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伏見城本丸がある「桃山」の地名は、伏見城の廃城後に付けられた名前です。豊臣秀吉の時代には「桃山」の地名は登場していないので、「安土桃山時代」や「桃山文化」の呼称よりも、「安土伏見時代」や「伏見文化」の方が適切なようにも思います。それでも関西圏で「伏見桃山城」の名前が定着しているのは、やはり「伏見桃山城キャッスルランド」遊園地の影響でしょうか。伏見桃山城キャッスルランドはずっと以前、小学校の遠足で訪れたことがあり、天守が建っていたのを覚えています。キャッスルランドはすでに閉園となり、跡地は運動公園に変わっていましたが、天守などの城郭建築だけは残っていました。模擬大手門大手門横に建つ「伏見桃山城」の城跡碑大手門から中に入ると、キャッスルランドの面影は全くないものの、大天守と小天守はまだ建っていました。洛中洛外図屏風を基に外観復元された模擬天守ながら、5層6階の最上階には花頭窓が置かれ、いかにも桃山時代の天守です。(耐震基準を満たしていないため、中に入ることができません)この模擬天守を設計した人が誰なのかよくわかりませんが、注意して見てみると、ディテールにかなりのこだわりを感じました。天守の前には桝形虎口の石垣があります。(縄張のセオリーからすると、桝形は右折れになるのですが、ここは左折れになっていました)さらには付櫓のような門まで付いていました。それにしても付櫓に櫓門を備えている城郭は、これまで見た覚えがありません。実際に伏見城に天守は建っていたようですが、本丸や二の丸があったのは南側の桃山丘陵一帯で、現在は明治天皇の桃山陵となっているため、立ち入ることはできません。伏見城は1592年に豊臣秀吉の隠居場所として建てられ、指月城と呼ばれていました。1596年の慶長の大地震によって指月城が倒壊すると、桃山丘陵のある木幡山に新たに伏見城が築城されました。1598年に豊臣秀吉が伏見城で死去すると、留守居として徳川家康が入城してきました。1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦では、島津義弘軍の攻撃によって、伏見城は落城しました。よく知られているエピソードですが、この時島津義弘は東軍につく目的で伏見城に入城しようとしていました。しかしながら徳川家康配下の守将鳥居元忠にその情報が伝わっておらず、島津軍は伏見城入城を拒否されたため、やむなく伏見城を攻撃して西軍についた経緯があります。関ヶ原の戦い後の1602年、徳川家康によって伏見城は再建され、1603年には征夷大将軍宣下が伏見城で行われました。しかしながら1615年の一国一城令で、京都は二条城を残したため、伏見城は廃城となっています。廃城後、伏見城の城郭建造物は、各地に移築されました。特に福山城には多くの建造物が移築され、うち伏見櫓と筋鉄門が現存しています。福山城伏見櫓(現存、国指定重要文化財)(2008年8月)解体修理した際に発見された墨書から、伏見城松の丸東櫓を移築したことが判明しました。筋鉄門(現存、国指定重要文化財)伏見城からの移築とされていますが、確証はないようです。
2018/01/19
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京阪伏見桃山駅から続く通りには「大手筋通り」の名前が付いており、この道が伏見城に至る大手筋でした。大手筋に建つ御香宮神社の鳥居御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を移築したと伝えられています。表門(移築現存、国指定重要文化財)御香宮境内に入って見ると、伏見城石垣石の残石が置かれていました。伏見城の石垣に使われていたようで、矢穴(ミシン目)も残っています。豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、御香宮神社は伏見城の鬼門除けとして、本丸の北東に移されました。1605年には徳川家康によって現在の場所に戻され、境内には徳川家康によって造営された本殿が現存しています。本殿(国指定重要文化財)御香宮の土塀脇には史跡案内板があり、見てみると「『黒田節』誕生の地」とありました。黒田長政の家臣である母里太兵衛が、福島正則の屋敷を訪れた際に何杯も酒を飲み干して、約束通りに名槍「日本号」を福島正則から貰い受けたという逸話です。(なぜかこの手のエピソードには、福島正則がちょいちょい絡んできます)黒田長政や黒田節と言えば福岡博多のイメージが強いのですが、実は黒田節の発祥は京都伏見だったようです。実際の福島正則の屋敷は御香宮より北にあったようで、現在も「桃山福島太夫南町」などの地名が残っています。伏見城の大手筋近くには、他に「桃山毛利長門西町」(毛利輝元)、「桃山長岡越中北町」(細川忠興?)、「桃山三河」(徳川家康)など、かつての大名屋敷跡と思われる地名が多く残っていました。戦国時代には争い合っていた武将たちも、豊臣秀吉の統一政権の伏見城下では、屋敷を並べて仲良く住んでいたようです。
