他の墓所が見えないように作られているのでしょうか、ここから見えるのは富士の裾野だけです。 お若いころには紅灯の巷を得意とされた方ですが、奥様とお二人とはいえ、えらいところを選ばれたものですね(笑)。「こんな所でポツーンと、センセ、サミシないんか!?」 まあ、死ねば死にっきりとは思うのですが、お骨が納められて、振り返ると、この風景です。フト、そんな気持ちに・・・・。 というわけで、恩師ご夫妻の納骨、無事終了しました。芦屋のお住まいも9月30日に処分が終了しています。せっかくなので、もう一枚、途中に見えた富士山を載せておきます。 これが「花の忠臣蔵」(講談社)です。 ああ、それから、これが霊園のパンフレットです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.24
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フランソワ=クリストフ・マルザール「ロール・ザ・ドラム!」元町映画館 予告編を見て「いいかも?」という気がしてやって来ました。2024年10月22日、火曜日の元町映画館でした。 ウーン、1970年代という時代背景も、スイスの山岳地帯というか、ワインの産地の農村で、イタリアからの出稼ぎ地帯とかで、お話を引っ張るネタが音楽ですからね、なかなか興味をそそられて、好みのパターンだったんですが、どこか突っ込み不足! の印象でしたね。 音楽好きの村の生活、婦人参政権で揺れるカトリック的男権社会、村を捨てて出て行く若者と残された老人、二世代に渡る親子の葛藤という背景というか、設定というかも面白いし、教会のお賽銭泥棒の娘、男前でトランペットの名手の出稼ぎ青年、その上、愛嬌のあるブルドッグ君という登場人物のキャラも悪くない、にもかかわらず展開の詰めが甘いというか、中途半端で、「で、なにがあったの?」 という肝のところが「わかってくださいネ!」 という観客まかせになっていて、まあ、そういう作り方なのでしょうが、どこか端折られている印象なのですね。 で、人と人の組み合わせを見ているだけで、なんとなく、結末が読めちゃうのが、まあ、コメディというか、人間喜劇というかなので、しょうがないのですが、安易かな(笑) という感じ。いい話なんですけどねえ。 筋のわかっている吉本新喜劇を見ている感じで、ひょとしたら、スイスでは、かなりな俳優さんたちなのかもとも思いましたが、ザンネンでした(笑)。 でも、まあ、このノンビリ感はキライじゃないのですね。先日、トルコの田舎を舞台にした「二つの季節しかない村」という作品を見ましたが、背景の雰囲気が似ていて、見終わった後は真反対の印象だったのが面白かったですね。まあ、そういうわけで、ちょっとだけ拍手!(笑)。監督・脚本 フランソワ=クリストフ・マルザール脚本 ニコラ・フレイ撮影 セブリーヌ・バルド編集 ニコラ・イスレア音楽 ニコラ・ラベウスキャストピエール・ミフスッド(アイロス)パスカル・ドゥモロン(ピエール)ザビーネ・ティモテオ(マリー=テレーズ:アイロスの妻)ジャン=リュック・ビドー(ロベール)ピエール=イザイ・デューク(マルキュス)フランソワ・フローレ(ギュス)アンドレローラン・ブイヨー(ジョルジュ)アメリ・ペテルリ(コリネット)ジュゼッペ・オリッキオ(カルロ)ベルナー・ビールマイアー(アンリ)2019年・90分・スイス原題「Tambour battant」2024・10・22・no135・元町映画館no262追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.23
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徘徊日記 2024年10月19日(土)「この車輪、新幹線?」新大阪あたり 今日は、2024年の10月19日、土曜日です。朝からJRに乗って、新大阪駅に来ています。お友達数人と一緒に、新幹線で出かけるのですが、出発地が新神戸ではなくて新大阪なんですね。 で、約束の時刻に40分ほど早く着いたので、30数年ぶりの新大阪駅徘徊です。 最初は駅の構内をうろつくつもりだったのですが、あまりの人の多さにビビって御堂筋線の乗り換え口あたりから外に出ました。 さすが、江坂です。道端でタバコ吸っている人どころか、タバコをくわえてチャリンコに乗っているオッちゃんとか、いい雰囲気です。 在来線と新幹線の間あたりには、ナント、踏切りがありました。吹田の操車場あたりに行く線路なのでしょうかね? そこに電車がやって来ました。向うに見えるのが、在来線の新大阪駅のプラット・ホームですが。この電車がどこ行きなのか確認し損ねましたね。 写真を撮っているこの場所は、在来線と新幹線の、昔なら跨線橋と呼ぶべき通路のの地下、高架下です。 ねっ! 