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08年11月26日 本格的な冬になったような寒さ・・今日は 顔(フエース)について書きます 芸能界でも顔が良いと得です個性の強い面白い顔がまたモテル事もありますが 顔の白いのは七難隠すとか・・政治屋さんのTVに出る最近の顔について一言 昔コワモテでならした濱コウの息子さん、や張り怖い顔だけど今のところまぁ まぁの態度・・チヨン曲げの大臣も少し違和感が・・私の友の友がアルカイダ での少し変り者の鳩山大臣、民社党の兄弟さん穏やかそう?・・麻生さんは最 近口びるがへの字に曲がってきました・・まともな言葉で話して欲しい・・ 以上卒寿を迎える播翁の独り言
2008.11.26
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2008年11月9日(日)田母神問題で想う私は四年間飛行隊でセッセと爆撃機を整備して支邦軍や市民等を爆撃、幾満人か??を殺した者のうちにはいる小さい者です・・そしてその報いとしての三年のシベリア捕虜生活、昭和23年暮れにシベリアより帰還(7人の戦犯が処刑された時期です)・・60年も過ぎ去りました。ソ連への又日本政府への怒りや不条理な仕業は・・思わない負けた報い大正9年生まれの私の戦争感は(私だけ)・・元首や国の代表者がヤル戦争は正であり勝てば敗者を自由に、相手の代表や妃を金の鎖でつなぎ裸足で市内を引き回されて処刑または遠方へ幽閉、部下は奴隷婦女子は勝者の戦利品として自由にされる・・幾百年昔の戦争感でしょうね・・白馬に乗った陸海軍を統帥の天皇は国民のシンボル(象徴)として今に存続・・戦後勝者が敗者を裁く00裁判とかで00の罪△△の罪とかを作り・・溯り罪に服さす 裁判を認めね世界の仲間入り出来ないので侵略と認めた・・田母神氏はそこまでは知らんのか、頭が悪いのか
2008.11.09
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・・・・・・・・・・・・・・8月17日(日)今日も暑いでも吹く風は秋を匂わせる私ごとですが・・6年前に初曾孫が8月15日に出産しまして(花夏「はな」)と名付けていますが、出産のお祝いに行きますと孫いわく『お祖父ちゃん豪い日に生まれたわ、戦争負けた日に』私は言いました『負けたのがよかったんだよ負けなくて英米が手加減して中国を援助せなければ・・お祖父ちゃんはシベリアどころか・・馬賊や匪賊のテロの応答で??今の私は存在しなかったかも』『昔から(負けるが勝ち)と言う言葉もあるくらいや、負けて再生の日本出発の日だから目出度い日だよ』『ちなみにナポレオンも8月15日生まれとか』といいますとニコニコ笑いながら『よかった』と頷いてくれました。年が変わり4月になると小学一年生です・・先生は8月15日をどのように教えるでしょうか??そんなこと心配すると『鬼が笑う』と言われそう・・そうです・・それは親の孫娘が心配することです私は次世代の若者に『敗戦』『終戦』はあんまり深く考えなくても唯漠然と終戦日だとの日和見的思い出なく、何かを想うべき日にして欲しいです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・取り留めのない寄稿で失礼 播翁 88歳7ヵ月
2008.08.17
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シベリア抑留中仕事がきついが食事は少なく草を度々煮て食べた「先日北朝鮮の食料危機で草食べて苦い苦いとのTV」私は下痢をして正露丸ないので白樺をやいと黒い粉で薬がわりでも1回は聞き手も2回目は駄目コンナのあってが今も88歳で生きていますH20年5月28日播翁木村
2008.05.28
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4月18日(金)花曇り懐古オリンピック・・昭和初期はラジオで、それも各家にはありませんお金持ちの??家の子の家でよく聞いたもの映画を見られる頃に成ると二ユース映画が終わり頃にあり優勝の前畑ガンバレー又人見女子選手の悲壮な健闘棒高跳びマラソン優勝その頃はプロは駄目商標は駄目で各国とも地味なアマ的な服装入場式もごく普通今騒がれている点火の映像は開会式に点火台に火を入れるだけギリシャの神々しい儀式で太陽の火から受け継いだ火を今のように世界各国を回わらなんだよう世界のお祭りのオリンピックを政治に利用騒がしいものに成りつつありますね・ヒットラーが今度は東京で会いましょうとの字幕が出た72年まえの映像が今も私の脳味噌の奥に残存しています民族の祭典がお金儲けや政治に利用される祭典になりつつあるを感じます大昔戦勝を知らすのに長い道を走りそれがマラソンに・・44年前には東京であり又石原氏は東京オリンピック招致とかそれも良いか悪いか国民が決める事でしょうね長くなりましたでは又播翁より
2008.04.18
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3月18日(火)晴れ飴と鞭と言う言葉あり動物の芸教育に必ず行われるうまくやれば好物を・・を繰り返し繰り返し私は軍隊で1年間鞭ばかりで偶には羊羹を酒保(軍隊の売店)でコソコソ隠れて買いにゆき厠(トイレ)でコソコソ食べたもの日本全国の軍隊初年兵教育受けた者は知る(将来仕官になる者も同じ但し例外もあり)私の十数年家族同様に暮らした愛犬(ムク)もヨチヨチ歩ける頃より好物の小さい出し雑魚を与え又小さい手まりを投げては「取っといで」と声をかけ取って来ると「良しと」雑魚を与えて手まりだけでなく色々な事を教えて言葉も教えた「食事の時は飯盒とっといで」で飯盒を持参入れて「良しで開始」こんなのどこでもしているで笑われそう。明治以来軍隊は「気合」(殴る等のこと)を入れて餌は無くても上官の言うまま例え死が前に有ろうと無かろうと(私も4年の軍隊生活で体験)良いか悪いか知らんが今の防衛省特に海軍は少し弛んでいないか(昔は陸軍より海軍が軍律厳しい評判)まあぁまあぁ志願でお金儲け??の気持ち??面白くない話は新聞やテレビに一任
2008.03.18
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本年二つのブログで大忙し 言葉より写真で本年はゆきます 一月六日メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2008.01.06
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京都新京極写真店で 後方中播翁
2007.12.31
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柿狩兼ねての忘年会 左 播翁主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。バイブルより
2007.12.31
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現在は紅白歌合戦で年末をNHKでは締めくくりますが、67年の昔は日本放送協会は年末にはラジオで歌謡曲を流していました(但し年号はい何年から何年までとは思い出しません)私ら会社の同年者はそれぞれ徴兵検査を受ける用意をしたり心の準備をしていました、矢張り年末は忘年会です、京都八坂神社付近・祇園乙部で芸子と遊び、飲み食い(青年学校の制服のままの者もいて遊ぶのに一苦労)そして肩を組み四条通りを我がもの顔に・・店頭から流れるラジオの歌謡曲にあわせて、歩く、「オイこらーそこの学生道路で歌いながら肩を組み歩くとは怪しからん戦地では兵隊さんは命を懸けて戦っておられとサーベル提げた巡査(今の警官)で私は臆することなく「私等は会社の同年会の者ですが、それぞれ戦地に往く者も決まりお別れ会でツイ羽目を外しましてすみません」・・巡査はジロジロ私ら7人の顔を見ながら「よし分ったも少し静かにやれ」・・少し表情が和らいだよう・・でも又歌いながら・・どうせ・・共に学び・共に勤め・遊んだ・仲間も、バラバラに何処かの戦場に行くのは、必常いつか巡り会えるのは補償できない・・そんな気持ちの7人であった、ちなみに今生存は3人のみ戦死2人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67年後の年末忘年会は私87歳10ヵ月京都・大江の柿の名所で柿狩を兼ねての「男の居場所の会40人」 クイズあり、カラオケ、余興、その他色々と。60歳代~80歳代まで元気の証しを発散しました。 2007年大晦日 文字乱れご免 メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.31
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上の漢詩は・・もう想い出すのも嫌なアノ忌々しい戦争のオマケのシベリア無銭旅行の??辛さを漢詩にしました 12月29日メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.29
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写真前列中 播翁 今回は昭和14年頃軍需生産従事者不足のモロモロの話をします。兵器の生産には戦線が拡大で非常に逼迫していたようで、特に機械工作要員が不足(戦地に動員のゆえも)英米戦に向けての兵器増産ではノモンハン事変後から昭和15年にかけてこの方面の学校の増設充実・・その一環として機械技術者検定規則が公布され工場労務者から(5年以上作業に従事)検定試験によって技術者たる能力を発見これ等の資格を与え(甲種工業卒業)一般労務者の能力を刺激せんと・・・昭和15年8月・9月・10月の3ヵ月にわたり、・学科・実科・口頭試験・京都府では16人受験6人合格京都新聞(当時日の出新聞)では府庁に玄関での写真入りで掲載(朝日新聞は写真なしの掲載)個人的なことですが第1回第36号合格證書頂きしばらくして工員から職員に資格変更で丸に十の金パッチをもらいました。当時は感激でした、入隊を10ヵ月先に控え、母も親戚の者も新聞に出た・・で大喜び・・やはり夜学でも1ショウ懸命勉強した甲斐がありと、又軍隊でもその経歴ゆえか絶えず本部勤務から外されない、そんなきがしました。自慢話で恐れ入ります、とても当時は大学なんて行ける筈がないせめて甲種工業卒業の肩書も、もらいたいの希望が実現した、当時の私は幼稚なもの、もう死んでもいい・・安い命 12月13日メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.13
