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SEZAKI institute 瀬崎姓のルーツ「瀬崎」姓の由来は? 巷で売られている「あなたの先祖が分かる」式の本のほとんどには、「瀬崎」についての記述はありません。では、「瀬崎」姓の先祖は如何に?○我が家の伝説 まずは、各家に伝わる言い伝えみたいなものを見てみては如何でしょう? 因みに、わが大分の「瀬崎」は、戸籍上は「瀨﨑」と表記するのですが、「関東から流れてきた藤原氏系の落ち武者」と言われております。家紋は「丸に橘」で、藤原氏なのに家紋は橘というよく分からない状況にあります。 最近、大分に住む看護婦をしている従兄弟の子供から面白い情報が入りました。ある日彼女は、ある入院患者のおじいさんから、突然「あんた、何代目な?」と聞かれたそうです。彼女は答えました。「何代目ち、何のことな?」。おじいさんは彼女の胸の名札を指差しながら言ったそうです。「あんた、瀬崎っちゅうのは、大友氏の初代能直が豊後の守護に下るとき、一緒に着いて来た家老の筆頭の家柄やで」「うちは昔から百姓やけん、何代目とか関係ないわぁ」(以上大分弁で、読みづらかったかもしれません)。 要するに、おじいさんの言うには、瀬崎は大友氏の筆頭家老だと言う訳です。関東から来たという我が家の伝説とも一致します。しかし、そもそも、豊後大友氏の家臣に瀬崎なる人物がいたなんて聞いたことがありません。郷土史のどこをみても、そこに瀬崎なる名前を見出すことができないのです。老患者は、一体何を根拠にあのようなことを言ったのか、一介の看護婦をからかったのか、ちょっと持ち上げてみたのか、謎だけが残りました。※この後、大分県立図書館で郷土資料を漁ってみましたが、やはり、大友家臣団に「瀬崎某」なる名前は見つかりませんでした。 大正4年刊行の『大分市史』によれば、大友能直の豊後下向について以下のような記述があります。原文は、『両豊記』とい古文書だと思われます。因みに、現在では、能直は豊後に下向しておらず、実際に豊後に下ったのは、三代頼泰が最初だというのが、“通説”のようですから、以下の記述の信憑性にも問題はあるのですが…。 建久七年丙辰正月十一日、頼朝能直を以って豊前豊後の守護職に補し尚ほ鎮西奉行を兼務せしむ、時に能直年僅かに十九歳なりき、同年三月大に旅を整え古庄四郎重吉百余騎を以って先駆をなし志賀八郎親郷二百余騎にて殿し、能直の本陣は首藤、衛藤、舞、高山、甲斐、瀬、矢野、後藤、佐藤、高田等の宗徒の勇士警固をさをさと怠りなく総勢すぐって千八百余騎を随えて鎌倉を発して豊後に下向し(以下省略) このように、能直豊後下向時に随った武士として、「瀬」なる姓がありますが、「瀬崎」ではありませんし、また、家老ではないようです。 さらに、戦後出版された『大分県郷土資料集成』によると、「瀬」は一文字の姓ではなく、前にある「甲斐」姓とつながって、「甲斐瀬」姓として載っています。 おそらく、原文には句読点がないので、どこで区切るのかが、読み手や書き写し手により違ってくるのでしょう。では、どこで区切るのが正解なのでしょうか?「甲斐瀬」という名前はあまり聞きませんが、「瀬」姓ちょっと。瀬のあとに一字欠けているとか…。 いずれにしても、ここに掲げられている姓は、資料により若干の異動があるようです。例えば、「舞」姓の後に「林」姓を加えるものがあったり、さらには、つなげて「舞林」姓としているものがあります。 そういった意味で、「瀬」の後に「崎」が抜けてしまっている可能性もないとはいえませんが、ま、今のところなんの根拠もありませんし、その可能性は、限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。 ということで、当研究所では、「瀬崎=大友家老」説は、怪しいとの結論に達しました。○瀬崎を名乗った理由 さて、先祖自慢みたいなのは、「昔はうちも偉かった」式のものでしかなく、我が家も代々水呑百姓でございますので、藤原系落武者というのは、ご多分に漏れず、昔はよかったと自慢したかっただけという可能性も十分あります。 とはいえ、明治になって苗字を自由に名乗れるようになったときに、昔名乗っていた苗字を持ち出してきて、「瀬崎」と名乗ったのは間違いなさそうです。父親の故郷の近所で瀬崎を名乗るのはうちだけですから、普通に考えると、「瀬崎」と何にも関係ないのに、何もわざわざ、こんなに画数の多い、発音しづらい「瀬崎」を名乗る理由がありません。おそらく、百姓が苗字を名乗ってはいけなくなる前(すなわち安土桃山以前)には、「瀬崎」を名乗っていたか、「瀬崎」という場所に住んでいたか、そういったことがあったのでしょう。 しかし、一体、我が家の先祖はどこから来たのか?どうして「瀬崎」を名乗ったのか?その辺のところは不明なままです。 因みに、江戸時代まで武士以外は苗字がなかったとよく言われますが、これは過りで、正確には、江戸時代には名乗ってはいけなかったというだけです。それ以前は、誰でも自由に苗字を名乗っていました。明治になって苗字を付けてもらった人が多いのは事実ですが、これも、長い間名乗ることを禁じられているうちに、昔の苗字を忘れてしまったためです。○ものの本による瀬崎姓 では、ここで、ものの本による「瀬崎」の由来について見てみましょう。巷で売られている先祖探し系の書籍の中で、「瀬崎」について記載があるものは、日本の姓氏研究の第一人者である太田亮氏編の『日本姓氏家系大辞典(上中下三分冊)』が唯一です。 それによれば、以下のとおりです。(漢字は適宜簡略化しました)瀨ヶ崎 セガサキ 次条に同じ。瀨崎 セガサキ セサキ 武蔵、相模等に此の地名あり。 1 清和源氏足利流 大崎満詮を瀨ヶ崎殿と云ふ、鎌倉の瀨崎に宿するが故なりと。大崎条を見よ。 大崎家譜には、「号瀨崎」とあり。 2 雑載 伊勢、志摩に此の氏ありと。 これを見て、まず気がつくのは、「セザキ」との表音がないことです。しかし、ここは、「セザキ」と「セサキ」「セガサキ」はすべて同じものと考えることにします。 次に、「武蔵、相模等にこの地名がある」とのことですが、現在までに武蔵には3つの「瀬崎」地名があるのですが、相模には該当がないようです。ただし、「鎌倉の瀬崎に宿する」との記述から、室町時代には、鎌倉に瀬崎という地名があったことが考えられます。また、「武蔵、相模等」の「等」がどこなのか気になります。中世以前の古い「瀬崎」地名としては、武蔵国六浦郷の瀬ヶ崎、出雲国の瀬崎などがあるようです。(瀬崎地名参照) なお、「伊勢、志摩にこの氏あり」とされておりますが、実際に今でも鳥羽辺りには「瀬崎」さんが多く住んでいるようです。(全国瀬崎分布については、瀬崎人口から。) このように『日本姓氏家系総覧』の記述は、なかなか興味深いものがあります。もちろん、全国の「瀬崎」を名乗る人々が、すべて伊勢志摩の「瀬崎」さんか清和源氏足利流大崎満詮の子孫の「瀬崎」さんだけであるとは思えませんが、瀬崎満詮の話は、ひとつの「物語」としては面白いと思えます。(瀬崎満詮の話については、当HP「瀬崎人名録・歴史上の人物」参照) そういった意味では、瀬崎満詮の話は、皆さんの家に伝わる伝説めいたものとあまり変わるものではなく、むしろそういった伝説が意外にも正しいというようなこともあるのだと私は思います。 当研究所では、全国の「瀬崎伝説」を募集します。戻るSEZAKI institute
2022.05.18
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9月5日の花言葉はオニバスで「神秘的」です。オニバス(鬼蓮)は、スイレン科の一年生の水生植物である。浮水性の水草であり、夏ごろに巨大な葉を水面に広げる。本種のみでオニバス属を構成する。分布アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる。日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著しい(後述)。かつて宮城県が日本での北限だったが絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている。概要植物全体に大きなトゲが生えており、「鬼」の名が付けられている。特に葉の表裏に生えるトゲは硬く鋭い。葉の表面には不規則なシワが入っており、ハスやスイレン等と見分けることができる。また、ハスと違って葉が水面より高く出ることはなく、地下茎(レンコン)もない。春ごろに水底の種が発芽し、矢じり型の葉が水中に現れる。茎は塊状で短く、葉は水底近くから水面へと次々に伸びていき、成長するにつれて形も細長いハート型から円形へ変わっていく。円形の葉は、丸くシワだらけの折り畳まれた姿で水面に顔を出し広がる。円形葉の大きさは直径30cmから2m程度と巨大で、1911年には富山県氷見市で直径267cmの葉が見つかっている。花は水中での閉鎖花が多く、自家受粉で100個程度の種子をつくる。種子はハスと違って球形で直径1cm程度。8月から9月ごろに葉を突き破って花茎を伸ばし、紫色の花(開放花)を咲かせることもある。種子はやがて水底に沈むが、全てが翌年に発芽するとは限らず、数年から数十年休眠してから発芽することが知られている。また冬季に水が干上がって種子が直接空気にふれる等の刺激が加わることで発芽が促されることも知られており、そのために自生地の状態によってはオニバスが多数見られる年と見られない年ができることがある。人間との関わり葉柄や種子を食用としている地域もあるが、大規模には利用されていない。農家にとってオニバスは、しばしば排除の対象になることがある。ジュンサイなどの水草を採取したりなど、池で農作業を行う場合、巨大な葉を持つオニバスは邪魔でしかないうえ、鋭いトゲが全体に生えているために嫌われる羽目になる。また、オニバスの葉が水面を覆い水中が酸欠状態になったため、魚が死んで異臭を放つようになり、周囲の住民から苦情が出たという話もある。水が少ない地域に作られるため池では水位の低下は死活問題に直結するが、オニバスの巨大な葉は水を蒸散させてしまうとされて歓迎されないこともあった。中国ではオニバスの種子が食材として使われたり、漢方薬として用いられている。引用:Wikipedia
2017.09.05
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京都府独自の助成制度国以外にも各地方自治体で独自の公費を運用している場合があります。京都府では、京都府在住で健康保険に加入している方を対象に、以下のような福祉医療制度を設けています。これら他法令等による給付がある場合、その優先順位に従って取り扱います。また、いずれも国の公費よりも優先度はさがります。また、保険薬局であれば特別な申請なく取り扱うことができます。なお、大阪府など他府県の独自公費は、京都の薬局では扱うことができませんので、一旦は窓口でお支払いいただき、後で患者様自身によって還付請求を行っていただくことになります。医療保険制度の再構築 失われつつある「社会保険としての機能」を取り戻す/西沢和彦【3000円以上送料無料】
2020.10.06
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室内や寝具についたダニによる皮膚炎が増加するのもこの時期。露出してない手足に朝起きて痒みがあった場合は要注意です。環境因子に原因があれば、環境整備が大切です。特に、アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎、アレルギー性結膜炎、気管支喘息と多岐にわたる原因になる、ダニ、ホコリ、カビを除いたり、減らすことが重要です。ダニ・カビ対策ダニは、ホコリや食べ物の残りカス、ペットやヒトの垢や髪の毛を餌にしています。ダニの餌を除くことが重要です。 •ダイニングやリビングなどヒトやペットがよく居る所を掃除しましょう。1m2あたり1回20秒の時間をかけ、それを2回行うと完璧。じゅうたんなどは特に念入りに掃除をし、できれば、じゅうたんはやめて、フローリングにすることも大切ヒトの垢や髪の毛のつきやすい布団も掃除しますエアコンのフィルターにはホコリがつきますので、掃除が大切ですカーテンにも意外とホコリはつきますので、はたいてから掃除機をかけましょう天日干しや布団乾燥機などで、畳・じゅうたん・寝具から湿気を追い出す防ダニ布団の使用、ダニを通さないシーツを使用するソファは布製でなく、皮製、合成皮革にするぬいぐるもは処分する方がいいが、大事にしているものなら、洗ったりする家具は減らしたり、扉をつけて、ホコリがたまらないようにする◇ダニや蚊による虫さされ・かゆみ・しっしん・じんましん・あせも・しもやけなどの皮膚炎に◇【第(2)類医薬品】 【滋賀県製薬】 オノフェα 15g抗ヒスタミン剤・抗炎症剤配合鎮痒消炎薬 クリームタイプムヒアルファをお探しの方に【ダニ!殺虫ではなく、よせつけない!】だから安心のダニクリンまるごと仕上げ剤 詰替え 450mL 除菌も可能!持続効果約1カ月よせつけない効果 ダニクリンまるごと防ダニ仕上げ剤 詰替え 450mL 洗濯 すすぎの時に入れるだけ!赤ちゃん ダニ対策 安全 ダニよけ 【送料無料】【UYEKI】 除菌もできる!持続効果約1カ月ダニ・アレルギー対策 布団掃除機 布団専用掃除機充電式布団クリーナー「グッバイアレル」TU-650 ホワイト 布団掃除機 布団専用掃除機 高機能 充電式ふとんクリーナー
2016.07.20
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6月3日の花言葉はツリガネソウで「感謝」です。カンパニュラ(Campanula spp.)は、キキョウ科ホタルブクロ属の、主として地中海沿岸地方に原産する植物から改良された観賞用植物の総称である。本来は、ホタルブクロ属のラテン名(学名)である。名前の由来ラテン語の釣り鐘を意味することばに由来し、花の形が釣り鐘に似ているからである。英語ではbell flowerというが、この英名を持つ植物は十種以上ある。性状北半球の温帯から冷帯の広い範囲に分布し、全部で300種ほどある。すべて草本で、大半は多年草だが、1,2年草のものも少数ある。草丈は30cmから2mくらい。ロゼット型の根生葉があり、茎につく葉は互生する。葉には様々な形がある。花は晩春から夏にかけて咲くものが多く、総状花序または穂状花序をなし、釣り鐘型の3~8cmくらいの花を数輪から数十輪咲かせる。花色は、青や紫または白が多いが、ピンク色のものもある。横向きに咲くものが多いが、受け咲きや下向き咲きのものもある。欧米の園芸辞典には、50種以上が掲載されているが、日本で栽培されているのは数種である。引用:Wikipedia
2018.06.03
