全28件 (28件中 1-28件目)
1
この日も相変わらずの弾丸日帰りで、始発便で岡山空港に着いた後は、最終便で羽田空港に帰るという予定でした。それでも備中松山城・岡山城・後楽園と回った後、結構な時間が余ってしまったので、オプションを発動することにしました。瀬戸中央自動車道を児島ICで下り、向かった先は瀬戸内海に面する倉敷市下津井です。下津井瀬戸大橋下津井港を見下ろす稜線上に下津井城があり、宇喜多秀家によって築城された近世城郭です。中出丸の石垣縄張は連郭式で、本丸・二の丸・三の丸が稜線上に並び配され、中出丸の曲輪が独立したとうな格好になっていました。中出丸の曲輪跡物見台の役目があったのかも知れません。中出丸から海の方を望むと、眼下の下津井漁港の先に塩飽諸島の瀬戸内海が広がっていました。中出丸からは眺望が良く、振り返ると鷲羽山ハイランドが間近にありました。中出丸と三の丸の間には、堀切と思われる跡が見られました。堀切跡だと思うのですが、中世の戦国城郭のような感じです。三の丸の曲輪二の丸の曲輪二の丸に立ってみると、目の前には塩飽諸島の瀬戸内海が広がっていました。これが瀬戸内海の多島美で、島々に隠れて水平線が見えません。そして瀬戸内特有の夕凪のため、時が止まったように水面も穏やかでした。二の丸からさらに一段高い場所に登城道が続いており、その先に本丸の曲輪があります。本丸本丸の城跡碑本丸には、天守台の跡も残っていました。天守台跡天守が建っていたかどうかはわかりませんが、さぞかし眺めがよかったことでしょう。下津井城は慶長時代初期(1590年代後半)に、宇喜多秀家によって築城されました。その後は岡山城の城主と共に、下津井城の城主も宇喜多秀家から小早川秀秋に代わっています。1603年に池田忠雄の岡山城入部により、下津井城の城郭も整備されましたが、1639年の一国一城令により廃城となりました。
2017/07/25
コメント(0)
岡山城の北東側、旭川を挟んだ対岸に後楽園があります。岡山城天守から見た後楽園の遠景後楽園の名前は明治になって付けられたもので、岡山藩のあった江戸時代には「御後園」と呼ばれていたそうです。正門正門を入ってすぐ右手に見える建物が延養亭で、藩主が訪れた時の居館として使われていました。後楽園の造営が開始されたのは、池田綱政が岡山城主であった1687年のことで、14年かけて1700年に完成しています。江戸時代の大名庭園の風情を残しつつも、岡山城と同じく太平洋戦争の空襲で建造物の多くを失いました。延養亭も太平洋戦争の空襲で焼失し、戦後になって復元されたものです。栄唱の間・能楽堂花葉の池と大立石建造物の中には、空襲の焼失を免れて残っているものもあります。廉池軒慈眼堂池や水路が多く配された回遊式庭園にあって、中でも最大なのが「沢の池」です。沢の池の「中の島」その中の池のほとりにあるのが「唯心山」で、標高6メートルながらも中々の山容です。標高6メートルが立派な「山」になるのも、庭園ならではでしょうか。唯心山から見た沢の池と中の島延養亭岡山城から見ると、旭川を隔てた北東の対岸にある後楽園は、防御の薄い北東の曲輪のような役目だったとも言われています。馬場があったり田畑があったりと、軍事的な側面も垣間見られました。それでも様々な変化のある回遊式庭園は、散策していても飽きることがありません。明治になって一般開放された時に命名された、「後楽園」の名に恥じない名園だと思いました。
2017/07/24
コメント(2)
三段に分かれた本丸のうち、中の段と本段の間には不明門の渡櫓が復元されています。不明門(外側から見たところ)内側から見たところ岡山城の建造物は明治6年の廃城令による取り壊しや、太平洋戦争の空襲によって焼失したりしましたが、昭和39年に建物の一部が復元されました。六十一雁木上門(復元)本丸本段の周囲にある土塀も復元されたものだと思います。本丸本段と中の段の間には、不明門とは別に埋め門のような搦手虎口があり、その先は廊下門の櫓門へと続いていました。搦手の虎口なかなかトリッキーな縄張で、天守の裏から廊下門の渡櫓に直接行けるようになっています。廊下門(復元)廊下門の渡櫓岡山城の天守は太平洋戦争の空襲で焼失してしまい、戦後に外観復元されたものです。1597年に建てられた天守は、入母屋の上に望楼を乗せた古いタイプで、さらには天守台が不等辺五角形をしているため、こんな形になっています。黒漆塗りの下見板張りは立体感がなく、正面から見ると2Dの書割を見ているような感じです。元々は金光氏の戦国城郭であった岡山城でしたが、1591年から1597年までの年月をかけ、現在に残る近世城郭に改修したのが宇喜多秀家です。本丸中の段には、宇喜多秀家時代の石垣が保存されています。宇喜多秀家と言えば、豊臣秀吉の時代には徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元と並ぶ五大老の一人です。岡山城を本拠地として57万石を有し、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将を務めました。(総大将は毛利輝元)関ヶ原の戦い後は逃走を続けた宇喜多秀家でしたが、ついに発見されて最後は八丈島に島流しとなっています。(八丈島へ島流しとなった一番初めが宇喜多秀家でした)以前八丈島を訪れた時に聞いた話ですが、大名であった宇喜多秀家を始めとして、八丈島には政治犯などの知識階級が流されてきたそうです。八丈島では幽閉されることなく自由に行動できたそうで、おかげで八丈島の教育レベルは格段に上がったとのことでした。日本城郭協会「日本100名城」
2017/07/23
コメント(0)
黒漆塗りの下見板張りの天守と言えば、代表格が岡山城でしょうか。岡山城天守太平洋戦争で焼失してしまった天守を外観復元したものです。その外観から別名「烏城」と呼ばれ、現在は本丸部分が烏城公園として整備されています。本丸虎口に架かる「内下馬橋」本丸内堀本丸大手虎口「下馬門」跡岡山城の本丸は「下の段」・「中の段」・「本段」の三段に分かれており、悌郭式に配されています。下の段から見た本段石垣小納戸櫓の櫓台(下の段より見たところ)大納戸櫓の櫓台(下の段より見たところ)下の段と中の段の間には鉄(くろがね)門の跡があり、櫓台の石垣が残っています。鉄門の先にある中の段には、かつて藩庁である表書院が建ち、数棟の建物と60の部屋があったそうです。中の段の曲輪跡中の段の北西隅には月見櫓が現存しています。月見櫓本丸では現存する唯一の建造物です。
2017/07/22
コメント(2)
備中松山城の本丸は標高430mの臥牛山山上にあり、その不便さから建造物が解体されなかったため、明治6年の廃城令後も建造物が残っています。本丸の建造物群現存する建造物もありますが、史実に基づいて復元されたものもあります。本丸東側の石垣と土塀(復元)昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングでも、ロケに使われていました。本丸東御門(復元)備中松山城に現存する建造物の中でも、見どころはやはり天守でしょうか。備中松山城天守(国指定重要文化財)全国に数ある天守の中でも、堂々「現存12天守」の一つです。天守の板張り部分は、一般的な横板張りの「下見板張り」ではなく、珍しい「竪板張り」です。天守の中にも入ってみました。天守内部破風(天守内から見たところ)本丸(天守より)二の丸と高梁市街地の方向二重櫓(現存、国指定重要文化財)備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代の1240年に地頭の秋庭重信が臥牛山に砦を築いたのが始まりとされています。その後城主は高氏や尼子氏などの有力者の支配となり、戦国時代の1561年には毛利元就の支援を受けた三村家親が城主となりました。その三村家親は織田信長と結んで毛利氏に反旗を翻し、1574年からの毛利・宇喜多連合との戦いである「備中兵乱」で敗北し、滅亡しています。関ヶ原の戦い後、備中松山城に入城したのは、小堀政次・小堀政一の父子でした。小堀政次の急死によって城主となった小堀政一は、現在残る近世城郭の修築を行っています。小堀政一というより、作庭の名手「小堀遠州」の名前の方が有名ですが、小堀遠州は山麓の頼久寺で政務を行っていたようです。頼久寺には小堀遠州作の庭園が残っていますが、あろうことか見逃しました。。。岡山県高梁市のHPに頼久寺の庭園が紹介されています→こちら城郭に関して言えば、加藤清正や藤堂高虎が土木の達人で、小堀遠州が建築の達人といったところでしょうか。現在備中松山城に残る天守を始めとする建造物の作事は、小堀遠州によるものです。(と信じています)日本城郭協会「日本100名城」
