1
今治から来島海峡を隔てた大島の北東側、沖合いに浮かぶ能島を望む場所に村上水軍博物館があります。村上水軍博物館から見た能島周囲720mほどの小さな無人島ですが、この能島が能島村上氏本拠地であり、因島村上氏・来島村上氏・能島村上氏の村上水軍全軍の本拠地でもあります。能島の航空写真村上水軍全軍の本拠地としてはあまりに小さな島ですが、陸から攻めて来られることはまずないでしょうし、潮流の激しい瀬戸内海航路の要衝を抑えるこの場所が最適なのかも知れません。しまなみ海道の大島南ICを下りた時から感慨深いものがあったのですが、実は私のルーツを辿るとこの大島に行き着き、先祖は村上水軍として瀬戸内海の島を領有していたと聞きます。(もちろん村上水軍の本家ではありませんが)私の名字はさほど珍しくもないのですが、数でいうと全国では79番目に多い名字となり、愛媛県では39番目、今治市では17番目に多い名字となるようです。(今治市の特定の地域では村上氏の次ぐらいに多いそうですが、父方の実家である松山ではさほどでもないようです)村上水軍を辿ることは、自分のルーツを辿ることでもありました。村上水軍博物館の碑能島村上氏の当主、村上武吉像村上武吉の次男である村上景親像村上水軍博物館に入ってみると、村上水軍ゆかりの品々が展示されており、その歴史も知ることができました。おそらく村上水軍のことならばここが一番詳しいのではないでしょうか。当時の水軍で使われていた安宅船の模型村上水軍旗が掲げてある以外は、戦国時代にはありがちな安宅だったようです。小早船の模型こちらも普通の小早といった感じですが、この小早の操船技術が機動力の源泉だったのかも知れません。関船の模型関船の名前は初めて聞きましたが、海上の関を破る船舶の追撃用だそうです。村上氏の起源や能島・因島・来島の三島に分かれた経緯などは諸説あるようですが、すでに南北朝時代から海上警固や通行料の取立て、さらには略奪などの海賊行為を行っていたようです。戦国時代には三島の村上氏で芸予諸島を掌握し、各地に水軍城を築いて西瀬戸内海の制海権を握っていました。水軍城の所在図この中にご先祖様のお城があるのでしょうか。能島・因島・来島の村上氏の結び付きはさほど強くなかったようで、四国に近い来島村上氏は伊予の河野氏方につき、広島に近い因島村上氏は毛利氏に従っていたようです。その中で能島村上氏は独立した存在で、来島村上氏と対立して能島城を包囲されたこともありました。能島村上氏に伝わる虎蹲砲文禄・慶長の役で村上武吉の次男村上景親が朝鮮から持ち帰ったものを改造したものです。豊臣秀吉政権下では海賊禁止令によって力を弱められ、さらには関ケ原の戦い後に毛利氏が防長二カ国に移封になるに伴って、村上氏も周防へと移っていきました。江戸時代には周防三田尻(防府)で長州藩の船手組を勤めていたようです。関連の記事村上武吉墓所(山口・周防大島町)→こちら
2012/02/14
閲覧総数 568
2
名古屋城の本丸には、東・南・北の3ヵ所に虎口があります。うち南側の虎口が大手口で、表門が現存しています。本丸表二之門(現存、国指定重要文化財)表門の先には枡形が残っており、城郭のセオリー通り右へ曲がる縄張りになっていました。ここでも枡形正面の石垣に鏡石が積まれています。名古屋城では本丸御殿の復元工事が進められており、工事用の囲いのために本丸表門から天守と小天守を見ることはできませんでした。本丸御殿の復元完了と公開は平成30年となる予定で、復元された玄関と表書院が部分的に公開されています。ここで一旦本丸を出て、再び二の丸に戻って行きました。本丸の内堀に沿って南から東側へと回る時、本丸の南東隅櫓の横を通る格好になります。名古屋城だけではありませんが、櫓や天守は曲輪の外から見るに限りますし、なおかつ斜め45度が最も美しいのではないでしょうか。本丸の東側にも枡形虎口「本丸東一之門」があり、薬医門形式の表門は二の丸の東二之門を移築したものです。本丸東虎口の「旧二之丸東二之門」(移築現存、国指定重要文化財)本丸東一之門の枡形内部にある鏡石は、「清正石」の名前が付けられた、名古屋城最大の石垣石です。枡形内部東一之門の鏡石「清正石」築城の名手である加藤清正は、もちろん名古屋城の縄張りや石積みに関わっていたのですが、実はこの本丸東一之門の担当は黒田長政です。「清正石」ではなく「長政石」となるのが本当ですが、名古屋城最大の石垣石の命名に対しては、やはり築城の名手に軍配があがるようです。(加藤清正の築城術は、この後の天守台などで見せつけられることに)本丸東一之門には入母屋造りの渡櫓が現存していたそうですが、昭和20年の空襲により焼失してしまったようです。それでも石垣だけはしっかり残っていて、隅石の積み方が見事です。矢穴が残っているので現存石垣だと思いますが、ここを担当した黒田長政の築城術にも関心です。算木積みの隅石など、福岡城よりも進化しているように見えるのは気のせいでしょうか本丸の東門は搦め手だったようですが、枡形虎口を抜けた瞬間に天守が目の前にあり、本丸御殿も裏側(すなわち奥)の方に出ていました。復元中の本丸御殿史実に忠実に復元されているのですが、やはり搦め手口とあって、いきなり御勝手口からお邪魔した感じです。このアングルでの天守、個人的には今ひとつです。数ある天守の中でも現存天守は12城しかなく、それ以外は復元天守・復興天守・模擬天守に分類されています。名古屋城の天守は復元天守、昭和20年の空襲で焼失するまで天守が残っていたので、史実や写真に基づいて復元されたものです。ちなみに天守が建っていた史実はあrものの、外観の資料に乏しいため、推測で建てられたものが復興天守で、西日本によく見られます。また、天守があった史実を確認できないにも関わらず、後世になって建ててしまったものが模擬天守で、東日本に多いかと思います。名古屋城の天守内部へは入らずに、天守の横を素通りして、北側の不明門から本丸を後にすることにしました。埋形式門の不明門本丸の北西側には「御深井丸」の曲輪があって、こちらから天守を見ると天守台の石垣の様子がよくわかります。名古屋城の天守台を築いた人こそ加藤清正で、高さ20mの天守台石垣には「清正流」とも呼ばれる扇の勾配が見られます。そして隅石に目を凝らしてみると、「加藤肥後守」の刻印がわずかに読み取れました。石垣用の巨石を運ぶ時は、加藤清正自らが石の上に乗って、石曳きの音頭をとっていたそうです。二の丸にある「加藤清正公石曳き像」名古屋城天守(北西側から見たところ)大天守と小天守の間にある「剣塀」さらに本丸の内堀沿いを巡り、西の丸へと入って行きました。御深井丸と西の丸の間が外堀が入江のように入り組んでおり、「鵜の首」と呼ばれています。本丸の南西側には「西南隅櫓」があって、こちらも現存する隅櫓です。西南隅櫓(現存、国指定重要文化財)西の丸から見た本丸大手馬出現在の名古屋城には、二の丸の東側と西の丸の南側にそれぞれ入口があり、同時に料金所が置かれています。西の丸の「正門」には江戸城から移築された櫓門があったのですが、太平洋戦争で焼失してしまったため、後に再建されました。正門の虎口跡西の丸の外堀さすがは天下普請の名古屋城は、縄張りや普請などにさまざまな意匠が凝らしてあり、「尾張名古屋は城でもつ」の言葉通りだと思います。それにしても残念なのは、戦火によって天守などを焼失してしまったことです。もしも天守が現存していたならば、国宝はもとより世界文化遺産に登録されていたことでしょう。関連の記事名古屋城(尾張国)~その1 二之丸→こちら清洲城→こちら
