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これまで2回にわたりレポートしてきた、ケソン州の豪雨被害地。ようやく最後に訪れたジェネラルナカール町をまとめる事が出来ました。 今回は写真を多めに掲載し、ビジュアル的に被災状況が感じられるようにしてあります。<ケソン州ジェネラルナカール町> 車や人が頻繁に行き来し、喧騒すらすでに感じられた隣町のレアルやインファンタとはうってかわって、ケソン州の北に位置するジェネラルナカールは中心部ですら静けさを感じる町だ。村民の70%が農業・漁業に従事している同町は、近隣の町に比べると貧しいとされている。被災2ヶ月経った今も、未だに再開されないGナカール町の市場。 レアル町市場にはすでに野菜、肉、魚などの商品が店に並んでいたが、ここジェネラルナカールの市場は再開されていないままだ。多くの人々は隣町まで買い付けにいってしましい、商品は直接この町に流れてこないという。 商品台のみが並んだガランとした市場は、子どもの格好の遊び場になっていた。 町には堆積した土砂を取り除くクレーン車などもあまり見かけない。手付かずのまま場所が多く残されていた。人々もどことなく元気がない印象だ。 隣町との経済的格差は地理条件が大きく関係しているようだ。この町は面積こそ14万ヘクタールと広いが、その80%が山脈に囲まれた地域であり、アクセスの悪さが被害を拡大させた。同町の死者は297人、行方不明者も未だに131人と他地域と比べて多い。捜索や復興の手が入りにくい事を示している。 ジェネラルナカール町データ: 人口約27000人・世帯数5800戸 死者297人、ケガ54人、行方不者131人(1月28日 同町役場調べ)<救援物資の支給> 救援物資を配る様子。 午後2時。新しく再建中であった村役場まえで、救援物資を配給する光景を目にした。長さ50メートル以上にわたって村人たちが列をなしている。今回は鍋、シャベル、バケツなどのほかに、パスタといった食料品が配布されていた。 それぞれの家庭の被災状況に関係なく配られるものは同じだという。人々は各々で必要なもの話し合い、なべとシャベルを交換してもらうなど互いに支えあって生きていた。 救援物資を受け取りに来ていたアーニーさん(34)の話では、1月の救援物資の支給は3回だったという。7歳の娘と8歳の息子がいる彼女の家族にとって10日に1度の支給ではやはり充分ではないようだ。 今一番欲しい物は何かと尋ねると、「うーん・・・」としばらく考えて、「第1に食料、第2に家かな・・・」と話す。 改めて今後の生活が不安定なままだということを思い出してしまった様子だった。僕は質問を少し後悔してしまった。<山部の被災状況>洪水でえぐられた山。川の流れを変えるほどの土砂だったという。 「山間部の被災状況はどうなの?被災者の生活は?」 現地の人に問うたところ、「わからない、人は住んでない」という曖昧な返答が返ってきた。どうやらアクセスの悪い地域では行政の手さえ行き届いていのが実情のようだ。当然、被災状況のデータさえ取られていない。このような手のつけられていない山々の被災状況を調べるため、少し歩いてみることにした。 山道に入る直前でトライシクルを降ろされた。以前は車やバスが通れた道も土砂崩れの影響で狭く地盤がゆるくなってしまい、いまでは徒歩でしかと通れなくなっていた。途中、救援物資をもらいに行く人、すでに受け取り帰る人々に何人も会った。バタンガン村などに続く主要な道であったがアクセスが極端に悪いため、救援物資を取りに来るだけで片道1~2時間以上もかかるそうだ。村へと続く山道。今は徒歩で歩くしかない。バスケットゴールが埋まるほどの土砂が流されてきたことがわかる。コートは早くも耕され、苗が植えられていた。 「なんでこんなに被害があるのにスタンプがないのよ!」山道の途中で村人の女性同士が口論する現場に出くわした。救援物資の支給を受けるにはIDではなく、事前に配布されるスタンプを手に入れる必要がある。 だが彼女たちの話を聞いていると、どうやら連絡不足でスタンプを得られず、片方の女性は救援物資を受け取れなかったようだった。 アクセスの悪いこの地域は、物資の支給情報が確実に村人に届かないこともあるようだ。 それでなくても少ない救援物資。受け取れ得なかった彼女とその家族は、次の配給までどのように生活していくのだろうか・・・。物資と交換するためのスタンプ。名前と番号が記載されている。物資は家族構成に関係なく配給量は同じだった。堆積した土砂で埋まった大地が延々と続く。 死者100人、行方不明者43人と、同町でもとび抜けて大きな被害が報告されているバランガイ(最小行政区)がウミライ地区だ。同地区は町の中心から北に90キロほど離れたところにあり、シエラマドレ山脈に囲まれているため陸路での交通手段はなく、現在も復興の手がつけられていないと言われている。 このウミライを、フィリピン大学に以前留学していた原さんが訪れた。その時の状況をレポートしていらっしゃったので、参考までに現地の状況を記したい。 町の中心からボートで7時間かかるという同地域は、当然ながら復興に必要な土木機械は入れない。まったく手付かずの状態だ。 現地で報告されている行方不明者数は150人以上と町の発表より多い。また住民登録もせずに違法伐採者として入山する者も相当数の上るとされ、死者数ももっと多いそうだ。 手の入らない地域だけに、そのままに放置されており、いまも200人以上の被災者がテントでの生活を強いられているという。 町の最大の課題は清潔な飲料水の確保だと言われている。アクセスの悪い同地ではきれいな水の確保は難しい。今も洪水で水源が汚染された水を飲み続けているため、調査では住民の半数が下痢の症状を訴えているという。 また洪水でできた水たまりから、マラリア蚊発生の可能性もあるということで、今後、衛生状態の改善が名何よりも先に処置すべく問題であるという。<終わり>