2017/07/21
コメント(0)
標高430mの山上にある備中松山城は「日本三大山城」の一つに数えられ、昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも登場しています。大手門手前から見た城跡この光景もオープニングで流れていました。CG合成で石垣の虎口から水が流れてくるシーンも、備中松山城の大手門です。真田丸のオープニングでは、備中松山城の他に戸隠神社・上田城・海津城(松代城)など、真田氏ゆかりの史跡が放映されます。備中松山城については真田氏との関連性はないのですが、山深い真田氏の居城にイメージが近いため、ロケ地に選ばれたそうです。やはり建造物の遺構がよく残る山城は、備中松山城の他にないかも知れません。三の平櫓横の登城道この土塀も現存するものです。急峻な斜面上に曲輪が配されているため、曲輪と曲輪の間には結構な高度差があります。三の丸の曲輪跡とその上段厩曲輪の石垣厩曲輪から見た三の丸その下には大手口が見えており、この高度感は備中松山城ならではでしょうか。厩曲輪の土塀下から見ると、はるか見上げる格好でした。厩曲輪からは、二の丸へと登城道が続いています。備中松山城では、石垣の遺構もよく残っています。二の丸虎口今回は石垣を鑑賞するのもそこそに、本丸へと足が急いでいました。二の丸の虎口を抜けると、いよいよその本丸が見えてきました。さらに価値あるものが本丸にあります。
2017/07/20
コメント(2)
1981年2月25日、ローマ法王では初めて来日したヨハネ=パウロ2世が、広島で立ち寄った聖堂が「世界平和記念聖堂」でした。あえて菩提寺とか檀家という言葉を使うならば、ここはうちの菩提寺でもあります。但し、世界平和記念聖堂とは呼ばずに、単に「幟町の教会」と呼んでいます。うちに関しては割とノンセクトなところもあって、私も神社や仏教寺院には崇敬をもって参拝しているつもりですので、念のため。敷地内にあるヨハネ=パウロ2世像ヨハネ=パウロ2世による広島アピール(抜粋)平和記念公園では、日本語によって読み上げられました。戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことです。ヒロシマを考えることは核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは平和に対して責任をとることです。
2013/06/22
コメント(6)
鞆の浦は、瀬戸内海の豊後水道と紀伊水道の中間点にあたり、満潮と干潮による潮流の分かれ目でもあります。まだ航法が発達していない時代、この干満の差による潮流に乗って航行していたため、鞆の浦は古来より「潮待ち」の港とされてきました。航法の発達で潮待ちの必要性が薄れ、現在の鞆の浦の港は小さな漁港といった風情ですが、港の周りにはかつての港湾設備や廻船問屋の土蔵などが残っていました。かつての「鞆の津」江戸時代から残る常夜灯船着場に残る雁木鞆の浦は万葉集にもその名が登場し、江戸時代には朝鮮通信使の寄港地として栄えた歴史のある港町です。現在も随所に旧家の町並が残っており、かつての港町の名残がありました。歴史民俗資料館(鞆城跡)前に残る商家江戸時代末期に建築されたもので、明治以降は「鞆製網合資会社」の社屋として使われていました。太田家住宅(国指定重要文化財)1863年「八月十八日の政変」で三条実美などの公武合体派の公卿が京都を追われ、長州へ都落ちをした「七卿落ち」、この時に七卿が立ち寄った場所です。鞆の浦の名産である「保命酒」の社屋として当時は使われており、三条実美は保命酒を竹の葉に喩えて和歌を残しています。「世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて嘗むるも 珍しの世や」まさか自分が鞆の浦に立ち寄るとは・・・といった感慨でしょうか。同じ幕末期には坂本竜馬も鞆の浦に立ち寄っていますが、こちらも海難事故でたまたま立ち寄ったものでした。1867年に海援隊が「いろは丸」を操船して大阪から長崎に向かう途中、笠岡諸島(岡山)沖の瀬戸内海で紀州藩の「明光丸」と衝突しました。坂本竜馬以下の海援隊は明光丸に乗り移って、修理のためにいろは丸を鞆の浦まで曳航していきましたが、途中でいろは丸は鞆の浦沖で沈没しています。坂本竜馬は鞆の浦に滞在して紀州藩との賠償交渉に臨みましたが、鞆の浦には4日間滞在しただけで、交渉の舞台を長崎へと移していきました。坂本竜馬が滞在した「枡屋」現在も営業中です鞆の浦では「いろは丸」事件が大々的に取り上げられており、4日間の滞在にもかかわらず、坂本竜馬一色といった感じでした。同じ大河ドラマでも、現在放映中の「平清盛」にはほとんど触れられていません。それでも鞆の浦を訪れて感じたのですが、決して観光主義一色に走らず、自分たちの生活も守っている印象があります。目立たない狭い路地裏にひっそりと掲げられた「小魚料理」の赤提灯に、地元の人たちが守っているものを見たような気がします。関連の記事鞆城→こちら瀬戸内海国立公園「鞆の浦」→こちら
2012/04/03
コメント(0)
古代より「潮待ち」の港として万葉集にも詠われ、また北朝と南朝の戦いである「鞆合戦」や、朝鮮通信使の寄港地として、瀬戸内海の要衝となっていたのが鞆の浦です。その鞆の浦を見下ろす丘陵上に鞆城があったとされ、現在は鞆の浦歴史民俗資料館の一帯に城郭があったと推定されています。鞆の浦歴史民俗資料館歴史民俗資料館の周囲は切岸状になっており、城郭の名残はありました。鞆城は福島正則によって築城された近世城郭でしたが、一国一城令より前に破却されたため、縄張りには不明な点が多いようです。1986(昭和61)年の発掘調査によって石垣の遺構が確認され、歴史民俗資料館建設にあたって、南西部の石垣が復元されています。現代になって積まれた石垣と混在していますが、隅石には矢穴が残っていたり、刻印が記されたりしており、当時の石垣が残っていました。本丸があったとされる頂上部に行くと、眼下に鞆の浦の港と瀬戸内海を一望することができました。本丸跡鞆の浦の港鞆の浦には元々大可島城が、沖合いの島に築かれ、鞆要害などと呼ばれていました。大可島城のあった場所(鞆城本丸より)近世城郭としての鞆城は、1600年の関ケ原の戦い後に安芸・備後に移封となった福島正則によって修築されました。1607年の朝鮮通信使の日記には、「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが、未完成である」との記述があります。鞆城は1615年の一国一城令によって廃城になったと言われていますが、鞆城の存在を知った徳川家康が怒ったため、一国一城令より前に破却されたとも言われています。福島正則については、何かと幕府から目を付けられていたのかも知れません。
2012/04/01
コメント(0)