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承認年2011年開発の経緯リトナビルは米国アボット・ラボラトリーズ(現米国アッヴィ社)で発見・開発された抗HIV(ヒト免疫不全ウイルス)作用を有する化合物であり,HIV プロテアーゼ活性を阻害することにより抗ウイルス作用を発揮する.米国アボット・ラボラトリーズでは高血圧に関係する酵素,レニンの研究を基礎として,同じファミリーのHIV アスパルティック・プロテアーゼ阻害剤のドラックデザインに取り組み1),2),合成した化合物をスクリーニングした結果3),本剤はHIV-1 及びHIV-2 の保存ウイルス株,さらにHIV の臨床分離株にも強い抗HIV 活性を示すことが判明した.マウス,ラットでの経口投与における概略の致死量は2500 mg/kg 以上で,生体内利用率は他の同種薬(HIV プロテアーゼ阻害薬)に比べても高く,経口投与時の血中消失半減期も長いことが示された4).その後の臨床試験成績に基づき米国アボット・ラボラトリーズでは1995 年12 月21 日にFDA へ新薬承認申請を提出し,1996 年3 月1 日に硬カプセル剤及び内服液剤の承認を得た.日本においては,ダイナボット株式会社(現アッヴィ合同会社)が米国アボット・ラボラトリーズのデータをもとに1995年11 月2 日に希少疾病用医薬品指定申請を行い,1996 年4 月1 日に指定を受けた後,硬カプセル剤について1996 年7月23 日に承認申請し,1997 年11 月20 日に販売名「ノービア・カプセル100 mg」として承認を取得した.その後,カプセル剤中にリトナビルの結晶が析出する問題が発生し,その供給に支障を来す事態が発生したことから,日本においても安定供給の確保のため,内服液剤を急遽申請することとなった.このため1998 年8 月21 日に承認申請し,1998 年9月25 日に販売名「ノービア・リキッド」として承認を取得した.しかしながら,「ノービア・リキッド」はエタノールを大量に含むために服薬上の問題があったことから,米国アボット・ラボラトリーズにおいて別の剤型の開発が進められた.その後,リトナビルの結晶が全て溶解するように改良したソフトカプセル剤(SGC)が開発され,米国においてSGCの承認申請が行われ,1999 年6 月29 日に承認された.日本においても1999 年7 月27 日に承認申請が行われ,1999 年8月25 日に販売名「ノービア・ソフトカプセル100 mg」として承認を取得した.しかしながら,ソフトカプセル剤は冷蔵保存する必要があり,携帯に不便であることから,米国アボット・ラボラトリーズは室温で安定なフィルムコーティング錠であるノービア錠(100 mg/錠)を新たに開発した.各種薬物動態試験成績に基づき,米国及び欧州連合(EU)において2008 年12 月19 日及び11 月21 日にそれぞれノービア錠剤の承認申請を行い,2010 年2 月10 日及び1 月25 日にそれぞれ承認を取得した.日本においても,米国及びEU で承認されたことを受け,EU において販売承認申請に用いた資料の改定版で2010 年9 月7 日に承認申請し,2011 年2 月28 日に販売名「ノービア錠100 mg」として承認を取得した.なお,最初に承認された初代剤型のノービア・カプセル100 mg は,2002 年2 月22 日付けで,ノービア・ソフトカプセル100 mg は2012 年5 月31 日付けで承認を整理した.また,ノービア・リキッドは,「医療事故を防止するための医薬品の表示事項及び販売名の取り扱いについて」(2000 年9 月19 日付医薬発第935 号)に基づき,医療事故防止対策として販売名変更のための代替新規申請を行い,2009 年6 月26 日に販売名「ノービア内用液8%」として承認を取得している.現在,ノービア製剤として,ソフトカプセル剤(100 mg/カプセル),錠剤(100 mg/錠)及び液剤(80 mg/mL)が世界各国で承認されており,リトナビルとして1 回600 mg を1 日2 回の用法・用量で承認されている.また,HIV の進行に関する臨床的及び/又は免疫学的エビデンスに基づき治療を確かなものとするため,他の抗レトロウイルス薬との併用でHIV 感染患者の治療に使用されている.注)本邦で承認されている用法及び用量は「通常,成人にはリトナビルとして1 回600 mg(本剤6 錠)を1 日2 回食後に経口投与する.ただし,投与初日は1 回300 mg を1 日2 回,2 日目,3 日目は1 回400 mg を1 日2 回,4 日目は1 回500 mg を1 日2 回,5 日目以降は1 回600 mg を1 日2 回食後に経口投与する.投与に際しては,必ず他の抗HIV 薬と併用すること.」である.製品の治療学的特性1.本剤はHIV の成熟過程に必須な蛋白質の生成を阻害するHIV プロテアーゼ阻害薬である.2.本剤はHIV-1,HIV-2 に抗HIV 作用を発揮する(in vitro).3.本剤はAZT 耐性HIV にも抗HIV 活性を有し,交差耐性を認めない(in vitro).4.本剤はHIV プロテアーゼのAsp-Thr-Gly に結合し,酵素作用を競合的に阻害するが,特異的にHIV プロテアーゼに親和性を示し,ヒトアスパルティック・プロテアーゼへの阻害は小さい(in vitro).5.血中消失半滅期は3~4 時間であり,1 日2 回投与である.6.本剤とプラセボとの比較試験において本剤投与群(600 mg 1 日2 回投与)では,CD4 リンパ球数,血中HIV-RNA レベルの改善が認められた.7.本剤1 回600 mg 1 日2 回投与によりCD4 リンパ球数及び血中HIV-RNA レベルは投与48 週目においても投与前に比べ改善を認めた.8.主な副作用として,悪心,下痢,異常感覚,嘔吐,口周囲感覚異常,肝機能異常,食欲不振,味覚倒錯,CK 上昇,倦怠感(承認時),高脂血症,悪心,下痢,血中トリグリセリド増加(再審査終了時)が報告されている.また,重大な副作用として,錯乱,痙攣発作,脱水,高血糖,糖尿病,肝炎,肝不全,過敏症,中毒性表皮壊死融解症(Toxic Epidermal Necrolysis:TEN),皮膚粘膜眼症候群(Stevens-Johnson 症候群),出血傾向が報告されている.注)本邦で承認されている用法及び用量は「通常,成人にはリトナビルとして1 回600 mg(本剤6 錠)を1 日2 回食後に経口投与する.ただし,投与初日は1 回300 mg を1 日2 回,2 日目,3 日目は1 回400 mg を1 日2 回,4 日目は1 回500 mg を1 日2 回,5 日目以降は1 回600 mg を1 日2 回食後に経口投与する.投与に際しては,必ず他の抗HIV 薬と併用すること.」である.販売名和名ノービア®錠 100 mg洋名Norvir®Tablets 100 mg名称の由来開発した米国アボット・ラボラトリーズ(現米国アッヴィ社)の販売名(NORVIR)の名称に準じた.一般名和名(命名法)リトナビル(JAN)洋名(命名法)Ritonavir(JAN,INN)ステムヒト免疫不全ウイルス(HIV)プロテアーゼ阻害剤:-navir引用:ノービア・インタビューフォーム炎症と免疫(vol.28 no.6(202) 特集:ヒト免疫疾患研究の新たなアプローチ/間質性肺炎:診断と [ 「炎症と免疫」編集委員会 ]
2021.08.16
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基原:ホソバオケラ(学名:Atractylodes lancea)はキク科の植物の1種。別名はソウジュツ。中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる。本種またはシナオケラ Atractylodes chinensis の根茎は、蒼朮(そうじゅつ)という生薬である。成分:精油:hinesol、β-eudesmol 等薬理:煎液はNa、K、Cl、の排泄を促進、エタノールエキスは血圧降下作用を示す。用途:健胃、整腸薬、利尿薬。漢方では水分代謝不全に利尿、発汗を目標に用いる。製剤:五苓散、当帰芍薬散、平胃散体力虚弱で 冷え性 貧血傾向があり疲労しやすく 腹部痛 頭重 めまい 肩コリ 動悸 手足腰の冷えなど。冷え性 薬 月経不順 月経異常 産前産後障害 流産障害当芍散 300錠 第2類医薬品 漢方:当帰芍薬散 足腰の 冷え性 しもやけ シミ
2015.12.20
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最近の動向緑内障治療薬として点眼回数が少なく強力な眼圧下降作用を有するものが増え、また配合剤が普及しつつある。緑内障国に対するROCK阻害薬が世界に先がけて発売された。硝子体内注射による網膜疾患治療が多様化し、また普及しつつある。薬剤投与方法眼科で使用される薬剤投与法には、点眼眼軟膏塗布結膜下注射テノン嚢内注射球後注射眼内注射などがあり、内服や点滴による投与もある。使用方法ドライアイ涙液の量的・質的異常に起因する角結膜上皮障害の総称人工涙液による補充としてヒアレインなどのほかヒアレインミニ点眼薬、ソフトサンティア(一般用医薬品)などを用いる。またタリビット点眼液で感染を予防することもある。防腐剤を含まないヒアレインミニなどの点眼液をできるだけ選択する。ムチンの産生を増加させるジクアスやムコスタが近年使用されている。点眼で治療効果が十分でない場合は涙点プラグが適応となる。涙液をオクラーサーフェスに貯留させ涙液中の成分を供給するとともに涙液層の安定に寄与する。睡眠中に漏れたガーゼマスクを両眼にあてるwet gauze eye mask療法や眼表面からの蒸発予防のためのドライアイ・モイスチャメガネなども用いられる。眼瞼痙攣ボツリヌス毒素(ボトックス)の約3ヵ月に1度の皮下注射によって眼瞼痙攣の治療が可能になってきた。結膜炎眼脂、瘙痒、流涙、異物感、眼痛などを主訴とし結膜の充血、浮腫などを伴う。アレルギー性、細菌性、クラミジア性、ウイルス性などを鑑別して治療する。アレルギー性結膜炎通常抗ヒスタミン薬や抗アレルギー薬の点眼や内服を行う。効果不十分の場合は、ステロイドを点眼又は軟膏で用いる。急性期には1日4〜5回、慢性期には1日2〜3回点眼する。細菌感染の併発が疑われる時には抗菌薬の点眼を併用することもある。ステロイド点眼薬は長期に及ぶと、創傷治癒遅延、感染症、眼圧上昇などの合併症を起こすので注意する。抗アレルギー点眼薬はメディエータ遊離抑制薬とヒスタミンH1受容体桔抗薬に大別され、また両作用を併せもつ薬剤も用いられる。春季カタルに対して免疫抑制薬のシクロスポリン(パピロックミニ)やタクロリムス(タリムス)も用いられる。角膜上皮障害、眼瞼炎などには点眼薬自体の副作用やベンザルコニウム塩化物など防腐剤の影響も念頭に置き、確認されれば投与を中止する。細菌性結膜炎、クラミジア結膜炎効果の持続と安定性の面からニューキノロン系薬、アミノグリコシド系薬が第一選択であるが、分泌物の培養、感受性などにより、その他の抗菌薬を使い分ける。淋菌性結膜炎、クラミジア感染症では必要に応じて内服治療も行う。ウイルス性結膜炎アデノウイルスス8、19、37型による流行性角結膜炎(EKC)、同3、4、7型による咽頭結膜熱(プール熱)、エンテロウイルス70型やコクサッキーA24による急性出血性結膜炎(AHC)などがある。伝染力が強いので手洗いの励行、手指消毒などが院内感染防止のために大切である。細菌による混合感染防止のためニューキノロン系抗菌薬点眼1日3回と抗炎症作用と角膜上皮下混濁防止のためにリンデロン点眼薬1日4〜5回を併用する。単純ヘルペスによる結膜炎は乳幼児の初感染時に発症し、ゾビラックス眼軟育などを用いる。角膜感染症細菌性角膜潰瘍、角膜真菌症、角膜アカントアメーバ感染症、角膜ヘルペスなどがある。細菌性角膜潰瘍の場合最も重要なことは感染局所における抗菌薬の濃度を極力上げることがある。そこで通常1日4〜6回の点眼処方に対して30分〜1時間に1回の頻回点限処方を行う(この点眼回数は適用外)。局所点眼のみならず、結膜下注射、内服、点滴静注などを用いる。病巣部の擦過物より緑膿菌、セラチア属、MRSA、MRSEなどの菌同定を行って適応する薬剤を使用する。上記の角膜感染症では潰瘍形成を助長するステロイドの点眼は発症初期には使用を控え、角膜上皮保護薬などを用いる。緑内障原発閉塞隅角緑内障(原発閉塞隅角症)の急性発作は代表的な眼科教急疾患である。急性発作の際には、診断後直ちに高張浸透圧薬(D-マンニトール又はグリセリン)を点滴する。20%D-マンニトールの場合は薬物1〜2g / kgを約60分で使用する。また、1〜2%ピロカルビン(サンピロ)を頻回点眼する。眼圧下降を確認後、外科的治療を考慮する。慢性緑内障のうち、ぶとう膜炎に続発する緑内障など原疾患の治療が可能なものはその治療を行う。原発開放隅角緑内障、正常眼圧緑内障、落屑緑内障などについては薬物を用いて適切な眼圧に保つことを管理開始の目的とする。日本緑内障学会の緑内障診療ガイドラインによれば1剤ずつ点眼を増やしていくことが基本である。使用する楽物は、眼圧下降効果、副作用、利便性などを考慮し決定する。禁忌があれば使用を避ける。実際に使用頻度の高いのは、プロスタグランジン(PG)関連薬、交感神経β遮断薬、点眼用炭酸脱水酵素阻害薬、交感神経α刺激薬、ROCK阻害薬である。これらの眼圧下降機序は様々であるが、併用により相加的な眼圧下降効果を有する。PG関連薬(ラタノプロスト、タフルプロスト、トラボプロストなど)は最も強力な眼圧下降作用と1日1回点眼という利点を持ち第一選択薬として使用されることが多い。虹彩色素沈着、睫毛伸長、上眼瞼溝深化などの特異な副作用を有するものの全身的な副作用は少ない。交感神経β遮断薬(チモロール、カルナテオロール他)は強力な眼圧下降作用と眼局所副作用の少ないことに特徴がある。持続製剤では1日1回点眼、水溶性製剤では1日2回点眼が基本である。慢性閉塞性呼吸器疾患、洞性徐脈の患者などでは禁忌である。点眼用炭酸脱水酵素阻害薬(ドルゾラミド、プリンゾラミド)は副作用の少なの製剤がある。1日2~3回点眼の製剤がある。交感神経α2刺激薬(ブリモニジン)は眼圧下降効果とともに神経保護効果の可能性が示唆されている。ROCK阻害薬(リパスジル)が世界に先がけて2014年に発売された。線維柱帯を介する房水流出促進作用を有する。配合剤は5種類の製剤(コソプト、アゾルガ、ザラカム、デュオトラバ、タプコム)が市販されており、患者の利便性向上とアドヒアランス改善に役立っている。内服用炭酸脱水酵素阻害薬(アセタゾラミド)は長期投与も可能であるが、現在では急速な眼圧下降を要する症例や手術までのつなぎとして使用されることが多い。知覚異常、消化器症状、腎尿路結石、電解質異常、血球減少などの多彩な全身症状の発現に注意する。白内障水晶体線維の細胞膜の変性防止のためピレノキシン(カタリン)、タチオン点眼薬、パロチン、チオプロニン(チオラ)などが用いられる。白内障が進行した場合は手術が必要になる。また、後発白内障に対するNd-ヤグレーザー後嚢切開後の眼圧上昇防止にアイオビジンを用いるとよい。白内障手術後の炎症や嚢胞様黄斑浮腫(CME)などの予防に、ジクロフェナク(ジクロード)、プロムフェナク(ブロナック)などのNSAIDs点眼薬を用いる。散瞳・調節麻痺眼底検査の散瞳にはトロピカミド(ミドリンP)を用い、2〜3回の点眼で約15分で散瞳が得られる。浅前房・狭隅角の眼には使用しない方がよい。アトロピンは作用が長く、1%液、1滴、1回の点眼で得られる散瞳は30〜40分以内に最大となり10〜12日間持続する。調節麻癖効果も20〜30分後に始まり、数時間後最大、ほぼ2週間持続する。この効果は強力であり前部ぶどう膜炎などによる虹彩後癒着の予防や届折検査などにも用いる。眼精疲労健常者では問題にならない程度の作業により生じる眼部の不快感などの訴えが中心となる。原因として調節性、筋性、症候性、不等像性、神経性そしてドライアイによるものがある。特に近年の事務機器のコンピュータ化によるVDT症候群は精神的ストレスも加わって眼精疲労がその主訴となる。視力の矯正やストレス対策に加えて調節痙攣にはミドリンM、調節衰弱にはシアノコバラミン(サンコバ)などが用いられる。症候性眼精疲労では結膜炎、副鼻腔炎、低血圧、更年期障害などが背景となるのでそれぞれの原因療法を行う。VDT症候群では室内照明や休憩時間の整備が大切である。ドライアイの場合はヒアレインやジクアホソル(ジクアス)、レバミピド(ムコスタ)を用いる。点眼で症状がとれない場合は涙液蒸発を防ぐモイスチャーメガネを用いて保湿に努める、本態性の場合は不定愁訴であることが多く、特に抗不安薬の併用が必要なこともある。加齢黄斑変性浸出型と萎縮型がある。中心暗点、変視症などの症状が徐々に進行し、非可逆的かつ高度な視力低下を来たす。光凝固療法、硝子体手術による脈絡膜新生血管(CNV:choroidal neovascularization)抜去、放射線療法などが行われてきた。特に中心窩にCNVが生じた場合は視力予後不良で、各種治療が試みられる。カ学療法(PDT:photodynamic therapy)用製剤のベルテボルフィン(ビスダイン静注用15mg)が用いられる。血管新生促進因子であるVEGFが加齢黄変性のCNVに関与することが明らかにされ、抗VEGF薬の硝子体内注射が主たる治療手段となっている。薬剤としてアフリベルセプト(アイリーア),.ラニビズマブ(ルセンティス)、ベガプタニブ(マクジェン)がある。服薬指導のポイント点眼液の汚染を防ぐため、点眼の先がまつげや皮膚に触れないよう指導する。点眼後はまばたきをせずに目を閉じてしばらくの間目頭を押えて点眼薬の全身的移行を防ぐよう指導する。温度と遮光に気をつけて保存する(冷蔵庫で保存することが望ましい)点眼瓶に記載された保存条件で保存されなかった点眼瓶は容器ごと捨てるように指導する。点眼薬を2種類以上使用する際には5分程度間をおいて点眼するように指導する引用:今日の治療薬2016(南江堂)今日の治療薬 解説と便覧 2020/浦部晶夫/島田和幸/川合眞一【合計3000円以上で送料無料】
