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16年ぶりに訪ねた徳島。限られた時間の中で早起きしての朝の散策。徳島城址を約1時間歩き、これまで知らずにいた徳島城の魅力を発見する。四国は言ってみれば名城王国。天守閣が現存する国内12城のうち4城(松山、宇和島、高知、丸亀)があり、さらには高松城と大洲城には重文の櫓が現存する。何れの城もマニア(?)には外せない。それらと比較すると、再建された門が1つあるが、現存する建造物もなく、どうしてもインパクトの弱さは否めないのが徳島城だった。実際16年前にも徳島城を訪ねている私だがその印象は薄い。その後訪ねた四国諸城の記憶にすっかり徳島城のメモリーは上書きされてしまった。当時、城内の博物館と庭園とを見、堀と庭園に海水を引き込まれているとの説明を受けた記憶だけはあるのが、城郭のイメージはなし。空港バスの時間だったろう、追われるようにそこを後にしたのだった。そして今回、早朝だったので博物館や庭園の拝観は出来ないが、典型的な平山城、当時足を踏み入れていない小高い山を一気に山上の本丸まで駆けあがった。山中には石垣がしっかり残っていて、それを目にしただけでも再訪早した甲斐もあるというもの。まず驚かされたのが、天守閣の跡地。当然本丸にあるものと思いきや、一段下がった東二ノ丸の郭にそれが聳えたっていたということだ。これはとても珍しい。そしてもう1つは石垣の積み方だ。それは結晶片呼ばれる石をつみあげたもの。堀にその影を映す石垣、粗削りだが緑白色(?)に輝いても見えるのが何気に美しい。その内側には庭園を取り囲む石垣とに挟まれた路地が走るが、それもまた他の城郭ではあまり目にしない景色だ。16年の月日に失われていた徳島城の記憶。建造物こそ現存しないが、その特徴のある遺構には、思わず唸らされた。四国には徳島城もあり。我がメモリーにそれをしっかり残しておきたい。
2015.11.23
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平成の大修復でその優美な天守閣が大きな箱にすっぽりと覆われている、世界遺産の国宝・姫路城。その姿の見納めにと姫路城を最後に訪れたのが2009年の10月(関連ブログはこちら)。以来4年の月日が立ち、修復工事の様子を間近に見られる見学施設の人気ぶりや、その貴重な機会をテレビ等で目にするにつき、1度はそれを見に行かねばならないだろうと思っていた。そんな私が腰を上げるキッカケとなったのが、今週初めに目にしたニュースの記事。それは、"天空の白鷺”と名付けられた見学施設が来年1月をもって終了するというもの。そして、週末には見学する人の長蛇の列で入場するのに1時間以上も待ち、さらに1月は予約も埋まってきているという内容。もはや行くとしたら12月の平日しかないではないかと、本気モードのスイッチも入りかけたところで、ふと新大阪への日帰り出張が予定されていたのが、偶然の巡り合わせ。急遽、私を姫路城へと足を向かわせることになる。新大阪でのお客様との打合せが終了したのが、目算通りに14時ほんの少し過ぎたところ。新幹線の駅に向かい、そのまま東京へ、そして直接家に帰る予定だったので、敢えて帰路を急ぐ必要もない。とは言え、この日は小雨の混じるとても寒い1日で、東日本では降雪の予報も出されていたことから、多少私の決断を鈍らせたのも事実。しかし、この機会を逃すともう行けないだろうという思いが、私の背中を押した。新大阪~姫路の新幹線往復の切符を買うと、いざ姫路へと向ったのである。 駅の改札を出ると、まず駅の景色が最後に訪れた時と変わっているのに戸惑うが、真っ先に駅の正面出口へと向かい、姫路城と対面した。新しく出来ていた駅の展望デッキから正面、大きな箱に覆われた姫路城の姿を遠く臨むと、一路、姫路城を目指した。途中、4年前にも訪れた、姫路城の遺構を見渡せるビューポイントからその姿をカメラに収める。そして、歩くこと30分弱、4年ぶり4回目となる姫路城へ入城したのは15時30分過ぎだった。雨と肌寒さの平日の午後、人々の足も鈍っているだろうという予想は的中。記事で知らされていた長蛇の列が無いばかりか、全く並ぶことなく、"天空の白鷺"に入ることが出来たのはラッキーだった。箱の一面に設けられたエレベータで、大天守閣のまっ白い外壁を舐めるように、一気に高度を上げると、そこは最上層、そしてその屋根と鯱を眼前にする。それは、まるで大きなショーケースの中に、天守閣がすっぽり入っているかのよう。その周囲は、しっかりと足場が階層に設けられているが、作業者は無し。見た目の外装は、すでに作業完了と言っていいに等しい。 その場所に初めてやって来て、それまでの修復作業の経緯を映像や写真で見るにつけ、もっと早く来るんだったなあ、と思っても時すでに遅し。まさに修復しているその様子を経時で見たかったなあと思う。しかし、工期も最後のところで、全く混雑なくゆっくりと間近に見ることが出来たのは幸い。その場にとどまって、暫し目に焼き付けたのであった。さすがに姫路城の城郭の中は、工事用の通路が敷設され、また至るところに案内係が立っていて、順路に沿って歩くという感じだったので、さすがに自由度は無いのだが、大天守が箱に覆われた姿を見るのも一生に一度だけの貴重なチャンス。お決まりの連立天守の優美さとは対照的だが、何と表現したらいいのか分からないその貴重な姿をカメラに収めた。 姫路駅まで小走りし、16時59分の新幹線に滑り込むと、一路、新大阪に戻って一旦、改札を出、そして座席指定していた新幹線で東京へと帰路についたのである。次に姫路城を目にする時には、真新しい白い壁が眩しく輝いていることだろう。
2013.12.18
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加藤清正の菩提寺・本妙寺に始まった熊本での1日。清正の子、忠広が改易されて加藤家が取り潰されると、以来、幕末までこの地を治めることになるのが細川家(小倉より細川忠利が熊本城へ。忠広が築城した八代城に父忠興が)。その歴史を追うように水前寺公園へと行き、細川幽斎ゆかりの古今伝授の間で一服し、さらに幽斎、忠興、忠利を祭神とし、ガラシャをも祀る出水神社にお参りしたのが前回まで。そして次の目的地としたのが、細川家繋がりで立田自然公園。ここは細川家の菩提寺・泰勝寺の跡地。表通りから奥まったその場所はひっそりとして、そこにかつて寺が存在していたことの石碑が。鬱蒼とした木々の中、夏の陽射しを遮り、その園内を奥に進むと、幽斎、忠興、そしてガラシャの墓が姿を見せた。それぞれが独立した廟で立派なものだ。忠興、ガラシャについてはかつて勝竜寺城で想像を働せ、そして大徳寺高桐院では二人並んだお墓を拝んだ。ここに置かれたガラシャの手水鉢は、死を前にして最期の身じたくを水鏡に映したものというので感慨深い。 そして奥には茶室群が。細川家といえば、利休七哲にも数えられた忠興に始まり、現代の細川護煕さんまで、茶の湯との縁は深い。この日園内は歩く人も無く、僅かばかりの清掃の人のみ。開け広げられた茶室にも人影は無く、無防備の感があって果たして使われているのかな?と心配になった。 そんなつい心配になるほど静まり返って、それが寂しいくらいの感覚だったが、それは杞憂と後で知る(虫干ししていたのだろうか)。遮るもののない園内の池が眩しく光り輝いていた。
2013.08.19
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熊本を経由して鹿児島に帰省したこの夏、熊本市内に宿泊したのだが、それは自身子供の時以来のこと。中学生だった当時、歳の離れた従姉の結婚式が熊本であり、その時、熊本城を真っ正直に臨む"五峯閣"という名の教職員組合の施設に両親と共に宿泊した。それが熊本市内に宿泊した最初で最後。この時初めて熊本城を訪ね、水前寺公園を訪ねた(その後、修学旅行、学生時代、そして4年前20年以上の歳月の後に再訪)。忘れ得ない記憶は部屋から目の前に臨む、ライトアップされた熊本城大小天守閣。暗闇に浮かび上がる天守閣、その姿を父親と何枚もカメラに収めたが、それが初めて撮った夜景の写真だろう。あれから36年がたった。今回熊本での宿を決めるにあたり、その記憶が甦り、是非そこに宿泊したいとの思いが募ってきたのだった。調べてみると既に"五峯閣"という名のホテルは無く、そこで地図から探してみるととした。そして当時と同じ場所に"KKRホテル熊本"として、それは存在した。懐かしい景色。36年前の景色はこれだったんだなと、感慨に浸った時間。城を臨む部屋こそ取れなかったが、天守閣の勇姿をロビーから見上げ、エレベータから臨み、そして高く聳える大いなる石垣の足下を歩き、過ぎ去った昔日の時間を取り戻していた私だ。この時期、夜間も開放されていたのでそのまま3時間ほど歩いただろう。1人ホテルに戻ると、予約で暫し待たされ最後の客となったが、光輝く天守閣を眺めながらディナーを味わい、美酒に浸った。 懐かしさと年月の経つことの早さ、そしてその場に両親を迎えられていれば、なお良かっただろうなあと感無量になった。見送りしてくれた店員に"実は36年ぶりにここに泊まったんんですよ!"と感慨を伝え、その日を締めくくった。
2013.08.18
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4年ぶりに訪ねた熊本城。故郷鹿児島の隣県にあって修学旅行を含めて在郷中4度は来ただろう熊本城だが、約25年もの長い長いブランクを経てその地に立ったのが前回。そこで、子供の時分には感じ得なかった迫力に圧倒される。当時2時間の滞在で、大小天守閣、再建されたばかりの本丸御殿や重要文化財の櫓群を拝観し、威圧感ある高い石垣群と(いくつ命があっても足りないだろう)強固な郭の作りに、圧倒されつつ、そして感嘆一番低い竹の丸から本丸へと石段を上っていった。その広大な城郭は、まさに日本三名城と言われるに相応しく、2時間の城歩きで圧倒されたとは言え、マップに示された二の丸や三の丸に足を伸ばすに至らず、その全容を感じるには時間不足であった。そして再び来ることを誓ってから4年、夏の帰省のついでに熊本を訪れるチャンスが訪れた。今回は、ちょうど夜間拝観もやっているとの情報もあり、泊りがけでじっくりと、まだ知らぬ熊本城をじっくり魅力を探訪したというわけである。今回のスタートは三の丸、二の丸から。そこはオーソドックスなアプローチではまず来ることない、言ってみれば裏側の方なのだが、どうしてどうして巨大な石垣というか壁、その迫力に早速圧倒され期待感はいきなりMAXに達した。それから歩くこと約3時間半、熊本城を満喫した。まずは三の丸より威圧感ある百間石垣を二の丸へと登城。二の丸を歩を進めると西出丸の戌亥櫓、その先には第3の天守と称される宇土櫓と、その奥に大小天守閣。そして歩を進めていった。 と、その前には三の丸の細川刑部邸を訪ねていたことも忘れずに。長いアプローチの先、そこで抹茶を一服としたかったが既に遅し。というわけで、その後ろくに飲食もとらず歩きに歩く。二の丸には明治維新の後の士族反乱の痕跡。中でも、西南戦争で新政府軍の最前線となって、西郷隆盛を担いだ薩摩士族の北上を防いだのも、熊本城の強固さゆえ。加藤清正の築いた鉄壁の城がその威力を発揮するのが武士の時代の終焉を告げる戦となるのも、歴史の不思議な巡り合わせだ。 その西南戦争で新政府軍・熊本鎮台の指揮を執ったのが土佐出身の谷干城。かつて本丸脇にあったその像も、本末御殿の復興と共に移設。今では城外に静かにたたずんでいる。そしてこの日の入口とは反対側、熊本城の市街地地側、長塀にそって歩くと、飯田丸五重櫓とその向こうに熊本城が、そして陽もいい塩梅に落ちてきた。 そしてここで初めて入場料を払って、いざ本丸へ。ライトアップされた熊本城をこれほどまで間近に見上げるのも初めてだ。火の国熊本には、華麗な白亜の天守より、威風堂々、黒い天守閣が夜空に映える。 時間を気にせず、思いのまま、気の向くままに歩いた、熊本城。実にサイコー!
2013.08.16
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4年ぶりに立ち寄った熊本。そして前回切望しながら果たせなかったことが一つ、それは水前寺公園の古今伝授の間でお茶を頂くこと。4年前そこを訪れた時、解体修理のため姿を目にすることがなかった建物も、2010年末に修理が終わり、漸くその目的達成する機会が訪れたというわけである。古今伝授の間については当時のブログにも詳しく書いたので、ここでそれについて述べることは割愛するが、そこは水前寺公園を借景に抹茶を頂く、実に贅沢な空間である。歴史の重みを感じる佇まいはもとは京都御所にあったもの(細川幽斎が伝授を受け)。その後、長岡京(細川忠興がガラシャを迎えた勝竜寺城の地)、そして最後はここ熊本・水前寺公園(細川忠利が作った茶屋に始まる)と、歴代細川家の歴史を追って安住の地を得た。まさに夏の陽気、ここを訪ねる前に加藤清正の菩提寺、本妙寺を大汗かいて、麓の電停から山上まで往復してきたこともあり、この景色は大いなる安らぎである。古今和歌集の奥義の伝授がされたという部屋に腰を下ろし、景色を前に抹茶を頂くという贅沢。席入り前の注文で、お菓子を選択するのだが、上品で美味しそうなお菓子を前に、”思わず2つ注文してもいいですか?”と、。。。 というわけで、一服の抹茶と主菓子2つと相成った次第だ。そして期待を裏切らない美味。これは是非お土産に買って帰ろうと思って後にしたのだが、悲しいかな他の観光地や熊本駅においても、同じお菓子を見つけることが出来なかった。それだけが心残りと言えば、心残り。次回までのやり残しだ。後で調べると陣太鼓でも有名な"香梅さん”のお菓子。そして"古今伝授の間"の文化財としての保存と公開、そして文化の伝承に一役買われていたことを知る。実にすばらしいことだ。
2013.08.15
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熊本に立ち寄るほんの1ケ月前、信州・松本城の本丸の一角で目にした"清正公駒つなぎの桜"。それは加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、城主石川康長が土産として選りすぐりの名馬を二頭連れてきて、その時に馬を繋いだという桜の木。 それは二頭差し上げるので選ぶように薦められた清正が、「あなたほどの目利きが選んだ馬をどうして私が選ぶことができましょうや」と言い、二頭とも連れて帰ってしまったという伝説。意外な地で目にした加藤清正の足跡、その記憶もまだ新しいままに訪ねた熊本は、まさに清正が基礎を作った城下町。そこで加藤清正像を拝もうと、菩提寺・本妙寺を訪ねようと思った。何度も訪ねている熊本だが、本妙寺は初めてだ。そしていざ訪れるのだが、炎天下の夏、火の国・熊本。本妙寺参拝は大汗かいてヘトヘトになる、結構ハードな思い出となる。最寄のバス停を降りて本妙寺までは一本道の参道を約1キロの道のり。最初に目にする仁王門は寺の門にしては何とも違和感も感じる白い門。しかしそこからが長かった。 両側に塔頭が並ぶ平坦な参道を暫し歩くと、176段の急勾配の石段、その中央には石灯篭が立ち並ぶ光景は圧巻。そして本堂へと一気に高度をあげていった。振り返れば仁王門を見下ろしていた。 しかし、ここまで来ての誤算は、そこに清正像が無かったことだ。目的のその像は本堂は以後の山の上、さらに300段の石段を上ることに。この時、重い荷物を背負っていた私は、既に大汗かいてバテていたので、もう断念しようか気持ちも傾く。石段の下まで足を運ぶと、それが遠くに見えてきた。そして歩き始めた。とにかく大変だったが、清正公との対面を果たす。 まさに熊本の町を眼下に見下ろす清正の像。そして彼方には清正の築いた熊本城の勇姿が。そしてこの清正の像が立つ位置(高さ)は、熊本城の天守閣の高さ(標高)と同じだと言われている。誰もいない山上に暫し佇み、一息も二息もついた後で、来た道を下界へと下りていったのである。とりあえず清正公に会うという目的は果たせた。
2013.08.14
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7月13日、25年ぶりに訪れた松本。そのシンボルと言えば、国宝・松本城。しかし久かたぶりの天守を目の前に、入口の大手門には入城待ち30分の案内が。。。既に閉門の17時まで1時間を切った状況下、慌ただしく見るくらいなら出直した方がよかろうと、再び訪れたのが7月14日午前。狙い通りスムーズに本丸への入城を果たす。松本城の天守閣に登閣するのは3度目だか4度目。最後に登ったのは1985年ではないかと思うが、その記憶も既に定かではない。当初、小雨混じりの天気もすぐに晴れてくるのだが、まずは登閣に先立って本丸の一角で催されていた野点茶会へと足を進め、天守閣の雄姿をご馳走に、煎茶を一服、二服とし寛いだ。 3連休の中日、そうこう寛いでいるうちにも本丸へと続々と入城する観光客の波は途絶えることはない。そしてそれを迎えていたのが、はるばる隣国美濃からやってきた岐阜城盛り上げ隊。天守閣の石垣の前、斉藤道三らの一行が、訪れる観光客との記念写真に応じて、気分を盛り上げる。そして、我々もその順番待ちの列に並んでいた。戦国期に建てられた現存する天守(松本、犬山、丸岡の3城のみ)としては、唯一の5層の連立天守を誇る松本城。その黒塗りの実戦的な外観は、同じ5層の連立天守閣の姫路城の優雅さとは対照的。その他の国内現存天守には決して見られない威容だ。幾多の城を歩き、数10年ぶりに再び訪れてみて、あらためてそれに気付かされる。天守閣の内部も5層という外観とはさほど広々したものでもない。上層階へと上がる階段は急峻で、最後の登りには梁と交差する箇所もあったりで、なかなか難儀である。そんなわけで天守閣に入ったはいいが、まだ低層階にしてほどなく渋滞の中に埋もれてしまう。その様は、まるで混雑する美術館さながらで、流れに身を任せて、ただゆっくりと進むのに似ていた。限られた空間、各階が、くねくねと列を作った人で一杯になった状態に、400年以上も前に建てられた天守閣自身の耐荷重は大丈夫なのだろうか、と余計な心配が頭をもたげる。当然籠城戦というのも考えて建てられている筈と思えば、そんな心配もないのだろうが、それはこれまで多くの登閣した城郭でも経験したことも混雑ぶりだった。果たしてどれだけの時間をかけて天守閣の最上階に辿り着いたことか、30分以上かかったことは疑いようがない。 天守閣から眺める、松本城下、そして遥か北アルプスに美ヶ原高原。入城時の雨もすっかり上がり、 雲も晴れてきたのは幸いだった。その切れ目からアルプスの山々の雄姿を拝むことが出来た。そして、眼下の本丸に目をやると、天守閣への入場を待つ長い列が。。。天守閣の雄姿を目に焼き付け、いよいよ本丸を後にすると、大手門に立つ案内板には、何と"80分待ち"の文字が記されていた。本当に早く訪れてよかった。
2013.07.16
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信州松本、この地を訪れるのは、一体いつ以来だろうと、過去のメモ帳をめくっていたのは今朝のこと。毎年のように”今年こそは!"と思いながら、実現できずにいた、もう1度訪れたい場所。その念願の再訪を、この日漸く果たす。しかし時が流れるのは実に早い。北アルプス登山の玄関口として、かつては頻繁に訪れた松本の地も、どうやら最後に訪れたのは1988年7月31日から8月1日にかけて。それは上高地から西穂高岳に登山した時のこと。しかし、自身それを最後に北アルプスから離れ、そしてまた登山からも離れてしまった。そんなお気に入りの地だった場所、松本、上高地を訪ねる今回の旅。指を折って数えると少なくとも今回が8回目、しかし実に25年ぶりの再訪となった。家内にとっては初めてである。久しぶりに降り立った松本駅。当時、北アルプスの山なみを眼前に収める展望デッキがあったと記憶しているが、さすがに25年の歳月は駅自身もグレードアップし、駅ナカの景色は都内に見るそれと遜色ない。大きなガラス越しに展望した北アルプスは雲に霞んでいて、白馬八方へと連なるくっきりした山肌を認めることは出来なかったが、シンボル的な常念岳の三角の頭を認めることが出来た。そして何より、首都圏の猛暑とは裏腹に、涼しささえ感じる空気にその地に来たことを実感させられた。 そして早速ホテルに荷物を預けると、松本のシンボル松本城へと向かう。途中、何度か寄り道をしているうちに、ゆっくりと登城する時間がなくなり、しかも30分待ちという状況から入場は翌日に持ち越し。そのかわり城の堀をゆっくりと1周。そして少し足を延ばして訪れた明治初期に作られた開智学校はおそらく29年ぶり。当時就職も決まらぬまま、大学4年の秋、はるばる九州の南の果てから旅をしてきた日は遥か昔のことだ。 (中:天使は男の子、右:風見鶏でなく東西南北)そして縄手通りに中町通りにと、かつて歩いた記憶のない場所に数々の発見や心地よさを堪能。松本に蔵のイメージは無かったが、随所にそれを目にし、城下町風情を醸し出す。また雰囲気があり特徴あるお店も多く、歩いていてふらりとお店に入る。ゆったりとした楽しい時間を過ごさせてもらった。骨董品屋を多く目にしたのはまた意外なところで、つい茶道具に目をやっては、ちょっと買えないなあと家内と目を合わすのであった。 ちょうどお腹も空いたころ、中町通りに見つけた、風情ある蔵と庭が奏でる雰囲気に引き寄せられて入ったのは栗菓子の名店、竹風堂。そこで私は栗強飯(おこわ)、そして家内は麦とろ膳に舌鼓をうっていると、やがて日も傾き、再び松本城へと歩く。お城のライトアップを見るには、ちょうどいい時間帯になってきたからだ。 松本城は日本に現存する12の天守閣のうちの一つ。その中でも年代的には、犬山、越前丸岡と共に戦国期に築城された古い部類のもの。かつては、そのいずれもが日本最古を標榜していた記憶があるが、今ではそれを目にすることもない。城フリークとしての私は当然としても、家内もその12城のうち8つ目の登城となり、私様々だろうと、そんな話をライトアップされた天守閣を目の前に話をしていたのである。 内堀の端から光を照らす、そのライトに群がる多くの鯉。パクパクと口をさせていたのは、どうやらライトに目がけてやってくる虫たちが堀に落ちるのを狙ってのこと。夜の城内には隣接するビアガーデンから酒宴たけなわの声が響いていたが、ライトアップされた松本城を目の前に飲むという最高のロケーション。それも頷けようというものである。