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飛行隊本部勤務で知りえたモロモロのお話しを寄稿します初年兵でお茶出・書類戦隊に送付・改造図面をせいり・ガリ版刷り・その他色々な勤務をさせられましたが、同僚からは当初妬まれていたが慣れてくると色々と情報をもたらすので重宝された。今から思い出す一番面白く又興味あったのは下士勤務兵長で(下士官の仕事で待遇は兵並み)炊事班長で炊事場で寝泊りの勤務(この有様は又の機会に寄稿します)本部寝泊りは普通の兵長時代からやらされた。本来は寝ずの番だが少しは仮睡・・でも今なら週刊誌持込読み漁るも当時はそんなものなし、ウロウロと各室を見回りメボシイ書類があると頭の中にいれて・・電報綴じなんか興味ありで読んだ・・前回の逃亡の話し以外に敵側の国内情報これはコチラの一法的な書きよう??(例えば留守家族は風紀が乱れて毎夜友達等が遊びに??)・・オボロゲに思い出せるのは・・色々な例規集とか、将校の読むべき本があった・・将校が戦地に行くさいの将校行李の中身に・双眼鏡・地下足袋その他は支給品・軍刀は支給品でなく支度金で買う・・給料は判任官「下士官」以上は賞与(ポーナス)を年何回とか・又兵科の内、法務士官は襟章は白色・・又条約では、捕虜の扱いで将校は仕事をさせてはならぬとか、自軍同ようの待遇とかその他戦後知りえたことが書いてある本があった。同僚に話してフンフンと感心したもの・・ メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.10
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播翁です今回は知られざる逃亡を寄稿します (1)昭和16年7月31日京都駅より広島駅までの夜行列車の中で役場の徴兵係さんにシミジミ聞かされた話し隣村で半年くらい前に赤紙召集に行かず憲兵が縁の下に隠れているのを威嚇射撃して連行(これは我々の耳に入っていうたがデマだと??デマにしないと逃亡が表話しになると戦意高揚に逆らうにおでデマにしてあったが事実だアチラコチラにもあったとの証言、戦地に行くので話してくれた。 (2)私が本部勤務で夜間図まりで夜中極秘書類で・・各隊長あての公文で、特攻容員が当初は内地にどっさり土産を載せて帰国これは各隊で暗黙の了解または練習と称して帰国その後帰還でせず逃亡憲兵が山狩りの事件多く。自今要員には監視体制に置くよう配慮せられたしの公文・・このような公文は隊長あてゆえに誰の目にも・・多分国会図書館や偕行舎にいっても見当たらない筈。 あその他シベリヤでも逃亡もありましたが私が眼にしたものではありませんので省きますこのような旧軍人の恥部を書くのは好みませんが、人間って極減ではこうなるやもを書きました。今も「君を忘れないの」映画してりました 写真は九州の基地での寝室 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.09
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私の徴兵検査について書きます当時乙訓高等小学校(今の勝山中学校)の雨天体操場で全員待ち合わせ、何回も憲兵がガヤガヤ騒ぐので注意にくるも、直ぐガヤガヤ・・3回目位か来るなり(三浦君)お前こいと、憲兵の前に立たせて、平手でパンパンと往復数回彼は汗をかき倒れる・・誰も近づく者はいない、私は勇気を出して、憲兵に敬礼して、彼を起し汗を吹き楽な姿勢で休ませてやった、憲兵は軍医さんもおられるから気分が休まらずなら言うてこいの言葉を残して去るさて私の検査の番で、身長、尺あたり何貫とかの勘定で合格が甲乙丙等に分けられる、私は当時162センチで目方も普通なので、フンフンと徴兵官は頷いていたが、最期に合格不合格を知らすで順番待ちで並んでいると在郷軍人会のお偉いさんが(階級は佐官で徴兵官と同じだったか??)私の横に来て木村君・君は合格だ徴兵官が何か希望はないかといわれるから兵科?を希望してもいいよ・・騎兵とか戦車兵・・君は京都の島津製作所勤務ダナ、私の履歴書まで持っている、甲種工業高校の資格を勅令で貰うとは・・ちゃんと此処までお調べとは??驚いたものでした。徴兵官の前に来ると何か変少しニタニタと笑みを浮かべて、甲種合格・・ハイと答えると在郷軍人の言うとうり、何かいう事はないか??と・・で私は会社で兵器を生産しています、機械が好きなので機械科部隊に入りたいですと・・オソルおそる言うと良しとウナズキ何かメモしていた。帰宅して母に言うと諦めていたよ兄は乙種でも今支邦に出征・・マアァ入隊まで充分遊びと寂しさを打ち消すように・・何回も頷いていた姿を今も想い起します、しばらくして飛行兵と通知の紙切れ 播翁 記す 昭和十五年五月半ばころ メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.09
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(12月8日)と現在の年の暮れの世相を書きます。(1)小学校入る頃は世の中不景気だったようで、お年玉も親は無理してくれたようだ、学生服でなく羽織袴で入学普通の日は、着物に前垂れ(鼻がたれてよく拭いたもの)着物にゴム靴昭和7年の卆業式写真では47人中12人が羽織袴でゴム靴、「もういくつ寝たらお正月」の歌もあったよう・竹馬・凧揚げ・メンコ・駒回し・雪が降れば雪合戦(当時はよく吹った)櫓コタツの中にお猫チヤン・夏は蚊帳のなかでお伽話しを聞いてスヤスヤの夜。(2)66年前の開戦の12月8日・・その年の8月にチチハル飛行隊に入隊して初年兵教育受けて5ヵ月目戦争始まったので少しは酷いシゴキより技術的に絞られるかと思いきや中々そうはいかない、反比例して、たけ狂うように酷くなった、これでは軍隊来るのは誰でも嫌・・京都の母の便りでは、3歳うえの兄はすでに中支に出征中時々便り来る由、7歳上の姉は大阪に嫁に行き子供が出来ている、母は親戚多く又付き合いが好いので食べる者には不自由しない由、空襲警報の練習多く、晩はマックラですと・・2匹のお猫ちゃんが一人住まいを慰めてくれると・・(3)現在は約年前からあるMLに縁あり(それまでは新聞メディア写真個人展等を通じて語り部を妻と共に10年以上してきましたが妻の昇天で・・平和ボケ平和熟れした、国民に愛想を尽かし、妻を亡くしたショックもあり10年ほど、新聞投稿も何にもやらず旅旅の日々・・あるMLに出会い、京都オフにはまあまあの仕事(自己申告)4年前100万人に5人の難病再生不良性貧血・・又腹部動脈瘤25ミリ・・膵臓に30ミリの瘤12月13日CTスキヤン・・「身体は日々衰えるが心は日々若返る」のバイブル語る・・古い会員はご存知ですが、66年前の私・・62年前の私しをシリーズように投稿していました、個人メールでブログに載せたい・・又転送かまわないかのメール多くありました。今は 『大正から昭和初期までの私の体験した世相』をあきもせず淡々として書いています、ブログ一個は一年少々で多くに人が見ています、一個は1年半くらい前にやっていましたが、新年から模様替えする由で今からお付き合いしています。最期に申し上げます、私はキリスト者です、メールが良かった良かったのお礼賛辞は好みません、あたりまえです、辛口ばかり時には管理者も何を若僧がと切り捨てます、直ぐに88歳、年と、一度死ぬほどの軍隊経験を得た者ゆに勝手に出ます、そこらそんじょの、軍隊私的制裁キツイだから軍隊嫌い(ナべツネ等)では独逸兵の足の長い軍隊ならよいのか??これを見てROMの人から賛辞多くあります。来年の語り部講演は??地域で2年連続しました(昨年三時間今年二時間)今から予定はありませんが、神が与えてくださるを信じて待ちます。 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.08
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66年昔の写真 チチハル公園 映画新雪を見る初年兵初外出 昭和16年12月8日の事を書いた旧満州国チチハルの航空隊で重爆撃機の機種改変(97式~0式に)作業教育と、厳しい、初年兵教育を受けていた、早く前線基地へ往きたいとの、強い意志と希望を持った初年兵はとても、酷くシゴカレルと聞いてはいたが、こんな酷いとは想像していなかった。でも、日清・日露戦争を戦った先輩達もこの、●シゴキに耐えて、国民の義務(国民皆兵)を果たしたはず私は誇りを持って、耐えた。幼い頃より、教育勅語&国定教科書&軍人勅諭なぞなぞ、軍国幼年から、少年へと、教育も遊び、世相も●総べてが、軍国へ。北鮮の反日宣伝(最近よく見る)のような子供や女子をスコップで生き埋めなぞの、反米英の映画は無いが、京都の街では大戦前は、犬と米英人は入場お断りの看板が堂々と出ていた。当然侵略戦争云々なんて、思う人(一部の共産主義者や一部の宗教家を除き)又言う人はいない・●今の人には、想像も付かぬ話・・・●年月は流れ、約八年後、三年二ヵ月のシベリア強制労働にも耐え、共産主義への、洗脳をも撥ね付け、帰還。当時国連が、人間の尊厳が宣言され●国よりも、一人一人の人権が重いと。国ありて、人在りが、人ありて國在り●この主義は、色々と俎板に乗りそうで理屈好きの人はやって下さい???●十二月八日に関係ない話ですが十二月四日~十二月十日までが「人権週間」です、ですから、あえて書きました。●現在においても、最大の人権侵害とも言うべき戦争が絶えない。十二月八日にこの事を重ね合わせて想い浮かべました。約4年前の記事をそのままコピーしました 播翁 記す 8日前夜メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/ ブログ2=http://blogs.yahoo.co.jp/skskskjpjpjp/208505.html
2007.12.07
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皆様播翁です今回は徴兵回避のお話しをします昭和13年頃は赤紙召集が多くきまして、万歳万歳と送られて往きましたが、往けば戦場が待っています・徴兵回避(召集の場所に行きたくない)誰でも嫌です、嫌な理由に(1)・聖戦争であれ侵略戦争であれ、人を殺し合うことは信条として耐えられないとの崇高な気持ちから・(2)・家庭から離れるのは耐えられない・(3)・野蛮な初年兵教育受けるのが馬鹿馬鹿しい又辛い・(4)・怖い・その他・・・読売のボス「わたつねさん」が言っていましたが二等兵で私的制裁をバンバン受けてコンナ野蛮な事をする軍隊は嫌だとか・・又20歳の現役兵でも(当時、国の義務)嫌と、石の上にも何年とか絶えずお尻をひやして、痔を患い丙種合格・・コンナ例も。私も19歳で連隊区から京都に来て呼ばれて注意を・花柳病になるな(淋病とか)あと一年を大切にと。軍隊と言うところは、結局のところ人を殺すが目的、やれ独逸兵は立派で(足も長いし)世界一とか・・終局は殺し屋です、ガス室で大量殺人も・・日本軍も健軍当時外国を見本にしています、そして最高司令官に大元帥陛下を頂き・・私は怪訝に想うのは、一億総玉砕だとの旗の元に降参降伏等絶対ありえないと・・・が・原爆で、皇室だけは存続を認めてもらい、「大の虫は生かし」=皇室・「小の虫」=一般の者どもには、勝手に共食いしな・・でもって将官くらすの参謀等は隠し金をうまく隠し、何年かして、ソーット帰宅、南方で無実で処刑された人と比較すると、言葉無し。徴兵回避から終戦時のドサクサまで・・まとまりのない寄稿ですでは又メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.05