2020.10.22
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11月5日の花言葉はマリーゴールドで「友情 生きる」です。マリーゴールド(英語: marigold、学名:Tagetes)は、キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)のうち、草花として栽培される植物の総称。また、花の色や形がよく似ていて、葉にトマトのへたのような青臭いにおいのあるキンセンカ(ポットマリーゴールド)を指すことがある。意は「聖母マリアの黄金の花」。属名の由来エトルリアの神ターゲス(en:Tages)の名前から。性状アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布し、ほかにアフリカに1種ある。園芸種として栽培されるものには、フレンチやアフリカンを冠するものがあるが、すべてメキシコ原産でフランスやアフリカとは無縁である。 一年草が多いが、一部多年草や亜灌木もある。茎は高さ30〜120cm、葉は濃い黄緑色、羽状複葉が対生する。全草に特有の臭気があるものが多い。4〜10月にかけて、茎に継続的に新たな蕾が発生し、直径2~5cmぐらいの鮮やかな黄・橙・暗赤色などの美しい花が咲く。咲いた花は1~2週間で萎れ、自然落下(または指で摘花)するが、1株の複数の茎に発生している蕾が次々に開花し、1株としては4~10月まで花が咲き続ける。10月以後、茎や葉が枯れる株があり、11月になると種の寿命限界で全ての株は枯れる。近年改良されたセンジュギクの一代交配種では、花径が15cmに達するものもある。観賞目的の栽培が普通であるが、根に線虫の防除効果があるのでコンパニオンプランツとして作物の間などに植えられることもある。線虫の防除効果は、植物自身の合成するα-terthienylをはじめとした化合物によるものとの説が有力だが、共生する線虫捕食菌の働きのためだという説も浮上している。異臭が激しく、有毒植物と誤解されていた時期もある。ジョン・ジェラードは、花を噛んだ少年の唇が炎症を起こした、猫に与えたところ、猫が死んでしまった、などの話を伝えている。ウィリアム・ハンベリー(William Hanbury)も匂いが不快であると言及し、ジョン・パーキンソンは、花の色など見た目の美しさがなかったら庭に植えられる事は無かっただろうと推測している。嫉妬の象徴とみなされることもある。成分この花の花びらから抽出されたキサントフィル脂肪酸エステル混合物に含まれるヘレニエンという色素は暗順応改善薬の原料として用いられている。第二次世界大戦中にイギリス軍が「ブルーベリーのおかげで目が良くなった」という嘘の宣伝を流し、これを信じたドイツのバイエル社がブルーベリーを上回る効果を持つものを探したところ、マリーゴールドの花びらから抽出した脂肪酸エステル混合物に高い効果があることを発見し、ヘレニエンを有効成分とする暗順応改善薬「アダプチノール」が作られた。この薬は現在でも目の薬として使用されている。文化聖母マリアの祭日に咲いていたため「マリア様の黄金の花」とも呼ばれている。メキシコでは死者の日の祝祭を彩る花として大量に栽培される。
2017.11.05
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ベゲタミン錠(塩野義製薬、一般名:クロルプロマジン塩酸塩/プロメタジン塩酸塩/フェノバルビタール)は3種類の有効成分により、緊張感や不安感、イライラ感をしずめます。他の睡眠薬が効きにくいとき、もしくは精神症状をともなう不眠症に用いることが多いです。名前の由来はVeget〔植物(神経)性〕+ amineからVeget-amineと名付けられました。
2016.11.13
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公費負担医療制度公費負担医療制度とは、個々の法律に基づいて、国や地方自治体が特定の疾患や生活困窮者に対し、医療費を公費で負担する制度のことです。公費負担医療の種類公費負担医療はその性質から大きく3つに分類することができます。①医療扶助現在、なんらかの困窮状態にある人々を対象に、公費負担により無償の給付を行うもの→生活保護法による医療②福祉医療経済面・心身面でハンディを持った人々に対し、必要な助成を行うもの→身体障害者福祉法、母子保健法などによる医療③公衆衛生医療国民の健康の増進を図るための対策→感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律、公害健康被害の補償等に関する法律などによる医療このような公費負担医療には様々な種類があります。法別番号公費負担者番号の最初の2つの数字は法別番号といい、公費の種類を表しています。どの公費に対しどの法別番号が対応するのかは後ほど説明しますが、この番号を見ればどの公費が適用となるのか、知ることができます。 例)この場合、法別番号は12です。5ページの一覧を確認すると、法別番号12は「生活保護」を表すことがわかります。以後の説明の中で「生活保護(12)」というようにかっこ内に示す、または「12公費」と数字で示すことがあります。 公費負担医療の受給資格公費負担医療の適用を受けるためには、それぞれの法令ごとに所定の審査があり、受給資格を取得した者には受給者証明書等が交付されます。公費負担を取り扱う薬局では、必要に応じて処方箋受付時にこれらの証明書を確認します。公費負担医療を取り扱うために薬局で公費負担医療を取り扱うためには、特別な申請を行い取扱機関として指定されなければならない場合があります。ゆう薬局では開局時に各種申請を行い指定を受けていますが、取り扱ったことのない公費の記載がある処方箋を受け付けた際は、必要な申請が行われているかどうか指定通知書などで確認してください。公費負担医療の給付割合調剤報酬の全額を給付するものから、一部のみを給付するものまで、公費負担医療の療養の給付率はそれぞれの法令によって異なります。個別の法令については5ページ以降にまとめています。医療保険と公費負担医療たとえば「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の「認定疾病医療(18)」は患者が健康保険・国民健康保険の対象者であっても、全額が公費で支払われます。一方「特定疾患治療研究事業(51)」は調剤報酬から保険で給付された金額を控除した残りの自己負担分について公費で支払われます。このように、公費負担医療は、医療保険に優先して一定の給付率で支払われるものもあれば、医療保険で支払われた残りの部分を公費で負担する場合もあります。したがって、保険薬局においては、医療保険と公費負担医療とが併用される場合、その関係を把握しておかなければなりません。介護保険と公費負担医療公費の種類によっては、介護保険において適用されるものとされないものがあります。詳しくは『介護保険』で説明します。 公費単独医療(公費単独)医療保険をまったく使用しない、あるいは保険資格を持たない場合で、公費のみを使用して医療費を請求すること。調剤報酬請求の全額が公費から支払われます。生活保護による公費単独が多いですが、精神通院医療(21)などでも公費単独の場合があります。公費単独の場合の多くは「支払基金」へ請求をおこないます。複数の公費の併用複数の公費負担医療受給者証を患者様が持参された場合、優先順位に従い、先順位の番号は処方箋の第一公費欄に、後順位の公費は処方箋の第二公費欄にそれぞれ記載されるようになっています。それぞれの優先順位に注意し、給付率を把握したうえで処理を行う必要があります。国の公費負担医療制度国が責任を持って行うべき医療を法制度化し、その法律の下で行われます。運営主体は国であり、財源は税金です。自己負担上限額自立支援法(21・15・16)、難病(54)などの場合、月ごとの自己負担額に上限が設けられている場合があります。これが自己負担上限額です。自己負担上限額が設定されている患者の場合、保険医療機関の窓口での合計が上限額に達するまで、自己負担金が発生しますが、上限額に達した後には自己負担金がゼロになり、その分も公費が負担するようになります。上限額管理票上限額管理票は左図のようなものです。(地域・制度によってデザインが変わります。毎回受付時に預かり、累計額が月額自己負担上限額に達するまで、調剤日・薬局名・自己負担額・累計額を記入し、押印していきます。②のように月間負担額累計額が上限額に達した時には、一番上の欄(①)にも調剤日・薬局名を記載し、押印します。①がすでに他医療機関によって記入されている場合は、自己負担額は発生しません。上限額に達した後は、管理票に記入していく必要はありません。上限額に達する前から自己負担がない場合上限額に達するまでの間に発生する自己負担額を市町村が負担する場合があります。別の公費と併用、あるいは市町村から自己負担額にあたる給付金が出るなどして実質的に自己負担が発生しなかった場合も、「本来なら発生したであろう自己負担額」を記載します。すぐに役立つ公費負担医療の実際知識 実例・図解による請求事務マニュアル 2020年版/安藤秀雄/栗林令子【合計3000円以上で送料無料】
2020.12.07
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承認年1957年開発の経緯オイラックスはスイス、ガイギー社(現ノバルティス ファーマ社)により合成されたクロタミトンを主成分とした鎮痒剤である。本剤は1948年にスペインで初めて発売され、国内では鎮痒剤として1957年に市販された。その後、医療事故防止のための医薬品の表示事項及び販売名の取り扱いについての厚生労働省通知に伴い、「オイラックスクリーム10%」として販売名称変更の申請を行い、2006年12月に新しい販売名が承認・薬価収載された。2018年1月にグラクソ・スミスクライン・コンシューマー・ヘルスケア・ジャパン㈱から日新製薬㈱に製造販売承認が承継された。製品の特徴及び有用性1) 本剤は1g中にクロタミトン100mgを含有する白色~黄白色のクリームの鎮痒剤である。2) 本剤は使用成績等の副作用発現頻度が明確となる調査を実施していないため、発現頻度については文献報告を参考に集計した。953例中58例(6.1%)に60件の副作用が認められた。症状として熱感・灼熱感16件(1.7%)、刺激症状(ピリピリ感、ひりひり感等)30件(3.2%)、発赤2件(0.2%)、発赤増強・紅斑増悪7件(0.7%)、分泌物増加3件(0.3%)、浸潤傾向2件(0.2%)が認められている。販売名和名オイラックス® クリーム10%洋名Eurax® Cream 10%名称の由来 特になし 一般名和名(命名法) クロタミトン (JAN)洋名(命名法) Crotamiton(JAN、INN)引用:オイラックス・インタビューフォーム【第(2)類医薬品】第一三共ヘルスケア オイラックスA 30g
2021.12.20
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東久邇 信彦(ひがしくに のぶひこ、1945年〈昭和20年〉3月10日 - 2019年〈平成31年〉3月20日)は、日本の旧皇族で、盛厚王と同妃成子内親王の第1王男子です。皇籍にあった時の名は信彦王(のぶひこおう)。北朝第3代崇光天皇の父系18世子孫で明治天皇の曾孫、昭和天皇・香淳皇后の初孫にあたります。全日本野球会議名誉会長、日本タイ協会常務理事、世界連邦文化教育推進協議会の会長、国際安心安全協会最高顧問、富士山大賞大会長、崇敬会「東郷会」名誉会長、日本の伝統を守る会名誉会長、日本モンテネグロ友好協会名誉総裁など、数多の要職・名誉職を歴任しました。出典:東久邇信彦、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東久邇宮の太平洋戦争と戦後 陸軍大将・首相の虚実 一九三二~九〇年 [ 伊藤 之雄 ]最も期待された皇族東久邇宮 虚像と実像 一八八七~一九三一年 [ 伊藤 之雄 ]不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史【電子書籍】[ 浅見雅男 ]最も期待された皇族東久邇宮 虚像と実像一八八七〜一九三一年/伊藤之雄【1000円以上送料無料】保阪正康解説 日本ニュースが伝えた戦中・戦後 ~昭和・激動期の首相たち~ 第6回 敗戦 ~鈴木貫太郎内閣・東久邇稔彦王内閣~ [ 保阪正康 ]
2023.01.25
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壬生 基博(みぶ もとひろ、1949年〈昭和24年〉7月29日 - )は日本の実業家で、旧皇族の盛厚王と同妃成子内親王の次男です。旧姓名は東久邇 秀彦(ひがしくに ひでひこ)でした。昭和天皇と香淳皇后の孫、第125代天皇・明仁の甥、第126代天皇・徳仁の従弟にあたります。2021年(令和3年)時点で、山階鳥類研究所の理事長でした。出典:壬生基博、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』写真:公益財団法人 山階鳥類研究所より引用保全鳥類学 [ 山階鳥類研究所 ]ぼくはアホウドリの親になる 写真記ひな70羽引っこし大作戦/南俊夫/・写真山階鳥類研究所【3000円以上送料無料】鳥の絶滅危惧種図鑑 変わりゆく地球の生態系をビジュアルで知る / 原タイトル:ENDANGERED BIRDS[本/雑誌] (単行本・ムック) / マーティン・ウォルター/著 林良博/日本語版監修 山崎剛史/日本語版監修 山階鳥類研究所/訳WATARIDORI ディレクターズ・カット デジタル・レストア・バージョン 【中古 ブルーレイ Blu-ray レンタル落ち】
2023.01.26
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梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は日本の海軍軍人で皇族、華族です。位階は従四位、勲等は勲一等、爵位は伯爵でした。最終階級は海軍大尉でお印は鳳凰です。梨本家(旧梨本宮家)前当主です。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦と名乗っていました。出典:梨本徳彦、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』素顔の宮家 私が見たもうひとつの秘史【電子書籍】[ 大給湛子 ]旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて 伏見博明オーラル・ヒストリー (単行本) [ 伏見 博明 ]日本の礼儀作法 宮家に伝わる7つのおしえ(マガジンハウス新書) [ 竹田恒泰 ]
2023.02.03
