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今日は福島県富岡町から神奈川県に避難して来ている方々の交流会の日です。場所は横浜駅の西口近辺にある「かながわ県民センター」で13時30分からです。私も富岡町にはH11年~15年までとH18年~震災日まで住んでは住んでいましたが、そんなに町民の方々と交流は無かったので、今日の交流会に参加するか迷っています。富岡町よりは浪江町に住んでいた方が長かったし、育ったのも学校も勤めていた会社も浪江が長いです。交流会どうしょうか、まだ悩んでます。それとは別に5順目の一時帰宅が迫っています。今回の帰宅の予約受付の方がとても気の利く方で、当日の入出受付場所を浪江町にしたら横浜から遠いのに、もしかして何処かに寄る為ですか?と聞いてくださり、実家の請戸を見てみたいと話すと、前回から時間内なら事前申請すれば好きな場所に行けたと言うではないですかうそでしょ~4巡目の時にお墓詣りに行きたいので町外に行けますか?と予約の時聞いたら「町内だけの移動となっています。」とキッパリ言われたのに予約受付マニュアルが統一されていないでしょでも、今回初めて津波の跡の実家とお墓に行ってきます。いまも想像すると胸が苦しくなってきます。こんなに時間がたってから思い出の詰まった場所が無くなった街並みを見るのが辛いです。でも、先に進むには必ず行かなくてはならない場所だとも思っています。何か目印になる物が残っているのかも分からないし。砂が堆積していて、実家の入り口も分かるかどうか不安。助けられたであろう命も3月12日には有った筈の相双地区海岸部。亡くなられた知人達の最後に見た風景がまだ多くはそのままあるんでしょうか。待ち望んでいたことだけど、考えると辛いな。
2012.09.09
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横浜市のみなとみらい線の馬車道駅すぐそばにある、ヨコハマ創造都市センターにて明日まで模型復元プロジェクト展が開催されています。岩手県:野田、田野畑、田老、女遊戸、重茂、釜石、崎浜、大船渡、陸前高田宮城県:唐桑・大沢、鹿折、弁天町、南気仙沼駅周辺、大島、志津川、女川、石巻、荻浜・小積浜、鮎川浜、荒浜福島県:相馬港、浪江てっきり全て津波で失われた海岸地域の模型が展示されるのだと思って姉と一緒に行ってみたのに、浪江は浜付近ではなく町内で失われたというか、今もほぼそのままの状態であるはずの模型でした。福島だけ他の県より圧倒的に少ない2か所だけで、それも浪江は津波被害がまったくない町が再現されている。期待外れでした福島はいわき市も物凄い被害にあい、多くの方が津波で亡くなられているのに。確かに岩手や宮城に比べたら少ないのかもしれないけど、差がありすぎる。姉と二人、実家のあった場所再現されてるかな?わかるかな?なんて話しながら向かったのに、え~浪江町なの?棚塩や請戸や両竹だってあるのに…。知ってる人の生きていた証しが見れるかと思っていたのに、悲しかった。明日まで開催しています。横浜近郊で住んでいた方や家のあった方は見に行かれると、また違った思いが生まれると思います。現に、私も仙台まで行くのに昔は通称浜街道を通って仙台空港から国道4号線に出ていたので町並みを失ったところを再現されていて複雑でした。鮎川にも3回家族旅行で行っていたので石巻や鮎川も見ていてきつかったです。胸が詰まる思いでたくさんの街並みを見て来ましたが、過ぎた事ととして片付けられたくないな。
2012.09.08
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昨日、連合神奈川のご厚意で「CATS」を鑑賞して参りました。ミュージカル初体験で、何の知識も持たず子供と行ってきましたが、なぜかわからないけど後半ポロポロと涙が流れてました。グリザベラ(誰にも相手にされない娼婦猫)が歌う「メモリー」を聞いた時悲しくも無いのに、無意識に涙が頬をつたっていました。私だけだったのかな?不思議な気持ちでした。今まで自分は歌いながら踊るミュージカルの良さがわからず、興味もありませんでした。と言うよりは敬遠してました。なのに心揺さぶられました。この年になって初めての経験です。ここ1年半、悔し涙・絶望の涙・悲し涙・嬉し涙といろんな感情の下で泣いてきましたが、無意識、無感情での涙は初めて。子供達も行く前は乗り気ではありませんでしたが、意味は理解できなかったが、綺麗で躍動的で綺麗だったとニコニコ顔でした。最後は劇団四季さんのご厚意で子供達と集合写真を撮ってくださいました。ダンスとマジックの天才のミストフェリーズに肩を組んでもらって撮った写真は宝物です。こんなこと絶対ない事なので、もぉ~大喜びまた、CATS見にきたくなっちゃった。
2012.09.02
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8月26日で夏休みも終わり子供達は学業と言うよりは、部活・部活の毎日でヘトヘトの様です。今年は去年より暑く感じた夏でした?と言うよりまだまだ続いている感じですが、唯一暑くても出かけた場所は、パシフィコ横浜で開催されていた「ヨコハマ恐竜展」でした。子供達はゲームで「スーパーカセキホリダ―」を以前していたので、恐竜には詳しい。骨格標本に大興奮私は全く知らない世界でしたが、結構大人の方が多かったのにはビックリでした。↑本当に大きいです。本物そっくりの巨大な恐竜が目や口を動かせながら、顔を振っている動作は私さえ少々怖かったから、小さい子は泣いて当然だよね。子供はいつまでも化石に見とれていましたが。私はそそくさと福井の物産展の方へ移動し「ボルガ巻」なる太巻きの方が興味をそそられました。帰りにランドマークタワーの「喜助」で牛タン定食を堪能してきました。今まで仙台に行って「利久」でしか牛タンは食べたことが無かったので、浮気?は初めて。「喜助」も美味しく、子供達はガツガツ・黙々食べました。成長期の子供は食べっぷりがイイなんだか仙台を思い出し行きたくなってしまった
2012.09.01
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昨夜と言うか、今朝になるのか3時に寝たのに夢のせいで目覚ましアラームが鳴るより早く起こされた。請戸の実家2階に居て、重くて低い地鳴りが遠くから響き、次第に家具や窓が細かくガタガタと揺れ始め次第にそれは大きくなり、窓から見える景色に屋根瓦が落ちていくのが見えはじめ、あわてて毛布を頭から被り1階に降りて行き父と母、それからもう亡くなった祖母の名前を泣きながら叫んでいた。津波が来るよ逃げよう!ここで夢から覚めたが、胸の動悸がしばらく続いた。いまだに拭い去れない記憶と、また来るかもしれない大地震の恐怖が見せたのかもしれないが、夢があまりにも鮮明過ぎて今も怖い。もうあんな事が誰の身にも起こってほしくない。
2012.08.24
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4回目の一時帰宅は、毎回のごとく悪天候。梅雨時なので覚悟はしておりましたが、豪雨です。横浜を出発した時は、天候は曇り模様だったのに、いわきに着いたときはポツポツと降り始め、富岡町に着いたときは本降りになっていました。相変わらずの富岡町。誰もいません。町中のアスファルトではない所は、1メートル弱の背丈まで伸びた雑草で覆いつくされてていた。自宅のアパートの駐車場も車の留めるスペースの無い位の雑草。タイベックスーツに着替え、玄関を開けたら…部屋中を無数の蛾が飛び交っていました。蛾をエサにしているのか、沢山の蜘蛛も繁殖していました。窓辺には名前も解らない虫の死骸が山になっていて、いたる所に何かの蛹が引っ付いています。ここは、腐敗臭が漂い、カビと害虫の住処になっていて、どう綺麗に片付けようとも人間の住める環境にならないと諦めました。このような状況の中、約1時間しか滞在できませんでした。この間私は線量計を身に着けていて2マイクロシーベルト。夫は車の中に線量計を途中まで忘れていて、6マイクロシーベルト。警戒区域は車中でも相当危険なんだと、あらためて実感。子供の母校の富岡第二小学校です。このころはドシャ降りでした。もっと近づくと…校長室前に設置してありました。帰れないのかぁ。住めなくなるとしても、桜の時期には分散して一時帰宅したいなぁ。
2012.07.12
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いよいよ今日4度目の一時帰宅だけど、何を持ち帰るのか…。この部屋(2DK)には収納場所が少なく入らないし、生活スペースだけで一杯なので何を持ち帰ってくる物はなくなってきている。アパートなので行く末どうなるのか、掃除もしないとカビや虫だらけなんじゃなかな。でも、水道は止まっているし、どうなんだろう。子供の七五三とスクラップの写真を見つけないと。あと、白石のばあちゃんの形見。見つかればいいなぁ。一時帰宅は、毎回悪天候。1回目は、猛暑で熱中症なのかパニック症候群なのか苦しくなって倒れたし。2回目は、暴風雨で帰りに高速道路途中で通行止めになり、訳の分かんないところで下された。3回目は、雪がドンドン降ってきてあっと言う間に10cmは積もっていて、急いで帰ってきた。そして今日、やっぱり雨。大丈夫かな。
2012.07.06