2013.07.13
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11月24日、31年ぶりに訪れた岡崎城。その城址公園の一角にある、茶室・城南亭で過ごした時間のことも、忘れないうちに記録しておきたい。それは思いがけずに出会った初めての煎茶体験、そしてゆったりと流れる贅沢な時間の記憶だ。この日、蒲郡に続いて訪れた岡崎。この地に私が導かれたのも、名古屋で開催中のボストン美術館展を訪ねるという大目的があったからこそなのだが、その目的を果たすべく帰路を急ごうと、園内を茶室の前にさしかかったところで足が止まってしまった。そこで目にした鮮やかな赤い紅葉、そして落ち着いた茶室の佇まい、その入口に掲げられた呈茶の案内、その誘惑に気持ちが揺らいだ。多少お腹も空いて一服したいという思いもあった。せっかく岡崎城までやって来て、無理に先を急ぐこともなかろうと、その瞬間、ボストン美術館展を訪れることを断念する。 呈茶というからには、抹茶のつもりで茶室の入口まで来たところで、初めてそれが煎茶であることに気付く。煎茶の飲み方については何の知識も持ち合わせていない私達であったが、煎茶を頂く機会もなかなか無いもの。それもいい巡り合わせだと思い、立礼の茶室である城南亭の中へと足が吸い込まれていったのである。実際、その後で知らされたことには、通常は抹茶の呈茶であるところ、5、8、11月の土曜日に限って煎茶が出されるとのこと。その日、11月最後の土曜日と丁度重なっていたことが、その最後のチャンスに遭遇する幸運に恵まれたというわけだ。時間も夕刻へと差しかかるころ、まさに今年最後の煎茶の時間を楽しませて頂いた。床の間に掛け軸とお花、そし御香。赤い野点傘の下にはお点前の飾りつけ。普段稽古や茶会に目にする、抹茶席のしつらえと異なることが、また新鮮である。そして和菓子とお茶を出されたところで、さてどうやって戴くのか?ということから、煎茶初体験が始まったのであった。蓋(落とし蓋)のついた茶碗、その中には茶葉がたっぷり。それは茶閉(ちゃっぺい)と呼ばれる作法。蓋を少しずらして、開いた隙間から茶葉を避けるように啜って、お茶を頂く。その呼び名も、すすり茶。最初60℃、続いて80℃、100℃と、お湯を注ぎ足して戴く。和菓子は、抹茶の場合は先に頂くが、煎茶はお茶と交互に頂く。抹茶は三口半と、一瞬でお茶を頂いてしまうが、煎茶の場合はお茶と戯れる、そんな表現をされていた。席主は地元岡崎で活躍されている煎茶の先生。いろいろとお話を伺い、また質問にも答えて頂き、お茶の道具も一つ一つ教えてもらった。抹茶とは異なる道具がまた興味深く、同じようにお高いものであることも併せて知る。その間にも干菓子やら、おやつやら頂いて、またお茶も注ぎ足して頂き、それで450円とは得したような申し訳ないような。。。 と、ついその心地よさに気が付けば1時間近くも寛いでしまったのであった。31年ぶりに訪れた三河・岡崎城。当時は無かった茶室で過ごした時間は、岡崎城での時間を印象深いものにしてくれた。また訪れてみたいと思った。特に徳川家康ゆかりの岡崎の地には、数多くの重要文化財の寺社仏閣もある。次回はレンタサイクルを借りて史跡を巡り、その締めくくりにこの茶室を訪ねてみたい。
2012.12.01
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11月24日、三河湾・蒲郡でゆったりとした時間を過ごした私達が、次に向かったのが、徳川家康生誕の地、岡崎城。その地をかつて母親と2人で訪れたのは、今から遡ること31年前のこと。そして今や当時の母親の年齢を上回る私がそこにいて、それを思うと感慨深い。上京して以来、出張の際の乗換え駅として幾度となく訪れた名古屋。しかしそこから足を延ばして岡崎を訪れることは無かった。4年前に桶狭間を訪れた時(関連ブログはこちら)、岡崎の地を目前にしてふと当時を思い出すが、訪れる時間はなく、以来その機会も無かった。それが此の度、八丈島行きの旅がキャンセルになったことが、偶然に私を蒲郡に導き、そして31年ぶりの岡崎へと導くことになろうとは、予想だにしなかったことである。もはや当時の記憶のかけらもない岡崎駅に降り、タクシーで岡崎城に向かう車中、そんな感慨に浸っていた私である。そして、当時は無かった大手門をくぐると、岡崎城址である岡崎公園を歩く。そして当時登った天守閣を目指す。 久しぶりに見上げる岡崎城の天守閣。31年前に訪れた当時は平日の午前、そして曇り空だったろうか。人影もまばらで静寂だった印象である。一転して、この日はこれ以上望めないだろう青空。そして紅葉が日差しに映えて、実に鮮やかな色彩を見せていた。特に、堀や石垣をも染めていたのは印象的だ。 公園内では賑やかなイベントに人々が集い、鮮やかな紅葉にポーズをとる外国人グループ、本丸では天守閣を背に新郎新婦両家の記念撮影、と当時見ることのない色々な表情を楽しませてもらう。31年前に訪れた当時、大手門や"三河武士の館"という名の資料館、能舞台というものは無かった。さらには、茶室も無かったかもしれない。その意味では景色も変わっているのだが、何げに記憶と重なるイメージ、そして歩いた場所の記憶、それとふと重なる光景に出合っては、それを確かめるように小走りしては、あたりを見渡す自分がいた。
2012.11.25
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大阪を訪れるのは今年2度目、それもつい2週間前に訪れたばかりであるが、この地に宿泊するのは14ケ月ぶりである。それはちょうど朝の大阪城を歩いた時以来のこと(関連ブログへ)。そしてこの日、ここ大阪での打合せを終えて、ドッカリと腰を下ろそうとした私の眼前に、再び大阪城を現れたのである。それは城フリークの私にとっては、この上ない安らぎの景色となった。昨年来の仕事のプレッシャと、出張の多さに、ブログの更新もままならない今日この頃。今年に入って、米国2回、中国、シンガポールと飛び、大阪・京都圏は3回目、さらには九州は熊本まで。またプライベートでも、GWに福岡・佐賀・鹿児島、3月の震災明けには奈良へと飛び、都心にも頻繁に出没。。。さすがに、ここらで身体を休めてノンベンダラリとしたいところが、休めない。そんな私に、大阪城が束の間の休息気分をプレゼントしてくれたようなものである。(右:大阪城天守閣と桜門の遠望)今さら、何の説明も必要ないだろうが、つい1ケ月ほど前のGWに秀吉の野望の地、肥前・名護屋城址を訪れたばかりのところ、ほどなくして、秀吉の本拠地であり、豊臣家終焉の地ともなる大阪城を訪れることになるのも、見えない糸に導かれてのことだろうか。眼前、南外堀の全貌と共に、まさに威風堂々とした石垣の広がり。それだけで日本三名城と言われるにふさわしい威容である。その石垣の左手には六番櫓、右手緑の中にその輪郭を見せるのが一番櫓、と今に残る重要文化財の建造物。そして中央にどっしりと腰を下ろした大阪城の天守閣を臨む。とにかく、何もさえぎるものなく、城郭の全貌を実感できたその光景には、心を打たれない筈がなかった。(下写真) そして夜になると、カクテル光線に燦然と輝く、大阪城の天守閣。それはまさに秀吉の威光を放っているかのようでもある(下写真)。この景色を見せられては、私もホームワークに勤しむべき時間も忘れてしまう。 そんな中、ひっきりなしに飛行機が大阪城の上空を伊丹空港へと降下していく光景も目に入ってくる。実は、上空から何度も大阪城の天守閣と全容とを間近に見下ろしたこともある私であるが、陸上からのその光景を見るうち、大阪城の上空を飛行機が軌跡を描く、そんな写真をカメラに収めたくなってしまった。そして、それが出来るのも、きっと夜景写真ならではであろうか(下中)。 そんなこんなで、宿泊したホテルの部屋から満喫した、大阪城と天守閣の夜景(上左)。まずは夜9時前に、堀に姿を映す2つの櫓の照明が目の前で消されると、大阪城の天守閣も夜11時を目前に段階的に照明が落とされ、慌ててカメラに収めた次第(上右)。そして書き綴るうち、気がつけば、既に寝るべき時間は過ぎ、ホームワークも明日に持ち越し。帰路の新幹線の中で考えるしかない。しかし、明朝の目覚めの景色は、大阪城の天守閣。それを思うと、また楽しみである。約2年前、同じくホテルの部屋から彦根城を眺めた日の記憶もまた思い出されるのであった(関連ブログへ)。
2011.06.08
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太閤秀吉の夢の跡、肥前・名護屋城址で過ごした時間、最後におまけ1題。秀吉と言えば、黄金の茶室でも有名であるが、ここ肥前・名護屋の地にもその茶室を持ち運んできたのは間違いなかろう。そして、それは山里丸の地に置かれたのだろうか。今に残る石垣の遺構は、往時の規模を想像させるが、目を閉じてその当時の姿を思い描き、茶室のある山里丸へと、いざ潜入してみよう。と、そんな疑似体験の筈が、実は太閤夢の跡地に、一服の抹茶に出会える場所が用意されていたとは全く予想だにしていなかった私である。この日、福岡から車を走らせてきた私は、城址の一角にそれを見つけると、城歩きを始める前に家内の意向を問うと、まずはそちらに一目散したのであった。そこは『海月』という名のついた茶室であった。腰を下ろし、美しい庭越しに城址の石垣を眺めると、城主気分にでもなったような感覚とでも言えようか。晴天に恵まれた春の陽気が、より一層、美しさ、明るさを演出してくれていた。 美味しく頂いた抹茶、手に持った茶碗は当然、唐津焼だったろうか?床の掛け軸には、『雲静日月正(雲静かに日月正し)』、雲は静かに流れ、日や月の運行も正しく行われ、。。。自然に無事に日々を過ごす姿。それを詠むと庭に見る虫や蛙たちも平穏の中に過ごす面々とも言えようか。 その心地のよい茶室で暫し待つこと、城址歩きを横に置いて、時のたつのも忘れたいと、腰をおろしていた私たちであった。そんな思い出。
2011.05.08
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「一楽二萩三唐津」茶の湯の世界で絶対的な地位をもつ唐津焼。肥前名護屋の地を訪ねた後で宿を取ったのが、その唐津の地だ。秀吉の夢破れた後に築城された唐津城を訪ねるのが第一の目的、そして秀吉の戦により朝鮮からもたらされた唐津焼に触れるのが第二の目的だった。その唐津城は別名、舞鶴城。玄海灘に面して聳える白亜の天守閣、そして名勝・虹ノ松原が拡げた翼に例えられ、まさにそう呼ばれるに相応しい。もっともそこに天守閣があったという史実は無いようなので、どの命名も後世によるものだろうか。ともかくその美しい姿を夜眺めに行き、そして朝は宿泊したホテル最上階のレストランから眺めを楽しんだ。そして満を持して城址へと足を運んだのであった。 前日訪れた名護屋城跡のスケールと比べると相手が太閤秀吉なだけに敵いようもないのだが、アクセスの良さ、そしてGWということも影響あるのだろう、既に多くの観光客で賑わっていた。天守閣を目指し、石段を登るとほどなくして現れた藤棚。見るに鮮やかな紫のカーテン、紫のフィルター。この季節、まさにこれがクライマックスの光景。 そして本丸に到達すると工事中の柵に興を削がれる。天守閣の石垣の修復のようだった。それでも天守閣からの眺めは、城下、虹ノ松原、そして青い玄海灘、と目を楽しませてくれた。展示物の記憶はもはや無い。天守閣の直下、たまたま呈茶の席があったので、一服寛ぐつもりで腰を掛ける。が、それも検討違い。そこには遠足の子供達だろうか、本丸も狭しと駆け回り、賑やかに声が飛び交う。あっさりと寛ぎ気分を諦め、遊ぶ子供達に囲まれて抹茶を楽しんだ。城址を後にし、麓の唐津焼のお店でデザインの異なる小鉢の5点セットが目につき記念に購入。さらに別に立ち寄った唐津焼の茶道具が集まるお店、ここに気になる水指があったが4万円。一期一会、何度も気持ちが揺らいだが自制した。後悔は無い。以上、そんな唐津で過ごした時間の思い出。
2011.05.08
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秀吉の朝鮮出兵と拠点となった肥前名護屋城。天下統一した強大な権力の下、その野望と狂気に踊らされた大名たち、それらが大海原の彼方朝鮮への最前線として集結したのが肥前名護屋の地。玄海灘に突き出した東松浦半島、地図を見れば全国諸大名の陣地がびっしりと埋めつくされているが、そこにいわば一大城郭都市が形成されていたと言える。しかし眼前に広がるのどかな景色に、当時の賑わいを今に想像するのは難しい。その朝鮮出兵の最前線、半島の先端部に陣を取っていたのが、鬼"石曼子(シーマンズ)"とも畏怖された(関連ブログへ)島津義弘。のちに関ケ原での敵中突破でも名を馳せるが、我が故郷のヒーローが遺した足跡を見ようと車を走らせた。目の前は海、遥か彼方の朝鮮半島、命を懸けて海を渡っての戦、それに何を思ったのか。唯一そこに立つ1本の碑のに思いを馳せる。ただその戦に必然性は感じていなかったことだろう。朝鮮の役の後、敵味方将兵の供養塔を高野山に建立している情深さゆえ、そう思うのである。そしてもう1ケ所選んだのが、大河ドラマ"天地人"の記憶も新しい、上杉景勝の陣地。山合に形成された耕作地の只中、車もすれ違えない狭い道を上る指示に、車を降りて駆けたが、陣地を思わせるものは何も見当たらなかった。要はこの辺りだというのを示していただけだったのだろう。 肥前名護屋の平和な景色。それはまさに、'つわものどもが夢のあと'と言うにふさわしい。
2011.05.08
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薩摩焼、萩焼、唐津焼、...。それら日本を代表する焼き物の歴史の起源が、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にあり、その時、日本に多くの朝鮮陶工が連れてこられたことから、別名"焼き物戦争"と言われている。そして、その戦争の拠点となったのが、佐賀県は唐津市鎮西町にある、名護屋城である。このGW、鹿児島に帰省した前後に、福岡と佐賀を訪れた私にとって、この名護屋城址を訪ねることは、城フリークとしての長年の想いであり、従って、旅の一つのクライマックスでもあった。それが叶ったのは5月1日、この日の霞んだ空が黄砂の影響と知る術もなく、博多より車を走らせた私達が、ついに秀吉の無謀なる野望の地、名護屋城址に足を踏み入れたのは、その日も午後2時になろうとするころ。(右:城址大手口に残る石垣と石碑)築城当時、大坂城に次ぐ規模を誇ったという名護屋城は、今では大きく石垣が崩れて土が露出した場所も多々見られたりもするが、近年のことだろう、非常に整備が進んでいて、当時の威容を連想するには、十分に見ごたえのある城址だった。また城址に建てられた博物館では、あらためて秀吉の朝鮮出兵の歴史を学び、名護屋城を中心とする半島全体が全国各地の大名が陣を構える一大要塞となっていたことを知ると、また歴史のロマンを掻き立てられるものである。博物館内に再現された、名護屋城の往時の姿。5層の天守閣を中心に、広大な本丸と二ノ丸には御殿を構え、三ノ丸、さらには遊撃丸、弾正丸、山里丸、と曲輪(くるわ)が取り囲む、立派な城郭は、朝鮮半島への前線としての、豊臣秀吉の威信の現れ。そして、それから400年以上が経った今、整備された城址を歩くと、そこに見る石垣や崩れ落ちた巨石から、往時の姿も甦ってこようというものである。 (左:搦手口からの俯瞰。手前より弾正丸、二ノ丸、遊撃丸、そして中央に天守閣と本丸御殿。右:緑に覆われた山里丸、大手口を左奥に東出丸、三ノ丸、本丸、そして天守閣。) この日、名護屋城址に滞在した時間は約3時間。爽やかな陽気と、涼しい海風が肌に心地よく、ふだんは城歩きに難色を示す家内も、私と共に小高い丘に築かれた城址をアップダウンし、殆どの曲輪を歩き通した。秀吉の野望が、遠く西海の地に築かせた、肥前名護屋の一大城郭、その地を踏みしめた記憶をここに振り返ってみよう。(左:大手口に残る石垣、その先は東出丸の石垣。まるで沖縄の城のように明るい。右:緑に覆われた三ノ丸。) (左:三ノ丸から馬場を臨む。右:三ノ丸から本丸へのアプローチ。) (左:天守台を右手に遊撃丸を見下ろす。右:本丸に立つ石碑、手前は本丸御殿跡、左手に天守台。) (左:水手口石垣の上には何と民家らしき建物が。右:二ノ丸の石垣、奥右手に遊撃丸石垣。) (左:遊撃丸より天守台を見上げる。右:搦手口上より馬場の石垣。) (左:搦手口石垣。右:台所丸石垣。その先に今でも水を湛える太閤井戸があった筈なのだが、この時それを気付かず。) (左:山里口の石垣。右:幾重にも石垣が重なる山里口。下は今回の旅の友、プリウス。) 以上、城址歩きのハイライトを整理してみたが、それでも見落としがあったことに気付くと残念なところ。車を走らせながら、カーブを横目に見た北山里丸への登り口石垣。そこで感じた、旧き城址風情には、近くに車を止めて、石段を駆け上がりたかったところ。後で調べると、その先には、側室広沢の局を祀る広沢寺というお寺があり、朝鮮出兵ゆかりの大ソテツがあったとのことで、それが唯一の心残り。それでも、当初、見落としていた山里口を最後に訪ねることが出来たのは幸いで、それも博物館でその威容を知ったからこそのこと。その山里丸の名は、大坂城の山里丸を再現しての命名だったろうか(関連ブログへ)、その立派な石垣は、秀吉が誰にも邪魔されずに、茶の湯に勤しむべく、寄せ付け難いものとしたのだろうか。今となっては、かつてその地に全国から大名が集まり、朝鮮出兵の最前線として、海上遥か、朝鮮に睨みをきかせていたとは、とても想像できないほどの長閑な場所である。その落差が、この日、私を名護屋城址の虜にさせたのかもしれない。
2011.05.07
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2011年元旦、有楽苑での初釜を終えた後、向かったのが犬山城である。毎年、故郷鹿児島で正月を過ごす私にとっては、元旦に城郭を訪れることは、勿論初めてのこと。そして、城好きの私にとって、それが国宝・犬山城であったことは、この上なく申し分ない。その犬山城を訪れるのは、 2008年11月以来、4度目のこと(関連ブログへ)。遡れば、1981年に初めて犬山城を訪れた時、そこをまさか4度も訪ねようとは、夢にも思わなかったのだが、分からないものである。そして、元旦の犬山城、その城門には、両側に門松が飾られ、そして日本国旗がたなびく。それは、まさに正月にそこを訪れてこそ、目にすることのできる光景(右)。そして、城内本丸へと入ると、そこは過去に訪れた時よりも多くの人で賑わっていたように感じたのだが、それも城の直下にある、針綱神社と三光稲荷神社の初詣客が含まれていたからに違いない。 さすがに4度目ともなると、お馴染みの天守閣である。その小型の天守閣、そして桃山風の火灯窓の望楼に、親近感を覚えるのである。また、前回、訪れた時には、紅葉の赤が印象的だっただけに、その相違を見比べるとまた面白い。天守閣直下には、寒桜が咲いているのが目に入り(上中)、それは前回にも紅葉の赤とのコントラストで対比を見せていたのを思い出す。そして、いよいよ天守閣に登閣するのに、列に並んだのは、驚かされたが、やはり新年の初日、殿様気分になって、城下を見渡すというのも、気持ちがいい筈である。脱いだ靴を手にもって、天守閣への急な階段を連続して上がると、最上階へと辿りつく。そこは、係員が人の流れを誘導していたほどに、眺望を求める人で賑わっており、回廊に立ち止まることも出来ないほどであったがシャッターチャンスを待ち、定番のアングルでカメラに収めた(下)。 その景色には、期待していた通りに、清々しい気分にさせてもらった。それは、雪の伊吹山、そして岐阜城のある金華山もくっきりと視界に捉えることが出来るほどで、まさに殿様気分。何度見ても飽きない景色である。が、実を言うと内心、雪景色を拝みたい気持ちもあったのだが、この日の穏やかな陽気ではそれも臨みようはなかった。わずかに、下層の屋根に残る白いものに、積雪の名残を見たのであった(上右)。元旦にそこに居るのも不思議な気分であったが、再会したその景色を目に焼き付けると、登ってきた急な階段を降り、天守閣を後にする。そして、順番が逆だろうが、針綱神社(犬山祭りはこの神社の祭礼)にお参りする。そして、これが今年の私達夫婦の初詣となったわけであるが、こういう予期しえない場所で初詣するのも、旅蛙の私には相応しい。さて、運を祈願して引いたおみくじは小吉。そして、そこに入っていた開運招福お守りは、何とカエルだった。旅行、外出先からなにごともなく安全に帰ることが出来、また悪いことも良いことにかわり、財布から出ていったお金も戻ってくる、とか。。。この1年、このカエルが私と財布を守ってくれよう。(下:元旦の夕刻、ライトアップされる犬山城と針綱神社)
