スキルス胃癌 サポート

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midoriさん



midoriさんは30代半ば過ぎの女性。バツ1で二人の娘さんがいます。
患者さんご本人からの投稿が少ない中、ちょくちょく投稿してくれる患者さんでした。
彼女は独特の言い回しがあって、まるで10~20代前半のようなギャル調言葉を使う人でした。
ネット上だけのお付き合いの時は、私とは合わないタイプの女性だと勝手に思い込んでいました。

そんなmidoriさんとメールでもお付き合いが始まり、彼女の本来の人柄は全くの別人だと知りました。
仕事をしながら常に二人の娘さんを思い、経済面も計画を立て、地元でボランティアもしていて、尚且つご自分の人生もエンジョイしている魅力的な女性でした。

そんなmidoriさんに会いに福井まで行こう!と計画を立て、実行したのがこの年のこの月でした。
サイトの仲間のうち都合の付く6人で福井へ向かいました。

初めて会う彼女は、本人がとても気にしていたから書くのはナンだけれど、華奢でTS-1の副作用である色素沈着が出ていたけれど、綺麗な人でした。
この頃は確か、術後化学療法を受けていた頃だったと思います。
再発予防だったのか、再発してその為の治療だったのか、術後、どれほど経っていたのか・・・実は良く知らないままお付き合いが始まっていました。
TS-1の副作用の下痢でかなり悩まされていました。

この計画の少し前から、こぐまパパさんのHPの掲示板でのやり取りで
「もし、本当にひろりんさんと会えるならギュッってして欲しい」
そんな投稿があったので帰り際、真っ暗な駐車場で彼女をそっと抱きしめました。
それまで、和気藹々で皆で笑って過ごしていましたが抱きしめた直後、midoriさんは涙ぐんでいました。

「今度は私が皆さんに会いに行きます」
そう、midoriさんは言って別れました。



2005年3月

約束通り、midoriさんは娘さんの春休みを利用して上京してきました。
とにかく皆を集めようと「TDLに18時集合」を、呼びかけました。
総勢18名が集まり、ごった返しのTDLで大変な状況でした。
この頃、midoriさんはあの人ごみの中で、ずっと歩き回っていました。
さほど休む間もなく、車椅子なんて必要なく・・・・
皆で記念写真を撮り、最高の記念になりました。

翌日、私は羽田空港まで見送りに行きました。
空港内で一緒におそばを食べた時、二人の娘さんと妹のちーちゃんも一緒でしたが、あの時の印象的な会話があります。

「TDLで具合が悪くてどうしようもなくなったら、医務室に駆け込むつもりでした。
だって、どうしようも無いですもの・・・私は癌ですって言って優先させてもらおうかと思ってました。」
元気に見えていましたが、結構ムリはしていたのでしょう・・・
この言葉を、中学生の娘さんはどんな気持ちで聞いていたのかな・・・・胸が痛みました。

飛行機を待つ時間、midoriさんは空港内を中学生の娘さんにもたれかかって歩いていました。
私と下のまだ5歳の娘さんと、ちーちゃんはそんな二人の後姿を見ながら歩きました。
搭乗口まで見送った時、又会えるよね・・・そう心の中でつぶやいた時、涙がにじみました。


2005年5月

ある日、midoriさんから定期検査で所見ありと出たと知らせが届きました。
未だ病院だと、震えてしまって仕方がないと・・・・
「怖い、助けて」
こんなメールが届きました。
その日のうちに落ち着きは取り戻しましたが、この頃から本当に辛い時間が始まりました。


2005年6月

尿管狭窄で、ステントを何度も入れ替える処置が行われました。
麻酔をかけても痛かったようで、何度も何度も泣き言のメールが届きました。
どうも、ステントのサイズが合わなかったようで、何度かやり直しを余儀なくされたのです。
もう、この時のメールは不満の嵐・・・・
なだめても、慰めても、むくれるばかり。
毎日、何度も何度もメールのやり取りをしました。


2005年8月

所見が出てから、治療法を変えて新たな治療が始まっていました。
副作用でかなりきつかったようです。
結果は所見が出た6月の頃と変わらずでした。
進行を止められたというだけ、奏効したとも言えますがふとももにグリグリしたものがあると不安そうに言っていました。