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「紫野」の歴史再考にあたりネット検索をしていて、見つけたのが「平安時代から現代まで 堀川源流考」という電子書籍です。今回までに、かつて「紫野」を流れていた、「若狭川」、「有栖川」、「堀川」、「小川」についてその流路について、「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の推定を元に考察を行ってきました。今回からこれらの流路について、より深く検証していきます。今回は、「若狭川」の流路について検証します。まず今までの考察で設定した「仮説」と流路近くに存在した建造物の創建から衰退を時系列に並べてみます。810年:紫野斎院創建829年:紫野院(雲林院)創建1001年:今宮神社創建1114年:雲林院西門前に川が流れていた。1185年:紫野斎院の近くを川が流れていた。(袖中抄)1190年:今宮神社東側に川が流れていた。1212年:斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。(宇治拾遺物語)1315年:大徳寺創建1212年:紫野斎院荒廃1222年:川が現在の今出川通を渡っていた。(岡屋関白記)1477年:雲林院荒廃1568-1583年:大徳寺如意庵西側を川が北から南へ流れていた。1583年:総見院創建1915年:船岡山の南から流れ出た小川が、廬山寺通を東へ流れ、大宮通りで若狭川(有栖川)と合流(山州名跡志)上記の記録からある程度場所が明確な記述は3つで地図上でし示すと下記図のようになります。国土地理院地図より作成次に「紫野」を流れていた川の様子を年代を遡る形で確認してみます。2022年流路らしきものは、大徳寺の東側、本法寺東門前の堀、そして今出川通の南から開渠になる再生した堀川の流れ程度です。国土地理院地図より作成1929年若狭川は現在の雲林院辺りで猪熊通方向へ流れを変え、途中暗渠となり二股川に流入し、疏水分流と合流し、小川となり南に流れ、一条通を西に向かい堀川に流入していたようです。また、船岡山北西部に池らしきものがあり、船岡山南麓には真教寺辺りに水路らしき線が認められます。国土地理院地図より作成1912年・1892年この年代の地図になると細かな流路は確認できなくなってしまいます。当時の地図は、航空写真を元に作成されたと思われますので、当時の写真の解像度の問題で地上の詳細な情報を読み取ることができなかったのだろうと考えます。1892年の地図では、合流前の賀茂川、高野川は河原のみ描かれていて水路はありません。このころは両川共に「水無川」だったのでしょう。そこで、下記の古地図から流路の変遷を想像してみた。「京都市圖」(1895年)「京町御絵図細見大成」(1868年)「古今都細見之図」(1861-1863年)「花洛往古図」(1778年)「中古京師内外地図」(1750年)「増補再販京大絵図(乾)」(1741年)「元禄九年京都大絵図」(1696年)「寛永後万治前洛中図」(1642年)「上杉本洛中洛外図屏風」(1565年)「京都市史地図編」1868年江戸時代になり今宮神社東側に通称「若狭川用水路」が掘削される。国土地理院地図より作成1750年この頃まで二股川と堀川を結ぶ水路が存在したと推定。国土地理院地図より作成1585年総見院創建で大徳寺周辺の若狭川流路が変更される。小川の分流「東小川」が存在し、二条城築城まで「大宮川」が存在したと推定。国土地理院地図より作成1568-1585年大徳寺西側境内を若狭川が北から南へ流れていた。船岡山南麓に有栖川が流れていたと推定。国土地理院地図より作成1568年以前の「若狭川」流路1568年以前の「若狭川」の流路を示す情報は限られています。1、「兵範記」に雲林院の西側に川が流れていたことが記載されている。(1114年)2、「袖中抄」に紫野斎院の近くを川が流れていたことが歌われている。(1185年)3、「年中行事絵巻」に紫野御霊会の様子が描かれており、今宮神社の東に川が流れている。(1190年)4、「宇治拾遺物語」に斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった記載されている。(1212年)5、「岡屋関白記」川が現在の今出川通を渡っていたことが記載されている。(1222年)以上のように、雲林院西側から、どのように紫野斎院の近くを流れ、大宮末路を横切り、現在の今出川通を横切り、堀川に注いでいたのかが不明です。その間の流路は、「角田と片平の紫野斎院西側説」と「「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の紫野斎院東側説」があります。次にこの2つの説を検証しながら「若狭川」の流路を推定したいと思います。引用:p78図、「平安時代から現代まで 堀川源流考」上図のように川田、片平は雲林院西門西側(A地点)から、南流させ紫野斎院推定地の西側を通過し、蘆山寺通を越えたあたりで、南東に方向を変えてD地点で大宮末路を横切り、方向を南に変えながら今出川通を横切り、堀川に注ぐ流路を想定しました。「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者も同様に西側流路説も述べていて、そこには彼の自説である「船岡山南麓のアリス川」を髣髴とさせるもう一つの流路も加え、上図朱線のような流路を想定しています。次に、「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の東側流路説を下図に示します。引用:p84図、「平安時代から現代まで 堀川源流考」雲林院西門西側から標高差に従い、南東方向に流れ、現在の「筋違橋町」辺りにあった石橋を潜り、大宮末路を横切り、そこから大宮末路に沿って今出川通手前まで南流し、今出川通手前で東に向きを変え、再び南流して一条通で堀川に注いでいたと推定しました。「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者が、このような推定に至った理由は次の通りです。1、雲林院西門西側からの流れ南に向かう西側流路説では、船岡山の稜線を横切ることになるので流路的にふさわしくない。紫野斎院の西側(裏側)を流れる川では、「袖中抄」に歌われる「斎院のおはします本院のかたはら」の川にふさわしくない。A地点からの標高差、地形を考えると南東方向に流れるのが自然である。南東方向に流れると、「京都坊目誌」に「筋違橋町」の町名起源として「堀河の上流(大宮川也)と有栖河の流れと、此町に相合し南注す。往時斜に橋梁を架せしより、此稱ありと云ふ」と記述のある「筋違橋町」辺りで川は大宮末路を越えることができるとしています。次に私が、「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の根拠に違和感を感じる点を述べます。標高差著者が標高を測定した地点の南方向は丁度「智恵光院通」に当たり、整地され道路になっているために、自然地形より傾斜がなだらかになっている可能性がある。また、船岡山の稜線にかかるというが、流路としてありえない地形ではない。著者の南西流路は、地形の尾根線を流れているので、この流路の方が自然河川の流路としてはふさわしくない。「筋違橋町」の由来また、「筋違橋町」が形成されたのは江戸時代以降と思われます。よって、平安時代にここに石橋があったので、「筋違橋町」と名付けられたと考えるより、江戸時代以降下図の流路になった頃、上の青丸内の橋が「筋違橋」と呼ばれていたので、町名が「筋違橋町」となったと考える方が自然と考える。推論方法「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者は、時より次のような推論を展開します。例えば、「京都坊目誌」の「町名起源 堀河の上流(大宮川也)と有栖河の流れと、此町に相合し南注す。往時斜に橋梁を架せしより、此稱ありと云ふ」という情報源から、この地点で2つの川が合流していたという記述は解せないとしながら、ここに川が流れていたことは間違いないとする。のように、同じ出典からの2つの情報の一方は採用し、他方は採用しないといった推論を行います。この論法は、私には受け入れられません。2、堀川への流路「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者は、「岡屋関白記」に法印側の者が時仲の車を壊して、川底に落としたことが記されているとして、合流後の有栖川が単に北小路(現今出川通)横断していたのなら、橋の上から放り投げたことになるが、もし自身が「岡屋関白記」の筆者であれば、橋のことに触れるだろうし、車が投げ込まれた場所は橋が架かっていたところではなく、狭い道路にそって流れていた場所ではなかったろうかとしています。その方が車を投げ込むにはるかに容易で、ありえそうなことだとしています。この記述と現在の地形から流路を推定していますが、推定に自身の憶測が入りすぎている。さらに現存する堀川との流路の兼ね合いもあり、受け入れがたいところがある。(下図:「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の推定流路)引用:p83図、「平安時代から現代まで 堀川源流考」私は、現在の流路から時代を遡ることで平安時代中期の「紫野」を流れていた河川の様子を想像しようとしてきました。そこで、平安京遷都前の流路を想定して、そこからの流路の変遷を想像することで、平安時代中期の流路を推定してみようと思います。平安京遷都前の「紫野」の河川1568年頃の流路までは、なんとなく推定出来てきましたので、この時代の流路を元に、現在の地形図を参考に平安京遷都前の流路を想像してみました。(下図)Web等高線メーカー - KTGIS.netを用いて作成この流路に現在の地図を合わせると下図の様になります。国土地理院地図より作成793年頃長岡京からの遷都が決定し、平安京の造営がはじまりました。大宮大路の北方延長線上にあった若狭川の流れを南進させ、「大宮川」として平安京内に導き入れ、二股川の西側流路を整備し「堀川」として東堀川小路を南流させました。二股川の東側流路は「小川」として、一条通を西進させ堀川に流入させ、一条通、内裏、大宮川、堀川の水源に加えたと推察します。国土地理院地図より作成810年頃紫野斎院が創建されます。創建地については現在の大宮通蘆山寺通を南東角とする説を採用します。これに伴い、造営地付近が整備されたと考えます。国土地理院地図より作成829年頃この頃、「紫野院(雲林院)」が創建されます。「大宮末路」が北に延長され、「紫野院(雲林院)」の南大門に接続されます。同時に周辺が整備されたと推察します。国土地理院地図より作成1001年頃今宮神社が創建された頃、その東側に若狭川が流れていた。この頃、「北山蓮台寺(上品蓮台寺)」、「引接寺」、「北野天満宮」、「平野神社」が存在していたと思われる。国土地理院地図より作成上図の状態なら下記の記述に出てくる川の流れを再現できているものと考えます。1114年:雲林院西門前に川が流れていた。1185年:紫野斎院の近くを川が流れていた。1190年:今宮神社東側に川が流れていた。1212年:斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。一点、合致しないのが「斎院付近の大宮末路を川が横切りそこに石橋があった。」ですが、東に流れてきた「有栖川」が南に流路を変える際に「大宮末路」を斜めに横切り、そこに石橋があったと考える。1568年頃「雲林院」と「紫野斎院」はこの頃には衰退してしまい、1467年に始まった「応仁の乱」によって、京都の市街地は荒廃します。この頃、大徳寺境内西側に「若狭川」が流れていた記録が残っています。豊富な水源をもたない船岡山周辺の水路は、この頃には、平常時は水路を失っていたであろうと考えます。国土地理院地図より作成1583年頃豊臣秀吉により「御土居」が築かれ、「堀川」と「小川」の間に幾つかの寺院が移転してきました。国土地理院地図より作成1868年頃豊臣秀吉による流路整備から大きな変化はなかったと考えます。国土地理院地図より作成1890年頃琵琶湖疏水が開通し、分流が賀茂川を越えて堀川に合流するようになります。その際に流路の整備が行われ、「若狭川」を「堀川」合流させて、大宮通を南流していた流路が失われたと推察します。国土地理院地図より作成1953年頃「紫野」北部の都市開発と紫竹、大宮、西賀茂一帯の農地開発が進み、水路が整備された用水路が整えられました。結果、「尺八池」を水源としていた堀川上流部は、「賀茂川」に注ぐように変更され、「堀川」は主たる水源を失うことになり水量が減少します。また、「若狭川」が「堀川」に注いでいた水路が暗渠となります。国土地理院地図より作成1960年頃この頃、「若狭川」の水源が宅地開発の影響で水量を失い、「若狭川」は姿を消します。また「小川」も暗渠となります。しかし、「船岡山」、「雲林院」、「櫟谷七野神社」が、かつての「紫野」の風情を今に伝えています。国土地理院地図より作成休憩コーナー京都酒場一休(居酒屋)CHABON (チャボン) (ベーカリー)麺や笑門(ラーメン)北京亭 本店 (中華料理)一麦七菜 (イチバクナナサイ )Cafe Zino(喫茶店)はしもと珈琲 (喫茶店)今宮堂(食堂)知蔵人 (中華料理)紫野 川はた(居酒屋)雨の日も風の日も (ベーカリー)京都の中華 幻冬舎文庫 / 姜尚美 【文庫】
2022.04.16
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竹田恒貴父は竹田恒正、母は竹田恭子(旧姓:根津)の長男(1974年2月20日生)出典:竹田恒正、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日本一の大投資家・竹田和平が語る旦那的投資哲学 花のタネは真夏に播くな【電子書籍】[ 水澤潤 ]竹田和平の貯徳投資学 日本一の大投資家が 【DVD】花のタネは真夏に播くな ~日本一の大投資家・竹田和平が語る旦那的投資哲学~ (文春文庫) 水澤 潤【中古】【新品】富山県で幸せ家族の家づくり 竹田敏信/著
2023.01.22
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賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年〈明治33年〉1月27日 - 1978年〈昭和53年〉1月3日)、のちに賀陽 恒憲(かや つねのり)は、日本の旧皇族、陸軍軍人です。神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子です。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級でした。妃は九条道実公爵の五女敏子妃です。戦後皇籍離脱されました。香淳皇后(昭和天皇后)の従兄にあたります。出典:賀陽宮恒憲王、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』素顔の宮家 私が見たもうひとつの秘史【電子書籍】[ 大給湛子 ]旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて 伏見博明オーラル・ヒストリー (単行本) [ 伏見 博明 ]日本の礼儀作法 宮家に伝わる7つのおしえ(マガジンハウス新書) [ 竹田恒泰 ]役行者と修験道の歴史 (歴史文化ライブラリー) [ 宮家準 ]
2023.01.27
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久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族で陸軍軍人です。階級および位階勲等は軍事参議官で元帥陸軍大将でした。大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王男子です。香淳皇后(昭和天皇后)の父です。第125代天皇・明仁(上皇)の外祖父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の曽祖父にあたります。出典:久邇宮邦彦王、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東久邇宮の太平洋戦争と戦後 陸軍大将・首相の虚実 一九三二~九〇年 [ 伊藤 之雄 ]最も期待された皇族東久邇宮 虚像と実像 一八八七~一九三一年 [ 伊藤 之雄 ]不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史【電子書籍】[ 浅見雅男 ]
