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不忍池を抜けたところ。抜けたらアメ横へ。アメ横は相変わらずの込みよう。なかなかこの雰囲気がいい。再び上野公園に戻る。船の風にのってをやってた!なかなかよかった。
2009年06月14日

湯島聖堂のなか。ここを出て上野へ。たぶん1時間くらいかなー途中で湯島天神を発見!こういう道を通って。。なんでみんな右よこに座ってるのか。しのばずの池に入ったところ。
2009年06月14日

駅からおりたところ、聖橋で。奥の右手に湯島聖堂。ここが今日の目的地。同じ場所から。向こうの建物群が秋葉原。教養のためにこの顔を覚えておこう。孔子。湯島聖堂は徳川義経が儒教を広げるために作ったところらしい。湯島聖堂のなか。儒教のはずなのになぜかなかには仏像が。。?
2009年06月14日
やはり早く寝るのはいいらしい。今週はずっと体調悪くて寝起きもつらかったけど、昨日10すぎに寝たら4時半にスッキリ起きられてとてもいい。睡眠時間はそこまで長くないのに。紅茶をいれてまだ時間が5時半だったので道友会にいった。知らぬ間にお寺の座禅会=道友会に入れてくれているらしい。今日は後半の6時5分から6時35分まで座り、お経を10分あげて終わり。お経はたまらなく好き。30分もそこまで長くは感じなくなってきた。ただ足がつらくてしょうがないです。土曜日だけ終わってからお茶会がある。そこでもらった最中がとてもおいしかった。二つもらった。「とらや」は有名なんでしょうか。その足で直接学校に来て漢詩の本を借りたり、あとは今度発表するものの準備をした。今日の予定はこれだけだったから、あとはゆっくり過ごしますか。
2009年06月13日
いらいらするのは睡眠不足だからだろうか。こういうときの自分にとらわれないようにしよう。今日は朝の授業が別のキャンパスであって、初めていくところなのでどの電車にのるかわからなくて焦った。それが12時に終わって、マックでお昼を食べてから1時からのセミナーという研究発表会に向かった。先生が来ないので電話すると、忘れていたということで中止。ばんざい。今日から実験をすることになってしまった。また生活スタイル変えると思うと憂鬱アンド結構うんざり。生活スタイルを1カ月に一度ずつ変えて、今回で3度めになる。ぜいたく言ってるかなぁ。今日はとりあえず寝て、あまり深く考えないようにしよう。おやすみ。
2009年06月04日
今ここをいきなければだめなのだ。愚痴ばかり言っている。批難してもなにも変わらない。現実を直視しなければだめだ。現実から一歩でも離れてはだめだ。いまここをいきなければだめだ。それが地に足のついた生活であって妄想でもっさもっさしてばかりだ。人は自由にならなければいけない。そうして自分が行動しなければならない。
2009年04月10日

上手にとれた!公園で。
2009年04月02日
あなたの心が春の雨の降る音よりもずっとずっと静かで落ち着いているとき、その心のままで滴にぬれる新緑の葉や木の幹や車やバイクを見てみればいい。雨の降る音があなたを自由にする。日常の悩みがあなたの心をよぎるだろう。あなたの横を車が過ぎ去るだろう。人が過ぎ去るだろう。そしてまた日常の悩みもあなたの心を過ぎ去っていくだろう。あなたが気づくすべての物事が心にふと現われて、知らぬまに過ぎ去っていく。雨の降る音が絶え間なく聞こえていて、あなたの心はそれよりもずっと静かであればいい。これが究極の自由である。世界のなかにあなたがいるのではなくて、あなたのなかに世界があるからである。水面に映る空のように感情、考えがあなたの心に映る。あなたの心のなかにそれらが現れては消える。自明なことである。車や人や風景もまた同じようにあなたの前に現れては消える。すべてのものがあなたの心に現れては消えるが、あなたのこころは静かなままであることができる。すべてにとらわれていないからあなたは自由であることができる。すべてが生起する場としてのあなたを考えることはできないだろうか。特に意識しなければ、普段は考えや感情に自己同一化しているかもしれない。しかし、たとえば怒りが心に生まれたとき、怒りがあるな、と捉われることがないなら、あなたは怒っているのではない。怒りがあなたに生気しているのである。他の例でも同じである。「自分の心に○○が起こっているな」、とすべてを見つめることができればあなたは自由なのである。内面だけではない。車が、人が、あなたという場のなかに現れては消えていく。場としてのあなたは見える彼方の世界まで広がっている。だから観想するあなたは個別的な存在ではない。現前するすべてはあなたのなかに起こり、あなたとは現前するすべての場としての存在である。決して個別的な存在ではない。だから究極な自由なのである。