向うに在来線のプラットホームがあって、ここの上に新幹線の新大阪駅があるわけです。 というわけで、新幹線の新大阪駅の外側をぐるっと回ってきたら、一番最初に乗せた写真、車輪の置物があって、その前が駅前駐車場。 で、正面口のエスカレーターです。 そろそろ、約束の時間です。エスカレーターを上ると、ちょうどその上で骨壺を二つ抱えたマリちゃんと遭遇です。お読みいただいている方々には「骨壺って、何よ?」 ですが、いつもの、フラフラ徘徊気分が抜けないシマクマ君、今日は、実は、この夏亡くなった、学生時代からの恩師ご夫婦の納骨が目的の旅の始まりです。「M君と、シマクマ君、責任をもって頼むよ!」 まあ、それが恩師の遺言なのですが、頼りにならないシマクマ君はついて行くだけです。もう一人の当事者M君は「当日、忘れたらどうしよう?」 と不穏な発言をして、結局、骨壺は先生の奥様から遺言を託されマリちゃんが二つ抱えて、やって来たというわけです。新大阪駅は、とんでもない人の群れでしたが骨壺を二つ抱えた人は他にいなかったでしょうね(笑)。いやー、マリちゃん、本当にご苦労様でした。 さて今から東に向けて新幹線に乗ります。目的地は静岡県の三島です。で、そこから自動車に乗り換えて、富士の裾野にあるという「富士霊園」という墓地です。 それで行ってきます。もちろん、「納骨」徘徊日記は続きます。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.22
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「朝の夕顔」 ベランダだより 2024年10月21日(月) ベランダあたり 2024年、10月21日の朝は早起きでした(笑)。 で、ベランダに出て見ると昨夜来の夕顔がまだ咲き続けていました。お天気もよくて、朝の光に眩しげ咲いている夕顔でした(笑)。 こちらはベランダの内側で咲いていた花です。 内側に一つ、外側に三つ、合計で四つ咲いていました。 外側の三つ、ちょっと角度を変えて見ました。写真の向うが東で、そちら側から朝日が射しています。明るい朝の夕顔も、なかなかいいものですね(笑) こちらが、昨夜の姿です。朝になって咲いていたのはこちら側では三つでしたが、昨日の夕暮れに、二つはまだ蕾でした。一番下の蕾は、一昨日に咲いて、しぼんだ蕾ですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.21
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養老孟司・池田清彦・奥本大三郎「虫捕る子だけが生きのびる」(小学館新書) 今日は養老孟司・池田清彦・奥本大三郎「虫捕る子だけが生きのびる」(小学館新書)です。 ボクにとっては、まあ、どなたも、イロイロ読ませていただいてきて、気に入っている、当然、耳慣れた方たちですが、その三人が集まって「昆虫採集」のお話をなさっている実況中継本です。 結構、有名人だと思い込んでいたので、試しに20歳の女子大生の方たちに尋ねてみると、その場にいた、数十人の方たちが、この三人のどなたもご存知なかったことに、ポカーンでした(笑)。 お三人の中で、「遺伝子がわかる」(ちくまプリマ―新書)の著者で、早稲田の名誉教授、池田清彦さんが一番お若くて1947年生まれで77歳。 「ファーブル昆虫記」を全部訳し直して「完訳版ファーブル昆虫記」を集英社から全10巻で出して、「ジュニア版ファーブル昆虫記」(集英社文庫・全8巻)も世に問うて、結構、読まれた奥本大三郎さんが1944年で80歳。「バカの壁」(新潮新書)で一世を風靡したのが2003年の養老孟司さんは1937年生まれで、87歳です。20歳の女子大生さんたちには、みなさん、下手をするとひいオジイサンなわけで、知るわけありませんね(笑)。 まあ、それぞれ、山のような著書があって、人気だった方たちですが、20年ほど前の出来事だったのですね。 で、この本ですが、市民図書館の新入荷の棚で見つけて借り出しました。爺さんたちの虫捕り談義 なわけで、ボクなんかの世代には「昆虫採集」の思い出がありますが、今の若い人には、あんまり一般的じゃないわけで、まあ、お好きな方たちでどうぞ! というムードの本なのですが、読んでみると、さにあらずでしたね。 文明論から、地球環境とか、温暖化とかについても、街路樹の植え方とか、ゴキブリの生態とかから、都市計画、農業政策に到るまで、あれこれおもしろい話が続くのですが、たとえば、養老先生は「脳」の専門家ですが、ご専門の世界について、「オッと、これは!」 という話も出てきて、飽きませんね。 で、一つ紹介します。 脳と言葉の関係についてのおしゃべりです、養老 今、なぜ、子どもに虫を捕らせた方がいいのか。