2023.01.28
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6月4日の花言葉はスイレンで「清純な心・信仰」です。スイレン属(スイレンぞく、water lily、学名:Nymphaea)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。日本全国の池や沼に広く分布している。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせる事からその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。特徴水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。葉の表面に強い撥水性はない。多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。引用:Wikipedia
2018.06.04
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8月20日の花言葉はセンニチコウで「変わらぬ愛情・不朽」です。センニチコウ(千日紅、学名 Gomphrena globosa)は、ヒユ科の春播き一年草である。園芸植物として栽培されている。形態草丈は50cmくらい、近縁種のキバナセンニチコウでは1m近くになり、よく分枝し、葉は対生し、細長く、白みを帯びている。全草に粗い毛が生えている。花は7月から9月にかけて咲き、直径2-3cmで、松かさを少し押しつぶしたような形をしている。近縁種近縁種のキバナセンニチコウ (G. haageana) は、大柄であるが、花付きが少なく、花色もさえない樺色で、ほとんど作られなかった。しかし、鮮やかな朱色の「ストロベリー・フィールズ」(ストロベリー・フィールドとも言われる)という品種ができたため、人気種になっている。Gomphrena属の植物はアジア・アフリカ・オーストラリアの熱帯地方と、アメリカ合衆国南部から南米にかけて100種近く分布している。観賞する部分は苞である。紅・白・紫・朱色・樺色とピンクの花(に見える花序)の中心部が白いぼかしになる品種があり、特に青紫と朱色は鮮やかな色である。仏花やドライフラワーに最適である。栽培夏の暑さや乾燥にも比較的強く、作りやすい草花である。植え付けるときには腐葉土を混ぜるとよい。追肥はほとんど必要としないが、与える場合には窒素分の少ないものが望ましい。種子にはもともと風に飛ばされるための翼が付いているが、市販品はほとんどがそれを除去したクリーンシードになっているので、播きやすく発芽も良い。発芽適温が高い。覆土は、種が隠れる程度にする。大きな苗の移植はつきにくくなるため、本葉が出てきたら花壇などにセンニチコウで20cm間隔、キバナセンニチコウは25cmくらいの間隔に定植する。引用:Wikipedia
2019.08.20
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10月14日の花言葉はユウゼンギクで「恋の思い出」です。ユウゼンギク(学名:Symphyotrichum novi-belgii)はキク科の多年草である。原産地は北アメリカで、日本へは明治時代に渡来した。現在では野生化し、北海道から九州にかけて分布している。高さは40-100cmである。道ばたや空地などに生育している。
2016.10.14
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12月15日の花言葉はセンリョウで「富 可憐」です。センリョウ(仙蓼/千両、Sarcandra glabra(Thunb.) Nakai)はセンリョウ科の常緑小低木。冬に赤い果実をつけ美しいので栽培され、特に名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされる。特徴高さは50~100cm。葉は対生。花は黄緑色で7~8月頃に咲き、茎の先に穂状花序をつくる。花には花被がなく、花軸に緑色の雌しべが付き、その側面に薄緑色の雄しべが直接出る変わった姿でをしている。果実は液果で10月頃から赤く熟し、翌年2月頃まで見られる。被子植物であるにもかかわらず、維管束の木部は導管でなく、裸子植物同様の仮導管から構成されている。花の構造の特殊性と共に、この植物の原始性を表す特徴と考えられる。分布と生育環境東アジア~インドに分布する。日本では南関東・東海地方~九州・沖縄までの比較的暖かい常緑樹林下に自生している。
2016.12.15
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ノイロビタン配合錠(アステラス製薬、一般名:オクトチアミン、リボフラビン、ピリドキシン塩酸塩、シアノコバラミン)はビタミンB1、B2、B6、B12を配合した複合ビタミン薬です。これらのビタミンは体の神経の働きに深くかかわっています。栄養補給で用いるほか、ビタミン不足で生じる神経痛や筋肉痛、末梢神経炎(手足のしびれ)などに適応します。腰痛や肩こりに処方されることもあります。名前の由来は神経(Neuron)機能の円滑化を目的とする混合ビタミン(Vitamin)剤からNeuro-Vitaと名付けられました。
2016.11.12
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6月13日の花言葉はマイヅルソウで「清純な少女の面影」です。マイヅルソウ(舞鶴草・学名Maianthemum dilatatum)はスズラン亜科マイヅルソウ属に属する多年草。ユーラシア北東部(ロシア東部、日本、朝鮮半島)と北アメリカ北西部(アメリカ合衆国カリフォルニア州北部、オレゴン州、アラスカ州、アリューシャン列島など)に分布し、日本では、北海道から九州の山地帯上部から亜高山帯の針葉樹林に多く群生する。 北アメリカでは、沿岸部の温帯雨林に多く、よくシトカトウヒ林の樹床に群生する。特徴落葉層(リター層)の発達した環境で、根茎を横に伸ばしよく繁殖する。茎は高さ10-20cmほど立ち上がり、途中に2枚のハート形の葉をつける。花期は5-7月。先端から茎を伸ばし、白色の小六弁花を総状花序につける。繁殖状況はもっと低高度で見られるチゴユリに似る。似たような生態のものに、より大柄ではあるが、ユキザサやタケシマランの仲間があり、時には同時に見られることも多い。ブナ帯上部から現れることが多く、ミヤマワラビ、シラネワラビ、イワダレゴケ、フジノマンネングサ、コミヤマカタバミなどと共に高度指標となる。御蔵島では低高度に分布していることが知られており、山体効果によるものといわれる。また、雲霧環境を好み、海に迫った降雨量の多い山では比較的低高度で見られる傾向がある。細部の特徴により、ヒメマイヅルソウが識別される。実は、最初はうずらの卵のように汚れた斑に覆われた白っぽいもので、熟すと赤くなる。葉の模様が家紋の舞鶴紋に似ることから、舞鶴草という名がついた。引用:Wikipedia
2017.06.13
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慶応4年(1868)の正月、京都の南郊で薩摩藩、長州藩を主力とする新政府軍と、大阪から入洛しようとする旧幕府軍との間で戦端がひらかれた鳥羽・伏見の戦い。維新政府軍と旧幕府側との間で16ケ月余にわたって戦われた「戊辰戦争」の端緒となったこの戦争の様子を残された歴史資料から紹介します。日程:2017年7月25日(火)~2017年9月3日(日)9:30~17:00(受付終了16:30)(予定)金曜・土曜日は~20:00(受付終了19:30)(予定) 料金:520円 場所:京都国立博物館
2017.06.30
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バイアスピリン錠(バイエル、一般名:アスピリン)は血液を固まりにくくするお薬です血栓や塞栓の治療に用います。名前の由来はBay aspirinつまりバイエルのアスピリンから名付けられました。
2016.10.13
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10月20日の花言葉はアキノキリンソウで「安心」です。アキノキリンソウ(秋の麒麟草、Solidago virgaurea var. asiatica)とはキク科アキノキリンソウ属の多年草である。高さは70から80cm程度となり、8-11月に総状の黄色い花を多数つける。葉は互生する。茎の下部の葉は先端がとがる楕円形で、茎の上部では披針状。北海道から九州、それに朝鮮に分布。山地や丘陵部の日当たりのよい場所に生える。かつては里山に囲まれた水田の周辺、ため池の土手などにごく普通に見られ、秋草の代表でありリンドウ等と共に小学校の教科書や絵本などでよく紹介された。しかし、そのような環境の減少や荒廃と共に見られる場所が少なくなり、「秋の道ばたの黄色い花」はセイタカアワダチソウに取って代わられた感がある。アキノキリンソウの若葉は食用可であり、水にさらした後和え物やおひたしにする。また、陰干しにしたものは薬用にもなる。近縁種など変異の多い種でもある。基本亜種はヨーロッパ産のヨウシュアキノキリンソウ。亜種のミヤマアキノキリンソウと比較して、花は散房状で総苞片は4列であることが異なるが、中間型もあり厳密な区別は難しい。オオアキノキリンソウも別亜種で、北海道から本州北部の海岸に生える。別種ながら関係のあるものとして、アオヤギバナとイッスンキンカがある。
2016.10.20
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11月4日の花言葉はイヌタデで「あなたのために役立ちたい」です。イヌタデ(犬蓼、学名: Persicaria longiseta)は、タデ科イヌタデ属の一年草。道端に普通に見られる雑草である。和名はヤナギタデに対し、葉に辛味がなくて役に立たないという意味で「イヌタデ」と名付けられた。赤い小さな花や果実を赤飯に見立て、別名アカノマンマともよばれる。形態・生態アジアの温帯から熱帯に分布し、日本では北海道から、本州、四国、九州、沖縄に分布する。野原や道端、畑などにふつうに生える。茎の基部は横に這い、まっすぐか斜めに傾いて伸び、多く枝分かれして草むらのようになって小さな集団を作る。茎の先はやや立ち、高さは20 - 40cm。茎は円柱形で柔らかくなめらかで、ふつう紅紫色を帯びる。葉は互生で、披針形(ひしんけい)で葉の両端がとがり、葉先に向かってだんだん細くなる。葉縁や裏側の葉脈上に毛が生える[3]。葉がつく茎の周囲には、長さ約8mmの筒状のさやである托葉梢(たくようしょう)があり、さやの縁に緑毛が生える。同じ科のオオイヌタデには葉の根元のさやに毛が生えておらず、見分けることができる。春から秋までの4月 - 11月にかけて、茎の先端から長さ1 - 5cmの花穂を出し、紅紫色をした小さな花を密につけ、まれに白い花が見られることもある。紅紫色の萼片は深く4または5裂し、裂片は倒卵形をしており、花弁はない。雄しべは8本、花柱は3本ある。花よりも、その後に見られる真っ赤な果実が目立つ。果実は三角状の痩果(そうか)で、果実そのものは卵形で暗褐色をしているが、その外側に赤い萼をかぶっているので、このように見えるものである。人間との関わり雑草ではあるが、非常に美しく、画材などとして使われることもある。
2017.11.04
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川島 なお美(かわしま なおみ、1960年11月10日 - 2015年9月24日[1])は、日本の女優、タレント、歌手である。戸籍名は、鎧塚 なお美(よろいづか なおみ、旧姓:川島)。血液型はAB型。二人姉妹の長女。名古屋市守山区出身。2010年6月より太田プロダクション所属。夫はパティシエの鎧塚俊彦。来歴・人物愛知県立中村高等学校、青山学院大学文学部第二部英米文学科卒業。大学在学中に芸能界にデビュー。女子大生タレントの先駆けとなる。学生時代は剣道部に所属し有段者である。大学生時代に試験でカンニングをした[補足 1]。この際の「開き直り」的発言が一部で物議を醸した。文化放送が『セイ!ヤング』の後番組として、1981年10月からスタートさせた『ミスDJリクエストパレード』の初代DJに抜擢され、深夜の顔となる。当時は大学在学中であり、女子大生DJと呼ばれた。1982年、中京テレビ制作(日本テレビ系)『お笑いマンガ道場』の三代目女性レギュラーとなり、プロ顔負けの漫画のうまさと、芸人顔負けのネタの巧みさを披露し、同世代からの人気を獲得した(ちなみに女性レギュラー初代は元「ゴールデン・ハーフ」のエバ・マリー、二代目は秋ひとみ、四代目は森山祐子)。1989年8月8日、9月から明治座で『水戸黄門』の舞台公演でのフィルム撮影の為現場に向かう途中に、ロケバスが崖から転落する事故に遭った。第七頸椎を骨折する大怪我を負ったが顔は無傷だったことをすぐに確認したという[補足 2]。そのまま復帰することはなく降板に至った。キャンパス・クィーンのイメージがいつまでも抜けず、出演番組は限られるなど不遇な時代が長く、広い世代に知名度が高まるまでにかなりの時間を要した。しかし、『イグアナの娘』や『失楽園(TVドラマ版)』への出演をきっかけに、女優として知られるようになった。以降、ベッドシーンでは「子宮が呼吸できない気がする」との理由で撮影中に前張りを取ることを『週刊ポスト』(1997年11月3日号)のインタビューで告白したり、この方向転換は、判事だった父の立場を考慮し、父が退官するのを待ってから行った。『おしゃれカンケイ』にゲスト出演した際、通常スタジオの観客は番組スポンサーの方針で女性と決められているが、川島が出演する回に限り、観客は男性限定となった。2013年8月に健康診断で腫瘍が見つかり、即手術を勧められるも拒否。代替策としての抗がん剤治療も拒否した。腫瘍は肝内胆管癌であることが判明。「この人になら命を預けられる」と思える医師との出会いを果たして、翌年1月末に手術をうけた。川島の望みどおり、全て腹腔鏡下で行われた手術は12時間にも及んだという[2]。術後の5年生存率が40〜50%であると言われるなか、術後補助化学療法等は行わず、予後の健康維持の管理にビタミンCの点滴、民間療法、悪い気の排除などの施術(エビデンス不明)に取り組み[3]、各媒体に復帰した。川島はブログで「完治した」と述べるも、2014年7月に再発が判明、夫に対しては余命1年未満の宣告がなされた。川島は余命を知らされない状態で抗がん剤治療拒否を決断[4]。以降も代替医療に励みながら芸能活動を続けた。2015年9月17日、出演中のミュージカル『パルレ〜洗濯〜』を、体調不良を理由に途中降板[5][補足 3]。9月20日、11月から12月に出演が予定されていたミュージカル『クリスマス・キャロル』(劇団スイセイ・ミュージカル)についても降板が決まった[7][補足 4]。2015年9月23日には自宅療養中であることが公表され、同年11月5日開催予定のソロライブでの復帰を目指していた[9]。しかし、翌24日19時55分、胆管癌により死去。満54歳没。戒名は秋想院彩優美俊大姉(しゅうそういん さいゆう みしゅんだいし)。趣味・嗜好・特技ワインと犬と葉巻をこよなく愛し、愛犬家としても有名。ワインブーム時にはワインタレントとしてもバラエティーや教養番組等で活躍。フランスの四大ワイン産地から騎士号を授与されている唯一のアーティストでもある。1998年、日本テレビ主演連続ドラマ『くれなゐ』に主演。第一回放映を終えた翌日の4月14日、ドラマの撮影が休みであったため、当時通学していたソムリエスクールに向かう途中、エスカレーター最上段で足を滑らせて正座するような姿勢で落下。ギザギザのステップに当たった左足の脛を裂傷し、20針も縫う怪我を負った。雨天で右手にワインとテキストを持ち、左手に傘を持って両手が塞がっていたことに加え、ヒールの高いサンダルを履いていたため、足元が滑った際にバランスを保つことが出来なかったという。