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ホームパーティーの準備から始まって、捻挫で終わった1週間でした。月曜はパーティー準備で横須賀の大型スーパーまで車で買い出し。火曜は、鶏つくね2キロ・春雨のサラダを作り16時からパーティー先のお宅へお手伝いへ行き21時半までお片付け。水曜は神奈川県から県内避難者支援事業の人達がお宅訪問にやってきた。前年度からの後任の方たちで、前任者から引き継ぎが無かったのか家族構成から、避難経路まで一通り1時間かけて説明したが、正座したままだったので立ち上がる際に痺れて足がもつれ転倒し、左足首捻挫。その後子供が部活動で揉め事を起こし、誤り行脚で歩き通し、捻挫の痛み忘れる。木曜、陶芸の技法で「象嵌と練り込み」を週1で習っていて、最終講習日だったため電車を乗り継ぎ1時間かけ、あざみ野駅まで行く。好きなことはアッと言う間に時間がたってしまう。金曜、左足首が2倍程まで腫れてしまった。それほど痛みは無いが正座はまったく出来なくなってしまった。夫が、福島から夜中の2時に帰ってきたので、それから姉の自宅へ車を駐車させてもらうために移動。土曜、動けなかった。日曜、少し腫れは引いたみたい。病院に行っても変わらないだろうと湿布でひたすら冷やしていたのが良かったのか痛みも無いんですが、足をかばっていたからなのか、年のせいなのか腰が悪化してきました。早く直さないと。今週末は4度目の一時帰宅です。家の中は害虫だらけでしょうね。バルサン持って行くしかないないなぁ、無意味かもしれないけど。だって、害虫も物凄いでしょうが、喚起がされていないのでカビが酷くて病気になりそう。どんどん朽ちていく自宅。持ち帰ってくる物もないかも。
2012.07.01
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子供達の学校はオーストラリアの学校と国際交流をしている関係で各家庭にホームスティに来るようで、今年は日本に子供12人・引率大人4人が来日しております。PTAの役員の方と親しくさせてもらっている関係か、火曜日のホームパーティーに誘っていただきました。持寄りの参加ですが…何がいいかな?オーストラリアの子供・・・3人オーストラリアの大人・・・1人日本の子供・・・・・・・19人日本の大人・・・・・・・・?人近だけの人間が入れる自宅は凄い広いんだろうなぁ。どれだけの量作ればいいんだろう?オーストラリア人は何を好むんだろう?もう、作る物ダブっちゃいけないだろうし、知らない人ばかりの中(学年が違うため)辛いなぁ。一番の心配は福島から来たとわかったら敬遠されないか心配。取り越し苦労であってほしいわ。
2012.06.24
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昨日、血液検査で甲状腺異常がわかる検査結果を聞きに行ってきました。結果は「機能正常」でした。今月初めのエコーでの検査でも目立って異常は見当たらないが、より安心を求めるなら血液検査ということで、結果が出るまで心配でなりませんでした。主治医の詳しい説明を聞きましたが、安堵のあまり「大丈夫ですよ。」の部分しか記憶に残っていません。胸が詰まって、涙が出るくらい安心しました。血液検査でその他、バセドウ病・橋本病・無痛性甲状腺炎など細かくわかるようです。先生も心配ならば1年後、または3年後とかにまた検査する程度で平気ですと言う説明でした。同じ思いをして不安な毎日を過ごしている福島の親子が沢山いる中で、血液検査でここまで安心できるのであれば断然おすすめします。そしてまた、国や県そして東電でも血液検査まで責任を持って進めてもらいたいです。
2012.05.25
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先週頭に1人分と先週末にもう1人分と時間差で結果通知が届きました。前者は(A1)異常は見られませんでした。後者の方に(A2)小さな結節(しこり)や嚢胞(液体が入っている袋のようなもの)がありますが、二次検査の必要はありません。ハンマーで頭を叩かれた衝撃でした。通知の違いもそうですが、自分たちの行動に問題があったかも知れなくて子供にそのツケがきてしまったのかもと。検査結果の詳しい説明を求めるため福大の健康管理センターへ電話をしたら1)検査を受けた方の3割の方に(A2)の結果が出ている。2)しこりがある内の100万に一人が甲状腺がんの可能性が出るので心配ない。3)2年後の次回の検査まで待っても進行はそんなにしないので平気だろう。4)普通の検視では甲状腺の検査などはしないので、普通の人にもみられる症状だし、消えるかもしれないので不安がらないでください。と言うことでした。私的には、子供がもし100万人の一人だった場合はどうするのか?ということ。可能性が0パーセントじゃないことがとても不安でいっぱいだということ。「それでも不安だったら、自身で病院を探し検査なさってください。」と…。気が動転して、子供の小学校の学級担任だった先生に電話をし事情を話、甲状腺の専門の病院を教えて頂きました。エコーと血液検査をし詳しい検査がされ、説明も安心できるということでした。そして昨日その甲状腺専門病院へ電話をし検査結果とそれでも不安が拭い去れないため検査をお願いしたい旨を話したら、来月始めに予約が取れました。親身になって受付の方も話を聞いてくれました。検査の日付も決まりだいぶ落ち着きましたが、詳しい検査まで不安は消えないです。代われるものならばわが身と代わりたい。どうしてこんな思いをし続けなければならないのか、自分自身を恨みます。
2012.04.24
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このところ福島へ行く機会が多くなってきました。今月初めには子供の甲状腺検査。検査時間は一人3分位しか掛からなかったが、未だに検査結果が手元に届きません。検査会場は緊迫しているのかと思えば、保険センターのホールのような所で係の人の方が多く、「喉が渇いたから飲み物なんかない?」「あるますが、これで最後なのでもっと〇〇から持ってこればよかった~」みたいな会話。とってもガヤガヤしていて、それが会場に来ている子供達ではなく、会場整備の関係者の人達の私語でざわついていました。なにこれ?わが子の健康状態を心配して遠方から深刻な面持ちで来ている方もいるのに、緊張感もなく、他人事だからなのか物凄く雑でした。福島ではそれほど重要視していないの?なんて感じたりもしました。福島市内では外で遊んでいる子供を見ることは無かったですが、屋内のゲーム施設では沢山の子供達が遊んでいました。やっぱり福島のお母さん方は慎重になっています。両親がいる北幹線第一仮設住宅に2泊しましたが、4畳半2間の仮設住宅は収納スペースも無く生活用品がいたるところに敷き詰められ手を伸ばせば何にでも手が届く距離でした。父も「いや~参った、こんな狭いところに閉じ込められちまった~。まさかこの年で自分の家が無くなっちまうなんて想像してなかったな~。」んだよね、今でも時々浪江町請戸の実家の夢を見ます。うんん、普段何気にふと電車の中やテレビを見ている時にも、請戸の風景を思い出し涙を溜め、周りの人に知られないよう唇をかんでいる時があります。両親にしても自分たちの歴史がなくなってしまったことと同じなのかもしれません。おととい、父から電話で母が胸やけが酷いから今病院で胃カメラ飲んでんだと聞かされました。検査の結果、今年に入って胃カメラ検査した人の50人中一番酷く胃の中が黒くただれていると言われたそうです。いろんなストレスの中、何も言えず我慢している結果がこれなんだと思っています。地震が無ければ、放射能が無ければ実家のそばで時々母と買い物に出かけ、お昼を一緒に食べ母の手料理を分けてもらって帰宅する、そんな生活をずっとおくれたのに…。何をどれだけの時間我慢すれば、良い結果が見えてくるのでしょうか?土曜日の一時帰宅が終わったら、子供達と私はそれぞれの医療機関で福島健康管理調査と言う名目の検査をします。本当に臨床実験されているみたいに子供達が感じないといいんですが。検査のたびに学校を休まなくてはいけない子供たちは、学校の友達が風邪だと思っているのが辛いと言っていました。学校側には検査で休む旨を伝えていますが生徒には、そうは伝えていないようです。子供もまたストレスを溜め続けなければいいんですが…。週末は3度目の一時帰宅です。また悪夢が現実になる日です。両親の住む仮設で楽しく子供達が作った雪だるま。放射能の心配がない日が早く来ますように。
2012.02.23
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久し振りの福島市です!!今日は子供達の甲状腺検査で、前泊で福島に来ましたが、子供は初めての新幹線、私は修学旅行以来の新幹線で、こんな時に不謹慎ですが、ちょっぴりわくわくもしました。駅に降り立つと懐かしい雰囲気と通り過ぎる人達のイントネーションが心地好く感じます〓テレビをつけ、ローカルなCMで『おかん』が写ると3人揃って「懐かしい~」とハモってしまった〓やっぱり福島が好きですね。到着した時は小降りで殆ど積もっていなかった雪も一晩で一面雪景色に変わっています。きっと久々の雪に子供達は大はしゃぎでしょうね。親としては検査結果が一番気がかりですが、プラス思考で久し振りの福島を満喫します!
