私のブログ(詩的風景の見える、カフェテラス)懐かしの文学・シネマ・テレビ・文化館・DVDショップ
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■戦国ブーム!武士の家紋コースター(8枚入り)三つ葉葵(黒)徳川家康 テレビを見ている人なら、わかっているとは思うのですが、徳川家康が、上杉討伐の為、豊臣の家臣団を引き連れて関東に向かいましたが、この期に、石田三成が、挙兵します。 この段階で、家康は、逆賊になりますが、しかし、この時、徳川に従った豊臣の家臣団は、窮地に立たされます。 この時代の関東は、徳川家康の領地で、上杉謙信が、関東管領になった時、11万の大軍を動かした事からみても、家康も、少なくとも、15万位の大軍は動かせたに違いありません。 つまり、家康に率いられて来た、豊臣の家臣団は、徳川15万の大軍の真っ只中に居たわけです。 それに、食料だって有りません。 黒田や、加藤は、九州に居城がありますので、どうやっても、食料の確保は難しく、家康に泣きつくしかないのです。 仮に、家康と戦っても、とうてい、勝ち目はありません。 結局、自分達を、窮地に追い込んだ、石田三成に、恨みの矛先が向かいます。 そこで、関が原に、徳川の軍隊が、二手に分かれて向かいますが、家康は、息子の秀忠に、真田がいる信州上田に向かわせます。 しかし、秀忠は、戦上手な真田に、足止めをくって、関が原に間に合わなかった事になっていますが、それは、誤解ではないか思います。 結論から、申しますと、秀忠の役割は、徳川軍の主力を率いて、上杉が、越後を掌握するのを阻止する為に、それと分かる様に、真田に姿を見せただけだったのです。 徳川家康にとって、秀忠は、大切な跡継ぎなので、戦はさせずに、上杉の動きを、けん制させるだけでよい、と考えていたのでしょう。 「数千しかいない真田相手に、戦の練習をしてみよ。」と言う所ですか。 秀忠は、35000の軍勢を率いて信州に行きましたが、徳川全軍のうち、関東に点在する城々の守りに、その半数の、75000人を当てたと考えますと、徳川家康の率いる直属の徳川勢は、30000位となります。 実際は、どのくらいの数だったかは、知りませんが、関ヶ原に向かった東軍の、豊臣の家臣団は、徳川の直属軍より多かった可能性もあります。「何! 秀忠が、真田と戦い、足止めをくらっているのか! あの馬鹿者め!」 家康は、いらだちながら、こう叫びます。 すると、忍びが、この事を西軍に伝えます。 この段階で、関ヶ原の東軍、徳川家康の軍勢は、豊臣家臣団を合わせて75000人、それに対して、石田三成率いる、西軍100000人。 数に勝る、西軍は、篭城など、もっての他です。 その結果、関ヶ原で、両軍が激突する事になります。 この戦いで、徳川家康は、関ヶ原において、豊臣の家臣団同士が東西に分かれて戦い、その力を、互いに、すり減らすのを観戦する事になります。 それに対し、徳川軍は、小早川相手に、とうてい、射程距離圏外としか思えない距離から、銃を発砲し、戦の真似事をしているだけですし、主力の軍勢は、関ヶ原から遠方において、徳川秀忠が率いていますので、無傷みたいなものだったのです。 また、毛利も、動きません。 どうやら、家康と同じ考えの様です。 しかし、それにしても、家康は、戦略家ですね。 敵の兵を用い、敵を討つわけですから。 ■天地人
2009年09月21日
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