2009年04月01日
縁起的な自己であるということは、自己と世界になんの隔たりもないということである。誇るべき自己などいるだろうか。能力を誇り、健康を誇り、持ち物を誇る。自己を非-自己と比べて誇る。ある日突然あなたを不幸が襲うだろう病気が見つかる、親類が死ぬなど。「なぜ人生とはこうなのか」とあなたは問うだろう。そこに誇るべき自己はいない。あなたが見つけるのはみじめな自己であろう。自己と世界を分離して考える愚かさよ。自分を誇り、自分をみじめに思い、その思いにとらわれて、不幸なあり方をしている者よ。苦しみなさい。100%苦しみなさい。しかしそのあとで決して君は願って生まれたものではないこと、あなたがあなたであるのはあなた自身によるものではないことを知れ、自己の土台の不確かさを知れ、自己と世界が分離していないことを知れ、そして縁起的な存在である自己を改めて見ればいい。現前するすべてが自己である。今ここ、ここにあるすべて、それが一切合財自己というあり方を作っている。そしてすべてが起こる場としての自己、その開け、空が色即是空であるという真実。すべてのそれとはそれでしかなかった。この視点においてすべてをよしとしよう。一方また、すべては幸福ではなくてはならない。あぁ、すべてが幸せでありますように。
2009年03月30日
ななへ一言メルフォにメッセージ送っておきました。
2009年03月29日
君達が幸せを感じているいまここにおいて、僕は脇役になろうとおもう。例え非常識でも。まぁしかし電車のなかでは顔を寄せ合うものじゃない。帰るのは12時過ぎか、、日中も眠かったし早く寝たいもんだ。休めれば頑張れるとは誰の名言か。おやすみなさい
2009年03月25日
世界は君のためにある。君の世界の起こるその「場」がすばらしい。それは尊いものだ。この明るい春の日の太陽も、頬にあたるその風も君の場のなかに起こっている。君の世界が起こるその「場」、空間がすばらしい。かけがえのないもので、絶対的に尊重されるもの。なぜならすべては君の場の中で起こるから、それ以上に大切なものはない。すべての尊いものもすべての醜いものも君の場のなかで起こり、君はそのことを知らない。君の世界がすべてであることを知らない。世界が君のためにあることを知らない。朝の強い光のなかに芽吹く新緑の葉の存在も、昨夜の雨の水滴がその光を美しく散乱させるということも。
2009年03月23日
自分にとってなにが一番大切かを考えて、それに従って行動するべきだ。自分にとってなにが一番大切かを考えて、それに限りあるお金を使うべきだ。自分にとってなにが一番大切かを考えて、人生をそれに捧げることが大切だ。自分にとってなにが大切か分らなければ、欲に引かれた人生以外の何物でもない。自分にとってなにが大切か分らなければ、必ず後悔する。なによりもまず、欲に引かれた人生を自覚しなくてはいけない。あちらに欲に引かれた自分、こちらに願に引かれた自分がいて、ひっぱいあいをしていなくてはいけない。欲に引かれていることに気づかずに送る人生とはなんだろうか。毎日を有意義に過ごすとは全力がいるものなのだ。充実した毎日は引っ張りあいだ。自分にとってなにが一番大切かを考えて、そのために生きる。これが大切だ。
2009年02月18日