2012.02.10
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昨日は気分転換にみなとみらいへお出掛けしてきました。海が近く寒いかなぁと思っていましたが、東北の寒さより断然あたたかくお出掛けも苦にはならない天候でした。横浜へはラウンドマークでのパフォーマンスを見に行くのがお気に入りになっていて結構な頻度で行っていました。でも隣の日本丸は見たことが無かったので、今回100円で観覧できるとのことなので見て来ました。中学2年の時に姉に連れって行ってもらった時以来です。いつ見てもきれいな形ですね。うっとりです。子供達は周辺でやっていたフリマ探索の方が興味があったようでコマを買っていました。そのあと元町を通り中華街へ。今は春節とあって凄い混みようで、どこの華正樓でも肉まんは売り切れ状態でがっかりでした。あの派手な獅子舞を見たかったのですが、出遅れたようでお目にかかれませんでした。感じたのは中国人の多さですね。ココは日本?って思うぐらいでした。コンさんのご厚意でいただいたバーナーの余熱台を買おうと思い、キナリに向かいましたがあいにく品切れ。アレレ?なんか今日はタイミングが合わないようです。でも、ぷちのクリアと特色赤?を買い久しぶりにガラスへの情熱をもやしております。やはりガラスを見ると胸の奥底から「やりたーい!!」熱くなってきます。今回の避難でガラスはもうできないと諦めていましたが、コンさんのおかげで迷いが消えました。2月中旬に3度目の一時帰宅があります。持ち帰り忘れたバーナーの道具や本を必ず持ってこないとね。徐冷用の灰も駅前のお仏壇屋さんで購入したので準備万端です。相当感も鈍っているでしょうね
2012.01.30
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とんだ災難です。まさか避難先で下着泥棒に遭遇するなんて最悪、気持ち悪い。今日の14:45頃アパート付近を黒っぽいスーツ姿の50代男性がうろついていたので、ん?不動産関係の人でアパートの空き状況を確認しているのかと思い、何気なく目で追っていました。奥のアパートや向かいのアパートを見ながらメモや携帯をいじっていたりしていたかと思うと通りの交通を確認し、私のアパートに小走りしてきたかと思ったら、迷わずバルコニーに足と手を掛けよじ登り、タオルで囲って置いた下着に迷わず手を掛けたのです。「えーーーー!!」カーテン越しに一部始終を見ていたので思わず鍵を開け大声で「ドロボー!!!!!!」と、とっさに叫んでいました。大声出ました。一瞬怯んで後ずさりした下着泥棒ですが、隣の駐車場に止まっている車に乗り込もうとしたので連呼です。私「ドロボー、ドロボウーーーー、ドロボーーーーーー!!!」犯人「何にもやってないよ、言いがかりだー、何にもとってないよ!ふざけんなー」と逆切れ。怖かったけど、「車のナンバー横浜5〇6〇、覚えたから今から警察に通報するからね。」と言うと一目散に車で逃走していきました。直ぐに110番通報して事情を話したら、数分後に警官到着、緊急配備と指紋・足型採取に簡単な事情説明と淡々と一連の流れのように進んでいきました。バルコニーの指紋採取後です。その時は、犯人つかまりますか?と聞くと、んー難しいですね。の回答でしたが、午後6時に最寄りの警察署から電話で、容疑者らしき人が今から連行されてきますので警察署に来ていただけないでしょうか?とのこと。ドキドキしながら初めてのパトカー便乗に親子3人、子供は緊張からくるくすぐったさを必死にこらえていました。面通しとやらで取り調べ室に目をやったら、やっぱり下着泥棒でした。はっきり見たので奴だと確信できました。それからみっちり調書作成に約2時間かかり帰宅したのが8時過ぎでした。子供はジュースをもらっていたようですが、「おなか空いて死にそう!」と怒ってました。犯人は車のナンバーから割り出され、どういう経緯かはわかりませんが、確保されたようです。今は容疑者なので守秘義務とかでまったく詳細は不明です。はっきりわかったら連絡いただけるみたいですが、余罪はありそうだとのこと。ひとまず安心しましたが、また出て来た時に仕返しされないか今になったらとっても不安になりました。警察からもあまり犯人を刺激して逆に襲われなくて良かったですが、今後気を付けてくださいと言われました。ある意味、これからが怖いかも。
2012.01.27
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今回ご縁があって、Cloverさんと出会い、新居用に表札を無料で造っていただきました。それも、福島の仮設に住む両親の分と単身赴任の夫の分と3つもです。うさぎと四葉のクローバーをモチーフにとても可愛い表札です。Cloverさん曰く四葉のクローバーってね・・・ 葉っぱが出てくる前に何らかの理由で 傷ついて三つ葉が四葉になって出てくるらしいです。 困難から生まれるんですね~ 苦難の先に幸来る・・・心に響く言葉です。何気なくブログの壁紙にてんとう虫と四葉のクローバーをつかっていましたが、こんな素敵な意味があったんですね。今回たくさんの方々からあたたかいお言葉をいただきました。これも自分を見つめ直すいい機会だったんだと前向きになれたきっかけだったと思います。もう自分の人生でここまで一揆に資産や思い出を失うことは無いと思います。思い出の写真を全て無くても、帰る故郷と実家がなくなっても生きていかなくちゃいけないし、生きていけるんだとも確認しました。人間って強いんだ。困難の先に幸来る…良い事しか、もう来ないよね。
2011.12.04
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富岡町にある老舗のうなぎ屋です。我が家も年に1度位しか食べに行きませんが、とても好きな味で大好きでした。地震で倒壊したのか、窃盗団の仕業なのかとても悲しい状態のままです。いわきの国道6号線沿いの波立ち海岸付近です。ここには家が連なってあったはずです。思い出せないぐらい何もないんです。レストランもこんな状態のままです。赤い橋は残っているのかとホットしましたが、よく見ると橋げたが没落したままでした。四倉港の道の駅付近ですが、いまだに津波で寄せられた船が無数折り重なったまま放置してあります。いわきの海岸は震災のままの状態が多いことがわかります。復興、復興とテレビで見る限りでは街並みも正常になりつつあるのかと思っていたら、現実は3月のまま殆ど変わらない様です。全国にここまでの風景が流れていないのが残念たまりません。どのぐらいの時間が経てば元のような生活ができるんでしょうか?小出しされる福島第一原発の現状への反応も前ほど騒がなくなってきました。どうなんでしょうか?これでも安全なんでしょうか?今年も白鳥は誰もいない町へも飛来してくるんでしょうね。無力な自分がせつないです。
2011.12.02
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震災のままの部屋の状況です。全ての部屋の床は落下物で埋め尽くされています。キッチンの食器類は床が見えないぐらい割れ、散らばって危険な状態でした。バーナーは落ちないで良かったですが、工具はすべて床下に落ち錆だらけで使える状況ではありませんでした。子供の本棚が一番最初に倒れたようで重なり折れ、元に戻すには時間がかかると思われまたこのままにしてきました。鳥籠です。籠の中にはエサがまだ沢山残っていました。籠の周りには風太郎の羽根が。どれほどの恐怖を味わったのかと思うと苦しくなって。散らかった部屋の中から写真や本使えそうな家電4点を持ち出しましたが、結局戻ってから電源を入れても使えなかった物が殆どでした。8か月気温と湿度の変化の中カビだらけで放置された家電は壊れて当然ですね。写真も子供の七五三の写真と生まれたころの写真をコラージュした額が見つからず、時間が無くなってしましたので今回は断念しましたが、この荒れた中から探し出すのは大変そうです。3時間が経過したころから雨脚が強くなってきたので戻る準備に。自宅を出たところの運動場の銀杏ともみじです。毎朝ここで子供たちが集団登校で待っていた場所です。綺麗なんですよ。富岡町の商店街です。いたるところでガラスが割れ、道路が陥没・隆起したりしています。今回4時間以内での線量です。前回は1時間でこの位ありました。楢葉道の駅で雨の中東電関係者が線量を測ってくれます。雨の中傘もささず濡れながらの作業、なんか気の毒になってしまいました。
2011.12.01
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19日二度目の一時帰宅は小雨がパラついていましたが、中止の連絡が入らないので続行なんだなぁと心配になりながら、夫方のお墓参りを済ませて集合場所に向かいました。いわき市の6号線沿いはだいぶ復興したと見えて崩れた建物は見かけませんでした。お店も震災前とほとんど変わらなく営業しているのを見て力強さを感じました。でも、四倉辺りから津波の爪痕がいたるところに見え始め、波立ち海岸では海岸近くの売店、民家が姿を消していました。みんな無事だったのでしょうか。警戒区域に近づくに従って対向車はまったくなくなり、ただ20キロ圏内に向かう車だけの行列だけになってしまいました。体育館では簡単な説明と測定器と防護服をもらい、4時間の滞在時間に戻るように言われ自宅に向かいました。見えてくる風景は今までの物とは別もので、胸が締め付けられる思いでシャッターを切りました。2階がカラオケ屋さんでした。東京電力のエネルギー館です。毎日くらい通った近所の直売所放牧になってしまった牛達小学校の給食センターのガラス窓は最初の地震で粉々に割れてしまいました。いよいよ自宅アパートが見えて来ました。外観はあまり変わっていません。ただいま、クーちゃん、風太郎、チョロちゃん。
2011.11.24
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車持ち込みの一時帰宅が明日に迫っております。今日から福島のいわき市の夫の実家に前泊して明朝、広野体育館集合です。6号線を走るのは3月10日以来です。半壊していない道路・建物しか知らないので、涙せず自分の目でしっかり故郷を見てきます。でも、この1週間あまり眠れていません。怖くてたまらないです。昨日は福島県議会議員の不在者投票に横浜市内の区役所へ行ってきました。候補者の演説を聞いたわけでなく、選挙管理委員会からの1枚の紙を見て公約とやらを見比べて投票するなんていいのかなぁ?故郷を再生すると誰もがうたっているが、震災直後いち早く県外に避難した候補者もいます。そして投票する私は県外に避難しまったく情報が伝わってこない中で、何を信じ何を望んでいるのか私自信わからなくなってきています。そんな中で1票をささげるって、重みがあるのかとっても不安でした。本当に除染したらまた以前のように生活拠点を戻せるんでしょうか?候補者の本質をもっと知りたかったと今回は真剣に考えさせられた選挙でした。
2011.11.18
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昨日待ちに待った「生活必需品」が届きました。75cm角のコタツ、小さな食器棚(組立必要)、ツインバードの掃除機、茶碗(ピンク4つ)、汁椀、盛り皿、タオル、洗面器、石鹸入れ、洗濯ハンガー、洗濯籠、フライパン、片手鍋、アルミの大鍋、ケトル、洗い桶、包丁、ほうきと塵取り、組布団、そば殻枕、タオルケット、トイレットペーパー、箱ティッシュ、メリット、ビオレ、アタック、バスマット。以上が入っていましたが。アパートに入居して20日。生活に必要なものは揃えなくては困るので、最低限は揃えましたが、殆どダブってしまいました。夫が福島で単身生活していて何も揃っていないようなので、今度来た時に渡すつもりです。19日に2回目の一時帰宅に行ってきます。今度は車で入れるので、前回よりは荷物が持ち出せそうです。アルバムは忘れないようにしないとね。子供の書いた絵も、通信簿も、賞状もちゃんと持ってこないと思い出なくなっちゃうからね。本当は幼稚園の制服や、小1のテストプリントも持って来たいけど、車にはそんなに入らなそうだしなぁ。それにそんなに冷静であの場にいられるか正直自信ないし。生きている間に次回帰れることはあるのかなぁ。今月末には子供たちの内部被ばく検査も控えています。何もなければいいのですが、とっても心配です。最初に避難した三春の体育館でも水道が出ていたので水道水を飲んでいたし、たしか17日には地元で採れたホウレンソウで雑炊が朝食で出たし。あの時はとっても喜んで食べていましたが・・・。何はともあれ、取り越し苦労であって欲しいです。昨日もっとも嬉しい贈り物が届きました。北海道のいとこからジャガイモのキタアカリが沢山送られてきました。早く煮えてガス代も助かり、美味しいと良い事づくめです。早速姉を呼んで半分こしました。明日はジャガイモのお味噌汁にしようかなぁ!
