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2005年11月13日
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時代の感性が生み出していく「遊び」は常に既存の常識を覆すことから始まります。
委員長がここでいう感性とは、まさにこういった新しい遊びを創造する力のことなんです。
たぶん委員長の年代の人たちなら、ターンテーブルとレコードをこういった使い方で遊ぶということ自体思いつかなかったと思いますし、まさかそれを実践してレコードにまでしてしまうという発想はあり得なかったのではないかと思います。

レコード針が盤を引っ掻いたときに出た音。
これを雑音(ノイズ)と捉えるか楽器が奏でる音(パーカッション)と捉えるか、これこそがまさに時代の感性だったわけです。
そしてそれをカッコイイと感じる感性があったからこそ流行になりスタンダードになっていったんですね。たぶん職人肌のエンジニアのおっさんたちは未だに認めてないでしょうけど。(笑)
これが時代の感性というものなのです。
どんなに今の時代のファッションをまとって着飾っても、どんなに時代の情報を取り込んだとしも、五感で感じる力、体の中で消化する力、更にそれを遊び(ART)として体現していく力は、その時代の真っ只中を走っている世代の感性にはどうしても敵わないものです。


例えば、委員長の時代では、テレビドラマとかは必ずその時間にテレビの前で見なければならなかったし、見逃したらまず間違いなく二度と見られませんでしたから未だにこの感覚は残っていて、仮に見たい番組があるとするとまずは無意識にその日の自分のスケジュールに思いが飛びます。この日は特に用事はなかったかなぁ、とかね。
でも委員長の子供たちとかは、まずビデオの録画予約のスケジュール調整から入っていきます。誰の録画予約を優先させるかとかいう話になるわけです。
これこそがまさに感性のズレですね。
そりゃそうですよね。今の子供たちにとっては生まれた時からすでにビデオがあるんですから、物事の発想の原点には録画するって行為が働いているわけです。
これはどんなに感覚を研ぎ澄まそうと、理智を高めようと、覆すことのできない時代の感性なんです。

それじゃ爺婆は時代の流れと共に埋もれていくのかっていうと、それはまた別の感性を持っているわけで、古い感性で時代を切り取ればまた面白いものも生まれてくるわけです。そこはそれでそう簡単には切り取って説明はできませんが、ただ、古いものが土台になっている以上は、今の時代の先端を切り開くことはまず凡人の才能では無理でしょうね。ですから一歩引いて、時代の先端を走る若者の感性を触発させるという、ちょっと渋い感性が残されているわけです。

当時の委員長のディスコ感覚で言えば、当時原宿代々木公園広場で踊っているタケノコ族ってのがいましたが、委員長はあのファッションは嫌いじゃなかったし、公衆の面前で踊るという行為も嫌いではありませんでした。選曲にはちょっと付いていけませんでしたけどね。(笑)
広場で踊るとか、公衆の面前で踊るという行為は、昔からあったし、誰もができることです。盆踊りとか、阿波踊りとか、フォークダンスとか日本に限らずどこにでもありますよね。
でもそれは伝統文化として代々引き継がれてきた感性ですから、盆踊りを見て笑う人はいないだろうし、カッコイイとは思わずともそれはごく自然のことであるわけです。

その行為を、自分達の装いを用いて日常的な空間に持ち込んだのがタケノコです。
要は盆踊りという装置の使い方をちょっと変えて遊んでみたってことですよね。


そしてそれを見たギャラリーがその行為をカッコイイと認識したからこそ、ひとつの流行として伝播していったのです。
年代の差はあっても、委員長のようにそれを面白い、あるいはカッコイイと感じた人もいることでしょう。
じゃあ、そこに飛び込んで行って自分もやるかっていうと、それはまずできませんね。
それはその時代の寵児達がやるからこそ面白いしカッコイイので、よしんば年配者がやったとしても、認めてはくれるかも知れませんが、それはそれで別物、単なる笑いものになるのがオチです。

現に委員長は未だにラップは理解できないし、日本語のラップなどは気持ちが悪くて聴けないのですが、ラップにしても、音楽に言葉を乗せる手法というのは昔からあったし、語り口調でメッセージを音楽にするという行為自体が特別新しいものではありません。

でもこの手法はあくまでもSONGというベースを生かすための調味料のようなもので、この調味料を使って遊んだのがラップです。最近では人間ミュージック・ボックスなんていう遊びも出てきて本当に驚きですが、とにかくこれらの感性の奥底にある「遊び」の創造性こそが時代の感性であるわけです。

そしてこういった遊びをクリエイトする時代の寵児は、いつの時代だって、どんな時代だって現れてくるだろうし、また更にそんな寵児を乗り越える凄いヤツが出てくるだろうし、それこそがその時代を生きる若者全員に与えられた感性という才能だと思うのです。
それはもう、ただ若いってだけで全ての若者に無条件で与えられた才能であるわけです。どこに住んでいようが、何をしていようが、どんな人間であろうが、これこそが人間に平等に与えられた唯一の才能だと思えるんですね。

その才能がどんな開花の仕方をするかはわかりませんが、その才能が花開いたところがその本人にとっての唯一の現実となり、そして歳を取っていくのです。
それがディスコであるかもしれないし、学校であるかもしれないし、チーマーだったりコンビニに集うグループの中であるかもしれない。(笑)
あるいはミクロ的に言えば自分がたった一人で描いたノートの片隅のひとつの絵の中に才能を開花させたかもしれないし、マクロ的に言えばそれこそ武道館に何万人だかを集めて共感させることで才能を開花させたかもしれない。

でも開花した才能を現実として体感できるのはその本人でしかないのです。
そしてそれこそが唯一、人生におけるリアリティであり、それ以外はその当人にとっての現実にはなり得ないのです。
そしてその現実との関わりの中にしか才能は開花されないのです。
だからこそ委員長が言うところの「若さは才能」たる所以なのです。
目の前にある現実と自分がぶつかった時に生まれる感性こそがその人の才能なんです。年齢を重ねるということは現実に対する認識を重ねていくということですから、必然的に時代の感性は鈍っていってしまうのです。
それはそれで知識と経験を重ねることで、英知という副産物を生み出しはしますが、それは感性というよりは知性というべきものです。
それは感覚から生まれてくるものではなく、知識と経験が感性を触発して生まれたものなのです。
だから人は常に感性を触発し持続させるため、新しい現実を求めて彷徨って行くのです。
それがドラッグであったり、音楽であったり、あるいは旅行であったり、はたまた宗教であったり、未だ自身の中に蓄積されていない現実との出会いを求めて未知の世界とのぶつかりを求めるのです。

大変回りくどい屁理屈をこねてしまいましたが、どんなに抵抗しようが逆らおうが万人に与えられた若さという才能はひとつの例外も無く、それぞれの時代と共に歩き、それぞれの人間性へと昇華していくものなのです。そして残念ながら、それには必ず賞味期限が付いているのです。





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最終更新日  2005年11月13日 07時35分49秒
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