2015/09/16
閲覧総数 940
3
内房は鋸山の山麓、東京湾に突き出た丘陵の上に金谷城があります。東京湾フェリー浜金谷港から見た金谷城の遠景里見氏の歴史には必ず登場するお城ですが、現在はスポーツセンターの敷地となり、宿泊施設などが建ち並んでいます。金谷城スポーツセンターの「虎口」金谷城の名前が残っているだけでも救われます。それにしても金谷城の名前が残っているということは、建設にあたってここが城跡だったことは認識されていたことかと思います。元から削平された曲輪があったとしたら、山の斜面を造成する必要もないので、おあつらえ向きだったことでしょう。三ノ丸跡(推定)はテニスコートになっていました。改めて東京湾を眺めてみると、対岸の横須賀が目の前に見える感じです。金谷城から対岸の三浦半島までは直線で約7kmしかなく、北条軍は海からもやって来る油断ならない敵であると同時に、里見水軍にとっては金谷城が重要な防衛拠点でもあったことでしょう。全く消えたと思われた金谷城の遺構ですが、宿泊施設の裏手にわずかに遺構が残っていました。二ノ丸虎口の四脚門の礎石跡金谷城の遺構がこれだけとは、悲しい限りです。二ノ丸虎口の位置から推測する二ノ丸の曲輪は宿泊施設の敷地とパターゴルフ場になっていました。然るに本丸があったと思われる位置を推定してみると、斜面を登る階段はあるものの、厳重に施錠されていました。ここで従業員の人に呼び止められ、「おはようございます。何か御用でしょうか」と。御用もなにもないのですが、「金谷城の跡を見たいと思いまして・・・」と応えると、「そうでしたか」とのこと。施錠された先にある本丸跡に入れないものかと思い、「あちらが金谷城の本丸でしょうか?・・・」と尋ねると、「ええ、でも何もないですよ」と、にべもなく返って来ました。金谷城跡を目当てに訪れるのは私だけではないことはわかったのですが、従業員の人にしてみれば「とんだところに施設を造ってしまった」といったところでしょうが、私も全く同感です。元々あったのは金谷城の方なのですが、とりあえず「何もない」と断言された本丸方向を垣間見てみると切岸状の土塁とその先に削平地がはっきりと確認できました。もしも里見義堯が大河ドラマに採り上げられたら、施錠が外れて幟でも立っているのでしょうか。金谷城は15世紀後半に(真里谷)武田信興が、峰上城の支城として築いたと言われ、里見氏第2代の里見成義の時代に里見氏の支配下となり、以後は里見氏の拠点となりました。(近年の里見氏の研究により、里見成義は存在しなかった、すなわち後世になって作られた人物とする説が有力です)いずれにしても一時は里見の内紛に勝利した里見義堯(第5代)が居城にしていたこともあり、里見義堯が里見氏の当主になった犬掛け戦い(天文の内紛)の時、里見義堯が本拠地にしていたのが金谷城でした。この時は宿敵であった対岸の北条氏綱から援軍をもらい、稲村城の里見義豊(従兄弟)を滅ぼして里見氏第5代の当主となっています。(一番近い援軍が対岸の北条氏というのも皮肉な話です)やがて里見義堯が造海城に拠点を移したことで金谷城の役目は薄れましたが、里見水軍の最前線であったことは間違いないようです。
2012/10/07
閲覧総数 367
4
律令制時代の土佐国では、政治の中心地は現在の南国市にありました。耕作地の広がる畦道に国衙跡の碑が建っています。国司として土佐に赴任したのが紀貫之で、国衙から北へ300mほどのところにある国司館跡は紀貫之邸跡とされています。国司館跡(紀貫之邸跡)紀貫之が撰者の一人として編纂した古今和歌集に因んで、隣にある庭園は「古今集の庭」と名付けられていました。国府の碑「土佐のまほろば ここに都ありき」と書かれています。土佐国衙の北側には「比江(ひえ)山」と呼ばれる小高い山があり、京都から赴任してきた国司が、故郷の比叡山に因んで名付けたとされます。日吉(ひえ)神社比叡山の日吉神社を勧進した神社です。拝殿の隣にある「内日吉」は、紀貫之が土佐に赴任した時に祀ったものです。紀貫之が土佐から京都に帰るとき、その祭祀を公文氏に託し、現在も公文氏の一族によって守られているそうです。紀貫之が京都に帰る道中のことを書いたのが「土佐日記」で、日本最古の日記文学にして、最古のブログでしょうか。ところで、ここを訪れるまで、ずっと勘違いをしていたことがありました。百人一首で紀貫之の詠んだ歌と言えば「ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」だと、これまでずっと思い込んでいました。これは紀貫之の従兄弟である紀友則の歌で、紀貫之は「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」でした。改めて読んでみると、紀貫之らしくアイロニーある歌だと思います。ここに来なければ、これからも勘違いしていたところでした。
2017/09/10
閲覧総数 300
5
この日も相変わらずの弾丸日帰りで、始発便で岡山空港に着いた後は、最終便で羽田空港に帰るという予定でした。それでも備中松山城・岡山城・後楽園と回った後、結構な時間が余ってしまったので、オプションを発動することにしました。瀬戸中央自動車道を児島ICで下り、向かった先は瀬戸内海に面する倉敷市下津井です。下津井瀬戸大橋下津井港を見下ろす稜線上に下津井城があり、宇喜多秀家によって築城された近世城郭です。中出丸の石垣縄張は連郭式で、本丸・二の丸・三の丸が稜線上に並び配され、中出丸の曲輪が独立したとうな格好になっていました。中出丸の曲輪跡物見台の役目があったのかも知れません。中出丸から海の方を望むと、眼下の下津井漁港の先に塩飽諸島の瀬戸内海が広がっていました。中出丸からは眺望が良く、振り返ると鷲羽山ハイランドが間近にありました。中出丸と三の丸の間には、堀切と思われる跡が見られました。堀切跡だと思うのですが、中世の戦国城郭のような感じです。三の丸の曲輪二の丸の曲輪二の丸に立ってみると、目の前には塩飽諸島の瀬戸内海が広がっていました。これが瀬戸内海の多島美で、島々に隠れて水平線が見えません。そして瀬戸内特有の夕凪のため、時が止まったように水面も穏やかでした。二の丸からさらに一段高い場所に登城道が続いており、その先に本丸の曲輪があります。本丸本丸の城跡碑本丸には、天守台の跡も残っていました。天守台跡天守が建っていたかどうかはわかりませんが、さぞかし眺めがよかったことでしょう。下津井城は慶長時代初期(1590年代後半)に、宇喜多秀家によって築城されました。その後は岡山城の城主と共に、下津井城の城主も宇喜多秀家から小早川秀秋に代わっています。1603年に池田忠雄の岡山城入部により、下津井城の城郭も整備されましたが、1639年の一国一城令により廃城となりました。
2017/07/25
閲覧総数 154
6