その問題を考えるときに、世間の皆さんに、ぜひ気づいてほしいことがあるんです。それは要するに、脳みそは総合なんだということです。言いかえると、脳の機能は回転なんだということ。奥本 なるほど。それで?養老 まず、外界から情報が感覚を通して脳に入ってきますよね。これがインプット。脳の中で計算して、考えて、その結果が肉体の運動として出て行く。これがアウトプットです。たとえば、今、ここにコーヒーカップがある。すると、まず、「目の前にコーヒーが入ったカップがある」という情報が視覚を通して脳にインプットされる。脳で計算して、「しゃべり疲れたから、ちょっと飲んでみるか」と考える。その結果が、手を伸ばしてコーヒーを飲むという運動としてアウトプットされるわけ。池田 入力した情報を脳の中で解釈して、出力するわけだ。養老 そしてコーヒーを飲んでみたら、「もうぬるいや」と感じる。すると脳は「もう一度入れ直そうか」と考える。そういう具合に、インプットとアウトプットが連鎖していくわけですよ。アウトプットが再入力されながら、ぐるぐる回っているんです。奥本 なるほど、回転ですね。養老 感覚→脳→身体→感覚・・・・という具合に、情報をぐるぐる回していくことがとても大事なんです。このことの重要性に気づいたのは、脳研究の世界でも、実は比較的最近のことなんですけどね。池田 再入力あるいは再代入するプロセスとして、脳を捉えるわけですね。養老 そうです。だから、赤ん坊がハイハイすることには、たいへん大事な意味があるわけ。ハイハイした瞬間から、自分の手足を使って世界の中を移動するという、とても知的な作業が始まるんです。これが、脳の発育にとって、とても大きい。脳性麻痺の赤ちゃんの場合、かわいそうだから歩かせないでおくと、言葉が出てこないんです。奥本 一歩動いたら、すべてのものの角度が変わって見えてきますものね。池田 赤ん坊の目に見えているものが変化していく。養老 でも、そういうふうに次々に変化していくものを全部覚え込もうとすれば、脳は壊れちゃうんです。情報量が多すぎる。それでどうするかというと、自分が移動することで違った世界がどんどん現れるけど、その世界は根本的には一つの同じ世界で、違うように見えているだけだというふうに、脳がまとめていくわけですよ。概念にまとめ上げていく。(P61~P62) 脳が感覚→脳→身体→感覚・・・・という具合に、情報をぐるぐる回していくことによって活性化する。 というあたりの話は知っていました。 で、「おっ!」 というのは、まず、「脳性麻痺の赤ちゃんの場合、かわいそうだから歩かせないでおくと、言葉が出てこないんです。」 というところでした。 最近読んだ岸田奈美さんの「国道沿いでだいじょうぶ100回」(小学館)という著書の中に、ダウン症の弟さんが「ことば」を獲得していく経験について書かれているところがあったんですが、ピタリと符合しますね。 まあ、そのあたりはそっちの本を読んでいただくほかありませんが、 新しい生活環境の中で、新しい情報が「脳」をいそがしく働かせ始めるとどうなるか。「変化していくものを全部覚え込もうとすれば、脳は壊れちゃうんです。」 で、概念化! 言葉の登場なのですね。おー!そうか! そうか! でしたね。いや、ホント、面白いと思いませんか?脳を壊さないために、ことば! ですよ。 まあ、そこから、どうして子どもに昆虫採集なのというふうに話は進みますが、そのあたりはご自分でお読みください。「昆虫採集?虫?」 といぶかしむタイプの方には、退屈、あるいは、ええかげんにしてほしい話かもかもしれませんが、なかなか、興味津々でしたよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.20
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「この花、酔芙蓉っていうそうです。」 ベランダだより 2024年10月8日(月)団地あたり ベランダだよりで彼岸花や夕顔を紹介していましたが、9月の末から美しくしい花をつけている花木が、棟の庭にあります。 この花ですが、街中でも見かけますね。名前ご存知ですか? 酔芙蓉というそうです。芙蓉の花の一種らしいですが「醉」 の字が頭に着くのですね。なんでその字がつくのかというと、花開いてしばらくすると、この白い花がピンクから紅色に変わるんです。 この日に撮った写真はみんな白です。素面なのですね。 花の芯が、ほんのり色づいていますが、酔ってくるともっと赤くなります。 こんな感じ。これは、後日の写真ですけどね。 もっとも、この花の写真に熱中していたボク自身はこんな状態です。 はい、このあたりクッツキ虫、が群棲しているんでした。忘れていて、ウロウロしてえらいことでしたよ。(笑) ああ、クッツキ虫って植物ですよ。虫ではありません(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.19