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琵琶湖にて18歳右端今回は昭和12年(17歳)~15年位(20歳)までの青春時代のモロモロを書きます。京都島津製作所は科学的な機械機器を製作して学校や官庁に納入する製品が多く、又職員では優秀な大学出が多くいた、気さくに私等甲種工業資格者を仲間に入れてくれたのが一番印象に残ります・・・祇園甲部の遊郭に案内・・スキーの手ほどき(フランススキーは軍用で背嚢背負い滑れる両足を肩幅くらいに開き、オーストりー式は両足を揃えとか)・・アイススケート・・ビリヤード・・タバコとビールは17歳から・・ダンスは阪急桂駅付近にダンスホールありました、「よく遊び」「よく学び」「よく仕事を」を実践しました。恋愛も自由であるが手を繋いで歩くとかは世間の空気が許さない??今の週刊誌のような役目をする「赤新聞」と言われる薄桃色の夕刊紙で少しスケベな記事もあり又少し政治批判も、堂々とは読めず隠れて読んだもの、矢張り戦地の兵隊さんを思えば、「贅沢は敵だ」又「快楽も敵」遊郭は連日大入りの盛況である、但しこれは京都市の話です、いくらでもありますが、これくらいで、では又 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.05
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皆さん播翁です今回は私が、命ながらえて本土へ帰還してから約30年ほどしての話してす。会社の停年前(10年近く)にある特種な車両の売り込み営業をしましたが、地区の数社で何時も談合をしていました(もう40年近く前で時効だからいいと思うが・・「会社勤務で知りえた秘密は退職後も公にしてはならんとか、何とかがあるが」固有名はぼかします。公社への売り込みには注文がありそうで・・先ず随時契約(随契)にしてもらおうと各社が運動します、先ず担当者の住所調べや色々(防衛省がやっていたよう?)でも駄目で入札となると各社談合して、順番どうり(予め順番あり)私の会社の優先番(入札で落ちるような金額を貰う)でないから、1回2回3回と優先番の上を行く金額を決めておいてメモにして当日、入札一回目・・予定金額にありませんので、二回目を・・これも駄目・・三回目も駄目・・公社の入札担当いわく・・本日は三回入札してもらいましたが、コチラノ予定金額には及びませんので・・でも車両は急ぎますので、今から5分間休憩します、会社へ電話もいれず、会社に全権を与えられた方々ですから、5分間各社とも相談??せず、係りが定める部屋で待機下さい、勿論携帯電話なんてなくあっても、一人一人監視つき・・但し棄権は自由ですと・・談合知っての裏技と私はさとりました・・4回目の入札ではとんでもない安い価格で入札・私の会社に落札・帰社してからそうそうに部長に抗議の電話、木村に来て欲しい私は行く予定して出ようとすると社長が木村を出すな部長行け・・談合で3回目で落札なければ自由入札とも何にも決めていないから、自然消滅ですよ・・談合金額は自由・・と部長にささやき行ってもらう・・社長に夕方呼ばれて褒められた。当時は私の会社のその車両は後発メーカーで特別とんでもない金額でもokであった・・独断専行で飛んでもない金額で叱られるやも??でも後発メーカではこれしかと・・それがもとで社長から少し信頼を貰う。現今でも社長の下手な、独断専行はイカンが、社員の良いアイデアの独断専行は会社を良くするとか本に・・朝鮮の師団を独断専行で中国へ越境も、軍本部からお叱りなし・・但し・・南京城外の掃討で独断専行は・・これは・・ヤバイと思えば即撃てと命令したと帰還兵は私に教えてくれた・・ では又 播翁記す メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.04
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京都府植物園の花(咲かない花が咲いたと書いてあった)さて今回は趣向を変えて、獨斷専行を戦中戦後を地でやった面白いお話しをします。作戦要務令では・ ★第五・凡そ兵戰の事たる獨斷を要するもの頗る多し而して獨斷は其の精神に於ては決して服從と相反するものにあらず常に上官の意圖を明察し大局を判斷して状況の變化に應じ自ら其の目的を達し得べき最良の方法を選び機宜を制せざるべからず★これは歩兵でない飛行兵の私でも暗唱させられました。 (1)機銃放置?しての暴挙・・ソ連進入時私は12名の者を指揮して飛行機搭載機銃を改良した機銃で飛行場徹夜警戒、帰営は昼食過ぎ頃、われ等は相当空腹ゆえ,営庭に機銃を設置したまま、弾は営内に入れたが、「機銃は安全装置して見張り不要、時々2回から見ろ俺が起すまで食事後、午睡すべし」本来は見張りは必ず立つのです・で・1時間位して落雷のような音ドンドンと部屋が揺さぶられ、咄嗟に爆撃と2階から1階に降りようと廊下に出た途端凄い爆風で背中を押され、おりくちの柱に腕を強打一週間くらいの痛み・・営庭に出ると機銃はひん曲がり吹っ飛んでいる、近くの電気送電線に同体だけがぶら下がっていた、我々12人は顔を見合わせてホットした思い、糞真面目に機銃の近くに居たら??機銃j同様に吹っ飛んでいたはず。横着な命令が12人が無傷・・長くなりましたので(2)の談合破りのお話しをします では又 播翁メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.04
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12月4日(火)曇り今回は当時の共産党員と親しくなっ時の話しをします、作り話しではありません、真実を書きます。彼は党員でも格は上の方でなく中間くらいと自称していましたが、私を入党させようと誘うも固辞しているでせめて話しだけでもと休憩時間に又作業中でも話してくれた。先ず東洋平和は日本だけの歌い文句で、いつか夢破れて、敗戦する、「南京も落ち勝っているではないか」?の問いに彼は「日本は世界で孤立している・・援助してくれる国はない」と・・私は「独逸・伊太利亜・とは」??彼は「アンナ遠い処からでは助けにならない」・・続いて「中国はアチラコチラから援助あり近くのソ連の援助は相当日本には厳しく有効」彼は「アンタに共産主義をもう少し知ってもらって軍に入ってから、啓蒙して欲しいのだが」と色々話しあり、私は「日本は世界で孤立」の言葉が少し気にはなった。彼はサボタージュを実行していた、彼は大型旋盤作業で。飛行機の位置を知る聴音機の余切板(軽一メートルくらいの黄銅板・・三角関数の余切「コタンゼント」?これを、簡単には分らぬ傷、お釈迦(製品をペケにすること)にしていた、寿重工のように、請負制(これを矢りいくらの制度)ではないので、バレテモ・・スイマセンでチヨン、その他色々な話しもありましたが今回はこれで・・又書きます 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.04
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12月3日(月)曇り 皆様前回の続きです 昭和12年(1937年)頃から段々体制は国を挙げての体制一致を目指しているのがわかりました、それが悪いとは思はなかった、2年~3年をえて、体制翼賛会・贅沢は敵・国民服・国民体力法(これは17歳から19歳までを・走る・これは二千米を何分ではしるか・跳・投・懸垂・運搬(これは俵の中に重しを入れたのを50米を何秒かで運ぶ)・・初・中・上級のバッチあり、私は二千米が最初に走りすぎて駄目で、初級バッチをもらった。どちらかが手を出したか兵器の腕試し?当時は負けとは聞いていたが帰還兵のナマナマしい話を聞くと大敗退とかの・・ノモンハン事変、やっている最中に新兵器の試作、柳行李くらいの大きさのアルミ合金生で中に滑車とバッテリーとモーターがあり、箱の両端にワイヤが出ている、そのワイヤーを、どこかに打ち込んだ2箇所の杭にフックで引っ掛けて、アルミ柳行李が杭の間を、ウオーウ・・サオーウする、あまりにも多いソ連の戦車群への陽動作戦らしいが、使われる事もなく事変は終る・・その2年後ノモンハン戦で出撃の前線飛行場に私は勤務しましたがその話は機会あれば又・・今朝の朝日新聞のコラム「ポリティカにっぽん」に・・<「新体制」という言葉が、最近例の大連立に関連して福田首相の口からも出たことを指摘し、<「大連立」も「新体制」、「大政翼賛会」も「新体制」。何かいやな符合だな、とつい思ってしまうのはやむをえない。>と書いています・・ 当時の私は新体制は悪いものでないと思っていましたが、その結果を身をもって味わったせいか、「大連合」≒「大政翼賛会」かなーとも思います、ちなみに戦前マージャンで「新体制」と宣言して、パイを変えないで、欲しがりません勝つまではとか・・これは年齢のゆえに感違いかも??では又 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.03
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島津青年学校20歳記念写真新京極で後方真ん中播翁12月3日(月)曇り皆様前回の続きです私立島津製作所青年学校の講師下士官上等兵は始めの間は銃剣術のお相手くらいで余分な話しはしてくれなかったが慣れてきて職場も同じとか又徴兵検査が近いとかで数人の人とは特に懇意になり色々戦場の話しを作業中でも、してくれた、今回はそれを主として書きます。会社は戦場帰りは特に優遇して採用していたよう、南京攻略の時は「便衣兵に気をつけ」怪しいと思う時は機先を制して撃て、独断専行、これについては京都の伏見の軍の操典類を売る処で買い、読んでいた、非常にうまくかいてある、世で言う「臨機応変」とでもいうか??朝鮮の師団を満州へ越境進軍させたのも独断専行、「現代の商売にも独断専行が応用」我々兵隊は必要ないが、とにかく、南京城の残留兵掃討には、相当無理をした由(例として一個小隊100~200人くらいを分割して下士官の率いる10~20人くらいの分隊として残留兵掃討を行う場わい、小隊長・中隊長・大隊長・は現場の行いは掌握出来ない事後報告で・・フンフンと、但しその隊長の近くの分隊は独断専行独断専行は行われないと、又憲兵の数も少なく被害者の有を見て何処の隊がとか、任務上調べるだけとか??放火は中国兵逃げるさいが殆どだが、日本軍も手に余るさいやった由、レイプはよほどの機会がないとやれない、殺すか殺されるかの間際には、いくら本能とはいえ出来ないとか、只少し安定??した頃見回りのさいに、小隊長や憲兵のイナイを見極めて行う者も多く??オオムネ予備兵の召集兵が大胆にもやったが多いと(予備兵とは色々あり「中には3ヵ月の銃の扱いだけ受けし者また2~3年勤務のあと召集されし者」これらは非常に悪質だとの証言を講師が(私立島津製作所青年学校の講師下士官上等兵)した。でもあなた等はと単独の折聞くと、レイプもしないとは断言できん、しかし後で顔を見られて困ると殺しはしなかった??と・・後で金品を与えて・・ごまかしとか??色々あるが、とにかくヤバイ時は撃たれて一巻の終わりだから、撃たれる前に早い目に撃てが教えであった、私の兵科が飛行隊と決まった時は、前線の整備もヤバイから気をつけよ、又操典類は歩兵も一緒だ勉強しておき、又一年間の初年兵時代は辛いぞ今から覚悟をと強く言われたことを今も思いだす では又 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.03