台湾ではMRTやバスなどの公共交通手段が安くて便利なのですが、台北市民の移動手段はバイク(機車)が大半かも知れません。おそらく1人1台くらいのイメージだと思うのですが、クルマよりもバイクの方が幅を利かせている感じがします。信号待ちの交差点ではクルマの前にバイクがずらりと並び、青に変わるか変わらないかのタイミングで一斉にスタートします。台北市民のバイクの乗り方がクールだと思うのですが、カラフルなマスクを装着して、雨の日はレインウェアを前後反対に着用しています。マスクも白や青のガーゼマスクではなく厚手の布製のマスクで、どこで手に入れるのか「Hello Kitty」のイラスト入りだったりして、それぞれにこだわりがあるようです。レインウェアを前後反対に着用するのは、風でヒラヒラして雨に濡れないためだと思うのですが、見慣れてくると実用的でかっこいい感じがします。ちなみにヘルメットの着用は義務付けられているようですが、2人乗りは大丈夫なようで、後ろに小さな子供を乗せて颯爽と駆け抜けて行くママさんライダーをよく見かけたりします。しかしながら交通マナーはとてもいいとは言えず、最近では慣れて来たものの、最初の頃はいつ事故に遭うかとびくびくしていました。日本では横断歩道を渡る歩行者が優先で、右左折するクルマやバイクは、徐行または一時停止して歩行者を先に渡らせるのが普通かと思います。台北では歩行者の有無にかかわらず、クルマやバイクが突っ込んで来るので、歩行者の方が一時停止をして横断歩道を渡っているのをよく見かけます。さすがに公共のバスは手前で一時停止するのですが、歩行者がバスの運転手に手を挙げて、感謝しながら渡っているのも見たことがありました。また路上駐車も半端ではなく、私の家の前の路地はこんな感じです。歩行者がいるとクルマやバイクが通れないので、歩行者の方が道を譲っています。路上駐車は法律で認められているのか、それとももはや手遅れなのかはわかりませんが、取締りをしているのを見たことがありません。それでも決められた場所にバイクを停めると、こんな感じになります。歩道にバイクを停めるので、バイクは歩道を走らなければいけません。一応有料の駐車場もあるのですが、ここに停める方が奇特なのでしょうか。忠孝東路のメインストリート沿いで、最初の1時間が40NT$(108円)でその後は30分毎に20NT$(54円)ですから、決して高くはない気はするのですが。それでも肝心のガソリンの値段の方は、こんな感じです。おそらくオクタン価によって値段が違うのでしょうが、最も安いところでリッター29.6元(80円)ですから、こちらは決して安くはないようです。ちなみに給油することを中国語で「加油」と言いますが、「頑張れ」も「加油」です。
2010/10/28
閲覧総数 305
7
日本における軍港としては、海軍鎮守府の置かれた大湊・横須賀・舞鶴・呉・佐世保の5港が代表的かと思います。現在も海上自衛隊の護衛艦軍の基地が置かれ、特に横須賀と佐世保にはアメリカ海軍第7艦隊の基地も置かれています。佐世保港(軍港)の遠景リアス式の佐世保湾の湾奥にある佐世保港は、天然の良港として1883年に東郷平八郎によって測量が開始され、1889年に佐世保鎮守府が置かれました。佐世保鎮守府から海上自衛隊佐世保基地に至る佐世保軍港の歴史を紹介しているのが、「セイルタワー」(海上自衛隊佐世保資料館)です。1Fから7Fまでが展示室になっており、一度7Fに上がってから順番に下りてくる順路になっていました。館内の展示品は撮影禁止なので紹介はできませんが、展示品の数々を見ると、「さすがは佐世保」といった感じです。ところで1Fの企画展示は「秋山真之の生きた時代」でした。セイルタワーのHP→こちら
2012/01/06
閲覧総数 224
8
昨年4月に東京から横浜に引っ越してきて、10か月が経ちました。自宅から100mも離れていない場所に城址公園があるのですが、まだ一度も訪れたことがありませんでした。茅ヶ崎城がその城で、現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。北側の城址公園入口まだ雪が残っています。現地の縄張図を見ると、独立した四つの曲輪が配された、典型的な中世城郭です。縄張図東西に延びる縄張となっており、東に行くほど比高が高くなっています。北側の公園入口から入ると、中郭の土塁が現れ、西郭との間には桝形虎口の跡がありました。虎口跡西郭と中郭の間の空堀は特に幅が広かったため、堀底道が通っていたのかも知れません。西郭と中郭の間の空堀(西郭から見たところ)西郭は最も低い位置にあり、かつての三の丸が改変されたのかも知れません。西郭土塁を見ると、北条流の築城術だと思われます。西郭から北側に回り、中郭の土塁の北側を過ぎると、中郭より一段低い場所に北郭の跡が残っていました。中郭の北側土塁北郭後世になって増築された曲輪かも知れません。北郭から一旦戻って土塁を上がると、中郭の曲輪跡が広がっていました。中郭跡掘立建物の礎石跡が発見され、ここが本丸として機能していたかも知れません。中郭と東郭の間の空堀跡を通って南側の斜面に出ると、腰曲輪らしき跡が残っており、その先には堀切のような跡もありました。腰曲輪跡南側の腰曲輪南側には他にも腰曲輪の跡が見られました。堀切跡?発掘調査の結果、南側にも虎口があったようで、虎口の跡とされています。北側と南側に虎口があったことになりますが、どちらが大手なのか判然としませんでした。南に位置する小机城の支城として機能していたならば、南北に虎口があるのは自然な気がします。東郭は最も高い位置にあったようで、再び階段を登った先に曲輪の跡がありました。東郭向こう側に見えるのが中郭の土塁と空堀跡で、ほぼ同じ高さにあります。それにしても港北NTの住宅地の真ん中に、こんなに城郭遺構が残っているとは全く想像していませんでした。(ちなみに横浜市都筑区の旧国名は、相模国ではなく武蔵国です)発掘調査の結果、茅ヶ崎城の築城時期は14世紀末から15世紀前半と考えられ、北条氏以前の室町時代には築城されていたことになります。この頃の武蔵国と相模国は関東管領上杉氏の支配にあり、その頃から小机城とは連携していたとも考えられます。16世紀中頃には小田原北条氏の支配下となり、茅ヶ崎城も小机衆の配下にあったと思われます。
2018/01/28
閲覧総数 190
9
松山市から山岳部を越えて南西に100kmほど行ったところに、愛媛県宇和島市があります。江戸時代の宇和島には宇和島藩が置かれ、南予地方の中核都市でもありました。宇和島市の中心部の城山に宇和島城があり、築城の名手藤堂高虎によって築かれた近世城郭です。大手口にある長屋門は藩老であった桑折(こおり)氏の長屋門を移築したもので、江戸時代に造られたものだとされています。長屋門をくぐると総石垣造りの城郭となっていました。井戸のあった井戸丸の曲輪へ通じる井戸丸門跡。枡形が残っていますが、櫓門があったのかも知れません。登城道を行くと目の前に高石垣が現れ、来るものを威圧するような圧迫感がありました。三之門跡から見た二之丸石垣これが藤堂高虎の築城術で、反りのない直線的な高石垣です。 宇和島城の縄張りは、本丸の周囲に帯曲輪のようにして二の丸が配され、その周囲に「藤兵衛丸」や「代右衛門丸」などの独立した曲輪があって、まるで戦国城郭のような縄張りでした。搦め手方向から見た鳥瞰図独立曲輪の一つである藤右衛門丸では、幕末の伊達宗城時代に造られた山里倉庫が移築されていました。1854年に建造されたもので、城下の練兵場の一角にあって武器庫として使われていたものです。解説板には「宇和島に現存する唯一の歴史的建造物である」と書かれていましたが、山里倉庫以上に貴重な建造物が宇和島城にはあります。登城道は何度もL字型に折れ曲がっており、本丸を目の前にしながらなかなか辿り着くことができませんでした。二之門跡から見た本丸石垣二の丸から見た本丸石垣ようやく本丸にたどり着くと、虎口はさらに折れ曲がっていました。本丸虎口の一ノ門跡そして本丸にあるのが現存天守です。