これまで訪れた中で、駅からのアクセスが良かった城跡には佐野城(栃木)があり、新幹線の駅ならば同じ備後の福山城がありました。いずれも駅のすぐ前に城跡があったのですが、さらにアクセスが良かったのが三原城です。本丸石垣の上に新幹線ホームがあります。三原駅へは石垣の間を通って入ることもできました。本丸石垣の上に新幹線の高架駅を造ったのでしょうか、それとも新幹線の駅を造ってみたら、たまたま高架下に石垣があったのでしょうか。三原城の築城主は小早川隆景、小早川水軍の軍港も兼ねていたようで、南側の瀬戸内海に面した水城でした。三原駅にある縄張り図三原城の別名は「浮城」とも呼ばれていたようですが、まさに曲輪が独立して海の上に浮かんでいる感じです。本丸に現在の三原駅があり、山陽本線と山陽新幹線によって本丸が南北に分断されています。三原駅の北側には内堀と石垣が残っており、解説板には「天守台石垣」とありました。解説板でも否定されていますが、縄張り図を見ても「天守台」の呼称よりも、「本丸石垣」の方が正しいように思います。北側から見た本丸石垣と内堀三原城の本丸石垣の上に入ることも出来るのですが、三原駅のコンコースからしか入ることが出来ません。ホームで新幹線を待つ人と城の本丸を見る人が、同じ高さですぐ近くにいるというのは、何とも奇特な構図です。三原城は1567年に小早川隆景によって築城されました。小早川隆景は毛利元就の三男で、吉川元春と共に「三子教訓状」(三矢の訓え)で知られる毛利両川の1人です。ところで小早川氏と言えば関ヶ原の戦いで西軍から東軍へ寝返った小早川秀秋が知られていますが、小早川隆景との間に血縁はなく、小早川隆景の養子です。小早川秀秋は豊臣秀吉の血縁者で、最初に毛利家の養子に迎える話があったそうですが、毛利家の方で断ったため、小早川家の養子になったとの話もあります。(断って正解でしたが…)小早川隆景は同じ三原市にある新高山城を本拠地としていましたが、水軍力強化のために城郭兼軍港として三原城を築城しています。関ヶ原の戦い後は広島城の支城として福島正則の支配下となり、福島正則の時代に櫓などが築かれたそうです。福島正則が改易されると浅野氏の支配下となり、そして1894(明治27)年に本丸跡に三原駅が開業していますぉ
2012/03/31
コメント(0)
竹原の街並みは文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」の1つに選ばれており、「安芸の小京都」と呼ばれて、今でも江戸時代末期から明治の初めにかけての旧家が残っています西側の丘陵部にある西方寺から見た竹原の街並み白壁の塗籠や格子戸などの旧家がいたるところに残っており、街全体が昔に戻ったような感じです。旧笠井邸松坂家住宅竹鶴酒造頼惟清(頼山陽の祖父)旧宅初代竹原郵便局ポストも当時のままです。竹原の街並みをめぐりながら「あれ?」と思っていたのですが、お茶屋などの宿泊施設がありませんでした。西国街道からは外れているので宿場町ではないものの、確か朝鮮通信使の寄港地だったはずです。そこでメインストリートにある歴史民俗資料館で調べてみることにしました。歴史民俗資料館こちらは洋風建築が残っていました。歴史民俗資料館にも朝鮮通信使のことは全く触れられていなかったのですが、よく考えてみると、朝鮮通信使の寄港地は竹原ではなく、もっと東へ行った福山市の鞆の浦でした。竹原を訪れて印象的だったのは、極端に観光主義に走らないところでしょうか。路地に入ると格子戸の前でご近所同士が話をしていたり、生活感にあふれていました。それでも伝統的な街並みがしっかりっと守られており、竹原のよさを一番わかっているのは、竹原に住んでいる人たちなのかも知れません。
2012/03/07
コメント(0)
来島村上氏の本拠地である来島、能島村上氏の本拠地である能島を遠巻きながら見てきました。三島村上水軍のもう一つの本拠地が因島で、その因島を訪れるべく、しまなみ海道を因島南ICで下りてみました。因島の案内地図には「因島水軍城」なる場所があり、これは因島村上氏の本拠地だと思って、早速行ってみることにしました。その因島水軍城は金蓮寺境内の上にあるのですが、金蓮寺から上がって行くと、いきなりよからぬものが見えてきました。もちろん村上水軍の時代に天守などあるはずもなく、史実に基づかない模擬天守です。「本丸」にたどり着いて不思議に思ったのですが、水軍の城なのに本丸から海が見えませんでした。尾根伝いに「展望台」があり、物見櫓の跡かと思って行って見ましたが、やはり海は見えませんでした。昔は入り江だったようですが、それにしても海から遠すぎです。「展望台」から見た「本丸」水軍城というよりも戦国の山城跡のような感じですが、「本丸」にある解説板を読んで納得すると共に、唖然としました。「昭和58年12月1日に築城された・・・」、なんと昭和になって造られた単なる歴史公園でした。(しかも「全国でただ一つの水軍城」の意味が不明・・・)「本丸」にある天守内には村上水軍ゆかりの展示品があるようですが、まったく気が進みませんでした。隣にある資料館は無料なので入って見ると、艦船の模型など海にまつわるものが展示してあり、こちらの方がまだ興味を惹かれます。コロンブスのサンタマリア号の模型などもあったのですが、日本を代表する艦船はやはりこちらでしょうか↓ヤマト。。。艦首に波動砲、艦尾に波動エンジンを搭載しており、さらにはワープまでできるようです。因島にも村上水軍の城跡が数多くあったようですが、いずれも海岸線近くに築かれたものでした。因島村上氏の本拠地はこの水軍城などではなく、ここから南へ約2kmほどいった青影山にある青影城だそうです。(事前に調べていなかったのが全くの敗因です)因島水軍城のある金蓮寺は村上氏の菩提寺であり、境内には村上氏の墓所がありました。これらの宝印塔や五輪等にしても、近隣に分散していたものを集めたものだそうで、村上一族のものと推定されてはいますが、実際は誰のものかかわらないそうです。
2012/02/18
コメント(2)
西国街道廿日市宿の街道沿いに面した丘陵部には、桜尾城と篠尾城の城跡があります。桜尾城が本城で篠尾城が支城としての位置付けです。桜尾城の跡は桂公園としてなっており、街道に面した方の入口は公園裏口のようになっていました。街道に面した方が大手口だと思われますが、現在の公園では表口と裏口が反対になっています。公園裏口(大手口)わずかに虎口や土塁と思われる跡が残っています。土塁の跡でしょうか。大手口付近には削平地が見られるのですが、腰曲輪の跡かも知れません。残念ながら城郭の遺構はほとんど残っておらず、先には公園の敷地が広がっているだけでした。一方の篠尾城は桜尾城から西国街道を西へ400mほど行った場所にあります。桜尾城から見た篠尾城城跡は廿日市天満宮の敷地となっており、コンクリートで護岸された切岸の上に本堂がありました。切岸の上からは西国街道の廿日市宿が眼下にあり、街道沿いに桜尾城の本城も見渡せました。左上に写っている丘陵が桜尾城の本城です。桜尾城は海面に突き出した城郭だったため、当時は海岸線が真近にあったことかと思います。今となっては支城の篠尾城の方が高い場所にありますが、厳島(宮島)を正面に見ることができました。この日は瀬戸内海の沿岸全体にモヤがかかっており、見通しがあまりよくありませんでした。桜尾城は鎌倉時代に築城された城郭ですが、街道筋を抑える要衝にあるためか、戦国時代には安芸武田氏や大内氏など、支配主がよく変わっています。ところで厳島の戦いの記事の中で、毛利元就の謀略の1つとして以下のように書かせてもらいました。「家臣の桂元澄を陶晴賢に寝返ったと見せかけ、陶晴賢に対し「厳島へ渡海すれば、呼応して毛利元就に対して挙兵する」という偽の書状を書かせた」その桂元澄こそが桜尾城の城主で、桜尾城跡にある桂公園の由来となっています。また、桂元澄の末裔には、木戸孝允(桂小五郎)や桂太郎(内閣総理大臣)がいます。
2011/10/14
コメント(0)