2011.01.02
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22年ぶりに訪れた金沢の旅を記し始めて、既に1ケ月以上。そろそろ、その旅の記録も締め括りにしようと思う。9月、まったりと過ごした金沢の旅、その最後を飾る地が、城下町金沢の風情を漂わせる、ひがし廓(くるわ)である。この地も、初めて金沢を訪れた23年前の1月、歩いているのだが、私のうろ覚えの記憶の中には、寒さゆえだろうか、静かな佇まいだったという印象しかない。しかし、それから四半世紀近くがたち、この日、目の前に展開した、ひがし廓の一角は、きれいに整備され、またお洒落で、そのメインストリートは、大勢の観光客で賑わっていたのである(右写真)。そんな表通りの雑踏から、一歩、足を踏み入れたのが、重要文化財にも指定されている、お茶屋『志摩』。それは、江戸時代は、1820年に建てられた建物そのままが今に残る、貴重な茶屋建築であるという。その薄暗い茶屋に入ると、一瞬にしてタイムスリップする。それはまさに幕末、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』にもしばしば登場した、長崎の引田屋とも重なる。と、ふと襖の向こうから、蒼井優演じる"お元"が入ってきそうな雰囲気でもある。そして床に飾られた琴に、それを奏でては舞う"お元"の姿を勝手に思い浮かべたりもしたのであった。 階上を奥に進み、そこに家内と二人、腰を下ろして佇むと、気分は龍馬と"お元"、いや"お龍”だろうか。欄干から外を眺めると、簾(すだれ)の向こうに別の部屋の明かりが、また風情を醸し出す(下左)。そんな、暫しの幕末へのタイムスリップを楽しむと、パティオのように位置する和空間に心も癒され(下右)、一服へと進んだのであった(下中)。さて、金沢での最後の時間を締めくくる一服となった、ここ志摩で頂いた主菓子の"きんとん"の銘は、『つゆ草』。そして大樋焼(関連ブログへ)かと思われた、その大ぶりな飴色の茶碗は、戸室(とむろ)だとか。。。それもまた、金沢で焼かれた茶碗であった。 金沢の旅は、最後まで、まったりとした時間であった。こんな旅もたまにはいい。ひとまず、これで区切りとしよう。
2010.11.07
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近々、『最後の忠臣蔵』という映画が公開されるが、それは、赤穂四十七士のうち生き残った最後の一人の物語。しかし、違う意味での、最後の忠臣蔵が金沢にあったことを知り、驚かされるのであるが、それについて、書き記しておこうと思う。9月に訪れた藩老本多蔵品館で目にした、本多政重に始まる前田家筆頭家老本多家の歴史。それは、利家亡き後、徳川時代を生き抜いた加賀前田家の歴史と共にあったのであるが、その基礎を築いたのが、政重であったことは、前回にも述べたところである。しかし、その徳川時代に終わりを告げる幕末の動乱期、本多家に一つ大事件が起こる。それこそが、まさに忠臣蔵だったわけである。幕末期の本多家当主は、政均(まさちか)。これまで、その名を知ることもない私であったが、キッカケは、その日、特別展として『幕末の加賀藩 本多正均の生涯』と題した展示があったことである(右上チラシ)。そのチラシには、このように書かれている。激動の幕末・維新期、本多政均は加賀藩のために東奔西走する。開明性を備えるが故に守旧派の凶刃にかかり命を落とした本多政均の波乱の生涯を通して、幕末期加賀藩の実像に迫る。。。幕末、藩政改革を進める中で生まれれた、守旧派からの恨み。それが、元号も変わった明治2年、正均暗殺事件へと繋がる。そして、主君の無念を晴らすべく立ち上がった、遺臣12義士たちの仇討ちが明治4年に決行される。それは、主君暗殺の共謀者(首謀者は間もなく処刑)が刑に服して出てくるのを待っての、仇討ちだったようである。そして、翌明治5年に義士は切腹し、本多家の菩提寺大乗寺の、正均の墓前に葬られたという。明治維新後の体制の大変革期において、不平士族の反乱が各地で起きていることは、歴史の教科書にも習うところであり、佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱、そして西南戦争(関連ブログへ)と、幾度となく耳にするところである。しかし、こと明治に入って起きた、言わば忠臣蔵は、殆ど一般には、知られていないところだろう。法治国家への移行期にあって、武士の時代に象徴的な仇討ちが起こったことは、驚きであるが、それはまだ制度が整う過程だった故、起こるべくして、起きたとも言えるだろう。しかしそれは、武士の時代が終わった明治においては、時代に逆行する事件であり、例えそれ自身が美談であっても、あってはならぬこと。従って、その仇討ちも、殆ど広く知らされることなく、蓋をされたのではなかろうか。そして、仇討ちが禁止されるのは、明治6年。それは、武士の時代に終わりを告げる、一つの制度化でもあったともいえようか。つまり、本多家12義士の仇討ちは、最後の仇討ちになったということである。さて、この明治に起きた最後の仇討ちは、中村彰彦著の『明治忠臣蔵』という本に描かれているらしい。その著者は、徳島坂東捕虜収容所での、ドイツ人捕虜と松江所長、そして坂東の人々との触れ合いを描いた『二つの山河』(関連ブログへ)の著者でもあり、是非読んでみたいところ。現在、根気強く、書店でその本探し求めているところである。
2010.10.24
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金沢兼六園に隣接する本多の森、その名は、かつてそこに加賀前田家100万石の筆頭家老本多氏の屋敷があったことに由来するのだが、その地に建つのが藩老本多蔵品館。そこには、本多家伝来の品が展示されている。藩主ゆかりの博物館というのは、どこにでもあるが、家老ゆかりの博物館というのは、これまで私が訪れた地を振り返っても、殆ど記憶がない。強いて挙げれば、大石内蔵助くらいだろうか(関連ブログへ)。。。しかし、本多家が家老でありながら、多くの大名と肩を並べる、5万石を有していたこと、そしてその由緒ある家系を知ると、それも頷けるのである。23年前、初めて金沢を訪れた時、実はこの地も訪れている。しかし、その記憶は皆無である。ただ、当時の入場券の半券(下)と小冊子(右)が、そこを訪れたという記録だけを残していたのである。当時の私は、「何でも見てやろう」という気持ちで歩いていて、兼六園、成巽閣に続いて、その地を訪れた筈であり、本多氏が誰であるか、知ることもなかった。 しかし、そこを訪れたという記録のカケラを拾い上げてくれのが、昨年の大河ドラマ『天地人』であった。主人公の直江兼続が、上杉家の米沢移封の後で、跡取りとして養子に取ったのが、徳川家康の側近、本多正信の次男政重。その政重が、直江家を去り、加賀前田家に仕官したのが、加賀前田家筆頭家老としての本多家の始まりであり、幕末まで前田家を支えることになる。関ヶ原の後、上杉家と徳川幕府との複雑な関係や思惑を考えると、直江家に送られた政重の立場は極めて難しい立場であった筈。そのあたり、『天地人』の中でも、家中に溶け込めない姿として描かれていたのが、記憶に残ることである。しかし、自ら懐を開いた兼続と、政重との信頼関係は、深く強く築かれていく。それは、縁組した兼続の娘、於松が早くに病死した後も、跡継ぎとして米沢の地に残るよう慰留されることにも現れるが、やがて幼かった義弟の成長を見届けると、政重は米沢を去る。その『天地人』で初めて知った本多政重の印象が、「そう言えば?」と、過去にそこを訪れた記録を掘り起こし、私を23年ぶりに藩老本多蔵品館へと導いてくれたというわけである。そして、今度は、関心をもって、そこに展示された物を見、本多政重のことを知る。そんな中で最も驚かされたのが、本多政重という人物が、関ヶ原では、西軍、宇喜多秀家の下で侍大将として、働いているという事実であった。家康の側近でもあった本多正信の息子が、家康を敵に回して働いているという意外性。また、関ヶ原の前には、秀家の下で、朝鮮にも出兵している。そして、関ヶ原の後には、福島正則、前田利長、直江兼続、再び前田利長と主を変えていく、本多政重。それだけでも、関心を持たずにはいられない。展示されている中には、関ヶ原で使ったという大きな槍が一段と目を引き、こんなもので突かれたらと考えると、そら恐ろしくもなるほどだが、それも政重が武勇に優れていたことの証。陣羽織や甲冑、そこに本多の"立ち葵紋"があるのは当然としても、宇喜多の紋や、直江の紋が描かれたものもあり、時代によって異なる立場にあったことが、展示物からも伺えて興味深い。宇喜多秀家と言えば、加賀前田家から嫁いた豪姫(関連ブログへ)。八丈島に流刑となった秀家への忠誠は、残された豪姫、そして前田家を徳川の圧力から守り、そして支える原動力にもなったのだろうか。旅の後で、政重の波乱に富んだ武勇を描いた『生きて候』を読むと、ますます本多政重という人物に引き込まれる私であった。
2010.10.22
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ふと脳裏に浮んだ景色に、それは一体どこで見た景色だったろうかと、旅の記憶を思い巡らすことがある。そして、私の中で、暫くの間、正体が分からぬまま、記憶の中を彷徨っていた、気になる光景、それを金沢に見たのはまた偶然である。その光景は、歩く人も少ない、緑静かな公園の一角に佇む、レンガ作りの大きな建物群。表に面した、屋根部の三角の輪郭と、奥行きの長い建物が、3棟ほど並んだ光景だ。それを日本で見たものか、ヨーロッパで見たものか、定かではないが、自分の中では、イギリスのどこかで見た光景だったろうかと思いつつ、しかしそれが何処だったか分からなかったのである。さて、兼六園を一旦、随身坂口から外に出た私達夫婦が、成巽閣の横を抜けると、その辺り一帯が文化エリアであることに気付かされる。県立美術館や能楽堂、伝統産業工芸館、歴史博物館といった施設が集まるそのエリアは、本多の森と呼ばれることを後に知るのであるが、その時、私が向かっていたのが、藩老本多蔵品館であった。そして、漸くその場所に辿り着こうかと言う時、緑の向こうに飛び込んできたのが、レンガ色の建物の輪郭。その時、「ここにあったのか」と、思わず、声に出した私であった。それは、本多蔵品館を目の前にして左手、緑の芝生に面して建つ、石川県立博物館(上右)。それこそが、気になっていた建物であった。イギリスにあると思われていた記憶の中の光景は、実は23年前の1987年1月、初めて金沢を訪れた時に見た光景だったのである。明治の文明開化の息づかいを感じさせられる、その建物群は、明治末期から大正初期にかけて建てられたもの。そして、その正体は、旧陸軍の兵器庫として建てられたものであることを知る。それは、明治に入って、金沢城に陸軍の第9師団が置かれたからで、城跡や兼六園界隈には、当時を物語る建物が今も残っていることを後に知る。 実際、その県立博物館のすぐ近く、能楽堂に見た古い洋館(上左)も、実は偕行社という名の明治時代に建てられた旧陸軍施設。また、陸軍施設ではないが、兼六園から香林坊へ向かう途中には、レンガ作りの旧四校の記念館(上右)、とそれもまた、明治時代の建物。加賀前田家100万石の象徴、金沢城、そして兼六園の周囲に、明治の近代化の香りを数多く見たのは、非常に興味深くもあったのだが、それが金沢の豊かな歴史と文化の厚みを物語っているようにも思えたのである。
2010.10.20
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このたび22年ぶりに訪れた金沢城。しかし、依りによって、その顔とも言える石川門が修復工事中だったことは、残念なことである。さらに今回は、兼六園に面する前田家の奥方御殿、成巽閣も屋根の葺き替え工事で足場が組まれていたので、拝観を断念した次第であるが、そういう巡り合せも、運である。しかし、それは一方で、スッキリとさせられた一面もあった。というのも、金沢城を訪れる前夜、宿泊した香林坊から、歩いて石川門の夜景を見に行こうと思っていたからである。結局、ホテルの窓から、真っ暗な金沢城の森を遠くに臨み、そして「もう歩きたくない」という家内を見て、「まあ、いいか?」と、諦めたのだが、工事中の石川門が、「行かなくてよかった」と、私を納得させてくれたわけである。とは言え、やはりその姿を見ることが出来なかったのは残念なこと。そこで、そのフォローとして、遠い過去のアルバムを長い眠りの中から引きずり出したのである。初めて金沢を訪れたのは1987年1月。その時、金沢駅近くのビジネスホテルに宿泊していたのだが、現在と想いは変わらなかったようである。冬の夜、石川門の夜景を撮りに、訪れていたことを発見する(上右)。 そして、同じ日の昼間の石川門を兼六園から臨んだ景色(上)。冬の寒々した空の下、1月の金沢城石川門と、石垣上に延びる百間塀の海鼠(なまこ)塀と、装いが特徴的な石落し(同写真中、左)。その下、かつては水を湛える百間堀があっただろう園地には、残雪が見られる。 百間堀から見上げる石川門の左から二重櫓、表門、櫓門(上左)、そして表門から見上げる二重櫓(上右)、この景色を22年ぶりに見る筈だった。そして、同じく1988年5月に訪れた時の写真は、櫓門から臨む二重櫓と表門(下左)、そして兼六園から臨む石川門(下右)。その手前に咲くのは桜か梅か? そして最後は、石川門と共に重要文化財に指定されている三十間長屋の今昔。きれいに整備された城内にある現在の姿(下左)に対して、当時は金沢大学の敷地の端、叢(草むら)の中に、ひっそり佇んでいた(下右)のが印象的である。 金沢城の特長と言っていい海鼠壁。それは、平らな瓦を張り付け、漆喰をかまぼこ状に塗ったもので、防水性、耐久性を高めているそうであるが、それは雪国の城ゆえの美でもあろう。そんな美しさを石川門と三十間櫓の写真の中に再び感じされられたのである。
2010.10.19
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金沢城の顔と言えば石川門。そして、櫓から城壁に至るまで、張り巡らされた海鼠壁(なまこかべ)。それは、一種の造形美でもある。そして、22年ぶりに訪れた金沢において、私が最も再会を切望していたのも、金沢城石川門だったのだが、予想外の現実に面食らう。 最後に金沢城を訪れてから22年、その間、これほどまでの大きな変化が起こっていたことを実は私も予想していなかった。というのも、当時、金沢城の敷地内には金沢大学があり、兼六園からのアクセスとなる石川門も金沢大学の正門になっていたのだが、今ではその大学も移転し、城内もすっかり整備されていたからである。当時、石川門からは自転車に乗った学生が出入りするのを目にし、また門の先も大学であるだけに、遠慮がちに城内に入って、歩いたことを記憶している。金沢城の中にあって、重要文化財として残る遺構が、石川門と三十間長屋。当時、その三十間長屋を見るために、大学構内を歩き、漸く辿りついてカメラに収めると、足早にそこを去ったものであるが、現在ではそんな気兼ねは不要である。石川門を城内に入ると、三の丸が広がり、その先に再建された河北門、そして内堀には、菱櫓・五十間長屋・橋詰門続櫓と、これまた再建された建築群が影を落とす(右上:橋爪門続櫓と太鼓塀、出狭間)。それらはまさに完璧なまでの建築美である。(下:河北門から臨む復元櫓群) 金沢城の復元整備を見ると、昨夏、熊本城に見た、建造物群の復元を思い出さずにはいられないが(関連ブログへ)、今後、どこまで復元されるのか興味深い。特に、金沢城については、明治以降、陸軍が、そして戦後は金沢大学が置かれたことで、熊本城や大阪城のように広大な城郭として公開されていなかった歴史的背景もある。そのため、長きに渡り、石川門だけが金沢城の顔としてクローズアップされており、今の整備された状態さえ、私には大変な驚きとして目に映ったのである。金沢城の起源は、大阪城が石山本願寺の地に建てられたように(関連ブログへ)、加賀一向一揆の本願寺の拠点、尾山御坊の地に建てられたもの。そこに前田利家が入り、建てられた天守閣はすぐに焼失し、以後、再建されることはなかった。その復元は、現在のところ想定されていないようだが、遠い将来、それも有るかもしれない。小高い丘に、重なる石垣、そこに海鼠塀が走り、さらに白壁と海鼠塀の櫓や天守閣が聳えるその光景は、想像するだけでも秀麗、そして壮観である。さて、金沢城のシンボル、石川門であるが、兼六園を出て、目の前にした光景に、我が目を疑う。というのも、そこで目にしたのは、二重櫓の美しい姿ではなく、修復工事の足場とシートに覆われた無残な姿だったからである(下左)。表門(下中)と櫓門(下右)は無事だったが、完全な石川門を見ることが出来なかったことが、唯一の心残りである。
2010.10.18
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22年ぶりに訪れた金沢・兼六園。それをキッカケに、過去に訪れた時の写真を掘り起こし、また、22年のブランクを経て再び、その地を訪れてみると、当時、意識することのなかったいくつかの気付きもある。そんなことを少し、書き留めておきたい。 金沢城に隣接して佇む兼六園、それは金沢城の一部と言ってよかろう。金沢城石川門と橋で繋がる兼六園は、庭園でありながらも、非常時には金沢城の一つの大きな郭、出丸として機能することも考えられていた筈である。兼六園と石川門との間を走る道路は、かつては百間堀と呼ばれる、金沢城随一の堀があった場所で、その点では、旭川を挟んで、岡山城と対峙する後楽園とも類似している(関連ブログへ)。そして、地形的には、平地に築城された岡山城と比較して、金沢城は小高い丘に築城されている平山城である点が異なるのだが、それが兼六園でしか見られない特長を生み出していることに気付かされる。加賀100万石の金沢城の石垣は、丘の周囲を固めるように雛壇状に石垣が積み重なり(右写真)、百間掘の勾配も石川門の辺りでピークを迎える。そして、そこに懸かる橋が兼六園の桂坂口にあたり、そこから園内の霞ケ池に至るには、さらに緩やかに坂を登る。つまり兼六園もまた、丘の上に造園されていることになるわけで、それゆえ、眼下に金沢市内、卯辰山を眺望するのである。これまで私も全国各地、多くの大名庭園を訪れたものだが、眼下に180℃見開き、市街を眺望できる庭園というのは、他に記憶がない(下:眺望台から彼方に臨むのは白山か?(1987年1月))。 そして、兼六園の中心、豊かに水を湛える霞ケ池も、丘の頂に佇むので、それが園内に開放感を醸し出す。しかし、特筆すべきは、兼六園の高低差である。私が入園した、香林坊に最も近い真弓坂門は、兼六園の言わば麓。兼六園が出丸的な役割を果たしたのではと考えると、当時、そこにも石垣が聳えていたのかもしれないが、ともあれその真弓坂門から、霞ケ池に至る高低差は丘の高さそのものだろう。そして、その園内の高低差が、兼六園ならではの演出をもたすのだが、それこそが、日本で初めての噴水(下左)。それは、園内で最も高い所に位置する霞ケ池から送られた水が、低い所に位置する噴水口から噴出する自然の噴水。そのアイデアが、一体どこからもたらされたものか、また誰が考えたものか、興味あるところであるが、それが作られたのも幕末、桜田門外の変が起きた翌年、1861年のことという。 さて、初めて兼六園を訪れたのは、1987年1月。当時の写真を掘り返してみると、やはり、その噴水もカメラに収めていたので、並べてみた(上中)。そして、背後には雪吊りが見られる。この時、雪景色を期待して訪れた私には、雪の無い雪吊り(上右)にちょっとガッカリしていたのを思い出すのである。
2010.10.17