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山下澄人「月の客」(集英社) 山下澄人の「月の客」(集英社)を読みました。2020年に出たときに買って、もう、何度目かです。 最初に読むときに「月の客」やし! とか思って、米くるる友を今宵の月の客 芭蕉此の秋は膝に子のない月見かな 鬼貫岩鼻やここにもひとり月の客 去来 こんな句を思い浮かべました。まあ、それぞれ江戸時代の有名な句ですが、今更でボクがいうまでもありません。どれも、イイ句ですね(笑)。ことばが描いている世界を月の光がほのかに照らしていて、ほんのり明るい、さすがです。 で、山下さんの「月の客」ですが、何度読んでも、まあ、これらの句が関係あるような、ないような、でも、作品世界を月の光が照らしていることは、確かなのですが、だからどうだといわれれば困りますが、まあ、そういう小説です。 ネットでよめる集英社の作品紹介に「小説の自由」を求める山下澄人による、「通読」の呪いを解く書。とあって、まあ、大変なのですが、続けて登場人物と物語の展開につて 父はおらず、口のきけない母に育てられたトシは、5歳で親戚にもらい子にやられた。だがその養親に放置され、実家に戻ってきたのちトシは、10歳で犬と共にほら穴住まいを始める。 そこにやってきたのは、足が少し不自由な同じ歳の少女サナ。サナも、親の元を飛び出した子どもだった―。 親からも社会からも助けの手を差し伸べられず、暴力と死に取り囲まれ、しかし犬にはつねに寄り添われ、未曽有の災害を生き抜いたすえに、老い、やがていのちの外に出た<犬少年>が体験した、生の時間とは。 という、エライ詳しい紹介までついています。なんで、こういう、ネタバレともいえる紹介が? ですが、お読みになればすぐにわかります。読み終えて、この紹介を読みなおして、問題は、それで、わかったのかどうかということなのですが、ああ、そうだったのか !? と、ようやくわかる作品だからです(笑)。 土手へ出て、下りる、草がはえている、草を踏んで下りる、砂利の道を横切り、再び草地、そしてかたい土、これは確かグラウンド、子どもが野球をする、子どもの声が聞こえて来る、聞こえてくるようだ、聞こえてはいない、足跡がいくつも、小さい足跡、いぬがにいをかいでいる、空は晴れて相変わらず大きな月が出ていて 月はな十五夜かけて満月になんねん その反対は真っ暗、新月、真っ暗 かぐや姫も、手ぇ伸ばして、見えへん見えへん、言うて み、み、水―、や、 ヘレンケラーやん 知らんの? あんた何にも知らんな (P4~P5) 最初に、空に月が出ているシーンです。 穴の前でトシが寝ている、死んでいる、横にいぬがいる、いぬはトシのにおいをかいで、横になる。腹が減ればいぬはトシを食べる大きな月 月から見えている星は、止まったりしない、音もない、時々何かが白く走っては消える、生きものは、もう見えない、見えないが、いる、たくさんの、しかし、それは、いつまで、続く、 もうしばらくは このまま、続く(P189) 最後の最後、実は、月は作品の中でくりかえし描写されますが、これが最後の最後の月です。解説によれば、主人公で、ひょっとしたら語り手だったかもしれないトシと呼ばれる少年、ひょっとしたら、最後はオジサンは、このシーンでは、もう、死んでいて、隣にいぬ、ひょっとしたら主人公だったかもしれない、いぬ、がいて、月が出ています。 ここまでやってきた小説世界のこのシーンには、ここまで、どのシーンにも、ずっと、あったのに、なくなっているものがあります。「声の響き」ですね。み、み、水―、や、ヘレンケラーやん知らんの?あんた何にも知らんな 最初の引用のシーンで、誰が誰に語りかけているのかは定かでないのですが、神戸暮らしのボクには異様にリアルな、そう、神戸弁なんですね、声が響き始めて、180ページの作品中、ずっと、響き続けています。 紹介に「犬少年」とありますが、最後まで、主人公であるらしいトシが犬少年と呼ばれていたことに、ボクは気付きませんでした。 あるのは、誰かが、作品中の誰かになのか、読み手のボクになのか、「知らんの?あんた何にも知らんな」 という声だけでした。 で、最後は、月は空にあるようで、誰の声なのか、もちろん、わからない、静かな声が響きます。もうしばらくはこのまま、続く 文字で書きつけるほかに方法がない小説に「声」を響かせん! とする荒業です。大したものです。 山下澄人が、お芝居の演出家であることは知っていましたが、どんなお芝居をやっていらっしゃるのか?ちょっと見てみたいものですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.18