Feb 20, 2005
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フィリピンに存在する‘便座なし洋式トイレ’の謎に迫るレポート。今回はその第2の疑問である「奇妙なトイレが普及した経緯」を探っていきます。<フィリピントイレの進化論> 第2の疑問である「この奇妙なタイプのトイレが普及した理由」については、なかなか確かな情報が得られず苦戦しました。 フィリピンに大きなマーケットシェアを持つと見られるAmerican Standard社 (アメリカに本社をおく、日本のTOTOやINAXのような陶器メーカー)にトイレの進化史についてEメールで問い合わせてみましたが、返信もなく途方にくれていました。しかし先日、偶然にも友人にトイレの疑問を持ちかけた際、彼女から有力な情報を得ることが出来ました。友人いわく「フィリピン人が話していた情報なので、それなりに確証はあると思います」とのこと。まとめると以下のようになりました。 「戦後、元来の地面に穴を掘っただけのトイレに替わり、洋式のトイレがフィリピン各地でも普及するようになった」 ここまでは日本も同じく‘和式タイプ’だったので理解できるでしょう。これ以降がフィリピン特有です。 「‘ある事情’によりフィリピン人は、以前のトイレと同じように‘カエル式’に便器に飛び乗り使ったため、便座カバーが壊れてしまった。修理してもまた‘ある事情’により、彼らは上に乗ってしまい壊れてしまう。これが繰り返されたためトイレの管理者は諦め、壊れたまま放置するようになり、今の便座なしのトイレの形になった」 そして最も重要なポイントである、その‘ある事情’というのが、用をたした後の処理と関係しているという事でした。 紙が貴重品であるフィリピンでは、紙を使わず、水で洗い流す人が多かったということ。そのため‘洋式トイレに普通に座ってしまっては、水洗いがしにくく不便’なのでした。 その結果カエル式のまま座るようになったというのです。 確かにこの説には妙に納得してしまいました。昔に限らず、今でも紙を使わない人はいるようです。 また一般にフィリピンのトイレは、トイレットペーパーが流せるように下水が整備されていないため、紙を使ってもゴミ箱に捨てなければならないことも多いのです。そのような技術的な理由も便座なしトイレの普及に少なからず影響があったのかもしれません。 さていろいろ調べてみきましたが、やはりフィリピンの‘便座なしの洋式’トイレは世界でも極めて使いにくい型であろうこと否めないと思います。 紙を使えない事情があるならば、昔の形のほうが絶対に便利なはず。あえて‘洋式’という外来の型を選び続け、独自のトイレを作った彼らは、もともと旧宗主国のものだった‘英語’や‘キリスト教’を受け入れ、自分たちのものにしてきた国民性と似たものが働いているとさえ感じてきました。 フィリピン全土に頑固に根付くこのトイレは、英語やキリスト教と並ぶフィリピン人のアイデンティティーの1つなのかもしれません。<終わり>
Feb 19, 2005
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質問です。「外出時にあなたは急にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなってしまいました。やっとの思いで見つけたトイレでしたが、中に入ってビックリ!その便器には、なんと洋式タイプなのに便座カバーがついていませんでした・・・。さて、あなたはこのトイレをどう使いますか?」1.そのまま座って用をたす2.お尻を浮かせて用をたす3.カエルのように縁にしゃがんで用をたす4.あきらめて我慢する5.その他 いきなり変な質問をして、すいません。でもこれはフィリピンに来た人なら誰でも一度は現実に遭遇する状況なんです。 フィリピンのトイレは少し変わっています。特に地方に行くと目にするのですが、下の写真のような‘便座のない洋式型トイレ’が本当に存在するのです。しかも便座が壊れてしまっただけならまだしも、そもそも便器に便座を取り付けるための器具がついていないものさえあるのです。とにかく不思議です。 これがフィリピンの典型的なトイレの形、‘便座なし洋式トイレ’!! 普通の感覚なら、便座のないこのようなトイレに直接座る気にはなれません。たぶん大抵の日本人の選択肢としては、「お尻を浮かせながらする(以後、空気イス型と表記)」か、「便器の縁に足を乗せて、しゃがんで使用する(以後、カエル型と表記)」の2つだと思います。