すい工房 -ブログー

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小説「クチナシの庭」 (1ページ目)



                 1


 あれはまだ、私が小学生になる前のことだと思う。
 両親と弟、私の四人で祖父母の家に遊びに行った日のことだ。

 そのころから好奇心にかられるまま、ふらふらと歩くクセのあった私は、その日も祖父母の家の庭からいつの間にか抜け出して、さすらっていた。
 見かけるものがめずらしくて、気になるものを見つけては側に行き、また先に気になるものを見つけては側にいく。
 そうして常習犯よろしく迷子になってしまった。
 特に恐れはなかった。
 知らない場所で、見知った人がいなくても、特に不安に駆られることはない。

 平然としているので、たとえばデパートで迷子になっても、私が迷子とすぐ気づく人はいなかった。
 幼い子供が保護者も連れず、うろうろさまよう様子を眺めていた店員が気づくパターンが多かった。
 迷子の呼び出しは、子供が親をさがすのではなく、親が子供を捜す場合が、私の場合は多かった。

 その時も、一人で歩く子供に首をかしげても、不審に思う人もいなかった。
 あのときは、最後に猫のあとを追っていた。
 白い毛づやの綺麗な猫を捕まえたくて、後を追っていた。
 逃げ込んだ垣根にも驚くことなく、分け入っていった。

 垣根と言っても厚み二十センチほどのものだ。

 垣根の先は、人家の庭先だった。
 庭には白い花が咲きほこっていた。
 白い花弁を広げた花が、視界一面に広がり、めまいを覚えるほどの花の香りに満ちていた。

 花気に当てられ、くらりとめまいがした。
 美しさへの驚嘆と、充満した、濃密な香りに息苦しささえ覚えた。

 差し込む日差しに目を眇めていると、家宅から足音が聞こえた。
 すぐに家人が縁側に現れて、まじまじと私を見ていた。

 私は異質な空間に迷い込んだ感覚を覚えながら、その人をぼんやりと見上げていた。
 唐草色の着物を着た、私と同じ年頃の少女だ。
 黒いつややかな髪は顎の辺りまでしかない。
 肩まで届くほどあれば、さぞかし綺麗な黒髪だろうと考えたのを、ぼんやりと覚えている。

 彼女も大きく見開いた目を瞬きさせていた。
 驚いているのは表情でわかったけれど、そのときはなぜだかわからなかった。

 きれいな子だなぁ。と熱にうかされた心地で眺めていると、視界に小さな影が落ちてきた。
 なんだろうと見上げると、赤い風船がふわりと降りてくるところだった。

 見上げた先――赤い風船が太陽と重なると、パン、と勢いよく割れた。

 音は覚えている。割れた瞬間は見ていない。
 びっくりして身をすくませながら目を閉じて――。

 記憶は、そこで途切れた。



            2

 秋の空気はからりと爽やかで、少し肌寒く感じる気温が心地よかった。
 残暑も終わった時期に行われる体育大会が、気持ちよくすごせる。
 私の通う、県立、高久見(たかくみ)高校は、運動会と文化祭を三日連続でとりおこなう。

 初日で体育大会を終わらせ、二日目、三日目で文化祭を消化する。
 一年のときは奇妙に映ったこの日程も、二年目になると免疫がそなわる。

 それでも小学校・中学校で培われた、運動会と文化祭を一ヶ月ほどの隔たりを経て執り行う習慣はぬぐいきれず、多少の違和感が身のうちで静かにうごめいていた。

 運動会というのは、なぜか私は関わりが深い。
 これまで二度転校しているけれど、そのどちらも運動会、文化祭の時期にかぶっていた。
 他の行事より鮮明に記憶に残っているのはそのためだろう。
 早くクラスメイトに馴染もうと、必死だったのだから。

 この時期になると、過去の運動会、文化祭を不意に思い出す。
 そうしてなぜか、あのクチナシの庭の景色も脳裏をよぎる。
 花の季節でもないのに。

 自分でも不思議だった。

 あのとき――。
 不意に記憶が途切れた後、私はどこをどのようにしてもどったのか、祖父母の家に帰り着いていたという。
 自分の足で帰ってきたと両親は言ったが、私にはそのときの記憶が抜け落ちている。

