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2006年04月05日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
1970年代の不良のお話をかいつまんで書いてまいりましたが、私が「踊り場」と出会う前までの不良人生は世田谷周辺の非常にローカル色豊かな内容ばかりです。
所詮は駅前の喫茶店に屯して、蛇腹の学ランに逃げ隠れしながらダックスに乗って近隣を徘徊する近所の鼻ツマミ者程度の不良でした。
世田谷の梅が丘というところは、天下に轟く国士舘大学・高校・中学があり、そのすぐ近くに都立明正高校があり、小さい規模ながらも学生を中心とした地味ぃ~な駅前商店街、ちょっと外れると閑静な住宅地といった、妙なバランスの土地柄でもありました。

文字通り梅の名所として羽根木公園などというそこそこの大きな公園があり、著名人や芸能人なども割と数多く住んでおりました。
そのくせ朝夕の通学時は、まるで軍隊のような蛇腹の学ランにゴム長靴軍団が駅前に整列し、デカイ声で「オッス!オッス!」を連呼する姿などの異常な光景がごくあたりまえのように日常に溶け込んでいた妙な街でした。
そんな街ですから、不良といったところでまだまだ可愛げのある悪ガキの集まりといったものでした。
それでも、皆高校に行くようになると、別の地域の不良たちとの交流もそれぞれに始まり、目一杯背伸びして不良の順位を競ったりもしましたが、まあ、それでも不良小僧のほとんどが地元商店街の倅や娘だったので、その枠内でそれなりの青春を謳歌した(笑)不良ごっこでした。

そんな環境の中で育まれた中途半端な不良少年であった私は、「踊り場」に出入りするようになってネオンの街に泳ぎ出した頃には、地元の不良連中との修行では物足りなくなってきており、更なる好奇心に誘われるまま生き急いでいったのでありました。
この頃にはいっぱしの踊りバカとなっていた私は、踊り場で築いた不良小僧の人脈などを屈指して「踊り場」からの脱却を試みていたのでした。(なんじゃそりゃ)


どういうことかといえば、「ガキみたいな女じゃつまらんぜ」などと利いた風な大口を叩いて、「大人の女をものにするんじゃ」というような、所詮はバカの上塗りに過ぎない新たな修行の道へと進んでいったのでした。(やれやれ、バカはいつまでたってもバカのままです)

「踊り場なんて所詮はガキの溜まり場よ」などとノーガキを垂れつつ、徒党を組んで新宿歌舞伎町の大人のお店へと流れていったのです。
当時、「踊り場」の流れも多少変わりつつあり、小箱から大箱、薄暗いところから煌びやかな店の時代へと突入しておりました。
いわゆるパブ・ディスコとか呼ばれる店が出始めた頃ですね。
早速、踊り場の常連などと手に手を取って、これらの大型店に出張って行ったツッパリ小僧たちですが、なんとここには身震いするほどの異常な興奮が待ち構えていたのです。

その頃のチマチマした「踊り場」のダンスフロアに比べて、やたらでかいフロアーにはいわゆる大人のねーちゃん達がワケのわからぬタコ踊りをしているではありませんか。
もちろんそれに混じってネクタイ野郎やおのぼりにーちゃんみたいな学生などもいて、そこに颯爽と登場したコンポラ小僧のステップ軍団は見事にフロアの花形スターとなっていってしまったのでした。

思い起こせばその昔、大学生のあんちゃんに連れて行ってもらったサントリーパブで体験した世界、タコ踊りの大人たちをまるで引き連れるように、そこで先頭切って踊っていたリーゼント野郎こそが、今の自分であったことに気が付いたのでした。
とにかく踊るステップ、踊るステップ、自分の後ろに続く年上のねーちゃん、にーちゃんが、必死になって金魚の糞のようになって付いてくるのです。
まるで教祖様にでもなったような夢心地でした。

「生きてて良かった。踊りやってて良かった」(しょうがないね、どうも)


さあこうなってくると、この教祖軍団はもう自分たちこそがここを仕切るべき人間だ、くらいに大勘違いも甚だしく大脱線して行きます。

「俺らでステップ作っちゃおうぜ」

神をも恐れぬ不届き者たちは、さらにその世界で王者として君臨することを夢見ていったのです。

「合言葉はマタンキ!」(こらこら)

当時の高校生の間で爆発的大ヒットしたマンガ「トイレット博士」に登場するマタンキ団の踊り場グループ結成です。(へぇ~)