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金沢兼六園での呈茶席となっている時雨亭(しぐれてい)。それは、22年前に兼六園を訪れた時には、まだ影も形もなく、平成12年に再現されたらしいのだが、この建物こそが、実は兼六園の始まりだったという。時折、小雨降る朝の兼六園、その園内を散策して、再び時雨亭に戻ってきた時には、朝9時を10分ほど回ったころだったろうか。池越しに、既に10数人ほどの人影をその建物に見た時には、「皆、早いなあ」と驚かされたのであるが、なんとか最初の呈茶席に滑り込む。私達が受付をした時、先客の人々が、玄関右手の待合から、左手への呈茶席へとちょうど移動したばかりのところであり、私達もその後に従うよう促されたわけである。私達が席入りしたところで、最初の席も一杯となり、すぐ後に訪れた人は、待合へと通されたのでラッキーであった。というのも、呈茶席とは言え、完全入れ替え制だったからである。さて、呈茶席となっている大広間は、4つの座敷から構成され、その半分、2つの座敷に跨り、コの字に毛氈が敷かれる。庭を眺めて抹茶を頂けると思っていたが、庭に面した大広間の障子はわずかに開くだけで(右上写真)、部屋は薄明かりの中。そして、席につくなり、和菓子が運ばれ、抹茶(あるいは煎茶)が続いた。その早い展開に、実は、あっけに取られたのが正直なところで、待合からの景色も楽しむことなく、このまま終わってしまうの?と思ったりもしたのだが、それも杞憂だった。というのも、その後で、亭主(?)の方が、時雨亭の説明をしてくださったからであり、それに私の好奇心も刺激されたのである。そして、それゆえに亭茶席が完全入れ替え制となっていることも理解する。お話の中で、時雨亭が10年前に建てられたことを知り、その再建にあたっては、加賀の文化と伝統を後世に伝えるべく、それら粋が随所に散りばめられていることを知る。天井は何度も塗りを重ねたもので、それは輪島塗だったのだろうか。そして、障子のつくりもまた今に貴重なものとか(下右)。しかし、惜しむらくは、説明頂いた後で走り書きしたメモを今に見ると実に難読で、思い出そうにも思い出せないことだ。 大広間の一角には、御囲(おかこい:上左)と呼ばれる茶室が、当時の図面から再現されたものがあり、また呈茶席の設けられた、座敷にも茶道具が飾られていた(上中)。その背後の掛軸は、『巌松....』と、難読で分からなかった。さて、この席での和菓子、そこに表現されたのは、色づき始めたモミジか(下)。そして、銘々皿はその数日後に訪れる十五夜の連想だろうか、兎が描かれていた。私が抹茶を戴いた茶碗は華やかな九谷焼、そして家内の茶碗は飴色が鮮やかな大樋焼、何れも金沢ならではの茶碗である。 茶の湯文化が育まれた金沢で戴く、和菓子と抹茶。それを兼六園で戴くというのは、この上なく贅沢なこと。そんな時間を過ごさせて頂いたことにつくづく感謝である。
2010.10.15
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私にとって、金沢を訪れて外すことの出来ない場所、それはやはり金沢城と兼六園。その最大の目的地から徒歩圏内ということで、香林坊に宿泊したわけだが、その地を訪れるのも、旅も最終日、3日目の午前中。時折、小雨の降る中、朝8時過ぎ、3時間強に及ぶ朝の散策へと出発したのであった。休日の朝、人通りもまばらな、旅先での朝の散策は心地良い。途中、有名な金沢21世紀美術館も右手に見るが、早朝ゆえ、さすがに人影もない。しかし、既に朝7時から開園しているのが、兼六園。いくつかある門のうち、最も香林坊に近い、真弓坂門から入園したのは、8時半ごろであった。岡山・後楽園(こちら)、水戸・偕楽園(こちら)と共に、日本三名園に並び称される兼六園のことを知るのは、小中学生の時分の切手収集を通して。当時、名園シリーズの一つとして、切手に描かれた、徽軫灯籠(ことじとうろう:右上)、それがやはり兼六園のシンボルだろう。その景色に憧れて、初めて兼六園を訪れたのが、1987年冬1月。そして、翌1988年GWに再び訪れ、それから早や22年が経った。さて、この日、まだ朝食を口にしていなかった私達夫婦は、まずは抹茶と和菓子を頂ける時雨亭(しぐれてい)を目指したのであるが、さすがにまだ時間が早く、呈茶は9時からとのこと。そこで、それまでの間、園内散策と相成ったわけである。空は厚い雲が垂れ込め、時折、小雨を降らせたりもしていたが、朝の空気は、やはり気持ちよく、訪れる人も個人客が主で、その一方で庭掃除に精を出す人々、そして池では、鴨がゆっくりと池の水面へと滑り出す。園内にはゆったりした時間が流れていた。(下左:時雨亭あたりの水の流れ) 兼六園の中心にある霞ケ池、その池辺の大きな松には、太い枝を支える大きな柱が立ち並び(上中)、そんなところに美を維持することは大変だなあ、などと感じ入る。あと1-2ケ月もすれば、これを雪吊りが覆っている筈であり、それもまた美である。さらには、雁行橋(がんこうばし)と呼ばれる、石の配置の妙もまた風情である(上右)。ここに月が影を落とそうものなら、まさに安藤広重の『月に雁』と言ったところだろうか(関連ブログ)。霞ケ池に逆さに影を写す内橋亭と呼ばれる建物、その雰囲気は、曇り空ゆえに、朝の静寂の雰囲気がより醸し出されているようだ(下左)。そしてグルリと池の周りを歩いたところで、ひときわ人が集まり、入れ替わり、立ち替わり写真撮影が行われいる場所に辿りつく。そこが、22年ぶりに再会することを楽しみにしていた構図、"徽軫灯籠と霞ケ池"、その景色であった(下中、下右)。 その景色を見てこそ、兼六園を訪れたと言える。22年ぶりに見た、その灯篭は足が長く、何とスタイリッシュなことだろう、そんな感想を持った私である。と、その時、気がつけば、時計の針は9時、時雨亭での呈茶が始まる時間となる。少しばかり歩を早め、途中、日本最古の噴水と再会すると、時雨亭へと急ぐのである。(つづく)
2010.10.13
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この9月、22年ぶりに訪れた金沢の地。その最初に、足を踏み入れた場所は、宿泊した香林坊にもほど近い、武家屋敷の町並みである。2泊3日で金沢満喫という当初の目論みとは大きく乖離し、旅も2日目、しかも時計の針は午後4時を回ったところで、漸く私達の金沢散策は始まったのであるが、ここに振り返ってみる。香林坊の雑踏から、路地を進み、訪れた長町・武家屋敷の町並み。その地を22年前に訪れたものか、その記憶は全く無い。そこで、当然訪れていないものだろうと思いつつも、最近、当時のアルバムを広げてみると、1枚だけ武家屋敷と記された写真があった。「果たして行ったものだろうか?」と、写真の光景を思い出せないのも、22年の歳月ゆえだろうか。ともあれ、遠い過去にも訪れたのかもしれない、長町・武家屋敷の町並みは、綺麗に整備され、多くの観光客が行き交っていた。水が音を立てて流れる用水(御荷川という名)は、清涼感を感じさせ、流れに沿って車1台分の幅の道路。その流れを挟んで、土塀が走り(上写真)、その向こう側には武家屋敷が立ち並ぶ。そんな中、私が訪れたのが、加賀前田家の直臣、1200石の野村家屋敷。そこを訪れたのも、庭を眺めながら抹茶を頂けるとの情報があったからこそなのだが、それは、塀の向こうの小宇宙。屋敷の狭い空間に広がる庭は水と緑に溢れ、そんな景色を借景に、閉館前の30分ほど、抹茶と共にリラックスしたひと時を過ごす。屋敷に隣接した茶室へと、廊下を進むと、露地に蹲(つくばい)が現れ(下左)、かつ高低差無くそのまま、大きな踏み石を進む。そして、建物に入り、階段を上がると、廊下を挟んで、控の間と茶室、そして水屋がある。控の間に入ると床の間の掛軸を(下中)、そして茶席に入ると窓辺に掛かる短冊(下右)に目がいくのは、茶の湯の始めて以来の癖だ。 茶室に掲げられたのは『今日無事』、そして控えの間には『真実不虚(しんじつふこ)』と記されていた。"無事"とは、今日を無事に生きることか、あるいは禅語の"無事"か(関連ブログ)。そして、"真実不虚"とは、嘘、偽りのないこと、そういう態度か。そこで私達が頂いた点て出しの抹茶、その茶碗は、金沢ならではの九谷焼と、もう一つは鼠志野茶碗だった。茶室から見下ろすのは、豊かに水を湛えた庭。そして、そこをゆったりと鯉が気持ち良さそうに泳ぐ(下左、下中)。そこは屋敷の庭というよりは、多くの緑が生い茂る森の中。屋敷の廊下に腰掛けると、目の前にその景色が広がる(下右)。そして、水の音は、壁の向こうを流れる御荷川の流れだったろうか、それは野趣溢れる雰囲気だったように思い出される。 屋敷の中に目を向けると、上段の間(下右)、そして謁見の間(下左:その先に上段の間と庭園)。城などで見る、上段の間と謁見の間(関連ブログ)、それを武家屋敷の中にも見ようとは、実のところ、思ってもいなかったのだが、それも前田家直臣の屋敷とあっては、不思議ではあるまい。上段の間の床の間、そして違い棚。2本の掛軸に記された言葉は、私には読めなかった。 展示室には、明智光秀からの感謝状なども目にしたりもして、野村家での時間は、短いながらも、目に留まるものが多く、心地良いひと時を与えてもらったのである。
2010.10.08
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敬老の日を含む、この3連休、22年ぶりに金沢の地を訪れた。と同時に、それは22年ぶりに訪れる北陸でもあった。それを思うと、あらためて月日の流れの早さに驚かされるのだが、忘れかけた一昔前の記憶を辿りつつ、加賀百万石の城下町、金沢の空気に触れてきたのである。その金沢の地を訪れようと思ったのも、実は、茶の湯がキッカケである。茶の湯文化が育まれ、和菓子が美味しいという点では、松平不昧公(関連ブログ)の松江がそうであり、また金沢もそうである。3年前、初めて松江を訪れた時、まだ茶の湯を始めていなかった私だが、松江の和菓子の上品さは記憶に残るところ。そんな記憶が、金沢への期待を醸成していたのも事実である。しかし、金沢が松江と大きく異なる点は、松江が不昧公という石州流(関連ブログ)の流れをくむ武家茶道を背景としたのに対して、金沢は前田家と裏千家との関係の深さが背景にあることである。利休亡き後、少庵、宗旦と続いた千家は、宗旦の息子の代に、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家として新たな歴史を踏み出すが、裏千家を興すのが、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)。その宗室が、宗旦の尽力と、大徳寺の玉舟宗?(ぎょくしゅうそうばん)の力添えで、加賀前田家に仕官したのが、金沢と裏千家との歴史の始まりと言えようか。また、時代は前後するが、キリシタン大名であり、利休七哲の一人にも数えられた、高山右近も加賀前田家に身を寄せている。秀吉の伴天連追放令を受けて、大名の身分と共に、高槻の領地を捨て、加賀の地で過ごすこと26年、金沢の茶の湯文化に少なからず影響を与えたに違いない。さらに、焼物の点では、宗室が楽焼を学んだ陶工、大樋長左衛門に焼かせたという、大樋焼。それは、加賀前田家の御庭焼として、受け継がれて、現在に至るのだが、その名は、お茶会でも良く耳にしてきたところ。この1年を振り返っても、酬恩庵一休寺(こちら)、梨木神社(こちら)、青蓮院好文亭(こちら)と、確実にその名を脳裏に刻まれているのである。(下:大樋長左衛門窯と扁額の掲げられた、大樋焼窯元。ここで、恐る恐る何10万円もする茶椀を手にとった。) その他、加賀と言えば、日本を代表する九谷焼があり、また能登には輪島塗があり、訪れてみて初めて知る山中塗や、象嵌(ぞうがん)、金箔。さらには、加賀友禅や能の文化、等々、そこに育まれた伝統工芸や文化の深さに、まさに恐れ入るのである。とは言っても、ほんの一部には違いないのだが、それらを知り、また触れることが出来たのは、やはり金沢を訪れてこそのことだろう。22年前には全く知る由も考える由もなかった、そんな金沢の一面に触れた時間。さらには、城好きとしては、絶対に外すことの出来ない金沢城。そして兼六園との再会に、初めて訪れた場所。それらの時間を振り返り、これから綴っていこうかと思う。(つづく)
2010.09.20
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2009年8月に訪れた山陰の小京都・津和野。わずか1年前とは言え、既に忘れかけていた記憶も、写真を見、また当時手にしたチラシ等を見て、振り返ることで、目の前に甦ってくるのを実感する、此の頃である。さて、城下町・津和野の町並にあって、異彩な趣を放っているのが、津和野カトリック教会である(右写真)。この教会と、町外れの乙女峠マリア聖堂を訪れることも、私が津和野に導かれた大きな理由の一つであった。そこに秘められたキリシタン弾圧の歴史、それを辿ることが、その目的である。幕末から明治維新の激動期にあって、開国の流れに取り残された悲劇が、明治新政府になっても、なお続いたキリシタンの弾圧であろう。そのいわば、最後の弾圧の地が、津和野にあることを知るのは、そこを訪れるほんの1ケ月前、長崎を訪れた時のこと。その時の印象が、私の津和野への関心を高めたと言ってもいい。幕末、開国により、開港させられた長崎。そして、異国人の居留地、山手に立てられた大浦天主堂。それが長崎・浦上の隠れキリシタン発覚のキカッケとなり、世に言う"浦上崩れ(四番崩れ)"が起こる。悲劇は、その弾圧が、幕府が瓦解した後の、明治新政府に引き継がれたことで、浦上のキリシタン達は流罪となり、拷問の末、多くの信者が命を落とす。そして、キリタンが流された地の一つが津和野、上述の乙女峠であり、そこで殉教したキリシタンを偲び讃えて、後に建てられたのが、津和野カトリック教会、そしてマリア聖堂である。その美しい言葉の響きとは対照的に、遠く長崎を離れた津和野の地で、命を捧げたキリシタンたちの魂、それがそこに眠り、優しく守られているのであろう。さて、城下町の中心部、初めて目にしてカトリック教会の印象は、想像していたより遥かに小さく、驚かされる。予め、写真等で頭に入れていた教会、その威厳さ、そして歴史を感じさせるその姿には、どこかヨーロッパの教会を連想させるものがあり、勝手に大きな建物のイメージを作っていた私だが、実際、そこで目にしたのは、語弊もあるかもしれないが、可愛らしい。 こじんまりとした教会の内部(上)は、ステンドグラス越しに、夏の光が差し込み明るく、心温まるような雰囲気である。そして、教会に隣接する、展示室で、乙女峠の悲劇の歴史、それをあらためて脳裏に刻むと、乙女峠の地を訪れない訳にはいかない。そんな気持ちにさせられたのであった。そして、訪れた乙女峠は、予想に反して、山の中。市街地を車を走らせると、左折すべき道を見過ごし、瞬く間に町の郊外へと走り抜けてしまった車。そこを、再び車を市街へと戻すと、田舎道を縫って、乙女峠に到着する。と、そこから先は、舗装されてはいるが、細い山道を登ること約20分。津和野城址歩き(こちら)で疲れ切った家内を車に残すと、一気に10分ほどで駆け上がった私である。 息を切らし、山道を登る私の目の前に、視界が開けると、そこに静かに佇むマリア聖堂が現れる(上左)。山中の聖堂の内部は幾分暗く(上中)、そこに乙女峠殉教にまつわる絵が描かれたステンドグラスを見る。また、聖堂のすぐ傍ら、マリア様が降臨したと言われるその地には、三尺牢に閉じ込められた信者、そして祈りを捧げる先にマリア様がおられたのである(上右)。城下町・津和野で過ごした3時間は、短くはあったが、津和野城址、小京都、そして殉教の歴史、と津和野の様々な顔に触れた気がする時間でもあった。それらは、まだ津和野の魅力のほんの一部であろうが、夏の日の小さな旅の思い出である。
2010.08.10
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山陰の小京都・津和野の代表的な景色と言えば、白壁と水路、そしてそこを泳ぐ鯉だろうか(右写真)。山間部に突如出現したかのような、津和野の町は静かな小さな町、そして、SLの走る町でもある。2009年夏、その津和野の町を訪れた時、そこに滞在したのは、わずか3時間弱。しかも、まず最初に訪れた津和野城址で約1時間を費やしたため、城下町を過ごしたのは、ほんの2時間ほどであったが、そんな中に、垣間見た小京都風情、それについて書き残しておきたい。その日、城下町の中心部に、車を乗り入れた時、それまでの静かな山間の光景が嘘のように、多くの観光客で賑わっている光景が目の前に飛び込んできて驚く。決して交通の便がいいとは言えない山間部の町である。よくぞこれだけ多くの人が訪れているものだ、というのが正直な感想であった。そして、"萩・津和野・山口"と、良く目にするツアーコース、その人気のほどを実感させられたのである。限られた時間、20代のころの私であれば、食事や休憩、お土産は度外視し、観光ポイントをくまなく巡った筈である。しかし、今はそうでもない。しかも、この日、夏の暑さに加え、何と言っても津和野城址を山歩きした後でもあった。最低限、カトリック教会とマリア聖堂だけ訪れれば良しとし、あとは、カフェ休憩と食事、石州和紙のお土産屋さん、等、ゆっくりと過ごすこととしたのである。城下町の中心部、観光客で賑わう殿町界隈。通りに面するカフェは、ガラス越しに観光客でいっぱいで、お土産屋とスペースを共有されたりで、ゆっくりリラックスする場所は無いようにも思えたのだが、抹茶のメニューに呼び寄せられて、入った『松韻亭』というお店。その選択が、山城歩きで疲れた私達夫婦に安らぎの時間をもたらしてくれたのであった。お土産屋さんとカフェのある店内、そこで靴を脱いで、座敷に上がると、そこには表通りの喧騒が嘘のように、静寂な空間が広がっていたのである。折りしも、時間的にもちょうど隙間だったようで、幾部屋かある座敷には、他に客もなく、そこは私達夫婦だけのための空間と化したのである。通された部屋の向こうには、赤い毛氈の先に広がる、美しい日本庭園(下中)。それもその筈で、かつてそこが、津和野藩家老の屋敷跡だったことから、頷けるのである。その美しさと静寂を2人だけで独占したのだから、まさにそれ以上の贅沢はなかろう。そして、お茶を始めて以来、身に付いた、床の間や置物の拝見。そこで目にしたのは、茶の湯の禅語としてはお馴染みの『日々是好日』と書かれた短冊に、津和野の象徴と言っても良かろう鯉の置物、夏には涼しげな籠の花入れに挿された茶花(下左)。そして、床の掛軸に目を移すと、『清坐一味友(せいざいちみのとも:茶席にて茶をいただく空間では誰しも友になるとの意)』と記されていた(下右)。 抹茶は、650円だったろうか、それに津和野名物源氏巻がついて、そしてこの景色と、茶の湯風情。それは、表通りの白壁の向こうに見た、まさに小京都発見、そして自分たちだけの時間。また訪れる機会があれば、是非、寄らせて頂きたいものである。
2010.08.01
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この夏のニュースで、驚かされたものの一つに、山陰の小京都、津和野での出来事がある。山間に開けた城下町津和野、その町を見下ろす山の頂にあるのが津和野城址。その出来事は、津和野城址にクマが出現し、下山中の男性が襲われたというものである。標高367mという山の頂に築かれた山城、津和野城。城下から見上げると、山上の石垣が軍艦のようにそそり立つ、その光景は小京都と呼ばれる響きとは、対照的である(下写真:津和野城三十三間台の石垣)。その津和野城址を訪れたのが、昨年の夏、亡き義弟の霊を慰めに、山口県の萩を訪れた直後の8月16日(関連ブログ)。その記憶はまだ新しいだけに、この夏のニュースには驚かされたのである。城址へは、山腹から観光リフトが一気に山上まで運んでくれるので(右写真)、アクセスは良く、訪れる観光客も決して少なくない。今回の出来事は、リフトの頂上駅付近で起こったとのことで、観光リフトも半月ほど休業となったようであるが、ニュースの中で、リフト駅売店の方が、「こんな事は初めてだ」と、驚きを隠しきれない様子だったのが印象的であった。もし自分達が訪れた時にそれが起きたら、と想像とすると、ゾッとするのだが、ともかく、1年前にそこを訪れた記憶をここに甦らせてみる。 その日、津和野に滞在した時間は、わずか3時間足らず。翌朝、出雲空港から帰路につく私達には、その日のうちにレンタカーを長躯、出雲まで走らせ、返却する必要があったので、自ずと滞在できる時間も限られていた。それは、暑い夏の日の午後、車が津和野の町に入ると、真っ先に目指したのが、津和野城址だったのである。観光リフトで山上の城址まで登ることが出来ることから、安易に考えていた私は、山上駅から約20分、山道を歩くことになろうとは、実のところ予想していなかった。もちろん、城歩きが好きな私にとって、それは苦になるものではない。そこを訪れるほんの1ケ月前には、佐和山城址(こちら)と安土城址(こちら)と、2つの山城を歩いたばかりである。しかし、問題は家内である。小京都観光として連れてこられた家内にとって、まさに騙された気分だったと言ってもよかろう。というのも、それは、本格的な山城歩きとなったからである。鬱蒼とした木々の中に、石垣を臨み、ゴツゴツした道と、時折のぬかるみ、そしてアップダウン。天守台もある主郭から離れて聳える出丸(下左)、そこまで登りつめたと思いきや、そこからの一気のダウン、さらには主郭へのアップ(下中:前方彼方に主郭の石垣)、とそれはまさに健脚向きである。 そして、さらに悩まされたのが、蚊との戦いであった。日傘とスカートとパンプス、小京都・津和野を散策するには、似合うその格好も、山道を歩くには、実にミスマッチの格好であった(上右:パンプスに日傘をさして山城を歩くの景)。ちょっと歩を止めると、格好の蚊の餌食となリ、また折角のパンプスも傷だらけになってしまっては、顰蹙(ひんしゅく)を買うこと必然であった。そんなところにクマでも出ようものなら、。。。そんな山城歩きではあったが、津和野城址の遺構としては、期待以上であった。山上に残る石垣、そして郭の遺構は、まさに古城というに相応しい。実際、鎌倉時代、元寇に備えて、その地に築かれたのに遡るという津和野城の歴史。目の前に展開する城郭は、関ヶ原の後に築かれたものというが、そこには積み重ねられた歴史の重み、風格さえも感じさせられた。(下左、中:三段櫓台の石垣、下右:西櫓門から天守台石垣?) そして、圧巻は城下からも見上げた、山上にそそり立つ三十三間台と名付けられた郭からの城下眺望である(下写真。下中:南門址)。不思議なのは、その三十三間台が天守台より高いところに位置していることであるが、その意図は分からない。さらには、江戸期に入ってもなお、山上に城を構えているという点でも、全国的には稀とも言えるが、そこに立つとそれも頷ける気がしたのである。山上から城下を見下ろすと、津和野の町は山に挟まれた狭い地形に形作られていることが見てとれる。そして、三十三間台からの眺めは、城下を一望するのは勿論のこと、山間の町にあって、敵の侵入に目を光らせるには、まさにそこしかない格好の位置のように思えたのである。 幕末の長州征伐、長州への最前線、石州口の一つでもあった津和野城下を、長州兵が通過する光景も、きっとここから臨まれたに違いない。この時、そんな感慨を覚えるゆとりはなかった筈だが、今になってそう思うのである。