亀居城はメジャーな城郭ではないかも知れませんが、築城主は戦国史では超メジャーな武将、福島正則です。思えば広島城で福島正則が修復した石垣を見たことはあっても、福島正則の築城した城郭を訪れるのは、亀居城が初めてです。亀居城は広島城の支城としての位置付けですが、総石垣造りの近世城郭で、本丸を含めて合計11もの曲輪を配した縄張りだったようです。現在は三の丸から先が公園として整備されており、建物は残っていないものの、石垣はしっかりと残っていました。三の丸の石垣隅石はしっかりと算木積みで積まれていました。この石垣の並びが不思議だったのですが、空堀跡を埋めて道を造ったのかも知れません。石垣石は山陽地方特有の花崗岩を加工したもので、打ち込み接ぎで積まれた石垣には、所々に刻印や矢穴が残っていました。矢穴岩の割れそうなところに矢穴(ミシン目)を入れ、さらにクサビを打ち込んで割り込むのが当時の加工法です。刻印江戸城や駿府城など、天下普請の城では見かけるのですが、単独普請では珍しいと思います。虎口の櫓台と思われる石垣には、隅石に「扇の勾配」が見られました。扇の勾配は別名「清正流」とも呼ばれていますが、このあたりは盟友である加藤清正に教えてもらったのでしょうか。本丸には天守台と思われる石垣がありましたが、天守が建っていたかどうかはわかりません。亀居城は西国街道(山陽道)に面した急峻な丘陵上にあって、陸海ともに毛利氏への睨みを利かせている感じです。縄張りを見ると洗練された印象があり、さすがは戦国きっての名武将による築城だと思いました。1600年の関ヶ原の戦い後、毛利輝元が防長二カ国に減封となると、広島城には福島正則が入城してきました。福島正則はすぐに両国経営に乗り出し、領内に広島城の支城の築城を開始しました。亀居城もその支城の1つですが、福島正則が毛利氏に対する抑えとしての役割を担っているだけに、周防国との国境と西国街道を抑える亀居城は、重要拠点と位置付けられていたと考えられます。福島正則は甥の福島正宣を城主として、1603年に亀居城の築城が開始され、1608年に完成しました。完成の前年に福島伯耆が他界したため、亀居城には城代が置かれましたが、すでに福島正則に対する幕府の目は厳しく、1611年に幕府の意向により破却され、廃城となっています。関連の記事広島城→こちら西国街道~玖波宿→こちら
2011/10/11
コメント(0)
山陰の小京都と呼ばれる津和野の城下町は、津和野川が流れる山間の盆地に広がっています。国道9号線の眼下に津和野の城下町が見えたとき、反対側の山頂に津和野城の石垣を見ることができました。津和野城の城郭は標高367mの山頂にあり、居館のあった山裾から急斜面に沿って登城道が続いているのですが、山頂までは観光リフトがあったので、当然のようにリフトに乗ることにしました。(迷うことなくリフトに乗るあたり、どうも山城に対する気持ちがぬるくなりつつあります)リフトに乗る時にカウベルを渡されたのですが、聞くと「熊除けのため」だそうです。リフトを降りると山頂の城郭に向かって尾根沿いに登城道がついており、とてもわかりやすく歩きやすい道でした。津和野城は関ヶ原の戦い以降に改修された近世城郭ですが、登城道の脇には戦国城郭の名残である堀切跡も残っていました。戦国の吉見氏の時代に造られたものです。縄張りも戦国城郭を踏襲したと見え、尾根の斜面にそって曲輪が配されていました。北東側の斜面には織部出丸の独立した曲輪が配され、周囲を石垣で囲まれていました。織部出丸の虎口出丸がある方向を大手とみるのが妥当ですが、出丸そのものは一段と高い場所に築かれています。江戸時代になって従来の搦め手を大手に改修したため、搦め手にあった出丸の曲輪が大手口となったようです。(戦国城郭の大手口は反対側の斜面にあったようです)織部出丸織部出丸は北東の斜面に突き出すような格好になっており、眼下には津和野川と城下町を見下ろすことができました。織部出丸からは尾根沿いに道がついており、斜面に沿って曲輪が巡らされているあたりに戦国城郭の名残がありました。本丸周辺まで来ると、さすがに近世城郭らしくひときわ高い石垣で囲まれていました。三の丸虎口枡形が残っており、櫓門があったのかも知れません。三の丸建物らしき礎石の跡が残っています。西櫓門跡東門(大手門)付近の石垣東門付近の櫓跡(?)太鼓丸と名付けられた曲輪の石垣隅石の孕みが気になるところです。ところどころ石垣が孕んでいるのが気になったのですが、大雨によって石垣が崩落する危険性があるため、石垣の修復工事が行われているようでした。山頂から斜面に沿って曲輪が巡らされているようですが、山頂付近には「三十間台」と呼ばれる広い曲輪がありました。ここが本丸なのかも知れません。夏草と廃城の石垣と、妙にマッチする津和野城でした。津和野城の歴史は古く、1281年の弘安の役(元寇)の後、鎌倉幕府によって西石見の防備を命じられた吉見頼行が、能登から入封して築城を開始しました。中世城郭としての津和野城は1295年に完成し、以後は代々吉見氏の本拠地となっています。ところどころに見られる戦国城郭の遺構は吉見氏時代のものと思われますが、1554年には大内氏・陶氏・益田氏の連合軍との100日におよぶ籠城戦を戦い抜きました。1600年の関ヶ原の戦いで吉見氏は毛利氏と同じく西軍につき、関ヶ原の戦いの後は萩城に退転しています。(この頃の萩城は津和野城の支城としての位置づけでした)関ヶ原の戦い後は坂崎直盛が入城し、それまでの戦国城郭から近世城郭へと改修しました。現在の城郭は坂崎氏の時代に築かれたものと思われます。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/08/14
コメント(0)
山陽と山陰のほぼ中間点にある岡山県津山市は、律令時代には美作国の国府が置かれ、江戸時代になると18万6千石の津山藩が置かれました。津山藩の設立と共に築城されたのが津山城で、総石垣造りの近世城郭です。三の丸の虎口にある表門(料金所があります)津山城を訪れて感じた印象は、石垣が高いことと、縄張りがトリッキーなことです。門を通るたびに向きを変えなければならず、さらには曲輪の先が行き止まりになっていたりして、途中で本丸を見失いそうになったほどでした。三の丸の表門を通ると反対向きにさらに門があり、向きを変えて進むような格好でした。この門の先に三の丸の曲輪があるのですが、三の丸は袋小路になっていて行き止まりです。二の丸に行くために再び向きを変え、二の丸の虎口を上がって行きました。二の丸虎口の表中門当時は二の丸も土塀で囲まれていたようですが、こちらも袋小路になっていました。二の丸から本丸へ向かう途中には門が2ヶ所あったのですが、いずれも向きが反対になっているので、再び大きくUターンする形となりました。切手門表鉄門本丸大手虎口の表鉄門の周りには櫓が建っていたようで、櫓台の跡が残っていました。この高石垣の上に櫓が建っていたならば、圧倒するような感じだったことでしょう。行ったり来たりしながらも、櫓台を抜けてようやく本丸にたどり着きました。本丸本丸から見た津山の城下町津山城には全部で70ほどの櫓が建っていたそうで、櫓の数では姫路城を凌ぐほどです。現在の本丸には備中櫓が復元されていました。本丸には天守が建っていたようなのですが、合坂のある高石垣があったのでこちらが天守台かと思っていました。実は太鼓櫓の跡だったようです。天守は反対側にあり、天守台に至る間も石垣が複雑に折れ曲がっていました。天守台天守台は一見すると普通の石垣に見えるのですが、天守台入口も石垣が複雑に折れ曲がっていて、こちらもトリッキーな造りになっていました。当時は5層5階の天守が建っていたようなのですが、後にこれが物議をかもすことになります。この複雑な城郭を築城したのは、織田信長と共に本能寺の変で討死した森蘭丸の末弟である森忠政です。森忠政は1603年に18万6千石で入封し、地名をそれまでの鶴山から津山に改名して津山藩を立ち上げました。津山藩の立ち上げと共に津山城の築城を開始し、1616年に13年の歳月をかけて完成しています。森忠政は5層5階の天守を建築しましたが、これが幕府によって目が付けられることとなりました。幕府の巡検の前に森忠政は4層部分の瓦を全て取り外し、「4層部分は屋根ではなく庇であり、4層の天守だ」と言い張って乗り切ったそうです。幕府の巡検視までも欺いた津山城でしたが、明治6年(1873年)の廃城令により、建物は全て破却されてしまいました。(財)日本城郭教会「日本100名城」
2011/05/24
コメント(0)