パブ・ツゲザー(当時はこう表記してました)、プレイハウスに屯し始めたステップ小僧軍団は、フロアを仕切り、バンドにも鬱陶しがられ、挙句には入り口に貼り紙などで牽制されるほどの実力を持ち始めていたのでした。(ふ~ん)

「当店ではステージに向かって隊列を組んで踊る、メダカ・ステップダンスはお断りいたします」

なっ、なんと、オレ達はメダカだったのかぁ~。
行き場を失ったステップ軍団は、こんな仕打ちにもメゲず新天地を求めて歌舞伎町をさ迷い歩いたのでした。
一度快感を味わったバカたちは今更古巣の「踊り場」に戻るはずもありません。

「デカイ店がダメなら小さい店でも良いじゃん」

てなことでバカはバカなりに考えて、更なる拠点(アジト)を探したのでした。
そして遂にステップ時代の終焉とも言えるこの時代に、メダカ軍団の黄金時代を築いた店が日の目をみることになりました。

歌舞伎町「モアモア」~ジュークとバンドのパブ~
踊り場を卒業した不良デパガや不良OL、さらに大学生、専門学校生が集まるちょっと大人の店でした。





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最終更新日  2006年04月05日 13時15分28秒
コメント(8) | コメントを書く


■コメント

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痛く共感(笑)  
kunihiko さん
わかりますね~(笑)、、、

これぞ、大馬鹿三太郎の王道の発想ですね~(爆)。 (2006年04月05日 13時01分10秒)

痛く共感(笑)2  
yu-ji さん
>とにかく踊るステップ、踊るステップ、自分の後ろに続く年上のねーちゃん、にーちゃんが、必死になって金魚の糞のようになって付いてくるのです。まるで教祖様にでもなったような夢心地でした。「生きてて良かった。踊りやってて良かった」


いやーこれホントそう思います。私は牛浜のBPでしたが、あの瞬間がたまらなくてとことん馬鹿の道にはまって行くんだよねー。

牛浜のBPで米軍横田基地経由で最新の新譜が流れるとそれに合わせて新しいステップ作って、数周遅れでその曲が新宿で流れ出すから真っ先に先頭で踊って自分の作ったステップ流行らせると、もっともっとかっこいい踊りに淘汰されたりして、そういう時代でしたねー(^^) (2006年04月05日 17時28分39秒)

おおっ!BP登場  
RONNYジイ  さん
yu-jiさん

おみそれしました~!
過去さんざん書きましたが、私のSOULのルーツはなんといっても横田ベースですね。
BPも当時は外国でした。(笑)しかもジンコク(黒人)の溜まり場。
まさに「限りなき透明に近いブルー」の舞台だったですね。
ちなみに私は福生駅からゲートに続く道を歩いている時、オープンカーに乗った白人のにーちゃんに軟派されました。(笑)
でかいアフロがキュートだとか言われましたね。
(危ねぇ~) (2006年04月05日 19時27分18秒)

牛浜のBP 1  
yu-ji さん
牛浜のBP(ブラック・パワー)は最初の店が大好きだったんですよ。100人ぐらい踊れるDiscoで、黒人男女の大集団の中に日本人の私1人(16歳のガキなのにいい根性してたなって思います)。日本にいながらアメリカに海外旅行してるみたいなブラックな雰囲気が大好きでした。

でも3回ぐらい行ったらいきなり店が潰れて、その数週間後に通りを隔てたところに「ソウルフードレストラン、BP」(ビューティフル・ピープルだったかな?)として経営者も変わって再開店したけど、踊るスペースも小さくなって最初の店のパワーは無かったですね。(・・・って地元の人が見てて、それはおめーの勘違いで牛浜の全然違う店だって言われたらどうしよう)

当時の私のファッションはコンチ専門だったんで、硬派なコンポラ達には嫌われました。だから新宿のゲットに行くと、アフロヘアーとコンポラスーツ軍団に、「なんだこの軟派なコンチ野郎は、何しにここに来た。てめーはとっとと帰れ!」っていうあの独特の視線が痛くて数回しか行けませんでした。

地方出身者は同世代の友達が少ないですからどこでも1人で行って1人だけで踊らなきゃならないのでゲットみたいな独特のステップ踊る店じゃなくて、新宿の平均的な踊りを踊る店だったクレイジーホースとかアップルハウス、カンタベリーハウス・ギリシャ館、たまにソウルトレイン。行くのはそんな感じの店でしたね。 (2006年04月05日 22時17分14秒)