どちらを選ぶかは好みだとは思いますが、両者ともかなり不安定な姿勢です。しかも便器自体が小さく神経を使うため、慣れるまでは落ち着いて用をたすのは難しいでしょう。 日本人にとって馴染みのない型のトイレを前にして誰しも疑問に思うのが、‘フィリピン人の使用方法’と‘普及した理由’ではないでしょうか。これを解決すべく今回は調査してみました。今回は使用法についてです。<正しい‘フィリピン流’トイレの使用法> 参考のため、何人かの日本人留学生にも同じ質問をしてみました。 結果は予想通り。大多数が「空気イス型」で用をたしているようでした。その理由としては、「便座が濡れている場合が多く、カエル式型のように便器に足をのせると滑って危険だから」という声が多く聞かれました。確かにフィリピンのトイレはバケツの水を汲んで押し流す‘手動水洗式’がほとんどなので、便器周りは濡れています。下手をすれば、穴に足がはまってしまう危険があるのです。彼らは快適さよりリスクの少ない方を選んでいるようです。日本人の中には「外ではトイレを絶対使用しない」というツワモノの男の子もいましたが・・・。 しかし、フィリピン人たちに尋ねるとデータは全く異なりました。 自宅のトイレなど、掃除が行き届きキレイなトイレなら、‘そのまま座ってする’。外出先など、衛生的に汚いと感じるトイレなら、‘カエル型で用をたす’という人が多いようです。 最初にこの手のトイレを前にして、踏みとどまるのはフィリピン人も同じのようです。キレイな場合は直接座ってしまうというのは驚きですが・・・。 さて、このアンケート結果でわかったことは、‘カエル型がフィリピントイレの正しい使い方’であり、日本人の多くは使用法を誤っているということでした。 フィリピンのショッピングモールのトイレには、2~3人の清掃係りが常駐しています。「そんなに掃除する必要があるのか?」といつも疑問を抱いていたのですが、この調査によって少し謎が解けました。きっと多くのフィリピン人たちが便器に足をかけるため、すぐに泥などで汚れてしまいやすいんですね。いつも気持ちよくトイレを使用できるのは、彼らがきれいにしてくれているからなんでしょう。感謝です。 補足ですが、フィリピン人に対し「日本人の多くはお尻を浮かせてする」と話すと、大ウケされました。「そんな体勢では用をたすのが大変だ」というのです。「日本人の多くは、カエル型は危ないから避けている」という理由を話すと、こう指摘してきました。 「私の弟はカエル式で座っていた時に便器が壊れ、ケガをする寸前だったわ。確かに用心しないとね」。 僕は「便器が濡れており、滑る可能性があって危ない」と言いたかったのですが、意外にも彼らの中には‘便器そのもの’が壊れることを注意して使っていることまでわかりました。そんな予想外の危険性も孕んでいるんですね。でもこの国ならあり得るかも。 この話を聞くと、「滑らないか、壊れないか・・・」と幾重にも心配して用をたすくらいなら、日本人のように空気イス型でする方が、気は楽かもしれません・・・。<続く>次回は「フィリピンのトイレ進化論」についてレポートします。
Feb 18, 2005
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「フィリピン3都市で同時爆破テロ!」 こんなニュースが2月15日の新聞に出ていたのはご存知だと思います。 事件の概要をお伝えすると、バレンタインデーの2月14日、午後6時40分から7時40分にかけて、マニラのマカティ市、ミンダナオ島のダバオ市、ジェネラルサントス市で爆破テロが相次いで発生し、少なくとも死者11人、負傷者150人に上る被害者が出ました。「大統領へのバレンタインプレゼントだ」というイスラム過激派アブサヤフからの犯行声明が出されています。 爆破があったマカティ地区は,前日も遊びに来ており、また4日前にも友人たちと爆破があったポイントで待ち合わせをしていたので、とても身近な場所でした。事件に遭わなかったのは運が良かったという思いもします。 2003年の三月にミンダナオ島のダバオ国際空港で爆弾テロがあって以来、大きな事件もなく済み安心していたのですが、実に残念です。 マニラ・マカティ市の高層ビル群。東側に事件のあった商業施設の密集するエリアがある。 事件当日はちょうどバレンタインデーで、お花をもった女の子も多く、世間はハッピームードそのもの。 フィリピン大学構内でも毎年恒例のお祭り‘UPフェア’が始まった初日でした。 ですが今回の事件で一転、人ごみは危険ということで会場もギスギスとした雰囲気になってしまったようです。 連続テロはイスラム過激派アブサヤフが犯行声明を出しているということですが、これは 現在、フィリピン南部スールー州で続いている国軍とイスラム組織との大規模な交戦が原因のようです。 すでにこの戦いは死者が双方で80人以上を出す状況にまで発展しているということ。 連日報道されていた交戦が、首都圏を巻き込んだ無差別報復テロになるとは思いもよりませんでした。 さて実は、テロが起こる2日前にもフィリピンの日本大使館近くで爆弾が発見されるという事件がありました。この時は警官が、不審なバックに入った爆弾を運よく発見し、無事に処理できたということです。 