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「フーセンカズラ・風船葛、涼しくなって生き返りました!(笑)」 ベランダだより 2024年10月12日ベランダあたり 南側のベランダと、台所の前の北側のベランダに、風船カズラの鉢が一つづつあります。チッチキ夫人が気に入っているんですね。 夏の終わりごろから「風船」がなって、最初は緑ですが、やがて茶色になります。彼女は、毎年、そこから種を取っているようです。 今年も、8月の半ばごろから「風船」がついて、もう茶色になっていたのですが、10月になって、涼しくなったからでしょうかね、またもや「風船」が付き始めて、今や盛りです。彼岸花も一月遅れでしたが、こっちは生き返ったということでしょうか。この写真では茶色くなった「風船」が、よくわかりませんね。 チョット、下の写真を見てください。 こちらが、台所の前の「風船」です。 ネッ! 茶色くなった風船と緑の風船が、同じ蔓で同居しているでしょ。涼しくなったから忘れそうですが、やっぱり、とてつもなく暑い夏だったんですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.17
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岸田奈美「国道沿いでだいじょうぶ100回」(小学館) サンデー毎日の日々を映画館徘徊で暮らしている老人ですが、春と秋のシーズン、週に一度だけ女子大生の皆さんとお出会いして、おしゃべりさせていただいています。 で、その学校の図書館でも本をお借りできるというラッキーを、ここ数年満喫していたのですが、今年2024年の春、「借りてばかりで、返さないのは、ちょっとあかんのじゃないだろうか。」 と殊勝なことを思いついてリュックいっぱいの本を担いでお返しに行ってみると、いかにも真面目そうな司書の方から「えーっとですね、ちょっと延滞がひどいですね。8月末迄貸出禁止ですね!」 と申し渡され「アワワ!」 でした。ほぼ、半年前ね。 で、9月の新学期になったので、「だいじょうぶかな?」とオソル、オソル、カウンターに差し出したのがこの1冊でした。 岸田奈美という方の「国道沿いでだいじょうぶ100回」(小学館)です。 書き手の岸田さんについても、内容についても何も知りませんでしたが、題名に励まされたんですね。「だいじょうぶ!だいじょうぶ!」 でしたね(笑)。 で、書き手についてパラパラ見ていると「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(小学館)という本で評判になった方というのを見て、フト、「ああ、あの本の著者か?題名が、ちょっとイヤでスルーしたな。」とか思いだしましたが、「この3年間で「だいじょうぶ」が口ぐせになってしまった。」 という書き出しの「はじめに」から読み始めて、とまらなくなりました。短いエッセイを集めた1さっつなのですが、次から次へと止まりません(笑)。 なんなんだ、この「????」は? はい、かっこの中にどう書いていいのかわからないので???なのですが、まあ、取り合えず思いつくのは「吸引力」ですかね。「馬が合う」というのでもいいかもですが、内容はともかくとして、語り口が気に入ったんでしょうね。 で、まあ、案内としては、書名になっている「国道沿いで大丈夫100回」ですね。子どものころ、人気の遊び歌があった。「奈美ちゃん、奈美ちゃん、どっこでしょう~♪」保育園の先生が歌う。「ここでっす、ここでっす、ここにいます~っ♪」子どもらは大喜びで、返事をする。母が歌う。「良太くん、良太くん、どっこでしょう~♪」返事はない。弟はいつもどこかにいたけど、いつもここにはいなかった。ジッとしていられない弟だった。だまっていられない弟だった。保育園でも、学校でも、歩道、公園でも、むちゃくちゃに跳ねまわっていた。軌道がまったく読めないスーパー・ボールみたいだ。捕まえられるのは、母だけ。弟を取り押さえるときに発揮する、母の爆発的な初速は、ラグビー選手のようだった。保育園へ行く途中のことだ。弟が国道へ飛び出した。一瞬だった。母の足の間を急回転ですり抜け、彼にしか見えないなにかを追って、自由な魂みたく駆けてった。道路のド真ん中で、弟はピタッと立ち止まる。凍り付いていた母の時間が動いた。声もかれる絶叫だった。母は死ぬ覚悟で体を投げ出し、弟の服のフードをガッとつかむと、歩道へ引きずり戻した。大型トラックが、轟音とともに走り去っていった。あと5秒、遅れていたらだめだった。母は地面にへたりこみ、震えながら、弟を抱きしめて放さなかった。「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」 ここまでが実況中継、で、ここからが、著者である岸田奈美さんの気持ち。