(注) 幸福の科学、アーレフ、崇宗真光などの新興宗教、あるいはそのような組織にはまったく関係がありません。 本来仏教はすべての実体を認めないはずである。にもかかわらず地獄、天国、輪廻に始まり、仏性などの概念は事実上形而上学的思考の延長にとらえられている。この矛盾を解消するためにこれを書く。 キリスト教や神道と比べて、仏教に関しては誤解が多いように思える。仏教とはなにかと言われて、説明はおろか、イメージを描ける人も少ないのではないか。一方で、浄土真宗の教えは?あるいは曹洞宗の教えは?と宗派ごとに聞かれれば、説明できる人もいる。しかし他の宗派とのつながりはどうなっているのか、釈迦との関連はどうなっているのかと言うと、やはりよくわからないのではないか。あるいは鼻から馬鹿にしている人もいる。天国、地獄、生まれ変わりの概念などは存在しないと。しかしこれは無理もないことで、 たとえば浄土真宗と言えば 「善人が極楽へ行けるなら、悪人が行けないはずがない」 「阿弥陀仏に救われているということに気づきさえすれば、すでに仏である」 という言葉がある。やはりこれは迷信のような、思いこみにすぎないように見える。 また、こないだからZENという道元の映画が上映されているが、この映画では、「春は花 夏ほととぎず 秋は月 冬雪さえて すずしかりける」という歌をありのままでよいという教えの象徴的なメッセージとして捉えている。しかしこの教えはあまりにも頼りない。ありのままでいいはずがない、この病気を、この状況をどうにかしてくれ、とでも反論したくなる。すると僧侶からはこう返ってきそうだ。 「すべてのものには仏性がある。だから人はありのままで仏なのだ。あなたの苦しみはよくわかる、その苦しみは苦しみのままでいいのだ。君はすでに救われている。それに気付きなさい」。馬鹿にすんな。救われてこの状況か。というのが普通の意見だろう。 あるいは仏教=煩悩の消滅という連想も思い浮かぶ。すべては移ろいゆくのだから、煩悩を滅却して、涅槃に入りなさい。その手段として厳しい修行があり、性欲や食欲を抑圧する先に、涅槃というやすらぎがある。そもそも諸法無我、自分は存在しないのだ。煩悩に振り回されていてはいけない。 このように仏教に関する理解というのはいろいろあるけれど、すべてに共通しているのは、教えを押し売りするようなイメージではないか。本当はみな救われている、自分など存在しない、ありのままでよい、こういう頭ごなしの押し付けけが仏教理解の根本にないだろうか。話は脱線するが大半の人の宗教理解というのはそうである。キリスト教にしても仏教にしても、教えを無条件に信じることが宗教のすべてであると思っている。オウム真理教などの新興宗教と伝統宗教の区別がつかないのもこの辺の理由が一つにあるのかもしれない。 仏教とは釈迦が生きることの苦しみを見つめた軌跡である。ただしそれを言えば、哲学も他の宗教も同じである。そもそも人生は苦しい。親類が死ぬ、家族が死ぬ、病気になる、仕事で認められない、いじめられるといったときに、なんで自分がこんな目にあわないといけないのかと思う。今この状況に陥っている因果はなにか、なんで自分がこんなふうに生きなくてはいけないのか。大体願って生まれたわけでもないのに、こんな苦しみを受けるのは理不尽ではないか、なぜ自分は生きているのか、なんで死ななければいけないのか、自分が存在しているのはどういうことか、人生の意味はなにか、ほとんどの人はこういう苦しみを考える。(この苦しみは旧約聖書のヨブ記が語りつくしているかも)そしてその解決方法にはさまざまなものがあるが、仏教はその一つである。(話の筋として1から4はとばしてもらってもいいですよ) 1、 一つにはキリスト教のような神を信じること。これによって苦しみには意味が与えられるようになる。つまり、キリスト教で説明すれば、原罪という概念によって人生の苦しみを肯定できるようになる。そう すればその上でどのように生きるか?と積極的になれる。 2、 二つ目は、一つめと似ているようであるが、オウム真理教などの新興宗教である。一つ目の例では、原罪を肯定したうえで個人がどう生きるかということが問われるのであった。しかし二つ目では、自分の存在のすべてを何かに投げ出すのである。つまり個人がいるか、いないかというところに違いがある。ただし、伝統宗教も信じ方によって二つ目になるから見極めは難しいと思う。 3、 三つ目に人生は苦しいという気持ちを感じないようにすること。そのうえでどう生きがいを持って生きるかを考えるのである。現代社会はこの例である。一つめと比べて苦しみの解決方法は違うが、その解決のあとにどう積極的に生きるかと問うところで似ているといえるかもしれない。ただし苦しいという気持ちを感じないようにすることに終始する人もいる。このような人が4番目の人である。 