「フィリピンに潜伏するイスラム組織JI(ジェマ=イスラミア)などがアメリカ大使館などを狙ったテロを計画している」との情報も以前からあっただけに、‘テロとの戦争’に対し米国に追随する日本も、狙われる危険性がゼロではないでしょう。 日本大使館を狙ったこの事件と今回の連続爆破テロとの関連性は今のところないようですが、イスラム組織アブサヤフとJIは‘テロの共犯’という報道もあり、もしかしたら日本が被害を受けていたかもしれません。(「フィリピンのイスラム教」については12月26日の日記にも少しレポートしたので参考にしてください。)・・・こんな書き方したくなかったんですが書いちゃいました。 日本でフィリピンに関するニュースが強調されるのは、テロや犯罪事件ばかり。もっと他の側面も知って欲しいという思いで、ブログを書いているのですが、やっぱり負の側面ばかりが目立つものになってしまいます。どうしたもか・・・。 もっとフィリピンを好きになるような楽しいネタを届けられるように頑張ります。それでは。<終>
Feb 14, 2005
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交換留学生レポートでありながら、今まで大学のことを紹介していませんでした・・・。今回は留学先であるフィリピン大学とフィリピンの大学事情についてレポートします。(被災地レポートはちょっとお休みです。) 正門にある像‘オブレーション’はフィリピン大学の象徴です。モデルは国民的英雄のホセ・リサール。(写真はクリスマス時のもの)<フィリピンの東大‘フィリピン大学’とは?> フィリピン大学は1908年に設立された国内初の国立総合大学。通称UPと言われます。一つの大学のように聞こえますが、1972年の大学改革を機に「特徴的な学問領域を持つ、7つの独立した大学システム」になりました。 僕が学ぶのはUPディリマン校。法学、社会科学、工学、音楽、建築、芸術などの分野で有名です。その他には医学で有名なUPマニラ校、水産で有名なUPビサヤ校などがあります。 さてUPディリマン校は国際空港から車で45分くらい、マニラ北東部ケソン市にあります。マニラでは珍しく自然が多く残されたロケーションです。 68の学士コースと22の大学院コースを持ち、学生総数は25,200人、うち留学生は209人です(2002年のデータ)。現在の日本人留学生数は交換留学生(日本とフィリピンの大学間協定による留学)がおよそ25人、修士課程などの日本人正規学生数は10人くらいです。 493ヘクタールの広大なキャンパス(東京ドームの100倍以上の広さ!)の中には、各種の国立研究所、競技場、学部棟をはじめ、食堂やホテルなどがいくつかあります。とても徒歩で移動できる距離ではないので、学内にはジープニー(乗り合い自動車)が循環しています。その名もIKOT(イコット)。タガログで‘循環’というような意味だそうです。 UPの中心部の風景。緑の多いキャンパスです。これがイコット!多くの学生が利用する学内循環バスのような乗り物です! そしていかにもフィリピンらしいのは、キャンパス内に一般の民家のみならず、不法居住区も存在することです。このような状況になった原因は諸説ありますが、戦後に行われたキャンパス移転以前に住んでいた。あるいは、貧しくて住む場所がなく、キャンパス内に流れてきた人が定住するようになったとも言われています。 あまりに広大すぎて外部との境界が曖昧なため、キャンパスの治安はあまりよくありません。強盗、レイプは日常的。殺人などもあります。 数年前、ベトナム人留学生が誘拐されて未だ行方不明のままという話も聞きました。先日も白昼堂々、僕の住む寮の前でホールドアップがありました。銃を突きつけられて、「お金を出せ」ってやつです。 散歩が好きな僕ですが、用心のため夜中は歩かないようにしています。 大学内にある不法居住区の様子。フィリピンらしい! そんな学校らしからぬ点もあるUPですが、学生のレベルの高さは国内トップ、東南アジアでも5本の指に入る名門大学と言われています。卒業生もフィリピンを代表する有名人が勢ぞろいです。数人紹介してみます。 まずは故フェルディナンド・マルコス氏。1965年から1986年まで大統領を勤めた人物です。戒厳令を敷き、政治を操った彼は独裁者といわれました。UPの法学部を出て、司法試験にトップ合格したほどの頭脳の持ち主であったことは今でも語り継がれています。 このマルコスの政敵だった故ニノイ・アキノ上院議員はUP法学部を中退しています。彼が亡命先のアメリカから帰国した直後に暗殺された事件は、マルコス独裁政権に対する国民の怒りを一気に噴出させました。これがフィリピン政治史のハイライトである‘ピープルズパワー’と呼ばれる民衆革命です。 そして現在のアロヨ大統領ももちろんUP卒です。経済学者として自らUPの教壇に立っていたこともあります。92年に上院議員に当選したことを契機に政界に入り、とんとん拍子に大統領にまで登りつめりました。 このように現代フィリピン史の当事者たちを輩出してきたフィリピン大学。ここに通っていて感じるのはやはり‘エリート意識’です。どの学生と話していても、自分がUP生であることに誇りに感じています。