里見安房守忠義
1、堀の里見忠義
国鉄、倉吉ー山守線があり、山守駅が未だ存在したころ、千葉県館山から、里見忠義終焉の地確認のために、大学教授の川名先生が来られました。
その時、地元のおばあさんが「アワノカミサマ」をお祭りしていて、四国の阿波の神様?と思っていたのを、先生が安房守さま、つまり、里見安房守忠義ではないかとひらめき、歴史的発見をされました。
その後、里見忠義公の遺構として廟舎を建て顕彰し、竹下総理時代の「1億円ふるさと創生」事業の時に、「里見まつり」「子供歌舞伎」等を興し定着したのが始まりのようです。
ここの地では里見忠義公は世に言う流人ででなく、アワノカミサマとして神様扱いで、6人塚の祠は”宝殿”と呼び大事に守ってきました。
勿論、里見一族としての認識は度外視してのことです。
祠の森の木を切るとたたりがあると云う言い伝えがあるのは、墳墓周辺を大事にする風潮のあらわれです。
又、お世話された庄屋さん宅に山賊が入った時、甲冑姿の武士の幻が出て、賊を追い払ったという伝説まで生まれました。
きっと、住民がアワノカミサマに大きな恩恵をうけ、感謝、敬愛をしてる何物かがある証拠ではないでしょうか。
2、中国山地鉄山事情
中国山地花崗岩地帯は、砂鉄が多く含まれ、風化したまさ土から取りだすタタラ製鉄が昔から盛んでした。
関金周辺には、砂鉄の製鉄関連遺跡が約40ヶ所もあるほどの産鉄地区です。
まさ土をかんな流しという用水に流して、砂は軽いから流れ、鉄は重たいから手元にのこります。この比重選鉱で砂鉄をとります。
その砂鉄を木炭で溶融し鉄にします。この時多くの木炭が要りますが、かさばる木炭を運ぶより、重たいけどかさばらない砂鉄を木のあるところに運んだほうが効率です。そこで「砂鉄7里に炭3里」の言葉が生まれたように、砂鉄を木炭が取れる木のある所に持って行き窯を築きました。
里見忠義公がいられた堀村の上流,明高にあった鉄山は、鉄山長者伝説がある位有名です。
ここは大山の火山砕屑物が堆積していて砂鉄は採取していません。
こんもりと繁った木々の地で炭を得やすく、他の地から砂鉄を持ってきて製鉄した所です。
ここに由良から浜砂鉄をもってきて製鉄 (鉄山長者伝説) したとすれば、浜砂鉄の製鉄方法に長けた里見の主従がなんらかのノウハウを教えたのではないでしょうか。
清和源氏新田氏の裔である里見家、明高の鉄山も清和源氏の流れをくむ家系図があり、蔵に笹竜胆紋(今の家紋は別)をつけている位ですから交流があったのではないでしょうか。
めめしく時を過ごしたのでなく、真っ黒になって地元民と働いてた里見忠義公の姿が目に浮かびます。
3、明高長者鉄山伝説
由良の浜から砂鉄を運ぶ牛馬の列は、砂鉄を下ろすと休む間もなく、製品の鉄を背にして行列を作り町へ下って行った。砂鉄を製錬する明高長者は、鉄の盛況で千両箱が宝蔵に入らぬほどだった。
近隣の土地、山林をわがものとして、倉吉までは自分の土地だけ通って行けたほどの豪勢さでした。
ある年20俵の餅米で鏡餅を搗き若宮さんの神社まで並べ、餅を飛び石にして初詣をしました。村人はその豪勢な羽振りに驚きこの高慢さに目を見合わせました。
まもなく鉄の売れ行きが悪くなり家運衰退しました。(関金町史より)
実際の明高の鉄山主は尼子に組みして,尼子の富田城落城(1566 永禄9年)以後由良の上種に来て、そして明高にきたと明高誌は記しています。
往時の山陰道へも近く、森林の炭材が得やすい上種で、由良が浜の浜砂鉄を運んできてたたら製鉄が可能ではとも考えられます。
末裔が今も明高に居住されていますので、里見公の来村時には鉄山稼働中だったのではないでしょうか。。
(関金誌には元禄来村とありますので、だとすれば接点はありませんが)
4、房総の砂鉄事情
そこで、房総の鉄事情はどんなでしょうか。
