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日本語タイトルは「今を生きる」。ロビン・ウィリアムズ主演の12年くらい前のヒット映画だ。 洋画のタイトルは日本で上演される場合、そのまま英語をカタカナにして使う場合(ターミネーター)と、映画全体の雰囲気から全く違う日本語タイトルに変えてしまう場合と二つあるようだ。上の「今を生きる」は後者の典型。英語をそのまま訳すと「死せる詩人の会」となるが、これでは多分お客さんがこないと踏んだのだろう。 確かに、映画を貫く全体のテーマは、頻出してくるロビン・ウィリアムズの台詞「Seize the day.」に集約されている。seizeは「かなりしっかりグッと掴む」ようなニュアンスの単語で、力ずくでつかむような、非常にパワフルな意味を持つ。 dayに定冠詞theがついているのもポイントだ。日本人が最後まで習得が困難とされる英語の文法上の難関は、前置詞と冠詞だとよく言われる。基本的な冠詞の機能は「特定か不特定か」を明示するものである。a dayではなくthe dayとなっているので、特定の日を指す。そして、話者にとってそれとはっきりわかる物事を指す場合にもtheを伴うので、これらから、the dayとは「今現在生きてきる一日間」ということになる。そこから、「今という瞬間」という風に解釈できる。したがってSeize the day.は「今という一瞬一瞬を決して離さないように、しっかり全力で捕まえなさい。」という、短いけれども非常に強力なメッセージを含んだフレーズになるのだ。余談だが、大体において重要な言葉は短いことが多い。 そこから考えて、日本語では「今を生きる」という風に訳され、それがそのままタイトルになった。とてもよく考えられて作られたタイトルだと思うが、英語原文の台詞はもっと「我武者羅な一生懸命さ」を伴って迫ってくるようなことばだ。ところが、「今を生きる」とすると、さらりと「今をしっかり生きましょう」と、なんだか東洋的な自然の流れに逆らわずに、徒然なるままにやっていきましょう、というようなニュアンスで聞こえなくもない。もちろん、そこから深い、強いメッセージを受取る人もいるだろう。しかし、その逆を感じる、あるいはそのコトバから軽率さを感じる人もいるだろう。 言葉の意味は間違っていない。でもやっぱり正確なニュアンスではないような、歯がゆさが残る。じゃあどんな訳がいいのか、と言われると、本当にニュアンスまで汲んで訳すとどうしても説明的な訳にならざるを得ず、恐ろしく長くてコピーとしては到底使えないような文になるだろう。なので、究極的にいうと、完全なる翻訳は不可能だったということになる。「今を生きる」がベストの選択だったのだと思う。 うまい翻訳でも、原文のココロまで忠実に再現できるかどうかは、相当難しいと言えるだろう。翻訳にははじめから限界があるとも言える。そして、この限界を限りなく埋めていく作業に立ち向かう人々を「翻訳者」という。完全に埋められないことがわかっていても、その限界に挑もうとするココロザシを持った人達。そう考えると、ちょっと英語を活かして翻訳を、などと大それたことは考えられないと思うのだが…。
November 22, 2004
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久しぶりに名古屋に行ってきた。いつ訪れても整然とした町並みには感心するのだが、いま名古屋を中心とした東海経済圏は、日本経済低迷の中にあってとても景気がいいらしい。世界のトヨタはもちろんだけど、中部国際空港の開港と、来年には万博も控えて町が活気づいている印象だった。なのに、あののんびり加減はなんだろう。東京首都圏はさておき、関西経済圏と比べても規模では大して変わらないのに。「大いなる田舎」なんて言われてきたけど、その雰囲気は万博の開催を契機に変わっちゃったりするもんだろうか。タクシーに乗るとおじさんが親しげに話しかけてくる。そんなおじさん達は、みんな名古屋が大好き。I love Nagoya. まあ、名古屋を誉めちぎったらタクシー代まけてくれたりするので、いいんだけどね。例えば名古屋駅地下街のショップと飲食街。なんで、夜9時に一斉に閉まるのか。これって結構衝撃的だったりする。コンビニはさすがに24時間開いてるみたいだけど。ほのかに都会でほのかに田舎というスタイルは、そこに住む人にとっても心地よいに違いない。万博なんかを契機に急速に開発が進む地域は多いけど、名古屋はそんなものなくても経済発展してきたわけで、それを契機に急激に変わるとも思わない。なぜ東京や大阪のように大都市化(まあ、名古屋も大都市なんだろうけど、不思議とそう感じない)してこなかったのだろう。徳川以来の「質実剛健」をずっと守り続けている結果なんだろうか。
November 17, 2004