2011.11.09
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1か月前に北海道の叔父から、「お前、みのもんたのテレビに手紙書いたのか?」って朝メールが来ました。「ん?」どうだったかな?確かにいろんな番組で地元が映ると涙し、報道してくれたことに感謝しつつ現実の惨さに胸が締め付けられ苦しかった時、2社程メールしたと思うけど・・・まさか読まれないでしょう。叔父曰く、番組での内容は震災前日たまたま実家に行き、そこでの昼食が実家での最後の食事になったこと。今でも近所の街並みが目を閉じなくても思い出されること。いまだに近所のおじさん、おばさん、友達の両親、後輩達が見つからない事が悔やまれること・・・。それに今は富岡町在住で実家は浪江町請戸。確かに私かな?半信半疑でしたが、さっき郵便でTBSから封書が届き、中には「QUOカード」が入っていました。両親に見せたら喜ぶだろうなぁ。あの日の故郷を忘れたりしないよ。榮おじさん、テレビ見ていてくれてありがとう!
2011.10.18
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やっと引越し日が決まりました。10月20日(木)は、年に4回しかないほど良い日なので、その日にしなさいと母から連絡がありました。私はまったく迷信・占いなど信じないので気にはしませんが、ここは母の気が済むように従うしかない雰囲気でした。家電セットは9月29日に神奈川県にFAXをし、メーカーから10月4日に都合がよい発送日は?と早くも連絡がありました。とても迅速な対応でした。なので、10日に家電は届きましたが、生活支援セット申請書というものは9月21日に郵送して10月14日の昨日アパートにお米10キロと缶詰3個、小さな缶ジュース12本、レトルトカレー3個と混ぜご飯の素2つお菓子5袋と水12本にお餅小袋1つ、それとカップラーメン一箱が届きました。でも肝心要の布団、テーブル、調理器具類が届きません。まぁ、段ボールがあればテーブル代わりになるのでいいとして、掛け布団と毛布は買いましたが、敷布団がいつ来るのか不安になり、町役場に電話して確認すると、10月23日着です!の返事。あちゃ~3日間は床で寝るしかないですね。避難所生活を思えば大したことはないですね。7ヶ月は今思い起こせば、あっと言うまでしたが、とっても昔の事のようにも思えます。忘れてはいけない事ばかりなんでしょうが、テレビ等を見て当時を思い出すと胸が締め付けられます。みんなもきっと同じですよね。
2011.10.15
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今日、県庁へ契約書類を取りに行ってきました。なんのことわない、「大変お待たせしました。良かったですね。」と拍子抜けの返答。まっ、結果良しとして私も大人なので今までの事は水に流しましょう。頂いた書類は3部の「契約書」と「個人情報の取り扱いに関する同意の確認書」なるものと「日本赤十字からの生活家電セット寄贈のご案内」の3つでした。驚いたのは、日本赤十字からの生活家電セットは今回申し込んでから少なくとも3週間先に搬入になる間も知れないということが書かれていました。となると、家電や布団(町から支給)がないと生活が成り立たない訳で、引っ越しは1か月後になるんでしょうか?県庁の担当者は、「大家さんと私の捺印が済まされた契約書を15時迄に持参していただければ、即契約完了となります。」と言っていましたが、契約完了してもそれからすぐに入居できるかは別問題な訳で、すぐさま喜べる話ではありません。できるだけ早く入りたいので、不動産会社には住居総合保険代と鍵交換代は払ってきちゃいましたけどね。アパートは2DKで親子3人(夫が来たら4人)には、今まで5回引っ越した中で一番狭い住居となりますが、荷物も殆ど無いので狭く感じないかも知れません。でも、こんな事でも久しぶりにとっても嬉しく感じられます。
2011.09.29
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良い話です。たった今、神奈川県庁から「借り上げ住宅の契約書が出来上がりました。」と携帯に連絡が来ました。お役所仕事でも残業してくれたんだ、昨日の電話で詰め寄ったからか?来週中にできると言っていた書類が昨日の今日とは・・・やればできるじゃない。明日、県庁に行ってその足で不動産会社に寄って書類にハンコもらってきます。これで一歩、住居確保に前進しましたが、こから入居まで、どのくらい時間がかかるのでしょうか?
2011.09.28
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横浜の姉の家に来てから6が月が過ぎました。周りの環境にも、バスや電車の乗り方にもだいぶ慣れてきましたが。ここは自分の家じゃない。9月6日に神奈川県借り上げ住宅の最終物件の受付を済ませ、いまだに契約書の書類が届かない。何度も県庁に問い合わせても、「来週中には届く予定です。」の連続。もう3週間が過ぎてますが、今日も電話したら「来週中には必ず届くと思います。」と同じ答えが返って来た。飽きれた。怒りをこらえ「入居するに当たり、あとどの位の日数で入居できますか?」の問いに「一番時間がかかるのは、書類が3部あるから、不動屋さんと県それぞれに印鑑を頂くのに時間がかかりますね~。」だって。「違うでしょ!一番時間がかかっているのは県庁の契約書作成が実質1か月もかかっているんでしょう!!」声を荒げてしまった。聞いている問いに、まったく別の答えが返って来たからだ。話聞いてるの?「お客様が直接書類を持って不動産会社に出向くと事は早いですよ。」だってそれは、郵送でのやり取りより早いのは子供でも知ってるって。最初から県庁に書類が出来たら連絡してって言ってあるのに。「自分の家が無くなったってこと、あなたにはわからないでしょうね。」って言ったら「あ~、はい。」だって、そうだよね。私もこんなに辛いって知らなかった。いつもTVの報道やドキメンタリーで阪神淡路や中越の地震の被災者をみて涙して憐れんでいても、どっかで他人事だった様な気がする。今までの積もり積もった天罰なんだわ、きっといまの私。早く家族だけで住みたい、それだけ。正直もう限界に近い、なにもかも。
2011.09.27
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横浜に来てから、もう少しで半年になります。それと同時に震災から半年経つんですね・・・随分前の事のようにも感じるし、TVで映像を見かけると昨日のようにも思い出されます。子供達はすっかり横浜っ子になり言葉使いも訛りは消えています。子供の中では過去の事となり、富岡町での事もまったく口に出しません。神奈川県でも8月から借り上げ住宅の申請が始まり、完全予約制で8月2日に希望物件の申請を済ませたのに、8月29日になっても何の連絡もなかったので県庁に問い合わせたところ、「白紙(物件無)になってますよ。」とのこと・・・。やっぱりお役所仕事です。どうして、申し込んだ物件が白紙状態になったのか?「担当者が休みなのでわかりません。」と言う返事。「誰が休んでも皆がわかる仕事をしなさい。」と言うのが、私が働いていたときに上司に言われた言葉です。なのに県庁という所の仕事はずさんでした。それから、何件か物件を提出するも、すべて入居者がいるみたいです、と言われるが、不動産へ連絡すると空いています、と言われ?どういうことなのかさっぱりわからずにいると、ある不動産で事実がわかりました。神奈川県被災者借り上げ住宅詳細県の契約条件と不動産の規約条件が異なり、折り合いがつかないので却下され続けているということでした。HPの冒頭にはお決まり文句で「このたびの東日本大震災で・・・」なんて言っておきながら、被災者救済の為んに動いていますといい、救援・救済にご協力致しますと言いながらも何にも変わらず表向きの働き掛けだけです。自分たち被災者は優遇されるからすぐに住居は確保できると簡単に考えていた自分が恥ずかしいと思い知らされました。普通に生活することすら規約やらの紙切れで阻止されて、このままでは福島から出てきた者は福島に帰れと言われているようにすら感じました。県の持ち物件で探しても該当物件なしと出てしまし、お手上げです。泣き落としで県の借り上げ住宅担当者に不動産業者を紹介してもらい、やっと4社目で2DKのアパートを紹介してもらい。子供達の学校からは相当遠く学区外になってしまいますが、ここにか手立てはないと思い決めることにしました。初めてです、不動産業者さんも大家さんも事情を知ってすんなり請けいっれてもらってところは・・・。「福島から来たんですが、本当にここに住んでもいいんですか?」の問いに「もちろんですよ。」と・・・涙が出ました。この物件に出会うまで10社の不動産業者に断られ続けました。中には露骨に嫌な顔をされたところもありました。これも人生の教訓で乗り越えられる運命なんだと自分に言い生かせてました。しばらくは新天地で生活していきます。とは言っても、入居に至るまで1か月はかかるみたいです。もう少し姉の家で家政婦として勤めるつもりです。
2011.09.09