宇和島城の天守は1666年に創建されたもので、宇和島城の他の建造物が空襲で焼失する中、天守が残ったのは奇跡でしょうか。全国には現存天守が12しかなく、宇和島城天守がその現存天守の1つです。ちなみに宇和島城の他、(伊予)松山城・高知城・丸亀城と、現存12天守のうち4つが四国にあります。宇和島城は宇和海に面した城郭だったのですが、現在は埋め立ても進み、海岸線は離れたところにりました。本丸から見た宇和海本丸を後にして搦め手方向へ降りていくと、さらに厳重に石垣で囲まれていました。原生林が生い茂る中にも石垣が積まれていました。搦め手には「上り立ち門」が現存していました。創建年代は明らかではありませんが、城郭の改修が行われた伊達氏の時代、寛文年間(1661~1671年)だと推定されています。宇和島城が最初に記録に現れるのは戦国時代の1564年で、家藤監物が板島丸串城に入ったのが始まりとされています。その後1575年には西園寺宣久の居城となり、1585年には小早川隆景が伊予に入って城代が置かれていました。1595年に入ってきたのが藤堂高虎で、大規模な築城工事によって現在の近世城郭が造られました。江戸時代に入った1608年に藤堂高虎は今治城に移封となり、1614年に伊達政宗の子である伊達秀宗が城主となりました。伊達氏の時代に大修築が行われ、現在の天守が再建されると共に、宇和島城と改名されています。伊達政宗の後は何かと御家騒動の多い伊達氏でしたが、最後の藩主伊達宗城に至るまで、代々伊達氏が宇和島藩の藩主を務めていました。
2011/11/29
閲覧総数 189
10
ユネスコの世界文化遺産の中で、個人の住宅が構成資産に選ばれる例は少ないかと思います。世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」では、田島弥平旧宅が構成資産の1つになっており、さらには現在も住宅として使われているそうです。表門末裔の人の表札がかかっていました。田島弥平は幕末から明治にかけての人で、蚕の卵である蚕種を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させました。それまでの自然飼育法と違って、蚕室で空気を循環させて温度と湿度を調整する近代的な養蚕飼育法が「清涼育」だそうです。清涼育では蚕室がある建物の向きだけでなく、その階数や屋根の構造も重要とのことでした。主屋1863年に建造された建物で、2階が蚕室となっていました。瓦葺の屋根の上には、空気を循環させるための櫓が付いています。この建築様式はここの地名をとって「島村式蚕室」と呼ばれ、全国に普及したそうです。新養蚕室跡やはり2階建ての蚕室で、屋根に大きな櫓が付いており、山形県鶴岡市の松ヶ岡開墾場の蚕室に踏襲されています。田島弥平が著した「養蚕新論」の碑敷地内には生活感のある離れが建っていて、「桑場」と書かれていました。屋根に櫓が付いていますが、養蚕は行われておらず、桑葉の収納と加工が行われていたようです。桑場の内部は公開されていて、ガイドの方もおられました。今回の「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産めぐりでは、ボランティアガイドの方に随分とお世話になりました。「私も絹の事を勉強しているのですが、なかなか奥が深くて」と仰っていたのが印象的で、熱心かつ真摯に歴史を伝える姿勢には感銘を受けました。(どこかの世界遺産とは大違いです)田島弥平の清涼育は、高山社によってさらに技術改良され、「清温育」へと発展していきました。「大量生産」の技術だけでなく、「品質改良」の努力があればこそ、成し遂げられた栄光がありました。島村地区では、今も見本桑園で桑が葉を広げていました。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/25
閲覧総数 260
11
♪月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)♪盆踊りではポピュラーな曲ですが、この炭坑節の発祥は三井田川炭鉱だとされています。揮毫にある福岡県知事麻生渡氏ですが、福岡なので麻生元首相の親戚かと思っていたら、違うようです。ところで歌詞の続きは「三池炭鉱の上に出た」だと思っていたのですが、「三井炭鉱の上に出た」が正しいようです。炭坑節の歌詞碑しかもあのメジャーな歌い出しは1番ではありませんでした。一番の歌詞は♪香春(かわら)岳から見下ろせば(ヨイヨイ)伊田の立坑が 真正面 12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔サノヨイヨイ♪(香春岳は田川の北にある山、伊田の立坑とは田川炭鉱のことなので、まぎれもなく田川炭鉱がのことだと思われます)二番の歌詞は♪ひとやま ふたやま みやま越え(ヨイヨイ) 奥に咲いたる 八重つばきなんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花サノヨイヨイ♪そして三番がかの有名な♪月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三井炭坑の 上に出たあんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろサノヨイヨイ♪1番と2番の歌詞にだけ登場する「サマちゃん」がいかなる人物なのかは不明です。その炭坑節の発祥である三井鉱業所田川炭鉱は、現在「石炭記念公園」となっています。三井鉱業所田川炭鉱の模型♪あまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ(サノ、ヨイヨイ)♪の大煙突折しも「コールマイン・フェスティバル(炭坑節祭り)」が行われており、会場のあちらこちらに置かれたスピーカーからは、大音響の炭坑節が流れていました。盆踊り以外で聴くのは初めてですが、改めて聴くとシニカルな歌詞の中にも哀愁の漂う曲だと思います。最近では「鉱夫」の言葉も使わなくなり、チリの落盤事故で「Miner」の方が有名になったなのは皮肉としか言いようがありません。炭坑節にも登場し、記憶に残る「北炭夕張」や「三井三池」の事故の報道でも耳にした「竪坑」です。石炭記念博物館には、炭鉱の時代を語る数々の展示品が復元されていました。竪坑に入るための列車子供の頃に社会科の図鑑で見たことがあるのですが、ケーブルカーのように傾斜がついています。同じく図鑑でしか見たことのない「炭住」炭鉱夫の住まいです。今の時代で考えると、エネルギー効率の悪い石炭を水蒸気に変えて動力源とすることは皆無だと思われます。(石炭を蒸気エネルギーに変換するか、石油や原子力を蒸気エネルギーに変換するか)熱を発するエネルギーを水蒸気に変えて、そこからパワーを得ることでは蒸気機関車も原子力潜水艦も同じなのですが。。石炭記念博物館はかなり詳細に石炭の歴史が紹介されていました。炭鉱夫とはいいますが、女性も過酷な労働に従事していたようです。それでも元炭鉱夫(婦)と思われる方々が、懐かしそうに振り返っているのが印象的でした。
2011/11/05
閲覧総数 221
12
