ラッキィセブンティライフ

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毒饅頭事件をめぐる池田家騒動


 池田輝政が徳川家康の次女督姫と結婚した。
 督姫は小田原の北条氏直の妻だったが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条滅亡、寡婦だったのを、秀吉の計らいで輝政と再嫁。小牧・長久手の戦いで、輝政の父恒興、兄之助を亡くした池田家と徳川家との仲立ちが家康の目的だった。
 輝政には、4人の男児あり、糸姫という妻があったが、産後の体調不良を理由に離縁した。

 督姫は待望の子、忠継が誕生した時、輝政の長男利隆は16歳、次男政虎は10歳になっていた。そこで忠継を次男として政虎を三男とした。篤姫は5人輝政の子を産んだので、結局、政虎は七男とされた。本来四男の利政は九男として扱われた。

 督姫の実子溺愛は有名である。

 岡山城主、小早川秀秋が没すると督姫は、幕府を強引に動かして、慶長8年(1603)5歳の忠継を岡山城主にし、輝政の嫡男利隆を忠継の執政代行にした。
 第2子忠雄には、慶長15年(1610)9歳で淡路国6万石を与えた。

 慶長16年(1611)輝政との最後の男子輝興誕生。

 慶長18年(1613)輝政没す。

 元和元年(1615)2月4日姫路城で督姫没す。

 忠継が元和元年(1615)2月。17歳死去。

 督姫、忠継が同じ2月に亡くなってることから、奇怪な「毒饅頭事件」が噂される。
 慶長18年輝政が死去したため、輝政の遺領をめぐって、実子の忠継・忠雄に相続させようと利隆を毒殺する陰謀を企てたというもの。
 岡山城中で篤姫が利隆に毒入り饅頭を出す。給仕女が利隆へ合図を送ったので利隆は饅頭を食べなかったが、合図で母の悪計に気づいた忠継が敢えて饅頭を食べてしまう。ことが想わぬ展開で終わり督姫は悲嘆して残りの饅頭を食べてしまったという筋書きである。

 たしかに二人は慶長20年2月に亡くなってるが、しかし、忠継は23日、督姫は19日、督姫は姫路城、忠継は岡山城である。

 昭和39年岡山で、忠継の墓所移転での骨の鑑定で毒物反応は検知されなかったという。


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