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年齢が45を過ぎる頃、教室にしろ、発表会にしろ、少しギアチェンジをしたほうがいいけれど、どっちに?なんて、呑気な話が、一気に凍りつくような気持ちになりました。
私のピアノと防音室が新品だった時から、一緒に20年、楽器の音作りのすべてを、その調律師さんとしてきたことを思うと、あまりの事の大きさに、頭がストップしてしまいます。
教室が場所を変えて少しずつ大きくなってきたときも、私が奏でなければならない音色が、あり得ないほどの技能を要求されてしまった時も、正しく美しい音色を作ってくれる人がそこにいて、彼もまた、彼の人生の中での紆余曲折にめげずに、ただただ、技能の追求と研鑽を繰り返していました。
音楽と言うのは難しいもので、点数が出るわけではないから、どうとでも受け取られてしまう。
そんな場所で、自分の与えられた役割にあえぐようにして生き延びるときに、彼が作る音色があったから、その音色を確実にいつでも出せる私になっていくことで、どれほど多くの事を実らせてきたか、もうわかりません。
20年のうち、最後の数年は、技術者の前で、恥じる必要が全くなくなる安心感というものの中で、ただただ、その人が好きな美しい曲を弾いていれば良くなりました。
発表会でのリハーサルも、その人がオッケーと言えばそれで済むということの安心感の中で、時間に余裕があれば、リハーサルでも関係の無い曲を弾いていたりもしました。
それを、何度でも聞きたい、と喜んでくれていて、私もまた、たくさんの音楽愛好者の中にあっても、私たちの音色と音楽はこれだと、揺らがずに弾くことができるようになっていました。
その二人三脚、その一心同体さ、ピアノという一つの楽器を挟んで、立場の違う二人の耳が一致するような時間は、とてもはかなくあっけなく、去って行ってしまいましたが、私はまだその意味のすべてがわからないくらいにポカンとしています。
でも、来年のスケジュールも決まっていて、生徒たちも、そこにいて、彼が遺した音色を継ごうとしているからこそ、まぁそりゃ淡々と、次の調律師さん探しに動き出してみたものの、代わりの人のいるはずのない技能の高さに、ただただ、困ってしまいます。
それでも、人は、亡くなる時にこうやって必ず、生きている人同士をまさかの形で結んで去っていく、というところはあって、このピアノを売ってくれた時のやり手の営業さんなどと、改めて連絡を取ったりしています。
結婚した彼女が、音楽から離れていても、先生のピアノが聞きたいし、会いたいから、と、駆けつけてくれることの後ろに、彼女がまた音楽に飢えているのもうかがえました。
音楽は、どうしても、こうやって、人の心の深いところで、どうにもならない衝動を与えてくるということを、こんなにさみしい形で実感したくはなかったけれど。
彼ほどの技能が、途絶えてしまったらもったいない、誰に継いでもらおう、と、思う時、私に遺されたのは、彼が私に植え付けたかのように、同じ音色を愛した耳とか、その音色を出せる体、とか、なんだかおぼつかないものばかりなんですけれど。
おぼつかないからこそなのか、私はこの20年、この楽器と共に過ごしたその人を思う時に、やけに美しく思い出してしまいます。
ピアノ教師が技術者の前ですべてをさらすのが、いかに情けなく恥ずかしいかも省みず、彼に導かれるままに生きたこの20年を、そんな恥ずかしく情けないものだと思い出したら、その人に悪い気がしてしまいます。
だから、思いっきり美化してやろうと思っています。それこそ、サンタに届くほど。(笑)
生徒たちに、「この音色はもう戻ってこないのよ。」と話すときに、さすがにグッと来てしまうのですが、私の体が、それを忘れることもないとわかっているからこそ、やけに気丈に振る舞うこともできてしまいます。
先日の発表会で、彼が遺した最期の言葉は、「先生の優しい曲で発表会が始まれば、みんなが安心して弾けるのにね。」でしたけれど、その言葉の悲しいほどの深さは、私がちゃんとわかっていればいい、と思うと、なんだか心強い気もします。