2018/01/18
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二条城本丸は周囲を内堀で囲まれ、虎口には櫓門が建っていました。本丸櫓門(現存、国指定重要文化財)本丸櫓門(城内から見たところ)本丸にも庭園があり、明治29年(1896年)に明治天皇の指示によって造られた庭園です。本丸庭園本丸には1626年に伏見城から天守が移築されましたが、1750年の落雷によって焼失してしまいました。以後は再建されておらず、現在は天守台だけが残っています。天守台と内堀天守台には登ることもでき、天守台からは本丸内がよく見渡せました。天守台から見た本丸御殿天守台から見た西門(桝形が残っています)本丸に建つ御殿は、京都御所の北隣にあった桂宮家の御殿の一部が移築されたものです。本丸御殿(国指定重要文化財)14代将軍徳川家茂と和宮親子内親王の婚姻、いわゆる和宮降嫁の時、和宮が江戸に向けて出立したのもこの御殿でした。その本丸御殿の玄関は、なぜか櫓門と反対側にありました。徳川家康が征夷大将軍就任の祝賀を行った二条城は、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮った場所でもあります。二条城の歴史は、徳川将軍家の栄枯盛衰の歴史だと言えるでしょう。日本城郭協会「日本100名城」ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2018/01/17
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慶長の一国一城令や明治の廃城令による破却、自然災害や太平洋戦争の戦災による消失、そして戦後の都市整備を生き抜いてきた城郭は、本当に数少ない存在です。かつては数万もあったとされる中世の戦国城郭については、それこそ戦国時代を生き抜いてきたため、曲輪や土塁・空堀跡の遺構が一部でも見つかればまだいい方です。(それだけに戦国の城跡ハントには駆り立てられるものがあるのですが)近世城郭について言えば、石垣が残っているのも貴重なほどで、櫓や門などの建造物が1つでも残っているならば、希少な存在かと思います。二条城については築城時の建造物が数多く残っており、二の丸から本丸へ至る途中にある門は、いずれも建造時から現存しているものです。北中仕切門(内側)1626年の行幸時に建てられたもので、重要文化財に指定されています。反対側には南仕切門が対で立っており、こちらも現存建造物です。本丸の虎口近くには、二つの門がやはり対で建っていました。鳴子門(内側)城郭ではあまり見ないのですが、四脚門形式です。鳴子門と対になって本丸を防御しているのが桃山門です。桃山門(現存、国指定重要文化財)こちらも城郭では珍しい長屋門形式です。城郭に現存する長屋門を見たのは岩槻城以来でしょうか。さらには土蔵なども現存していました。土蔵(北)(現存、国指定重要文化財)やはり1626年の行幸時から現存する建造物で、城郭で土蔵が残っているのは二条城だけでしょうか。400年前から残る建造物がこれだけ多く現存していると、感覚が麻痺してしまいそうです。
2018/01/16
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二の丸の周囲だけでも多くの建造物が現存しており、これだけでも見ごたえは十分なのですが、二の丸の中はさらに圧巻でした。二の丸の唐門と築地(国指定重要文化財)1626年の行幸時に建てられたもので、唐破風を備えているため、唐門と呼ばれています。唐門日本の城郭建築の中で、御殿が現存するのは川越城・掛川城・高知城と二条城の4城しかありません。そのうち二の丸御殿が現存するのは掛川城と二条城だけですが、二条城の方は別格かも知れません。二の丸御殿「遠侍及び車寄」(国宝)二の丸御殿は、遠侍及び車寄・式台・大広間・蘇鉄之間・黒書院・白書院の6棟がつながっており、いずれの建物も国宝に指定されています。二の丸御殿は中に入って見学することもできますが、内部は撮影が禁止されていました。二の丸御殿は1603年に徳川家康によって造営され、その後1626年の御水尾天皇の行幸に備え、徳川家光によって現在の姿に改造されています。建造物もさることながら、狩野探幽など狩野派の障壁画も当時のままに残っていました。二の丸庭園に回ってみると、外から二の丸御殿を見ることができます。奥から遠侍及び車寄・式台・大広間(いずれも国宝)大広間第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮ったのも、この大広間でした。