多摩理場放送局

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・理容店の象徴のサインポール



 サイン=知らせる。ポール=棒。
つまり、理容店の営業をしていることをお知せしています。ゆえにバーバーポールとも呼ばれています。
 サインポールは西洋理容と共に明治初期に日本に入ってきました。このサインポールの歴史を紐解くと・・・。

 西洋理容はエジプト文化の栄えた時代、理容は外科医の手の空いたときに行われていました。この時代、病気はそこに悪い血が溜まっておきるものとされ、その治療として患部の瀉血(しゃけつ)治療(=血抜き)が行われていました。腕の場合、金の皿(真鍮?)に棒を立て、患者にその棒を握らせて血はその棒を通して皿で受けていたそうです。その為、棒は赤く染まっていました。治療後は患部を包帯で巻いています。
 外科医は患者のいない手が空いたときに、治療で使われたこれらを赤い棒に包帯を巻きて棒の先には金の皿をかぶせて外に干していました。これが外に出ている時は外科医の手が空き理髪ができると民は見ていました。これがサインポールの原点になります。

瀉血


 サインポールは1540年頃、パリの外科医メヤーナキールが創案し、彼の医院の看板に用いたのが始まりです。その後、理容外科医でも用いるようになり広まりました。この頃のサインポールはサインポールの原点を形にしたもので、血の赤、包帯の白、金の皿の金色の玉と代わりました。理容外科医については「西洋理容」のときにお話します。

 1745年、イギリスで外科医と理髪師に分離し、この時に外科医は赤白のままに、理髪師は青を加え、動脈の赤、静脈の青、包帯の白、そして金色の玉と理髪師の看板に替わりました。

 日本では明治4年、庄司辰五郎が最初(?)であると言われてます。当時は『飴ん棒』と呼ばれていました。
 ところが東京の常盤橋の側に在った「西洋風髪剪鋏所(かみはさみしょ、経営者は川名浪吉)」が明治4年に用いたのが最初(?)という説も。
 さらに最近の研究では、長崎の出島の床屋に、すでに江戸時代にはサインポールが飾ってあったとも?


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