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12月2日(日)晴れ

20年前の「語り部」盛んな頃の新聞寄稿と写真をブログに入れていま、見にくい写真ですが見て下されば幸い
以前の会社寿重工業時代も「紫煙」の会で詩や俳句の真似事で仲間入りして配達係りしているうちに、プロレタリア作家の本をよく読んだ、島津へ来ても知らず知らずの内に共産党員との付き合いができた、夜の会合に来ないかと誘われるもいかなかった、いかないよりも夜学の友もで来て行けない、もし行っておればどうなるかは?
?夜の学校の友は、運動に盛んな人がおり、スパイクも用意してくれて、岡崎公園でライトもない運動場でよく走った、先生は陸軍飛行隊の嘱託技師で熱心に、内燃機関を基本から丁寧に教えてくれた、後年甲種工業資格の試験を取るのに非常に役だった、さて昭和12年に私立島津製作所青年学校が作られて20歳までの男子全員入学させられた(お上の指示指導があったよし)今此処に当時の職員録あり昭和16年5月20日現在・丸秘
とあり私の軍隊入営直前のも、その中を書きます、高田校長(少佐)専任教諭(将校)9名講師(下士官と上等兵)62名です。そして余分ですが入営中・・氏名と殆ど戦地の部隊名が書いています93名、職員数は450名工員入れれば1万人これは推定です、そしてこの中には講師の中に南京戦やノモンハン事変に参加ナマナマしい、体験を特に私は入営が近いというので特に念入りに講習してくれました。この職員録を広島で郵便局か自宅に私服や靴等を送るのに順番待ちで、民間ぼの軒先で休憩で座り込み見ていると、憲兵がニコニコして、近寄り、幹部候補か??と(私は学生服でしたのでええ種の生徒と勘違い??)違います・・何を熱心に見ているんだと職員録をモゾキミ私から渡しました、ぺらぺらと捲り笑いながら、これはナー隊に持ち込むと、永久に手元に帰えらんぞーと又笑いながら、ハイと答えて、郵便局で貰った油紙に、服のポケットに入れて母の元にかえしました。憲兵のニコニコ顔の意味が未だに分りません、当時憲兵は怖いものとの思いがありましたので、私らの緊張を和らげる為かも。長くなりましたでは又 播翁
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