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2012年を振り返っているうちに2月になってしまいました。 ここからは通常のコラムにもどります(と言っても何が通常か解らない、ごった煮のようなブログなのですが)。年頭に当たり、今年の方針というか、心がけを、「今日一日を丁寧に生きよう」と決めました。何か目標やゴールを目指して精進するのもいいのですが、残された時間を大切に生きるのには、まず今日と言う一日を無駄にしないようにしたいという願いからです。結果を求めず、自分として正しい選択をして、偽りなく行動できたかを、達成の基準にしようと思いました。そんな思いを体現している先生がいらっしゃいます。僕はクリスチャンではありませんが、クリスチャンの中に多く私淑する方が存在します。僕の最も尊敬する人の一人にマザー・テレサがいますが、マザーが1981年来日した時に通訳として寄り添っていたのが渡辺和子さんです。今回は心洗われる、清々しいカトリックのシスターを紹介します。 渡辺和子さんは、ノートルダム清心学園の理事長で、1927年生まれですので今年86歳になります。双葉学園入学、18歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学から上智大学大学院終了、29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。アメリカへ留学、ボストンカレッジ大学院で博士号を取得と順風にキャリアを重ねます。そして、転機を迎えることとなる、岡山県の「ノートルダム清心学園」への派遣を迎えます。なんと36歳の若さで、4年制大学の学長という重責を任命されます。この大学の初代・2代目の学長はアメリカ人のシスターで、ふたりとも70歳代の方でした。初めての日本人学長が、この大学の卒業生でもなければ岡山県にもゆかりのない、弱齢の渡辺和子さんだったのです。よそ者に対する風当たりは当然強く、随分辛い思いもしました。思い余ってかつての上司のアメリカ人神父に、うっぷん不満を打ち明けたのですが、慰めてくれるどころか、「あなたが変わらなければ、どこへ行ってもなにをしても同じだよ」と、すげない言葉を返されてしまいました。 渡辺さんはその当時を振り返り、自分は“くれない族”だったと語ります。こんなに若くして学長になって苦労しているのに、誰も慰めてくれない、私の辛さを理解してくれない、ほめてもくれない、挨拶もしてくれない・・・。神父は「あなたが変わりなさい。人に求めるのではなく、人に与える人になりなさい」と諭したのでした。それから、自分から挨拶をするようになり、自分からお礼を言い、お詫びをし、人をほめるように変わりました。すると不思議なことに周りの人が変わって行きました。 【 幸せに生きるということは、決して苦労のないことでもなければ、物質的に豊かな生活を送ることを意味してもいない。苦労したおかげで、苦労のない時にはわからなかった他人の痛みを解ることができた、と感謝する心に幸せは生まれるのである。幸せは、いつも自分の心が決めるのだ。 】 『目に見えないけれど大切なもの』 もうひとり、影響をあたえてくれた人に、ベルギー人の神父がいました。渡辺さんが苦労しているのを見かねて、ひとつの英文の詩を贈ってくれました。それは「Bloom where God has planted you. (神様がお植えになったところで咲きなさい)」という詩でした。渡辺さんはこれを「置かれたところで咲きなさい」と訳しました。 置かれたところで咲きなさいしかたがないと諦めるのではなく咲くのです咲くということは自分が幸せになり周囲のひとを幸せにすることです咲くということは私は幸せなんだということを周囲に示して生きることなのです 渡辺さんは“くれない族”の自分と決別し、自分が置かれた岡山という地で、学長という立場で咲く決心をしました。ノートルダム清心女子大学にも、自分の本意ではない"不本意入学者"がいます。その学生に対し、「時間の使い方は、そのまま命の使い方なのですよ。置かれたところで咲いてください」という言葉は、渡辺さんの経験に裏打ちされている言葉であるゆえに、学生達の心に響き届くのです。 【 結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。 】『置かれたところで咲きなさい』 渡辺和子さんを語る上で、避けて通れないことは、お父さんのことです。渡辺錠太郎陸軍大将がその人です。錠太郎43歳の時の子で、和子さんは孫のように可愛がられていました。それが、1936年2月26日、日付で解るように“2・26事件”の悲劇に襲われます。当時陸軍教育総監だった錠太郎は、訓示において“天皇機関説”を養護する発言をしていて、それがクーデターを起こす皇道派青年将校に目をつけられていました。“天皇機関説”は今検証すれば、立憲君主国であれば当たり前のことで、敵視される理由はありません。