(内部は人形によってその様子が再現されています)武士による封建制度が終わりを告げ、日本の歴史も中世から近世へと移り変わった瞬間を、リアルに見ているような感じでした。白書院(国宝)二の丸御殿の最も奥にあり、将軍の休息所や寝所となっていた場所です。二の丸御殿に面しているのが二の丸庭園で、作庭の名手として知られる小堀遠州(小堀政一)の作事です。桃山様式の池泉回遊式庭園です。二の丸庭園と大広間ところで二条城の二の丸御殿と言えば、鴬張りの廊下で知られています。現地の解説板にはその仕組みが図入りで書かれていました。外部からの侵入者に備えるためとばかり思っていたのですが、その解説板によると築造当初はその意図はなく、経年劣化によって自然と音が鳴るようになったとのことです。
2018/01/15
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京都に住んでいる頃、何度も前を通りながら、訪れたことがなかったのが二条城です。二条城は二の丸と本丸だけの輪郭式の縄張となっており、二の丸は外堀で囲まれています。二条城外廻絵図東側の外堀二の丸に建てられた隅櫓のうち、東南隅櫓と西南隅櫓が現存しています。東南隅櫓(国指定重要文化財)東南隅櫓(城内から見たところ)二条城に限ったことではありませんが、隅櫓は城外と城内で外観が全く違ってきます。やはり隅櫓は城外から見るのが一番でしょうか。二の丸へ入る門としては、東大手門・北大手門・西門・南門があり、大正時代になって造られた南門以外は、いずれも現存しています。北大手門(国指定重要文化財、城内から見たところ)1603年の築城時からここにある門ですが、現在の姿は築城時のものか、1626年の行幸時に改築されたものかについてはわかっていません。門の先には京都所司代があり、その連絡門として使われていたようです。東大手門(国指定重要文化財)築城時からこの場所にありますが、1626年の行幸時に建てられた後、1662年に改修されて現在の姿になりました。現在は東大手門のみ通行可能となっており、東大手門を入ったすぐ右側には番所がありました。東大手門と番所(城内から見たところ)番所(現存)二条城には9棟の番所がありましたが、現存しているのはこの東大手門の番所だけです。また、番所が現存する城郭は久保田城・江戸城・掛川城・丸亀城しか記憶になく、いずれも日本100名城に選ばれた名城ばかりです。
2018/01/14
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ラーメンの激戦区となっている一乗寺・北白川界隈、ここは宮本武蔵の決闘の地でもありました。宮本武蔵の決闘では巌流島があまりにも有名かと思いますが、「一乗寺の決斗」は小説や映画でも取り上げられており、その舞台となったのが「一乗寺下り松」です。一乗寺下り松現在の松は四代目で、その横には「宮本 吉岡 決闘之地」の碑が建っていました。現地の解説板によると、ここは近江から比叡山を経て京に至る交通の要衝で、一乗寺下り松は旅人の目印となっていたそうです。アスファルト舗装道を挟んだ向かい側には、かつての道標が残っていました。宮本武蔵が吉岡一門と決闘するにあたり、戦勝祈願を行った場所が八大神社でした。八大神社鳥居参道はアスファルト舗装されていますが、ここから300mほど行った場所に本殿があります。八大神社にあるイラスト(やはり二刀流です)そう言えば、一乗寺から叡山電鉄で鞍馬に行く途中には、マンガ学部で知られる京都精華大学があります。八大神社の境内には、一乗寺の決闘の時に植えられていた「一乗寺下り松」の古木が祀ってありました。その一乗寺下り松の前に立つのが、二刀流の宮本武蔵像です。子供の頃に剣道を習っていたことがあるのですが、個人的には千葉周作の北辰一刀流(赤胴鈴之助)が好きです。ところで、一乗寺下り松の「宮本 吉岡 決闘之地」碑の横には、もう一つ碑が建っていました。「大楠公戦陣蹟」碑傍らにある碑文を要約すると、足利尊氏と楠木正成がここで対陣し、楠木正成軍が足利尊氏軍を追撃したとあります。「太平記」の世界では、足利尊氏は九州から瀬戸内海を海路で進軍しており、楠木正成の相手は足利尊氏ではなく、陸路で進軍してきた尊氏の弟、足利直義でした。さらにその舞台は京都一乗寺ではなく、兵庫湊川です。宮本武蔵が一乗寺で戦った吉岡一門は、「扶桑第一之兵術」として代々足利将軍家の師範役でした。もしかしたら「一乗寺の決闘よりもずっと前、すでに楠木正成が初代足利尊氏とここで戦っていた」というシャレなのでしょうか。(まさかこれが史実ならば、桜井の訣別とかって、一体何だったんだろうって話です)関連の記事巌流島(2011年4月)→こちら宮本武蔵全一冊合本版【電子書籍】[ 吉川英治 ]
2018/01/13