幼かったわたしには、知らなかったことがたくさんあった。弟がダウン症で生まれてきたこと。身体がむずむずするから、手をつなぎたがらないこと。フード付きの服ばかり着ていたのは、命綱だということ。必死で弟の命を守ろうとする母の姿が、近所で不思議そうな視線にさらされていたこと。弟がおもちゃを持って公園に行くと、親にそっと手を引かれて、離れていく子供たちがいたこと。療育の先制の「愛が足りない」「しつけがなってない」という言葉で、帰り道に母が唇をかみしめながら、弟に頬をよせて泣いていたこと。どんなに疲れ果てていても、悔しくても、母が外で笑顔を絶やさなかったのは弟を嫌わないでいてくれる人が、弟の命を守ってくれる人が、どうかひとりでも増えますようにという、祈りだったこと。そんな苦労、わたしや弟は。なにひとつ知らなくてもいいように、「奈美ちゃんと良太が生きているだけで、ママはうれしい」と、何度も何度も、語り続けてくれたこと。わたしはなんにも知らなくて。いま、あの日に戻れたら。国道沿いで、へたりこんで、泣いている母に会えたら。「だいじょうぶ」って、100回言ったる。(P71) と、まあ、こうです。いかがでしたか? 実は、この章はまだまだ続きます。続きが気になる方は本書を手に取ってくださいネ。 書き写しながら、岸田さんのおかあさんのことを思い浮かべてしまって、70歳の老人は、やっぱり泣いてしまうのですが、いい方がジジ臭くて申し訳ないのですが、書き手の岸田さんも、この母ありて、のお嬢さんですね。 本書には、良太くんが「ことば」を獲得していく興味深いエピソードとか、お母さんの入院の話とか、読み始めたら止まらなかったわけで、いかがでしょう、「面白い」は語弊がありそうですが、面白いですよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.16
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「黄色いバラ三輪!日曜日の玄関。」 ベランダだより 2024年10月13日(日)ベランダあたり 2024年、10月13日の日曜日、出かけようとした玄関に黄色いバラが三輪、笑っていました。昨日のお土産です。 2024年10月12日の土曜日、20年前にお別れして以来、どなたとも、ただの一度も出会ったことがなかった100人近くの「教え子」さんたちと再会し、まあ、彼女や彼たちだけでなくて、やっぱり20年ぶりに、一緒にお仕事をしていた仲間の方たちともお出会いして、ホント、自分の人付き合いの悪さを実感しながらも、感激の一夜だったのですが、お出会いした皆さんの顔、顔、顔、いやぁー、名前はわからないのにワラワラと記憶はうごめいてきます。 みんな、あのころ、玄関のバラの後ろに見えるナウシカみたいに、あどけなくて素敵な表情をしていたんですよね(笑)。 ふくれっつらをしたり、睨んだり、笑ったり、泣いたり、まじめな顔で首を傾げたり、17歳、18歳だったのですね。「10年後ね!」 まあ、そういわれて、肩をたたかれてハイ!ハイ! とご機嫌にお返事してお別れしたのはよかったのですが、さて、10年後、元気にしてたらいいですね。 いやホント、みんな、笑顔、ありがとう! の一夜でした。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.15
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五十嵐耕平「SUPER HAPPY FOREVER」元町映画館 先日見た「石がある」という作品に、妙にひっかかっていて、それでいて、どこにひっかかっているのかもよくわからないことが、まあ、気になって見に来ました。 五十嵐耕平監督の「SUPER HAPPY FOREVER」です。「石がある」の太田達成監督が助監督として制作に参加した作品だということなので、まあ、その世代というか、若い映画製作者の人たちがどんな映画を作っているのだろうという興味ですね。そのあたりに、ひっかかりを解くヒントがあるんじゃないかというわけです。 で、見終えた後、監督の五十嵐耕平さんの舞台挨拶とおしゃべりまであって、ナルホド、そういうことなのか! という、ボクなりの納得というか、スッキリ!というわけにはいきませんでしたが、ひっかかりを解く糸口のようなものを見つけた気がしました。 2023年、8月19日、どこかの、さびれたリゾートの海の見えるホテルの部屋で、男性が「この部屋でよかったの?」 と連れの男性に問いかけるシーンで、映画は始まりました。 廃業を間近に控えているらしいホテルの819号室、その部屋に、2023年の今日、この男性二人が何をしに来たのか? というのが映画の設定のようです。 ネタバレ的にいうと、二人は佐野君と宮田君ですね。で、最近、佐野君の妻の凪さんが死んでしまったようなのです。