昔、館山市川名は 砂鉄を採取(さいしゅ)した「カンナ」場で 風の神・金気神社(きんきじんじゃ)があり、製錬に従事する人の住む集落を「スギ」と言い今の福澤の字(あざ)・杉原が該当します。
九十九里や夷隅川など房総の豊富な砂鉄を求めてタタラ師が美濃国から移住してきました。
「房総の古代製鉄」に関しては、400か所以上の製鉄遺跡が確認され、古代のある時期,活発に鉄づくりが行われていたことを物語っています。
日本の砂鉄は日本海側では出雲地方、九州の博多地方、太平洋側では房総半島、三陸地方、内浦湾沿岸に多く海砂鉄として分布してる事で有名です。
房総半島のたたら浜では、実際に三浦氏領地の折、鉄を作って「三浦刀」といって、馬に乗って戦う時に使い易いようにしたそりかえりが激しい刀をつくっていたようです。
東日本震災で千葉県被害の液状化現象が、かつて穴をほり注水して汲みだした土砂から砂鉄を採取した跡が原因であったとしたニュースもありました。
このように房総は文献や現象からみても、豊富に浜砂鉄が存在する地域のようです。
里見家は、こんな環境条件で栄えており、伯耆にきた忠義主従は山砂鉄で繁栄する伯耆の地に浜砂鉄工法を伝授?したのかもしれません。
日本海の砂鉄が、明高に牛馬の背で持って来られ、休む間もなく帰り荷で製鉄を積んで帰る鉄山長者伝説は、あながち真相を物語っているのではないでしょうか。
八犬伝では、犬ですが、伯耆では、八賢士として、賢が戒名についてるのが貢献した証明ではないでしょうか。
たとえ明高の鉄山と接触がなかったとしても、今西の砂鉄、峰続きの奈良時代から有名な大河原のたたら、浅井の狼谷口たたら等々がある産鉄地です。 賢士たちの貢献があったんではないでしょうか。
蛇足ながら、今西の要害山、草幾山城三浦景元を羽衣石南条が攻めたのも産鉄がらみの攻撃であり、其のあと尼子が石州から侵略に来たのもこの地域の産鉄地取りであったとおもわれます。
5、下田中での里見忠義
「播磨は中国の要地なれば、領主幼少にては叶うべからず。依って因幡、伯耆に転ぜられしものなり。」 あわれ池田藩も姫路より転封直後の慌しい折柄、しかも家老伊木長門守は、倉吉の3大河川、天神、小鴨、甲府川の氾濫を止める治水工事にとりかかり懸命でした。 長門守は猫の手も借りたい時、里見忠義を流人扱いとしてより、同じ運命の士として扱い下田中の天神川護岸工事の手助けを依頼しました。 自らは今、郡是辺りの治水土手「長門土手」建設、里見公には、荒れ狂う天神川の治水工事建設を依頼し下田中の地に行ってもらったのではないでしょうか。
そして伊木長門守も岡山と鳥取の藩のお国替え事情で、新家老荒尾氏とすぐ交代になりましたが、伊木という地名、長門土手の名はいまも倉吉に残って親しまれています。
その事をみると心やさしい家老で里見公を無碍に扱わず、先任者扱いで大事にし仕事を頼み、住民も産土神社勝宿禰神社本殿裏の大事な場所に居住させました。
下田中は、天神川の氾濫原で、水害でいつも被害を受け困っている所です。 その水防工事に力を発揮して、里見主従が感謝された事でしょう。
この地にある語り草に、大雨で濁流岩をのみ住民恐れおののき為す術なく、堤防があわやと思われた時、白髪の白装束の老人が堤防の上を踏み固めて守ってくれた。翌朝勝宿禰神社に行ってみたら、濡れた足跡が中に消えていたという話が残っています。
これは、それらしき人がいたことでしょう。
アワノカミサマがここにもいたかも?。
6、神坂での里見忠義
安房守忠義が神坂在住の頃のある年の3月10日のこと、重臣正木大膳を先発隊として一行は野武士狩に出かけた。
野武士の顔見知りの権六を牢屋から引き出して10数名の部下とともに天神野を指して一足先に出かけた。