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アメリカ合衆国のお客さん達を連れての京都視察、2日目は終日京都滞在だったのですが、意外と時間が押していました。予定を変えて二条城をパスして、金閣寺の後に向かった先はすぐ近くの龍安寺です。金閣寺では多くの人でごった返していたのですが、龍安寺はあまりにもひっそりとしていました。庇に残雪を残す石庭配された15個の石を、どこから眺めても14個しか見えないというのは有名な話です。実は15個が見える場所が一ヵ所あって、タクシーの運転手さんがその場所を密かに教えてくれたました。それでも運転手さんによると、その前にアメリカからのお客さんが見つけてしまっていたとのことです。(この運転手さん、金閣寺までは日本語しか話さなかったのに、龍安寺では急に英語を話すようになりました)石庭に対し、全く石が使われていない庭園、これこそ「陰と陽」だそうです。(英語で説明してくれて、助かりました)蹲踞方丈の襖絵「少なくとも清水寺と金閣寺だけは見てもらおう」と思っていた自分が本当に恥ずかしかったのですが、アメリカ合衆国の人たちは真剣に一つ一つの意味を理解し、興味を持って楽しんでくれていました。鏡容池回遊式庭園を説明する前に、「ここを歩きたい」と言ってくれました。勅使門その名の通り、一般の人はここを通れません。エリザベス女王が来日した時、龍安寺の石庭を強く希望され、その時はここを通られたそうです。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2017/02/08
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北山鹿苑寺の舎利殿などと言うと、野暮ったくなるのでしょうか。訪れた時は天候も時刻もバッチリで、西日を浴びた金閣が鏡湖池に映えていました。風があると水面が波打って、なかなかうまく映らないそうです。ということで、上の画像を上下逆にしていました。この日私たちを案内してくれたジャンボタクシーの運転手さんは、4日連続で金閣寺を訪れているとのことでしたが、こんな時は滅多にないそうで、自分用に写真を撮っていたほどです。ところでこの日は春節休みの前日とあって、中華系の人たちで溢れかえっていました。順路に従って流れて行く中、金閣の後は足を止める人はほとんどいません。それでも”So Cool"と言って、方丈の前で足を止めてくれたのは、アメリカ合衆国からのお客さん達です。方丈ジャンボタクシーの運転手さんによると、方丈の松は一本の木でできているそうです。どっちがお客さんかわからなくなって来たのですが、運転手さんの説明に聞き入ってしまい、アメリカ合衆国からのお客さん達に説明するのを忘れてしまっていました。旧西園寺邸のあったところそう言えば、金閣は一休さんの「将軍様」が住んでいたところでした。日本の歴史上、初の征夷大将軍となった人は4名坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、徳川家康。うち3名が軍事政権である「幕府」を開設しており、朝廷のある京都に幕府を開いたのは足利尊氏だけだったということは、特筆すべきかも知れません。巌下水足利義満が手洗いに使ったそうです。竜門滝落差は2メートルあまりですが、鯉が竜に変わる「登竜門」に因んでいます。「日本でも竜と鯉は因縁が深く、野球でもナゴヤドラゴンズとヒロシマカープがあって、こちらは仲が悪い」などと、そんな話をしていたように思います。夕佳亭江戸時代の建物で、「夕日に映える金閣が殊に佳い」ことからこの名前が付いています。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2017/01/27
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京都滞在2日目は、「ティー・パーティー」すなわちお茶会の後、レンタルショップで全員着物に着替えて出かけることにしました。聞けば前日に清水寺を訪れた時、着物を着て歩いている人たちが気になっていたそうです。アメリカ合衆国からのお客さん達もそうですが、私も着物は初めてです。着物を選ぶ時に歌舞伎役者をイメージしたのですが、いざ着てみると、「落語家みたい」と言われる始末でした。それにしてもテキサスのおじさんやおばさん達の着物姿は迫力があって、みんなで四条通りを歩いていると、かなり目立っていました。四条通から花見小路を歩きつつ、目指す先は東山通りと四条の交わる祇園交差点、八坂神社です。京都赴任時代、枝垂桜を見に円山公園へは行ったことがあるのですが、八坂神社を訪れた記憶がなく、もしかしたら初の八坂神社かも知れません。八坂神社では皆で手水で清めた後、拝殿へとやってきました。「アフター シェイキング ザ リングス、ツー ボウズ、ツー クラップス…」などと、下手な説明でしたが、興味を持ってマネしてくれていました。非常に好奇心旺盛な人たちだったので、案内している方も甲斐がありました。つらい思い出ばかりの京都でしたが、ようやくそのわだかまりも解けたような気がします。