またこの大学がフィリピンにおいて非常に高いステータスを持っていることは交換留学生である自分も強く感じます。 例えば、役所などに行って調査するにしても、「UPで勉強しており、リサーチに来ました」と一言いえば、まず断られることはありません。むしろ偉い人を紹介してくれたりもします。‘コネ’や‘学歴’が物を言うフィリピン社会を強く感じる瞬間です。 またエリート同士の争いも熾烈です。同じくケソン市にあるアテネオ・デ・マニラ大学は私立大学の最高峰。UP生はどの社会階層の生徒も通っているのに対し、アテネオは良家の子女が通う大学です。特にUP生はアテネオ生に対してかなりの意識をもってるように感じます。このライバル意識の高さを示す会話を友達から聞きました。 友人は尋ねました――「UPのシンボルがフクロウなのは何故?」 UP生は答えました――「フクロウはタカよりスマート(賢い)だからさ」 ライバル校アテネオ大のシンボルはタカで有名。「彼らより賢い」と暗に示してみせたのです。確かにスマート!このプライドの高さに僕は感動してしまいました。 多くの歴史的人物を輩出してきたUP。写真は法学部棟。<フィリピン大学事情> さてフィリピンは意外なことに、国際的に比較しても高い教育水準と高学歴人口を持っています。高等教育機関の総数は国公立私立合わせて1383もあり、これはアメリカについで世界で2番目の多さです。高等教育の就学率も27%以上で世界180カ国中33位。アジアに限れば、韓国、イスラエル、日本、シンガポールについで世界第5位と言われています。 これほどまでに教育が盛んな理由はかつての植民地支配にありました。フィリピンを統治したスペインやアメリカは学校教育を重視し、現地の有能な人材を育てようとしたのです。スペイン統治時代の1645年に建てられたサント・トマス大学は、アジアで最古の大学として現在もマニラに残っています。 では高等教育を受けたフィリピンの学生の就職状況はどんなものなんでしょうか。 友人の話しによると、企業によって出願条件として出身大学が指定されているようです。特に強いのはUP、アテネオ大学(私立)、デ・ラサール大学(私立)の3校だということ。ここでも露骨に学歴社会が示されています。 エリートのUP生なら余裕で就職先を見つけられるのかと思いきやそうでもないようです。経済停滞が続くフィリピンでは失業率が11%以上と高く、当然のように就職難です。 フィリピン人の多くはアメリカなどを始め、世界各地に職場を求めて国を出てしまいますが、この状況では無理もありません。せっかく国内最高の高等教育を受けてきたにも関わらず、それに見合うだけの職場が国内には無いのですから。 でも有能な人材がどんどん流出してしまっては、誰が切迫した国内の経済を立て直すのでしょうか?教育された者がしっかり国を見つめなくては解決の道はないとおもうのですが。問題は山積みです。 就学率が高いフィリピンですが、同時に退学率も多いのが現状です。 今まで知り合った人の中にも、「カレッジに行っていたけど、今はストップしてるんだ」という人が結構います。これは要するに「お金が続かなくて、途中で休学する」という意味のようです。 日本の場合と異なり、フィリピンの大学は単位ごとに授業料を払います。お金がある人は多くの科目を履修し、4年以内に卒業できる一方で、経済的に困窮した学生は、お金に見合った単位数のみの授業料を納め履修しているようです。 入学はしたものの、4年間で卒業できず、就学期間が長引くこともあるし、資金を工面できずに途中でやめざるを得ないこともしばしばです。<終> 今回は大学事情について書いてみました。フィリピンにこれから留学する方もHPを見てくれているようなので。少しでも参考になれば幸いです。
Feb 7, 2005
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昨年末、豪雨災害にあったケソン州。現地の状況を伝えるレポート第二弾です!倒壊したリゾートビル。ここでは28人が亡くなった。2.ケソン州レアル町の被災状況 インファンタ町からトライシクルで北上すること15分。人口29000人のレアル町は東側を海、西側を山に囲まれ、ビーチリゾートがあることでも有名な町だった。だが、今はその面影はない。国道を挟み、急な山の斜面沿いにあったビーチは土砂や流木で埋まり、黒く染まっている。海水も未だに濁ったままだ。 この豪雨で同町の被害は死者241人、行方不明者22人、怪我人150人、全壊した民家1054件にのぼっている。(1月27日現在 同町役場調べ)<‘奇跡’と呼ばれた子どもに出会う>「11日間ずっと望みを失っていた。でも娘の無事を知った時は本当に幸せだった。神に感謝したよ」。3歳の少女ら4人が、全壊した3階建てリゾートビルの中から11日ぶりに救出され、世間を騒がせた事は記憶に新しい。現場だったティグノアン地区に立ち寄った際、偶然にも少女の父親メルビンさん(30)と話すことが出来た。災害にあった状況をこう話す。「バランガイ(最小行政区)から知らせがあり、午後6時くらいに家族でビルへ非難したんだ。その時点ですでに胸の辺りまで水がきていた。