4、 四つ目は苦しいという気持ちを見ないようにすることである。3と4の間で生きている人も多い。 5、 五つ目は苦しみそのものに向き合うことである。哲学と精神医学の一部、釈迦の生き方はこの類に入る。 仏教は釈迦が苦しみを見つめた軌跡である。ところで釈迦が説いたことは三法印という諸行無常、諸法非我、涅槃寂静という三つの教えであるが、詳しいことは後で話すにしても、この三つの教えの文末に注目していただきたい。 諸行無常 あらゆるものは変化してやまない 諸法無我 いかなる存在も不変の本質を有しない 涅槃寂静 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである(広済寺HP) だからどうしろとは言っていないのである。一般の仏教理解としては「○○という真実がある。だからこれを信じなさい」の「信じなさい」部分が強調されている。しかし釈迦はそもそも「○○しなさい」とは言っていない。ということは、仏教が頭ごなしの教えだと理解されているならば、釈迦にしてみればとんだ濡れ衣であろう。そもそも釈迦の教えは世界じゅうのほかの教えを許容することでしか成り立たず、釈迦の教えを唯一の真実とすると教えそのものが破たんしてしまう(論理的に、下記の注釈1参照)。あくまで仏教の理解とは個人の納得の上になりたつものである。また、教えに納得している者にとってあくまでそれは真実であるが、同時にそれが真実であると納得するということは、それが真実であると断定できなくなるということがわかる(釈迦の教えを言葉で真実を言い表すことはできないということ、これも論理的に考えてみればわかる、注釈2参照)。ここにおいて釈迦の教えは実践することなしには体得できない。そして実践とは個人的であるから、仏教とは個人を超えた形而上学的な思考は語らないのである。また以上のことから考えるに、仏教の説明は説明する相手によって少なくとも三種類の方便が使われなければならない。 1、 仏教を必要としないひとへ(宗教を疎んじる世間のほとんどの人など): 2、 仏教を勉強したいひとへ(学問として知りたいひと): 3、 仏教が必要なひとへ: 1、 必要としないひとには、いままで語ったことで十分である。つまり釈迦の教えに照らし合わせれば、仏教は危険な宗教ではなく、あくまで個人の内面についての教えであるということ、さらにそれは論理的に多元主義にならざるを得ないことが分かってもらえればよい。 2、 勉強したいひとにはいままで語ったことに加えて釈迦の人生、無明や縁起の概念、歴史、などをわかってもらえればよい。 3、 必要なひとには、さらにその上で実践を勧めることになるだろう。しかしこの場合も、従わなければ地獄に落ちるというような強制はない。 これから釈迦の説いた概念について説明していくが、しかし一人ひとりに説明することはできないので、個人の目的によって適当に理解していただけたらよい。あくまで個人が納得できないことを押しつけるものではない。ただし、真実のひとつではある。 ところで補足であるが、地獄や輪廻の概念はもともとは仏教のものではなく、釈迦の時代にすでにインドに広がっていた考えである。釈迦はこれを利用しながら自分の思想を伝えたのである。 注釈1 釈迦は縁起、諸法非我を説いている。目の前にあるものはそれ自体で存在するのではなくて(諸法非我)、他との関係のなかであるということである(縁起)。したがって自身の教えもまた唯一の真実としては捉える事ができない。その教えは実践と理解と仲間との修行によって真実とされるものである。 注釈2 縁起によってすべてが成り立つという教えに納得した途端に、縁起が世界の真実だと断定できなくなる。もしそうしたら、縁起を世界の本質、実体としてとらえていることになってしまう。 [to be continued]
2009年02月13日
魔法瓶を愛用している。500ml入る。でかけるときはこれにチャイやレモン汁をお湯に溶かしたものをあつあつにして持っていく。徒歩で駅まで。40分くらい。途中で紅茶を飲み、飲み、駅へ着いたら本屋で立ち読みをして帰る。ここ最近、午後はこのように過ごして、午前中は勉強なり読書をしている。また、昨日は午前中はバリカンを買いにいった。午後は自分で髪を切った。何事も自分からやるというのが気持ちいい。
2009年02月11日