牛浜のBP 2  
yu-ji さん
私が新宿で踊ってたのは16歳だった1974年頃から19歳になった1977年頃までで、最後の頃はグランドキャバレーでボーイやってたんですが、自分の更生を兼ねて海上自衛隊に3年間入隊しちゃったんで、その後の新宿を全然知らないんですよ。

横須賀に行ってからは横須賀ベース前のEMクラブのディスコとか(日本人オフリミット、でも海上自衛官は身分証明書見せれば中に入れる)、汐入駅前のサンタナで踊ってたんで(ここも黒人ばっかり)、ステップダンスじゃなくてフリーダンスやハマチャチャとかスカチャチャの世界に入っちゃいました。

で、3年後に22歳になって満期除隊して新宿遊びに行ったら(サーファー時代って言われてましたね)どこもガキばっかの店になってて全然違う雰囲気のディスコに感じました(つーか単に自分が年食っただけなんですが)。それ以降は横浜に住んでて横浜のディスコ専門で遊んでたんで、1978年以降の都内のディスコ事情を全然知らないわけです。

もし自分があの時海上自衛隊に受かってなければキャバレーのボーイを辞めて新宿行ってDiscoのボーイとして勤めるつもりでしたから間違いなくRONNYさんと会ってたと思います。そのくらいディスコ大好きでしたから、RONNYさんの経験読んでると、「もしかしたらそれがそのまま自分の経験だったかも?」ってパラレルワールド的に読めるからRONNYさんの経験は読んでて最高に楽しいです(^^)    (2006年04月05日 22時18分38秒)

またひとり戦友に遭遇  
RONNYジイ  さん
って感じですか。
yu-jiさん、凄いですね、海自ですか。
浅田次郎さんも真っ青ですね(笑)
当時の立川(っていうか青梅近辺)って、やっぱり基地の街って感じでしたから、新宿のソウルバカは結構憧れたりしてましたね。
福生とかに住み着いちゃったやつもいました。
あの青梅線のローカルっぽい感じと乗り合わせた米国人たちとのコラボ(笑)がなんともいえない独特の雰囲気でした。久々に当時のこと思いだしました。横須賀サンタナも70年代当時は場末のディスコって感じで、スリリングで良かったですね。
「どぶ板」ももうなくなっちゃったんですよね。
懐かしいな、あの頃が。あの通り一角はやっぱ外国でしたね。 (2006年04月06日 07時03分13秒)

Re:牛浜のBP 1(04/05)  
RONNYジイ  さん
yu-jiさん

>「ソウルフードレストラン、BP」(ビューティフル・ピープルだったかな?)として経営者も変わって再開店

思い出した!
そうです。BPはレストランになっちゃったんだ!
やたらせめぇ店で、ありゃ踊り場じゃないね。
夜、酒飲んだGIがそこで踊るってなとこだった。
ちなみに私ゃ昼間行ったから、実際にジンコクが踊ってる姿は目撃してません。(どーでも良いけど)
ソウルフード食った覚えがある。豆とチキンのギトギト油(笑)
確か店のオヤジはデブのジンコクだった。
でも雰囲気はブラックパワーだったね(なんじゃそりゃ)
ちょっと興奮してしまったもんで言葉使いが荒くなりました。すんませ~ん。
記憶が曖昧なのはお互い様ですから間違ってたらごめんなさいってことで(笑)
-----
(2006年04月06日 21時13分13秒)

Re:牛浜のBP 2(04/05)  
RONNYジイ  さん
yu-jiさん
>汐入駅前のサンタナ

またまた思い出した!
汐入駅前にちょっと米国っぽいファーストフード店がありましよね。
ポークチョップとか、当時東京ではまずお目にかかれないアメリカっぽいメニューがあって、この雰囲気にちょっとしびれましたね。
甘酢のケチャップで手がべとべとになったけど(笑)
ここで雰囲気出してメシ喰って、どぶ板のいかがわしいスナックバーとか入って、目一杯ブラックになりきってつかの間の米国を体験しました。
なんせ真昼間から営業中でしたからね(笑)
トドメはサンタナでした。
横須賀はやっぱ横田より荒んだ感じで不良っぽさというか危ない空気が漂っていてカッチョ良かったですね。スカジャンもいくつも買いましたね。
ゲートの近くで刺繍屋を営んでいる家の倅がいて、よく泊りがけで遊びに行きました。
当時は夜更けにホイッスルをピーピー鳴らしてブラザーが千鳥足で歩いてました。
ファンキースタッフ爆ヒットの頃でした。
-----
(2006年04月06日 21時28分46秒)

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