 子供の頃のことだし、特に深く考えていなかった私は、両親の言うままを、そのままとらえていた。

 時を経て、こうして不意にあのクチナシが咲きほこる庭を思い出すようになってから、時折不思議に思う。

 どのように家に帰ったのか。……と。

 十年以上前のことだ。
 記憶は劣化し、当時は鮮明だった情景も、うすく霞がかった景色の中にうずもれている。

 クチナシの庭に関して言えば、最近気づいたことがある。
 あの記憶を思い出すようになったのは、ここ数年のことなのだと。

 どうしてかも、何となくわかっていた。

「リツー」

 語尾が間延びした声に呼ばれて振り向くと、カエが手を大きく振って招いてた。

「もうすぐだよ、徒競走」

 グランドを見下ろすと、二年の男子生徒が徒競走をしていた。
 この後は三年の男子、そして女子の一年、二年、三年と続く。

 俊敏な運動神経に縁のない私は、唯一の参加種目である徒競走以外、教室で時間をつぶしていた。
いうなればサボりだ。

「あ、橋川(はしかわ)」

 側にきたカエが、ふと見下ろした先にいたクラスメイトの名をポツリとつぶやく。

「知ってる? 一年にも人気があるって」
 も、とういうのは、二年、三年の間ではすでに名の知られた人だということだ。

「らしいね」
「普段目立たないのにね。何気に足が速いから、この時期からいきなり話題の人。部活もしてないのがもったいないよ。で、この時期がすぎるとまた熱もおさまるんだよね」

 熱がおさまるというより、彼が人との関わりにおいて、一定以上の線引きをするから、それに気づいた人から足が遠のいていくのだ。

 もとより、人との関わりが希薄な人だった。
 特定の友人以外、彼が必要意外のことで人に話しかける姿を見たことがない。
 この前も、教室で肩がぶつかってしまったとき、私が謝っても、無表情で軽く頭を下げただけだ。
 愛想もなにもない。

「昔はかわいかったのに……」
「え? 昔?」

 思わずこぼれた言葉を、カエの耳が拾っていた。

「昔って? 橋川と知り合いだったの?」
「違う違う。橋川じゃなくて――」

 一瞬、ドキリとしながら、私は徒競走で並ぶクラスメイトの一人を指差した。

「ああ。倉持ねぇ。たしかに、かわいいとはいえないもんねぇ」

 小学生の頃は、クラスで一番背が低かった。
 その彼は今では、背の順で並ぶとクラスの最後尾になる。

 ごまかしが通じたのにほっとしながら、グランドに視線をうつした。

 ちょうど橋川がスタートしたところだった。

 はっきり覚えていないけれど、私はおそらく彼を知っている。
 確信はない。
 ただ一度しか会ったことのない人を覚えているのかと、私自身の記憶に自信がない。
けれど……。
 私がこの時期にクチナシの庭を思い出すようになったのは、彼が転校してきてからなのだ。
 それだけは、はっきりと確信できた。

 体育祭はクラスごとに分けられた、赤、白、黄、青の四つの団で競う。
 各学年、八クラスあるから、それぞれの団に二クラス振り分けられた。
 団はクラスの代表がくじ引きして決められる。

 我が二年C組は青団だ。

 徒競走は地味だけれど、人数が多い分、点数に響いてくる。
 あからさまな手抜きをすると、非難を受けるので、みんな精一杯の力を注いでいた。

 声援の中には特定の人物に宛てた、黄色い声も混じっている。

 騒々しい声援にまぎれながら、橋川の名がいくつか聞こえた。

 彼はリレー選手に選ばれているので、少々の手抜きも許されない。
 入学したての一年のとき、行われた体力測定の50メートル走。

 去年はその結果を元に選手が選ばれているので、彼に逃げ場はなかった。
 入学したての、初々しい一年生のころだ。
 まさか半年後に、大仕事が待っているとは、かけらも思いつかなかったろう。
 知っていたら――。
 彼の性格から考えると、無難な記録になるよう、手を抜いたはずだ。
 おまけに去年は三人抜きという、人目をひく行為もさらしているので、今年も真っ先にリレー候補にあがった。