吉備と言えば桃太郎の伝説が有名ですが、吉備津神社に伝わる「温羅(うら)」の伝説が元になっていると言われています。温羅は空から飛んできたとされ、百済の王子を自称していました。吉備中山の北西にある新山を本拠地として悪行を重ねたため、人々は温羅の城を鬼ノ城と呼んで恐れていたそうです。(この温羅の本拠地が実在する鬼ノ城かどうかは疑問です)畿内から何度か温羅の討伐軍が派遣されますが、なかなか退治することが出来ませんでした。そこで崇神天皇が五十狭芹彦命を派遣し、温羅を捕えることに成功しました。温羅は人々から呼ばれていた「吉備冠者」の称号を五十狭芹彦命に献上し、以後五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになっています。温羅との戦いの中で吉備津彦命が陣を置いたとされる場所が吉備中山で、現在の吉備津神社がある場所です。吉備津神社祭神は吉備津彦命で、吉備津彦命から5代の子孫によって社殿が造営されたのが始まりとされています。境内入口には「矢置石」があり、吉備津彦命と温羅との戦いの中で、温羅の放った矢を空中で奪取し、矢をここに置いたことに由来しています。矢置石現在の吉備津神社の社殿は足利義満によって造営されたもので、「吉備津造り」と呼ばれる独特の形をしており、拝殿と本殿が一体になっています。吉備津神社の拝殿および本殿(国宝)吉備津神社のある吉備中山には吉備津彦神社もあり、同じ山によく似た名前の神社があるので不思議に思っていたのですが、吉備国が備前国・備中国・備後国に分かれた時に、吉備津神社が分霊されて吉備津彦神社が造営されたそうです。新たに造られた吉備津彦神社は備前国一宮となり、元々の吉備津神社は備中国一宮となっています。吉備中山の北東側に吉備津神社があり、北西側に吉備津彦神社があって、その間を備前と備中の国境線が通っていました。吉備津彦神社拝殿こちらは岡山城の宇喜多氏や池田氏などの戦国武将から崇拝されていたようで、羽柴秀吉も備中高松城水攻めの時に祈願したそうです。吉備や出雲に限らず、伝説や物語を架空の話と考えるか、それとも一部は史実に基づいていると考えるか、そこで歴史の見方が少しは変わってくるのかも知れません。桃太郎の話も後世になってから改変されたにせよ、史実に基づいているものとして考えると、想像がふくらんできます。(桃太郎の姿を想像してみると、月代に鉢巻を締めた鎧袴姿で、これは近世になってから作られた姿だと思います)一方で鬼の姿を想像してみると、四角く赤い顔で牛の角に虎の腰巻をはき、金棒を持っている姿かと思います。ちなみに北東の方角は「鬼門」として忌み嫌われますが、十二支で言うと丑寅の方角で、まさに牛に虎です。それでも四角く赤い顔に金棒を持つことに注目すると、製鉄技術を持ちながらも山岳に追いやられた縄文人(または山岳狩猟民)だとも考えられます。大陸から渡ってきた農耕を主体とする弥生人と、山岳で狩猟を主体とする縄文人の確執が政権の成立過程とするならば、神話や物語が何らかの史実と関連があるようにも思えてきます。
2011/05/23
コメント(2)
場所は特定できながらも城郭にたどり着けなかった城がいくつかあるのですが、鬼ノ城もそんな城郭の1つです。たどり着けなかった理由はさまざまなのですが、前回鬼ノ城を訪れた時の場合は、初の濃霧による撤退でした。霧だけでなく謎にも包まれた城で、なぜここに山城があるのか、不思議に思うところです。鬼ノ城は標高397mの鬼城山の山上にあり、周囲2.8kmにわたって城壁で囲まれた古代山城です。ここに石垣などがあることは古くから知られていたそうですが、近年になって発掘調査が進められ、復元整備が行われてきました。城壁の南西部にある角楼東西南北の四方に門が設けられていたようで、西門の櫓が復元されていました。西門また城壁に沿って敷石が並べられ、通路と雨水対策の役割を果たしていたそうです。敷石は日本の山城では鬼ノ城しか例がなく、朝鮮半島の朝鮮式山城でもあまり例がないとのことでした。石垣にしても敷石にしても、これだけの石をどうやって運び上げたのか、不思議に思います。城壁に沿って反時計回りに見て回ったのですが、ところどころに遺構がよく残っていました。第一水門跡城壁の中にはため池があり、水の手も確保されていたようです。現在の鬼ノ城の入口は西側にあるのですが、城壁全体としては東側が低く下がったような形になっており、こちら側を大手と見るべきかも知れません。東門(第一城門)跡発掘調査の結果、4本柱の掘立柱式の門が確認されました。南門跡北東側は城郭が突出したようになっており、特に高い石垣が残っていました。築城当時のものだと思われますが、この石垣を積むだけの築城技術があったとは驚きです。城壁の内側には建物がいくつか建っていたようで、礎石の跡も残っていました。やはり掘立式の建物が建っていたと思われます。鬼ノ城の築城時期についてはよくわかっておらず、百済救援のために出兵した663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北した後に、唐・新羅連合軍の侵攻から防衛する目的で西日本に築城された山城の1つとされています。しかしながら大宰府にある大野城を始めとする12の山城については日本書紀などに記述があるものの、この12城以外については歴史書に記載がなく、築城の経緯などはよくわかっていません。歴史書に登場する12城を「古代山城」や「朝鮮式山城」と呼び、これら以外のものは「神籠石式山城」として区別されていますが、鬼ノ城についても文献に記載がないため、分類上は神籠式山城とされています。それでもこれだけの城郭を築城するとなると、かなりの権力者でないと不可能だと思われますし、石垣などは朝鮮式山城によく似ていることから、鬼ノ城も唐・新羅の侵攻に備えて築かれた城かも知れません。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/05/22
コメント(0)
音戸の瀬戸を通って倉橋島に渡り、さらに早瀬大橋を渡って江田島までやって来ました。江田島と言えば旧海軍兵学校のあった場所で、現在は海上自衛隊の幹部候補生学校と第一術科学校になっています。中の見学は出来るのですが、海上自衛隊の施設でもあるため、見学時間が決められていて、団体で見学するようになっています。見学開始時間まで少し時間があったので、食堂で食事をすることにしました。海軍カレー海上自衛隊の艦隊勤務では、曜日の感覚を忘れないように毎週金曜日はカレーライスだと聞いたことがあります。売店やコンビニもあり、自衛官だけでなく一般の人も利用することができました。コンビニもあるのですが、品揃えも一般のコンビニとは少し違って、実用品主体のような感じでした。NHKの「坂の上の雲」のロケが行われた講堂の中も見学することができます。本木雅弘の秋山真之が図上演習を行っていたシーンもここで撮影されていました。振り返ると江田島の最高峰である古鷹山がよく見渡せました。海軍兵学校時代のみならず海上自衛隊でも訓練登山が行われ、早い人だと25分位で登ってしまうそうです。古鷹山には登りませんでしたが、山頂には海軍兵学校時代の「五省」の碑があるそうです。一、至誠に悖る勿かりしか一、言行に恥づる勿かりしか一、気力に缺くる勿かりしか一、努力に憾み勿かりしか一、不精に亘る勿かりしか伯父が海軍兵学校を卒業しているのですが、海兵時代の話はあまり聞いたことがありません。(それでも卒業時に拝領する短剣が飾ってあるのを見たことがあります)海軍兵学校は意外とリベラルな感じで、英語の教科もあったようです。江田島までは呉から倉橋島を経由して延々と陸路を1時間以上かけて来たのですが、大和ミュージアムやてつのくじら館のある呉中央桟橋と江田島の小用港の間にはフェリー航路があり、こちらを使うと10分ほどの距離にあります。江田島フェリーの後甲板から見た江田島正面には海軍呉工廠のあった造船ドックが見えていました。
2011/05/12
コメント(2)