この頃から治療を断念し緩和医療に移行するかを悩み始めていました。
治療を拒否する事は諦める事につながる、家族を思うととても諦めるなんて言えない・・・そう、心情を話してくれました。
悩みながらも、もう少し治療を続ける事を決心をしました。
そう言いながらも、お子さんに少しでもお金を残そうと保険を解約したりしてました。


2005年10月

ずっと悩んでいましたが、治療を諦め転院を決意しました。
とても信頼していた主治医の後輩がいる病院なのだと言ってました。
自宅から近いのが一番助かるとも。
もう、この頃は自分の行く先をある程度は見据えていました。

治療を止め、緩和医療に移行したというのに、彼女はムリをしてでも思い出作りに精を出し始めました。
入院しながら、外泊許可を取り家族や親戚と温泉旅行も行きました。
そして、10月下旬には、再びTDLへやって来たのです。
midoriさんは
「大散財です。もう、やけくそですぅ」
って言ってました。


2005年10月26日~28日

この時は新幹線で友人のナース(3人の子供連れ)と妹、二人の娘とやって来ました。
東京駅に迎えに行ったのですが、真っ先にした事はmidoriさんと一緒に車椅子用のトイレに入る事でした。
この時、midoriさんは車椅子で上京した訳ではありません。
デュロップバッチの貼り替えの時間だったのです。
太ももに張っていたデュロップパッチを貼り替える手伝いをするために私も一緒にトイレに入ったのです。
デュロップパッチはモルヒネの貼り薬です。
その後TDLへ同行しました。

まずはチェックインしたホテルで車椅子を借りました。
今回ばかりはずっと自分の足で歩き回るのは、厳しかったのです。
多少は本人もTDLへ出向きましたが、雨が降り出した事もあって早々にホテルに引き上げて来ました。
雨が止んだ頃にはmidoriさんだけホテルに残り、子供達とちーちゃんナースの親子はTDLへ、私と主人はホテルに残り、次々に時差してやってくる仲間とmidoriさんを会わせていました。
夕飯は、このホテルの名物でもあるシェフミッキーを一緒に楽しみました。
テーブル毎にディズニーのキャラクターが来てくれます。
グーフィーがmidoriさんの頭に噛み付いた様を写真に収めました。

翌日は家族で、お台場に行ったり、TDSに行ったりしたようです。
2泊の予定で来ていましたので、帰りは再び東京駅に見送りに出向きました。
東京駅はバカ広い!!
midoriさん一行を見つけるのは、大変でした。
ちーちゃんとケータイで話しながらようやく見つけたmidoriさんは、駅構内の大きな柱にもたれかかり、座り込んでいました。
ひざにブランケットをかけ、その隣には眉間にシワをよせた5歳の次女がちょこんと座っていました。
あの光景はいつ思い出しても、胸が詰まるものがあります。

駅員さんに頼み込んで車椅子を借り、何とかホームへ。
ようやくホームに落ち着いた頃、ヒゲさんが仕事を抜けてやって来ました。
疲れきったmidoriさんはちーちゃんに
「ちーちゃん、ありがとな。あんたがいなければ、とってもこの旅行は出来なかったわ。感謝してるで」
って、ちょっと違うかもしれないけど、福井の言葉でそう言いました。
ちーちゃん、もう目に涙が一杯だった・・・

新幹線の発車間際になって、ヒゲさんと一緒にmidoriさん一行の荷物を抱えて新幹線の中へ。
荷物を抱えて頭上の荷物置きに置いてからヒゲさんと私は下車し、ホームへ。
ゆっくり走り出す新幹線の中から、midoriさんが私達に頭を下げる姿が見えました。
この20日後に予定していた、三島でのフォーラムには参加すると約束をしていました。
三島での宿の予約も頼まれていて、又すぐに会えると思い込んでいたので、寂しい別れではありませんでした。
あの、新幹線の中で頭を下げたmidoriさんの姿が最後になるなんて全く思いもしていなかったのです。


2005年10月31日

無事に帰ったと連絡がきてから数日後
「東京へ行く前はそんな事は無かったけど、お腹がぱんぱんで辛いです。
熱はありません。」
こんな短いメールが届きました。


2005年11月4日

ちーちゃんから
「姉が死んでしまったんですよぉ・・・」
と、電話が入る。
東京から帰ってから6日後の事でした。

midoriさん、旅立ち








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