その際、ワインの瓶が割れなかったことを取り上げられ「ワインをかばって転倒」と一部で報じられたが、実際はそのようなことも考える間もなく、咄嗟に身を丸めた際に持っていたワインを抱きかかえる形になっただけであると後に語った[10][11]。ワイン断ちをしてからは、水に興味を持ち、2014年3月からミネラルウォーター専門スクール アクアデミアに通学。5月には一般社団法人アクアミネラーレ協会認定 アクアアドバイザーとして認定されている。飼っている犬はミニチュアダックスフントで、名前は「シナモン」と「ココナッツ」。愛犬を「娘」と呼んでおり、ブログでも頻繁に写真を掲載していた。シナモンは2015年1月9日死亡した。ココナッツはシナモンが産んだ子供。プロ野球で好きな球団は中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ。料理も非常に得意で、『愛のエプロン』では出演する度に高評価を得ていた。家族・親族2007年10月、パティシエ鎧塚俊彦と婚約したことを発表。2009年2月1日、入籍。結婚後はおしどり夫婦として夫妻でテレビ出演をする事も多かった。実父は岐阜県美濃市出身の元簡易裁判所判事で、腹違いの14歳年上の姉がいたが生後すぐに生き別れ、2006年に46年ぶりの再会をした。ぼんちおさむとは一時、親戚関係だった。『新アップダウンクイズ 新春スペシャル』にペアで出場した際に紹介された。その後、いとこが離婚したために親戚ではなくなった。略歴[編集]1979年 - 歌手デビュー。1981年 - 『ミスDJリクエストパレード』に、DJとして出演。1982年 - 『お笑いマンガ道場』にレギュラー出演。1999年 - 日本ソムリエ協会ワインエキスパート資格取得。2001年 - 日本ソムリエ協会名誉ソムリエワインの騎士称号2002年- パラオ共和国 親善大使- フランスワイン三大産地(シャンパーニュ・ボルドー・ブルゴーニュ)より騎士号を叙任2005年 - サンテミリオン・ジェラード騎士号、コマンドール騎士号を叙任2008年 - 広島国際学院大学客員教授 就任(任期2年)[12]。2014年 - アクアミネラーレ協会認定アクアアドバイザー資格取得[補足 5]2015年 - 9月24日に胆管がんの為死去[1]。引用:Wikipedia【5000円以上で送料無料】【11/6 20時から11/12 10時まで★全品ポイント10倍★☆期間限定】【VHSです】失楽園 1~5 (全5巻)(全巻セットビデオ) [川島なお美]|中古ビデオ【中古】
2015.11.10
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11月4日の花言葉はイヌタデで「あなたのために役立ちたい」です。イヌタデ(犬蓼、学名: Persicaria longiseta)は、タデ科イヌタデ属の一年草。道端に普通に見られる雑草である。和名はヤナギタデに対し、葉に辛味がなくて役に立たないという意味で「イヌタデ」と名付けられた。赤い小さな花や果実を赤飯に見立て、別名アカノマンマともよばれる。形態・生態アジアの温帯から熱帯に分布し、日本では北海道から、本州、四国、九州、沖縄に分布する。野原や道端、畑などにふつうに生える。茎の基部は横に這い、まっすぐか斜めに傾いて伸び、多く枝分かれして草むらのようになって小さな集団を作る。茎の先はやや立ち、高さは20 - 40cm。茎は円柱形で柔らかくなめらかで、ふつう紅紫色を帯びる。葉は互生で、披針形(ひしんけい)で葉の両端がとがり、葉先に向かってだんだん細くなる。葉縁や裏側の葉脈上に毛が生える[3]。葉がつく茎の周囲には、長さ約8mmの筒状のさやである托葉梢(たくようしょう)があり、さやの縁に緑毛が生える。同じ科のオオイヌタデには葉の根元のさやに毛が生えておらず、見分けることができる。春から秋までの4月 - 11月にかけて、茎の先端から長さ1 - 5cmの花穂を出し、紅紫色をした小さな花を密につけ、まれに白い花が見られることもある。紅紫色の萼片は深く4または5裂し、裂片は倒卵形をしており、花弁はない。雄しべは8本、花柱は3本ある。花よりも、その後に見られる真っ赤な果実が目立つ。果実は三角状の痩果(そうか)で、果実そのものは卵形で暗褐色をしているが、その外側に赤い萼をかぶっているので、このように見えるものである。人間との関わり雑草ではあるが、非常に美しく、画材などとして使われることもある。
2018.11.04
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4月4日の花言葉はニリンソウで「かわいらしい」です。ニリンソウ(二輪草、学名:Anemone flaccida)は、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。春山を代表する花のひとつ。特徴深く裂けた根生葉を持つ。茎に3枚が輪生する葉には、サンリンソウのような柄はない。3-6月に、白い萼片を持つ直径約2 cmの花をつける。多くは1本の茎から特徴的に2輪ずつ花茎が伸び、和名の由来となっている。まれに1輪や3輪のものもある。根茎で増えるため、群落を作ることが多い。別名が、「フクベラ・ガショウソウ」。分布と生育環境東アジア(樺太、朝鮮、中国(北部・東北地方)、ウスリー地方、日本)に分布する[2]。日本では北海道、本州、四国、九州に分布し、主に湿潤な山地の林床や周辺部に生育する。基準標本はサハリンのもの。利用根茎は「地烏(ジウ)」と呼ばれ、漢方薬として用いられる。また、若葉は山菜として食用とされ、アイヌ達は冬季の重要な備蓄食料として、5月から6月に採集し利用していた。一方で、有毒植物であるトリカブトの若葉に似ていることから注意が必要である。例えば2009年、2012年には間違えてトリカブトを口にし、死に至った事例が日本で報告されている。トリカブトとの誤認を防ぐ為には、ニリンソウの採集は蕾を確認してからが望ましいの見解がある。引用:Wikipedia
2019.04.04
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4月20日の花言葉はヤマブキで「気品・待ちかねる」です。ヤマブキ(山吹、棣棠、学名:Kerria japonica)はバラ科ヤマブキ属(本種のみの一属一種)の落葉低木。黄色の花をつける。春の季語。学名はスコットランドの植物学者ウィリアム・カーに由来する。特徴低山の明るい林の木陰などに群生する。樹木ではあるが、茎は細く、柔らかい。背丈は1mから、せいぜい2m、立ち上がるが、先端はやや傾き、往々にして山腹では麓側に垂れる。地下に茎を横に伸ばし、群生する。葉は鋸歯がはっきりしていて、薄い。晩春に明るい黄色の花を多数つける。多数の雄蕊と5~8個の離生心皮がある。心皮は熟して分果になる。北海道から九州まで分布し、国外では中国に産する。古くから親しまれた花で、庭に栽培される。花は一重のものと八重のものがあり、特に八重咲き品種(K. japonica f. plena)が好まれ、よく栽培される。一重のものは花弁は5枚。似たものシロヤマブキ(Rhodotypos scandens (Thumb.) Makino)もあるが別属である。日本では岡山県にのみ自生しているが、花木として庭で栽培される事が珍しくない。こちらは花弁は4枚。文化古歌にも好んで詠まれ、しばしば蛙(かわず(旧かな表記では「かはづ」))とともに詠み合わせられる。太田道灌と八重山吹の話はよく知られている。詳細は、太田道灌#逸話を参照。なお、件の歌については、普通は八重咲き山吹には実がつかないことを述べた歌とされるが、「七重八重」を山吹が積み重なる様に咲く様子を述べたと解し、ヤマブキの果実が堅くて食えないので、「山ほど花が咲くのに、食える実がつかないのは情けない」とする解釈もあるらしい。山吹色といえば、オレンジ色と黄色の中間色のことである。下のような色である。往々にして小判の色をこれにたとえる。引用:Wikipedia
2019.04.20
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7月12日の花言葉はヤグルマソウで「優雅 幸福」です。ヤグルマソウ(矢車草、学名:Rodgersia podophylla)は、ユキノシタ科ヤグルマソウ属の多年草。特徴根出葉は5枚の小葉からなる掌状複葉で、葉柄は50cmに達する。小葉は倒卵形で先端が3-5浅裂する。花茎の高さは1mほどになり、短い葉柄をもった茎葉が数個互生する。花期は6-7月で、先端に円錐状の花序をつける。花弁はなく、花弁にみえる萼裂片は長さ2-4mmで、ふつう5-7個あり、はじめ緑白色で、のちに白色に変わる。雄蕊は長さ3-4mmで8-15個あり、直立する。花柱は長さ1.5-2.5mmになり、2個あり、花時に直立する。果実は狭卵形の蒴果で、長さ5mmになる。和名の由来は、小葉の構成が、端午の節句の鯉のぼりにそえる「矢車」に似ることによる。引用:Wikipedia
2019.07.12
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9月15日の花言葉はススキで「活力」です。ススキ(芒、薄、Miscanthus sinensis)とは、イネ科ススキ属の植物。尾花ともいい秋の七草の一つ。また茅(かや。「萱」とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。 野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である。特徴高さは1から2m。地下には短いがしっかりした地下茎がある。そこから多数の花茎を立てる。葉は細長く、根出葉と稈からの葉が多数つく。また、ケイ酸を多く含むため堅く、縁は鋭い鉤状になっているため、皮膚が傷つくことがある。夏から秋にかけて茎の先端に長さ20から30cm程度の十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽい色をしているが、種子(正しくは穎果・えいか)には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶことができる。日本には全国に分布し、日当たりの良い山野に生息している。夏緑性で、地上部は冬には枯れるのが普通であるが、沖縄などでは常緑になり、高さは5mに達する。その形ゆえに、たまにサトウキビと勘違いする観光客がいる。国外では朝鮮半島・中国・台湾に分布するほか、北米では侵略的外来種として猛威をふるっている(日本にセイタカアワダチソウが侵入したのと逆の経路で伝播)。植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階に当たる。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られないが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになる。ススキ草原を放置すれば、アカマツなどの先駆者(パイオニア)的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。後述の茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持していたものである。分類本州南部以南の海岸線には、葉の幅が広く、ざらつきの少ないものがあり、これをハチジョウススキ(M. condensatus Hack.)という。変種と見なす立場もある。同属の別種もいくつかある。やや華奢な植物で、水辺に生えて、綿毛が純白のものにオギ(荻、M. sacchariforus (Maxim.) Benth.)がある。ススキよりさらに大きく、堤防などに大きな株を作るものにトキワススキ(M. floridulus (Labill.) Warb.)がある。他にもカリヤス(苅安、M. tinctorius Hack.)、カリヤスモドキ(M. oligostachyus)など数種が知られるが、多くない。ススキはイネ科の代表のひとつと見なされているから、ススキの名を持つ植物は多く、たとえば以下のようなものはさほどススキに似ておらず、分類上も近くはないがその名を持っている。アブラススキ、コメススキ、ヒメアブラススキ、ススキメヒシバ など利用かつては「茅」(かや)と呼ばれ、農家で茅葺(かやぶき)屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用することが多かった。そのため集落の近くに定期的に刈り入れをするススキ草原があり、これを茅場(かやば)と呼んでいた。現在では、そのような利用がされないので、その多くは遷移が進んで、雑木林となっている。そのため、ススキ草原に生育していた植物には、かつて普通種であったが、現在は稀少になっているものがある。また、カヤネズミなども同様に見かけにくくなっている。また、未成熟の穂を食用とする地域もある。東京・雑司ヶ谷鬼子母神では、ススキの穂をミミズクの姿に作った「すすきみみずく」が有名。文化日本文化とススキ十五夜の月見には、ハギ(萩)とともにススキを飾ることが多い。 花札では、八月、すなわち旧暦8月、新暦の感覚で秋に相当する時節に用いられている。 沖縄地方には、ススキの葉を環のように結んで魔除けとする風習がある。日本語では、ススキの穂は、それを動物の尾に見立てて尾花(おばな)と呼ぶことがあり、ススキ自体もそのように呼ばれることがある。この「尾花」はススキおよびススキの穂を意味する古名であり、奈良時代初期の歌人・山上憶良が『万葉集』(巻八 1538)にて「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また 藤袴 朝顔の花」と詠んだように、古来、秋の七草の一つに数えられている。 また、馬の毛色で尾花栗毛(おばなくりげ)というのは、栗毛馬や栃栗毛馬であることに加えて鬣(たてがみ)や尾の長毛が白色のものを指す。この白毛は遠目には金色に輝いて見えるため、その特徴を秋のススキの穂になぞられて呼ばれたものである。枯れすすき(枯薄、花も穂も枯れたススキ)には枯れ尾花/枯尾花(かれおばな)という呼称(古名)もあり、現代でも「幽霊の正体見たり枯尾花」という諺はよく知られている。これは江戸時代中期の国学者で俳人の横井也有が俳文集『鶉衣』の中で「一年松木淡々己れ高ぶり 人を慢(あなど)ると伝へ聞き 初めて対面して化物(ばけもの)の正躰見たり枯れ尾花 其(そ)の誠心なること大概この類なり」と述べたうちの「化物の正躰見たり枯尾花」が世に広まりつつ変化したものであるが、これは「疑心暗鬼に陥った心境下では風になびく枯れ尾花のような何でもないものも怪しげに思え、幽霊のようなただならないものと見間違えてしまう」ということから、「恐怖心や猜疑心があると、何でもないものでも、怖ろしげなもの、怪しげなものに思えてしまう」ということを意味する譬えとなっている。さらには、やはりススキの穂にまつわる類義語として「落武者は薄の穂にも怖(お)ず」 (cf. wikt) があるが、こちらは「落武者は捕まることを警戒し、怯えているためススキの穂にも恐怖する」ということから転じて先の諺と同じ意味で用いられる。 また、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村は「狐火の 燃えつくばかり 枯尾花」と詠んでいるが、こちらは、夜の野原にて風に揺らめく枯尾花の情景を、怪しく燃え盛るこの世のものならぬ狐火に譬えた俳句である。引用:Wikipedia
2019.09.15