よろず“思想”などと言うものは、中身の整合性などはどうでもよいもので、自分の属する組織の損得に利用されるスローガンだけのものでしかないのです。 反乱軍により、岡田圭介首相、高橋是清蔵相、斉藤實内大臣に続き、上荻窪の渡辺邸も襲撃されました。外の物々しさに事態を察した錠太郎は、膝の上で遊んでいた和子を「お母さんのところへ行きなさい」と部屋の外に出しますが、母親は青年将校相手に、家の入り口で立ち塞がっている最中でした。それで父親の部屋に戻ってくるのですが、錠太郎はとっさに座卓を立てその陰に和子を隠します。そこに襲撃してきた青年将校は錠太郎に軽機銃を乱射し、43発の弾丸が身体に打ち込まれました。さらにひとりが日本刀でとどめを刺すところを、和子は目の前で見るのでした。和子9歳の時でした。許しを旨とするキリスト教者にとって、愛するものを目の前で殺されるということは、このうえなく残酷な試練でした。 事件から40年もたったころ、テレビ局から事件に関しての番組の出演を頼まれました。そこで、思いがけず父を殺した側の人が招かれていて、対面することになりました。 【 その時の心の波立ち、局が出してくれたコーヒーのカップに指をかけ、口もとまで運びながら、「敵」とともにあっては、一滴も飲むことができなかったのである。その時、私の心の中には相手に対しての激しい嫌悪感があった。口で敵を許すと言うのは易しくても、殺された父の血が流れている私の体が言うことをきかなかったのだ。もしも、私がその人を“愛する”としたら、それはやはり、心に葛藤をおぼえながらも、私より年上のその人の老後の幸せを祈ること、せめて不幸を願わないことでしかない。 】『忘れかけていた大切なこと』 キリスト教者の葛藤のすさまじさがにじみ出ています。この経験を乗り越えてこそ、現在の境地にたどり着いたといえましょう。比べるのも恥ずかしながら、僕にも何人か許しがたき人物の存在があります。かつては何とか復讐してやりたいとか、不幸に落ちろとか願ったこともありましたが、怨念はいずれ自分に返ってくると知り(精神に不具合を生じたわけで)、許せるものなら許そうと決心しました。僕のこれからの人生においては、その人の人生はどうでもいいことですから。あの時は辛かったけれど、今があるのはその経験の賜です。あの人たちにも感謝をしなければなりません。 【 許すことによって救われるのは、実は、許された相手以上に、許した自分自身であることを、私はいままで何度も経験してきた。相手が憎い、何とかして仕返しをしてやりたい、いつ詫びるだろうかなどと考えている間中、残念ながら、私はその憎い相手に振りまわされているのである。それが、許すことによって、そのこだわりから自由になれる。多分これも、「神の子」としての自由なのだろう。 】『忘れかけていた大切なこと』 渡辺和子さんは、50歳の時に"うつ病"に罹ってしまいます。大学の学長職に加えて修道会の管区長職もこなし、心も身体も疲れ果てていました。応接室で話をしていてもいつの間にか眠りそうになったり、出会う人に微笑みかけることができなかったり、講義中に言葉が続かなくなり“立ちん坊”になってしまったこともありました。「私には、今の仕事をする資格はもうない。私の人生は50歳で終わりなのかもしれない」と落ち込み、死ぬことさえ考えました。その心の中をひとりのシスターに打ち明けたところ、その人は静かに最後まで聞いて、こう言いました。「あなたは、今まで人の二倍働いてきたのよ。今のあなたでちょうどいい」 【 落ち込んだ心を立ち直らせる特効薬などないのではないでしょうか。祈ることもとても大切です。「立ち直らせてください。抜け出させてください」という祈りは、いつかきっと聞き入れられるでしょう。祈ることによって、私たちは、自分の不完全さ、思い上がりに気づき、また、他人の不完全さを許す心のゆとりを取り戻すことができることがあります。祈ったから立ちどころに心の傷が癒え、心に平安が戻るわけではありません。しかしながら、祈ることで、「痛みを抱えながら生きる」のが、私たちにとって、当然であることを悟り、かくて、私たちの人生には、同じく痛みを抱えて生きている人への優しさも育つのです。「災難に遭う時節には、災難に遭うがよく候。死ぬる時には、死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃がるる妙法にて候」と良寛和尚は、その手紙の一節に記しています。落ち込んだ時は落ち込むのがよいのでしょう。そんな惨めな思いをしている自分を嫌うことなく、いじめることなく、「いつかよくなる」ことを信じて、自分と仲良く過ごしている時、心を蔽っていた雲が晴れて、明るい日差しが以前より輝いて見えてくるのです。 】『目に見えないけれど大切なもの』なにもできなくていいただ、笑顔でいよう神の摂理として、病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれど、今となっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。病気をしたおかげで、人に対して優しくなりました。それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、何故もうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。自分の弱さを知ったからです。私が変わるために、神が摂理として病気を下さったのだと思います。そして、そう思えるようになったことがありがたいと思います。という言葉は、まったく同感なのです。
