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もう随分昔の事になりますが母の姉の連れ合い、伯父が亡くなった時お通夜の席のお菓子に伯母がうさぎやのうさぎ饅頭を用意しました。伯父の好物だったからということでした。そういえば母の昔話を聞くと何々はどこそこのこれ、みたいな話を良く聞きました。曾祖母にあたる人で子供の頃に「お船のおばあさん」と呼んでいた人がいます。箱崎の倉庫の2階に住んでいて、そこの窓からは当時日本橋川を行き来する船が良く見えていました。その人が物にこだわりのある人でお茶は山本山、缶詰は明治屋、餅菓子は栄太郎、足袋は福助、腰巻きはネルの綾織りうどんは乾麺でないとだめ、等々。母は子供だった私を連れて遊びに行く時に持って行くお土産に悩んだそうです。昔は今ほど物にあふれてはおらず、また老舗と云うものが大きなステータスを持っていたのかもしれませんね。そして、そういったことにささやかな贅沢を感じていたのかも。でも、そういったこだわりに格好良さを感じもするのでした。今の自分の数少ないこだわりといえば色鉛筆は三菱、ポン酢は馬路村のゆずポン酢くらいかなぁ~
2007年11月23日
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最近本屋で江戸をテーマにした本をよく見かけます。一時期は「下町」「深川」等のキーワードが多かったようにも感じますが。先日も「江戸」がタイトルに入った本をに冊買いました。ひとつは氏家幹人著「江戸の怪奇譚」そして杉浦日向子著「杉浦日向子の江戸塾」前者はタイトルとその表紙絵に惹かれて買いました。神隠し、河童、奇病(人面瘡等)、等のキーワードが並びますがあくまで学術書として、それら伝承(?)の背景にある幼児性愛、幼児虐待、イジメ、介護疲れによる殺人などの人の心の闇が生んだ「現実」を描いています。参考文献として多く引用されている「耳袋」「甲子夜話」等を読んでみたくなりました。後者は著者と宮部みゆき、北方健三他、作家同士の対談をまとめたもの。ご飯と飯の違い、江戸のカッコいい男達とは、上方と江戸の違いや「色事は四十からがおもしろい」等、著者ならではの、江戸、特に庶民に目を向けた数々のうんちくが面白い。今よりもずっとおおらかで生き生きしている江戸の町に多いに惹かれました。
2007年08月13日
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お寺さんで聞いた話 その2先日の初七日の折に聞いたお話です。お寺さんで供養、善行と云われるとまず思い浮かぶのはお布施です。だいたいにおいてそれはお金が思いつきます。それではお金のない人はお布施、善行が出来ないのかという話です。お布施の中に無財の七布施というのがあるのだそうです。顔施(がんせ)、言施(ごんせ)、動施(どうせ)等々。人に対して笑顔で接する、人に優しい言葉をかける、動施は行いです。七つの内の3つしか思い出せませんでしたが、そういった人に対する思いやりなどが立派にお布施となるそうです。そういえば、見舞いに行った時の祖母は伯母達に向かって「遠い所ご苦労さん」「ありがとうねぇ~」としきりに言葉をかけていました。後で聞いたところによるとホームでも言葉に出しても感謝をほんとうにたくさんの回りの人にかけていたようでそれはきっと、商売をしていたからなのだと叔父は云っていましたがこれが無財の布施なのだなと感じたのでした。
2007年08月01日
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お寺さんで聞いた話1先日の初七日法要の折の住職のお話です。最近では初七日法要は、お葬式の日に一緒の済ませてしまうのが一般的のようですね。葬儀自体が亡くなって2~3日な訳ですから初七日と云うと、葬儀から中3.4日でまた集まらねばならないのが現代の社会ではなかなか難しいものです。今回祖母の葬儀では、130年もの付き合いのお寺さんをたて、また99もの長寿を全うした祖母に対する親孝行から喪主である叔父が望んだからでした。もちろん親族、子供である母や伯母はとうに悠々自適の身というのもあるからでしょう。お寺のご住職も、もう身内のような感覚でお話も色々して下さいました。その中の1つ、四有について。人間の一生というのは四つの段階で成り立っている。生有、本有、死有、中有の4つです。生有は受胎した時。本有は生まれてから死ぬまで。死有は死んだそのとき。そして中有は死んでから49日の間。納骨までの期間を言います。その間に七日ごとに審判があり、その審判で良い判定を貰えるように親族が祈るのが初七日から七日ごとの二(ふた)七日、三(み)七日、四(よ)~七(なな)七日すなわち四十九日の法要なのだそうです。