やがて巳の刻。安房守忠義は狩装束姿いかめしく練りだした。 戦国時代もようやく太平の世となったものの、倉吉の近郷には野武士が出没、民百姓をおびやかしていたから、この地を所領することになった里見主従の野武士狩は、このころの日課でもあった。
ひみつのうちに手配しなければ逃亡されるおそれがあるので、この日は町役人、村庄屋をも引きつれての桜見物の態ともみえた。あるいは、野獣狩りとも思えた。
『お若い殿さまだったのう」と、道の両側で頭を下げて一行を送った倉吉の町の人たちは口ぐちに話した。
まだ20歳をいくつもこえていない忠義であった。
小鴨川をわたり、丸山、生田を経て北野天神の森に到着した一行は先発隊からのしらせの狼煙を待った。
この間一刻を利用して森の中、天神の宮に武運を祈った。
境内の桜はまだ5分咲き、若き武将が床机に腰かけている姿は、将にりりしいものであった。
安藤重良「倉吉風土記」より
7、雄誉上人と里見忠義
こちらです雄誉上人
8、付則の事
鳥取市にある有名な湖山長者の伝説は昔話ですまされますが、関金の明高鉄山長者のお話の方は、物語のあるところに該当らしき子孫が存在していてることで誠に気の毒におもいました。
実在の鉄山長者は信心深く、神社や仏閣にも多額の寄進をし、神社詣では欠かさず、鉄山の合間に山から水利工事をして水田の拡張も行って村人に貢献しています。どうしてこんな話となったんでしょう。
餅を並べたのは飛び石の為でなく、苦心して水を山から引っ張ってきて水田を開いた田んぼでこれだけの収穫がありましたと鏡餅にしてお供えしたものやもしれません。丁度20俵分増収したんでは。
タタラ製鉄が衰退したのは、近代製鉄に取って代わった明治から大正の頃、他の地のタタラ産業も終焉をみています。
昔むかしでなく、そんなに時代的に時がたってなく、ちょっとだけ昔程度なのに無茶な物語をつくるものだなと思います。
山間部の小さなところで該当らしき家があり子孫があるのですから。
その後この部落では正月に餅をつかぬようになった時代があったと物語は結んであります。(関金町誌)
しかしもともと正月には餅をつかぬ風習が鉄山師にあり、餅をつくと火事になるとか餅に血が混じる理由とかで、この地以外にもこのような餅に関わる長者話がタタラの地にあるようです。
いろんな要素が混じって凋落に追い討ちかけて物語になったのでしょう。
面白おかしく人の不幸を物語る輩が昔もいたんですね。
該当すると思われる子孫こそ迷惑です。
私たちが史実として学んでいるものの中には、案外事実はどうかという疑わしきものがあるようです。
特に戦国武将の記述などは、敗者は問答無用で、勝てば官軍式に勝者の正義のみが喧伝されるようです。
勿論、戦場の勝敗など審判がいるわけでなく、観察者があるわけでないので語り伝えが歪んだり、又後の小説家が推察したのが、定説になってしまうものもあるでしょう。
里見忠義公は、結果的に伯耆在住8年で29歳の生涯を終えましたため、たまゆらの人生と涙をそそりますが、忠義公は充実の日を終焉の地、堀村で過ごし、地域民にも尊敬を受けていたということを「アワノカミサマ」で確信したいと思います。
病の為半ばで目的成就はしませんでしたが、決して辺鄙な山奥に送り込まれたものではないでしょう。
房総からは西国ですが伯耆は最果ての国ではありません。
かっては、砂鉄の鉄文化で栄え、くらしよいということで付けた名前が倉吉です。
里見の大将の「房総にかえりたい、かえりたいの泣きの涙の悲運の将なんてバカにするない」って声が廟の中から聞こえてきます。
里見忠義公は、伯耆倉吉で充実してお眠りです。
里見忠義公がもう少し健康で長生きしていてたら、雄誉和尚に冤罪も晴らしてもらえ,歴史のページが変わったかもしれません。
これ以上推論を入れると、ミステリーとなり、歴史を歪めますのでやめます。