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京菜ミズナ(水菜、学名:Brassica rapa var. laciniifolia)は、アブラナ科の越年草。学名が示す通り、植物学的には、アブラナやカブなどと同種である。また、同種同変種にミブナがある。カラシナの一種として説明されることもある。別名で、キョウナ(京菜)、ヒイラギナ(柊菜)、センスジナ(千筋菜)、センボンナ(千本菜)、センスジキョウナ(千筋京菜)、イトナ(糸菜)などがある。またキョウナを標準和名として用いている図鑑も多い。『雍州府志』(貞享3年、1686年)に「水菜」として記載されていて、すでに京都西南部の東寺・九条付近で栽培されていた。人糞尿などを使用せず、流水(清流)を畦間に引き入れて栽培するため「水菜」の名がある。越冬して栽培する一年生植物で、微かに白粉を帯びる。根はあまり肥大せず、細い根葉を多数生じる。形は狭い長形で多数の細かい鋭片に分裂した葉をつける。分蘖は旺盛で、濃緑色のギザギザした葉が何十枚にも分蘖する。葉茎の基部は耳状にならないが茎を抱く。花は萌黄色で直径1cm程度、4枚の花弁は十字花ではなく2枚ずつが近寄り矩形に近い。伝統的な品種としては、大阪や京都など、近畿地方を中心として、葉の切れ込みが深く、葉柄が細く、収穫期にはほとんど株立ちしない関西系の品種と、静岡県や愛知県など、東海地方を中心として、葉の切れ込みが比較的浅く、葉柄ががっしりと太く、若干の株立ち状態で収穫される関東系とされる品種がある。前者は、生食も可能であるが、はりはり鍋に不可欠な食材として、大阪などでは昔から親しまれてきた品種である。後者は野趣に富んでいるため、専ら加熱調理がなされることが多い。浜松を中心とする静岡県西部から愛知県東部にかけての地域では、正月料理の雑煮の具として親しまれている。京都付近では秋に苗床に播種し、晩秋畑に定植して管理する。耐寒性が強く、旬は晩秋から冬。 独特の芳香と繊維分をもつ。ビタミンA、ビタミンC、カルシウムが多く含まれてる。煮食が多く、鯨の水炊きなどに使われる。またほかの鍋物、煮物、漬物などにも使われる。独特な歯触りを損なわないため火を通しすぎないように調理する。春菊シュンギク(春菊、Glebionis coronaria)は、キク科シュンギク属に分類される植物。原産地は地中海沿岸。春に花を咲かせ、葉の形がキク(菊)に似ていることから春菊と呼ばれている(キク科の植物であるので、葉も花も菊に似ているのは当然である)。食用にされる。日本では、葉に切れ込みの少ない大葉(おおば)が四国・九州で(また「おたふく」「ろーま」とも呼ばれる)、切れ込みのある中葉(ちゅうば)がそれ以東でそれぞれ栽培される。中葉はさらに、株立ち型と株張り型とに分かれる。香りと葉や花の形から、関西では菊菜(きくな)とも呼ばれる。稀に新菊(しんぎく)と表記されることもある。春菊が食用とされるのは東アジアにおいてのみである。宋の時代に中国に流入して蔬菜となった。 特有の香りを持つ葉と茎を食用とし、ビタミンやカルシウム、葉緑素が豊富に含まれている。すき焼き・ふぐ鍋など鍋料理の具材に使われるほか、生食も可能で、サラダに使われる。天麩羅のネタとしても好まれ、「春菊天」は関東の立ち食いそば・うどん店では定番メニューの一つである。旬は11月から 3月。中国では炒め物にする。味は産地によって違い、例えば東京産の春菊は苦いが、逆に広島産は甘い。栽培がしやすく、需要はあるが、傷みやすいのが欠点であるため大阪府など、都市付近で栽培されることも多い。苦味は茎には無く、葉を加熱した際に出てくる。ほうれん草ホウレンソウ(菠薐草、学名:Spinacia oleracea)は、ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属の野菜。雌雄異株。ほうれん草とも表記される。高温下では生殖生長に傾きやすくなるため、冷涼な地域もしくは冷涼な季節に栽培されることが多い。冷え込むと軟らかくなり、味がよりよくなる。ホウレンソウの原産地は、中央アジアから西アジア、カスピ海南西部近辺と見られているが野生種は発見されていない。初めて栽培されたのはアジア、おそらくはペルシア地方(現在のイラン)だったと考えられている。ヨーロッパには中世末期にアラブから持ち込まれ、他の葉菜類を凌いで一般的になった。東アジアにはシルクロードを通って広まり、中国には7世紀頃、日本には江戸時代初期(17世紀)頃に東洋種が渡来した。伊達政宗もホウレンソウを食べたという。19世紀後半には西洋種が持ち込まれたが、普及しなかった。しかし、大正末期から昭和初期にかけて東洋種と西洋種の交配品種が作られ、日本各地に普及した。ホウレンソウの「ホウレン」とは中国の唐代に「頗稜(ホリン)国」(現在のネパール、もしくはペルシアを指す)から伝えられた事による。後に改字して「菠薐(ホリン)」となり、日本では転訛して「ホウレン」となった。三つ葉ミツバ(三つ葉 Cryptotaenia canadensis subsp. japonica)は、セリ科の多年草。和名の由来は葉が3つに分かれている様子から。北海道から沖縄までの日本各地、及び中国、朝鮮半島、サハリン、南千島等の東アジアに広く分布し、山地の日陰に自生する。高さは40cmほど。6 - 8月に5枚の花弁からなる白い小さな花を咲かせる。葉の形状は卵形で先が細くなり尖っている。互生し、3枚からなる複葉である。縁にはぎざぎざとした重鋸歯がある。おひたしや和え物とするほか、吸い物や鍋物、丼物の具として広く用いられる。江戸時代から栽培され、今日では主にハウス水耕栽培したものが周年出荷されており、茎と葉が食用とされる、さわやかな香りが特徴の香味野菜(ハーブ)。β-カロテンを多く含む緑黄色野菜である。山菜としては春から初夏が旬である。野生のものは一般的に、ハウス栽培のものよりも大きく香りも強いが、筋張っているものもある。またアントシアニンを含む赤色のミツバも存在する。2010年(平成22年)の収穫量は16,400t、出荷量は15,300t。作付面積は1,110ha。都道府県別の収穫量割合は、千葉県 19%、愛知県 17%、茨城県 11%となっており、この3県で全国の約50%を占める。カリフラワーカリフラワー(英: Cauliflower、学名:Brassica oleracea var. botrytis)はアブラナ科アブラナ属の一年生植物。頂花蕾を食用にする淡色野菜として栽培されるほか、観賞用途でも利用される。名前の由来はキャベツ類の花を意味する、kale flower もしくは cole flower から。和名はハナヤサイ(花野菜、花椰菜)、ハナカンラン(花甘藍)。木立花葉牡丹(キダチハナハボタン)、花キャベツと呼ぶこともある。白くこんもりとした花蕾と太い茎が特徴。よく似たブロッコリー(B. oleracea var. italica)は別変種。カリフラワーの原産地については未だ明白になっていない。地中海沿岸原産のケールなど栽培されていた野菜から、突然変異によって生まれた、あるいは近東を原産地とするものが、ローマ帝国の衰退後にアラブ人の手によってヨーロッパに伝えられた等と言われている。茎の肥大化と花蕾(からい)が発育しない性質により、花梗(かこう)は低い位置で球状の塊となる。収穫せず生育させても、他のアブラナ属のようには伸長しない。日本でも最近認識されてきた緑色のロマネスコ(Romanesco、品種名「カリブロ」)等も仲間である。太い茎がミネラルやビタミンを貯蔵する器官としての役割を果たすため、良質な花や実がつき、他のアブラナ科植物より栄養価が高い。日本では白(クリーム色)の花蕾以外ほとんど生産されていないが、オレンジ色や紫色などの花蕾を付ける品種もあり、カラフルである。2000年前の古代ローマでは「シマ」という名で記録されている。ケールなどで開花前の蕾を食用にすることは古代から行われ、紀元前540年頃の記録にも残っている。これは現在の食用菜の花(はなな)やカイランと同様で、今日見られるようなカリフラワーは、この用途に適した変異種が選抜されたものと考えられる。15世紀にイタリア、フランスで栽培され始め、16世紀になるとヨーロッパ全体に広まり、品種改良も進んだとみられる。18世紀頃にはインドで熱帯でも栽培できる品種が開発された。しかし改良されて現在のようなカリフラワーとなるのは19世紀初頭のことである。日本には明治初期に渡来した。花梛菜(はなはぼたん)、英名カウリフラワーと紹介され試作されたものの、食用としても観賞用としても普及しなかった。第二次世界大戦後に進駐軍向けに栽培が行われ、日本での洋食文化の広まりと、改良種の輸入、栽培技術の進歩により昭和30年頃から広く普及した。ブロッコリーとカリフラワーはいずれも花が密集して頭状花を形成するキャベツの変種である。カリフラワーは蕾が一つの塊のように堅く結びついているのに対して、ブロッコリーは結球がカリフラワーほど密集しておらず、伸びた茎の先端に密集した蕾を作る。また、カリフラワーは花蕾が一箇所に集中した形状が白雪を連想させる美しさを醸成するため、ブロッコリーよりも珍重された。白菜ハクサイ(白菜、学名Brassica rapa var. pekinensis)とは、アブラナ科アブラナ属の二年生植物。日本では冬の野菜として好まれ、多く栽培・利用されている。結球する印象が強いが、結球しない品種も多い。中国語では「大白菜」と「小白菜」に分かれ、チンゲンサイやシロナなども含まれるが、日本でいうハクサイは前者の一部に限られる。英語の“Chinese cabbage”も広く中国野菜を意味し、日本でいうハクサイは、"Napa cabbage"・"Nappa cabbage"(napaやnappaは日本語の「菜っ葉」が語源)に相当する。原種であるブラッシカ・ラパは、紀元前の中国に伝わると栽培されるようになり、様々な野菜を生んだ。7世紀の揚州で、華北のカブ(アジア系)と、華南のパクチョイが交雑して生じた牛肚菘(ニウトウソン、『本草図経』にある)が、最初のハクサイと考えられている(一説に新石器時代からというが、これは疑問)。当初は結球性が弱く、白菜(シロナ)に近かったと見られる。16 - 18世紀にかけて結球性を持つものが現れ、品種改良が進んだ結果、今日見られるハクサイが生まれた。栄養面ではビタミンC、ビタミンK、葉酸などを含む。抗がん作用が指摘されているイソチオシアネートが豊富である。現在の日本で栽培される品種は、不和合性を利用したF1品種である。ハクサイは日本料理の食材として多用されているが、日本で結球種のハクサイが食べられるようになったのは、20世紀に入ってからである。アブラナ科の植物は、近縁他種の花粉で受粉して交雑種を作りやすい特徴を持ち、交雑によって生まれたハクサイは、特に継続した採種が困難だった。江戸時代以前から、日本には度々ツケ菜として非結球種が渡来したが、いずれも交雑により品種を保持できなかった。これは、現在でも育種家の課題である、ハクサイの強い交雑性が原因と考えられている。明治時代初期には政府によって本格導入されたが、ほとんど失敗した。唯一、愛知県栽培所で山東白菜の系統維持に成功したが、これは半結球種だった。明治末期から大正にかけて、宮城県の沼倉吉兵衛が宮城農学校(宮城県農業高等学校の前身)と伊達家養種園で芝罘白菜(チーフ白菜)の導入に成功した。松島湾の馬放島という小島で隔離育種したので、松島白菜の品種名を与えた。農家は島で採取した種を得て栽培し、仙台白菜の名で出荷した。同時期に愛知県名古屋市中川区大蟷螂町付近で野崎徳四郎(キャベツやカリフラワーの普及にも関与)が山東白菜の改良を進め、現在のように結球するハクサイができたといわれている。昭和に入って石川県でも栽培が軌道に乗り、これで現在の主要系統である松島群、野崎群、加賀群という三大品種群が作り出されたことになる。このようにハクサイの普及は、栽培より育種の成功によるところが大きい。普及のきっかけとして、日清・日露戦争に従軍した農村出身の兵士たちが、中国大陸で食べた白菜の味を気に入って持ち帰ったからと言われているが、各地で栽培が試行されたもののほとんどは、品種維持に失敗したと見られる。日本での生産量はダイコン、キャベツに次いで3番目に多い。統計では1941年からデータが取られ、既に50万tが生産されていた。1968年にピークとなり186万tを超えたが、その後は食文化の洋風化により減少した。第二次世界大戦後に生産量が急拡大した際、連作障害による被害が拡大したが、これに対抗する耐病性育種も進んだ。有力産地は、冬場は茨城県、夏場は冷涼な長野県である。ごぼうゴボウ(牛蒡または牛旁、悪実、英: Burdock、学名: Arctium lappa L. )は、ユーラシア大陸原産のキク科の多年草である。大阪弁では「ごんぼ」と呼ぶ。日本で自生はしていないが、縄文時代の遺跡からは植物遺存体として確認されており、縄文時代か平安時代に日本に伝わったとも言われる。日本人が食すようになったのは江戸時代から明治にかけてであり、根や葉を食用とする。茎の高さは1 mほど、主根の長さは品種にもよるが50 cm〜1 mほどある。花期は6〜7月。紫色のアザミに似た総苞にトゲのある花を咲かせる。大別すると長根種と短根種がある。栽培の主流となっているのは長根種の「滝野川ごぼう」とその改良種であり、収穫時には直径3 cm、長さは1 m前後に成長する。一般に関東は長根種が多く、関西では短根種が多い。ゴボウは連作を嫌うため、同じ畑では2-3年後でないと作れない。なお、中には「博多新ゴボウ」のように水田で栽培されるゴボウも存在する。ゴボウを日常の食材としているのは日本のみである[7]。日本の他、日本が統治していた朝鮮半島、台湾、中国東北部の一部以外では食材としない。太平洋戦争中に英米人捕虜がゴボウを「木の根」だと思い、木の根を食べることを強要し虐待されたとして、戦後、日本人将兵が戦犯として裁かれたこともあった。日本では根を食用としてきんぴらや天ぷらのかき揚げなどに使われるほか煮物に用い、近年では細切りにした根を湯がいてサラダにもする。旬は初冬で、新ゴボウは初夏となる。柳川鍋には欠かせない食材とされる。ゴボウにはポリフェノールであるクロロゲン酸が豊富に含まれている。クロロゲン酸は、ゴボウを水にさらしたときに出てくる茶褐色の成分であり、コーヒーにも含まれ、抗酸化作用がある。ゴボウを長く水にさらすとクロロゲン酸が失われてしまうので、「皮はむかない」「水にさらさず、すぐ調理する」「大きめにゴロンと切る」ことでクロロゲン酸をより多く摂取できる。ゴボウは、食物繊維、特に水溶性食物繊維が豊富であり、イヌリンが水溶性食物繊維の主体を成している。また長期冷蔵すると、このイヌリンが分解され糖化することで甘味が出るという。なお、アザミの根も山ゴボウ、キクゴボウ、菊ごぼうという名前で食されることがある。欧米では根を薬用としてハーブ(バードックと呼ばれている)として用いられている。また、ゴボウは生薬・漢方薬に用いられ、利尿、発汗、血液浄化、皮膚疾患(ニキビ、湿疹、乾癬)の薬の材料としても使われている。日本には薬草として中国から伝来。薬草としては発汗利尿作用のある牛旁根(ごぼうこん、英: Burdock Root)のほか、浮腫、咽頭痛、解毒に用いる種子(悪実(あくじつ)、または牛旁子(ごぼうし))を用いる。日本では乳腺炎に種をそのまま食べるか、煎じる使用法も有効として民間に口伝で知られる。繊維質が多く、便秘予防に効果があるとされる。大腸がん・直腸がん予防に効果があるとするむきもあるが、これは正確ではなく、のところでは試験管レベルの実験で酸素状態の悪い成長した大腸がんの細胞に対して選択的に倍加した毒性を発揮する性質があるとされている。ゴボウの根の部分を野菜として利用するのは日本と朝鮮半島だけの特徴であり、先述のように葉の部分を野菜として、根や種の部分を漢方薬として使用されることが多い。キク科植物に対しアレルギー性を有している場合は、注意が必要である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』皮もまるごとごぼう(国産) 無添加100%パウダー 160g(80g×2個) 送料無料 無添加 粉末 【10P05Nov16】
2020.03.09
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鳥居製薬のインタビューフォームによると名前の由来「特になし」となっているのですが、シダトレンが「スギ(cedar)花粉に対する免疫反応を、寛容(tolerance)へ導くという意味からcedartolen」なので、シダキュアは「スギ(cedar)花粉に対する免疫反応を、治療する(cure)という意味からcedacure」と思います。スキルアップのための服薬指導サブノート改訂4版 [ 山田浩一 ]