江戸城の内堀は時計回りに渦巻きを描いていますが、外堀も同様に渦巻き状になっています。雉子橋門をスタートして、ぐるりと回って浅草見附、さらには隅田川が外堀の役目を果たしています。「これを回ったのか?」って話ですが、ちゃんと回りました。(実は何回かに分けて回り、途中地下鉄なども利用していますが・・・)まずは雉子橋門から鍛冶橋門までをご紹介します。古地図で見ると雉子橋門は枡形をしていましたが、今もその一部が残っています。とあるビルの入口にあるのですが、なんとも面妖な感じです。現在雉子橋からの外堀は、日本橋川となっています。こんな感じでずっと続いていました。そして一ツ橋門に到着。当然ながら橋はコンクリートで再建されたものです。しかしながら対岸をよくよく見ると、石垣が残っていました。おそらく枡形門の一部だと思うのですが、これにはビックリです。徳川家康が江戸に入った時、ここには丸太が一本架かっていたため、「一ツ橋」の名前が付いたそうです。さらに8代将軍徳川吉宗の子、徳川家尹がここに屋敷を構えたことから、橋の名前をとって「一橋家」を名乗っています。また橋の北側には、一橋大学(東京商科大学)がありました。一ツ橋門の次の見附は神田橋門ですが、こちらはよくある普通の橋が架かっているだけです。やはり内堀と違って外堀は望み薄かと思いきや、その次の常盤橋門には枡形が残っていました。橋の向こう側に枡形が見えています。常盤橋門枡形の石垣。実は外堀の見附の中で、この常盤橋門が最もよく残っていました。この常盤橋門の橋のそばには、北町奉行所が一時置かれたこともあったそうです。常盤橋からは外堀通り沿いを歩いたのですが、だんだん古地図から目が離せなくなってきました。呉服橋交差点。もはや推理ゲームのような感じです。そして鍛冶橋交差点。かなりやけくそになってきました。まだまだ推理ゲームは続きます。
2008/10/09
閲覧総数 2951
13
戦いの舞台は長篠城の攻防戦から、設楽原の決戦へと移ってきました。鳥居強右衛門がまさに命を懸けて岡崎城に着いた時、すでに徳川家康の援軍8千も岡崎に到着しており、織田信長も自ら3万の大軍を率いて岡崎に到着していました。長篠城の救出という局地戦から、歴史を変える大決戦への転換点となったのが、この設楽原です。連吾川を挟んで西側(画像左側)に織田・徳川連合軍、東側(右側)に武田勝頼軍1万5千の布陣です。徳川家康が本陣を置いた弾正山の近く、陣頭指揮を執った八剣山の陣所には、「長篠設楽原決戦場」の碑が、ひっそりと建っていました。徳川家康からすると、この戦いは娘婿である奥平信昌の長篠城を救出するための援軍だったかと思います。その徳川家康の援軍である織田信長の本陣は、徳川家康の本陣から北へ約2km、茶臼山にあったようです。設楽原から見た茶臼山の方向織田信長にしてみると、これまで恐れていた武田信玄亡き後もなお最強を誇る武田軍との間で、雌雄を決するための出陣だったかと思います。そして織田信長の敷いた布陣と戦法は、合戦のありかたまで変えてしまったと思います。復元された馬防柵かつて馬防柵が置かれた織田・徳川軍の陣地に目を凝らすと、削平地と土塁のような跡が見られました。土塁と馬防柵による野戦築城に鉄砲の一斉射撃。この前例のない戦法に着想するだけではなく、当時最強の甲州武田軍との決戦で実践するあたり、改めて織田信長には畏敬を感じます。それでも織田信長にも不安はありました。設楽原に布陣したところで、果たして武田勝頼が長篠城の包囲を解いて決戦を挑んでくるかどうかです。岡崎城での軍評定の時、徳川四天王の一人である酒井忠次は織田信長に一つのアイデアを進言しました。それは長篠城を包囲する武田軍の砦の一つ、鳶ヶ巣山を夜間に背後から急襲し、武田軍を設楽原に誘き出すという妙案です。長篠城から見た鳶ヶ巣山ところが軍評定の中で織田信長はこの案を一蹴してしまい、徳川家康にしても酒井忠次にしても面目丸つぶれと言ったところでしょうか。実はこれは織田信長の本心ではなく、敵方の間者に漏れるのを恐れて、あえて軍評定では一蹴したものでした。軍議の後にすぐさまこの案を採用すると、酒井忠次は500丁の鉄砲隊と共に、鳶ヶ巣山の砦へと急行しました。鳶ヶ巣山には、その当時の砦跡が残っています。武田軍の背後を急襲すると共に、長篠城の救出戦まで実行したのが酒井忠次隊です。ところで鳶ヶ巣山の砦跡には「天正杉」と呼ばれる倒木があり、樹齢は300年を超えていることから、この合戦の当時には現存していたとされています。酒井忠次によって背後を衝かれた武田軍は、織田・徳川連合軍の待つ設楽原へと押し出される形となりました。そして設楽原では徳川家康配下の大久保忠世・忠佐の大久保兄弟が囮となり、馬防柵の外に出たり内に入ったりしながら、武田軍を誘きよせるための陽動作戦を展開していました。徳川軍の馬防柵織田軍と違って、出入口が設けられています。徳川家康にしてみれば、娘婿の守る長篠城を救出するために自身の援軍8千では、到底武田軍1万5千に立ち向かえなかったことでしょう。織田信長の援軍3万によって救われた戦いにあって、酒井忠次と大久保兄弟の功績で借りを返した感じでしょうか。これまで小説等で見聞してきた長篠設楽原の戦いですが、実際にその場所に立ってみてみると、初めて当事者それそれの思いがわかるような気がしました。以下司馬遼太郎さんの「功名が辻」の一節より「柵外を見よ。 武田の騎馬隊が、押し太鼓を天地にひびかせながら、寄せてくるのである。 多くは、 武田の赤備え と称せられる朱具足である。 赤い津波が、伊右衛門(山内一豊)らの陣にひたひたと寄せて来る。」馬防柵の内側に立つと、武田軍の陣地は目と鼻の先のように思え、その恐怖がわかるような気がします。歴史の知る通り、この戦いは織田・徳川連合軍の圧勝に終わりますが、山岡荘八さんは「徳川家康」の中で、この戦いについて次のように述べています。「いかに駿足の騎馬武者に対しても、鉄砲さえあれば足軽の集団でこと足りるという、戦術上、思想上の一大革命がなしとげられた」「かつては一粒選りの大将勇士らを必要とし、そのために高禄を惜しまなかったのが、今では鉄砲さえあればよく・・・」まさに歴史を変えた一戦だったと言えるでしょう。それにしても後の歴史を考えると、設楽原に集結した織田信長軍の陣地には、錚々たる面々が並んでいます。織田信長、織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、稲葉一鉄・・・徳川軍も含め、この人たちと同じ場所にいるというだけで、感慨深いものがありました。徳川家康 颶風の巻 7 / 山岡荘八 著 - 講談社功名が辻(1)新装版 [ 司馬遼太郎 ]価格:648円(税込、送料無料) (2017/5/9時点)
2017/05/06
閲覧総数 223
14