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2007.12.03
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12月2日(日)晴れ 20年前の「語り部」盛んな頃の新聞寄稿と写真をブログに入れていま、見にくい写真ですが見て下されば幸い以前の会社寿重工業時代も「紫煙」の会で詩や俳句の真似事で仲間入りして配達係りしているうちに、プロレタリア作家の本をよく読んだ、島津へ来ても知らず知らずの内に共産党員との付き合いができた、夜の会合に来ないかと誘われるもいかなかった、いかないよりも夜学の友もで来て行けない、もし行っておればどうなるかは??夜の学校の友は、運動に盛んな人がおり、スパイクも用意してくれて、岡崎公園でライトもない運動場でよく走った、先生は陸軍飛行隊の嘱託技師で熱心に、内燃機関を基本から丁寧に教えてくれた、後年甲種工業資格の試験を取るのに非常に役だった、さて昭和12年に私立島津製作所青年学校が作られて20歳までの男子全員入学させられた(お上の指示指導があったよし)今此処に当時の職員録あり昭和16年5月20日現在・丸秘とあり私の軍隊入営直前のも、その中を書きます、高田校長(少佐)専任教諭(将校)9名講師(下士官と上等兵)62名です。そして余分ですが入営中・・氏名と殆ど戦地の部隊名が書いています93名、職員数は450名工員入れれば1万人これは推定です、そしてこの中には講師の中に南京戦やノモンハン事変に参加ナマナマしい、体験を特に私は入営が近いというので特に念入りに講習してくれました。この職員録を広島で郵便局か自宅に私服や靴等を送るのに順番待ちで、民間ぼの軒先で休憩で座り込み見ていると、憲兵がニコニコして、近寄り、幹部候補か??と(私は学生服でしたのでええ種の生徒と勘違い??)違います・・何を熱心に見ているんだと職員録をモゾキミ私から渡しました、ぺらぺらと捲り笑いながら、これはナー隊に持ち込むと、永久に手元に帰えらんぞーと又笑いながら、ハイと答えて、郵便局で貰った油紙に、服のポケットに入れて母の元にかえしました。憲兵のニコニコ顔の意味が未だに分りません、当時憲兵は怖いものとの思いがありましたので、私らの緊張を和らげる為かも。長くなりましたでは又 播翁mailto:sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.02
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12月2日(日)晴れ京都嵐山公園 島津製作所の仲間と前列左播翁17歳の春播翁です皆さま今回からは昭和12年(1937年)~15年くらいを私の記憶を先ずたどりますが、後世の記事を参照して私なりの意向をも書きます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦争反対の者はいました「寿重工業」では私が見習工という事で先方のほうから、政治向きの話しはしてくれない、暴力団員の者とはよく知り合いになった、入会を勧められたがかたくなに断わる。3年の見習期間を得て規則では後3年は辞められないのを、お願いして退職、京都の「株」島津製作所にある人の紹介で入社しました、此処では軍需製品を多く生産第一造兵課、後第二造兵課も・・この会社では夜学の通学を(残業止めて)あまり、嫌な顔せず認めてくれた科目が機械製図科ゆえもあり・・此処では共産党員は相当いました、でも下っ端の党員ゆえ引っ張られることはないよう。大日本帝国・大日本帝国天皇と呼称することと外務省から・・国会で勇敢な議員がいて軍の政治に介入とか軍を批判、軍も負けずに応答、腹切り問答なんていわれていたが、国家総動員とかで国のためにはモロモロのものは統制、男子の長髪禁止、12月末ころ会社から御所まで提灯行列(当時は虐殺の言葉は全然聞かず2年後くらいに期間兵から詳しく聞いた)昭和3年の御大典でこの道を又万歳万歳と、ヒトラー・ユーゲントというドイツのパホーマンス団体が来てあちらこちらでPR私が気についたのは一人がタバコを吸うののマッチを摺ろうとすると、数人がより来たりそれを使う、マッチ一本でも節約とか、足が長く帽子も服もカッコよく親善には役たったようだ・・国民政府を相手とせずが報道された、後年調べると和平交渉が決裂したよう??代用品や、木炭自動車、物が不足しているのに、戦争は激しく、日中戦争は泥沼に入ったよう、万歳万歳と熱狂していても、ふと将来大丈夫かなとの不安が心をヨギッタことを想い出します、国会の腹切り問答のような議員がもし相当の数があっても、こう軍部が独走国民もマァまぁやれやれが大方の意向??後付けで知ったらしく延々とMLで演説する人もいるが??反吐が出そう。以前マスコミのボス・ナべツネが軍隊に入り初年兵の私的制裁が酷いのでアンナ野蛮な軍隊嫌いと、述べたまわっていたが・・では野蛮でない軍隊ならいいのか??私も1年間、薮田輝ノ助という野蛮な班長に凄くやられたが、仲間と帰還したら復讐をと約束したが、2年兵~3年兵~4年兵~5年兵となり、初年兵は3年兵になり来たが、申し送るように初年兵は気合入れなかった、為に軍曹からみんなの前で倒れるくらいしごかれた、薮田班長もうまく日本の飛行機会社が忙しいのでと、満期(当時は終戦前で飛行機作る資材もなく??うまく帰還)仕返し仲間とそうだんした、アノ班長に顔は隊一のぶさいく男、ブス男、ゆえに我々普通の兵隊が、女友達から手紙が来る度に、凄く狂ったように気合を入れた、ゆえに堪忍してやろうやと決めました、そんなコンナで色々書きましたが、今回はこれで では又 播翁 記すメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.12.02
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11月30日(金)曇りさて昭和9年(1934年)から昭和11年くらいまでは戦線拡大だった新聞にもその有様をよく書いていました、私も仕事にも馴れて勉強もよくしました、若いからでしょう・・朝早くから会社そして学校そして友との遊び・・遅く帰るの毎日よく体がもったものと今振り返り感心します。2.26事件・・渡辺はま子の「忘れちやいやよ」は発売禁止・・明るい話題では映画で見ましたが前畑ガンバレ・・「民族の祭典」第11回オリンピック、の映画は見ました、ヒトラーは日本選手をよく応援している、最期は、手をフリ今度は東京でと愛想を振りまくり(日本語の説明付き)熱狂していました、当時は映画今もTVやマスコミ・・の働きは大変大事と思いました、昭和十五年予定のオリンピックは中止でした。映画の終わりには二ュースがあり必ず戦争の戦果がダイダイと、一市民の我々がこれはおかしい中国への侵略だと言えば、とんでもないことになる、でもマインドコントロールでなく、私等は生まれながらに、日清日露戦争は日本が成り立つ為の戦争で満州の権益は日本の生命線だと・・いや話し合いで(露西亜とも)すむはずと戦争知らん若者は言うかも、でも日清日露戦なければ、何処かの植民地になるはず、いやいやならないというお人も・・・これからの日本は?国連決議では派兵可能なんて小沢氏・・何時までも米国追従を止めぬ自民党・・私は屯田兵のようにして国土交通省の配下にいれて、道路作り等やらせと??・・非常によい案ですが実現に向けては、大変ですね「恒久平和調査局」の設置になぜ議員たちは皆消極的なのか分りませぬ。又長くなりましたが、次回は昭和12年から15年くらいの世相を書きます。播翁記すメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.30
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前列右播翁最初の作業は機械なんて触らしてもらえない、旋盤やその他の、切り子(切り屑)の整理、真面目にやりました、少しして検査科に回されて、図面を見て、加工された部品の合格不合格を決める作業、北班長と言う親切に教えてくれる人がいた。確か昭和9年か10年今日午後から東條閣下が視察にこられるから道路を綺麗に掃除しなさいと・・2~3人の部下とあちらコチラと見回しながら通られた。後で先輩から、満州から東京に帰られる途中京都で降りたとか、後年戦車のキヤタビラや大物の機械部品の注文が来た・・会社も「寿製作所」が「寿重工業」に名称変更。その前後だったか?ストライキが始まった、これまでの労働者退職積み立て金が、法律が変わり別の退職金制度に変わる・・為にこれまでの積み立て金を一旦返せとの要求・・(これから数年後厚生年金制度が出来たがその前身かも??これは定かではありません)今日は残業なし全員食堂に集合・・水谷長三郎(水長)がこられる、2~3人で食堂近くへ来ると、白い幕に「あなたたちの要求は正しい」と・・私等は学生服で派手がましいので裏の方から入ろうと、行くと2~3人の黒い服を着た人が一人を、囲んで立っている手錠は嵌めてあるかわ見えない、近ずくとその人と私の目があい知り合いなので、どちらからともなく、頷くように挨拶をした、途端黒服の一人が私に近寄り「お前あの人を知っているのか」「ハイと頷く」途端に「お前もこい」と腕を掴む、その人との関係は「紫煙」の会員で、詩や俳句等を作りわら半紙で刷り・・私は配達係りで、それを届ける役目で知り合い・・私は「いやですと」叫びましたので、工場長や(水長)さんの秘書らしいのがきて、工場長がこの青年は学生で未成年者です・・私に「此処へは未成年者は来たらイカン」と・・早々に門を出ました、全員集合と言われた・・返す言葉も出ないくらい怖かった。黒服は特高で捕まえられたのは共産党員の由、後でもしお前連れて行かれたら大変だぞーには・・背筋がぞーっとした。後日他の共産党員の奥さんは、中国へ行きました私も後でゆきますと、言っていられた由。とにかく特高は逮捕状無用で連行・・コンナ小さい事より当時は凄く逮捕監禁虐殺があった「これは後年知りました」では又 播翁 11月29日メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.29