2013年02月11日
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http://movie.walkerplus.com/mv18562/ こちらも日本映画ベストテンに必ず入る名作、第1回日本アカデミー賞他数々の栄光を手にした『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ(昭和52年10月公開)』です。僕ごときが、日本有数の名作を掲げて語るのはおこがましいのですが、個人的にも思い入れたっぷりの作品です。 映画の面白さは、ストーリーの面白さがとにかく大事です。『幸福の黄色いハンカチ』の原作は、「ニューヨーク・ポスト」紙のジャーナリストで小説家のピート・ハミル。同紙に連載していたコラムでした(「ニューヨーク・スケッチブック」掲載)。ただし、黄色いリボン伝説自体は昔から伝承され、ジョン・ウェインの『黄色いリボン』でも映像化しています。しかし、このストーリーが広く知れ渡るようになったのは、1973年ポップスグループの「ドーン」がリリースした『幸せの黄色いリボン・Tie A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Tree』のヒットによります(ビルボード年間第1位)。歌詞にご注目。http://youtu.be/9oWyUJKhKoY この曲を『男はつらいよ』の撮影の合間に倍賞千恵子が口ずさんでいて、山田洋次監督が尋ねたことがきっかけとなりました。曲がヒットしていた時、僕は高校生。「新譜ジャーナル」や「Guts」などのギターコード付きの音楽雑誌を読んでいたので、この曲も詞の内容と共に知っていて、純真な心は感動していました。この歌詞をそっくり映像化したのです。たった3分間の曲が、日本で増幅装飾され、2時間弱の映画になりました。 監督の山田洋次は昭和29年松竹に入社、野村芳太郎の助監督・脚本を担当します(『砂の器』参照)。当時の松竹は、大島渚、吉田喜重、篠田正浩という「松竹ヌーベルバーグ(フランス映画で起きた"新しい波")」の旗手と呼ばれる若手監督がいましたが、山田は彼らと一線を画し、松竹大船調の伝統を継承する作品を撮り続けました。昭和44年に『男はつらいよ』を撮り、この予想外のヒットによりギネス記録にもなるシリーズに縛られてしまうという、皮肉な運命に引きずられます。『男はつらいよ』を撮り続けることを担保に、2~3年おきに『家族』『故郷』『同胞』と渋い映画を撮り、『幸福の黄色いハンカチ』も寅さんの19作『寅次郎と殿様(昭和52年8月公開)』と20作『寅次郎頑張れ!(同年12月公開)』の合間を縫って撮られた物でした。改めて見てみると、撮影日程に余裕が無いため、撮影する順番がばらばらで、そのため役者のテンションに不安定さがあり、予算が無かったためかタイアップが目立ったりして問題はありますが、初見の時はあの頃では珍しくぼろぼろ泣いてしまいました(現在は老化のためやたら涙が出ますが)。 主演の高倉健は東映の任侠スター。『日本侠客伝(シリーズ11作)』『網走番外地(シリーズ18作)』『昭和残侠伝(シリーズ9作)』等々、東映の大看板でした。70年安保時代は、「不条理な仕打ちに耐えながらも、最後は復讐を貫徹するアウトロー」に、学生やサラリーマンに絶大な人気を博していました。しかし、東映にいる間は仁侠映画にしか出られないというジレンマから独立、『君よ憤怒の河を渡れ(昭和51年)』『八甲田山(同52年)』に次ぐ作品で、第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞とブルーリボン賞主演男優賞のダブル受賞を果たします。役中のヒーロー性だけでなく、高倉健自身の人柄も広く伝えられ、尊敬する関係者も数多く、映画界では神に近い存在でした。山田洋次も当然知っている間柄で、本作の役名「島勇作」は、高倉のデビュー作『電光空手打ち(昭和31年1月)』の役名で、本人が芸名にしたかった「忍勇作」から取っています。高倉健伝説に関しては、今では枚挙に暇が無いほどあるのですが、当時の僕は健さんの映画をほとんど見ていませんでした。何故なら、僕の定番の映画館・池袋「文芸座」は東映映画を上映しなかった(出来なかった)からです。