戦国時代の始まりはいつかと言うと、「人の世むなし応仁の乱」の1467年だと覚えてきました。その応仁の乱より以前、すでに関東では北関東を中心に戦国時代に突入していたと思っているのですが、その幕開けとなったのが結城城を舞台にした1440年の結城合戦かも知れません。ところで応仁の乱は細川勝元と山名持豊(宗全)の守護大名同士の戦いではありますが、その背景には室町幕府将軍足利義政の後継争いに加えて、三管領のうちの畠山氏と斯波氏の相続争いが絡み、全国の守護大名を2分して10年以上続いた戦いでした。(高校時代の日本史でも、この応仁の乱の相関図を理解するのは一苦労でした)関東の結城合戦の方も複雑極まりないのですが、この相関図を紐解いていかないと、その後の関東の戦国の歴史もなかなか見えてきません。室町時代の関東では、将軍足利氏が京都にいる一方で、鎌倉府に関東公方として同族の足利氏がおり、その関東公方を補佐する関東管領に上杉氏がいました。普通にこの秩序が保たれているならば何も問題はないのですが、坂東武士の気性なのかはわかりませんが、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が度々対立するようしていたのが、戦国初期の関東の構図です。身近な例で言うと、京都本社に足利社長がおり、関東支社の支社長も同族の足利支社長で、その関東支社長が上杉副支社長と言ったところです。ところがこの時の関東支社長である足利支社長(関東公方)は京都本社(室町幕府)の言うことを聞かず、度々上杉副社長(関東管領)を悩ませて対立していた、と言うのが当時の関東の構図でしょうか。前置きは長くなりますが、結城合戦は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏に対して反乱した1418年の「上杉禅秀の乱」に端を発しています。この時は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏と室町幕府によって鎮圧されますが、その後は上杉禅秀の後に関東管領を継いだ上杉憲実と関東公方足利持氏の対立が決定的となりました。上杉憲実に救援を求められた室町幕府は足利持氏の討伐軍を派遣し、関東諸将も討伐に加わった戦いが1438年の永享の乱です。足利持氏は討伐軍の前に敗北して自刃し、ここに関東公方は消滅しました。その2年後の1440年、関東公方再興をのため、永享の乱で自刃した足利持氏の遺児を擁して、室町幕府に反旗を翻したのが結城城の結城氏朝と結城持朝の父子でした。上杉禅秀の乱から永享の乱を経て結城合戦へと長い前置きですが、この結城合戦には歴史を変える「幕末」を感じます。歴史上「幕府」は鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つしかないので、「幕末」や幕府軍との戦いも3回しかなかったことになります。ところで「幕末」と言えば江戸幕府の倒幕が代名詞でしょうか。その幕末の四境戦争(別名が聞いてあきれる「長州征伐」)では、高杉晋作や山縣有朋そして大村益次郎によって、本拠地である萩城どころか江戸幕府軍に防長の地を踏ませることなく敗退させています。一方の鎌倉幕府や室町幕府への「反幕」においては、楠木正成が鎌倉幕府軍に対して上赤坂城や千早城の籠城戦で応じたのと同じく、結城氏朝・持朝父子も室町幕府軍に対して結城城の籠城戦で応じました。その結城合戦は1年近くにおよぶ籠城戦だったのですが、「城跡公園」となった結城城跡を見る限り、その籠城戦に耐え抜いた堅固な印象はありませんでした。結城城西館跡解説板にある縄張りを見る限りでは、とても1年の籠城戦に耐えられるようなものではなく、むしろ普通に一重の堀に囲まれた中世の居館跡といった感じです。内堀跡関東の歴史を左右した結城合戦の舞台にしてはあまりに寂しく、城跡公園の近くにわずかに空堀が残っていました。城跡公園のある西館跡からさらに城郭の西側に回ってみると、城跡を偲ばせる土塁の跡も残っています。結城合戦では、室町幕府軍10万に包囲され、籠城戦を戦ったそうです。この一帯を幕府軍が包囲していたのでしょうか。室町幕府のみならず関東諸将を巻き込んだ結城合戦でしたが、籠城戦の末に結城氏朝は討死し、結城氏朝が擁立した足利持氏の遺児春王丸と安王丸も室町幕府将軍足利義教の命によって殺害され、1年近くにおよぶ結城合戦も幕を閉じました。それでも結城合戦を振り返ると、戦国時代を予感させることがらもあります。何よりも源頼朝の挙兵以来の名門結城氏が室町幕府に反旗を翻したことで、ここに武家政権の最高権威である幕府の権力がすでに失墜していたと思われます。さらには関東の諸将を巻き込んだ戦いであったことで、戦いに勝利することでの領土的野心も窺えます。また、参戦した関東諸将の中には、同族でありながら幕府方についたり足利持氏・結城氏朝方についたりと、従来の武家的秩序が失われて家中が分裂していました。そんな中、この結城合戦から始まる江戸時代の小説がありました。曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」で、足利持氏・結城氏朝方として参戦した里見家基(小説では里見季基)が、最期を前にして息子の里見義実を落ち延びさせる場面から始まっています。(その後は白浜城からの里見氏の再興や八犬士の誕生、さらには八犬士の活躍による「関東大合戦」での大勝利と、史実と異なってはいますが) そんな関東の戦国時代を告げる結城合戦も遠い過去になってしまったと思いきや、西館の本丸跡にはこんな碑が建っていました。結城合戦タイムカプセル1981年に埋められたもので、結城合戦終結からちょうど600年後の2041年に再び披露されるそうです。(それにしても何が埋まっているのでしょうか)結城合戦では敗れはしたものの、小山朝光が結城氏を名乗って以来、鎌倉時代から江戸時代まで続いた結城氏の本拠地が結城城です。ところが城跡にある結城市教育委員会の解説板には、「結城城は治承年間(1177年~1180年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう」と。教育委員会にここまで断言されては二の句が次げませんが、その根拠を知りたいところでもあります。
2012/08/08
閲覧総数 88
15
人工河川として開削された小名木川ですが、水運業者が下総との物流に利用したのはもちろん、江戸町民も船を浮かべて遊ぶほどの風情あふれる場所だったようです。特に小名木川の河畔に生える松は「五本松」と呼ばれ、小名木川沿いの地名にもなっていました。歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本松」名所江戸図会「小名木川 五本松」五本松のうち一本は、丹波国の大名である九鬼氏の屋敷から道を越えて張り出していました。松尾芭蕉もここに船を浮かべて遊んでいたようで、名所江戸図会の中には芭蕉の句が書かれています。「川上と この川下や 月のとも」五本松は明治になって枯れてしまいましたが、小名木橋のたもとには五本松が復元されています。そしてこちらが現在の小名木川です。コンクリートで護岸はされていますが、埋立されずに残っているのが何よりです。関連の記事中川船番所→こちら
2010/05/22
閲覧総数 800
16