 橋川と同じ走者を眺めると、特に目ぼしい人物はなかった。
 無作為に徒競走の組を決めた後、一度なら変更可能なので、他の団の有力選手は変更をおこなったようだ。

 このようなささやかな戦略が、体育祭には多く取り入れられていた。
 小さな積み重ねが、点数に響いてくる。

 体育祭の優勝団の特典に、一週間分の学食無料券(日替わり定食のみ)が配布されるので、結構みんな必死だ。
 運動神経に自信のある方々は、練習と戦略に勤しむ。
 自信のない私のような生徒は、運動以外の応援に力を注いだ。
 応援も立派な点数のうちだ。

 私は小道具作りの一員だった。
 裏方が大変なのは当日まで。
 当日の今日は、何もすることなく、状況をながめている。

 カエに促されて、グランドに行こうとしたとき、パン、とスタートを知らせる火薬音が聞こえた。
 思わずカエと二人、足を止めてグランドを見下ろした。

 橋川が走っている。
 前評判どおり、思ったとおりの一着だ。
 まだ徒競走だというのに、一年の女子の中には、わがことのように、はしゃいでいる子もいた。

 去年と同様、橋川は何の反応も示さない。

 汗をぬぐっていた彼が、ふと顔を上げた。

 顔がこっちを見ている。
 視線が合ったように思えて、なぜかぎくりと体が強張った。
 遠いから気づくはずがないと思ったけれど、橋川は数秒の間、こちらを見ていた。

 そして何事もなかったように、ふいと顔を背けて雑踏の中にまぎれていった。

「……サボリ、気づいたかな」

 カエが気まずそうにつぶやく。

 橋川はこりかたまった真面目でもなく、他人に迷惑をかけるような不真面目でもない。
 平均的な、普通の生徒だ。
 面倒ごとからは遠ざかり、率先して前に立つのも嫌っている。

 その彼が、望んでもいないポジションを押し付けられて、周囲の懇願に折れて、練習にも種目にも参加している。
 そんな彼から見れば、参加競技以外、自分の団席からも離れ、影のある教室で涼んでいる輩は、腹立たしい限りだろう。

 カエも運動神経に恵まれているので、リレーと学年不問の団体競技に参加する。
 橋川と練習も一緒だったから、彼の練習姿も目にしているのだろう。
 悪いことをしたような表情を浮かべるカエに、私は「大丈夫だよ」と答えた。
 カエの練習姿を、橋川も知っているのだから。

 睨まれたのは私だ。

 思って、苦笑いが口の端に浮かんだ。

 あれは――さっきの表情は、どう見ても睨んでいた。
 目があった瞬間、一瞬驚きに見開かれ――それはすぐ鋭い眼差しになった。

 サボっていたからではない。
 サボりは彼の感情に拍車をかけただろうが、それ以前から、彼は私を――。

 私を、嫌っていた。

 なぜ彼が私を嫌うのか、理由はわからない。

 もともと彼との接触はあまりないし、彼自身が人との関わりを持とうとしないのだから、考えられる理由は限られてくる。

 だと言うのに、彼の嫌悪を買っているのだ。
 私が気づかないうちに、カンに触れる言動をとっていたのだろう。

 彼が私を嫌っているのだろうとの推測も――ふとした拍子に気づいたことだ。

 人との接触を持たない彼だったけれど、明らかに私との他の人との対応が違うのだ。

 この前だって肩がぶつかったとき、一言も言葉を発しなかった。

 狭い教室だ。
 何かの拍子に体が衝突することだってある。
 ほかのクラスの女の子が同じ状況に陥ったとき、彼は無表情だったものの「いいよ。気にしないで」と明らかに相手を気遣うそぶりを見せた。