このご住職面白い方でこういった宗教的な決まり事、解釈は昔、昔の頭のいいお坊さんが金儲けの為に考えたのかもしれない、と前置きしながらもその7回の審判ごとに善行、悪行を判定されるわけだから生きてる間により良い行いをしなければ行けないと云う戒めなのだと締めくくったのでした。そして四十九日をもって本陰中といい、霊としてこの世にいる状態から仏となってあの世へといくのです。私自身、無宗教ですがご住職のお話を聞くのは大好き。ちょっと雑多な現実から離れて死後の世界に思いを馳せるのも良いかもしれません。ちなみに祖母のお寺さんは浄土宗でした。
2007年07月24日
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一口に”死”と云ってしまうと精神的、宗教的、生物的と色々な捉え方があり過去からずっと取り上げられ、論じられてきたテーマなのでここでは、ごく私的に感じた事を少しだけ書いてみたいと思います。それは先日紹介した祖母が意識混濁となりもう余命1週間ほどと云われ見舞いに行った時の事です。入院して病院に見まいに行った時とは雲泥の差で老人ホームの個室のベットに横たわる祖母は、たしかに死に向かっている事を感じさせるものでした。病院と違い、そこでは延命の処置はしません。それは親族の望む所でもありました。病院では点滴をしたり酸素吸入をしたりという処置がなされそれは確かに命を延ばすものなのかもしれません。ホームでの祖母の食事はとろみ食。それも,重湯などは既に口に入れても嫌がり口からとるのはとろみのあるお茶を150ccくらいとのことでした。それ以上は祖母が嫌がるのだと。皮膚は黄疸が濃くなり、カサカサと乾いて目も光がありません。そんな状態でも無理に食事をさせようとすると嫌々をするのだと云う事を聞いて確実に自らの意思で死に向かっているのだろうと感じられたのでした。人は、…細胞は確実に死に向かって進んでいるわけですが普段生きていて、それは忘れている事。ここまで生きられれば良いなんて事はありませんがそれでも99歳と云う祖母の歳はガンを患いはしたものの、寿命を全うしようとしている自然なものに思えたのでした。先日、7月15日に祖母は苦しむ事なく永眠しました。
2007年07月18日
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その昔、水天宮前からも都電が走っていて水天宮から土州橋までの間は引き込み線となっていました。半蔵門線三越前から銀座線三越前までの地下通路に昭和についての永井保さんという方の書かれた「日本橋ストリートアート」という展示の中にもその記述があります。最盛期47系統もあった都電ですが私が中学に入った頃にはすでに水天宮前の路線も廃止になってあまり記憶にも残っていません。都電の客車を取り外し台車に装飾を施した花電車は戦前からことあるごとに走っていたようですが34年の皇太子ご成婚の時には水天宮引き込み線にその姿を停めていました。 丁度現在のロイヤルパークホテル前の辺りでしょう。祖母に見に連れて行ってもらったことをかすかに覚えています。現在唯一のこった都電荒川線。残念ながらまだ乗ったことはありません。
2007年07月10日
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明治41年生まれの祖母が関東大震災にあったのは15の時でした。祖母の実家は、両国千歳のあたりでいくつかの家作を持つ大家で裃の仕立ての仕事をしていたと聞きます。それが保証人になったため家作を借金のかたにとられ長屋の差配、いまでいう管理人になったのだそうです。祖母の兄弟も、その時代にもれず9人ほどの多人数で祖母の姉にあたる人などは境遇の変化に精神を病んだりもしたそうです。それまで、良い着物を着て人力車で出かける生活が一変したのですからそれは大変な負担だったのでしょう。祖母も小学校を4年で辞め奉公に出ました。両国にあったと云う「廣瀬」という寄席です。小さくして奉公した祖母は回りの人にかわいがられたようで実家の家の前にあったと云う相撲の行司さんには国技館へ行く人力車に一緒に乗せてもらったりもしたそうです。関東大震災が起きたとき、寄席「廣瀬」の人たちは両国緑町にある被服所へ非難しました。今の両国震災記念堂です。ここには池があり、火の手から逃れる為に池に飛び込んだものの水面を炎がなめ、避難した人たちはほぼ壊滅的に命を落としました。幸いその日、祖母は休みを貰い家にいたので家族とともに逃げることが出来ました。千歳から新大橋通りを渡り、萬年橋の上から下を通る船に飛び降り命拾いをしたそうです。その翌年、縁あって祖父と結婚したのが16の時。その祖母は今も99で存命です。ただ、5年ほど前から痴ほうが出てホームに入り今年になってガンが見つかりました。今年4月に見舞いに行った時は歳に見えないくらい元気でにこやかでおだやかでしたが今は、食欲も落ち、眠ることの多くなった毎日だそうです。母曰く、「おしん」のような苦労の多い小説のかけそうな人生だったそうですが晩年幸せだったようなのが救いです。もう、残りわずかな人生かもしれませんが穏やかに過ごしてくれたらと願います。 ※記述の年齢に関して、満年齢と数え歳の違いで1~2歳のずれがあります。