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新聞の求人欄に機械見習工募集・・会社指定の夜間工業修学も可とあり、応じて採用されました、その時代は不景気でしたが生産企業は人手が不足らしく中途採用が度々(今から思えば軍需産業が需要増えたよう)スフ(人絹)を作る為の土台となる機械を製作、後に戦車のキヤタビラ等製作。中途採用と夜学の中途入学で少し戸惑うが、色々と親切にしてくれる方が現れたり・・京都のメル友さんで少し年配の方ならご存知、京都駅南出口を西へ八条道油小路のあたりに、お旅所(現存)鋸屋根の鐘紡紡績があった、そして東側に、寿製作所、後十条に移転、寿重工業に改名、色々なことがありました、ストライキとかで水谷長三郎(水長)社会大衆党議員、来たり特高も共産員も、東條閣下も・・私の希望は機械工でも少し人には出来ない何かを身に付けたいと夜学でもと思いましたが、四年制で二年に編入されましたが、授業料は会社持ち本題だけ本人、受け見ると半分は居眠り又先生もスラスラ読み上げるだけで、これではイカンと、籍は温存しておき。。市立の専門学校・機械製図科(これは軍の渡辺技師でした)通いました。相当長くなりますので今回はこれにて・・『私の体験した世相』を取り急ぎ寄稿するのは数年来のメル友とリッチ方式で楽しく交信していたのが途絶えていたのと多くの人から私の若い時代から(大正)の世相とこれからへの反省??等を請われて、できるだけ早く済ませたい(でも素材は多く)今日も通院で膵臓の瘤が3センチにで2週間ごCTスキャンを造影剤入れての検査、今書けるだけ早く書きたいが私の希望です、どうか宜しくお願い申し上げます。 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/.jp/~skk/
2007.11.28
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高等小学校出て半社会人時代のモロモロの話し 乙訓高等小学校は3年制だった、時代の流れ波により軍隊の学校に入ることを思いつき色々調べて陸軍兵器学校だったか、陸軍工科学校だったか??私は頭があまりよくないが、手工科と唱歌は何時も「甲上」矢張り年老いても日曜大工は今も体悪いがやれます、又歌う事も詩吟カラオケは人並みに・・「芸は身を助く」とか軍隊時代も社会に出てもそれなりに役立ったようです??陸軍の学校にはいるのは親(特に母)に反対されて駄目・・父はお蚕の仕事も絹物が不況で駄目、昭和3年開通の今の阪神電車に勤務私は機械で身をたて様と、高等小学校2年で中退しばらくして京都の会社勤めしながら夜間学校、私立京都工科学校に・・軍需生産ではないが段々兵器のほうに向かされていました。京都の人はご存知でしょうがあまり大きい工場はありません、数えるほどの会社です、段々と本格的な戦争になりつつありました、新聞には毎日何処何処占領の記事や写真で紹介・・この時代には嘘情報でなく、勝進めていたよう??次回は初めて会社勤務の事やその周辺のことなぞを書きます。 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.27
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高等小学校時代のモロモロの話しを 映画がトーキーになり(それまで無声で弁士が説明していた)迫力があった、夜間校庭で、戦争で攻めている場面とか大砲のドカンドカンの音、日本兵の塹壕から飛び出して進む有様・・そして最期は戦地ではこのように闘っている、皆さんも、贅沢は止めて(マージヤンをやったり・遊興に耽る国民の姿が映りだされ)戦地の兵隊さんになった気持ちで・・・との説明があったよう・・当時は向日神社の前方100米くらいに芝居小屋があり一月~二月くらいに一回は芝居・・時々映画(活動写真)が上映されていたが、活弁の説明だが、音の出る映画に・・魅せられていた・・新聞では爆弾3勇士が報道・・★その当時のことを後年調べると今のパキスタンの軍制に近い弾圧をしていたよう、新聞でも私等の耳にはほんの一部しか入らない★第2大戦になり国民を助けない軍隊と言われるほど悪評の軍が、白木屋百貨店の火事では軍用飛行機を飛ばして助けている、当時は軍も少しは余裕が??天の橋立て修学旅行で、舞鶴工廠見学・・見学用の軍艦「吾妻艦」の中を見学・・世の中戦争一色であった、満州国認めん等々緊迫した空気はもう分る年齢であつた、でも今のように侵略とか正義の戦争でないとの言葉は・・捕らえられた、一部進歩的学者や・プロレタリア作家・共産党員等・以外は思いもせずが真実であった。ここで言い訳をするようだが、普通一般の人は当時のことを、やれ「騙されやがって」とか、「マインドコントロールにかかりやがって」とかを言って責める人は殆どいない、ご苦労やったな・・が多い・・そのためにも戦争反対・・ほんの一部の跳ね出し者だが、絶えず旧日本軍の体験者を忌み嫌いながらの平和?メールにはウンザリして又それらの記事を尊重・・私が抗議しても、責任者は、相手は有名大学出の現代っ子、新聞寄稿では絶対出ない馬鹿げた投稿がドンドン出る現象に、肌がぞーっとする感じ、そんな者こそイラクえでも出兵して苦労さしてやりたい思い・・・話は逸れたが、分る人は分かるでもコチラが悪いと言うでしょう・・ご勝手に・・社会人になってからのモロモロを次回 に又 播翁よりメール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/メール=11月27日(火)晴れ
2007.11.27
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昭和7年3月(1932年)向陽尋常小学校前列左より四人目播翁11月26日(月) 晴れ昭和7年3月小学校卒業43名写真に(47名で4名病気とか色々で欠)43名の中で11名が着物で羽織袴・・後年戦死は十数名・・袴でもキチンとゴム靴を履いている・・高野校長は付き合い短く、隣の柚木(ゆのき)先生は3年より6年卒業まで、最近まで生存100歳を軽くオーバーされていた、卒業間際にコンナ事を言われた(1)今の日本の平均寿命は47歳(2)赤穂浪士も47名(3)この卒業者は47名・・47を覚えておきなさい。(1)の47歳は子供心にも少し若くておかしいと質問者が出るも、不治の病とか子供が生まれての病気に対応が悪いとか??戦争での戦死者はその当時は微々たるものらしい・・後年続々と死者が・・昭七会の同窓会作るも数年前嵐山温泉での会を最期に、寝たままの者、認知症の者続出、同窓会は空中分解??卒業して即少年飛行兵志願3年位で戦死の神崎屋の今の兄、布施俊一君後方右より四人目、その前の列右より二人目一番よく出来た京都大学(当時は入学が大変だ)海軍中尉・・昨年死亡・・すでに戦争は半年前に満州事変はじまり、上海事変とか、段々戦争の渦巻きは大きくなりつつあるを子供なりに認識していた、吾も吾もと軍隊志願者が増えつつ・・なぜアノ忌まわしい戦争を止められなかったか?? 現在のシルバー青年に答える言葉はない、後年に後付けでは、なんとでも綺麗なことは言える、例えば、満州国なんて作らず又、日清日露戦争なんてやらず話あいで・・黒船来るで当時の交渉者は苦労したらしい・・現代っ子や団塊の子、なんかで、大学出て、くち先だけ達者な輩は、やれ無謀な戦争、日清・日露・日中・やりその負資産のみ残しシャァシャアと生き延びて、外国の沢山の遺骨も持ち帰らず、外国兵の偉いのを見習えとか、外国かぶれの、大アほーも・・南方のジヤングルを怪我をしながら戦友のお骨を捜し、もち帰る将兵の声には耳を貸さずに平和平和、政府の戦後処理のまずさを、戦争体験者に追い被せる大アホー・・卒業式から、脱線を元に戻して・・アノ2.26事件も確かに軍隊内の勢力争い、でもあれがなくても、遅かれ速かれ戦争はやった??なぜ??軍隊があったから・・正解かも、では天皇の軍隊が無ければ??露西亜の共和国か、英国の属国か、米国の属国か、今の日本は米国には首っ玉を握られて、オーストラリアや英国のようにイラクからジワジワ撤退できん、油入れるのを少し止めただけで米国はイライラ、でも小沢氏もおかしい。国連決めた事なら兵を出す、憲法変えずに兵を出すの暴論?? では又播翁より メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.26
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11月25日(日) 晴れ昭和9年頃パーマネントが流行った数年でなるべくイカン&止めなさいに、もんぺ服(これは着物の裾をそっくり入れて便利)に白いエプロンの愛国婦人会・・国防婦人会・・スカーとは短いもの、柄は陰気?地味なもの、ぜんたい流れとか空気で、派手さを求める方向にはゆかない。男性は水兵さんのズボンに似せてセーラーズボン・・又トップズボンの裾がトップに・・模様ものや、色物の、ワイシャツは敬遠された、市内では出来ないが、向日町では表に床机を出して、日差しの好い日は、日光よくしながら将棋に興じている姿のお年寄り、戦争に往かない又往けない年齢・・私のように88歳なんてあまりおられないよう・・おおむね60歳??まで、会社勤めの若者も会社は殆ど日曜キッチリ休みは無く若者の数は少なくなっているが分らない、私は会社勤務兼夜学なので、殆ど毎夜4条河原町から3条までの、河ブラをしました、矢張り若者も多い、平時日本は20師団20万人戦時は3倍~4倍となると60万~80万が戦地に・・これは単純計算ですが??。玉突き・・アイススケート・・映画・・気が向けば・・祇園乙部にシケコミ芸子との遊びも・・短いながらも青春をもオウガしていた、この私のような人間も、戦場拡大そして英米とも戦う頃は殆ど駆りだされて戦場に、夜の「河ブラ」も少し若者は減っていた。 では又 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jp HP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.25
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11月25日(日)晴れ昭和7年~15年くらいまでの幅をもったあいだでの学歴と戦歴とかを書きます。満州事変がおきた頃アノ人は陸軍の将校でとか上等兵さん・・現在のJR向日市駅から阪急東向日町駅までの道路の中ごろの北側に、青山荒物店?金物店(何でも売っていた店)私の子供の頃、そこのお兄さんは、「渋少尉」と言われた、中学校出て一年軍隊ゆき、少尉になられた、しぶしぶなったので、「渋少尉」と言う、小学校6年プラス5年の旧中学校?一年軍隊で教育されて少尉、我々に先輩が教えてくれたのは日露戦争等で、塹壕から飛び出し指揮刀を振上げて突貫と叫びながら、先頭きって進む、ゆえに敵の矢玉に会うこと多く死亡も・・それくらいに先頭に行く者が必要だった、優しいそうな、お兄さんであった。向日町警察署は私の町内の「上の町」にあったが戦時~戦後までは向陽小学校の南80米くらいの処、今の京信銀行あたり(現在はその場所から南西へ400米くらいに)警察では剣道柔道を小学校の生徒の放課後、教えてくれて優秀な先生が来て・・その助手に寺戸町の岡崎さんが来てくれた、背の高い優しい人、軍隊は上等兵とか、我々小学生はこのように放課後は遊び心で過ごし、日曜日は、同志社の女生徒さんが羽織袴で、明神さん(向日神社)の境内あたりで賛美歌を聞いたり、でも上の学校jに行く者は放課後の勉強があった、大学目指した者は少なく、5年通い師範学校試験とか、そんなコンナの世相ですが、学歴の差別は無く、皆がアッサリと受け入れていた、あすこはお金持チ・・あれは頭が良いので・・彼の家は格式ありとかで・・妬み等を起さず、素直にう受容していた。岡崎さんはノモンハン事件で太ももに貫通銃創を受けて私等に見せてくれた、俺も又赤紙来る、君等ももう直ぐの現役か赤紙で往くのだな・・心の整理はしておく様にとのアドバイスはくれた。播翁 では又写真は八甲田山記念塔メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.25
