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6/13 リングの上で彼は言ったそうです「動けない、止めろ」。
バックドロップで頭をしたたかに打った状態で三沢光晴は動けなくなりました。
1981年、全日本プロレスに入団。
前座で若手レスラーとして、修行していました。
その若手の中でも運動神経は良かったようで、ジュニアヘビー級の動きが出来たといいます。
そして1984年、メキシコへ海外武者修行へ出ました。先輩の越中詩郎と共に日本コンビとして暴れたそうです。
しかし、そこへ青天の霹靂!三沢光晴選手に師匠ジャイアント馬場からの帰国命令。
二代目タイガーマスクに変身するのでした。
初代タイガーマスクが電撃的に引退したことで、全日本プロレスがタイガーマスクを登場させたのでした。
興業での入場者を増やす対策として、話題として、何よりテレビ局(当時は日本テレビが全日本プロレス中継を行っていた)へのアッピールだったのでしょう。
彼は望んでいたものとは離れたスターになっていきました。
1990年、タイガーマスクに限界を感じた三沢光晴選手は試合中にマスクを脱ぎ、三沢光晴として動き出しました。
「パーっと視界が広がった」と、この当時を三沢光晴選手は語っていました。
日本テレビのインタヴューにも「自分の名前を知らしめたかった」と、タイガーマスクという二番煎じのままでは終われない気概を感じさせましたね。
大先輩で、完全エース、怪物と言われたジャンボ鶴田が病気でダウン。全日本プロレスは三沢光晴選手をエースとして動き出しました。
彼は責任感が強く、肩を怪我して本来なら休んでもいいくらいの怪我だったにも関わらず、試合に出ていました。
エースは休めない。体を張って全日本プロレスをささえたのでした。
四天王時代が到来!三沢光晴選手を筆頭に全日本プロレスに四天王時代が訪れ、激しいプロレスに身を投じ続けました。
1999年、師匠ジャイアント馬場ば死去。三沢光晴選手から社長を引き継がねばなりませんでした。
しあkし、全社長夫人がジャイアント馬場の残した会社に思い入れが強すぎたためでしょう。三沢光晴社長は新しい事をすることが出来ませんでした。
代表取締役でありながら、なんの決定権もないままに責任だけ取らされる。そんなイメージの社長だったと思います。
馬場さんの奥さんからすれば、子供がいない夫婦でただ一つ亡き夫が残した会社が全てだったのでしょう。
変革は馬場さんのスタイルではないと感じたのでしょうか。
2000年に三沢光晴社長はプロレスリングノアを旗揚げ。
この当時、ほとんどのレスラーが全日本とは専属契約を行っておらず、フリーの状態で毎日試合に出ていたほど、全日本はガタガタだったそうです。
プロレスリングノアを旗揚げするにあたって、三沢光晴として居酒屋を立ち上げてから新人を5人育成、個人的に興業を打つつもりだったそうです。
しかし、現実には全日本離脱にあたって、全日本プロレスの殆どのレスラーが三沢光晴と行動を共にしました。
当時、高山選手は「三沢光晴なる、大人物についてゆく」 と、彼らしい物言いでプロレスリングノアへの移籍を語りました。
文字通り、三沢光晴は選手として、社長として獅子奮迅の活躍だったのでしょう。
2002年の新日本プロレス東京ドーム大会には、ライバル蝶野正洋選手がマッチメーカーとして三沢光晴選手に出場を依頼、彼は自分のプロレスリングノアの興業の第1試合に登場して、東京ドームへと向かったそうです。
「ドームがあるからって、自分の興業のお客さんに三沢がいないというわけには行かない」実に彼らしい判断でした。
数年遅れて日本テレビがプロレスリングノア中継を開始、放映料が入る事で団体の運営も助かったでしょう。
しかし、数年の放送を行うも不況の波にプロレスリングノア中継がテレビ打ち切りとなりました。
これはプロレスファンにもとても厳しい話でした。
テレビという大きな宣伝、バック、資金を失ったノアは、大変厳しい状況になったのでしょう。
そして三沢光晴選手は、リングの上で動けなくなり三沢夫人のもとへ電話が入ったのでした。
「大変だ、ミッちゃん(三沢選手の愛称)が死んだ!」三沢夫人にとってもふたりのお嬢さんたちにとっても大変な出来事でした。
三沢光晴選手は46年の生涯を、リングの上で終えたのでした。
レスラー三沢光晴を代表する技『三沢のエルボー』。これは「直線的に打つものじゃない。円の動きの中に奥儀があるんだ」と付き人に語っていたそうです。
それ以上はまだ言えないって事もあったのでしょうね(笑)
彼が存命出会ったなら、必ず今のプロレス界とは違った形になっていたと思います。
彼を失ったプロレス界は、大きな損失だったのです。
彼の訃報を聞いたスタン・ハンセンさんは「息子の朗報を聞いたすぐ後にこんな不幸な話を聞くなんて」と三沢光晴選手の死亡事故を悲しんだそうです。
彼の息子は、三沢光晴選手の事故の1週間前にプロフットボールチームと契約したといいます。
長々と書き連ねてしましましたが、まだまだこぼれたエピソードが沢山ありました。
三沢光晴選手が亡くなられた事は本当に残念でなりません。
もっともっと活躍して欲しかった。
三沢光晴さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
合掌
見たら…押して~♪
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