2010.07.25
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4月7日朝の大阪城。緑に囲まれた山里丸の静寂から、石段を上り、山里口枡形と呼ばれるところを、直角に1、2、3と折れるように進むと、いよいよ天守閣直下に辿りつく(下左:山里口枡形より)。その時、時計の針は、天守閣開門の9時にはまだまだ時間を残していたが、大手門方面から登城してきたのだろう、既に本丸には開城を待つ人々が溢れていた。そして、そこに近づくにつれ、それまで歴史に想いを馳せていた静寂が一気に破られ、耳に突き刺さるような高いトーンの言葉の嵐が飛び込んでくる。それは、まぎれもない中国人観光客の団体。本丸はすっかり、開城を求める中国人に占拠されたかの様相であったが、良くも悪くもその存在感は、ヨーロッパを旅していた時にも感じたように(関連ブログ)、日本においても同じである。が、ともかく5年ぶりの大阪城、関ヶ原における島津義弘の敵中突破とは言いすぎだが、自らも渦中に飛び込んでいき、天守閣の勇姿をカメラに収めたのである(下中、右)。 そのように、本丸は多少、騒々しい感じもあったのであるが、内堀に面した石垣の上に立つと、その喧騒も忘れさせられる。そして、そこから臨むきらびやかな天守閣、そして見下ろせば内堀にはこの桜がこの春最後の見せ場を演出し、美しい対比を見せていたのである(下:右上、左下)。しかし、その内堀を見下ろす石垣において、一番に私の目に留まったのは、石垣上部に配された鉄砲狭間(と言っていいのだろうか)である。それまで、私の中では鉄砲狭間と言えば、天守閣や櫓、また塀に鉄砲や矢を射るために空けられている穴のイメージしか持ち合わせていなかったので(参考ブログ)、石垣の上に作られているのは、全国的にも珍しい遺構ではなかろうか、と思う(下:左上)。いや、あるいは本来、この部分にも塀が巡らされていたのかもしれない。 ちょうど火縄銃の銃口を載せるように空けられた凹み。そしてその手前には、兵士が身体を伏せて、銃の狙いを定めやすくするように考えられたのであろう、傾斜と広がり。それは天守閣下の山里口出枡形にも設けられていたので(上:右下)、本丸を取り囲むように作られていたのだろう。それにしても、位置関係から考えると、高い本丸の石垣上から、内堀を挟んで対岸の石垣上まで射程があることになるので、火縄銃の威力というのを思い知らされるのであった。しかし、徳川の世となった整備された城郭、それが使われることも無かったのではなかろうか。さて、この日、出勤前の朝のわずかな散策であったが、過去に2度訪れた大阪城の記憶の中には、残っていなかった、鉄砲狭間を目にすることが出来たのは、大いなる発見であった。その後、大阪城を後にした私が、開城を知るのは、来た道を戻り、極楽橋を渡り切った時に、響いてきた太鼓の音(録音)。同じ時、本丸では、中国人観光客が天守閣に殺到しているのだろうか。。。と、ただ想像するのみであった。
2010.04.09
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5年ぶりの大阪城、極楽橋から臨む天守閣の景色は、素晴らしい(右)。この橋は、本丸北側からのアプローチとなるが、それが大阪城に秘められた歴史の変遷に想いを馳せるキッカケになろうとは、思いもよらなかったことである。今ある大阪城が、秀吉の時代の城郭でないことは、良く知られているところである。秀吉亡き後、秀頼の時代に、外堀、内堀が埋められ、やがて大阪夏の陣で落城するのであるが、その後、徳川の時代となって、整備されたものだ。発掘調査で秀吉時代の大坂城の石垣が出てきたといった話や写真は、随分と昔に見聞きしたものであるが、大坂城が築城される以前、その地にあったのが、石山本願寺だ。信長の天下統一の道筋において、大きな障害となり続けたのが、宗教勢力。僧兵を抱えるなど、強力な武装集団でもあったわけだが、その倒滅のために比叡山焼討ちがあり(関連ブログ)、また長島一向宗の鎮圧などもある。が、最後の大きな砦として立ちはだかっていたのが、石山本願寺。顕如に率いられ、また雑賀孫市(さいがまごいち)率いる鉄砲集団、雑賀衆も後ろ盾となって、信長を幾度も退けたのは、司馬遼太郎著「尻くらえ孫市」にも描かれているところである。そして、この日、本丸への入口となった極楽橋、その名前こそが、石山本願寺の名残であることを知ると、つい感慨に浸ってしまう。もっとも目の前のその橋は、昭和になって架けられたものというが、その昔には、石山本願寺の阿弥陀堂に向かう時に渡る橋だったようであり、それ故に極楽橋ということのようである。つい見落としてしまいそうなところに歴史を感じる、それがまた面白さである。しかし、発見はまだ続く。極楽橋を渡ったところの石垣は、枡形となっていて、そこに立派な門があったことが、容易に想像されるのだが、その名は山里門。そして、門をくぐったところ、本丸の北側に当たるところが、山里丸(山里曲輪)だったのである。今でこそ、そこは刻印石広場という名がついていて、築城の際、天下普請にかり出された大名の家紋やらが刻まれた石などが、置かれた広場になっているが、そこは秀頼、淀殿が自刃した、最期の地とされている。(左下:山里門からの天守閣、中,右下:山里丸からの天守閣) この日、山里丸に足を踏み入れることは、予期していなかったのであるが、実は、訪れる前より、一番関心のある場所が、まさにそこだったのである。別にそこに何があるというわけでもないのだが、それは茶の湯との関わりからである。山里と命名されている通りに、そこは城の中でありながらも、謂わば癒しの場。茶の湯で言うところの、「市中の山居(さんきょ)」にも通じるところである。その山里丸は、もとは石山本願寺の時代にも、庭園があったとかで、そこを黒田勘兵衛が整備して曲輪としたという。そして、秀吉の茶頭でもあった千利休がそこに茶室を造営して、茶会が催されていたようである。その時、利休に命じて作らせた棚、それに由来するものが、現在にあって、"山里棚"と呼ばれている棚である。そのことを調べて知るキッカケとなったのが、昨秋、半東を務めた、社中での茶会(関連ブログ)。当初、山里棚が使われる予定で、その由来を調べていて、結局、本番では"秋泉棚(しゅうせんだな)"という、紅葉と流水をかたどったものが使われたのだが、当時、それを調べることがあったからこそ、この日の出会いもあったに違いないのである。そんな感慨を感じながら、いよいよ本丸、天守閣へと歩を進めていく。(つづく)
2010.04.08
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大阪城を訪れるのは5年ぶりのこと。この日、前夜より大阪に出張していた私は、大阪城もほど近いビジネスパークに宿を取ると、出勤前の朝、大阪城を訪れたのである。時間にして約1時間、天守閣までの往復である。(右:大阪城青屋門、枡形石垣上から臨む天守閣)住所は城見だが、ビル群の影に大阪城の影も形も見えないビジネスパークの一角。しかし、5分と歩かぬうちに、目の前に大阪城ホールが飛び込んでくると(下左)、大阪城の天守閣もその頭を覗かせる(下右)。寒暖の変化の激しい今年の春、この朝も肌寒かったのであるが、そのためか大阪城公園に桜を見ることが出来たのは、幸運だったと言えよう。過去には、2回訪れている大阪城。初めて訪れたのは、平成元年2月、フランク・シナトラ、ライザ・ミネリ、サミー・ディヴィスJrの来日公演で大阪城ホールを訪れた時。それはちょうど昭和天皇崩御に伴う、"大葬の礼"の前日でもあった(関連ブログ)。そして2回目の2005年3月は、今回同様に大阪出張のついで。ちょうど週末だったので家内を呼び寄せ、大阪城には水上バスで訪れたのであるが、その乗船場を見つけるにつけ、当時のことが思い出されるのである。 そんなことを回想しながら、大阪城ホールの傍らを通り過ぎたのだが、実は過去の2回も同じルートを辿った筈である。外堀、そして内堀を渡り、本丸、天守閣へとアプローチするのだが、当時見た景色の記憶、またそれらの位置関係は、すっかり頭の中から消え去ってしまっていた。謂わばリセットされた状態だったわけだが、それがまた久しぶりの大阪城を新鮮な気持ちで見ることが出来たとも言えようか。外堀の石垣に面して、咲き誇る桜は、既にピークを過ぎたとは言え、まだ美しい影を堀に落としていた。外堀に沿って歩き、青屋門へと至ると、枡形になった石垣上から東外堀を挟んで対峙する石垣と桜、その光景を俯瞰できる(下左)。そして、二の丸へと導く青屋門を額縁にして、内堀の石垣、そして大阪城の天守閣が顔を覗かせる(下右)。 門をくぐって二の丸に立つと、正面左右に内堀と石垣が本丸と取り囲むように広がり、左手には梅林がある(下左)。5年前、そこを家内と歩いた時は、梅が満開の時期。その日は、対象的に、3月ながらも日差しの眩しい暑い一日だったが、アイスクリーム売りのおっちゃんが、自転車の荷台に据え付けられたクーラーボックス(と言っていいのか?)から、アイスクリームをかき出しては、コーンに載せていた光景が目に浮かんでくる。そのコーンを扱ったり、お金を扱ったりするのを見ていると、ちょっと衛生的じゃないよなあ、と思いながらも、思わず、暑さに耐えかねて買ってしまった私。上に載ったアイスクリームを食べると、中が空洞になっているコーンにブツブツ言いながらも、梅園の椅子に腰掛けて、天守閣を臨んでいた筈だ。 さて、その天守閣が絵になるのが、本丸へのアプローチとなる極楽橋からの眺望(上右)。5年前に撮った写真に、この景色を背景に家内を撮ったものがあったが、この日、訪れてみて、あらためて位置関係を頭にインプットする。朝の8時台、見渡せば人影もまだまばらであるが、通勤と思しきスーツ姿のビジネスマンが橋を渡り、また二の丸を自転車で走り抜けるOLらしき姿も目に入る。今や大阪城は、大阪のシンボルとしてのみならず、日常の通勤経路として、市民生活の一部にもなっている、そんな印象を受けたのである。見上げれば、伊丹空港へと最終アプローチをかける、ANA、そしてJALの機体を頻繁に目にする。実は、私自身もこの5年の間には、何度か、機上から大阪城を眼下に見下ろす機会もあったが、空から見た後で、またその地を訪ねるのも、視点が変わるようで面白い。そして、極楽橋を渡ると、いよいよ5年ぶりの大阪城、本丸へと至る。(つづく)
2010.04.07
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城下町・萩にあって、私が最も好きな景色と言えば、やはり萩城址である。そこは、江戸時代を通して、毛利家、長州藩の首府として城が築かれた場所である。その地も、今や石垣と堀が残るのみであるが、何度、萩を訪れても、それを見ずにはいられない気分になる。関ヶ原で西軍に与した毛利輝元は、それまでの中国地方100万石超の領主から、防長(周防・長門)36万石(数字には諸説あるが)へと押し込まれる。それと共に、山陽道に城を築くことを許されず、戦略上、僻地とも言える、萩の地に築城するよう幕府から命ぜられる。萩城址の入口、二ノ丸址にある毛利輝元の像が、訪れる者を迎えているが(右写真:09年8月)、その幕府への不満が、260年後、倒幕という形で現れる。とは、良く言われるところである。さて、私が萩城址に惹かれるのは、そこに古城の雰囲気を強く感じるからである。その雰囲気を醸し出すのは、やはり萩の旧い町並みを含む、周囲の景色であることは、疑いのないところだろう。そういう昔の景色を目にした後で、城址を目の前にすると、そこに思い浮かべるのは幕末の萩城のイメージである。(下:萩城本丸堀と天守台。左:07年12月、下右:09年8月) 昔、本で見たこともある、明治維新の後に撮られたという、萩城の古写真(下右:本丸にて)。そこにあるのは、本丸堀に面して、天守台に聳える、5層5階の萩城天守閣である。そして、その天守閣の背後にあるのは、日本海に突き出した指月山(標高143m)。その山頂には、詰本丸、詰二ノ丸が築かれ、最後の砦となるが、江戸時代のこと、そこが戦の舞台となることはない。(下左:旧厚狭毛利家萩長屋敷に展示される、昔日の萩城) そして、今も本丸堀と石垣を前にすると、背後に聳えるのは鬱蒼とした指月山。さらには、周囲を見渡しても、現代を感じさせるビルの景色や、新しい建物などは皆無である。つまり、緑が鬱蒼としていること、そして城の建造物が無いことのほかは、幕末当時の景色とさほど変わらないのではなかろうか。それが、きっと、萩城址に古城の雰囲気を感じさせる決定的要因のような気がするのである。城址、本丸を歩くと、その広くは、木々に遮られる感じで、もはや本丸址というよりは公園。そして、そこに鎮座する、志都岐山神社が、公園の中心的な建物である。しかし、私にとっては、萩城址の天守台に登り(上右:天守台への石段)、そこから本丸を取り囲む石垣や堀を臨むこと、それが一番の楽しみである。そこに立つと、その景色が、全国各地の城郭における景色とは、全く異なることは一目瞭然である。(下左:天守台より西側、下右:天守台より東側、本丸門方面(何れも07年12月)) 尤も、城フリークの私としては、背後の指月山にも登り、詰本丸に残っているであろう、石垣の遺構にも非常に関心があったのだが、本丸にある茶室『花江茶亭』で聞くと、今や「そこに登る人は、殆ど聞きませんねえ」と言う。実際、そこに登ろうとするのも、余程の城好き以外には、居ないだろう。そして、あらためて、その鬱蒼としている指月山を見ると、真面目にその登山口を探す気も失せてしまったのである。 最後に、萩城址の本丸堀と石垣の前景(上:09年8月)。中央に本丸門、そして、その先にかつて5層の天守が立っていた天守台。そして、背後には詰本丸、詰二ノ丸と山頂部に郭が形成された指月山が聳える。これから、昔日の萩城の姿を想像するのも悪くない。
2010.01.08
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城下町で萩において、心休まる場所がある。それは城下町の町割りの只中にある、惺々庵(せいせいあん)という名の御茶処である。初めてそこを訪れたのは、2005年10月。同年、4度訪れた萩、その最後のひとときのこと。そして、5度目の萩となった2007年12月に再訪する。その記憶を蘇らせようと、訪れた当時の写真を紐解いてみた。すると、写真の中に、多くの発見があり驚かされたのである。それらは、当時、全く気に留めることもなく、見落としていたので、全く記憶にない。しかし、それを発見したのも、今、茶の湯に入れ込んでいるからこそ。当時、まだ抹茶の飲み方さえ知らない私には、とても目が届かなかったのであるが、折角の発見である。写真から、それらを探ってみようと思う。城下町に残る幾多の文化財的建造物。その中でも、国の重要文化財にも指定されている、菊屋家住宅。その白壁が美しい建物を、道路の反対側、斜めから臨む位置に、その惺々庵はある。その門から中に見える、野点(のだて)用の赤い傘、それに引き込まれるように門をくぐると、すぐ左手に喫茶の入口がある。その先は、まさに茶室の露地。その入口は、露地門でもあるのだが、当時、そういうことを意識することはない。その門で記念写真に収まった家内であるが、ふと露地門に目をやると、侘びた屋根の先には山野草が生え、そして、そこに掲げられた扁額には『喫茶去(きっさこ)』と書かれているのに気付くのである(右上写真)。その言葉は、茶の湯の稽古を通して目にした言葉でもあり、茶道文化検定のテキストにおいても目にする禅語だ。『喫茶去』とは、唐の禅師、趙州和尚の残した禅語。それは、「ひとつお茶でも飲みに行こうじゃないか」、とお茶を勧める意味。ここに掲げられたその言葉も、まさに、「お茶でもぞうぞ」という、庵の亭主の気持ちだったのだろう。因みに、その禅語が言外に説くところは、お茶を飲むという日常の行為、そんな中にこそ、本当の真理があるのだということらしい。つまり、日常的なことをないがしろにして、いかに修行に励んでも、また議論に時間を費やしても、それは観念的なものにすぎない、といったこと。まずは外のことより、身の回りのことを実践することの大切さ、。。。色々と、心当たりのあるものである。さて、初めて訪れた時は、露地を進んで右手の建物に上がったのだが、テーブルの置かれた和室で、抹茶と和菓子を頂いた。そこから臨む露地の景色は、表通りの往来のざわめきも忘れさせる、落ち着く景色である(下左)。左手の手水鉢や灯篭など、今見ると、気にもなるのだが、その当時は、「おーっ、いいねえ」と、言葉を発しただけであること、間違いない。この時、床に掛けられていた掛け軸や、花についても、写真(非掲載)から初めて、意識させられたのであるが、知ると知らずとでは、同じ時と空間を過ごすにも、随分と感じるものが違うものである。そして、この露地の景色の右手に見えるのが茶室であり、2度目に訪れた2007年末には、こちらで抹茶を頂くのである。 露地に面した、いわば書院のような明るさ(上左)と比較すると、茶室の中は薄暗く、そこは今に思えば、夜咄(よばなし)のような雰囲気である(上右)。しかし、その時も、茶の湯を知らない私達には、「こういうのも、いいねええ」で終わっていたのは、疑いようがない。点て出しの抹茶と和菓子とを頂いたが、しっかり主菓子(和菓子)を食べた後で、抹茶を頂いたものであろうか?そして、その日の茶室の床の間を見ると、掛け軸には『無事』、そして竹の花入れに活けられたのは、白玉椿だろうか?、さらに香合はと言うと、もはや判別できない。それは年末だったゆえに、そこに、無事の年越しを祈る亭主の思いが込められていたのではないかと思う。『無事』もまた禅語。それは、臨済録(臨済宗の宗祖、唐の禅僧、臨済義玄の語録)にある『無事是貴人(ぶじこれきにん)』の"無事"。表面的には、文字どおり、何事もないこと、無事息災という意味だというが、その一方で、無の境地、外に向かって求める心を断ち切った境地のことを説いている言葉である。過去、2度訪れた惺々庵でのひととき。それを今、振り返る中で、当時気付くことのなかった発見が得られたのは、有意義なことである。いずれの時も、抹茶を頂いて、落ち着いたところで、「ご馳走様でした」とお礼を言って、後にした私達であるが、そこで床の間の景色の話など出来ていれば、もっと深い思い出になっていたに違いない。そして、ここ惺々庵での記憶と言えば、もう一つ。使われる抹茶椀は、当然、萩焼であるわけであるが、著名な作家の茶碗で抹茶を頂くことも出来ることである。尤も、当時、茶碗に対する目も何もなかった私には、作家を知らないのは勿論のこと、五感で感じる茶碗の風合に、多くの異なる味わいがあることなども知りようがない。そこで、お任せの茶碗で頂いたのであるが、今に思えば勿体無いことである。さて、6度目の萩となった昨年8月、この時も、最後に惺々庵を訪れるつもりであったのだが、時間が押してしまい、訪れることが出来なかったのは残念である。茶の湯を学び始めてから、初めて訪れる惺々庵、それを楽しみにしていたものであるが、それはまた次回の楽しみである。
2010.01.06