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昨日、横浜港で行われた「神奈川新聞花火大会」に東日本大震災被災者として招待していただきました。みなとみらい駅から会場までは福島県内での花火大会よりも、沢山の人達でごった返していて、開催前から帰りのことが心配になりました。震災被災者招待会場として特別に国立大テラスホールに岩手県民・宮城県民・福島県民と区切られてブースが設けられていて、快適に観賞できました。ここで、実家の隣人と偶然に会い、「元気で良かったね~」と隣のおばさんと語り合い、キュウリの漬物やおにぎりをもらい美味しくいただきました。久しぶりの地元の訛りを聞き自然と話がはずみ、一時帰宅の様子を聞き、近所の変わりざまや実家のあった場所は土台ごとすべて流され跡形も無くなったと聞き「帰るところ無くなっちまったなぁ~」と言うおばさんの言葉にお互いに涙しました。同郷で同席した初対面の方々とも自宅の状況や今の生活環境などを話し「お互いに今を乗り越えるしかないねぇ。子供の将来だけが心配だね。」とみんな神妙な面持ちでした。花火自体は悲しい時を忘れさせてくれ、打ち上げられるたびに胸に爆音が響き、勇気づけられている気がしました。変形花火で「ハート」の連発や、「ドラえもんの顔」など凝った形が打ち上げられると、「お~お~」「わぁ~」と歓声が沸き拍手がわき皆が笑顔になってます。本当にきれいで見れて良かったです。一緒に来た姉も横浜に30年住んでいて、初めて見れ感激してました。来年も鑑賞券買って見に来ようね!と約束しました。楽しいことの後は辛い帰宅への遠い道のりです。さすがに凄い人々の波。近くの駅までの道すべてに人の列で進めません。日ノ出町まで歩いてくると、人の波も消えすんなり電車に乗れ、姉は「お姉ちゃんの選択は正解だったね!」と自慢げでした。「ははぁ~、御見それしました~姉上様」
2011.08.18
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7月15日に4ヶ月ぶりに見た懐かしいはずの町並みは、想像以上に荒れ果てながらも、そこだけ3月11日のままで、普通の生活に戻っていた自分を苦しめる光景でした。中継地点の川内村総合体育館では多くの東電社員が長袖の制服に身を包み、駐車場の警備から帰宅者の事務手続きに対応していました。後は、他県からの医師の方々が体調面で問診等をしてくれていました。初めに受付を済ませ、同意書に署名し防護服等を配布してもらい、昼食用としてあんぱん・ジャムパンそれぞれ1つずつとペットボトルの水を1本説明を受けていうるうちに体育館の中で食べるように指示されました。でも冷房もない体育館でこれから向かう自宅の事を考えると甘いパンは喉を通りませんでした。一通りの説明・注意事項を受け防護服へと着替え、持ち物を預け、無線機と線量計を1組受け取りバスへ移動しました。20キロ圏内までの道のりにある民家では何人もの人たちがマスクもせずに普通に生活してる横を防護服で完全防備に身を固めた私たちが乗ったバスが通り過ぎる奇妙な感じで、この差はなんでしょうか?私たちが過剰反応?それとも・・・。目に見えるものではない物の恐怖だけです。20キロ圏内には警備の警官が警戒門を開けてくれ、ずんずんと見慣れた道、街並みが見えてきました。本当に3月12日のままの道路状態(破壊されたまま)と民家には冬物の洗濯物があの日のまま、そして落ちた瓦屋根にはブルーシートが掛けられ(町の計らいで)今も力強く持ち主を待ち踏んばっているようでした。一番不思議だったのは、今の時期富岡の高速道路のインターチェンジ付近にコスモスが1反分咲き誇っていました。7月15日ですよ。綺麗でしたが、異様でした。それぞれの自宅前で保冷剤と紙タオルを受け取り、2時間内に作業を終わらせ無線でバスを自宅前まで呼ぶように言われバスを降りました。降りた瞬間涙があふれアパートを見ておらず、外観はまったく覚えていません。恐怖と不安で自宅を直視できず、涙もゴム手袋ではぬぐえず自宅に入ってからゴム手袋を脱ぎ綿手袋になってからやっと、紙タオルで吹き出る汗と一緒に拭えました。「これは酷いな~」夫の一声です。夫は玄関からしばらく動こうとしませんでした。ハエとショウジョウバエの集団。地震だけではない、何かが家中を荒らした跡。食いちぎらればら撒かれたカメのエサ。そして、大事なオカメインコ達とハムスターの籠が倒されその周りには鳥達の羽根・・・。どこにも鳥達、ハムスターの死骸は見当たりません。夫が奥の部屋の窓が少しだけ空いてると閉めに行きました。きっと大きな余震で窓ガラスの鍵が開き少しずつ開いたところに、風太郎が口笛をまねて鳴く声を聴き猫が空腹のあまり高い窓を乗り越え侵入したんでしょう。ペット達の生きながら仲間が食い殺される恐怖を目の当たりにし逃げ惑う姿を想像し、今も胸が締め付けられ息苦しくなります。どうしてあの時この子達を連れて避難しなかったのか、どうして最後まで守りきれなかったのか私が見殺しにしてしまったと自分自身を責めるしかないのです。この苦しみは突然映像に見え私を今も苦しめます。一生消えない苦しみでしょう。夫は「クーちゃん達の死骸が無かった良かったんじゃないか?餓死した姿を見たらもっと悲しいんじゃないか?」と言っていました。どちらにしても、私が見放した事の延長にペットたちの死があることだけが事実です。一生面倒を見てあげるから、一緒に年取ろうねと約束したペット達。結局私は嘘吐きです。ごめんなさい。泣きながら、決まった時間内に子供に頼まれた品を崩れた棚の中から掘り起し45?の袋に詰めていると、夫が「すごいどー亀もイモリも生きてるぞ!」4か月イモリはエサも無く生きていたのです。6年前の夏に茨城のペットショップで買ってからずっと一緒で、手を入れると急いで顔を出し急いでよじ登ってくる程慣れていました。亀も冬眠から覚めエサも食べずに痩せていたようです。夫に頼んで、近くの側溝に放してきてもらいました。少しでも長生きしてくれたら、そう願うばかりです。どうしてこんな別れ方をしなければいけなかったのでしょうか?ペットだけではありません。友達も近所の方も今までの生活も何もかもあの日から突然無くなりました。帰りのバスは冷房が故障していて、外気よりも高い温度になっていて、カーテンもない車内はサウナ以上です。支給された紙タオルで吹き出る汗を拭うとすぐにビチャビチャになり破れ、急速保冷剤も10分もたたないうちに熱くなってしまいます。そんな中に全員が揃うまで1時間近く待たされ、やっと体育館へ移動です。バスの中では近所の電気屋さんは空き巣に、多くの売り物の電化製品を盗まれたと激怒し東電社員に詰め寄っていました。みんなイライラし何かが起こりそうな空間です。異常な暑さと緊張感で体育館に着いた途端倒れてしまいました。熱中症なのかパニック障害なのか手足が痺れ、冷や汗と涙がどっと出て意識が遠のき車いすで救護室で1時間ほど休んでいました。同乗者で私のほかにも2人熱中症患者が出て、その一人は東電社員でした。スクリーニング検査がその中で行われ落ち着いた頃には帰宅参加者は私達だけで、会場にいた多くの東電社員も2台のバスに乗り込み帰宅準備をしていました。川内村からいわきへ抜ける帰り道で1匹の犬に会いました。痩せ細った体でおびえながら近づいてきたので、お昼用にもらったあんぱんとジャムパンを3つあげ、瞬く間にあまり噛みもせずに飲み込んだ風でした。車にあったお茶を道端に流してみましたが、さすがにお茶は嫌いだったみたいです。道路沿いにいて動物保護団体または役場の人の目にとまり早く救出してもらえればいいなと思いながら「ごめんね」と後にしました。自宅の近くに最近生まれたと思われる仔牛を連れた母牛が畑の草を食べている姿が、あちこちで見られました。頑張って生きているんです。生かしてやりたいです。
2011.07.29
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さっき町から「警戒区域への一時立ち入り許可」通知が届きました。今日は12日ですが実施日時は15日です。急ですね。当日、川内村総合グランドに10時40分までに集合。待ちに待ったはずの一時帰宅なのに、とっても不安です。アパートの状態。ペット達の様子。盗難被害はどうか。街並みの変化。思い出の一部を持ち帰れるのと引き換えに、痛ましい現実を目の当たりにしなければならないかと思うと正直辛いです。でもまだ微かに残してきたペットで亀とイモリとカブトムシの幼虫(蛹になっているかな)が生きているかもしれないので、その命をどう生き伸ばせるかが課題です。友達にメールしたら「絶対に冷蔵庫は開けては駄目よ!」と返信が来ました。どうしましょう。
2011.07.12
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福島市の仮設住宅にうちの両親が当選したので、昨日両親の引っ越しと津波による流失物を探しに姉夫婦と一緒に久しぶりに福島へ行ってきました。ETC最後の割引の週末なので東北道は早朝出発にもかかわらず大渋滞で到着したのはお昼前でした。テレビや新聞の報道では福島は放射能の影響で市民は長袖のマスク着用かと思いきや、半袖姿に車の窓は全開、洗濯物は外に干しているし、マスク姿の人は見かけませんでしたが、休日にもかかわらす外をあるっている子供の姿は見かけませんでした。震災から3か月がたちましたが福島もいまだに復興は完全にしておらず、多くの家の瓦屋根にはブルーシートが掛けられ、家屋の修繕がされていました。まだ震災は終わっていません。おそらく東北の多くはあの日のままです。胸が痛みました。両親の仮設住宅に隣接するさくらんぼ畑の直売場でも雨のせいか、風評被害のせいなのか客足はありませんでしたが、みんなで食べるのに買っていこうと大箱2箱を購入しました。まだ甘酸っぱかったですけどね。役場の職員も緊迫状態でピリピリしているのかと思いきや、和やかな雰囲気の中復興するために一丸となってお互いの仕事をフォローしている姿が印象的でした。多くの知り合いが自分たちの事よりも私達家族を心配し「無事だったんだな~、元気だったが~、よがったなぁ~」と集まってきてくれ、それがかえって涙をさそいました。津波による流失物保管場所では、関東に住んでいる幼馴染2人と偶然会い、お互いの家族の安否確認のなか一人の友人の両親は津波により行方不明でしたが前日DNA鑑定で母親が見つかったと知らせを受けたので福島に来たと言っていました。「遺骨を受け取りこれがお母さんだと言われても、新聞で死亡欄に名前が載っていてもまだ信じねぇぞ。絶対どっかで生きてっと今も思ってるから。」と涙も見せずに強く言ってました。彼の言葉は本当だと思います。その後の話題には悲しみも辛さもなく、今度東京で集まろうとか、他の友人が原発の復旧作業しているのを心配する話などで、自分の事は一切話題にせず足早と東京に帰っていきました。いろいろな状況で沢山の人が苦しみその中で必死に頑張っているんだと、福島に行き直接肌で感じました。両親の住む仮設住宅は約200棟ありましたが、そのほとんどは空き状態でした。今朝両親に新居での寝心地はどうだったか電話したら、静かで快適だったと言われてしまいましたが、今までとは違う小さな部屋で老夫婦だけでの生活が心配で、しばらくは毎日電話しちゃうでしょうね。