2017/01/26
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アメリカ合衆国からお客さん達が来ることになり、京都を案内することとなりました。京都までの道中、日本が誇る東海道新幹線の車窓からは、三島付近で富士山が見えたかと思うと、関ケ原付近では一面の雪景色だったりして、なかなか興味深かったようです。(何よりもあの速度にびっくりしていました)実は銀行員時代の初任地が京都で、当時はつらい思い出が多かったこともあり、以来京都を訪れたことはありませんでした。本当に久しぶりの京都で泊まる場所は、麩屋町三条の「炭屋旅館」です。「テラ・ゴコ・フヤ・トミ・ヤナギ・サカイ…、アネ・サン・ロッカク・タコ・ニシキ…」と、久々ながらも通りの名前は憶えていました。(京都で仕事をするには、通りの名前を知らないと話になりません)旅館に着くと、早速京都を散策することにしました。錦小路の市場を東へと歩いた後は木屋町通りを上がり、川端三条からはタクシーに乗って、まずは清水寺に向かいました。春節とあって、中国語ばかりが聞こえてきます。京都赴任時代は東山七条に住んでいたこともあり、清水寺のある東山五条はおなじみの場所だったのですが、清水寺そのものを訪れたのは1回だけだったと思います。それでも毎日のように眺めていた東山の景色には、何となくノスタルジーを感じます。随求堂いちいち英語で説明するのは大変なので、英語で書かれた説明文を渡すと、「胎内めぐり」には興味津々でした。拝観料が必要だと説明すると、「他の人と同じように、すでに払った」とのことです。実は払ったというのはお賽銭で、"That was for Buddha, this is for the temple"などと、訳のわからない事態になりました。ところで「借景」については、どのように説明すればよかったのでしょうか。借景を上手く説明できたら、マクドナルド他の看板の色が違うのも説明できたと思います。初来日の人から日本を見ると、意外なところに興味が向いていたりして、なかなか刺激的な旅行となりました。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2017/01/25
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佐和山城を訪れた後に彦根城を訪れると、中世から近世へタイムスリップしたような印象さえ受けました。例えて言うならば、囲炉裏やかまど等を備えた古民家の隣りに、鉄筋コンクリート造りで電化された現代住宅が建っているような感じがします。もちろん佐和山城と彦根城の間に優劣をつけている訳ではなく、佐和山城には戦国城郭としての遺構がよく残っていますし、彦根城には近世城郭の遺構がよく残っていて、他の城跡に比べても当時の城郭の姿が鮮明に蘇ってきました。石田三成の佐和山城と井伊直政の彦根城、それでも築城時期には20年ほどの違いしかなく、その間に築城技術が格段に進歩したとも思えません。佐和山城と彦根城の違いをずばり言うと、「築城の目的が全く違う」ということに尽きると思います。関ヶ原の戦いと徳川家康の江戸幕府開府、この2つの出来事が間に起きたことにより、同じ彦根に築かれた城郭でも、城郭としては全く違ったものが出来上がっていました。徳川家康との戦いを意識して、軍事拠点として築かれた佐和山城に対し、天下泰平が成立しつつある中、政治経済の拠点として築かれた彦根城では、自ずと城郭の姿も違ってくるかと思います。佐和山城と彦根城に優劣はないと言いましたが、強いて言うならば軍事拠点としては中世城郭の佐和山城、政治経済の拠点としては近世城郭の彦根城に利があると言ったところでしょうか。その彦根城の本丸には、近世城郭の象徴でもある天守が現存しています。現存12天守の1つであり、姫路城・松本城・犬山城の天守と共に国宝4天守の1つでもあります。彦根城の天守を改めて眺めてみると、中世から近世への過渡期というか、なんだか煮え切らない印象もありました。彦根城の天守が完成したのは1607年だとされていますが、軍事的には最後の拠り所のような役割を担いつつも、天下泰平の領主の象徴でもあり、言わばどっちつかずの天守だと思いました。天守の右脇を抜けるとさらに門があり、埋門形式の門となっていました。黒門どう見ても有事の際の脱出口ですが、ここが搦め手だと思われます。(それにしても伊予松山城に縄張りがよく似ています)天守で遮られて危うく見失うところだったのですが、本丸には天守の奥にも曲輪が広がっていました。本丸より広い「西の丸」の曲輪です。西の丸には三重櫓があり、こちらも現存していて国の重要文化財に指定されています。