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11月24日(土) 晴れ昭和9年前後(1932年)は私は特に記憶は鮮明です、室戸暴風(当時は台風とは言わず)で死ぬめにあう恐怖又父の死、戦争は新聞に頼るしかなく、何処何処占領とか・・新聞の将兵の写真を母は手で撫でながら兵隊さんありがとうと何回も。(後年に判明したのは,殆どではないが嘘おおく・・終戦一年くらい前からは殆どが嘘の情報ばかり・・)その頃からは、「出征兵士の家」と表札が出なくなった。吉川栄治の宮本武蔵が朝日新聞に、又のらくろ二等兵等、時勢に合わせている訳ではないが、読み漁りました。町内の出征兵が戦死戦死の知らせが多くなった、白木の箱には、小石か砂が殆どで遺骨が入っていたのは聞かない。何時まで戦争は続くのかいずれ私の徴兵検査頃(数年後)も続いていだろう??★その当時の★事変や戦争に対しての私のおもいは、現在のように侵略とかの言葉は出ない、やはり何百年ま前から、世界で殖民地への戦争とか、それを避ける為の戦争とか・・日清日露戦争もしかり、正戦争と簡単に信じ、又それが世相の流れであり空気であった・・(今日も)●<70年も経っているのに、今なおその実態について日中両国で論議がいろいろ分かれています。一体南京で何が起きたのか。今朝の朝日新聞は、これまでの実証的研究を・・・>●を私は当時は(時代を数年進めると)南京戦帰還ノモンハン帰還の下士官兵より、職場の青年学校の指導員の多くから、南京戦では、民間人も便衣兵と判別??不能の時は・・上官よりの指示命令で殺した、又場わいにより放火も、レイプも・・・それを聞いた時にも、戦争はコンナもの、私も近く往く身と色々質問したりして教わる・・但し国連が出来てから??否・・時代が正戦争の文字が生きていた頃より、人権国権を重きにの時代と変われば・・当時の私のおもいは・・180度変更が必要です、以上が約68年と現在の世相(空気とか流れ)との相違です。話を飛ばしてしたり色々と混雑ですが。 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk
2007.11.24
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11月23日(金) 晴れ「出征兵士の家」と表札が出てしばらくして、戦死者が相当出たよし、万歳万歳と見送り盛大に見送っても、戦死者の遺骨を家に届けられるのは、あまり見かけないくらいにマバラであった、でも相当多い、夏のお盆に学校から、寺戸山お墓から大江近くのお墓まで役場から貰ったらしく書類を見ながら、お線香をあげていた女の岡崎先生・・にならいお線香を・・いずれは男性は国の為にと??言っておられた。私の町内の大芝さんは師団そのまま支邦に移動(万歳の見送りはなく)知らぬ間に戦死。寺戸山の墓正面に2メータ位の大きい石碑が建っている、その他アチラコチラと石碑は増えましたが、米英大戦起こる頃は石碑が小さい木の墓標になりました。それでも、戦争は勝ち勝ちの連続と内閣情報部??たとえ負けていた事が分っても、止める方法は無かった筈、ここで面白い事は、そんな馬鹿な戦争よくしたな・・・国に騙されてアホーが・・との批判・そうです、でもそれを批判する人がその時代に居合わせていたら、私は命を張ってでも戦争を阻止すると、プロレタリア作家や進歩的学者のような態度をとれるだろうか疑問??です多分、大言壮語する者ほど、どちらにでも、転ぶかも??空気や流れが戦争に向けば止めようがありません、知らぬ間に体制翼賛会が作られたり。現在ではその時のように体制翼賛会的なものは、出来ないが??それも分りません??そのためにも、右翼作家や右翼議員に眼を見張る必要があります、特に選挙には、シッカリとした・・買収に負けない者を選ぶ事しか・・当時に比べると、今は激しい体制阻止はありませんから 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.23
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差別と戦争について今回は昭和8年~昭和14年頃まで幅広い期間で差別区別等について書いて見ます、私等の住む京都はアチラ、コチラに部落民と言う部落があります、後年調べたり京都教育方面からのビデオ等で教わりましたが、12~13歳頃は知りません、然し私の親戚が、部落近くの村に存在して、学校では顔見知りになり外の人は少し敬遠し勝ちですが私は仲良くしていました、只その人達の家とかは出入りできませんでした、でもこちら来てもらいました、先方の親御さんが気を使い??極普通の人達です、他の村の人と結婚は特別な場わい以外駄目、但し現在はそんなにありません、詳しくは別にして、子供時代は差別区別はありませんが「ええ種の子」とでも言うのがゾンザイしていました、親が先生とかお医者さんとか村長さん等々極自然に差を覚えていました、それがどうのコウノではありませんが、成績のよい子、運動会で成績のよい子、矢張り出来ない子は自然僻み勝、それが、鬱憤晴らしで、現今だはよく出ますが、当時は極自然に泣き寝入りでした??でもそれが、国策とか国是となると大変です、亜細亜は日本が盟主で韓国は日本に属し面倒見る??支邦等ロシアから守ってやるくらいの「おごり」国からの情報誌で、地球上の生物殆ど強いものが弱いものを喰らい生存する、ドイツ民族は優秀でアノ方面は支配者等々、そして劣等民族支邦と蔑視を色々な方面で学者が書き連ねる・・難しい戦争論がありますが、私等子供は頷きました。その頃の教え??は今は消えている筈でも、三つ子の魂百までとか、はっとすることがあります。TVでご意見番とか??元野球選手、張り受けと野球場で元シベリア帰りの監督から捕球練習を・・見たり・・そんな例をあまり挙げるのはやめます。差別が戦争にとはいえませんが??アノ大国英米を鬼畜と蔑視してのPR等々 播翁 メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.22
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11月22日(木)晴れ昭和始め(昭和4年~昭和8年頃)満州事変が始まった頃より修身科は勿論歴史科の先生等は日本軍は支邦軍の徴発で始まったのです??又他の先生は立派な大学に先生や色々真面目??な人達が拷問とかにあっている??私はその時は深く質問もしなかった。町内のなかで2軒くらい表の表札の上に表札より少し大きい目の板に「出征兵士の家」と書かれて張ってあった、学校から、稲刈りとかお手伝いに2~3回ゆきました。又コンナのがありました、各家に兵隊を泊めてやって下さいと町役さんから通知・・二人泊めました、ご飯は大きい家で沢山炊いて取りにその兵隊さんが行きました、翌朝飯ごうを洗ってあげました、隊長さんとか偉い人は、町内の富永屋さん(昔は旅館で参勤交代で大名が泊まり表のひさしには大名の名を書いた大きい額が10個くらい掲げてあり戦後消えましたが)は親戚からお姉さんたちを集めてお手伝い、私らの二人の兵隊は上等兵と一等兵でこれから行軍で九州へゆき船で多分支邦方面ゆきですと、私も数年もすれば往かねばと心が引き締まりました、一人あたり何十銭かの代金をもらいました。当時はコンナ侵略戦争によくもでかける??と批判する者はそこいらにはいません、言った人は皆逮捕。皇太子が12月の末ころ、生まれられた、歌まで出来ていました、私は不忠者かもあまり天皇さんや皇太子に心から尊敬とか親しみとかは持てなかった(小学校出て尋常高等小学校「3年制」一年の時だと思う)母の言っている背嚢(猫背のこと)天皇の子供である・・ちなみにあれから74年得て柔和な顔で背嚢を担っていられる背嚢負うから戦争するんかな?とも思う??(当時は)そんなにも憎し天皇でなかった・・でも終戦後、天皇制度を憎むと、天皇も憎い・・柔和なアノ顔の人柄が好いとフアン多く??でも私は制度も天皇をも不必要・・否あってはならない制度(但し民主制度では)そんな戦後の天皇制不要論は何処からでたのか??初年兵で動物並の酷い仕打ちでの反動?そんな小さいものでなく??又後日書きます 播翁mailto:sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.22
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11月20日(火)晴れ今回は大正末期から昭和7年位の世情??を色々父母当から聞いた事や興味を持って友と考えたりした事を書きます。母が天皇さんの話が出た時に、今上天皇さんは、背嚢負うていなさる(背嚢とはランドセルのようなもので軍人の完全軍装では欠かせないもの)少し猫背に近い姿勢「今の天皇も少し寝背」その他天皇は何処から来たか?眼尻の細長さ、又その、延長線が耳の上とか下とか又その目つき??等北のアイヌ系?南の熊襲それが、朝鮮とか唐の国??父はそんな話をして学校で喋られたら、先生に叱られる止めときなさい、でも止めない、大正天皇は少し頭がおかしかった、親戚同士、従兄弟までの、結婚は、何代目かに、可笑しい子が、又何台目かの子は、特別偉い子供が(まるで遺伝学の先生みたい)母は仕事の関係で色々知識のある人との付き合いがあったので、よく知っているよう、只コチラがついてゆけない難しい話だった、又例を挙げてくれた、隣の町内のOOさん、表札に(少し大きい)大名家OOOOと書いてあり、アノ家も先代までは立派な大名の子孫で賢かった、又何処何処の□□さんも今は落ちぶれて駄目時代、でもいい方は、町内の△△さん出世して京都府の偉い仕事を。私はそんな話の興味ある友と調べて歩いた、私等は漢字は書けないが読むほうは出来た頃、表札で少し多く右上から(士族)真ん中にOO次郎・・又中には、右上に(平民)真ん中にOO太郎・・(士族)は4軒くらい(士族)とあるのは15軒くらい、但しこれは私の町内と隣の町内合わせて100軒強・・父に私の家の表札には何故(士族)(士族)が書いてないの??と聞きますと、平民に決まっとるから、書かん、書いてないのは皆平民。先生に友と報告すると案外褒められた、向日町は約1200年位昔、都が十年少しあったので、その当時は大名も多く、京都に都が移って、大名も減り、昔の儘の名残で書いてある、咎める者もいない、但し家には、古文書と言い証拠になるものがあると。長くなりましたので、昭和7~8年頃表札に「出征兵士の家」の看板とか、今の天皇生まれた時の話とか、差別・・部落・・についてと、今で言う格差とかをも書きます。播翁メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.20