私は偶然にも7時45分すぎに外の様子を確かめるためビルから離れていて助かったんだよ。逆にビルに非難していた妻と子ども両親は生き埋めにあってしまったんだ・・・」。 土砂で倒壊した三階建てビーチリゾートは一時非難場所になっていたため、被災当時150人以上の人が中にいたという。全壊した結果、108人が犠牲になった。その中にはメルビンさんの両親と23歳の妻、そして9ヶ月だったもう一人の子も含まれている。 漁師だったメルビンさんは舟が壊れてしまい失業中だという。山中にあった家も流され、今は親戚の家に身を寄せている状況だ。 これほど大きな被害を受けた彼だが、政府からの補償はないようだ。その理由は「補償をもらうためにはIDや婚姻届など様々な証明書が必要だが、すべて流されてしまい申請できない」とのこと。国の社会福祉制度、緊急事態の対応の悪さに呆れてしまう。 「政府は600万ペソを住宅建設にまわすと豪語しているが無理だろう。せいぜい100万ペソくらいかな」。メルビンさんは皮肉そうに語っていた。 奇跡的に生還した娘のステラマリーちゃんはというと、すっかり元気になり、オママゴトで遊ぶ姿があった。だが僕たちが近づくと大泣きしてしまう。フィリピン人の子供にしては珍しい。 長く閉じ込められていた恐怖、その後の執拗な取材、そして母を失ったこと・・・。この3歳の小さな女の子が受けた精神的ショックの大きさを改めて感じた。奇跡的に助かったとはいえ、心の傷が簡単に癒えることは無いだろう。僕はマニラから持ってきたお菓子を父親に託して現場を後にした。メルビンさんが手にするのは「奇跡の救出劇」の写真。国軍のカレンダーになっていた。(でも発見したのは民間人)100人以上が亡くなったリゾートビルのあった場所。山の木陰に葬られた犠牲者。未だに発見されない遺体も多い。<自然災害ではなく人災?> 「違法森林伐採が被害拡大の要因だとされ‘森林伐採の全面禁止’が主張されている。だが、それでは山でもともと木を切り生活の糧にしていた人が収入源を失うだけだ。防災のため住民の居住地を変えられたらいいが、町内で比較的安全な場所は少なく難しい。すべての地域に川があり、今回のような豪雨の場合、洪水などの影響は避けられない」。 地域の開発計画を担当するレアル町役場のエドガルドさん(52)はこう話す。自然に囲まれた地域の防災対策の難しさに頭を悩ませていた。 彼の話しにもあるように、‘違法森林伐採’が災害を引き起こした原因として、強く非難されている。だが、単にこれを禁止するだけでは解決できない複雑な事情が絡んでいるようだ。この問題について少しレポートしたい。 ケソン州は住民の半分以上が何らかの形で違法伐採に関わっているといわれており、また地元の有力政治家などが関与しているため、摘発も長く難航してきた。 アロヨ大統領は被災直後、「今回の大災害の責任を負うべきは違法伐採業者。彼らを徹底追及する」と表明、「全国的な森林伐採の全面禁止」と「ケソン州全域での伐採許可取り消し」を命じた。 そして先日、環境天然資源省は‘森林再生後に優先伐採を住民に許可すること’を条件に地元住民に協力を要請。ついにケソン州の違法伐採業者の告発にまで踏み切った。大統領は強い権限を使って一気に問題の解決に踏み切ろうとしている。 だが、JICA(日本国際協力機構)から天然環境資源省に政策アドバイザイーとして赴任しているHさんはこの方針に反論する。 「大統領の主張する‘何も切ってはダメ’という処置では効果がない。当分の間、伐採できない木を誰が植えるのか。植えた木には伐採許可を与えたりするなどの選択的な禁止でなければ、住民から反発が大きく実現は難しい」。 そしてこうも付け加える。 「ケソン州は森林の減少が急速に進むフィリピンにおいては緑が多い地域。はげ山になっている山はほとんどない。今回は局地的な豪雨だったという自然災害の側面も大きい。これまで土砂災害がある度に政府は全面禁止を主張してきたが、細かい事情を考慮しないで、極端に政策を決めていたことが、災害を防止できなかった原因でもあるのでは?」 ところどころ崩れ、地肌が見える山。被災2週間後の様子。<援助資金は届いているのか?> 前述のレアル町役場に勤めるエドガルドさんが、復興に必要な資金を計算していたので教えてもらった。 「インフラ整備5000万ペソ」・「農家や漁師に対する産業補助8000万ペソ」・「自然回復のための環境整備500万ペソ」・「孤児や被災者に対する援助150万ペソ」で、総計は約1億3650万ペソ(約2億7000万円)だということだ。 だが、現時点での公式な資金援助は、政府(大統領災害基金)からの200万ペソ(約400万円)のみ。不十分なことは明白だ。 「キリスト教団体などからも援助を約束されたが、突然中止してきたところもある。あては政府が海外から受けている救援物資や資金提供だが、今のところ我々は資金を直接受け取っていない」と彼は不満をもらしていた。 しかも政府は支援物資の供給を1月14日を最後に止めてしまい、今は近隣の自治体から食料を援助してもらっている状態だとも話してくれた。 慢性的な財政難で海外からの援助に頼るほかないようだが、これらの援助が被災地のために有効に活用されるかどうかも彼の話を聞いて疑問にる。インフラ整備のためにJBIC(国際協力銀行)などから受け取る資金を水増し請求するなどの疑惑もあるフィリピン。