玄米を買ってきた。おいしかった。栄養あるし、噛むからすぐお腹いっぱいになるし、とてもいい。白米は高GIっていって、血糖値がすぐあがるから食後の気分の変調が激しいけど、玄米は違うしね。ときどきは玄米もいいね。
2009年02月08日
学校やら宿題やらで忙しくしてるけど、そういう予定のない休日なんてなにもやることないね。かといって仕事がないときになにをするかすることがあるわけでもないですよ。そもそも仕事やら人間関係からを取り除いたら、自分なんていなくなる。周りとの縁起のなかにいるんだから、それをなくして自分なんてのはいないね。だからなんにもやることのない日はざぜんしかやることないですよ。寝る前の夢心地が続いて、自分が周りに溶け出す感覚になって、落ち着いて、まぁ休める。
2009年01月24日
考えてみれば最近まったく外出していなかった。体調がこの二三日悪かったのは、そのせいだったかもしれない。3時頃に近くの本屋に自転車でいったら体が軽くなった。昨日なんてぜんぜん勉強できなかったからね。今朝もできなかった。かといってしないわけにはいかないからずっと机に向かっていたわけだけど、すすまない。この二日なにやったかって、虚しいものですよ。机にはかなり長く向かっていたんだけど、本屋から帰っての一時間のほうがよっぽどやれたかもしれない。まぁしかし寒いですな。明日は15度になるとか。朝起きやすいから暖かいのはうれしいです。
2009年01月22日
テスト前なので今日は午後の授業がなかったのだけど、そのあと先生に質問をしにいったら午後三時からならいいと言われたので、三時間まってから質問をして帰ってきた。引っ張りだこの先生の時間をとってもらってありがたいですね。いつもいつも電話かかってきてるし。病院のお医者さんと似た感じかな。先生のところに出向くのは敷居たかいですね。一度でも質問しにいったら確実に名前と顔覚えられるし。まぁしかし、その辺を考えすぎるとなにもできないから、ズウズウしくなろうという心のスローガンのもと、最近は自分を奮い立たせていくようにしてる。分らないところがわかるって言うのは気持ちいいことだね。精神衛生上非常に良い。
2009年01月19日

2009年01月18日
スポーツジムってありますね?最近は若い女の人が行くそうですね。以前調べたら、たいていヨガのコースっていうのがあります。まぁ、身体がきれいになりそうだし、ちょっと違う自分を演出するのによさそうなイメージがあります。結跏趺坐を組んで左右の手を、手の平を上に膝にのせ、深呼吸→α波と。 禅のお寺でもそういうのはありますけど、少し宗教じみていてとっつきにくいかもしれないですね。こないだ本屋の宗教コーナーにいたら、6歳くらいの女の子が来て、その後ろを母親があわてて追いかけてきました。「こんなところにきちゃだめ!早く行くよ、ほら!!」。その点ヨガは宗教じみていないので、スポーツジムでも取り入れられやすいのかもしれないです。 ヨガにしろ、座禅にしろ、脳波には何かしらの特異な変化は現れるらしいですが、それを宗教のコンテクストに位置づける必要はなく、瞑想は運動や読書と同じようにひとつの体験としてもありかなと僕は思いますね。 実際に朝にそのたぐいのことをすると、その落ち着きが一日続いたりして、した日はのんびり過ごせるような気がします。それをしている最中も、明晰なまま寝付く直前の心地よさが味わえたりするんですね。 ただそのような体験が「特別」な「真実」の体験、というように解釈されるのは厄介な問題で、こちらにつまらない現実、あちらに本当の自分がいかせる特別な境地、という二元思考はオウム真理教でも使われたわけです。苦行の果てに解脱して、すべての苦しみを超越するべきだ、そうなることが本当の幸せだ。こういう前提があったゆえに、それを知らない人は生まれ変わらせて、そこへ導いてあげるのが本人のためだ→ポアさせてあげよう、という話に展開した。サリン事件はそれとはまた違う話であるけれど、現実から逃げるための考えというのは、自分を投げ出してしまうという点で流される危険がありますね。 瞑想をそのようなコンテクストに位置づけるというのは、瞑想を始めるなかでかなりの人がはまるであろうし、その点において座禅する人間は警戒するべきですね。だから僕も人には言わないですよ。 