2007年06月27日
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浮世絵の版木で髪の生え際の毛先がすーっと細く消えて行く、その毛先の細さを彫れるかが、職人の腕なのだそうです。父の伯父に当たる人がそれがどうしても出来なかったのだとそんな話を聞いたことがあります。父方のひいひいおじいさんに当たる人が鉄五郎という浮世絵の版木の彫り師でした。そうゆう時代だったのか、それぞれ親の代もその上の代も子供がたくさんいました。そして戦争だけでなく若くしてなくなった子もいっぱいいたようです。また、家系も複雑。鉄五郎さんの子供、佑次さん(私から見たひいおじいさん)からの戸籍の写しを母が持っていてそれを読み解いてみたのですが鉄五郎さんの娘(あるいは養女)のところに職人の祐次さんが婿養子に入り子供を一人もうけ娘さんは亡くなり次の後妻さんが二人の子供をもうけ亡くなり…(その一人が私の祖父です)そして3人目の後妻さんをもらい3人の子供をもうけたようです。子供のときから絵が好きで美大に進んだ私ですが、そんな私を両親や叔父叔母などは「鉄五郎さんの血を引いて」と云っていたのですが実際戸籍をひもとくと血は繋がっていないのですね。それでも、なんとなく家系というものを感ぜずにはいられない気もするのでした。版画師の鉄五郎さん、その後を次ぎのちに判子屋を生業とした裕次さん、その息子の誠さん。この伯父は賞状の外枠の飾り罫なども彫っていたそうです。今、身内親類にそういった家業を継ぐものは居りません。
2007年06月20日
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永代橋を江東区へ渡って右に曲がったあたりに熊井町というのがありまして今の永代一丁目辺りになります。そこで船宿を営んでいたのが、父方の祖母の実家でした。回船物も扱っていたかもしれません。小笠原辺りから来る船の船員さん達が泊っていたそうです。昔はその家も羽振りが良かったようで明治40年生まれの祖母は中村高女(今の中村学園)に通っていたそうです。着物に袴のいでたちで人力車で登校し帰りはその袴を担いで帰ってきたと云うからかなりのお転婆だったのかもしれません。タバコ屋なども商っていたようでその店番をしている祖母を見初め、タバコはは飲まないくせに会いたさに祖父が通ったとか…。子供の頃、堅物にしか見えなかった祖父のそんな話を聞くとなんだか可愛く思えてきますね。そんな祖母の血を、もうちょい濃く受け継いでいたら…なんて思わず思ってしまうのでした。
2007年06月14日
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赤坂辰巳門のそばに吉田屋という紺屋がありました。それが私の母方のひいおばあさんの実家です。紺屋…裃の藍染めをする仕事です。そこの一人娘として生まれたのがひいおばあさんの「よし」さん。子供の頃、母の実家の仏壇の上に飾ってあった写真で私もよしさんの肖像は見たことがあります。娘時代は器量良しで、赤坂小町と云われ御所の茶摘みのおりには美人どころの一人として町人ながら茶摘み娘として呼ばれたそうです。そのよしさんが生まれて初節句のお雛様を買いに赤坂から十間だな(今の八丁堀辺り)まで行った帰り桜田門外の変に遭遇し、近くのどぶに隠れて見ていたというのがよしさんのお父さん、カンエモンさんの話。維新となり武士が職を失うと押し込み強盗と化し、赤坂辺りも物騒になったので職人さんの一人を婿養子に向かえたよしさんは新居を構えるにあたり蛎殻町へと越したのでした。今は箱崎エアターミナルや、ロイヤルパークホテルがありほとんどがオフィスビルやマンションが建ち並ぶ蛎殻町界隈もその当時はきつね火が見られたそうです。そういえば、某漫画家さんのアシスタントさんは井伊直弼のご子孫だとか…そんな話を聞くと歴史が少しだけど身直近になりますね。
2007年06月13日
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