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初詣で松陰神社を訪れたこともあり、吉田松陰がその短い生涯を駆け抜けた城下町・萩、そしてその地にある松陰神社の記憶を掘り起こしてみたくなった。回想してみようと思う。最後に萩の地を踏んだのは、昨年8月のこと(関連ブログ)である。義弟がその地で亡くなったことから、期せずして、これまで6度も訪れている萩の町ではあるが、いつも滞在する時間は短い。そのため、訪れた回数の割りには、まだまだ知らない場所が多い。それでも、繰り返し訪れることで、町の景色が、記憶に定着してきているのは確かなところである。 萩の町並みは古い。初めて萩の町に車を乗り入れたのは、今から4年4ケ月前。その時、道路の両側に、今にも朽ちるのではと思える古い建物が並ぶ光景を見た瞬間、時代が止まっているような錯覚さえ覚えたものである。しかし、そういう光景は、萩においては、珍しくない。城下町・萩には、維新の息吹が今でも息づいていていて、城下町の町割りには、土塀が連なり、そんな中に高杉晋作の生誕地や桂小五郎(木戸孝允)邸などが残る(右上)。そこは、まるで、幕末にタイムスリップしたような感覚に陥る場所でもある。そして、土塀の向こうに、たわに実る夏みかんが風景に溶け込んでいる。それは、まさに萩を象徴するような景色であろう。そんな城下町・萩にあって、初めて吉田松陰と接することになるのが、2007年12月。それは、5たび萩を訪れた時のことである。その時、初めて萩に1泊し、萩焼にも触れるのだが(こちら)、この時、吉田松陰の墓を訪れ、そして松下村塾、松陰神社も訪ねる。そこで、萩に吉田松陰あり、という存在感を強く感じるのである。萩の町を見下ろす丘(下左)、吉田松陰の生誕地でもあるその場所に、吉田松陰の墓はある(下右)。墓と言っても、埋葬されているのは遺髪。しかし、それを建立したのが、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、等々、維新の原動力となった、松下村塾の門下生たち。萩の城下町を臨むその地に墓が立てられているのに、いかに吉田松陰が志士達の精神的、思想的支柱であったかが、偲ばれる。 その地には、吉田松陰の像も立つが、お供しているのが、弟子の金子重輔。その像は、下田沖に現れた黒船を見つめる姿だという(上中)。密航を企てた2人の望みは叶うことなく、捕らえられた後、金子重輔は萩の地で獄死。そして、吉田松陰は萩・野山獄での獄中生活の後、謹慎。そして、松下村塾において、松陰の意志を継ぐ、維新の志士が育くまれることになるわけである。しかし、安政の大獄により、吉田松陰は萩の地に別れを告げ、江戸で刑死する。それを断行したのは、彦根藩主で大老、井伊直弼であることは言うまでもない。そして、それから時を経て、松陰没後150年となった昨年、彦根から"ひこにゃん"(関連ブログ)を含む一行が萩を訪問。吉田松陰の墓前に手を合わせ、萩・彦根両市長が友好の握手をしたシーンは記憶に残るところである。さて、吉田松陰の墓、そして、すぐ隣の墓地に佇む、高杉晋作や久坂玄瑞の墓を参った後、その丘を下り、松下村塾と松陰神社とを訪れた(下写真)。あらためて、当時、訪れた写真を見てみて、今年、初詣で訪れた世田谷区の松陰神社で見た松下村塾と比べる。松下村塾に掲げられた『松下村塾』の文字こそ異なるが、世田谷で見た松下村塾の建物自体は忠実に再現されているように思えた。 松下村塾は、既に松陰神社の境内にあり、注連縄(しめ縄)が懸けられた塾は、それ自身が神聖なる場所とされているようで、印象的であった。そして、境内を進んだ先、拝殿を正面にその鳥居は、実に堂々としたものである。この日、城下町・萩で吉田松陰に触れたのは、ほんの30分ほどの間。この後、時間に追われるように、萩を後にした私達夫婦には、まだまだ吉田松陰の足跡を辿ったとは言いがたい。また訪れる機会があれば、自分の足でそれらを辿ってみたいものである。
2010.01.03
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11月1日、降りしきる雨の中、訪れた播磨の小京都、龍野。その目的は、茶室「聚遠亭(しゅうえんてい)」で頂く、一服300円の抹茶休憩。それは、旅の途中で立ち寄る、コーヒー一杯の休憩と何ら変わらない、正直そういう感覚で、そこを訪れたのである。しかし、そこで過ごす時間は、思わぬ展開を見る。それについて記してみたい。その日は、もともと城歩きを予定していたこともあり、私も家内もカジュアルな格好であった。私はライトブルーのスラックス、家内もウールパンツに身を包んでいた。そして、お茶会でもあるまい、懐紙や扇子などを入れた数奇屋袋を車に残したまま、貴重品だけ手にすると、茶室へと向かったのである。途中、着物姿の女性とすれ違ったりもしたので、何かお茶会でもやっていたのだろうか、と思ったのであるが、訪れてみて少し様子が異なることを感じる。茶室は、江戸時代末期、孝明天皇から授かった「聚遠亭」と、その先に裏千家15代、千玄室・大宗匠が命名されたという「楽庵」の2つがあり、「楽庵」の方でお茶会でもされているような雰囲気だったのである。「聚遠亭」のところにある受付に赴くと、そこにはお茶会と同じように、記帳用の和紙と筆が用意されていたので、「あれっ、今日はちょっと違ったのかな?」と思わず不安になる。そして、「抹茶を頂けますか?」と思わず尋ねると、2つ返事が返ってきて、さらには「1人300円です。」と言われたので、とりあえず、正しい場所に来たことだけを確信する。そして、準備が出来るまで、「聚遠亭」に上がって、暫く待つこととなるのだが、そこが言わば、待合となった感じである。そこには、地元の方と思しき先客の女性が1人いたので、挨拶をし、さらに「何も持ってきていないのですが、大丈夫ですか?」と、尋ねてみる。そして、「大丈夫ですよ」と、その方が答えてくださったので、まずはホッとしたのである。「聚遠亭」からは庭と池を臨み(下左)、実に落ち着ける雰囲気である。その時間、雨の降る音と、木々の葉が雨に濡れる音だけが響いていて、静寂である。そこで待つ間、確か白湯を頂き、すぐ隣の部屋にある茶室を拝見させて頂いた。薄暗い茶室、その床は歴史を感じるもので(下右)、床畳の前端にあたる、床框(とこかまち)の剥き出しの木の凹凸、それが印象的であった。そして、床の掛け軸は、松の画だろうか、そこに禅語が添えられているように見えた。また、待合の掛け軸もまた、文だろうか、異なる趣で興をそそられるのであった(下中)。 さて、まだ中高校生と思しき、着物姿の女性が、襖を開け、準備が出来た旨を告げると、私達も、「聚遠亭」から、「楽庵」へと移動する。「楽庵」の茶室の外には、既に7~8人ほどが席を待っていて、その中に、私達も混ざり、そしてやがて席入りとなる。順番に部屋に入るが、目の前にした茶室の光景に驚く。なぜならば、そこにあったのが正真正銘のお茶会の光景だったからである。(下左:衆遠亭の飛石の向こうに楽庵、下中:楽庵へのアプローチ、下右:千玄室筆の扁額) 一服300円の休憩のつもりが、お茶会の席についているという状況に、びっくりし、一方で、手ぶらで参加してしまっている状況に恥ずかしくもなるのであった。茶席に入るにはあまりにカジュアルな格好で、白い靴下も履いておらず、しかしそれでいて、二客、三客の位置に勧められて座ることになる。それでも、主菓子が運ばれると、すかざず待合で一緒になった女性の方が、お運びの方に、懐紙と黒文字とを用意してくれるよう、お願いして、助けてくれたので、嬉しかった。そして、それからという時間は、ゆったりと豊かなものとなったのである。緑鮮やかな永楽の菓子器に盛られた主菓子は、"きんとん"で、しっかりした御菓子。正客の茶碗は赤楽、そして二客の私が頂いた茶碗は永楽と言われたか、鳳凰が描かれていたように思う。そして、三客の家内が頂いた茶碗は赤い斑点模様が特徴的な、朝日焼。大ぶりな薄器は、美しい蒔絵の施された棗。しかも、それが実は竹で出来ていて、蓋のところにちょうど節の凹みがあるのを、言われてみてそうと確かめたのであるが、それは私達にとっても初めて目にする類のもの。そして、桜の木で作ったという、重量感のある茶杓。それにも蒔絵が施されており、しかも節の位置が根元だったか、あるいは無かったか、忘れてしまった。そして、この日、初めて耳にしたのが、『おりべ(織部)、ふくべ(瓢)、いんべ(伊部)』の"さんべ"の取り合わせ。11月の初日でもあったこの日、茶の湯では口切の月で、謂わば正月のお目出度い日。瓢箪である瓢(ふくべ、ひさご)は、縁起の良い物で、3つ揃えば三拍子、6つ揃えば、無病(六瓢)息災という。そして、口切の月に、"さんべ"が取り合わされることを、この席で知るのである。その取り合わせが何だったかというと定かではない。瓢は香合、織部は煙草盆の火入だったろうか。そして、"いんべ"が備前焼のことであることも、この時知るが、おそらく水指がそうだったろうか。さすがに、メモをしていないと、忘れてしまう。しかし、多くの珍しいものを見せて頂き、そして新しく知ることも多かった、そんな時間であった。最後、退席するに当り、亭主の方に、いい加減な格好で参加させて頂いたことを詫びたのであるが、逆に旅の途中で立ち寄ってくれたことに感謝して頂いた。まさに一期一会の時間、豊かな気持ちにさせられたのである。ほんの抹茶休憩のつもりで立ち寄った龍野。そこに滞在した時間は、気が付けば1時間を越えていた。しかも、その密度の濃い時間を一人わずか300円で満喫させて頂いたとは、何という贅沢なことだろう。播磨の小京都でのおもてなし、その思い出を決して忘れることはないことだろう。
2009.12.11
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11月1日、赤穂城を発った後で訪れたのが、播磨の小京都・龍野(たつの)。とは言っても、その町が、小京都と呼ばれていることを知るのは、訪れる数日前のこと。しかも、その地を訪れることさえ、考えていなかったのだが、臨機応変、訪れることになる。実は、その日、赤穂城を訪れた後、利神(りかん)城址(関連ブログ)を経て、有馬温泉まで車を走らせようと考えていた私である。しかし、天気予報は雨。それは、山城である利神城を歩くことを、困難なものとする。そして、赤穂城を発って間もなく、土砂降りとなると、あっさり諦め、目的地を龍野とする。そこは、地理的にもちょうど通過点にあったため、一服休憩するにも、好都合な場所であった。龍野での目的地は、ただ一つ、茶室「聚遠亭(しゅうえんてい)」。ガイドブックの案内に、『毎週土日曜に茶席が一席300円で開催』という文章があるのに目が留まったのが、キッカケである。しかも、千宗室鵬雲斎大宗匠が命名した茶室もあるようであり、一服入れるには、なかなかいい場所のように思われたのである。 龍野の城下町は、昔ながらの細い坂道が縦横に走っており、カーナビにもその場所が登録されていなかったので、その目的地に辿り着くのには、苦労した。雨の中、何度も路肩に車を止めては位置を確認し、方向転換もしたものだが、なんとか辿り着く。突然、目の前に現れた、龍野城の隅櫓(冒頭写真)、それを迂回するように車を坂道に走らせると、城下町を見下ろす高台にその茶室を認めるのである。その高台からは、途中遭遇した、隅櫓を眼下に見ることが出来た(下右)。そして、目的の茶室は、高台の隅、池に浮かぶように静かに佇んでいた(下左、中)。池を挟んで茶室を正面にしたところにある立札には茶室の由来が記されていた。「この茶室は安政年間、龍野藩主、脇坂安宅公が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので孝明天皇から茶室を賜わり、心地池上に浮堂として移築したものと.....」とある。 それは、まさに幕末、大老、井伊直弼の"安政の大獄"と同時代。世の中の情勢が急転回していく、そんな時代の話である。調べると、脇坂安宅その人は、桜田門外の変の当時、老中の地位にあり、その後、一旦隠居する。しかし、再び老中となると、島津久光の圧力に屈し、徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にする確約をさせられる役回りを演じることとなる。また、孝明天皇と言えば、皇女和宮の異母兄。つい、昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』でその人を演じた、雅楽奏者、東儀秀樹さんの顔が思い浮かんだりもする。が、ともかく、地方の小藩の藩主が、その時置かれた立場がゆえに、歴史の表舞台、重要な局面に顔を出すことになるのも面白い。しかし、何よりも、赤穂城址を訪れた後に龍野を訪れることに奇遇さを感じさせられたのは、またしても忠臣蔵である。それは、大石神社に見て知るのだが、赤穂・浅野家が断絶となった直後、赤穂城の受取りの使者となるのが、龍野藩2代藩主、脇坂淡路守(安照)だったという事実である。かつて備中松山城の受取りの使者となった大石内蔵助は、赤穂城を龍野の脇坂氏へ受け渡すのである(関連ブログ)。その脇坂氏の城下町龍野も、土砂降りゆえに歩くことはなかったのだが、車で右往左往したおかげで、その街が持つ幾つかの顔も知ることとなる。その一つは、街中にその文字を数多く認めた、『揖保乃糸』。その名を全国に知られた、そうめんが龍野の名産品であることを、現地を訪れて、初めて知る。龍野の町を流れる川、その名も揖保川である。さらには、うすくち醤油発祥の地も龍野。町には、醤油蔵が並び、それが城下町風情とまた良く合う。そして、そんな龍野の風情の中で育ったのであろう作詞者が三木露風。その代表作の童謡『赤とんぼ』は、三木露風が故郷龍野への郷愁から作られたそうである(下:赤とんぼ歌碑)。それら、龍野の様々な顔を知れば知るほど、晴れた日に、ゆっくりと歩いてみたい町に思えてくる。 しかし、そんな小京都・龍野の風情も、その後の抹茶一服の時間から感じさせられようとは、とても思いも及ばない。その思い出深い時間のことを、引き続き綴ってみることとする。(つづく)
2009.12.01
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姫路城を訪れた翌日、長年切望していながら、なかなか訪れる機会のなかった城、播州・赤穂城を訪れる。赤穂(あこう)と言えば、今さら私が申すまでもなく、赤穂浪士、忠臣蔵ゆかりの地。降雨が予報されていたその日、今にも雨が降りそうな空の下、姫路駅で車を借りると、一路、赤穂へと走ったのである。赤穂城を最初に目にした時の印象、それは、まず石垣の高さが、「随分低いなあ!」という驚きである。さらには、石垣や堀の遺構が、視界の奥の方へと続いていて、意外と残っているのに驚かされる(下左:三の丸石垣と東隅櫓台)。何と言っても、私の知る赤穂城のイメージは、その大手門と、白壁で連なる隅櫓のみ(下右)。大手門から堀に架かるその橋を、討入りの日に行われる義士祭で、四十七士が渡り城外へ繰り出す、そういう写真の記憶である。 さて、訪れてみて初めて、赤穂城の縄張り(郭の配置)を知るのであるが、期待していた以上に、城址が広大であるのに驚いた。それまで写真で良く見ていた大手門は、三の丸の入口に過ぎず、門を入って暫く歩くと、遙か前方に、整備された石垣や再建されたらしい白壁の塀、城門などが見える。それが本丸門であることに気付くのには、時間はかからなかった(下左:本丸門)のだが、二の丸、本丸はまさに整備が進行中であり、往時の赤穂城の姿を取り戻しつつあるように思えた。 その本丸には、天守台があり、そこからは広い本丸を見渡し、そして本丸門を臨む(上右)。かつて本丸御殿があった本丸には、それを再現するように、平面で間取りが再現されているので、往時の姿を想像してみる。本丸の周囲は堀に囲まれ、二の丸がぐるりと取り囲む、所謂、輪郭式縄張となっていて、なかなか珍しい。そして、二の丸の堀の北側に三の丸が配置されているのである。調べると、赤穂城が築かれたのは、1645年浅野氏が入封してからのことで、完成したのは1661年という。しかし、播州赤穂・浅野家3代、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の時、あの江戸城、松の廊下刃傷事件が起き、お家断絶となるのは、周知のところである。そして、赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助率いる、四十七士による主君の敵討ち、吉良邸討入りへと至るわけである。 赤穂城の三の丸には、大石神社があるが、その参道の両側には、四十七士の像が立ち並び、壮観である(上左)。それに目をやりながら、神社の鳥居まで来ると、最後に大石内蔵助の像が立つ(上右)。そして、神社の境内には、宝物館があり、そこに四十七士ゆかりのものが展示されているが、やはり中でも目を引いたのは討入りの時に使われた采配である(下左)。私にとっての大石内蔵助のイメージは、NHK大河ドラマ『元禄太平記(1975)』に内蔵助を演じた江守徹である。そこに展示されている采配に、当時テレビの画面に見た、討入りのシーンを重ねる。さらには、討入りを前に内蔵助が訪ねた、松坂慶子演じる内匠頭未亡人、阿久里(あぐり)。畳に落ちた四十七士の血判状がパーッと畳に広がるのを目にした阿久里が、雪の降りしきる中、立ち去る内蔵助を見送るシーンまでもが甦る。同じ三の丸には、大石内蔵助邸の址があり、当時のままの長屋門や庭園がある。長屋門には、内蔵助の討入り(上)や、内蔵助と主税(ちから)父子の対面のシーン(上、中右)が再現されており、内蔵助の夫人、大石りくと次男の姿もある。そして、ますますドラマのシーンは重なるのである。ドラマではりくを岡田茉莉子が演じ、主税を演じたのは、驚くなかれ、若き日の中村勘三郎である。そこに佇む庭園は、内蔵助夫婦も歩いたのだろうか。それを想うと、その片隅に立つ、りくの旅姿の石像が、もの哀しく見えた。そして、そんな思いに浸りながら、私達夫婦も赤穂城を後にする。最後に余談だが、赤穂と言えば、塩田(えんでん)。大手門前にある、播磨屋さんで、車中のおやつにと、塩味饅頭を買う。そして、駐車場のトイレで、浅野内匠頭と阿久里に見送られ(下)、赤穂を発ったのである。
2009.11.30
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姫路城を訪れた10月31日、その日は、まさに行楽日和の晴天に恵まれ、少し汗ばむほどの陽気であった。ちょうど土曜ということで観光客も多く、修学旅行生や外国人観光客も多く目についたものである。しかも、その翌日からは一転して、冬のような寒さに見舞われたので、その日、秋の日差しの下、姫路城を散策、堪能できたことは幸いだったと思う。その姫路城において、一番最初に訪れた場所が、西御屋敷跡庭園『好古園』である。その庭園の存在については、実は知らなかったのであるが、ガイドブックに、『(その庭園にある)茶室「双樹庵」で抹茶も味わえる』、という一文が目に留まり、訪れるに至ったのである。そこで抹茶を戴きながら過ごした時間について、振り返ってみたい。姫路城への最初のアプローチでもある桜門を前にすると、太陽の光に、満々と湛えた水がキラキラと輝く堀(右上写真)が目に入る。その堀に沿って左方向(西方向)に歩き、城郭の石垣に沿って堀が折れたところ、そこに『好古園』がある。その庭園の歴史は新しく、姫路市制100周年を記念して造営され、平成4年に開園したものであるという。園内は実に広大で、それぞれが特色を持つ幾種類もの庭園があって美しい。また、土塀に挟まれた通りや門には、武家屋敷の町をも彷彿させられ、風情がある。それらは近年造られたものとは言え、もともとその辺りに、御屋敷や武家屋敷もあったとのこと。それゆえ、姫路城下に往時の雰囲気を再現したとも言えよう。さて、その庭園の美しさについて多く語ることは、ガイドブックに譲ることとし、茶室「双樹庵」での時間について記したいと思う。その茶室で戴く抹茶は、まさに全国各地の庭園やお寺で戴く一服500円の呈茶と同じく、点て出しの抹茶を頂くという気楽なものである。しかし、場所が姫路城(西の丸の櫓)を臨む茶室という点が素晴らしい。 茶室「双樹庵」に入り(上左)、受け付けを済ますと、まず待合に入る。と言っても、お茶会ではないので、そこで待つことはせず、床を拝見すると、すぐに庭に面した呈茶席(上右)へと移動する。しかし、何気に見過ごしそうな待合の床に、世界遺産姫路城の足下ならではの、ちょっとした演出があった。その床に掛けられていたのが、『波和游』。右手前に置かれた説明に、『はわゆう(How are you)』とカナがふられていたのである(下左)。呈茶席のある広間に入ると、ちょうど前の客が出たばかりで、客は私達夫婦2人だけ。しかし、それもほんの僅かの間で、後に訪れる人が続くと、瞬く間に席は10人以上に埋め尽くされる。ともあれ、まだ、他に客の訪れぬ静かな時間に、最初に出された主菓子、と床の景色をカメラに収めさせて頂いた(下右)。主菓子は、柿を形どったもので、まさに季節の表現。そして、床の掛け軸はというと、。。。読めなかった筈の文字であったが、席主の方が顔を出して、色々とお話して下さったので、それが『松無古今色(松に古今の色なし)』と書かれていることを知る。その禅語の意味は、「松は常に青々としていて、昔も今も常住不変」。物事の道理というものは、いつの世でも変わることがなく、不動のものであり、そうであらねばならないということを、松を象徴として表現されているという。さらには、床の花は、一昔前には事件で有名にもなった、紫色をしたトリカブト。花入れは、筍(竹の子)のような形をしたもので、呼び名も教えて頂いたのだが、忘れてしまった。 この席で戴く抹茶は、点て出しなので、お点前があるわけではないのだが、席主の方が出て頂いたお陰で、主客の会話が出来、お茶会のような雰囲気を味わえたのである。そして、点前座には風炉と釜、そして水指が飾られていて(上中)、それがまたお茶会の雰囲気を演出する。この日、10月も最後の日だったので、風炉の季節最後の日。10月ならではの、中置(なかおき:風炉を点前畳の真ん中に置く)も、この日が見納めとなった。 さて、床の前に、外国人女性2人が入ってきたのは、一通りのお道具の説明などを伺った後のことである。きっと初めての茶席だったのだろう、外国人向けに書かれたお茶の作法を説明する紙を、しきりに見られていている。そこで、席主の方が、どこから来たのかと声をかけられ、オーストラリアから来られたことを知る。それからというもの、席の中心は、そのオーストラリア人女性2人。席主の方が、写真を勧めると、私もその彼女のカメラを手にとり、構図を決める。二人揃って、抹茶碗を手にとり構えたところで、シャッターを押してあげた。あとはと言うと、初めての体験には複雑なお茶の飲み方。右から手前に2回、回して手前を避ける、。。。と、下に置いた説明書きを見ながら、茶碗をしきりに回される光景が何とも、微笑ましくもあった。一緒に、お茶碗を回して、飲む形を真似たり、また、「これでいいのかな?」と伺うのに、相槌を打ったりもして、その2人が抹茶を飲み干すのを見届けた私達である。そして、先に席を立つと、「私たちも、もう出てもいいの?」と、最後の質問。確かに、異国での初めての体験では、それさえも、もっともなこと。それに頷くと、お別れしたのであった。双樹庵での呈茶席、国際交流というには、おこがましくもあるが、日本の文化を通して、そこを訪れる外国人と触れ合う。日本にいながらにして、そういう体験が出来るのも、世界遺産・姫路城城下ならではのことだろう。それは、予期せずして出会った、楽しくも嬉しい時間であった。(以上、姫路城シリーズ終わり)