で、実は、5年前の2018年の8月18日、佐野君と宮田君はこのホテルに泊まっていて、その時、今日、彼らが泊まっている819号室に泊まっていたのは佐野凪さんという女性だったのですが、だから、それがきっかけで、結婚することになったらしい、結婚する前から佐野凪さんという、その女性、佐野君の亡くなった奥さんと出会ったホテルなのですね。 で、今日、二人は何をしに来ているかというと、出会った時に佐野君が凪さんに赤いキャップ、帽子ですね、をプレゼントするのですが、写真家だった凪さんが、翌朝、一人で海岸とかうろついて写真とか撮っているときに、その帽子を失くしてしまうんですね。 失せ物探し! ですね。「石がある」では「石」でしたが、この映画では、死んでしまった妻が、5年前のあの時になくしてしまった赤い帽子でした。 どうして、佐野君がその帽子にこだわるのかとか、果たして、5年前に失くした帽子が見つかったりするのかとか、そのあたりはご覧になっていただくほかありませんが、ボクはこっちの映画の探し物の展開はよくできていると思いました。 同じように、理が勝っているというか、頭で考えた作品だとは思いましたが、70歳のジジイを納得させる作品に出来上がっている! という感想です。拍手! で、帽子ですが、石はありませんでしたが、赤い帽子はありましたね。映画を見ながら、まあ、普通ありえないことなのですが、その失せ物が出てきたときに、なんともいえない嬉しさを感じさせてもらって、なるほど、「SUPER HAPPY FOREVER」やな! と納得でした(笑)。 川底に転がった「石」は、やっぱり見つからないと思うのですが、何の変哲もないとしても、帽子とかなら見つかるんですよね(笑)。 こちらが、もう一枚のチラシなのですが、写っているのは海を見ている、在りし日の凪さんです。彼女は佐野君と、この海辺で偶然出会ったのですが、他の人とも出会っていて、映画に、人との「出会い」がもたらす希望の象徴のように赤いキャップの記憶を刻み付けて置いてくれていましたね。拍手! でもね、映画の中の佐野君は、最後まで、帽子の行く方は知らないんです。彼は、今回の旅で親友の宮田君とは喧嘩別れしてしまうし、探していた帽子は見つからないし、まあ、散々なのですが、映画を見ているこっちは帽子を見つけて、思わず、ニッコリ! してしまうんです。この映画のたくらみの卓抜さは、多分、このあたりにありそうですね。一番切ない主人公は「UNHPPY」なままなのですが、見ているこっちはSUPER HAPPY FOREVER、うまいものです。拍手!監督・脚本・編集 五十嵐耕平脚本 久保寺晃一撮影 髙橋航編集 大川景子 ダミアン・マニベル音楽 櫻木大悟助監督 太田達成キャスト佐野弘樹(佐野)宮田佳典(宮田)山本奈衣瑠(凪)ホアン・ヌ・クイン笠島智海沼未羽足立智充影山祐子矢嶋俊作2024年・日本・フランス・G・ 94分2024・10・12・no133・元町映画館no261追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.15
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「彼岸花にアゲハ( ´艸`)」 ベランダだより 2024年10月11日(金)ベランダあたり 住んでいる部屋の南側がベランダで、その前が子どもたちの遊び場の広場です。わが家の愉快な仲間たちが歓声を上げて野球やサッカーや鬼ごっこしていたのはもう30年以上も昔のことですが、その頃から、9月になるとベランダのすぐそこに彼岸花が咲いていました。 「おばちゃん、花咲いてるで。赤ちゃん寝てる?」 愉快な仲間の末っ子のピーチ姫が生まれた頃、ベランダの柵から、開けっ放しの部屋をのぞき込んで笑っていた子供たちも、今や働き盛りのオジサン、オバサンになって団地にはいません。 今年もヒガンバナが咲いた! と喜んでいるのはオジーさんオバーさんばっかりです(笑)。 で、喜んで写真なんぞを撮っていると、アゲハ蝶がやって来ました。スマホのカメラで何とか、と思うのですが、難しいですね。 画面の上の方にアゲハが一頭写っているのが見えるでしょうかね(笑)。 こちらは、石垣の端あたりです。実は、2頭が乱舞していたのですが、そんなシーン、とても移せませんね(笑)。 誰も遊んでいない、まあ、金曜日ですからね、子どもたちの広場です。あの頃は、十数人が、毎日、遊んでいたので草が生える暇がなかったのですが・・・ まあ、時がたつことは誰にも止められませんからね。そう思うと植物というのは強いものですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.14