天守には登らなかったものの、この三重櫓には登ってみました。石田三成の佐和山城がよく見渡せます琵琶湖方面この三重櫓では井伊直政の重臣である木俣守勝が政務を行っていたとされています。「木俣」と言えば、彦根から遠く離れた上州箕輪城、この2ヶ月ほど前に訪れたその城跡に「木俣」の名前を冠する曲輪があったのを覚えています。徳川家康の関東入封に伴い、北の抑えとして井伊直政が城主として入城していたのが箕輪城で、奇しくも上州高崎と江州彦根がここでつながりました。西の丸を後にして再び本丸を通ると、今度は大手口へと下りて行きました。大手橋意外と地味な大手口ではありますが、大手口の水堀も残っていました。総石垣ではなく腰巻土塁になっているのは驚きでしたが、石垣を築く技術や財力がなかったとも思えません。おそらく戦国城郭の土塁と近世城郭の石垣と、合わせてみるとこんな感じになるのでしょうか。それにしても井伊直政の城主としての変遷には、同情という言葉もぬるく聞こえるほど、心中を察するに余りがあります。徳川家康の関東入封後、家臣では最高の12万石で城主となったものの、その城は上州箕輪城でした。元々は長野業政の本拠地であった箕輪城は、武田信玄をしても攻め切れなかった難攻不落の城でしたが、戦国時代バリバリの中世山城でした。その後は平地である和田に本拠地を移し、地名も高崎と改めて築いた高崎城は、遺構こそ残っていないものの、関東でも類を見ないほどの近世城郭です。そして関ヶ原の戦い後、交通の要衝である江州彦根に移封となりますが、その居城はかつての石田三成の本拠地である佐和山城でした。中世城郭である箕輪城からせっかく近世の高崎城を築いて移ったと思ったら、再び中世の佐和山城ではたまったものではありません。さらに佐和山城はかつての敵である石田三成の居城とあって、新たに築城を決めたのが彦根城でした。最後に近世城郭にたどり着いた井伊直政でしたが、関ヶ原の戦いでの傷が元で、彦根城の完成を見る前にこの世を去っています。彦根駅前の井伊直政像
2013/11/10
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彦根城の表門を通り、表山道を登って本丸方面へ向かうと、目の前に高石垣が現れてきました。天秤櫓の石垣随分と見上げる感じですが、西日本ではこのクラスの石垣は当たり前なのかも知れません。「登り石垣」と呼ばれる石垣の合間から東の方を眺めると、佐和山城のピラミダルな山容が見えていました。彦根城から眺めると、勝者の城から敗者の城を見ている感があります。表門から本丸へは直登できない縄張りとなっており、天秤櫓の堀底道(?)を経由した後、一旦反対側の「鐘の丸」の曲輪を通って、さらに引き橋を渡って行くことになっていました。本丸と鐘の丸の間にある堀底道を通り、廊下橋の下をくぐって行きます。本丸へ行くには、反対側にある「鐘の丸」の曲輪を通らなければなりません。「鐘の丸」の虎口鐘の丸の曲輪でUターンした後、今度は廊下橋を渡って天秤櫓をくぐって行きました。廊下橋と現存する天秤櫓(国指定重要文化財)天秤櫓の櫓門(内側の本丸側から見たところ)天秤櫓を抜けた先には、「時報鐘」とその横に「聴鐘庵」が並んでいました。時報鐘元々は「鐘の丸」にあったもので、「鐘の丸」の名前もこの鐘に由来していると思われます。時報鐘は「日本の音風景百選」にも選ばれており、その隣には「聴鐘庵」の茶室がありました。聴鐘庵読んで字のごとくだと思います。天秤櫓を抜けた後も高石垣が続き、本丸へ向かう途中にはさらに太鼓門櫓が建っていました。太鼓櫓の石垣ガイドの方の話が聞こえてきて、聞けば彦根城は7ヶ国11名の大名による「天下普請」で築かれたとのことでした。しかしながら江戸城や名古屋城、駿府城のような刻印が見当たらないため、天下普請と言うよりは、他の大名が手伝ったという方が近いかも知れません。太鼓門櫓の石垣それにしてもこの石垣や本丸の縄張りを見ていると、伊予松山城によく似ています。本丸の虎口にある太鼓門櫓も現存するもので、こちらも国の重要文化財に指定されています。太鼓門を通ると、いよいよ本丸へと入って行きます。
2013/11/09
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「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」とは言いますが、同じく城でもつのが近江彦根かも知れません。「治部少に過ぎたるものは二つあり 島の左近に佐和山の城」の佐和山城と、現存天守を戴く彦根城と、中世城郭と近世城郭の名城が相対する貴重な土地柄だと思います。佐和山城が彦根駅の東側にあるのに対し、彦根城は東海道本線をはさんで反対側、彦根駅の西側にあります。彦根駅前にある井伊直政像彦根駅から彦根城を目指して行くと、彦根城の天守が顔をのぞかせる小高い丘陵が見えてきて、丘陵の麓には神社らしき鳥居がありました。