2009.11.28
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姫路城西の丸、そこが豊臣秀頼の正室、千姫にゆかりがあろうとは、訪れるまで知らなかった私である。大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後、桑名藩主、本多忠政の長男、忠刻(ただとき)に嫁いだという千姫。そして当時、姫路を治めていた池田家に変わって、本多忠政が姫路城に入ると、忠刻と共に千姫も姫路へと移る。その千姫が、姫路城において居を構えたのが、西の丸。今では、その御殿の遺構は無いが、西の丸をぐるりと取り囲む渡櫓には、天守閣を間近に臨むところに千姫の休息所、化粧櫓があり、さらには、千姫に仕える女性たちが住んだ部屋、長局(ながつぼね)が並んでいる。姫路の地において、千姫はどのような想いで日々を送ったのか、ふと思いを馳せてみた。(右:化粧櫓からの臨む姫路城天守閣群)西の丸の渡櫓は、300メートルにも及ぶ長い廊下によって結ばれており、そのことから百間廊下とも呼ばれているようである。その遺構は、日本でも唯一のものであり、その光景は圧巻である。しかし、その廊下は、果てしなく似たような光景が続くので、多少飽きもする。実際、過去2度訪れた時にも、この百間廊下を歩いているのだが、千姫や化粧櫓の印象が残っていないことは、それを裏付けているようでもある。しかし、この日は、百間廊下に沿って並ぶ長局から臨む、姫路城の景色が、見る角度によって変わっていく様を楽しみ、化粧櫓まで歩いたのである(下:長局からの天守閣群のパノラマ)。そして、化粧櫓からの臨む天守閣はまだ遠い。しかも、その先に見える「は」の門(下、右下写真中、中央)は、天守閣に至る迷路のほんの始まりに過ぎないことは、最近のブログにも述べたところである。 さて、千姫の生涯について調べてみるのは、初めてのこと。殊に、大坂夏の陣で助け出された後に運命については、これまで知る由もなかった。しかし、調べれば調べるほど、思わぬ発見があり、驚きもある。それを記しておきたい。千姫は、2代将軍秀忠の娘。そして、その母は、浅井長政とお市の方の間に生まれた3女の江(ごう)。言うまでもないが、長政の長女、茶々が、秀吉の側室、淀殿となり、その息子、秀頼の正室に、江の娘、千姫が嫁ぐのも、歴史が複雑に絡み合うところである。そして、大坂夏の陣の戦火の中、家康の命により、千姫は助け出される。と、ここまではよい。その後、時が経て、前述のとおり、本多忠刻の正室として姫路城に入るのであるが、姫路での生活は、わずか10年。当初は幸せだったその生活も、息子の死、そして夫、忠刻までもが31歳で若さで世を去ると、不幸は重なり、同じ年に、忠刻の母、そして母、江も逝く。時に千姫は30歳、落飾(出家)すると、娘の勝姫と二人、姫路を去り、徳川本家の江戸へと帰るのである。その後、娘の勝姫は、因幡・伯耆(今の鳥取)の池田光政に嫁ぐが、その人こそが、千姫が本多忠政父子と共に姫路に入るまで、姫路城を治めていた池田宗家の3代藩主。それもまた、不思議な縁である。そして、のちに光政は、備前・岡山藩主となり、岡山は池田宗家の城下町として、幕末に至る。日本三名園の一つ、岡山後楽園を築園した2代藩主綱政は、千姫の孫にあたるとのことである(こちら)。そして、千姫の逸話でもう一つ興味深かったのが、私が毎月のようにお世話になっている北鎌倉の東慶寺に関係するお話である。それは、豊臣家が滅びたとされる大坂夏の陣の後で、千姫は東慶寺の伽藍を再建しているということである。千姫は、秀頼と側室との間に生まれた娘、奈阿姫(なあひめ)を、自らの養女とすることで、処刑される危機から救うと、東慶寺に入れ出家させる。その奈阿姫が、東慶寺の二十世住持天秀であり、その死によって、豊臣家の血筋は、北鎌倉の地で絶えることになる。東慶寺は、千姫の影響もあってか、家康のお墨付きを得ると、以後、縁切り寺として、治外法権を持つ寺として、幕末へと至る。そして、巡り巡って今、その由緒ある寺で、私達夫婦は、お茶を楽しませてもらっているのである。姫路城で千姫ゆかりの場所を訪ね、色々と調べているうちに、最後は、東慶寺に到達。知れば知るほど、色々と繋がり、面白い発見をさせて頂いた。姫路城に感謝である。(つづく)
2009.11.26
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姫路城の堅固さ、そして迷路のような天守閣へのアプローチ。それを造り上げたのは、関ヶ原の後に、この地に入ってきた、池田輝政である。しかし、その武将の名は、一般には知名度はそう高くない。実際のところ、私自身も、姫路城を築城したこと以外には何も知らなかったのである。そこで、少しレビューしてみたのだが、今さらながら、初めて知ることが多い。もとはというと清洲の生まれ、つまり織田信長の出世城、清洲城下だ。その後、信長、秀吉に仕えた輝政は、秀吉の没後、武断派の一人として石田三成と敵対、関ヶ原で徳川家康につき勝利する。と、ここまでは、加藤清正や福島正則、さらには細川忠興とも共通するところである。 その謂わば、秀吉恩顧の武将でもある池田輝政が、関ヶ原の後、三河・吉田城15万石から、播磨52万石に大幅加増されて姫路城に入るわけであるが、その姫路城は、かつて黒田官兵衛が入り、秀吉の中国攻めの拠点ともなった要衝。しかし、この時、既に時代の流れは家康のもの。秀頼と淀殿の居城、大坂城もほど近いその地に、秀吉恩顧の西国大名を牽制する役割として、池田輝政が姫路に入るのは、歴史の面白くも皮肉なところである。その時代背景が、池田輝政に、極めて防御性の高く、堅固な姫路城を築かせたというわけである。その防御性については、過去2回のブログの中でも紹介しているので、あらためて述べるまでもないのだが、つい補足したくなる。まずは、本丸から見上げる天守閣(下左:夕陽を浴びる大天守と西小天守)。ここに到達した敵が、天守閣に攻め込むには、いくつかの小さい門を経て、ぐるりと反対側、天守北側に回り、そこからさらに水一門から水五門まで、通過せねばならない。 また、現在、姫路城の入口ともなっていて、三の丸から二の丸へと至る門でもある、"菱の門"。その門をくぐると眼前に聳え立つ姫路城が、その影を水面に映す(上右)。通常、堀と言えば、郭を取り囲むように廻らされているものだが、ここにある堀はほぼ真四角をしていて、違和感がある。しかし、それも防御の一つの形で、門を入ってきた敵の進路を狭めるためという。門を入って堀の左側、先に続く"い"の門へと直進すれば、西の丸から弓矢や鉄砲の雨に晒される。また、堀の右側を直進すると、門のありそうのないところに、埋門(うずみもん)と呼ばれる、石垣をえぐるように作られた門があるが(上中)、そこは頭を下げて一人やっと通れるほどの小さな門である。押し寄せる敵も、瞬く間に渋滞してしまい、城からの攻撃に晒されることになる。しかし、そこまで考え抜かれた城も、実際にその堅固さを発揮する戦(いくさ)を経験することはなかった。それは江戸期に作られた多くの城に共通するところである。 さて、秀吉恩顧でありながらも、池田輝政が、家康側の謂わば最前線に立ち、西国大名が大坂へ駆けつけるのを阻止する役割を担うのは、家康の娘、督姫を妻にしていたことが背景にあるようである。そして、優雅さと屈指の堅固さを備えた姫路城を居城とした輝政は、"西国将軍"などとも称されたようであるが、自らが治める播磨に加え、一族で備前、淡路、さらに鳥取と、合わせて100万石近くの所領があったというので驚く。しかし、輝政が築いた姫路城を池田家が治めるのも、わずか3代。それは、大坂夏の陣で、豊臣家が滅んだ、わずか2年後のことである。3代池田光政は因幡・伯耆32万石として転封となり、かわりに徳川家康の重臣、本多忠勝の長男、忠政が桑名より入る。それは、光政が幼少ゆえとのことだが、西国の抑えという役目を終えた、秀吉恩顧の池田家を、強大な城郭の下、姫路に置く必要はない、という思惑でもあったのではなかろうか。そうも思いたくなる。 余談だが、姫路より北西に約50キロのところ、今の兵庫県佐用町に、利神(りかん)城という山城の跡がある。麓より、山頂に残る石垣を臨めるというその山城も、実は今回の旅の目的地の一つだったのだが(雨天のため実現せず)、輝政が姫路城を大規模要塞とするのと時を同じくして、輝政の甥・由之がその城郭を整備する。しかし、その城があまりにも強固なものであったため、謀反の猜疑を掛けられることを恐れた輝政が、破却させたという。それは、まさに今年の大河ドラマ『天地人』においても、家康が上杉家に対して、事あるたびに、「謀反の疑いあり」と、何かと文句をつけていたことを思い出させる。現在ある姫路城を築城した池田輝政にしても、豊臣恩顧ゆえに、徳川家康を恐れていた、そういう微妙な立場を感じさせられる逸話である。(つづく)
2009.11.24
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日本全国で天守閣が現存する城郭は12。昨年、丸亀城(こちら)を訪れたことで、全ての天守閣に登ったことになるのだが、3度目の登閣を果たすのは、この度の姫路城が初めてである。そして、その天守閣の素晴らしさについても、あらためて実感させられる。何と言っても、姫路城の天守閣の特徴は、小天守3棟を連結する、天守閣群である。大小天守閣の連結というのは、熊本城、名古屋城はじめ、また天守台しか残っていない城址を含めて、各地に見られるところであるが、4連というのは例がない。それは、言ってみれば、天守閣だけで一つの要塞を形成しているかのようでもある。(右:夕陽を浴びる姫路城天守閣)唯一、同様の構成例では、天守を始め、多くの遺構が残る、伊予・松山城がある。しかし、天守閣が3層、小天守が2層であるため、姫路城と比較しては、どうしてもこじんまりした感は否めない。また、再建だが、紀州・和歌山城も連結して一つの郭を形成しているが、こちらも天守閣が3層であるために、姫路城のスケールにはとても及ばない。(和歌山城はまだ訪れたことがない)また、天守閣が5層という点でも、現存するものは他に松本城(国宝)しかなく、大変貴重な遺構である。その内部は、この夏、登閣した彦根城(国宝:こちら)と比較しても格段に広く、それだけでも驚嘆に値する。そして、急峻な階段を登り、一つ一つと上層階へと進んでいく。廊下には、鉄砲挟間や石落し、武具掛け(下左)などが配置され、さらには武者隠しといったものもあり、戦(いくさ)への備えを感じられて興味深い。 そして圧巻は、5層の天守閣を支える大柱(上右:写真中、右)。その天守を貫く東西2本の大柱には、この秋公開された映画『火天の城』にも描かれた、安土城の天主閣を支えた親柱が重なる。映画の中で、木曽から運ばれてきた大檜が、天高く立ち上がるシーン、さらには天主崩壊の危機に、総力を結集して親柱を持ち上げ、その根元を切る緊迫のシーンが思い出された。調べると、その2本の大柱のうち、西大柱は昭和の大改修の際に腐食のために、取り替えられているらしい。しかも、改修当時、天守閣を貫くほどの巨木が見つからず、2本の巨木を接いでいるというので驚かされる。そして、一方の東大柱は、根本の補強のみで、築城来400年もの年月、その天守閣を支えているというが、それもまた驚くに値するのである。8年前に訪れた姫路城の内部の記憶は殆ど失われていたので、この度、登閣して、あらためてその素晴らしさを肌で感じることが出来たのは、幸いであったと言える。その光景は、前回のブログにも述べた高度な防御性と共に、建築物としても、文句無く、日本一の城郭遺構であることを証明していたと言えよう。この日、天守閣は多くの観光客で混雑していたが、最上階に上り、その眺望を満喫した。天守閣から乾小天守を眼下にすると、前回にも述べた、迷路の途中にある「に」の門と、両側を塀に囲まれた道幅の狭さを確認することが出来る(下左写真中、手前下)。そして、その背後には西の丸を取り囲む白壁に、化粧櫓から延びる渡櫓を見渡したのである(同、左側)。そして、鯱(しゃちほこ)も近くに臨んだ(下右)。 さて、来年春以降、平成の大修理で天守閣が覆われるため、私にとっては、その景色もこの日が見納めである。しかし、名古屋城を始め、多くの現存していた城郭が、戦災で破壊され、消失した中にあって、謂わば最高傑作と言っても良かろう姫路城が生き残っていることは、幸いだ。日本が世界に誇る遺産である姫路城、そこからの眺めをまた修理の後で、訪ねたい、そう心に誓って、天守閣を後にしたのであった。(つづく)
2009.11.22
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この秋、8年ぶりに訪れた姫路城。今回、過去に訪れた2回とほぼ同じコースで、城内を歩き、天守閣にも登ってきたのであるが、歩き終えての印象はというと、全く異なる。それは、実に素晴らしい、の一言に尽きるのだが、その印象について書き記してみたい。(右写真:三の丸から天守閣を臨む)過去に見た姫路城、それは同行者がいた手前、先へ先へと、歩くことに夢中になっていたのだろうか。多くの遺構は、当時、既に写真を見て知っていたことであり、現地に赴いても、ただそれを確かめただけだったかのようである。しかし、今回訪れてみて、姫路城こそが、現存する城郭において、文句なく日本一の遺構であり、世界遺産の称号を冠するに相応しい。それを強く意識させられたのである。 姫路城の美しさは、何と言っても、白壁の連立天守閣とそれを取り囲む建築群の美である。それは、羽根を広げた白鷺に例えられて、白鷺城の名でも親しまれているが、この日、近くから見上げるその姿に、もう一つの城が重なった。それは、3年半前に訪れた、ドイツ南部にあるノイシュヴァンシュタイン城。かのバイエルン国王・ルードヴィッヒ2世が築いた、あまりにも有名なその城である。(下左:西の丸からの姫路城天守閣群、下右:ノイシュヴァンシュタイン城(06年5月)) 思えば、ノイシュヴァンシュタイン城も、別名、白鳥城。その名は、麓のシュヴァンガウという地名に由来するものの、白鳥と呼ぶに相応しい美しさである。しかし、その城は、ルードヴィッヒ2世が俗世を離れて、自らが憧れる夢の世界を表現したもの。それに対して、姫路城が圧倒的にその存在感を見せるのは、その美しさと威厳に加えて、高度な防御性を持ち合わせているところである。しかも、その防御性については、国内の名だたる名城さえも、姫路城の右に出ないのではないかと思うほどである。特に天守閣を目前としてからの、それに至る道のりは近くて遠い。その構造は、実に複雑であり、極めて実戦的である。その構造は、名城と言われる、大阪城、名古屋城、熊本城などにも、見られず、姫路城のそれは最高峰と言っても過言ではなかろう。城を攻める者は、進路を狭められ、また迷路のような構造に悩まされる。進路を180度回転せねばならなかったり、人が一人しか通れないような門をいくつも潜らされる。当然、城を守る者の攻撃に晒される機会は増え、進路を見失った敵は、袋小路にはまり、右往左往する、そんな姿も容易を想像できそうである。 「い」の門、「ろ」の門を経て、「は」の門をくぐると、より一層、天守閣を近くに臨む(上左)。そして、その次にある「に」の門は、写真中、手前上。塀の先まで進んだところで180度回転して、道幅の狭くなった石段を登ると漸くそこに至る(上中:「に」の門を前に天守閣を振り返る)。その「に」の門を潜ると、視野が開け、乾(いぬい)小天守を正面に臨む乾曲輪(上右)となるが、そこに立つと大天守の姿も、連結の小天守に遮られ、どこが正面なのか分からなくなるのである。そこから、さらに前進するには、石垣に埋れたような小さな門を通過するのだが、それは写真中左隅にある「ほ」の門。頭上注意と書かれた、その門は、1人ずつしか通れない。そして、その門を通過すると、いよいよ天守閣群の直下。しかし、その郭を直進しては、天守閣に辿り着くことは出来ない。反対側から登ってきた味方と合流してしまい、袋のネズミとなる。この日は、そこに案内係が立っているので、進路を間違うことはないが、「ほ」の門を抜けると、すぐに右手、奥隅にある、「水一門」と呼ばれる、まるで屋敷の小さな門を潜る(下左:振り返って見るが、これは「水二門」か)。そして、最後「水五門」に至って(下右)、漸く天守閣に入場できるのだが、その間も、城からの攻撃に晒されることとなる(下中)。 と、姫路城の天守閣への最後のアプローチは、ざっと、こんなところであるが、そこに、一見、優雅に見える姫路城の天守閣が、実は、複雑で精緻な構造により、極めて高度な防御性を持っていることを見るのである。これほどまでの防御を供えた城郭は、日本はもとより、世界にも類を見ないのではなかろうか。まさに姫路城が世界遺産の称号を冠するに相応しいことを実感させられたのである。(つづく)
2009.11.20
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今年の夏のマイブームは、城巡り。その火付け役となったのが、27年ぶりに訪れた彦根城であり、安土城址であったことは、既にこのブログでも述べたところである(こちら)。そして、気がつけば季節は秋となり、"読書の秋"、"スポーツの秋"ならぬ、"茶の湯の秋"である。実際、11月に入ると、マイブームもすっかり茶の湯一色となっている。そんな私のマイブームの衣替え、それは10月31日から11月3日の4日間。有給休暇を1日取得し、3泊4日で兵庫県を訪れた時のことである。そのキッカケの一つは、同時期に開催される太閤秀吉ゆかりの有馬大茶会。そしてもう一つが、世界遺産にも指定されている、国宝・姫路城の"平成の大修理"である。姫路城の大修理のニュースを知るのは、訪れるほんの1ケ月ほど前のこと。その優美な姫路城の天守閣は、来春より約5年間、大きな白い"覆い屋"にすっぽり覆われるという。つまり、大きな箱を被るわけで、その姿を見ることが出来なくなるのである。私自身は、過去にも2度、姫路城を訪れたことはあったのだが、城巡りがマイブームとなった今年、今一度、見納めしたいという気運が自身の心の中に高まり、有馬大茶会と併せて訪れることを決意した次第である。 過去に姫路城を訪れたのを振り返ると、初めての時は、忘れもしない阪神大震災直後の1995年。学生時代の友人の結婚式に出席するため姫路を訪れるのであるが、当初、神戸・三宮で行われる筈だった結婚式が、震災の影響で、急遽、姫路に変更されのであった。地震で分断された新幹線に替えて、空路、岡山から入り、そこから新幹線で姫路を訪れたのであるが、当時、山陽新幹線は姫路で折り返し運転されていたのである。そして、2度目は2001年の春、ちょうどつつじが咲き誇る時期であった。当時、お付き合いしていた女性の妹を神戸に訪ねて、姉妹の観光案内役として、姫路城、そして郊外の書写山円教寺を訪れたのであった。その日、ちょうどお祭りがあって、天守閣を正面に臨む、広大な三の丸から姫路駅へと向かう大手前通は、神輿を担ぐハッピ姿の人々や大勢の観光客で賑わっていたのを思い出す。それら2度の姫路城の印象と言えば、あまりにも秀麗な連立天守閣、そして数多く残る遺構と、完璧なまでの美しさ。それが完璧であるがゆえに、どちらかというと権威の象徴のように捉えてしまい、そこに隠された戦略的な構造の妙を十分堪能していなかった。また、何れの時も短時間で、同行者もいたことから、自分のペースで歩くことが出来なかったことも影響していたように思う。この度の登城で、それを再発見させれられることになるのだが、それは追って、記載することとする。さて、8年ぶりに訪れた姫路城。大手前広場を眼下にした、"イーグレひめじ"という名の商業施設(?)から眺めた、姫路城の全景は実に美しい(上写真)。西の丸の櫓群とそれを繋ぐ白壁の塀(写真中左)、そしてひときわ高く聳える大天守閣と連立の小天守。さらにはそれを取り囲む櫓群。その建築美には、それから訪れるに先立って、期待感が、高まる。その天守閣の姿は、過去の記憶から頭に描いていた姿と比較すると、大きく、堂々としているように思えた。この夏、熊本城を訪れた時、その男性的な威風堂々とした姿には、息を呑んだものだが(こちら)、それと趣は異なっても、目の前に広がる姫路城の姿に息を呑んだのである。その感覚は、予想していなかっただけに、それだけでも、今回、訪れた価値があったと思う。そして、同じアングルで、大天守閣が白い箱にスッポリ覆われる姿も想像してみた。それは何とも異様な感じであり、また寂しい感じでもある。実際、姫路城では多くの外国からの観光客も目にしたのであるが、万が一、そうと知らずに訪れようなら、ショックは大きいことだろう。また、姫路市にとっては、観光客が減ることも懸念されることだろう。しかし、それには秘策があることを、この日、知る。それは、"覆い屋"の内部に、見学用の施設が設けられるそうであり、工事の様子を近くから見ることが出来るということである。それは、日本では初めての世界遺産の公開工事ということらしいのだが、世界遺産をいかに補修、維持していくか、そのプロセスを見れることも、またとない機会のような気がする。そういうわけで、今回、外観の見納めに訪れた一方で、外観が覆われた後についても、少しずつ関心が湧いてくるのである。ともあれ、8年ぶりに訪れた姫路城、その印象を引き続き、綴っていきたい。
