神風特攻作戦



神風特攻作戦
反転する特攻機突入する特攻機

(左)敵の対空機銃手を撹乱する為、巧みに反転する特攻機
(右)対空砲火をものともせず敵艦に突っ込まんとする特攻機


 神風特攻作戦とは、主に、爆弾を装着した軍用機(主に戦闘機)を敵国の軍艦に体当たりさせることで、その撃沈を図った作戦です。この作戦の創始者は、大西瀧治郎海軍中将です。
 この作戦は、1944年(昭和19年)10月25日から、終戦日の1945年(昭和20年)8月15日まで行われました。
 主な特攻機は、海軍では零式艦上戦闘機(通称:零戦、ゼロ戦)・夜間戦闘機「月光」・九六式艦上爆撃機・九九式艦上爆撃機・艦上爆撃機「彗星」・九七式艦上攻撃機・艦上攻撃機「天山」・一式陸上攻撃機・陸上爆撃機「銀河」・九四式水上偵察機・零式水上偵察機・零式水上観測機・九三式中等練習機・機上作業練習機「白菊」などで、陸軍では九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鐘馗」・三式戦闘機「飛燕」・四式戦闘機「疾風」・九九式襲撃機・九七式重爆撃機・九九式双発軽爆撃機・百式重爆撃機「呑龍」・四式重爆撃機「飛龍」・九八式直協偵察機・九九式軍偵察機・百式司令部偵察機などでした。陸軍機による特攻を海軍のものと区別して陸軍特攻と呼びます。なかには最高速度250㎞/時にも満たない練習機や水上観測機、あるいは複葉の旧式軍用機に搭乗して出撃しなければならない若い予科練生もいました。
 特攻には様々な種類があり、爆装した軍用機による特攻が最も一般的であり、多数の戦死者を出しました。
 全ての特攻機が敵艦を発見し、突入任務を遂行できたかというと、実はそうではありません。日本が必死ならば、対する米英海軍も必死なのです。どうにかして特攻を防ごうと、様々な対策を考えたのです。今後の日本本土侵略に不可欠な空母・戦艦などの主要艦船をややかたまって配置させ、その周辺を巡洋艦などの中規模艦船で護衛させました。また、それを大きく取り囲むように駆逐艦などの小型艦船による哨戒艦を配置し、レーダーの役割を持たせたのでした。外輪の哨戒艦が特攻機の機影を捉えると、すぐさま主要艦船群に報告され、警戒態勢が敷かれました。さらに空母からは特攻機迎撃のための新鋭戦闘機が発艦し、決して特攻が成功しないように徹底的な防御網を張り巡らしたのです。パイロットとして未熟な若い兵士を乗せ、重い爆弾を抱えた特攻機は、この迎撃戦闘機に対抗できるほどの空戦能力が無く、その大半が撃墜されてしまいました。また、運良く特攻機が迎撃戦闘機をくぐり抜け、敵国の主要艦船群の上空に達しても、そこには40㎜対空機関銃やVT信管などによる熾烈な対空砲火が待ち受けており、次々と撃墜されてゆく特攻機が後を絶ちませんでした。統計によると、特攻機100機のうち、敵艦に突入できたのはわずか10機余りだそうです(哨戒艦への特攻も含む)。それに、特攻機が一機や二機突っ込んだところで、戦艦や空母などの大型艦にとっては大した致命傷にはなり得なかったのです。
 その昔、忽必烈汗(フビライ=ハン)の率いる蒙古軍を撃退した「神風」の如き戦果を願い命名され、「一機一艦撃沈」をスローガンに掲げたこの作戦は、数千の若者達の命を無残にも奪い去ってしまったのでした。



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