緊急時に単に資金を提供するだけではなく、使用用途の明示を条件にした援助も必要に思える。<テントの中を覗いてみる> 「一つのテントで家族8人が暮らしている。食料も少ないけれど、最も問題なのは仕事、家の援助がないこと。5ヵ月後には長屋が立つ予定だといわれたが、どうなるかわからないわ・・」。 レアル町のセントラルスクールでは、校庭の片隅に数個のテントが張られ、豪雨被害により家を失った被災者たちが暮らしていた。テント内の4畳ほどのスペースには生活用品が並ぶ。ほとんどの家族に小さな子供がいる様子だった。 被災後の住宅事情は地域によって大きく異なるようだ。土砂で埋まってしまったが、早くも建て直しが進む光景を町の中心部ではよく見かけた。だが山間部や被害の大きい地域になると、手がつけられない状態だ。新たな居住場所を探さなければならないが、やはり資金などの面で難しい。 先日、社会福祉庁、赤十字や非政府組織などが協力して住宅支援を進めるという報道を目にした。具体的な政策がようやく動き出したようにみえる。 だがその内容は、「被害のひどかった地域に今年6月までに2500戸、年末までに4万戸建設をする」という極めて限定的なもの。しかも遅い。 これから迎える乾季を前に、テント生活者が過酷な生活を強いられることは避けられないように思える。<続く>テント生活を余儀なくされる被災者たち。それでも笑顔を見せてくれた。12月中旬は落ちていた橋(上)。1月末には仮設の橋が出来ていた(下)。急ピッチで進む町の復興。 次回はケソン州の中では貧しい地域とされる、ジェネラルナカール町です。
Feb 3, 2005
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マニラから車で約5時間。急なカーブの山道に嫌気が差すころ、現場は姿を現し始めた。「無残につぶされた車や民家、倒壊した橋、そして見事なまでに崩れた山の斜面・・・」。町中が流されてきた土砂で茶色くかすんで見える。自然の恐さをこれほどまで強く感じたことは今までなかった。 昨年11月下旬、熱帯低気圧ウイニーと大型台風ヨヨンによる集中豪雨がルソン島中南部を襲い、多くの被害をもたらした。 公表では死者は1000人を超え、行方不明者を含めると1600人以上になる。今後も増加する見込みだ。また家屋・公共施設の損壊、農作物被害などの損害は46億ペソ(約90億円)に達するという。 最近のメディアは、被害拡大の原因とされる‘違法な森林伐採’の関連者を糾弾する話題ばかり。肝心の被災者たちの現状はあまり見えてこない。 「復興はどこまで進み、被災地域への援助は十分に行われているのか」という疑問を確かめるため、僕は被災2週間後の12月中旬と、2ヵ月後の1月下旬の2度にわたり最も被害が大きかったケソン州に入った。今回はその時の‘被災地の現状’をレポートする。1回目はケソン州のインファンタ町だ。1.ケソン州インファンタ町の被災状況<町の現状> 「11月29日の午後10時頃、家が浸水し始めた。1時間もたたないうちに1メートルを超え、急いで家族を連れて屋根裏へ逃げたんだ」。 こう話すのは同地に住むNGOワーカーのリッキーさんだ。(今回の取材に同行してくれました。)彼の家は山、川から10キロ以上離れたところにあるにも関わらず1メートル以上浸水した。その半分は‘土砂’だったという。泊めてもらった家には確かに浸水した際の‘泥のシミ’が残っていた。「川の近くにある両親の家は年に1、2回ほど浸水するが、自宅が浸水するは初めて」と興奮気味に話す彼の言葉から、今回の洪水の大きさがうかがえた。 人口4万5千人のインファンタは川と山に囲まれた緑多き町、だったはずだ。今回の土砂混じりの洪水の影響ですっかり町は変わってしまった。豪雨で118人が死亡、41人が依然行方不明だという(1月26日現在 同町役場調べ)。 被災直後は1週間以上にわたり電気や水道が断たれ、土砂で道が埋まったため食料などの必要な物資はヘリで空輸された。 僕が訪れた時は泥や廃材をのせた大型トラックが行き来し、長靴を履いた市民が必死で壊れた家を再建するなど、町の復興は順調のように見えた。 だが、「学校や市場が再開したのは2週間前。被災1ヶ月半経ってからのことだよ。営業可能な食堂もまだ町に2件のみなんだ」とリッキーさんは話てくれた。よく食堂を覗いてみると、確かに営業していてもフィリピンの代表的なおやつである‘揚げバナナ’しか置いてない店も多かった。町の復興はまだまだこれからだ。<不足する復興資金> ケソン州出身の下院議員、ラフィー・ナンティス氏の事務所を訪れ、マネージャーのアリスさんに話を聞いた。 「アロヨ大統領は被害の深刻なケソン州3町(レアル・インファンタ・ジェネラルナカール)に2百万ペソ(約4百万円)ずつ復興資金を供与したが不充分だ。ラフィー氏は地元の基盤を利用して様々な機関から復興のための資金550万ペソ(約1100万円)を集めた」。 政府の復興資金の少なさにまず驚かされる。地方自治体や国際機関が援助しているとはいえ、桁が一つ足りないのではないか。 また地元の有力政治家の働きは意外だった。彼らが地域の権力を牛耳っているとしばし批判されるフィリピンだが、その分災害などの緊急の場合には資金集めがしやすのかもしれない。 