神社の境内入口でありながら、これが虎口の跡ように見えるのですが、入口に架かる橋から見ると、明らかに近世城郭の水堀跡でした。二の丸佐和口の虎口までは中堀が残っており、かつて沿道には47本の「いろは松」が並んでいたようです。いろは松現在は33本が残っているそうです。いろは松の反対側には井伊直弼の歌碑もありました。井伊大老歌碑彦根では石田三成と井伊直弼が高く評価されている印象で、井伊氏と言えば初代井伊直政ではなく、井伊直弼の名前が挙がってきます。いろは松の沿道を過ぎた先には、いよいよ二の丸佐和口の多聞櫓が見えてきました。二の丸佐和口多聞櫓(重文)江戸時代中期の1771年に再建され、現存する櫓門です。多聞櫓の枡形虎口佐和口の虎口前には「馬屋」があり、こちらも元禄時代から現存する建物です。馬屋(重文)当時は藩主用の馬が常に十数頭つながれていました。二の丸まででこれほどの遺構が現存しているとは、なかなか先が楽しみな彦根城ですが、勿体ぶるかのようにゆっくりと表門を過ぎて行きました。表門橋表門の先にある管理事務所ひこにゃんの登場時間が書かれていましたが、あいにく会うことはありませんでした。表門から続く山道を登ると、いよいよ本丸へと向かうことになります。思えば一か月以上記事を更新していませんでしたが、これからは少し頻度を上げて行きたいと思います。
2013/11/08
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佐和山城のある佐和山から旧中仙道の方に下りてくると、国道8号線の向こう側に五重塔や天守などが出現しました。「彦根歴史公園」の看板があり、入園は無料とのことですが、彦根の観光マップにも載っていないため、B級スポットかと思っていました。最初は見てはいけないものを見てしまったような感じがあったのですが、後で聞いたところによると、これらの建物は地元の実業家が長い年月をかけ、私財で建てたものだそうです。(「佐和山遊園」と書かれた看板もあり、その下に財団法人佐和山三成会と書かれていました)復元天守の模型佐和山城には五層の天守が建っていたようですが、想像していた天守の姿とは違っていました。(石田三成の性格からすると、塗籠の白い天守ではなく、実戦的な下見板張りの黒い天守を想像していました)石田三成の屋敷?石田三成の部屋外観はともかく、内装は意外と地味な感じがします。佐和山城を訪れて一番に思ったことは、佐和山の西側と東側で、城郭が大きく異なるということです。西側の龍潭寺をスタートして本丸を目指している時、さほど堅固な印象はなく、むしろ途中に旧街道が通っていたりして、戦国城郭という印象はありませんでした。しかしながら東側の遺構を見ると、稜線に曲輪が幾重にも配されていたりして、まさに戦闘拠点として機能していたと思われます。当時は佐和山城のすぐ西側に琵琶湖の湖岸があって、石田三成や島左近の屋敷も佐和山城の西側山麓にあったようです。石田屋敷跡佐和山城の西側といえば伏見城や大阪城、西側を防衛する必要もなく、むしろ行政面での利便性が求められたように思います。一方で佐和山城の東側には、石田三成が最も敵視をしていた徳川家康がおり、佐和山城が京都・大阪の東側の抑えとして機能していたことがうかがえます。全体的な佐和山城の印象としては、石田三成の性格にも因るのでしょうが、プラグマティズムというか、実利を追い求めるとこんな城郭になるのか、といった感じです。
2013/10/31
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佐和山城の本丸は、佐和山の山頂標高232mのところにあります。本丸にある城址碑石田三成時代の本丸は、有事の時の詰丸のような存在だったのかも知れませんが、戦国山城の本丸のような感じでした。本丸の曲輪から西の方角を眺めると、彦根城の城郭の向こうに琵琶湖を望むことができました。本丸から先にも道がついていたため、大手の方に下りてみようと思い、南東側の稜線をたどって行くことにしました。本丸の大手側には、枡形虎口のような跡も残っています。中世城郭の色が強い佐和山城ですが、土塁には石垣が積まれていたようで、本丸南東側には隅石の跡が残っていました。さらに本丸南西側には「千貫井」と名付けられた井戸があり、今も水が湧き出ていました。まさに千貫に値する貴重な水の手だったようです。佐和山城のハイキングコースは千貫井までとなっており、コースマップでは再び龍潭寺に引き返すようになっていたのですが、その先にも道があったので行ってみることにしました。南東側の稜線から支脈が二手に分かれ、それぞれの支脈上に「太鼓丸」や「法華丸」の腰曲輪が配されているようです。東側に延びる支脈をたどり、太鼓丸から大手方面に下りようと思ったのですが、だんだんと道がわかりづらくなって来て、ついに太鼓丸の腰曲輪で行く手を阻まれてしまいました。仕方がないので支脈の分岐点まで戻ることにしたのですが、コンパスを持っていない上に、曇天で太陽も出ていないので、方角の見当がまったくつきません。龍潭寺まで来た道を戻るのが無難なところですが、「旧中仙道の街道筋が近いはず」と、今度は法華丸の方へ稜線を下りて行きました。法華丸から続く腰曲輪またもや行く手を阻まれてしまいました。けもの道ともわからない踏み跡を見つけ、半ば強引に下りてみると、竹林を通って旧中仙道の方に下りる道が現れてきました。鬱蒼として暗い道をたどると、急に目の前が開けてきて、ようやく佐和山から脱出です。すぐ前を国道8号線が通っていて、国道の向こう側にはなんだか異様な光景が広がっていました。