 それが決定打だった。
 たった一言の、たった一つの動作だったけれど、私が彼の中では「ことさら関わりたくない人物」に入っているのだとわかった。

 彼が嫌悪を外に出した行動をとったことはない。
 可能な限り、私との接触を拒んでいる。
 それが他人に気づかれない程度、にじみ出ていた。

 嫌悪をむける相手だけが気づく程度の、本当にわずかなもの。

 橋川が、言葉に、行動に出していないから、私も突き詰めて聞くこともできない。

 互いにいさかいなく、平穏な学園生活を望むなら、私も橋川との接触を極力避ける必要があった。

 グランドに戻ると、先導にしたがい、決められた組に整列する。

 競技は男子の徒競走が終わり、女子の徒競走へとうつる。

 男子のときのように、黄色い声が飛ぶことはない。
 親しい友人に、「ころぶなよー!」とか「一着以外、許さん!」とか、そんなからかい半分の声援が時折混じっていた。

 運動は苦手だ。

 陰鬱な心は、スタート地点に立つと最長に達していた。
 ずっと人の背で塞がっていた視界が急に開け、障害物のない景色が広がっている。

 支持されるまま、クラウチングスタートの体勢をとり、火薬のはじける音でスタートする。

 懸命に走ったものの、結果は6人中5番目。
 橋川やカエのように、集中的な運動の練習量はこなしていない。
 でも時々、カエと一緒に走りこみの練習をした。

 ……たいした成果はあがっていないけど。

 あがった息を整えながら、促されるまま、順位順に並ぶ。
 記録係が順位を書き留めてから、解散となる。

 解散の合図を受けて、その場から少し離れた芝生の上で留まっていた。
 2組あとにカエが走る。

 カエは予想どおりの1着。
 記録を終えると、私に気づいて側にきた。

 素直な賛辞を送ると「これしか取柄ないし」とはにかみながら答える。
 カエは陸上部の短距離走者だ。

「長野」

 カエと話し込んでいると、不意に彼女を呼ぶ声がした。

 振り向くカエに、体が強張る私。

「橋川……」

 会いたくない人が――できれば見たくもない人が、カエの後ろにいた。
 いつもの無表情で「先輩が呼んでる」と淡々とした口調で話している。

「なんで?」
「リレーの作戦を立て直すって」
「え? なんで?」
「土壇場で白が順番変えたんだと」
「ええ~。いいじゃん。ちょっと変わったからって、総タイムがそう変るわけないじゃない」
「文句は直接本人に言えば?」
「できるわけないでしょ。それにー。全学リレー、トリじゃない。お昼もまだなのにー」

 体が強張ったまま、とにかく私は橋川が離れるのを願っていた。

 ……と、ほんの一瞬、橋川が私を見た。
 動かした視線の先に私が存在してしまった。……と、言ったほうが正しいだろう。

 身がすくむ私を、ほんのわずかに眉をよせて、何事もなかったように顔をそむける。
 橋川は、文句をいいつづけるカエを置いて「用件は伝えた」とばかりに、先に歩いていく。

 ぐずっていたカエも、あきらめのため息をこぼして「じゃあ……行ってくるね……」と重い足取りで歩いていった。

「気をつけてね」

 離れていく橋川にほっとしながら、よろよろと歩いて「いやだ~」との心境を体全体で現しているカエに、手を振る。

 最近、橋川が側にいると息が詰まる。

 橋川の心情がわかるから、身の置きどころが……なんというか、足元がざわざわして気持ち悪い。
 橋川が私に向ける嫌悪は、ちょっと……痛いものがある。

 ため息をこぼして、私は空を見上げた。
 十月上旬に行われる体育祭は、秋の気配をふんだんに含んでいて、過ごしやすい。

 空は青く、空気はほどよい冷気を含んでいる。
 汗ばんだ体には、吹きぬける風がここちいい。

 さわりと前髪を揺らした風を感じながら、頬に触れて流れる風を感じながら、私は空を見上げたまま目を閉じた。

(……嫌われて、平気な人なんていないんだよ)

 そう、胸のうちでこぼして。




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