それとデビュー作の公開が僕の誕生年の誕生月というぐらい、時代がずれていたということもあります。TVでもヤクザ映画はあまりやらなかったし。 次に狂言回しを演じるもう一人の主役が、武田鉄矢。フォークグループ「海援隊」として『母に捧げるバラード』デビューしたのが昭和48年、かぐや姫の『神田川』や荒井由実の『ひこうき雲』、チューリップの『心の旅』のリリースと同じ年、花の中3トリオもこの年です。当時はフォークグループというより、色物(いろもの)グループとして受け容れられていて、「紅白歌合戦」にも出場するほど話題となったのですが、翌年は夫婦で皿洗いのアルバイトをするほどの人気急落に瀕していました。僕もこの暑苦しい武田鉄矢は好きではなく、『幸福の黄色いハンカチ』の時も違和感があり、達者な芝居っぷりも逆に反感を抱くほどでした(フォークシンガーのくせにという見方は拭えませんでした)。でも、今は大好きです。きっかけは友人の直江喜一(『金八先生』第2シリーズ・加藤優の役)が、「武田鉄矢って、すごい人だよ」と語ったことからでした。ちなみに直江喜一は金八の撮影に入る直前まで、僕の8ミリフィルム映画に主演として撮影していました。金八の撮影の合間に、中3の子供たち(直江は高校生だったのですが)に色々な話をしてくれたんだそうです。以来見方が変り、金八シリーズも興味を持って見ていたのですが、決定的にファンに変ったのは、ラジオの文化放送『武田鉄矢・今朝の三枚おろし』という番組でした(1994~)。朝の番組で、僕は建築現場へ向かう車の中で聞いていました。主に鉄矢が読んで感銘を受けた本を、彼の脚色も加えて解説をするのですが、このコーナーで知った本や作家も数多く、尊敬する内田樹や甲野善紀はこの番組で知りました。番組内で『幸福の黄色いハンカチ』にからむエピソードも語られており、武田鉄矢の苦しかった時代と坂本龍馬、勝海舟との因縁の話も交錯し、涙なくしては聞けない話でした。 そして武田鉄矢にナンパされて、三人旅をする桃井かおり。この配役はすぐ決まったと、山田洋次のインタビューにあります。「当時テレビで見かけるようになり・・・」とは、『前略おふくろ様』のことでしょう。あの時の「恐怖の海ちゃん」のインパクトはすごかった。でも本編の朱美は、もっとおとなしめで、自分を主張できない気弱な女の子です。映画監督の目は、女優から役柄を差し引いた、本質を見ることが出来るものなのでしょうか。桃井かおりといえば、藤田敏八監督『赤い鳥逃げた?(昭和48年)』がとにかく印象が強く、この映画の出番中ほとんどが裸でした。さらに萩原健一と共演した神代辰巳監督『青春の蹉跌(同49年)』、この映画で桃井とショーケンは接近し、『前略おふくろ様』にも共演することになります。この時期の若手女優としては実に個性的で、あの独特の台詞回しは類を見ません。結果、個性豊かな3人がこの作品で偶然巡り会ったことになります。 山田洋次はロングインタビューの中で、「撮りなおしたいところはありますか?」という問いに、「ラストの若いふたりのラブシーン」と答えていました。この話の柱は、高倉と倍賞の愛の物語ですが、もうひとつの柱が、大人の愛に触発されて自己を改善し真実に目覚める若者の成長です。良い映画は、オープニングとエンディングで主人公の質が変っているものです。あるいは主人公を取り巻く周りの人が変わって行きます。その変化は成長であり、進化であり、その姿に人は感動するのです。真の主役は、女を身体目当てで追っていたのに、真の愛に触れて自己変革に目覚めたチャラ男だったのです。そして観客は、その姿に共鳴して感動するのです。あそこのところの描き方が足りなかったと、悔やんでいるのだと思います。前述の通り、この作品は時間的に余裕が無く、ラストの夕張のシーンを最初に撮ってしまったようです。物語の進行に沿って話の順に撮り進めば、若いふたりの心情が徐々に変化して行くさまが自然に現われます。ラストで悟りを得て涙することが出来るのです。それがいきなり最終シーンでは、やはり無理がありました。 いろいろ問題は残るのですが、それでも名作になるのは、人間の生き方と言うものに、誠実に向き合った作品だったからでしょう。この後TVでも二度ドラマ化され、2008年には本家のアメリカで『イエロー・ハンンカチーフ』としてリメイクされました。ストーリーから細かいエピソードまでほぼ踏襲し、リスペクトを感じる作品です。http://youtu.be/55T53yPwUFk他にもタイで『もしあなたが私をまだ愛しているなら(1981年)』として撮られるなど、この映画のテーマは万国共通のものなのでしょう。また、これは『ブーべの恋人』の逆側の視線で見た映画かもしれないとも思いました。久しぶりに昔の映画評を。http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/200611100000/
2013年09月06日
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