2009.11.18
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初秋の日差しが眩しく、汗ばむほどの陽気でもあった10月4日、一休寺を後にした私達夫婦が訪れたのが、大和郡山城である。そこは、かつて豊臣秀吉の弟、秀長が治め、茶の湯を通して知る"赤膚焼"を開窯した地でもある(関連ブログ)。そういう茶の湯の繋がりもあり、赤膚焼の窯元と併せて、訪れてみようと思ったわけである。(右写真:大和郡山城・追手向櫓)さて、郡山という地は、金魚の一大産地として有名であることを訪れる直前に知る。市内、至るところに、金魚の養殖池(?)があり、この日もほんの一部ではあるが、秋の日差しに眩しく輝いているのを見るのである。しかし、私にとっては、何といっても甲子園の高校野球。最近では、その名を目にすることも久しくなった感もあるが、奈良の郡山高校と言えば、甲子園の古豪で試合巧者。私が子供の時分には、ベスト8、ベスト4にも良く顔を出していたのが懐かしい。そして、その郡山高校も、大和郡山城内にあることを知ったので、それもまた一つの楽しみとして、その地を訪れたのである。城址公園には、石垣や堀が残り、そして再建された櫓や塀、門などが立つが、近鉄電車に乗り、近鉄郡山駅にアプローチする際にも、車窓にその姿を目にする。駅に到着した時、時計の針は13時を回ろうという所であったが、足早に歩を進めた先には、昼食や喫茶する場所もなく、暑さによる喉の渇きと空腹に、家内には辛い思いをさせたものである。そこで、大和郡山城での時間は、家内を木陰で休ませ、私のみが城址内を精力的に歩くこととなったのである。興味あるものを目の前にすると、多少の渇きも空腹も我慢できるのであるが、さほどの関心も無ければ苦痛でしかなく、家内には後で謝ることしきりであった。ともあれ、家内を待たせた手前、大和郡山城址内を小走りに駆けたといった方が、正確のところかもしれない。そのため、大和郡山城に滞在したのは、30分ほど。しかし、この城のことを知れば知るほど、色々な繋がりが見えてきて、また面白い。前置きが長くなってしまったが、その発見した繋がりについて触れてみたいと思う。大和郡山城が築城されたのは、まさに信長全盛のころ。それまで大和の地を手中に収めていた、松永久秀を信貴山城に滅した時(こちら)、信長軍の先鋒として働いたのが、筒井順慶。その功あって、大和を治めることとなった筒井順慶がこの大和郡山城を築き、郡山が大和国の中心となるのである。その筒井順慶こそが、「元の木阿弥(もくあみ)」という言葉の起源。そのことを、最近、雑誌を読んでいて知るのであるが、それは、順慶がまだ幼少のころ、筒井家の当主が早逝したため、その事実を隠すために、当主に似た盲目の"同朋衆"、木阿弥を替え玉としたという話。しかし、順慶の成長著しく、わずか3年で木阿弥は替え玉としての役割を終え、元の木阿弥に戻ったということである。そういう話をこのタイミングで知るのも、また巡り合せであろうか。その順慶が城郭を完成させるのが1583年。しかし、何と翌1584年、35歳でこの世を去ると、1585年、羽柴秀長が大和郡山に入城するが、この時、大和・紀伊・和泉・伊賀の100万石余の太守という立場だったというので驚く。そして、さらに城郭が整備され、また赤膚焼もこの時、生まれたのであろう。しかし、入城してから6年後、秀長も50歳でこの世を去ることになる。秀吉の弟、秀長の死は、色々な意味で大きな痛手であったと言われているが、それは宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』の中でも、その人となりが述べられていることからも察せられる。もし、その死が無ければ、その後の朝鮮出兵、キリシタン弾圧、そして関白秀次粛清と言った、秀吉の暴挙も起こらなかったかもしれず、違った歴史が展開されていたかもしれないのである。 現在、目にする大和郡山城の石垣や堀、それは秀長が整備した時の遺構であろうか。外堀、そして内堀いは水を湛え(上写真:上右)、そして本丸・天守郭と本丸・二之郭とが対峙するかのように深く掘り込まれた内堀はまた壮観である(同:上右)。本丸・天守郭にある天守台(同:下)、その二段構えの石垣は、往時、大小天守閣があった証だろうか、あるいは天守閣に附櫓があった証だろうか。それは想像するしかない。天守閣の石垣の一角には、供養塔があるのが目に入り、お供え物もされていた。そこで見たのは、石垣の一部として、逆さに嵌め込まれたお地蔵さん『逆さ地蔵』。そこに、築城当時、何ふり構わず、石が集められてきたことを物語っている。そして、上った天守台には、雑草の中をバッタが跳ねる。そこに、「兵どもが夢のあと」的な、感慨さえ覚えたものである。さて、本丸・天守郭の中央に鎮座するのが、柳沢神社。そして、その祭神は、この地に何の所縁の無い柳沢吉保というのも不思議な感じでもある(下左)。しかし、それも国替え大名が、その祖を祭るという点では、珍しいことでもないだろう。元禄時代、徳川5代将軍綱吉に寵愛され、小姓の身から、大名にまで出世する、その柳沢吉保の生涯は、NHK大河ドラマ『元禄太平記(1975)』に石坂浩二が演じたことでも印象的である(関連ブログ)。その柳沢吉保の子、吉里が、甲府から大和郡山に移封されてきたのが、1724年。以来、この地は、柳沢家の城下町として6代147年、そして明治維新を迎えるということである。大和郡山の町を歩くと、まだ当時の街割りの面影というか、細い道が縦横に入り組んでいて、それらが失われずに残されているのに、何か懐かしささえ覚えるのであった。 大和郡山城をスピーディに堪能した私は、最後に、郡山高校の正門に立つと、甲子園で見た懐かしい校章、それを素早くカメラに収めた(上右)。そして、その影を外堀に落とす白鷺に見送られるように(上中)、待たせていた家内と共に、大和郡山城を後にしたのであった。
2009.11.07
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信貴山朝護孫子寺について、4回連載してきたが、城フリークとして、また茶の湯を志す者として、忘れてはいけないものがある。それは、信貴山山頂に本丸を持つ、信貴山城址。そこは、室町幕府の末期、織田信長が上洛するまで、畿内(近畿)における実力者であった、松永久秀の居城址である。(右写真:本丸址に立つ城址の碑)その松永久秀と言えば、梟雄(きょうゆう)。宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』の中にも、松永霜台(そうだい)こと久秀のことを、「その知力と手腕によって自ら家臣であるにもかかわらず公方様と三好殿をいわば掌握してしまいました。すなわち彼ははなはだ巧妙、裕福、老獪でもありますので、公方様や三好殿は、彼が欲すること以外なにもなし得ないのです。」と、記されている。時代は下克上。松永久秀は、14代足利将軍義輝を殺害し、主君、三好長慶(ながよし)一族を葬り、東大寺大仏殿にも火を放つ。そして、畿内の統治者となる。そして、当時、繁栄を極めた自由都市堺は、まさにお膝元。それは、千利休が生きた時代でもあり、三好長慶が開いた南宗寺(関連ブログ)を中心に、茶の湯も盛んだった時代である。そんな時代、松永久秀、自慢の名器の一つが、「平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜」。茶道具が政治的な取引や駆引きにも力を発揮した時代、千金積んでも手放さないとされた秘蔵の「平蜘蛛の茶釜」は、まさに松永久秀の欲望と権力の象徴だったとも言えようか。三浦綾子さんの小説『千利休とその妻たち』の中で、利休の後妻となる、美しき女性"おりき"に執心した久秀が、「平蜘蛛の茶釜」と引き換えに譲って欲しいと、利休に迫る場面がある。その垂涎の釜をちらつかされつつも、「おりきは平蜘蛛の釜の価しかしない女でござりますか」と、梟雄久秀に凄む利休、その場面は印象的である。しかし、久秀が畿内を治めた時代も長くは続かず、信長が15代足利義昭を奉じて上洛すると、その軍門に下る。そして所謂、名物狩りで、名器と名高い茶入れ、『九十九髪茄子(つくもなす)』を信長に献上すると、大和国を安堵される。しかし、信長が石山本願寺と雑賀(さいが)衆に手こずると、反旗を翻すのである。再び、畿内を自らの手にと思ったであろう、久秀であったが、結局、信長に攻められると、信貴山城に篭城。そして、攻める明智光秀、細川幽斎(関連ブログ)に、「平蜘蛛の茶釜」と引き換えに恭順を促されるのだが、死んでもそれを離すことはなかった。久秀は、「平蜘蛛の茶釜」と共に、自爆し、信貴山城も落城するのである。背景が長くなってしまったが、仲秋茶会を楽しんだ朝護孫子寺での時間、実はその日、信貴山城址を訪ねることはなかったのである。しかし、訳あって、日を改めて、再び朝護孫子寺を訪れると、家内を境内に残して待たせると、一人で信貴山山頂を目指し、駆け上がったのである。「600m20分」と標識に書かれた九十九折の坂道を、一気に駆けること10分。空鉢護法堂(くうはつごほうどう)のある山頂に辿り着いた。前回、ここでも述べた、信貴山縁起絵巻にある第一巻『飛倉巻』に由来する、空鉢護法堂。そこにある竜王の祠は、命蓮上人が教えを蒙った竜王。空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来するという。そこに至る参道、無数の赤い鳥居を、一体いくつ、くぐったものか、それはかなりの数であった(下左)。 空鉢護法堂からの景色(上右)は、大和と河内、その両国を手中に治めた、松永久秀も臨んだ景色でもあろう。その空鉢護法堂を少し下ったところ、当時本丸だったという山頂の地には、信貴山城址と記された石碑が一本(冒頭写真)と、説明板が立っていた。その説明によると、信貴山城の規模は、標高433mという地にあって、東西550m、南北700m、郭の数120以上というので、凄まじい。松永久秀の野望の跡は、現在でも、その遺構として、空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡を良く残しているという。しかし、秋の日差しを浴びた、明るい信貴山山頂に、平蜘蛛の茶釜と共に爆死した久秀の野望、その歴史と遺構が残されていようとは、とても想像に難い思いもするのであった。
2009.10.25
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この夏、27年ぶりに彦根城と安土城址とを訪れたことは、既に記したところであるが(こちら)、そのことが、私の城への想いに火をつけたようである。鹿児島への帰省の際に訪れた熊本城、そして八代城址を訪れた翌日には、場所を東海に移し、駿府城址を12年ぶりに訪ねる。(右写真:駿府城巽櫓と東御門、中堀)それは、8月最後の日、出張で静岡を訪れた時のこと。約3年ぶり3度目の静岡出張、過去には駿府城を訪れようという気を起こすこともなかったのであるが、この日はそれを頭に入れて静岡に向かったのであった。折りしも、台風の影響で、この日の朝、東京では激しい雨が降っていたが、静岡は幸いにも、全く無縁の天気であった。仕事を終えて静岡駅に戻ってきた時には既に17時になろうとしていたが、天気は良し。駅から徒歩圏内にある駿府城まで、約1時間の散歩をしてきたのである。駿府城については、昨年、このブログでも記したことがある(こちら)。しかし、最後に駿府城を訪れたのは1997年。その記憶は非常にあやふやで、当時のチラシを見ながら、漸く記憶を甦らせた次第である。そんな訳で、今回の駿府城は、その取り戻した記憶の確認を行い、脳裏に焼き付けるために訪れたとも言えよう。駅から歩き、最初に辿り着くのが、外堀と三ノ丸石垣の遺構。その遺構は、今では一部が残っているだけであるが、堀に沿って、大手御門へと歩く。と、そこで驚くべき光景を目にする。それは、先日、静岡で起きた強い地震で崩壊した石垣の痛々しい姿である(下左写真)。その近辺、三ノ丸に至る周囲の石垣にはロープが張られていて、注意を促していたが、さらには、中堀に面した巽櫓と二ノ丸御門の間の石垣にも崩壊(下右写真)があり驚いた。 地震の被害という点では、戦後の福井地震で越前丸岡城の天守閣が崩壊した例もある。しかし、徳川家康晩年の城、駿府城で石垣の崩壊を見ようとは、自然の力も侮れないものである。さて、そんな光景に驚きつつも、城を取り囲む中堀の周囲をぐるりと歩くと、「ここは、歩いたことがある」と、12年前に歩いただろう景色が重なってくる。そして、中堀にかかる橋、西門橋を渡り広い公園内を散策すると、目の前に広がる景色から、12年前の景色を重ね合わせようとする。「ああ、こうなっていたのか?」と、復習するかのようである。当時、再建されたばかりの、巽櫓、東御門の景色には、懐かしさを覚えたが、それを含め、城内の景色は当時と変わっていないようであった。公園となっている二ノ丸、本丸の跡地には、そこに、かつて城郭であったことを感じさせるものは殆どない。本丸跡に立つ、徳川家康の像とも、12年ぶりに再会するが、お変わりない。そんな公園内にあって、わずかに面影を見せるのが、ほんの一部の内堀の遺構、そして、特筆すべき、内堀と中堀とを繋ぐ水路の遺構である。水路の遺構については、昨年、このブログに記すに当たって、すっかり忘れていたのだが、写真を掘り起こす中で思い出されたのであった。実は、今回、それをしっかりと確かめることが、駿府城を訪れるに当たっての最大の関心事だったのである。 内堀は池のようになっていて、何とも物足りさを感じるのは拭えないのだが、そこに中堀からの水路が注ぎ込んでいる(上左)。本来ならば、本丸を囲むように水を湛えているべき内堀であるが、そんな面影さえない。それでも、水路だけは二ノ丸をジグザグに横切り(上中)、最後、中堀へと繋がっていたのである(上右)。今回、その水路の遺構を再確認できた点では、駿府城を訪れた甲斐があったというものである。が、同時に、駿府城天守閣再興、その道のりの困難さも痛感したのである。天守台はもとより、本丸の石垣や内堀も殆ど残っていない状況下、それは遙かなる夢なのかもしれない。
2009.09.28
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8月末、1人鹿児島に帰省した折、中学生の頃に修学旅行で訪れた、熊本城と水前寺公園とに立ち寄ったことは既に記したところである。しかし、もう一箇所寄り道した場所がある。それは、復路、新幹線の新八代駅から熊本空港へと向かうバスの待ち時間の合間に、立ち寄った、八代城址である。(右写真:八代城址の堀と天守台石垣)生まれてから学校を卒業するまで、鹿児島に住んでいた私にとっては、八代は身近な場所。県外に飛び出せば必ず通る八代の景色は、国道3号線、そして鹿児島本線と、車窓に幾度となく見た筈であるが、その街に下り、時間を過ごしたことはない。また、その地に、城址があることも知ってはいたが、そこに関心を持つことは無かったのである。その八代を訪れてみようと思ったキカッケは、やはり茶の湯だろうか。加藤清正に始まる加藤家2代が治めた肥後国に、豊前・小倉から転封されてきた細川家。その時、八代の地に入ったのが、利休七哲にも数えられる細川忠興である。八代城に入り、隠居した忠興は、この地で生涯を閉じるのであるが、これまで大徳寺高桐院、勝竜寺城址と忠興ゆかりの地を巡ってきた私は、最期の地を見届けたいとの思いを募らせたのである。そして、もう1つ、茶会を通して知ることとなる、八代焼(別名、高田焼(こうだやき))の故郷としての八代である。細川家の転封と共に、豊前小倉より連れて来た陶工が、その地に開いたのが、御用窯となる高田焼。それは、青灰色の地に象嵌(ぞうがん)の文様が特徴的であるが、小倉時代の御用窯、上野焼(あがのやき)とは一線を画するのが面白い。今回、高田焼窯元のある日奈久(ひなぐ)を訪ねる時間は無かったが、新八代駅の観光案内所でそれを目にしたのであった。さて、前置きが長くなったが、この夏、初めて訪れた八代城址。鹿児島の地から近くにありながら遠かった、八代城址には、現在、何の建物も残っていない。あるのは石垣と堀だけである。しかし、その石垣は、よく形を留めており、往時、その上に建っていたであろう門や櫓、そして天守閣など、その姿を彷彿とさせてくれ、またそれ取り囲む周囲の堀は、なみなみと水を湛え、夏の陽に輝いていたのである。現在の八代城址は、又の名を松江城とも呼び、加藤清正の子、2代忠広が築城したものであることを、この時、初めて知る。既に徳川幕府の時代、一国一城令の下、一国に一つの城郭しか築けない筈のところ、肥後国に熊本城と八代城と二つの城郭が置かれたのは、ひとえに薩摩への牽制の意味合いもあったようである。その八代城址は、当時の本丸がそのまま残っており、周囲を高い石垣がしっかりと囲っている。従って、周囲の堀は、内堀ということになろう。そして、その本丸は、決して小さくなく立派である。中央には、明治期に造営された、八代宮という懐良親王(かねながしんのう:後醍醐天皇の皇子という)を祀る大きな社が鎮座しているため、本丸全体を見渡すのは難しいが、本丸を囲む石垣の上に立てば、あらゆる方向から、その八代宮を見渡せるわけである。本丸を囲む石垣の上は、かつて櫓や塀が巡らされ、塀に設けられた鉄砲挟間や矢挟間からは、敵に対して武器を構える備えがいたのであろう。その周囲の石垣の幅は割と広く、散歩コース、市民の寛ぎの場となって、所々、堀を臨むようにベンチも置かれている。実際、ベンチに横になっている人もいたが、そこに全く柵の一つも無いのには、驚いた。端に寄ると、そこは内堀から立ち上がる石垣の上、10メートルほどはあるのではなかろうか、ちょっと危ない感じである。(下左:高麗門の石垣、下中:三階櫓石垣、下右:小天守石垣から月見二階櫓への石垣) 私は、その本丸を取り囲む石垣の上を3/4周ほど歩き、そして堀の周りも3/4周ほど歩き、トータルで城を一周したのだが、それも見事な遺構ゆえである。二つある枡形になった虎口(門)の石垣の遺構は堂々としていて、一旦、本丸石垣を下りると、門の外に歩いて出て、観察したものである。(下左:表枡形門(高麗門)、下右:裏枡形門(左)と天主閣石垣) しかし、特筆すべきは、裏枡形に隣接して立つ、天守閣の跡である。かつてそこにあった八代城の天守閣は、大天守と小天守の連立天守を構成しており、その構造は、何と名古屋城の天守閣を真似たものであるらしいのだ。2層2階の小天守閣、そして4層5階の大天守閣からなる天守閣は、肥後国第二の城郭としては、堂々としたものである。小天守閣から入り、連結された大天守閣に入るが、そこは天主台の石垣に囲まれた地階(穴蔵)に繋がる。それは確かに名古屋城の天守閣にアクセスするルートと同じだ。大天守閣の入り口を正面に上を見上げると、名古屋城の大天守閣が威圧するように聳えている。そんな光景が、ここ八代城においてもきっと見られたのではなかろうか。(下左:小天守跡より大天守の天守台と連結部、下中:大天守跡より小天守入口(若干崩壊)、下右:大天守跡より小天守と連結部石垣)思えば、名古屋城の大小天守閣の石垣を築いたのは加藤清正。名古屋城の本丸に加藤清正の像を見た記憶もある。そして、現在の地に八代城が築かれた時には、既に清正はいないが、その子忠広が父清正の威光をそこに再現したのであろうか。そう思うのである。そして、歩き始めてから約1時間、八代城址の石垣と堀が醸し出す美を目に焼き付けると、いよいよ帰路につくのであった。
2009.09.26
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