2011.06.19
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ついにきました。仮設住宅の当選を知らせる電話です。今の状況で複雑な知らせでした。1か月前までは、心待ちにしていたのに・・・最近では仮設住宅が建つ郡山市は放射能レベルが高いと報道で頻繁に耳にします。今日も福島市の子供達全員に放射能測定器を持たせると発表が報じられたばかりなのに。どうしてもっと安全な地域に仮設を立てなかったのでしょうか?何事も後から出る情報で混乱する傾向がずっと続いているのに安全重視を怠っているところが改善されていないように感じます。見切り発車の行政。それに振り回され、犠牲になる住民。せっかく集団で避難してきたら、放射能が高い地域だった。なんてことが多く聞かれます。今の時点で郡山市・福島市と放射能が高いので避難してとなると、人口密度が高いので莫大な被害額になるので公表できないだけなのではと疑ってしまいます。子供達に仮設住宅が当選した旨を話し、郡山市の学校にまた転校しなくてはいけなくなること、プールや運動会・修学旅行など出来なくなることが多々あるかも知れないし、エアコンの規制、外出時の服装も制限されることも話しました。子供の反応は、郡山の放射能の数値や行動の制限よりも横浜の新しい友達と離れたくないし、卒業は横浜でしたいので転校したくない。と言う返事でした。子供達はここ横浜で小学校の転校が3校目なので、もうこれ以上転々として一から始めたくないのでしょう。私たちも、もう引っ越しはしないと思っていたので、この3月11日はいろんな意味で決別を意味する日となってしましました。仮設当選の電話があったのが6月9日(木)で説明会が6月10日(金)。どう考えても繰り上げ当選ですね。ほかの方が辞退して我が家に回ってきた話のようです。でも、急な話だったので説明会に出れないと伝えると、説明会の書類を送ってくれると言われましたが、いまだに手元には届いていないので、どのようになっているのか不明ですが、私たちも辞退するつもりです。がしかし、来年3月位には仮設住宅の入居が可能なのか?そのほかの住居に転居するにあたっても助成制度はあるのかが不明です。今後どのように変化していくのか予測不明な中、行政も住民も不安です。私と同じ日に、両親も福島市の仮設住宅が当選したと連絡が入りました。両親は、やっと地元の生き別れた友人と会えると喜び、日用品を買い足し荷物をまとめています。年老いた両親には、聞きなれた方言と顔見知りとそばにいるのが一番の安心なのかもしれません。子としては、もう年なんだから私達と一緒に暮らして、落ち着いたら一緒に福島に戻ったらいいの思っていましたが、頑固な父は聞き入れてはくれませんでした。両親も高齢なので体調の事が一番心配です。離れて暮らすと直ぐに駆けつけられないのが不安です。私も3月には両親と一緒にまたは、同じ棟の住もうと思っています。それまで全てにおいて何もなければいいのですが・・・。
2011.06.15
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小出しされる東京電力からの過酷な発表。メトルダウン1号機に続き2,3号機も可能性が高いと。やっぱりだ、何度も裏切られる。最初からそうだったはず。きっと現場の作業員は当初から(もしかしたら東電幹部も)知っていいたのかもしれない。だから下請け、孫受け作業員のチェーンメールで「今すぐ遠くに逃げろ!」「会津もしくは新潟まで行った方がいい!」みたいなのが飛び交っていたのかもしれない。避難所では消灯後に作業服を着た若い人がしきりに携帯で連絡を取っていて「社長はどこ?なんて言ってるの?新潟まで行ったほうがいいって言ってる?」と小声で話していました。それから毎晩、夜中に1組の家族が退所の支度(布団をたたみ、荷物を車に運ぶ)をし始まると、そこの回りの数組の家族が次々と退所支度をはじめ、朝方目覚めると大きく床のブルーシートが目立つということが、毎日続きました。次第にみんなにも避難所の空きと比例して恐怖と焦りが出てきました。物資の不足と空腹、寒さと大きな余震と放射能の恐怖が避難者へ伝染し、苛立ちへと変わって行きました。みんな不安でした。情報はテレビからでだけで、役場職員も把握していませんでした。でも今思えば、テレビも報道も嘘だったんですね。安全と危険は背中合わせだったなんて知りませんでした。昨日のメトルダウンの発表でますます帰郷は遠のいた感じです。もうチェルノブイリを超えたんじゃないのかなぁ?本当に家には帰れないよね。生活なんて完全に無理でよね。一時帰宅は出来るのかな?一巡したら二巡目があると言っていましたが、これでは期待できないかも。自分の中で絶望感が募ります。今日一時帰宅の夢を見ました。久しぶりの自宅は荒れ放題で、オカメインコのかごの中には黄色と白の羽根だけのクーちゃん・風太郎が下の金網に横たわっていて、手に取るとものすごく軽くて夢の中で泣いていました。ハムスターのハウスの中では最後にあげたキャベツも食べずに生き耐えたチョロちゃんが目を開いたまま干からびていました。ワーワー泣いて苦しくて目が覚めました。一時帰宅、同意書にサインするか迷っています。その一枚は帰宅当日に提出してもいいですと説明書に書いてありましたが、迷います。帰って自宅を見たいですが、現実と向き合うことが正直怖いです。今戻っても、待っていてくれたペットは生きていません。辛い現実しかありません。毎晩布団に入ると、どうしてここに居るのかわからなくなります。これは夢なのか?悪い夢なのかわからなくなります。実の姉のところ居るのに感情が不安定になるのに、避難所の方々はもっと正常ではいられないでしょうね。
2011.05.15
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昨日の川内村民の一時帰宅の様子をニュースで見ていて、懐かしい風景ばかり探してしまいました。川内村へは秋に紅葉を見に子供達と出掛けたのが最後で、「ひとの駅かわうち」でギャラリーを見学し、川内の湯隣の直売所で地元のキノコを買い、子供は地元で売り出したばかりの古代米アイスを食べ「ラムレーズンみたいでおいしい~!」と絶賛、それから足湯に入り、いわなの里で釣堀を楽しんでいわなを炭で焼いて食べ、唯一の喫茶店「ダノニー」でピザを食べて過した楽しい一日を思い出した。テレビに映る風景を見ながら「ここ知ってる!ここ通ったよね!」とはしゃぐ子供と裏腹に、防護服を着たまま村に降り立つ人達の心境が伝わってきて胸が締め付けられました。この村に最後に行った(通過した)のは震災の翌日の12日午後、朝6時半ごろ町民全て川内村へ避難指示が出てから渋滞が続き14時頃最後のバスが夜ノ森を出るときに、バスの後ろを自家用車で村へ避難しました。普段なら車で20分位の道のりですが、すでに渋滞も無かったにもかかわらず倍の40分位掛かりました。普段は人気も少なく車にもあまりすれ違わない、のどかな風景ですが当日は村に入ると道路と空き地に鮨詰め状態の車と人(マスクなし)があふれ出していました。民家の庭にも沢山の車が有り、きっと親戚を頼って来た人もいるんだなぁと少しうらやましく思い眺めていました。もしかして私達ここに入れないかも・・・予感は的中し避難先は全て一杯で「三春町へ行ってください」と紙に書かれた指示書を手に持った方々点在し、「三春町までどの位かかりますか?」の問いに30キロは無いと思うけど・・・と言われ、三春町まで行って家までの帰りのガソリンの心配をしていました。少しでもガソリン入れたほうがいいかな?でもガソリンスタンドも長蛇の列だし・・・昨日満タンにしてきたから大丈夫かも?くらいの気持ちで川内村を後にしました。そのときは直ぐに帰って来れるのに、なんで遠くまで避難しないといけないの?とやるせない気持ちで三春町に向かいましたが、まさか一時帰宅という形でしか自宅に帰れなくなるとは思ってもいませんでした。今回の川内村の方々は70センチ四方袋に何を詰め込んでこれたのでしょうか。そんな小さな袋に人生の大半を過した思い出の何が入るんでしょうか?安全重視なのはわかります。一時帰宅に同意書を(自己責任で立ち入る旨を)一筆書くようですが、国は万が一の状況になったときの逃げ道をこんな時まで冷静に構想する時間はあったんですね。怒りを感じます。立ち入り禁止命令が出るまで多くの方が自宅に何度も帰り日用品を持ち帰ったと聞きました。そのときは国は何の配慮もせず、10キロ圏内でも防護服も着ず私服でマスクもしない人が自動販売機でジュースを飲む人を見かけたと友人に聞きました。今まで無防備に20キロ圏内に何度も立ち入ってきた方々と、今回本当に初めて帰宅する人の保障の差は何がどう変わってくるのでしょうか?同じなんでしょうか?不思議です。帰宅した時はパソコンを持ち帰りたいと思っていましたが、ディスクトップのモニターとハードの一体型なので無理かもしれません。子供の写真など沢山入っていたので電源が来ていればUSBに落とせるますが・・・。今回の一時帰宅で自宅全てが入る大きな袋が欲しいって全員が思っているはずです。それも同意書なしの罰則なしの自家用車で!昨日母が二人だけのときポツリと「家の周りの景色が目から離れないんだわ。目を瞑らなくても見えてしょうがないんだわ。今頃ホントだったら庭に沢山の花咲いていたべね。惜しいね。」ってお母さん私も同じだよ。
2011.05.11