松江から出雲街道(国道54号線)を南下して中国山地を越え、広島県に入って来ました。月山富田城の尼子軍も出雲街道を南下したことでしょうが、中国山地を越えた広島県北部の出雲街道沿いには、山陽・山陰の覇権をかけて争った毛利氏の本拠地、吉田郡山城があります。吉田郡山城の遠景毛利氏の本拠地としては広島城・萩城を訪れたことがありますが、いずれも近世城郭の平城なので、本拠地としての戦国山城を訪れるのは吉田郡山城が初めてです。山麓の資料館に吉田郡山城の城郭模型があり、縄張りが復元されていました。山頂の本丸を中心として、周囲の尾根に沿って曲輪が張り巡らされていたようで、曲輪の数は270もあったそうです。山全体が曲輪で覆われて、まるで要塞のように見えました。居館である「御里屋敷」は山麓にあったようですが、現在は「県立自然の家」の敷地になっていました。毛利元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に宛てた三子教訓状(いわゆる三矢の教え)の場所でもあります。御里屋敷跡に建つ毛利元就像毛利元就は1571年6月14日に75歳で亡くなるまで吉田郡山城に住んでおり、御里屋敷と同じ山麓部には毛利元就が荼毘に付された火葬場の跡が残っていました。また吉田郡山城の南東側の山麓部には、毛利元就の子である毛利隆元の墓所がありました。毛利隆元の墓所毛利元就から家督を譲られた後も毛利元就が実験を握っていたため、毛利隆元は実質的に毛利家の当主となることもなく、毛利元就よりも8年早い1563年に亡くなりました。尼子氏攻略のため出雲に向かう途中、饗応を受けた後で急死したため、毒殺とも食中毒とも言われています。吉田郡山城の本丸への登城道は、西側の尾根を伝ってに本丸へと続いていました。尾根沿いには削平地が見受けられたのですが、これも数ある曲輪の跡かと思われます。曲輪跡(?)また登城道の入口付近には、空堀の跡も残っていました。発掘の結果、長さ100mもある薬研堀だったようで、吉田郡山城の内堀として機能していたようです。尾根を登った本丸部の西側には洞春寺の跡があり、毛利元就や毛利一族の墓所がありました。毛利元就墓所毛利一族の墓所もあって、山口市の瑠璃光寺にある香山墓所と同じく、円墳型の墳墓となっていました。本丸付近は特に曲輪が張り巡らされた場所で、頂上部の本丸を中心に六方の尾根伝いに、放射状に曲輪が置かれていたようです。画像の下側が北側になるのですが、右上(南西)を大手と見るのが妥当かも知れません。実際に南西側の尾根には「勢溜の壇」と名付けられた曲輪群があり、特に厳重に曲輪が連なっている場所です。「勢溜の壇」の曲輪大手口を守る曲輪群だったのでしょうが、尾根に沿って曲輪が下へと幾重にも連なっていました。「勢溜の壇」の曲輪群の上にはさらに広い曲輪があり、「御蔵屋敷」と名付けられていました。山口市の常栄寺に吉田郡山城の古城図があるようで、その古城図に出てくる「御蔵」がこの曲輪だとされています。御蔵屋敷に続いて三の丸があり、当時は土塁ではなく石垣で囲まれていたようです三の丸三の丸の石垣石垣は江戸時代になって破却されたため、今は完全に残っていませんでした。御蔵屋敷や三の丸から一段高い場所に二の丸があり、やはり石垣で囲まれていたようですが、三の丸の石垣と同じく江戸時代に破却されたようです。二の丸それにしても石垣は江戸時代に破却されたとなると、そもそも誰が何のために破却したのか疑問に思うところです。江戸時代に入る前に毛利氏の本拠地は広島城に移っており、江戸時代には萩城に移っているので、吉田郡山城の石垣を破却する理由がよくわかりません。(関ヶ原の戦い後、毛利氏の後に広島城に入った福島正則が酔った勢いで腹いせに命じたとすると、さもありなんといった感じではありますが・・・)本丸はさらに一段高い場所にあり、意外と狭い感じがしました。ここが中国地方の覇者である毛利氏の本拠地、吉田郡山城の本丸です。山頂の本丸を中心として、周囲に延びる尾根線上に曲輪が巡らされているのは山麓でわかっていたのですが、その曲輪の跡を確かめるために本丸の周囲を回ってみました。本丸西側の尾根線上にある「釣井の壇」その名の通り水の手のあった場所で、現在は土に埋もれた井戸を掘り起こすと水が湧き出るとされています。本丸の南西側にある「姫の丸壇」の曲輪姫の丸の名前の由来はよくわかりませんが、搦め手方向にあるため、有事の際に女性が集まる場所だったのでしょうか。大手方向と正反対にある「釜屋の壇」炊事場だったようで、大手から遠い場所にあるのもわかるような気がします。名前からすると馬がいたのでしょうが、ここまで馬を連れて来るのは一苦労だったことでしょう。縄張りには築城主のくせや考え方が出ると思っているのですが、毛利元就の吉田郡山城は周到な印象がありました。さすがは中国地方の覇者であり、謀略家の城郭といった印象です。吉田郡山城の歴史は古く、南北朝時代の1336年に毛利時親が越後国から安芸国吉田荘に移ってきたことに始まります。ちなみに毛利と言えば中国地方のイメージが強いかと思いますが、元々は相模国毛利荘(神奈川県厚木市)が発祥で、大江広元の子孫にあたります。(毛利氏の史跡では「一文字に三ツ星の家紋と共に、「大江朝臣」の姓をよく見かけます)元々吉田郡山城の本丸は、現在の本丸の南東側にある「旧本城」と呼ばれる小高い場所にありました。現在残っている城郭を築き上げたのが毛利元就で、ここを拠点に中国地方を制覇し、中国地方のみならず四国や九州の一部まで勢力を伸ばし、まさに西日本の雄者となっていきました。戦国時代の毛利元就の時代は、中国地方の覇権をかけた尼子氏との戦いの時代でもありました。毛利元就が尼子氏の月山富田城に攻め込んで包囲したり、尼子氏が吉田郡山城に攻め込んで包囲したりと、吉田郡山城は実戦を潜り抜けてきた城です。実際に1540年には、尼子晴久が3万の大軍で吉田郡山城を包囲しました。この時毛利元就は兵と領民合わせて約8,000で籠城戦を戦い、約4ヶ月間の籠城戦の末に尼子軍を敗退させています。吉田郡山城の包囲戦で尼子軍が陣を置いた青光井山毛利元就の孫である毛利輝元の時の1591年に本拠地を広島城に移したため、毛利氏本拠地として約250年続いた吉田郡山城は廃城となりました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/05/10
コメント(2)
宮島航路の桟橋から厳島神社へ向う参道の脇に「要害山」と呼ばれる場所があるのですが、ここが宮尾城のあった場所です。「要害山」とはいうものの、名前とは裏腹に標高は30m足らずの小高い丘陵で、石段を登るとすぐに頂上に着きました。城というよりは砦といった印象ですが、「日本三大夜戦」や「日本三大奇襲」などと呼ばれる「厳島の戦い」の舞台でもあります。丘陵の上には曲輪の跡と思われる削平地があり、神社の祠やベンチなどが置かれています。地形からすると曲輪は連郭式に三つ並んでいたようですが、地形の改変が激しくて城郭の比定は困難でした。南側の曲輪跡。虎口跡宮尾城は非常にシンプルな造りになっており、「要害山」の名前にあるような堅固な印象はありませんでした。しかしながらそれも納得のいく話で、宮尾城は毛利元就が陶晴賢をおびき出すために造ったオトリの城であります。「守るための城」というより、「攻めてもらうための城」といったところでしょうか。もしも宮尾城が堅固な造りで、それを見た陶晴賢が引き揚げてしまったら、せっかく宮尾城に詰めた毛利元就方の将兵からもブーイングが起こったことでしょう。宮尾城は1555年に毛利元就によって築城されましたが、当時の毛利元就は中国地方の弱小武将の一人に過ぎませんでした。しかしながら「厳島の戦い」で陶晴賢に勝利したことから、西日本最大の戦国武将へとのし上がって行きました。そしてこの宮尾城こそが、毛利元就の中国制覇の橋頭堡だと言えるでしょう。厳島神社を訪れる際は、ほんの少しだけ足を伸ばして戦国絵巻を想像してみてはいかがでしょうか。関連の記事厳島古戦場→こちら厳島神社→こちらおく
2011/02/17
コメント(0)