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久しぶりに某友人と飲みにいって話をしたんだけど、話のネタに、生活していくということは選択の連続だが、その選択の基準をどこにおくかという、まじめな話題になってしまった(笑)これは仕事に限らないことだけど、一番わかりやすいと思うので仕事選びをするという場面を念頭において考えてみると、まず「自分がやりたいことをやる。仕事選びにおいては、自分の意思を通すことが大事。」という意見が一方にある。また「自分がやりたいと思ってもやれないこともある。状況に身を委ねることも大事ではないか」という考えかたもある。さてどちらが正しい考え方なのだろうか。どちらが仕事選びをするときの基準として持っておくべき姿勢だろうか。結論から言ってしまえば、「たぶんどちらも正しいだろう」。あるいは「たぶんどちらが正しいとは言えないのだろう」となった。はっきり言ってよくわからない、というのが本当のところ。「やりたいことをする」というのは、仕事のモチベーションを高めるにはとても大事な要素だ。夢なんかもやりたいことの中に含めてしまえるかもしれない。自己実現ブームが起きて久しいが、好きなことをする、やりたいことをする、それ以外では満足感は得られないのだ、っていう感じの本もたくさん売れているようだ。だけど、やりたいことというのは、実際にやってみたら理想と違ってたってこともあるし、やりたいことに固執するあまりに、自分が持っている、まだ気がついていない才能を眠らせたままにする可能性もあるわけだ。自分では考えてもないような仕事を頼まれたり、希望していない部署に移動になったり…なかなか自分の希望通りに物事は運ばないようにできている。しかし、自分一人の意思では選ばなかったであろう選択肢がやってきた場合、拒否するのは簡単だけれども、新たな自分の可能性を得るチャンスがきたとも言えるのかもしれない。 けれども、流れに身を任せた場合、行き先のない航海にでるような気がして、心細くなってしまうだろう。ゴールのないマラソンを走るようなものだ。でも、そう考えてしまうから行き詰まってしまうのかもしれない。だって人生にはゴールがないもんね。あるとすれば「死」がゴールと言えなくもないけど。しかし、そのゴールはいつ訪れるかわからないのだから、やっぱりゴールとは言えないでしょう。とすれば、人生って(重っ!)、ゴールに向かって一直線に進むレースではなく、寄り道をしながらオリエンテーリングしてるみたいなものと思ったほうが気が楽だ。ならば、寄り道の一つ一つを味わい、楽しむのも一つの生き方として、もっと推奨されてもいいような気がする。寄り道をしてる間に、新たな可能性の扉を開くことだってあるかもしれないし、おもしろい発見があるかもしれないし。しかし同時に、流れに身を任せると言っても、強引に流れを変えないとチャンスは巡ってこないじゃないか、とも思う。いきたいと思った方向にとりあえず行ってみないと、後で後悔することにもなるだろう。だから二項対立なのだ、このネタは…笑結論めいたことはよくわからない。でもわかっているのは、「やりたい」と本人が思っていても、周りが「やらせてくれない」とどうしようもない、ってことだ。「やらせてくれない」というのはいろんな要素が絡んでくる。実力が足りない、人脈が足りない、需要がない、人から認めてもらえていない、etc…。 逆に、自分の前に考えてもないのに現れた仕事は、もしかしたら、「たぶんあいつならやれるだろう。あいつが適任だろう」という風に考えられて、運ばれてきたものなのかも知れない。そう考えると、その運ばれてきたものを拒否するのは、なんだかもったいないような気もするのである。この二項対立のギャップを埋めるにはどうしたらいいのか、結局のところはわからないが、まず「やりたいこと」がある場合は、まずは、そのやりたいことが「本当にできるのか」ということを問いかけてみる。そして、できないのであれば、できるように勉強して、訓練してできるようになる。しかし、できるようになっても、そのやりたいことが実現できるかどうかは、他のいろんな要素で阻まれてしまう、という可能性があることを忘れないこと。人事を尽くして天命を待つ、という言葉を覚えておくこと。そして同時に、目の前に持ってこられた仕事に対しても、手をかけることを忘れないこと。もしかしたら、そっちが本当にできることになり、やりたいことに化ける原石なのかもしれないのだから。
November 8, 2004
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自分がまだ何者でもないのに、何でもできると思えること。これが若さなんだと思うけど、最近こう思えなくなってきたのは、若さがなくなってきた証拠だろうか(トホホ)。これは少し寂しくもあり、少し嬉しくもある。若さの前には無限の可能性がある(と思い込める)。少しずつ現実を知り、年を取って、自分よりも若い子たちが、次から次へと後ろを走ってくる。できることとできないこと、現実と夢の違いを知る。人生の選択肢が、少しずつ少しずつ狭まってくるような気がしてくる。タイタニック号で、船底に閉じ込められた人たちが必死の思いで徐々に降りていく防水扉に向かって走っていくような感じ。気持ちだけではない。駅の階段を少し駆け上がっただけで息切れがするとか、病気になりやすいとか、すぐ疲れるとか。いや、まだそんなトシじゃないんだけど(笑)、やっぱりピチピチフレッシュな頃とは違うよねってことを実感する。そうでしょ?そこのあなたも。根拠のない自信を失った代わりに、根拠のある自信を多少は得られただろうか。