奥州の要衝である会津にあって、会津若松城の支城として運命を共にしてきたのが猪苗代城(亀ヶ城)でしょうか。会津若松城までの距離は直線で約20kmしかなく、しかも途中を隔てる大きな山地もありません。したがって会津に侵入した敵に猪苗代城を抜かれると、本拠地の会津若松もすぐに落されてしまうほど重要な拠点でした。本城の会津若松城の別名が「鶴ヶ城」ならば、支城の猪苗代城の別名は「亀ヶ城」と、なんとも縁起のいい並びではあります。猪苗代城は戊辰戦争で建物を消失した後、明治に入って亀ヶ城公園として整備され、現在に至っています。それでも城郭の遺構はよく残っていて、公園入口でもある二の丸大手虎口には、櫓台の石垣が残っていました。二の丸大手虎口石積みは野面積みであることから、蒲生氏郷時代のものとされています。二の丸の手前には帯曲輪が配され、それぞれの曲輪の周囲は土塁で囲まれていました。帯曲輪の土塁二の丸の土塁磐梯山麓の地形を活かしたのでしょうか、高さも傾斜もお見事です。二の丸の虎口付近は石垣で囲まれ、櫓台があったと思われます。二の丸石垣二の丸虎口大手口に比べると新しい積み方です。二の丸と本丸の間にも石垣の虎口の跡が残っていました。黒門跡四脚門跡本丸の石垣は崩落しており、裏込め石が露見していました。これはこれで貴重な遺構です。本丸の曲輪改めて本丸上から見ると、周囲に配された帯曲輪と土塁の様子がよくわかりました。そして本丸から北側を眺めると、雲に隠れた磐梯山がありました。猪苗代城の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ります。相模三浦氏の一族である佐原義連が奥州征伐の功により、源頼朝から会津四郡を与えられ、佐原義連の孫にあたる佐原経連が猪苗代氏を名乗り、1191年に猪苗代城を築城したと伝えられています。猪苗代城は会津の要衝にあって、黒川城(会津若松城)を攻めるには、まず猪苗代城を突破する必要があったほどです。伊達政宗が会津若松を制した1584年の「摺上原の戦い」では、猪苗代盛国が伊達氏に内応したことで、伊達政宗は猪苗代を突破して会津に攻め入っています。そして1868年の戊辰戦争でも、板垣退助・伊地知正治率いる政府軍が、猪苗代城を突破することで、会津若松城下に攻め入っています。会津若松城と猪苗代城は一心同体だったのでしょうか、一国一城令の後も猪苗代城は廃城となっていません。
2017/07/02
閲覧総数 162
17
中国山地を分水嶺として、山口県では瀬戸内海に流れる川と日本海に流れる川があるのですが、いずれにしても水源から河口までの距離が短いため、河口から少し遡れば渓谷のような急流となっています。日本海側の萩市に河口をもつ阿武川は、河口付近で松本川と橋本川に分かれて萩城下町の三角州を形成しており、上流部に遡ると「長門(ちょうもん)峡」と呼ばれる渓谷へと続いています。長門峡の碑揮毫は安倍晋三元内閣総理大臣です。長門峡の名勝である「竜宮淵」竜宮淵では川魚料理の店が並んでいました。長門峡から萩城下町の河口までは直線距離でも15kmほどしかなく、また上流部にある山口市の国道9号線沿いの「道の駅長門峡」からも遊歩道がついているため、気軽に渓谷を見て歩くことができました。長門峡から阿武川沿いを下っていったのですが、途中には温泉があったりして、下流へ行くにつれて川面の様相も変化していきました。重塀岩阿武川ダムによって造られた「阿武湖」阿武川ダム渓谷となると片道何時間もかけてたどり着く印象があったのですが、長門峡は手軽に行ける渓谷です。
2011/09/05
閲覧総数 118
18
揖斐川・長良川・木曽川の木曽三川の河口にある三重県桑名市、ここを訪れた理由は2つあり、その1つが桑名城です。桑名城跡は九華公園として整備されており、公園の一角には見覚えのある鹿角の脇立兜がありました。本多平八郎忠勝の銅像大数珠を袈裟懸けにして、後ろには名槍「蜻蛉切」が控えています。本多忠勝の銅像があるのは、岡崎城と桑名城だけでしょうか。岡崎の本多忠勝像その風貌は銅像からは窺い知ることはできませんが、実はこんな感じです。大多喜城(千葉県立博物館大多喜分室)にてこの肖像画は複数残されていますが、いずれも本人が納得して描かせたものなので、デフォルメではありません。数々の武勇伝を残し、主君の徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉も賞賛する本多忠勝ですが、桑名城はその本多忠勝の築城によるものです。桑名城の古城図揖斐川の水路を利用した水城で、各曲輪が浮島のように独立しています。幕末の戊辰戦争で桑名藩は旧幕府方についたため、戊辰戦争後に桑名城は官軍によって破却され、桑名城跡残っているのは当時の曲輪の跡だけです。九華公園図三の丸虎口跡ここが大手口だったのでしょうか。桑名城の石垣は明治政府によって取り壊され、四日市港建設の際に防波堤として転用されました。曲輪の跡は後世になって積まれた石積で囲まれており、もはや当時の石垣を見ることはありません。三の丸の外堀二の丸堀跡二の丸跡には公園管理事務所があり、そこの入口にわずかに当時のものと思われる石垣がありました。枯れ木も山の賑わいでしょうか。桑名城の築城当時、大小合わせて50の櫓が建ち並んでいましたが、現在となってはその面影すらありませんでした。本丸から見た二の丸跡本丸から見た西の丸跡当時は石垣も高く詰まれ、曲輪の間には深い堀が巡らされていたことと思います。本丸には天守も建てられていましたが、現在は公園広場となっていました。揖斐川の流れる北側に回ると、船着場のあった付近に当時の石垣が残っていました。江戸時代には東海道桑名宿の宿場町があり、「七里の渡し」の西側の発着点でもあったところです。船着場の近く、旧東海道に面した北大手門跡北大手門の枡形跡本多忠勝の桑名城を見てみたいという念願かなって、桑名に来ることができました。残念ながらその城郭を見ることは出来ませんでしたが、縄張りを見る限りでは築城主のような武骨一辺倒な印象はありませんでした。徳川家康が本多忠勝を桑名に配したのは、東海道を抑えることが目的だったのでしょうが、彦根の井伊直政と併せて桑名に本多忠勝がいること自体がプレゼンスだったのかも知れません。(桑名城の築城にあたっては、その井伊直政も普請を手伝ったそうです)家臣団の住む西の丸と本丸の間が近く、また本丸も城下からすぐ近くにあるといった感じで、むしろ親しさと優しい印象を受けたほどです。徳川家康の三河家臣団を絵に描いたように武骨な本多忠勝ですが、上総大多喜も含め城下町の町割りには定評があり、インフラの整備など善政を行ったと言われています。徳川家康の家臣として50回以上に及ぶ前線での出陣の中で、本多忠勝はかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。徳川家康が武田信玄に大敗北を喫した三方ヶ原の戦いでは、その前哨戦である一言坂の戦いにおいて、本多忠勝の奮戦によって徳川軍は窮地を脱し、武田軍からは次のような落首が書かれました。「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」その本多忠勝ですが、隠居後のある日に小刀でうっかり怪我をした時、自分の最期を悟ったと言います。そしてその数日後に桑名でその生涯を終えました。戦国時代の桑名には地方豪族が割拠しており、現在の桑名城のある場所には、伊藤武左衛門の東城がありました。織田信長が桑名地方を平定すると、織田信長方の滝川一益の支配下となり、東城は廃城となっています。豊臣秀吉の時代になると一柳直盛が城郭を築き、その時に伊勢神戸城の天守を移築しました。その天守は神戸櫓として、近世桑名城にも残されていたようです。本丸の南西にある神戸櫓跡1601年の関ケ原の戦い後、上総大多喜から本多忠勝が桑名に移封となり、近世城郭を築城するとともに、「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備と河川工事などを行っています。第2代藩主本多忠政の時に姫路に移封になると、以後は代々松平氏が桑名藩主となりましたが、幕末の藩主松平定敬は会津藩松平容保の弟であったため、桑名藩は戊辰戦争において幕府方に付くこととなりました。鳥羽伏見の戦いにおいては桑名城を無血開城し、新政府軍は本丸にあった辰巳櫓を焼却することで、開城の証しとしたそうです。辰巳櫓跡櫓台の上に大砲がありますが、なぜここにあるかは不明だそうです。