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上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜 幸せは 雲の上に 幸せは 空の上に我が家のオカメインコの風太郎(白い方)は、口笛で吹いた歌を真似て歌っていました。レパートリーは、「サッカーの日本代表の応援歌」・「世界の国からこんにちは」・「明日がある」・「グーチョキパーで何作ろう~」・「僕らはみんな生きている」・「ジングルベル」・それと「上を向いて歩こう」でした。3月12日の避難指示があった日から、ずっと風太郎は「上を向いて歩こう」を毎日毎日歌って過していたと思うと胸が絞めつけられます。帰って来ると約束した飼い主を待って、毎日この歌を歌っていたと思っていたら・・・歌詞と風太郎の気持ちがダブってきます。裏切ったことになるんですよね。風太郎の隣でクーちゃん(黄色い方)はその様子を見ながら、余震の続く部屋の中、餌も無くなり、寒くてとっても怖かったはずです。どんな思いで毎日過していたんでしょう。命のつきる瞬間何を思っていたんでしょう。オカメインコは寿命が20年あると知っていて、クーちゃんは私と一緒に年を取って行こうと決めて飼い始めたのに・・・。風太郎は飼い主さんが飼育放棄してしまい、ペットセンターに返される所だったので代わりに愛情を注いで育ててあげようと決め、過してきたのに・・・最後まで見届けられませんでした。どうしてこんなことになってしまったんでしょう。ある人に「ペットでも鳥なんだから仕方ないよ。犬とか猫じゃないんだから。人間様が優先だよ。人が大変なときにしょうがないでしょ。」と言われましたが、わかっています。人の命が優先されるのは・・・でも命に順番を誰が付け決めたんでしょうか?命は命、ひとつの生命で鳥でも魚でも人間でも同じ命の重さであると思っています。出来れば、避難指示の時にしばらく帰って来れないとわかっていれば、有るだけの餌を与えてきたのに、悔やまれます。何を信じて命がつきる日を迎えていたのかを考えると苦しくなります。もっと何かして上げられなかったのか悔やみます。「上を向いて歩こう」がCMで流れると、呑気に歌っている風太郎を思い出します。この先ずっと、この歌を聴くたび罪悪感で胸が締めつけられるでしょうね。一刻も早く一時帰宅して、ペット達を天国で自由に羽ばたかせたいです。
2011.04.20
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今日のニュースで福島県双葉郡浪江町請戸の捜索が始められました。14日は警察官約300人を動員。原発から約6キロの距離で、津波被害の甚大な浪江町請戸(うけど)地区で午後5時まで捜索する。全員が防護服を着用し、放射線量を測定しながら作業する。重機は持ち込まず、がれきなどで防護服が破れたり、けがをしたりしないよう注意して、目視で捜す。遺体発見の際は放射線量を確認。線量が高ければ水を注いで除染した上で収容する。捜索終了後、警察官が受けた放射線量を確認し、15日以降の人員入れ替えを検討する。やっとここまで漕ぎ付けたんだ、と言う安堵の思いと、もっと早く捜索できたならと言う苛立ちが交差しています。You tubeに現在の請戸の映像がありました。言葉が出ません。両親も震災の翌日、自宅が心配で途中まで見に行ったそうですが、巨木と瓦礫が道路を塞ぎ通ることが出来なかったそうです。この映像を見ると、だいぶ瓦礫などをどかして入れていますが、海岸から1.2キロ位の所までしか行けないんですね。我が家は海岸から200m位の場所だったので瓦礫でまだまだ近づけないでしょう。一日も早く近所のおんちゃん・おばちゃん、後輩達が見つかることを願っています。本当はどこかで元気に暮らしていて「ありゃ~元気だったが~!久ぶりだごど~。」なんて来るんじゃないかと、いまだに両親共々思い願っています。
2011.04.14
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やっぱりレベル7だよね・・・正直こうなることはわかっていました。原発4機とも炉心棒が見えている状態が続き安定しているとはいえ、危険な状態のまま安定しているってことでしょ?やっぱり福島県双葉郡は危険大には変わらない状態なんだから、一時帰宅も無いわけですよね。我が家は津浪の被害も当日はなかったので、多分そのまま家は存在するわけです。でも一時帰宅が先延ばしになり、子供の学用品・置き去りにしてきたペット達のことも気になります。でも大きな余震が続き、もう倒壊しているかも知れないです。着の身着のままでしたし、長くても2日くらいの避難だと思っていたので、貴重品もそのままの状態。この状態は、この先何年続くのでしょうか?避難先の横浜で公園の桜が満開になり、時折強い風で花びらが吹雪いてきます。故郷の夜ノ森の桜のトンネルは満開になっているんでしょうか?今年は誰も来ないのに、例年のように誇らしく咲いているんでしょうね。20キロ圏内の方々が個々帰宅していた様子など聞くと無人の店舗や銀行など空き巣被害が続発しているとか・・・そんな物騒な話ばかり耳にしますが、桜の話は聞こえてきません。ひび割れた道路や、崩れ落ちた塀、割れたガラス窓達を全て隠すようにあの桜並木が咲き誇っているんじゃないのかと思うと、胸が締め付けられます。夜ノ森の桜は明治33年に植えられ、戦争にも絶え人々の安らぎの花として咲いてきたのに、今年はひっそり咲いているはずです。あと何年先、あの桜が見られる日が来るんでしょうか?あの町に人の歓声が聞こえる日が来るんでしょうか?本当に夢であって欲しい。3月11日のまま、あの町は今も時が止まったまま桜だけがが咲いているはずです。
2011.04.13
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今朝、地元の友達からメールが来ました。「子供達は新しい学校になれた?」なんて他愛もない会話で始まりましたが、避難先の東京都内のマンションの大家さんから、旦那さんが東電社員で今も復旧作業に携わっていると言う理由で「放射能を浴びた人間は困るから出て行って欲しい。」って言われたそうです。言葉を失いました。すぐに電話をして、二人でワンワン泣きました。放射能を浴びたってなに?ちゃんと洗浄してスクリーニング検査して安全ですって戻ってくるのに、東京都には戻れないって事?誰も浴びたくて浴びてるわけじゃないのに、お金が欲しくって危険な仕事してる訳でもなく、誰でもできる仕事じゃないから日本の為、地域の為、家族の為、子供の為に不眠不休で原発の中で食事も満足に取れず、恐怖の中、毎日疲れきって復旧作業をしてくれているのに、何でそんな言われ方をしなくっちゃいけないんでしょうか?私達福島県民の多くは原発反対でもなく賛成でもない人が多いと思います。それだけ原発が生まれたときから普通にあり安全で、共存するものだと教育を受けてきたからです。「子供達にまた転校するって言わないとなぁ。」「旦那に連絡もできないから、相談もできないや。」「これじゃ、福島に戻って学校も住むところも探さないと、また一からだなぁ。」東京都のお偉いさんは、福島は今まで東京の電気を供給してくれていたので何でも協力するし、何でもしますといっていましたが、全員は思っていてくれないんですね。あたかも自分が第二の被害者になるみたいな言われ方をする大家さん。街頭募金はしても、いざ現場で復旧作業している人を受け入れるかといったら無理って言う人が多いんじゃないでしょうか?今は皆が被害者であり、誰が加害者でもないような気がします。友達の子供達にとっては、お父さんは危険な場所で命を削り戦っている英雄です。それを家に入れないで、福島の親戚の家にでも居て家族に接触しなければ東京に住んでられるよ、なんて言えないでしょ。自分の立場で考えてください。自分の子供・親・兄弟がその立場だった言えますか?きつい言葉の意味を理解できますか?お願いです助けてください。私達、福島県双葉郡付近地域、原発から半径20キロ圏内の住民は震災の津浪で多くの安否不明者も捜索されず、まだ瓦礫や海の中で捜索されるのを待っているんです。最近やっと30キロ圏内の捜索が始まったと言っていますが、なんで今なんでしょうか?もっと前にだって捜索はできたはずですよね。放射能・放射性物質が怖いからって、今のほうが危険ではないですか?もっと早かったら助かった命があったかも知れないのに・・・もっと早く。自分の立場で考えてください。自分の子供・親・兄弟がその立場だったらどう思いますか?1ヶ月もほっとくってできますか?もう発見されても、見てもわからないかも・・・。お願いです。誰かに話してください。多くの人が困っています。ヨーグルト・納豆・ミネラルウォーターが欲しいなんて言いません。困っている人がいたら声をかけて助けてください。好きな人が困っていたら助けるでしょう?全ての人を好きになってください。困っているとはなかなか口に出せません。震災を受けてから、多くの方々の助けを受け、すごしてきました。あまり面識の無かった方も、全部の避難所に電話をして探し出してくれ電話をくれた方もいました。うれしかった、大袈裟でなく本当に生きていて良かったと思いました。探してくれ、無事でよかったと喜んでくれる人が沢山いたことをとてもうれしく思いました。だから、私も携帯に入っていた全ての人に電話をし無事を確認し喜び合いました。良い人の方が世間には多くいることをこれから大人になる子供達にわかって欲しいです。そして子供には、弱いものをいじめる為に口はあるんじゃないと話しています。
2011.04.11