「現在の最大の問題は何か」という問いに対しては、「水道システムの回復」の必要性を説いていた。今は井戸から水を汲み取っている状態だ。だが町全体が復旧するまでには最低6ヶ月は要するという。やはり何よりもインフラ整備のための資金獲得が当分の間の課題のようだ。町の中心部の様子。そのままにされた泥に埋もれた民家。<救援物資の中身> 「乾燥えび1袋・にぼし1袋・モンゴ(小豆)・米1キロ・オイル500ミリリットル・ツナやコンビーフなどの缶詰6個・衣服」。配れられていた救援物資の内訳だ。「オーストラリアエイド・ニュージーランドエイド・国連開発計画(UNDP)」と袋には記されていた。 物資を見せてくれたのは、給付所から家に帰る途中だったラリータ・ドンソンさん(38)だ。「支給は月2回程度。6人の子どもと夫の8人家族の我家は、この量では到底足りない。夫は農業を営んでいたが、全て流されてしまい収入がなくなってしまった」。彼女はこう話す。「今一番必要なものは?」という質問に対して、「食料」と答えていた。 フィリピン各地や世界各国から救援物資が送られているが、物資の不足は依然深刻なようだ。また農業に人口の半分以上が従事する同町では、作物への被害が大きく、3月から始まる収穫を前にして収入源を失った人も多い。食料支援と同時に農地の回復にも力を入れていく必要があると感じる。 救援物資の中身(上)と物資の不足を訴えるドンソンさん(下)<すべてを洗い流された地域> 町の中心からトライシクルに乗ること15分。ジェネラルナカール町に隣接するポブラシオン地区にやってきた。ここは東に位置するシエーラマトレ山から流れでた土石流が、アゴス川を下り、民家を残らず洗い流してしまった。今では一面、茶色の泥で覆われている。積もった泥は実に50センチ以上。だが、中心部のようにショベルカーが泥を掻き出すなどの作業は行われていない。ほとんど手付かずの状態だった。民家は跡形もなく流されてしまった。 その泥の平原を歩き小高い丘を登ると、景色はガラリと一変する。山から流された木々や民家の材木があたり一面を埋め尽くす、‘死んだ木の海’が目の前に飛び込んできた。僕はしばらくの間、言葉を失ってしまった。今までに見たことがないほど荒れ果てた光景・・・呆然とするほかなかった。 話では、その面積は10ヘクタール以上。これほど多量の木々を取り除き、かつてのような農村にすることは可能なのか。それは無理と言わざるを得ない。可能だとしても多く歳月を要する事は間違いないだろう。 あたり一面に広がる流木。手のつけようがない。 <人々のたくましさ> だが悲観的な私とは裏腹に、地元の人々はたくましい姿を見せてくれた。 同行してくれたリッキーさんの知人トンさん(50)は、流木を利用し舟を彫っていた。「小さいサイズは作るのに5日間かかり、4千ペソ(約8千円)で売れる。大きいものになれば1週間かかるが、8千ペソ(約1万6千円)になる」と話す。 リッキーさんも所有地に流されてきた大木を売ろうと張り切っていた。「大きい方は1万5千ペソ。短いのは5千ペソかな。口コミで伝えて、建設業者に買い取ってもらえれば」と話していた。 リッキーさんの母アディーンさん(56)も約3ヶ月で収穫出来るトウモロコシやピーナッツなどの作物を早くも植えていた。泥で埋もれてしまった土地だが、既に新しい作物が芽吹く光景を目にすることが出来た。 川の氾濫で跡形もなくなってしまった同地区。だが人々はその状況を受け止めて、淡々と元の生活に戻ろうとしていた。しかも訪れた僕たちに笑顔を見せて。フィリピン人の底抜けな明るさは、彼らの‘精神的な強さ’を示していると感じる。<続く> 生計を立てるために必死の被災者たち。舟を彫る男性とモンゴ(小豆)を植える女性。次回は隣町レアルについてレポートします。
Feb 2, 2005
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前回レポートした「子どもの家」の写真をちょっとだけ公開します。フィリピンの代表的な乗り物「ジープニー」。アメリカ軍が残していったジープを改良したといわれる庶民の乗り物です。多くの方の支援を受けて、昨年末「子どもの家」に寄贈されました。子どもが学校や教会に行くときなどに使われています。ミリエンダ(おやつ)に出されたピザパイをほおばる子どもたち。 子どもたちは得意のダンスで僕らを歓迎してくれました。フィリピン人はみんなダンスが大好き。いつでもどこでも踊り始めます! プレゼントであげたシャボン玉を吹くらますネネン。 「子どもの家」の会議室。僕がキャンプに参加したときに建設に携わった施設です。乾季のフィリピンで汗水たらして作業した思い出は忘れられません。 みんなでビーチに遊びにでかけました。海辺で生き物を探す好奇心旺盛なルベン。 ビーチで大はしゃぎのこどもたち。 ケルビン・ネネン・イネンの3きょうだい。おてんば娘のネネン・イネンには手を焼きます。でもそれがまたカワイイ!っとまあ、「子どもの家」の家族はこんな感じです。<終>
Feb 1, 2005
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