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11月19日(晴れ)寒い昭和はじめの私等の遊びを書きます、一番楽しいのは学校の裏側にある向日神社境内付近で遊んだり、下に降ると小畑川、夏は裸足で、魚とり、水遊び、日曜日は校庭の端にある大橋家のはなれの家で日曜学校が開かれて、同志社の生徒さんや時には牧師さんが来て讃美歌を歌ったり、幻燈写真(今のスライド)を見せてくれたり、今の向日町教会の草分けです。向日神社は別名(勝山明神)ともいわれ、豊臣秀吉が朝鮮攻めで九州に視察に行くさいここを通り、この山のお宮さんは何というんだ??向日神社と家来が言いますと、これから戦に往くから勝山明神だ(かつやまみようじん)「なんとうまくこじつけた名です?」隣の小学校在学中、運動会の応援歌に勝山明神との歌詞があり一生懸命応援したことを覚えています、満州事変近くになると学校から月一回この神社に戦勝祈願のお参りがありました、忠魂碑もあり(大正3年「1914年」向日町有志者の銘)、又境内控え所には当時大きい額に日露戦の戦利品が入れて掲げてあった、手榴弾の破片、小銃の弾、その他多く、(現代なれば即盗難)戦後消えました、忠魂碑はGHQから処分せよの指示にも、うまく隠して保存(終戦当時は侵略で靖国同様に厄介扱い??ではなく国に尽くした英霊と、但し現在の皆さんの意向は分りません??)現在では勝山明神を略して向日町の明神さんの愛称で親しまれています。当時は(いじめ)はあまりなかったようです、たまにはありますが、誰かが先生に告げて先生が注意して終わり、もし続いたり酷い時は親が呼ばれて注意ですみました、PTAとか煩いのは当時ないので即解決。親に注意されたのは遠くえ少数で遊びに行くな子取りにとられて何処かえ売り飛ばされる(但し当時行方知れずの話は聞きません親の「脅し」親切な注意かも)現在では、子供でも行方不明や殺人多くこ殺伐です。京都市内の親戚のこども等が遊びに、小畑川の水遊びや、鎮守の森でのお遊びには、うらやまれたり??そんなコンナでの子供話です。 以上播翁では又
2007.11.19
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11月16日(金)晴れ昭和3年御大典頃から日本は不景気で何処かえハケグチ?とか日本の儲かる、得する?政策とかを国が考えてくれているんだろうくらいにしか。大人の人の身体は今より少し背丈は少し低く又細くて病人同様女性も矢張りスリムで胸あたりもフックラト出ることなく、又大きい胸はなるべく小さく見せるのが流行?姉は何時も女友達とそんな話をしているをよく聞いた、今のように毎日肉を存分に食べれないから?統制とか割り当て配給制は未だ行わない。昭和4年頃か御真影(天皇さんの写真)が来るので校門で出迎え、蔵のような立派なところに保管(昭和7年3月の卒業までその写真を見たことがない)後年調べると不況の中で退廃した世相はエロ・グロ・ナンセンスを求めたり、色々な事を大人はやっていたが子供の私等にはわからないが、(昭和12~15年頃はエロ・グロ・ナンセンスやダンスホール、カフエー、準戦時体制になっても裏では、自暴自棄?に近い気持ちが心の奥にあったのは、否めない)これからの日本も毎日毎日、TVで芸能物、色々なスリルとサスペンスに富んだ凄いのがそれも人間の本能が求めるもの、しかし興味半分で,防衛省問題、年金、を眺めることなくその本質をも見分ける心構えが必要と私の心に言い聞かせています、しかしわれ我々一市民の力でどうにも成らない、矢張りその時の政権を握っている側にあります、当時も大人達が(大先生も)矢張り戦争に向かうのを阻止せんとして、凄い残虐に合われ・・・これからはそんなことは言いきれないそのような体制になれば阻止できない、大きい渦となり竜巻となる。・・・・さて私の6年生(昭和6年)中村震太郎大尉、中国・興安嶺方面の軍用地誌調査の密命を受けて勤務中、見つかり殺される、歌にもなり、今も一節は丸覚え、・・・(国家の保護と国権の維持とは兵のちからなり尊き使命負う身にはなんのおそるる事やある・・)熱狂して歌ったもの、これが本当の軍国少年愛国少年??今から想えば、騙されてアホーと、そうです私ら同様に騙されんように、騙されて酷い目にあったから、言える言葉ではなかろうか。先生の中では1/3位は中村震太郎大尉事件が引き金になり満州事変になったのを、チラチラと批判していたようです。 長くなるので今回はこれまで では又 播翁よりメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.16
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『大正から昭和初期まで播翁の体験した世相』~10これまで色々書きましたが、その時代の私の見た風情とかを書きます、大正~昭和始めの乗り物は乳母車(現在のように便利で機能的ではない)自転車は小学生から乗っています、夜間前に灯りをつけないと、無提灯と巡査に注意され2人乗りはあまり注意なく、自動車は府下の向日町ではマバラに走るのみ、タイヤ四輪に泥除けのゴム板をつけていた(日本だけであったよう)馬車が鈴をチリンチリン鳴らして、国鉄向日町駅より大原野まで・・軍用自動車や戦車が時々市内で見受けたのは矢張り2・26事件以降、伏見には錬兵場あり(何部隊とか何師団でなく伏見の錬兵場とよんでいた)が市内の百貨店あたりをデモストレーションに来た事あり二度であった。女性の遊びは「綾取り」「はじき」「手まり遊び」等々、自転車に乗るのはオテンバと言われたり親から許されないが多い、男子は、竹馬、駒回し、(メンコ、カルタ、これには軍人の絵が必ず出ていた)手作りの「竹とんぼ」小学一年の読本は、ハト・マメ・マス・カラカサ・、昭和七年?からボチボチ国を愛する方向に??ラジオも聞かないが町内のお兄さん等は伏見の錬兵場で演習やっていると自転車で度々行く。伏見からか??向日町の畑や田んぼで演習があり、田んぼ畑、持ち主の友の話では、踏みつけたり荒らした場所に応じてお金が支払われたと。パチンコ遊びは子供の遊び現在では開店前から並んで待機、カラオケ代わりに盛んなのは、軍歌国民歌、満州事変(昭和6年)私は6年生・・頃より学校の校庭で夜間映画、無声が有声に。なんの抵抗もなく戦争に、抵抗した立派な学者とうは、凄い目にあわされたり。遊び話から怖い話まで。メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.13
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11月13日(曇り)昭和2年頃と昭和8年ころ私の身近で知り合い付き合った朝鮮から出稼ぎに来ていた人の話しとそれにマツワルもろもろの話しをします。昭和始めは子供の私にはピンときませんが、不景気だったよう、子供の前ではあまり話さないが、私にはお金の回りが悪いのかなーの感じはしました、世界的に大不況だった由、例に漏れず朝鮮半島にすむ人は仕事もなく・・それに眼をつけたのか、大量に日本へ連行炭鉱等で奴隷に近い扱いで裁判がありましたが?(1)私の住む京都府向日町では赤土等が多く取れるので瓦が作られて非常によく売れて好評だった。朝鮮の人も混じって仕事をしているのを私は見ている (現在の阪神電車の前身、新阪急電車??構築で線路の盛り土作業)不思議な事には子供同伴で学校にも通学していた、詳しく調べなかったが、どんな身分で??当時は貸し家がよくあり空き家と書いた紙が申し合わせたように傾けて貼ってあった、小さい貸し家に朝鮮の大家族が私の近くにも存在していた、子供ドウシデで外では仲良く遊びました、でも家では遊ばないようにと強く言われていた、私以外にも多くの友もそれぞれ仲間に入れていた、但し国がやったようには差別軽蔑蔑視はしていませんが、矢張り子供らが貧しいゆえ盗みをよくやるので私等日本人より・・と子供なりの差別をしていたようです市内では労働の仕事はあまりなく、コンナ風景は見かけないよう??子供心に貧乏者は駄目?お金持ちは偉い(国に当てはめても現在は発展途上国・先進国)(2)昭和8年ころ私が京都市内の夜学入学待機期間に、向日町の竹細工会社勤務時、大工の仕事の上手い朝鮮人の人が四人会社の宿舎に住んでいまして、私と一緒に仕事をしました、温厚な人ばかりで、日本に前からいる人の・つて・(人脈)を求めて日本に来て仕事を・・故郷は貧しくて餓死寸前??とか、何年ごとに帰るがその時は警察の調べがキツイとか、でもお金を送り喜ばれていると。四人とも好い人だった。以上ですが・・(1)は「瓦熊」との名で今も分散して「熊」がついた商標で存在しています。新阪急電車は昭和3年、京都西院~大阪天満橋六丁目(天六)間、開通(2)は「竹板会社」との名で竹細工の会社で、今は存在しません(竹細工店は多くあります)今は孫さん??が薬屋さんを。以上ですが、その後国策で??戦争相手の国は強く見下げての蔑視政策で・・しまいには鬼畜米英まで・・日本もその上をやりました 播翁メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.13
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11月11日(日)曇り昭和3年(1928年)新しい天皇が位につく式・御大典が京都御所で行われた、私は3年生でした、父や京都市内の親戚の叔父さんから聞いて御大典の意味は分りました。天皇さんについて、もろもろのことを書きます。府下の家も市内の家も全部でないが、明治天皇さんの立派な、ヒゲと、ぐっと刀を握り胸に勲章を飾り座っておられる写真の額はよく見られました、日清日露戦争を戦い立派な天皇さんと教えられていました、素直に聞いて心に締まっておきました、大正天皇さんは脳の病気であまり評判はよくないので、額入り写真はあまり見かけない、私は気の毒な天皇さんとの印象でした、昭和天皇さんは現実には見ないが国鉄向日町駅を通過されるからと日の丸持って駅まで・・号令すると頭を提げて汽車を見ないことと言われていたがソーット見上げると、機関車の輪郭??には白い色のペンキが塗られて綺麗で玩具の汽車のよう、座ってられる人は見えても天皇さんは何処やら不明。昭和天皇さんの額入り写真も全部の家でなく疎らに飾ってあった。私はあの立派なヒゲの明治天皇さんは、尊敬?否親しのような印象をもっていた、私が軍隊に入り上官の命令はそのことの如何に関わらず朕の命令と・・筋金入りにシゴカレ仕えて四年・・その絶対的な朕の命令が、アノ忌まわしい戦争でどれだけ無駄な命が簡単に消滅・・・例は書きません・・欲しがりません勝つまでは・・一億総決起・・一億総玉砕・・と直接には天皇から命令は受けないが、あちらこちらから朕の命令が下る、日本は神国絶対負けない、負ければ一億総玉砕(天皇は一億に入るはず)でも、国体の維持を交渉にヒマドリ原爆の被害も??(言いようでは日本人が原爆で滅びるより降参がよいとも、であれば沖縄戦あたりで降参命令がなぜ出せない)朕の命令のフガイなさを今も今想う、『虎の衣を冠る狐(重臣や高官「軍人含み」)80何年後の今も相似点多くあり』近臣がいずれ退位かご隠居を勧めたとか、矢張り天皇も我々と同じ人間と終戦後私は確信した。民主主義には天皇制の制度は伴わない、伴うように詭弁を労して、シンボル・・象徴云々・・これも一理はありますよ・・でも御大典から後、着々と戦争に向かいアノ大惨事(今も外国になんのかんの言われるのも、天皇さんの責任ありと・・又GHQにも・・御大典から話が逸れましたが、アノ御大典の花電車や提灯電車でお祭り騒ぎで騒いで行進した道を九年後南京陥落万歳と御所に向かい行進した私・・後年、知れる事ですがその頃、私ら子供には分らんところで真面目な学者等。大逆事件を契機に特別高等警察(特高)のが暗躍拷問虐殺を常套手段で大活躍??しだした頃『注・大逆事件とは一部の過激な人々による天皇への暴行が未然に発覚・裁判によって死刑に処せられた事件』 ..コンナ夢のような昔話は復活しないよと思はれる人も多いことでしょう.が、こんな話、否事実があったと言う事を述べました。次回は私の近辺におられた朝鮮人の労働者の話をいたします 以上メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.11