「厳島の戦い」は「日本三大奇襲戦」の1つに数えられ、大劣勢から逆転勝利した戦いとして有名です。ちなみに「日本三大奇襲戦」とは、1.桶狭間の戦い…織田信長2,000VS今川義元25,0002.河越夜戦・・・北条氏康8,000VS古河公方と山内・扇谷上杉連合軍80,0003.厳島の戦い・・・毛利元就3,500VS陶晴賢27,000いずれも10倍の敵を前にした大劣勢からの勝利です。織田信長・北条氏康・毛利元就それぞれの作戦が功を奏した戦いでもあり、これらの戦い以降、織田信長は天下を掌握し、北条氏康は関東の最大勢力に、毛利元就は西日本の最大勢力へとのし上がって行きました。さらにこれらの戦いで共通しているのは、周到に練り上げられた作戦と数少ないチャンスを逃さなかった勇気と決断力だと思います。毛利元就が陶晴賢に勝利した厳島の戦いは、厳島神社のある宮島が戦いの舞台でした。当時の中国地方は大内義隆と尼子晴久の二大勢力の下にあり、安芸(広島)でも弱小武将たちが、大内氏に従ったり尼子氏に従ったりしていました。毛利元就もそんな弱小勢力の一人で、初めは尼子晴久についていたのですが、途中で寝返って大内義隆に従っていました。その大内義隆は、1551年に家臣である陶晴賢(すえはるたか)の突然の謀反により滅亡しました。毛利元就は逆臣陶晴賢との対決姿勢を明らかにしますが、所詮は多勢に無勢であり、到底勝ち目はありません。そこで毛利元就は不利な平地での戦いを避け、狭い厳島(宮島)を戦いの場に選びました。厳島合戦図毛利元就は厳島神社の近くにオトリ目的の宮尾城を築城し、陶晴賢の大軍を厳島へと誘き出すことに成功しました。陶晴賢は27,000の大軍で厳島に上陸し、宮尾城の東側「塔ノ岡」に本陣を置いて、宮尾城を包囲しました。陶晴賢が本陣を置いた「塔ノ岡」(宮尾城より)。五重の塔は厳島神社のものです。陶晴賢が宮尾城を包囲するなら、ここに本陣を置くしかなさそうです。陶晴賢が塔ノ岡に布陣したと知った毛利元就は、水軍を率いて本土を出発しました。風雨が激しくて渡海は困難を極めましたが、夜陰に紛れて塔ノ岡や宮尾城の反対側にある「包ヶ浦」に上陸しました。毛利軍の上陸地である包ヶ浦包ヶ浦にある「毛利元就上陸之跡」の碑全軍が上陸すると、毛利元就は乗ってきた船を引き上げさせました。本土に帰るためには陶晴賢軍を破って船を奪うしかなく、まさに不退転の決意で臨んだ背水の陣です。そして毛利軍は夜陰に紛れて行軍し、陶晴賢の本陣「塔ノ岡」を見下ろす「博打尾(ばくちお)」の峰に集結しました。毛利軍が集結した「博打尾」方面(宮尾城より)。後ろの山がそうだと思いますが、塔ノ岡の背後を衝くならここがベストでしょうか。この頃毛利軍では、別働隊が宮島へと渡海していました。「毛利両川」の小早川隆景率いる水軍ですが、陶晴賢軍に対し「九州からの援軍だ」と偽って、正面から堂々と渡海して厳島神社への上陸に成功しています。小早川水軍が渡海ルート(宮尾城より)そして1555年10月1日、夜明けと共に毛利元就本隊は博打尾を一気に駆け下り、塔ノ岡にある陶晴賢の本陣へ襲いかかりました。山を駆け下ることで、兵力不足を挽回することも毛利元就の作戦の1つです。さらに敵前上陸を敢行した小早川隆景の別働隊も、毛利元就に呼応して攻撃を開始しました。まさか嵐の中を渡海して来ると思っていなかった陶晴賢軍は、来たるべき宮尾城総攻撃に備えてぐっすりと眠っている最中でした。完全に不意を衝かれた陶晴賢軍は大混乱となり、ろくな戦いもしないままに敗走し始めました。陶晴賢軍は島内での逃げ場を失って海岸へと逃れますが、そこに待ち構えていたのは、毛利元就の援軍として到着した村上武吉・来島通康率いる村上水軍です。すでに村上水軍が海上を封鎖しており、逃れる陶晴賢軍にさらに追い討ちをかけていきました。逃げる場所も帰る船も失った陶晴賢は、最期を悟って厳島の「高安ヶ原」で自刃しました。その陶晴賢の辞世の句が残っています。「何を惜しみ 何を恨まん 元よりも この有様の 定まれる身に」毛利元就の急襲は全く予想外の出来事だったと推察されます。毛利元就が10倍近くの敵を打ち破った厳島の戦いですが、勝因は毛利元就の智略と勇気に尽きると思います。陶晴賢を厳島に誘き出すにあたって、オトリのために宮尾城を築いたのですが、オトリの城を築城しただけでは、陶晴賢もすぐには渡海して来ません。そこで毛利元就が使ったのが、得意の謀略です。1.家臣の桂元澄を陶晴賢に寝返ったと見せかけ、陶晴賢に対し「厳島へ渡海すれば、呼応して毛利元就に対して挙兵する」という偽の書状を書かせた。2.オトリの宮尾城を築城すると、宮尾城には陶晴賢を裏切った武将を守りにつかせた。さらには「宮尾城の築城は失敗だった。攻められたら危ない」と偽の情報を流した。ここまでされては、厳島に渡海して宮尾城を包囲するのが当然の流れかと思います。陶晴賢は毛利元就の謀略に引っかかったことになりますが、陶晴賢は中国最大の大内家を乗っ取ったほどの人物であり、決して凡将ではありません。やはり毛利元就の勇気と器量が、陶晴賢より数段上だったように思います。嵐の中でも将兵を勇気付けながら渡海し、自ら先陣に立って攻めこんだことが、劣勢を挽回する決め手になったのかも知れません。毛利元就が西日本最大の武将へと躍進する契機となった「厳島の戦い」ですが、ここを訪れると改めて毛利元就の智勇に感服します。戦国時代という日本でも特異な環境下で生き抜いてきた戦国武将たちの智略や勇気は、現代に生きる私にも大いに参考になるところです。関連の記事広島城→こちら宮尾城→こちら厳島神社→こちら
2011/02/16
コメント(2)
カープの応援歌で有名な「宮島さん」の厳島神社ですが、天の橋立・松島と並んで「日本三景」の一つに数えられ、1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されたことでも有名です。それにしても、来るたびに外国人観光客が増え、参道がきれいになっている気がするのですが、やはり世界文化遺産の効果でしょうか。宮島フェリー桟橋から厳島神社へ向う参道には、鹿があちらこちらを当然のように歩き回っています。厳島神社といえば海に浮かぶ大鳥居が幻想的ですが、干潮の時は海に下りて鳥居の下まで行くことができます。高さは奈良の大仏と同じ16m、重さは約60tで自重だけで建っています。樹齢500~600年のクスノキで出来ており、現在の鳥居は8代目ですが、これだけの巨木を探すのに20年かかったそうです。満潮の時は大鳥居まで行くことができませんが、干潮の時は海側から厳島神社の本殿を眺めることができます。厳島神社本殿。ちょうど鹿が遊びに来ていたので、一緒に撮らせてもらいました。痛し痒しではありますが、やはり海に浮かぶ姿の方が美しいかも知れません。厳島神社は593年に創建されたと言われており、実に1400年の歴史を持つ神社です。平安時代の1168年には平清盛の援助を得て、現在のような廻廊で結ばれた海上社殿が造営され、全てが完成するまでに数年が費やされたといわれます。寝殿造りの回廊鎌倉時代から戦国時代にかけては、一時荒廃した時期がありましたが、「厳島の戦い」に勝利した毛利元就によって、再建・修復されました。現在の本殿(国宝)も、1571年に毛利元就によって再建されたものです。本殿からは海に向かって平舞台が突き出しており、その上に高舞台が置かれています。高舞台(国宝)平清盛が四天王寺(大阪)から移したとされる舞楽がここで行われます。現在の高舞台は1546年に造られたものだそうです。さらに厳島神社には、唯一海に浮かぶ能舞台があります。1568年の観世太夫の来演が始まりとされ、1605年に当時広島城主であった福島正則によって寄進され、現在の能舞台は同じく広島城主となった浅野氏によって建立されたものです。戦国時代の福島正則の話が最近のように思えるほど、その歴史には重みがあるのですが、厳島神社周辺にもその歴史の跡が残っていました。平重盛手植えの松後白河法皇御幸の松カープファンのみならず、平清盛の時代から「宮島さん」として多くの人に崇拝されてきた厳島神社ですが、どうも最近の広島カープだけには御利益がないようです。
2010/08/18
コメント(2)