2020.03.20
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施薬院(やくいん)は、聖徳太子「祟る王家」と聖徳太子の謎 (講談社+α文庫) [ 関 裕二 ]が仏教の慈悲の思想に基づき、その地に薬草を栽培し、怪我や病気で苦しむ人を救うために四天王寺内に作ったと言われる施設。推古天皇元年(593年)、聖徳太子が大阪に日本最古の官寺・四天王寺を建立の際、四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり(四箇院とは施薬院に悲田院・敬田院・療病院を合せたものである)、社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない)。現在は大阪市天王寺区にある勝鬘院愛染堂が施薬院跡として、四天王寺病院(設置主体 四天王寺福祉事業団)が施薬療病院として継承されている。施薬院(やくいん / せやくいん)は、奈良時代に設置された令外官である庶民救済施設・薬園。「施」の字はなぜか読まれないことが多く、中世以降は主に「やくいん」と呼ばれた。天平2年(730年)、光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を無料で貧民に施した。東大寺正倉院所蔵の人参や桂心などの薬草も供されている。また、光明皇后自ら病人の看護を行ったとの伝説も残る。光明皇后崩御の後は知院事2名が置かれ、平安京へ遷都後も、施薬院は五条室町近くに移されて続行し、山城国乙訓郡に施薬院用の薬園が設けられた(『日本後紀』弘仁2年2月5日(811年3月3日)条)。天長2年(825年)には、別当、院使、判官、主典、医師の各1名を置く職制が定められ、延喜式でも継続された。『類聚三代格』所収の寛平8年閏正月17日(896年3月5日)付太政官符によれば、施薬院と東西悲田が病人と孤児を収容し、前者は預と雑使が治療にあたり、後者は預・雑使に加えて乳母・養母が養っていたこと、院司が預以下を指揮監督していたことが記されている。その一方で平安時代に入ると藤原氏が設立者である光明皇后の実家であることを理由として施薬院の運営に介入を行うようになる。藤原冬嗣が施薬院に食封1,000戸を寄進したものの、その使い道を藤原氏の困窮者の救済に限定させたことが『続日本後紀』承和3年5月甲子(26日)(836年6月13日)条に記されている。こうした経緯から別当のうち1人は藤氏長者の推薦によって藤原氏から補任される慣例が平安時代を通じて行われた(残り1名は大外記から補任されていた)。院使は実務にも関与したことから医学知識のある者が任命され、官司請負制が確立される11世紀頃から丹波氏が世襲するようになる。しかし、中世に入ると施薬院は衰微し、次第に形骸化していった。院司は長く丹波氏の世襲であったが、鎌倉時代からは和気氏もこれに加わり、両家の間で争いが起きる。しかし、実務自体はほとんど無くなっており、形式的な職位に過ぎなかった。戦国時代に、丹波氏の後裔である全宗が、豊臣秀吉に側近として仕え、正親町天皇より勅命で施薬院使に任ぜられ、形骸化していた施薬院を復興する。同時に「施薬院」を姓とするようになった。以後江戸時代は、この施薬院氏が院使を世襲した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2020.05.08
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宮家の歴史、今回は常陸宮家です。常陸宮(ひたちのみや)は日本の皇族である正仁親王の宮号です。2020年(令和2年)時点で、昭和天皇の次男、正仁親王を当主とする直宮家です。1964年(昭和39年)9月30日、正仁親王と津軽華子との結婚により創設されました。現行の皇室典範の下で設けられた最初の宮家です。宮号の由来は、常陸国(現在の茨城県)が親王を国司とする親王任国であったことによります。宮邸は東京都渋谷区東で、2020年(令和2年)時点での宮家の中で唯一、赤坂御用地(東京都港区元赤坂)ではない場所にあります。出典:常陸宮、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』Tシャツ 常陸宮家紋章 皇族の家紋 バックプリント 発汗性の良い快適素材 ドライTシャツ【ネコポス送料360】 のぼり旗 皇族の家紋・常陸宮家紋章のぼり 014E 武将・歴史
2022.12.15
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久邇宮(くにのみや)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家です。香淳皇后(昭和天皇后)の実家です。日本国憲法・現行皇室典範施行後も皇族でしたがGHQの指令により1947年(昭和22年)10月14日皇籍離脱されました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』闘う皇族 ある宮家の三代 (角川文庫) [ 浅見 雅男 ]
2022.12.25
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閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年(明治35年)8月3日 - 1988年(昭和63年)6月18日)は、日本の閑院宮家出身の旧皇族で、陸軍軍人、居合道家、剣道家です。閑院宮載仁親王第2王子で軍人としての階級は陸軍少将です。全日本居合道連盟第2代会長を務めました。栄典は大勲位・功四級。戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし閑院春仁と名乗っておられました。のちに純仁(すみひと)と改名されました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』【ふるさと納税】【旅館こうろ】写真のまんま!はんなり京都のちらし寿司(3〜4人前) | ちらし寿司 トッピング具材付き 2合用 3人前 4人前 ギフト お土産 グルメ ご当地 旅館こうろ 京都 京都市【ふるさと納税】【イノダコーヒ】スティックインスタントコーヒー3箱詰合せ【ふるさと納税】万能中華調味料『唯味 WEY-WEY(ウェイウェイ)』3個セット|人気 おすすめ 調味料 中華 100g×3個 合計300g 瓶入り キャンプ おやじキャンプ飯 Leaf 私房菜すみよし調味監修【ふるさと納税】【イノダコーヒ】コーヒーマーブル| 1本 約450g パウンドケーキ コーヒー 洋菓子 ケーキ スイーツ デザート 京都市 人気 おすすめ【ふるさと納税】【飴匠さわはら】手づくり京飴6入りセット【ふるさと納税】【飴匠さわはら】京飴/京風味6入りセット【ふるさと納税】【イノダコーヒ】アルトハイデル
2022.12.31
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宮家の歴史、今回は北白川宮智成親王です。北白川宮智成親王(きたしらかわのみや さとなりしんのう、安政3年6月21日(1856年7月22日)- 明治5年1月2日(1872年2月10日))は、江戸時代末期、明治時代初期の日本の皇族です。北白川宮初代にあたり伏見宮邦家親王第13王子です。。幼称は泰宮(やすのみや)です。万延元年(1860年)孝明天皇の猶子となり、聖護院門主雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)の附弟となる。慶応2年(1866年)2月に親王宣下を蒙り智成親王(さとなりしんのう)と命名される。同月聖護院に入り、得度して信仁入道親王(しんじんにゅうどうしんのう)の法名を名乗りました。慶応4年(1868年)明治維新に際して還俗し智成親王に戻り。はじめ照高院宮(しょうこういんのみや)を号され、後に聖護院宮を継承されます。明治2年(1869年)三品に叙品されました。明治3年(1870年)宮号が聖護院門主と紛らわしいとの理由から北白川宮に改称されました。明治5年(1872年)正月没、享年17でした。遺言で異母兄の能久親王が北白川宮を相続しました。出典:北白川宮智成親王、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』【送料無料】 北白川宮能久親王 皇族軍人伝記集成 / 佐藤元英 【全集・双書】
2023.01.02
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朝香孚彦(あさか たかひこ、1912年〈大正元年〉10月8日 - 1994年〈平成6年〉5月6日)、または孚彦王(たかひこおう)は、日本の旧皇族、陸軍軍人です。朝香宮鳩彦王の第1王子で1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱されました。陸軍軍人として、皇族で初めて操縦桿を握ったといわれます。士候45期、陸大53で最終階級は陸軍中佐でした。第124代天皇・昭和天皇は従兄、第125代天皇・明仁は従甥、第126代天皇・徳仁は従姪孫にあたります。出典:朝香孚彦、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』アール・デコ建築意匠 朝香宮邸の美と技法 [ 東京都庭園美術館 ]旧朝香宮邸物語ー東京都庭園美術館はどこから来たのか [ 東京都庭園美術館 ]
2023.01.16
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竹田 恒治(たけだ つねはる、1944年(昭和19年)8月3日 - )は、日本の旧皇族で実業家(伊藤忠商事の関係会社の社長を務めた)です。竹田宮恒徳王第2王男子で皇籍離脱前の身位は王(恒治王)でした。実業界を離れた後、在ブルガリア共和国日本国特命全権大使を務め、岡田茂(三越社長)は岳父にあたります。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』素顔の宮家 私が見たもうひとつの秘史【電子書籍】[ 大給湛子 ]日本の礼儀作法 宮家に伝わる7つのおしえ(マガジンハウス新書) [ 竹田恒泰 ]旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて 伏見博明オーラル・ヒストリー (単行本) [ 伏見 博明 ]
2023.01.20
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久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年(明治34年)2月2日 - 1959年(昭和34年)12月7日)は日本の旧皇族です。官位は海軍中将大勲位功三級で香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたります。出典:久邇宮朝融王、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東久邇宮の太平洋戦争と戦後 陸軍大将・首相の虚実 一九三二~九〇年 [ 伊藤 之雄 ]最も期待された皇族東久邇宮 虚像と実像 一八八七~一九三一年 [ 伊藤 之雄 ]不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史【電子書籍】[ 浅見雅男 ]
2023.01.29
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4月17日の花言葉はハナビシソウで「希望」です。ハナビシソウ(花菱草、学名:Eschscholzia californica)は、ケシ科ハナビシソウ属の耐寒性一年草である。別名、カリフォルニアポピー。特徴明治時代に渡来し、家紋の花菱に似ているために、この名がある。同属植物は8-10種あり、いずれもアメリカ合衆国西部に分布している。ハナビシソウは、草丈60cmくらい、茎は根元からよく出て株立ちになり、葉は掌状に3裂する。4月から5月にかけて、花径7-10cmくらいの4弁花を開く。花色は、濃い黄色が基本だが、淡黄色・オレンジ色・朱色・サーモンピンクなどのものもあり、八重咲きもある。花壇や切り花用に用いられている。属名は、ロシア系ドイツ人の医師、博物学者のヨハン・フリードリッヒ・エッショルツ(Johann Friedrich Eschscholz 1793 - 1831)に由来する。ロシア語のщをドイツ語でschschと綴るため、非常に読みにくい名前になっている。同属の植物に、ヒメハナビシソウ E. caespicata があり、草丈30cmくらい、花も4cmくらいと小柄で、鉢植えやプランター植えに栽培されている。栽培寒さに強く、病虫害もほとんどない丈夫な草花である。秋分頃に花壇に直まきする。タネは比較的細かいが、タネが見え隠れする程度に覆土しておくと、1週間くらいで発芽する。日当たりと排水のよいところなら、ほとんど手がかからない植物である。引用:Wikipedia
2017.04.17
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今回ご紹介するお酒は「萩乃露 純米吟醸:株式会社福井弥平商店」です。京都紫野の蕎麦屋さん「うるめ」さんで頂きました。程よい旨みと上品な吟醸香が飲み飽きせず、お蕎麦との相性も抜群です。社名:株式会社 福井弥平商店創業:寛延年間 (1748~51) 住所:〒520-1121 滋賀県高島市勝野1387-11387-1 電話番号:(0740) 36-1011店名:うるめ電話番号:075-495-9831 住所:京都府京都市北区小山西大野町−51 おすすめのアクセス方法:京都市営地下鉄烏丸線北大路駅から「バス」で北大路堀川に行き、そこから徒歩3分(240m)で到着です。 【滋賀県の地酒】【日本酒】福井弥平商店謹製『 萩乃露 別撰大辛口+11 720ml 』贈りものやプレゼントにも!お歳暮・お年賀・お中元父の日・敬老の日・内祝い・お誕生日お祝い・のし対応・熨斗名入れ
2016.12.25
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2月27日の花言葉はクロッカスで「青春の喜び・堅実」です。クロッカス (Crocus) は、アヤメ科クロッカス属の総称、または、クロッカス属の内で花を楽しむ園芸植物の流通名。特徴耐寒性秋植え球根植物。原産地は地中海沿岸から小アジアである。晩秋に咲き、花を薬用やスパイスとして用いるサフランに対し、クロッカスは早春に咲き、観賞用のみに栽培されるため、春サフラン、花サフランなどと呼ばれる。球根は直径4cmくらいの球茎で、根生葉は革質のさやに覆われているが、細長く、花の終わった後によく伸びる。花はほとんど地上すれすれのところに咲き、黄色・白・薄紫・紅紫色・白に藤色の絞りなどがある。植物学上は、クリサントゥスCrocus chrysanthusを原種とする黄色種と、ヴェルヌスC. vernusを原種とする白・紫系の品種とは別種だが、園芸では同一種として扱われ、花壇・鉢植え・水栽培に利用されている。栽培球根の植え時は10月から11月で、花壇に植えるときは15cm間隔に植え付け、8 - 10cmくらい覆土する。鉢植えは、6寸鉢に6 - 7球が適当で、球根が2cmくらい土をかぶるように植える。寒さに強く、日当たりと水はけの良いところなら、植えっぱなしでもよく生育するほど丈夫である。花後葉が伸びて醜くなるが、そのままにしておき、葉が半分くらい黄ばんできたら掘り上げて分球し、乾いた風通しの良いところで貯蔵する。 開花した花に水がかかると溶ける様に縮んで萎れてしまう為、水やりの際はくれぐれも注意が必要である。引用:Wikipedia
2020.02.27
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