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11月10日(土)晴れ私は子守歌で寝た時代がすむと父のお伽話を聴きながら寝込むようになった、父は昔の話やこの土地に昔から伝えられている話をよくしてくれた、今の童話の本にある以上に面白い話も・・京都の桂川を汽車が走っていて、雨が降り狐の嫁入りで人間を騙したり、クラガリのお宮さん(今も現存の森)には夜には必ず出ての怖い話・大江山の鬼退治等々毎夜(今思うとよく素材があったと感心)ある日(1年生の冬??櫓炬燵に入り)今日はどんな話かなと期待していました、父は今話しするのは学校では話すといけない約束するねー・・もうじき・日本の国をうまくゆくように、日本中の町や村から人を出すが人数が決まっているので選挙というものがあるんだ。隣の部屋から母が(そんな話は未だ早くないの)と???父は(アンタに聞いてもらいたいんや)・・今日は選挙に出る人の話を聞きに行ったが、入る人の顔をジロジロと怖い顔して巡査(今の警官)が見る、そして話が始まると二回弁士中止(今の政府側の弁士「話す人」だと話の内容で止めたと)と巡査が注意する、そしてもう一人の政府側の弁士の時は中止は一度もなく??母は(なぜそんな不公平に??)との問いに(昔も外国から軍艦買う時に「口銭・・袖の下」悪いことしたり)父は無学だったが、仕事の関係で物知りや学者と付き合いがあるらしく・・そして帰りの出口では一人一人巡査が顔をジロジロ見たとか。母は偉いお人は色々国の事をなさるにはお金もいるし(少々の役得はしょうがないのでは)と今から思うと母は政府高官の役徳肯定派かも、父は少し硬い正直派のよう・・私は当時の世相の裏側は知らないが、昭和九年頃に会社勤め兼夜学で多くの人に接して共産党の人とも知り合い、凄い弾圧が続いていた、事を知り、今と比べると大連合なんて、裏ではコソコソやっても、パキスタンのように大弾圧はない、それでも少しずつ右傾化が色々な方面に現れているのは、現実のよう、右がなぜ悪いと居直られれば、私は言いたい、少し右でもまあまあでも、原理主義的な右傾主義は国民をも弾圧する、国を愛せ愛せと知らず知らずに昔に還るはひつじょうではなかろうか、話は逸れて悪いが大きい眼を開いて、政治を見つめたいと思います。今回も硬い話で・・では又播翁よりメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.10
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現在の向陽尋常小学校石像は81年前もあり11月8日(木)晴れ大正15年4月(1926年)小学校に入学しました、思い出しながら書きます、我が町の行き交う人は男女とも着物で洋服に人は少ないようでした、入学は練習も無く突然本番??でした、母は着物に羽織私は着物に袴でした、一年生は親と共に前の方に座りました、日の丸の旗が壇の横あたりにあったよう、ピアノが鳴り歌を皆が歌いますが、私はそんなのを教えてもらってないので聞くだけであった(今から想うと多分君が代でしょう)やがて担任の先生と一緒に教室に行きまして自分の机を教えられました、丙組で先生は林先生で綺麗な着物を着て羽織袴でした、美人で優しい人でした。帰りには紅白のお饅頭を頂きました。お饅頭やさんのウインドウでは柔らかい生菓子饅頭??は一個一銭五里と書いてあります、五厘銭はあまり出回っておらず二個三銭で兄に買ってもらい一つずつ食べた覚えがあります。大正15年12月25日(1926年)夜、新聞は購入していませんが号外が入るのでそれを見て(天皇さんがお隠れになった)と父が真面目な顔で・・私はお隠れって(かくれんぼ)していやはりの??と聞きますと、天皇さんは生き神さんなのでそう言う、崩御なんて言葉が私には難かしいので、まさか死なはったとは言えず・・神棚の神さんより偉い生き神さんだと、教えられれて、少し理解にいたらず、もっと聞きたいが??父は学校では先生が言われるとうり聞いて、今ここで話しをしたことは、絶対話すでないぞと強く言われた。その日から昭和元年が年末まで続き一月から昭和二年になり(私は二年生でした)以上・・次回は普通選挙や後大典の話を書きますメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.08
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11月5日(月)曇り大正時代は私としては、この目でみて体験したものはあまりありませんが小学校入学の少し前になると少しはいろいろな事が分り始めました。家は蚕を飼い生活していたようで、餌になる桑の葉や、蒸篭(セイロ-)が沢山あり、広い部屋で2~3人が、鹿の子(カノコ)で布絹を絞り染めにする為、鹿の子針や、手で何かをしていました『今でこそ漢字で書いていますが、当時は・セイロ・オカイコさん・カノコハリ・クワのハ・等言葉で82年前は覚えていました』そして、その桑の葉、買い付けや繭の納入、鹿の子の生地の引き取り納入に、父と母は毎日のように京都市内の取引先や親戚にゆきました。私も何とか歩けるようになると、汽車に乗るのが嬉しくて賢くしていたら連れていってやるに、つられてオトナシクしていた事を思い出します、又たまには親戚に泊まることもありました、大正天皇が当時はお住まいの京都御所の近くでした。市内の風景は着物姿が多く、巡査(おまわりさん)は黒い制服でサーベルを提げています、女性は殆ど着物で、男性で巡査のような洋服を着た人も疎らに見ました、御所が近いので巡査が多いとかを父から教えられました、市内は電車が線路の上を走り、自動車はまばらでした。82年前のことを音でハッキリ覚えている事は、市内の親戚で泊まった時は、夜遅くまで電車のガタン・ガタン、ちんちん・・の音、又向日町の家では(現在の向日町競輪の前)西国街道の野辺坂の真ん中あたり)国鉄が300~400メートル東に走り、夜静かに眠る頃になると、昼には聞こえない長い貨車の走る音がします、ガタンガタンと何回も、障子越しに、そして昼間に伏見あたりから、大砲の音がドカンドカンと雨天でも、夜間は聞こえませんが、父の話では兵隊さんが演習していなさるとか、京都市内では旗日は日の丸を掲げて、向日町でも掲げていました、姉や兄が紅白のお饅頭を学校から貰って帰り、お裾分けで美味しいと頂いたことも覚えています。以上は大正13年~15年頃のことです メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.11.05
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10月28日(日)晴れ播翁です前回までは私には記憶がありませんが、当時の新聞や後年の文献に寄りますと、現在の防衛省の不祥事のような事が記載されています。シーメンス事件とかで海軍高官の逮捕とかがでて,でも第一次世界大戦(1914年)が起こり、政府は天佑と喜んだ由。後年の父の話では工場の工員さんは景気が好く、ホクホクだったとか、父もささやかな恩恵によくし、銀がわの懐中時計をいくらも購入出来たようです(今も形見として私が貰っていますが螺子を巻くと動きます)。(1918年)には米騒動等。戦後ベトナム戦争・朝鮮戦争・の特需で日本も、儲けました。前回まで書きましたが、私の生まれた1920年シベリア出兵だとか、色々な出来事、金と政治家、テロとの戦い等、似ている処があるように想います。さて私が生まれて少しして、この世のさまをオボロゲにもウロオボエだけでも辿って書きます。矢張り母に抱かれて乳房に縋りお乳を飲んでいました、少し歩けるようになると7歳年上の姉の手に縋りヨチヨチ歩き。3歳年上の兄には、竹薮での、チヤンバラゴッコや、戦争ゴッコ、私は、危ないので行儀よく竹薮の平らな処で見物です、メンコという遊びもありましたが見物です、表面は兵隊さんの絵がでていました、・・僕は軍人大好きよ・・の歌を兄たちは竹竿を軍刀代わりに担ぎ行進したり。私も早くシッカリ歩き、。走れたら、そんな遊びをしたい気持ちでした。又書きます メール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/
2007.10.28
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10月22日(月) 晴れ『大正から昭和初期までの私の体験した世相』~3 シベリア出兵 ロシア革命に対する干渉戦争。日本、アメリカ、イギリス等は1918年(大正7年)7月、チェコ軍救出を名目としてアメリカと共同出兵を同意2万4000人(内日本軍1万2000人)10月には7万3000人を送り策略を巡らせバイカル湖以東のシベリアを侵略し反革命軍の敗北で英、米、仏が撤廃した後も日本は東部シベリアを拠点に北満州を支配下に置こうと駐兵を続け※尼港事件がおきると、北樺太(サハリン)の保障占領をおこなった。しかし戦費10億、戦死者3000、凍傷者多数という損失を払い1922年(大正11年)10月にはシベリアから1925年5月には北樺太から撤兵した。※尼港事件とは1920年(大正9年)2月シベリア出兵中(尼港)北樺太の北端二コライエフスクで邦人700余がパルチザン(当時の不正規部隊)に殺害された事件。パルチザンに捕虜となった将兵と邦人が、日本軍の援軍が来た為にパルチザンが市街を焼き払い捕虜や邦人を虐殺して撤退。ソ連側は責任者を処罰したが、日本側は賠償を要求、其の保障として北樺太を占領した。播翁の生まれた大正九年二月五日を半ばに四年間内政干渉戦争に出かけて往ったのです、後年少しは聞きましたが、日清日露戦争のようには強くPRされなかったメール=sksk@nike.eonet.ne.jpHP=http://www.eonet.ne.jp/~skk/播翁
2007.10.22
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