「何でもできると思える」ことは「何もできない」こととほぼ同義だ。若い心はなんでもできると思えるが、それは何もできないというあせりの心と同居している。自分もそうだったと思う。一生懸命生きていくなかで、少しずつ「できること」が増えていき、少しずつ「根拠のある自信」がついてくる。あせる気持ちが徐々に和らいでくる。これを成長と呼ぶのかもしれない。安定とも言えるかもしれない。しかし同時に、「何にでもなれる」という根拠のない自信が薄れてくるのは、やはりどこか寂しいものだ。未来に向かっての夢や、自信をつけていくためのプロセスを放棄してしまったとき、そして今できることだけに安住して安定の中だけに生きるとき、成長は止み、人は「今できること」を一定程度維持した後、退化へと進むのだろう。もう何にでもなれる、なんて青臭いことは素直には思えない。けれど、挑戦しようと思って先延ばしにしてることや、できるかどうかわからないけど、そもそも面倒くさくてやってないだけ、っていうことってたくさんあると思う。興味があるのになかなか手をつけてないこととか…。そういうこと放棄してしまったときに、本当の老後が訪れるんだろうなと思う。そして、それにはまだまだ自分は「若すぎる」と言っておこう。
November 5, 2004
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「吉本ばなな」って、いつのまにか「よしもとばなな」に改名してたんだ~。それはさておき、ばななさんはHPを持っていて、そこに読者からの質問コーナーのようなものがあるのだけど、その中に「人生における壁にぶつかったとき、どんな風にしてそれを乗り越えるか教えて下さい」というのがあった。 まあ、そんなもんは自分で考えろと思うんだけど(笑)、ばななさんの回答がいたってシンプル。いわく、「友達にグチり、プロに相談し、間を置き、自分で結論を出し、悔やまない」以上。 この人ってとっても論理的思考だなぁと思った。悩みが起きたときに友達に相談するって人は多いだろう。でも、結局それで悩みが解決できることって少ないんだよね。少なくともワタシの場合ですが。悩みは聞いてもらってる段階で半分は自己解決してることが多いよね。結局、相談というよりも、誰かに聞いてもらいたかったってのが多いわけで。 プロに相談するっていうのは、病気のことを考えたら一番わかりやすいだろう。どこか具合が悪くなって、これこれこういう症状だけど…っていうのを、親兄弟や友達に相談しても、ちゃんとしたアドバイスなんかもらえないし、答えるほうもヘタなこと言えないもんね。そもそも病気の診断っていうのは、医者でも難しいわけだから、なおさら素人に聞くということそのものが間違いなわけで。こういうのは他に、法律や税関係なんかでも言えることでしょうね。 気になったのは、「悩みを聞くプロ」に相談するってこともありなのかなってこと。ばななさんは占いを信じている人らしいので、結構占い師の話なんかでてくるんだけど、占い師ってある意味、悩みごとを聞くプロと言えないこともないんで、もしかしたらそういうことも含めて「プロに聞け」と言ってたのかなぁと思った。 さて、間を置く。これはその通りだと思う。恋愛なんかとくに顕著だと思うけど、頭に血が上ったりしたとき人間は冷静な判断能力を失う。メールなんかでも、そんな状態のときに書きなぐった文章は、後から見ると赤面したくなるようなことが多いけど、それと似ている。悩んでいるというのは、考えても結論が出ないということと一緒。ということは、ある一定以上考えても答えは出ないんだから、しばらくそのことを忘れて「寝かせておく」のも手かもしれないと思う。寝かせておくうちに、小さな悩みであれば忘れてしまうかもしれないし、その間に新たな出会いや経験をして、その中でひょんなことから解が得られる場合があるかもしれない。 自分で結論を出すこと。他の人にこう言われたから、ではなく最終的には自分で結論をだす。他人のアドバイスにそのまま盲従して結論を出せば、出した結論がまずかった場合に、その他人のせいにして怨んでしまう、ってこともあるからね。自分の悩みはホントのところ、自分にしかわからない。自分の人生には自分で責任を持つ。当たり前なことなんだけどね。 さて、これとつながっていると思うけど、考え抜いて、友達にも人にも相談して、間も置いて考えて、最終的に自分で出した答えには後悔しないこと。これだけたくさんのことやって出した答えでも、時には間違っていたとか、後悔するってこともあるだろう。悔やまないといってもやっぱ悔やんでしまうと思う。それが人間だもんね。でも、あの時、あれだけやって出した結論なんだから、あのときはあれ以外に選びようはなかった、って思えたら少しは楽になるのかも知れないなと思った。それに、あの時別の選択をしていたとしても、いい結果になっていた保証はどこにもないわけで。だから後悔というのは、やらなかったことに対する後悔は大きいけれども、悩みぬいて決断したことに対する後悔には、はっきりいって意味がないってことなんだよね。まあ、言うは易し…なんですけどね。
November 4, 2004
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