広島城は別名「鯉城」と呼ばれ、わが広島東洋カープの名前もこの鯉城の広島城に因んで名付けられました。戦前までは天守などの建物が残っていたのですが、原爆により全て破壊されてしまい、現在は二の丸の門と櫓などが外観復元されています。復元された二の丸の「表御門」と「平櫓」二の丸の「太鼓櫓」下見板張りで統一された外観は、いかにも西国大名の城郭といった風情があります。二の丸表御門二の丸の曲輪毛利輝元の時代に築造された当時の曲輪で、本丸からは独立した馬出のような縄張りになっています。本丸には廣島護国神社があり、初詣の参拝客で賑わっていました。宮島の厳島神社よりも初詣客が多く、広島では参拝客が最も多いそうです。原爆によって当時の建物は全て消失してしまいましたが、石垣だけは原爆の爆風にも耐えて残っています。爆心地に近い本丸南側の石垣。原爆により黒く焦げた跡があります。太平洋戦争時は本丸に中国軍管区の司令部が置かれ、地下の通信室からは世界最初の原爆投下の第一報が打電されました。軍管区司令部跡。司令部に広島城の詳細な地図が残っていたため、その図を元に天守も外観復元されました。大天守昔は小天守閣との連立天守閣でしたが、大天守閣だけが復元されています。本丸の石垣は野面積みに近い打込み接ぎで積まれ、いかにも西日本の城郭といった印象でした。広島城は1591年に毛利輝元によって築城されました。毛利輝元は豊臣秀吉の聚楽第や大阪城を参考にし、太田川河口のデルタ地帯を城下町に選んでいます。関ヶ原の戦い後、毛利輝元は長門・周防2国に大幅減封され、萩城(長門)に移りましたが、毛利輝元に代わって入城したのが福島正則でした。福島正則と言えば、広島城を無断改修して改易となった事件が有名です。福島正則は洪水で破損した城郭を勝手に修復したとの理由から、1619年に幕府によって領地を没収されてしまいました。その福島正則が修復した石垣が現在も本丸の隅に残っています。本丸北東の石垣。写真右側と左側では明らかに石垣の積み方が違っています。右側は毛利輝元が築いた石垣で、左側が福島正則が築いた石垣です。福島正則が築いた方はあまりにきれいな打込み接ぎで、さすがにばれると思うのですが…それでも外堀や外郭を整備を進め、広島城を完成させたのは福島正則です。当時は、広島市民球場の前を通る相生通りに外堀がありましたが、現在の広島市の中心部も城内にあったことになります。関連の記事西国海道~広島宿(その1)→こちら西国海道~広島宿(その1)→こちら(財)日本城郭協会「日本100名城」
2010/01/02
コメント(2)
旧広島市民球場から少し西へ行くと、旧太田川の分流点があり、珍しいT字型の橋が架かっています。相生橋。(「T」の下から見たところ)「T」の右側から見たところ。上から見るとT字型がはっきりとわかるため、原爆投下の目標点とされました。そして相生橋のすぐそばに建っているのが、旧産業奨励館の建物(原爆ドーム)です。1996年にユネスコの世界遺産に登録されましたが、周囲のビル群に埋もれてしまった感じです。(ちなみに後ろに写っている照明は、旧広島市民球場です)関連の記事「アインシュタインの嘆き」(2008年8月8日)→こちら広島城(2007年9月1日)→こちら厳島神社(2008年7月31日)→こちら
2009/06/23
コメント(0)
福山城は、山陽新幹線の福山駅のすぐそばにあり、駅のホームや新幹線の車窓からも天守閣を間近に見ることができます。福山駅前に立つと、道を挟んだ向かいにいきなり本丸があり、見事な高石垣が目の前に普通に立っているのでビックリでした。「打込接ぎ」で積まれた本丸の高石垣。石垣のあちらこちらに普請の時の刻印が残っており、築城時から現存する石垣のようです。とても貴重な遺構なのですが、すぐ近くを道路が通ったり新幹線が通過したりするので、永年の振動による石垣の「孕み」が心配です(私が心配しても仕方がないのですが…)。福山城の本丸の縄張りはこんな感じです。本丸の入り口には櫓門形式の「筋鉄(すじがね)御門」があります。本丸天守五層六階建の層塔型天守閣ですが、空襲で焼失してしまったため、鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。太平洋戦争前は国宝に指定されていました。本丸の周囲は土塀で囲まれ、隅櫓が置かれています。伏見櫓伏見城から移築されたと言われています。月見櫓鏡櫓また本丸内には湯殿や鐘楼など、あまり城の本丸で見かけない建物が並んでいました。湯殿福山城では、真向かいにある駅のホームから、本丸外側の外観を間近に見ることができます。左から月見櫓と筋鉄御門手前から月見櫓、鏡櫓、天守。福山城は、福島正則に代わって備後(広島県東部)に入封した、水野勝成(徳川家康のいとこ)が築城しました。1619年から3年の歳月をかけて築城し、1622年に完成した比較的新しいお城です。以後周防・長門(山口県)の毛利氏の抑えとして、徳川家譜代の城主が入城しました。幕末の1865年、第二次長州征伐の戦闘準備をしていたところ、火薬が爆発していくつかの櫓が焼失したそうです。さらには太平洋戦争の空襲時には、天守閣や湯殿などが焼失してしまいました。伏見櫓と筋鉄御門が現存しているのは奇跡だと思うのですが、もしもこれらの建造物が残っていたら、第一級の城郭になっていたことでしょう。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2008/08/05
コメント(0)
尾道は海からすぐに山の斜面がせり出しているため、平地が少なく坂の多い場所です。千光寺まではロープウェーもあるのですが、尾道の象徴とも言うべき坂道を歩いて登ることにしました。尾道の住宅は急な斜面に建っているため、1階と2階の両方に出入口があるのが特徴です。坂の上にさらに坂が続く感じで、坂を登り切ったと思ってもさらに坂や階段が続きます。山登りで急斜面には慣れているものの、この日広島の予想最高気温は36℃、この暑さではさすがにこたえました。(おそらく路面は40℃を超えていたと思います)尾道の階段と坂と言えば、大林宣彦監督の映画「転校生」のシーンを思い出します。尾美としのりと小林聡美が転げ落ちて、身体が入れ替わったのも、千光寺へ続く階段ではなかったでしょうか。尾道の坂を登った先には千光寺があり、瀬戸内海の景色が見えてきました。尾道の急斜面を歩いて登り、山の上から尾道の海を眺めた時が「尾道に来たな~」と実感できる瞬間です。尾道を訪れた際は、一度坂を歩いて登ってみるのもいいのではないでしょうか。(真夏の日中に行くかどうかはお任せします)関連の記事文学のこみち→こちら
2008/08/04
コメント(2)
尾道は何度訪れても「また来たい」と思う場所であります。毎回同じ場所に来るのですが、今回も千光寺から「文学のこみち」を歩いて回りました。「文学のこみち」は千光寺の周りを巡るコースであり、道沿いには志賀直哉や正岡子規など、尾道を題材にした文学・俳句・和歌が紹介されています。尾道を題材にした文学は多いのですが、やはり林芙美子の「放浪記」が有名かと思います。尾道の商店街入り口にある林芙美子の像昔「放浪記」を読んだことがあるのですが、実は最後まで読み切ることはできませんでした。(その代わり阿佐田哲也の「麻雀放浪記」は全巻を繰り返し読んでいます)それでも林芙美子が東京から帰ってきて、汽車の車窓から海を見た時の描写は心を動かされました。海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。千光寺や文学のこみちからは、その尾道の海が一望できました。山陽本線が海沿いを走り、現在は「しまなみ海道」の橋が架かっています。尾道のすぐそばに向島があり、海が水路のようになっています。向島のドックも見えています。さらに瀬戸内海に目を向けると、芸予諸島の島々が点在していました。「海」と聞いて太平洋や日本海をイメージすると、尾道の海は運河か川のように見えることでしょう。しかしながらこれこそが林芙美子の尾道の海であり、瀬戸内海です。その感慨は、「海が見えた。海が見える」の言葉からひしひしと伝わってきます。林芙美子が強いノスタルジーを感じた尾道の海の風景は、私も大好きで何度でも訪れたいと思います。
2008/08/03
コメント(2)
全28件 (28件中 1-28件目)
1