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横浜の姉の家に福島県浪江町請戸の両親と私と子供2人の5人が過しはじめやっと落ち着きはじめた昨夜の夕食時、肩を震わせ頑固な父が途切れ遂げれに話し始めました。「もう何にも無くなった。今まで築き上げた全てのものを失った。生きる楽しみも一瞬で失った。友達の多くも失った。生きてる望みも無いから死ぬしかねえな。こうなったら首でも吊るしかねえべ。」父の涙を見たのは初めてです。小さい頃から頑固で、自分が言うことが全て正しく、誰の助言も聞かず、ただ働くことが大好きだった父が、孫の前で声を上げて泣いていました。「大丈夫だよ。いつまでも一緒にいるし、老後の面倒も心配いらないよ。」と言っても、「俺の考えだってあんだ!もうほっといてくれ!」と部屋に閉じこもってしまいました。昼間は、庭の手入れで気が紛れているのかも知れないけど、夜になると今後の見通しがつかない為に、思いつめてしまっているんでと思います。父の夢には友人で安否不明(立ち入り禁止区域なので、捜索されない)多くの方々が毎日出てくるとか・・・。味噌汁の中に腕時計が入っている夢を見たとか・・・。私も多くの友達の両親や祖父母が今も津浪後の原発爆破の影響で捜索もされないまま、故郷にいます。早ければ助かった多くの命もあった筈。見殺しにしてしまったと後悔の念が毎日が続いています。精神的にも肉体的にもまいってきています。早く福島に戻りたい・・・一日も早く。父そして家族の願いでもあります。
2011.04.01
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子供達の小学校の編入手続きをしてきました。校風も副校長先生もとても感じが良く、少しほっとしました。が、校舎を案内してくれた先生が先生:「この学校でも風評のせいで過剰反応し、九州へ編入されたお子さんが数人いるんです。それにこれからは水筒を持たせますからと、連絡が多数ありまして・・・。」私:「避難所でスクリーニング検査して問題なしだったんですが・・・」先生:「じゃあ、その用紙も提出してもらえますか?」私:「はい・・・・・・・。」今までの自分も、反対の立場なら結局同じ事を言っていたと思います。やはり、弱者にならないとわからないことが沢山あります。親は子を心配します。立場は違えども、どの親も、私も。そして今日、新聞では福島第一原発、レベル6相当もう生きてる間は自宅には帰れないかも・・・夜ノ森の、あの桜並木も、誰にも見てもらえないのに、ひっそり咲くんだなと思うと涙が溢れます。目を閉じると、見慣れた実家の港町並が思い出され、家では母がお昼の用意をして出迎えてくれ他愛もない話をしながら、食卓を囲み、畑で取れた野菜と近所からもらった魚をお土産にくれる。いつもの光景が1日で消えました。昨日まで話していた多くの人があの日からいなくなる現実。この大きな現実を乗り越えろとは辛い試練です。あの桜並木が好きで住んだ富岡町夜ノ森へ帰りたい。普通に過ごしてきたあの町に帰りたい。毎日笑っていたあの小さな部屋でみんなで布団を並べて眠りたい。この2週間が悪夢でありますようにと毎晩願って布団に入ります。なかなか覚めない苦しい夢の中です。
2011.03.25
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18日の朝、三春船引インターが避難車両が通れるようになったと聞き、ギリギリのガソリンで守谷SAまで行き2千円分のガソリンを入れ横浜に着きました。三春の避難所生活は地域の方々と役所の方々が親切で他の避難所よりは快適だったと思います。ここ横浜に避難してくるのに後ろ髪を引かれる思いでした。団結力と言うか、新しい家族と言うか結束してきていたので、みんなを裏切っているような気持ちで涙が止まりませんでした。みんな「よかったね!新しい土地で頑張ってね。」と笑顔で見送ってくれました。もっとみんなと頑張れたよね。そんな思いが迫ってきます。そして、新しい土地での不安と地元への執着が交合に迫ってきます。今も地面が揺れているように感じます。テレビを見ると涙し、人の優しさに触れ涙し、子供の将来を考えて涙しています。どうか子供たちが風評にさらされ、疎外されませんように願うばかりです。どうかどうかどうか、お願い致します。
2011.03.20
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いま、三春町に避難しています。こちらの役場職員の方や町民の方々の協力で不自由なく過ごしています。まだ余震の度に恐怖を感じます。身内は全員無事の連絡が取れましたが、実家は津波で流されました。命があるだけで良かったと思えます。三春町民の方々の親切を日々感じております。それと同時に同じ被災者の中で近くの店でアルコール類を買い平気な顔をして酒盛りしている大人達を見ていると物凄く腹が立ちます。自分達が置かれている立場を考えられない人間程一番文句が多い。今は家に置いてきたペット達が気掛かりです。
2011.03.14
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住んでいるアパートの改修工事がやっとはじまりました。足場を組むのに大勢の男性が荒々しい声を上げながら機敏に作業を進めています。洗濯物を乾かしにコインランドリーに行きたくても、怖くて外に出れませんオカメインコもレースのカーテン越しに怯えております。寝室と台所の出窓から雨漏りとシロアリ被害で入所初日(1年10ヶ月前)から大家さんに何度か来てもらいやっと今日です。長かった~雨のになると窓にはバスタオルとシートをひいて怯え、何度も大家さんに来てもらったのにずっと先延ばしされていました。この間ずっと家賃も払い続けいるのも、情けなくなってきたり・・・ここは小学校が近くて桜並木もあり場所的にはとっても気に入っているのですが、日常的に天候を気にしながら生活するのがきつかった。こんな時、旦那が居て大家さんにガツンと言ってくれたら違っていたのかもとんぼ玉は同じ様な物ばかりですが。
2010.05.18
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明日土曜は子供達の運動会です。なのに、昨日一人がものもらいで眼科。もう一人が夜から熱を出し風邪でダウン(昨日の予行練習で半袖短パンは寒かったらしい)本番は大丈夫ですかね~?と教頭先生に言われてしまった。本当にどうなの?注文品です。ピンクのパーツで地玉がパステル調のピンクか水色で、とのこと。ぼやけちゃってますが・・・いいのかなぁ。
2010.05.14
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1年って早いですね。もう創芸工房の夏の衣展の時期でした。と言う訳で本日納品に行って参りました。こんな感じの物が並んでおります。他の方の作品(衣服中心)も多数ございますので、お近くの方は是非お越し下さい。なんて言っといて私、明日在廊しておりません。子供の風邪がうつって声が出なくなり、今頃になって38度以上の熱も出てきました自己管理なっていませんね~最悪です。それでは、おやすみなさい。
2010.05.07
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やっと普通の生活が出来るまでに復帰しました。多くの皆様から励ましのお言葉を頂きありがとうございました。まだまだ、完全復帰とはいきませんが、少しずつとんぼ玉も作っております。長時間椅子に座っていると後々腰痛も現れるので、1日1個がやっとですが少しずつ元気になって行きたいです
2010.03.02
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毎度お久しぶりの携帯から更新です。今回はとんぼ玉とは無関係な私事ですが、先週の19日に極限の腰痛で救急車で搬送され、そのまま入院しております現在ではいろいろ検査療法のおかげで、少しずつ歩けるようになり、椅子に5分までなら座れる位に回復しております。手術も考えおいた方が良いよとも担当医師から言われましたが…怖いしでも入院当初はオムツをしていたから進歩ですよ(でも用を足せず、5時間我慢して管で取ってもらいました)次回は21時間後に歩行器で自力で行きましたこれまた激痛でしたが普通の生活のありがたみを痛感しております。さんもご自愛くださいませ
2009.11.28
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作ってましたよ。とは言っても、いつもと同じですが同じパーツを使って地玉の色が違いますが、柔らかい雰囲気と引き締まった印象の2点で比較。でも、埋め込みの差も見えますね。こちらは点打ちの薔薇?お客様の好みがハッキリ分かれる色合いです。おまけで作ってみました。重かった~
2009.06.01
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重い腰を上げ、念願の薔薇パーツをどうにか完成させました。コンさん・えびすさんのおかげです。ありがとうございますこれが第3本目薔薇パーツで作った玉です。平引き難しかった自分ではまずまずの出来だと今は思っていますが、後々恥ずかしくなるんでしょうね。3玉目にしてどうにか形になりました。でも、地玉に埋め込むタイミングとクリアの量が飲み込めませんが、あとは何回も作らないといけませんね。それから、昨日から展示会がはじまりました。お近くの方は是非お越し下さい。とんぼ玉はあくまでも脇役で、メインはモダンな洋服です。素敵なデザインで初日から好評でしたよ。ギャラリー創芸工房〒971-8141 福島県いわき市鹿島町走熊小神山60-1tel/fax 0246-29-3826
2009.05.09
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前回転写にならなかった分です。2つ共点打ちの花で重ね咲きにしてあります
2009.02.11
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