だいじょうぶ☆だいじょうぶ

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知らない街のお祭り

6月7日(土曜日)
 ★知らない街のお祭り★

  ○○神社のお祭りに参加させていただいた。
○○神社前でバスを降りると、目の前に神社へと続く細長い階段が伸びていた。階段の脇には御煎餅と練り飴と屋台とおばあさん。その横ではためく、「○○神社例大祭」の旗が、『祭り』という、非日常の世界の雰囲気を作り出している。
見知らぬ街の神社に来ると、いつも、どこか異国に来たような不思議な気分にさせられる。まして、祭りとなると、その気持ちはいっそう強まる。地元の祭りとはどこか違う、隣家へお邪魔している時のような、好奇心と心地よい緊張感。それでいて、どこか懐かしい、落ち着いた気分にもなる。それぞれの土地に根付いた生活文化の匂いの相違性と、『日本』という文化基盤からくる共通性が、心の中で同居する。

 着いてすぐ、お座敷のようなところで、着替えをした。浴衣を先生に着付けていただいた。浴衣は、きっちりと着ると、すっきり背筋が伸びて、気持ちがいい。その後、帯を結んでいただいた。きつくきっちりと。

和服の着付けのとき、日本人形のような気分になることがある。縛られながら、身動きがとれずに、完成されるまで、足を踏ん張る。『日本』人形の完成の過程を身をもって体験するような感じで。わたしがそう感じてしまうのは、わたし達の世代には、着物=日本人形 という感覚が定着しているからであろう。かつて、日本人の衣服として着物が一般的だった時代、本物の(着物を着た)人や子どもを形取って作られた人形も、着物文化の衰退により、わたし達の世代には、異質の存在として写る。いわば、唯一日常的に和服を着ている存在だ。

『浴衣』という日本の着物に潜む伝統性が、私の『日本人』的な部分を引き出してくれるから不思議だ。文明開化の時代に人々が洋服を着ることで『外国の』モダンな気分に浸ったように、わたし達は、和服を着ることで自国の伝統性に帰す。和服を着ると、homecomingな気分になる。ただ、浴衣は仙台の六月の初めには少々風通しが良すぎた。

 初めにリハーサルをした。二週間ぶりの踊りを、何とか思い出しながら踊った。
 その後、他の方々のリハーサルを間近で見学させていただいた。男性の雨乞いの踊りは、ものすごい迫力があって、圧倒された。迫力があるのに、動きが洗練されていて、見ていて気持ちが良いものだった。女性の雨乞いの踊りも、美しく力強くかった。同じ踊りでも、女性が踊ると、ひたむきな印象を与える。女性の踊りは、指先のしなやかさが綺麗だと思う。
 踊りながら発せられる、掛け声も、素敵だった。音は、視覚的映像よりもまっすぐに観衆に伝わる。ためらいのない真剣な掛け声は、迫力のある踊りと相まって、人の魂の底の深さを伝えてくれる。

日本の様々な土地の古来の踊りの伝承性と、踊り手の『日本人』という、根っからのアイデンティティーが溶け合って混ざり合って、独特の雰囲気を作り出していた。そして、恐らくそれは、その土地の人たちの踊る踊りとは少し違う、ユニークさがあるのだと思う。


 ☆自分達の踊りを振り返って☆
浴衣を着て人前で踊りを踊ったのは、幼稚園の年少組のとき以来だ。それ以外は、法被を着て地元のお祭りで太鼓を叩いたことがあるぐらいで、今回の様に、日本の伝統的なものをきちんと学べるというのは、すごく貴重な体験だ。実際に人前で踊る時は、練習のときとは一味違った感覚があった。練習中は、自分の上達のために踊るので、大抵は、自分の踊りに集中する。一方、『人前で踊る』というのは、見てくださっている方々との、ある種のコミュニケーションの上で成立する。見てくださっている方々がいるから、私たちは発信源として、『踊り』を放つ。つまり、わたし達は、自分たちが放ったものを観衆の方が受け取ってくれているという事を感じることで、よりよく踊りたい、より良いものを見せたい、という気持ちになる。だから、人前でうまく踊れたり、楽しく踊れたりすると、ものすごく爽快な気分になる。よく、小学生なんかが、発表会の感想文などで、『練習より、本番のほうがうまくできた』などと書いていたりするが、そういう子ども達は、『発表としてのコミュニケーション』というのがきちんとできているのだろう。

地域の祭りに参加させていただき、そこの土地の人の前で、伝統の踊りを踊ることで、わたし達も、短い間ではあったが、そこの文化に『受け入れられた』ように感じた。とても貴重な体験だったように思う。





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