2013/10/30
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治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城JR彦根駅から見た佐和山城彦根城とは反対側の東側コンコースの窓にあるのですが、石田三成の旗印と佐和山城、何ともセンスあふれる演出だと思います。石田三成と島左近、そして佐和山城については、司馬遼太郎さんの「関ヶ原」の最初の方に詳しく書かれているので、一読されてはいかがでしょうか。司馬遼太郎さんと同じく、佐和山城の搦め手から登城することにして、まずは龍譚寺に向かいました。現在の佐和山城はハイキングコースになっていて、彦根駅で入手したパンフレットによると、龍譚寺がスタート地点になっています。彦根駅からは徒歩でも25分ほどの距離なのですが、タクシーを利用することにしました。年配の運転手さんに「佐和山城に行きたいので、龍譚寺までお願いします」と言うと、「お客さん、石田三成のファンかいな?」とのこと。後で訪れた彦根城でも、観光ガイドの方に不思議そうに聞かれたのですが、どうやら先に佐和山城に行く人は石田三成ファンのようです。個人的に石田三成は興味深い人ではありますが、いまだに「不思議ちゃん」で、「ファンではないものの、決して嫌いではない」といったところです。そんなこんなで佐和山城の搦め手にある龍譚寺まで来たのですが、彦根の龍譚寺を訪れるのは初めてながら、龍譚寺そのものは2回目です。彦根の龍譚寺最初に訪れた龍譚寺は静岡県浜松市天竜区、井伊氏発祥の地であった井伊谷にある浜松の龍譚寺(井伊氏菩提寺)でした。徳川家康の関東入封に伴って、井伊直政が入城したのが箕輪城(群馬)で、近世城郭の高崎城を築城して本拠地を移した後、関ヶ原の戦い後に再び本拠地を移したのが佐和山城です。龍譚寺の境内脇に佐和山城への登城道があり、搦め手の急な斜面を登って稜線近くまで行くと、ようやく虎口のようなものが見えてきました。搦め手虎口?さらにその先には鞍部があり、古地図にある「かもう坂往還」の切通にやって来ました。これまで龍譚寺からたどって来た道が「かもう坂往還」で、琵琶湖方面から中山道に抜ける脇街道だったようです。それにしても搦め手とは言え、城郭のすぐそばに脇往還を通すあたり、やはり石田三成はただ者ではないかも知れません。ところで搦め手を見る限りでは、非常にオーソドックスな縄張りといった印象で、特にトリッキーな感じはありませんでした。西の丸の土塁搦め手にある塩硝櫓跡名前からして武器庫と食糧庫があったと思われますが、当然ながら搦め手に配してあります。塩硝櫓の曲輪からは東側が見通せるようになっており、物見櫓も兼ねていたのかも知れません。本丸から続く稜線上には腰曲輪がいくつも配されていて、その跡もよく残っていました。西の丸の曲輪山頂にある本丸を中心として、周囲の稜線上に腰曲輪いくつも配するあたり、毛利元就の吉田郡山城を思い出しました。西の丸の堀切石田三成は武将というより官吏といったところですが、これだけの城郭を造ってしまうあたり、やはり豊臣秀吉の直参だけのことはあります。(もっとも築城技術に関して、「西高東低」は否めないところですが)西の丸からは再び急斜面となり、本丸の土塁をくるりと回ったところで、本丸の曲輪に到着しました。本丸には一段と高くなった場所があったのですが、天守台だったのか知れません。佐和山城復元天守(模型)天守台は現在の彦根市街地を見渡せる場所にありました。私の理解する限りでは、石田三成は無益な天守など建てるはずがないと思っていたので、これは意外な感じがします。数々の城跡を見てきた経験から言うと、城郭の縄張りには築城主の性格や考え方みたいなものが見えてきて、それもまた城跡めぐりの醍醐味の一つであります。しかしながら佐和山城を見る限りでは、石田三成の性格がさっぱりわからず、やっぱり「不思議ちゃん」でした。龍譚寺にある石田三成像【送料無料】関ヶ原(上巻)改版 [ 司馬遼太郎 ]
2013/10/29
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