2012/08/06
閲覧総数 617
19
お台場にある船の科学館、船が好きな人もそうでない人も一度訪れてみるといいかも知れません。建物自体が船の形をしています。船のメカニズムや歴史もさることながら、海運についてのことはここに行けば非常に参考になると思います。普段は目にすることがないことも様々見ることができました。大型船の初期ディーゼルエンジン以前元日本郵船の機関長とお話をしたことがあるのですが、「シリンダーの中に入ることができる」と聞いて、にわかに信じることができませんでした。こうして実物を見ると、全く納得です。さらに普段目にすることがないと言えば潜水艦の発令所です映画でしか目にしたことがありません。実物もさることながら、船の科学館で感服するのは精巧な模型の数々です。しかも今となっては目にすることができない、「あの船」が模型で甦っていました。コロンブスの「サンタマリア」1805年のトラファルガー海戦でイギリス海軍が勝利した時、ネルソン提督が乗っていた「ヴィクトリー」そして「東洋のネルソン」と言えば東郷平八郎元帥が、日露戦争の連合艦隊旗艦として乗っていた「三笠」今は記念艦が横須賀に係留されています。(→こちら)財政不足で実際には建造されなかった、あの「浪速丸」も模型で復元されていました。謎の爆沈を遂げた戦艦「陸奥」勝海舟の「咸臨丸」「よくもここまで」と思うほど精巧で、その数もとても写真で撮り切れるものではありませんでした。もはや見ることができない貴重な船の模型が数々ありましたが、これもそんな船の1つになってしまいました。初期の「さんふらわあ」あの白い船体と舷側の太陽のマークは、遠くからでもそれとわかるものでした。今はすでに引退していますが、カーフェリーと言えばやはりこの船体、「クイーン」の称号はこの船にあげたいと思うほどえです。そして模型でしか知らないと言えば飛鳥です。。。船の科学館はテーマ毎に展示が分かれているのですが、とても興味深いのは「和船のコーナー」でした。(一番地味でしたが・・・)ここでも精巧な模型で復元されていました。戦国時代の主力戦艦「安宅(あたけ)船」この船には「武田菱」の家紋が入っていますが、文禄・慶長の役で加藤清正たちが日本海を渡ったのもこの船でした。江戸時代になると江戸と上方の貨物船「菱垣廻船」利根川水系の海運を担った「高瀬舟」朝鮮との交易で日本海を往復した「朱印船」盛りだくさんの展示品や模型を見た後は、お腹も空いてきたので4階にあるレストラン「海王」に行きました。東京港に入手出港する船と羽田の34Rから離陸する飛行機を眺めながらですが、ランチバイキングで1人1,800円はちと高い・・・せめて「郵船カレー」を一般人でも食べられるのなら話は別ですが・・・海王の上には、ブリッジが復元されています。東京湾の海図が置いてあり、レーダースコープには現在の船影が映っていました。目の前の貨物船が刻々とレーダースコープ上を動いていくので、とても興味深かったです。船の科学館の隣に係留されている南極観測船「宗谷」や青函連絡船「羊蹄丸」もそうですが、元クルー(乗組員)の人が解説してくれるので、これほど生きた面白い博物館はないと思います。関連の記事南極観測船「宗谷」→こちら青函連絡船「羊蹄丸」→こちら
2009/10/07
閲覧総数 707
20
ユネスコの世界文化遺産、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の中で、最もアプローチが難しかったのが、荒船風穴でしょうか。史跡名は「荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡」ですが、世界文化遺産では「荒船風穴」として登録されています。群馬と長野の県境近く、ここに荒船風穴があります。長野と群馬の県境は、碓氷峠に代表されるような勾配とワインディングロードが続き、国道254線だけでもかなりの登りになります。さらに国道254号線から分岐してからは、一部離合困難な細いワインディングが続きました。(さすがにゼットも2速入れっぱなしで緩々と)駐車場からは徒歩で行くしかなく、舗装道ながらさらに斜面を下って行きました。荒船風穴遠景この上に建物が建っていたようです。「風穴」と聞いて、まずは鍾乳洞を想像してたのですが、野面積みの石垣だったのが驚きです。第3号風穴の石垣第3号風穴内部第2号風穴鍾乳洞では、年間を通じての洞内温度は14℃前後で、夏は涼しく冬は暖かい天然のエアコンといったところです。荒船2号風穴では、真夏でも3℃前後しかなかったそうで、天然の冷蔵庫といったところでしょうか。2号風穴の温度外気温20.1℃で、風穴内部は野天でも4.1℃しかありません。(温度計に写っている赤白の縦じまは、私のカープタオルです)この温度に注目したのが、庭屋清太郎と千寿の親子でした。高山社に在学中の庭屋千寿が、父である清太郎に蚕種(蚕の卵)に適した場所であると報告し、清太郎が蚕種の貯蔵庫の建設を始めたのが、明治38年のことでした。明治38年9月竣工の第一号風穴それまで蚕種は年1回の春蚕だけでしたが、荒船風穴の蚕種保存庫が完成したことにより、夏秋蚕も養蚕が可能となりました。年1回の養蚕が年3回となり、さらには農業の閑散期にも養蚕ができるため、繭の増産が可能となりました。「大量生産」と「品種改良」がキーワードとなる「富岡製糸場と絹産業遺産群」において、荒船風穴を養蚕に利用した技術もさることながら、その発想こそが文化遺産に値すると思います。荒船風穴から駐車場へ戻る登り道をひたすら歩いていると、これから荒船風穴に向かう人とすれ違いました。おそらくあまりにアプローチがしんどかったのかと思いますが、いきなり「見る価値ありますか?」と聞かれました。「人によると思いますが…」と苦笑いでしたが、その後の歴史を考えると、先人たちの足跡は一見に値すると思います。ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
2018/09/26
閲覧総数 416
21
台湾では日本のアニメが有名だとは聞いていたので、日本からお土産に「どこでもドラえもん」のストラップを持って行ったところ、大好評でした。(これまで日本各地で集めたものを保管していたのですが、一気に手放してしまいました)ちなみにドラえもんは「??A夢」と書きますが、のび太は「大雄」となっており、名前とキャラが一致しません。ちなみにスネ夫は「小夫」となり、こちらは相変わらずチョイ役のようでした。台湾でもCSで100チャンネル近くあり、ANIMAXなどで日本のアニメも放映されています。ドラえもんと同じように、いずれも日本語の題名が中国語に翻訳されているのですが、こちらの題名は・・・「小丸子」。。。吹き替えなしで日本語でそのまま放映されている上、中国語の字幕が出るので、中国語の勉強にはなっています。ちびまる子ちゃんは題名から理解できたのですが、中国語の題名からは全く想像できなかったのがこちら。なんと「麺包超人」になってしまっています。(こちらも中国語の字幕が出ていますが、こちらは中国語への吹き替え版です)「麺包超人」はほぼ日本の読み方と同じに聞こえたのですが、「メンパオチョウレーン」と呼ぶとアンパンマンが出てきて「細菌人」と戦うといった具合で、もはやギャグ漫画みたいになっていました。
2010/10/19
閲覧総数 662