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トッド・フィリップス「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」109シネマズハット 前作「ジョーカー」で圧倒されたホアキン・フェニックスが、今度はどんなジョーカーを演じるのか? まあ、そんな気持ちで、神戸での封切、初日に見ました。 トッド・フィリップス監督の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」です。 最初から、最後まで、刑務所にとらわれている男、道化師アーサー・フレックの物語 でした。彼が、悪の化身をであるジョーカーと道化師アーサーとの、まあ、いってしまえば行為に対する責任能力を問えない病的な二重人格なのか、あるいは、死刑に該当する、単なる、衝動殺人犯なのかを裁判で争うストーリーでした。 裁判は、白か黒か、責任能力が有るか無いかを問う論旨で展開するわけですが、ホアキン・フェニクスは異様なリアリティで境界線を生きる道化師アーサー・フレックの存在を熱演します。そこは、やっぱり見るだけの価値があったと思うのですが、しかし、前作のような底知れない「悪」の不気味さ! のパワーはもう感じませんでしたね。 前作で説明不可能な得体の知れなさこそがその本領であるはずだと感じていたジョーカーという存在に対して、この映画では、精神病理的な客観視が端から持ち込まれていたからだとボクは思いますが、実はもう一つ、まあ、これも病理社会学的概念だと思いますが、「フォリ・ア・ドゥ」と副題された共振する狂気 という、具体的にはレディ・ガガという女優さんが、かなりがんばって演じていたリーという女性が、その象徴的な役回りだったのですが、「悪」の「共狂い」的な設定というか、妄想が共振し、それを見ている人が共有していく社会性を描こうとする方向性に、何となくのっていけませんでしたね。 おそらく、その共有感は、映画を見ている人に対しても期待されているということなのでしょうね。たとえば、アーサーに母殺しを意識させ続けているあたりとか、リーのキャラクターとか、歌とアニメを使った妄想シーンの演出というか、脚本は、いかにも、母原病(?)的な傾向を深めている現代社会を意識している気がしましたね。 裁判所のまわりで騒ぐ人々や、刑務所内での囚人たち、看守たちの振舞いにも、まあ、それから「衝撃的結末」ですかね、あそこにも、その設定が投影されていると思うのですが、「うーん、なんだかなあ???」 でした。 まあ、しかし、ホアキン・フェニックスが、大した役者だなあ! という評価は変わりませんね。拍手! 監督・脚本 トッド・フィリップス脚本 スコット・シルバー撮影 ローレンス・シャー美術 マーク・フリードバーグ衣装 アリアンヌ・フィリップス編集 ジェフ・グロス音楽 ヒドゥル・グドナドッティルキャストホアキン・フェニックス(ジョーカー)レディー・ガガ(リー)ブレンダン・グリーソン(ジャッキー)キャサリン・キーナー(メリーアン)ザジー・ビーツ(ソフィー)リー・ギル(ゲイリー)2024年・138分・PG12・アメリカ原題「Joker Folie a Deux」2024・10・11・no132・109シネマズハットno52追記 2024・10・16前作「ジョーカー」の感想がありました。似たようなことを書いています。よろしければ、のぞいてみてください。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.10.13
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「夕顔、三つ!」 ベランダだより 2024年10月11日(金) ベランダあたり 今日は、久しぶりに元町で、若いお友達と会いました。 いつもはJRで帰って来るのですが、お友達が市営地下鉄の名谷あたりということで、ミナト神戸という元町あたりの地下鉄の駅から、新長田で乗り換えて学園都市、そこから市バスというルートで午後9時過ぎに帰ってきました。 暗い中、最寄りのバス停から団地の中を自宅の前まで歩いてくるとベランダの夕顔が三つ、同じ方を向いて咲いていました。 朝顔は、何となくお日さんに向かって咲いている気がしますが、夕顔ってどっちを向いているんでしょうね? で、こちらが、たよりし忘れていた昨晩の夕顔です。今日の三つの花と同じ方を向いていますね。 アップの写真です。ベランダの中から撮りました。 毎晩、咲いてくれています。 10月も10日を過ぎました。まあ、それにしても、そろそろ、夕顔の季節も終わりそうですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.10.12
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