しかし難しいのはそのような体験はなにかしらのコンテクストに位置づけざるを得ないということかもしれないですね。なにかしらの体験をしたとき、自分の今までの人生に照らし合わせてその体験を解釈するわけだけれど、瞑想もその例外ではないでしょう。しかしそれが今までにない特殊な体験であれば、自分の解釈ではとらえきれない。だからそれを解釈する枠組みを外部から導入しなければならない。正しい解釈が与えられればいいけれど、危ない解釈を与えられることもある。そこの判断が非常に難しいわけですね。触らぬ神にたたりなしというように、瞑想の類には近づかない方が無難かもしれません。 瞑想が自分の生き方の延長に自然にできるようになればいいんですけどね。そうすれば、音楽やスポーツを究めた人が生きがいをもって生きるのと 同じ ように、学問を究めた人が落ち着きをもっていきるのと 同じ ように、焦りなく静かに生きられると思いますよ。
2009年01月18日
おじいちゃんがなくなる直前に入院していたとき、お見舞いにいったことがある。アツアツのコーヒーが常々飲みたかったそうだけど、下の階の買って病室に持ってくる頃には冷めていて、でも本人は下の階までいけないから、どうにもならなかったらしい。その話を聞いておれは買ってきたコーヒーを病室の横の食堂にあった電子レンジで再度温めて渡したことがある。そしたら恥ずかしいくらいに喜んでくれて、俺が帰ったあとも、おばあちゃんが同じように温めて持ってくるたびにしみじみ喜んでくれていたとか。人を喜ばすのに大した労力はいらないんじゃないかねぇ。今朝は外が明るかった。雪がふるっていうことだった昨日はどんよりして低い雲が一面に広がっていたけど、今日は白い雲の合間から日が揺れるように差すような気持ちいい朝だった。10時に起きてしたの階に行って、新聞を読みながらご飯をたべた。そのあとはいい天気のなかのんびり勉強ですか。いまはひと段落してコーヒーを入れてたまたま横にあったCoccoベスト2を聞いている。そしたらじいちゃんのことを思い出した。
2009年01月10日
ショックだったけど、知り合いが機械競技で頸椎をけがしたらしい。個人的な付き合いはないけどけがの前日の元気な姿も見てたしショック。お見舞いにも自分との関係を考えるといけないけど、リハビリ次第では来年に復帰できるかどうかとか。前日まで元気だった人が、一瞬で変わってしまうのがこんなにショックだったとは。縁起でもないけど、この感触はきっと誰かが死んだ時にはもっと鮮明になるのかもしれない。将来のことは本当にわからない。自分が嘆く現状があっても、そのずっと下にいたかもしれない可能性を考えると、幸せとは言えないかもしれないけれど、その現状をつつましく生きるしかないかもしれない。なんていうことか。試練だろうな。
2009年01月08日
僕は、変わらなければつまらない人間だと思います。
2009年01月07日
携帯から投稿できるようにした。ロッカーの鍵をなくしたからこれから作りにいかなくては。実験はパートナーにだいぶ任せてしまった。結局俺が最初に別の試薬使って反応しなかったけど。。電車が着くのででは。
2009年01月06日
基本的な考えとしては絶対多数の最大幸福と同じです。幸せとふ幸せを決める要素がいくつもありますね。それに点数をつけて、合計点が一番高くなる選択肢をするのが最大の選択ということです。 職あり 職なし経済的な状況 +4点 -5点心理的負担 -10点 0点将来の安定 +4点 -5点計 -2点 -10点 などいろんな要素について点数をつけて一番良くなるような選択をする。こういう考えが一番冷静で的確な判断になると思ってる。上の場合なら当然職ありの選択の方がいい。しかし心理的不安が職ありとなしで-30と0なら、当然合計の点数も職なしのほうが高くなる。また上の例に別の要素がどんどん加わってくれば、職なしのほうがいい選択ということもある。・要素の数を増やす。(状況把握をちゃんとする。)・要素をうまく分類する(状況分析をする。)・点数を正直につけるこれが重要だ。
2009年01月05日
こう、少しずつ名古屋を離れ、少しずつ東京に近付いていくのが。。距離が少しずつ離れていって、時間も同じように過ぎて行ったんだなーと思った。バスも時間も自分にはどうかできることじゃないしね。君と別れて今旅立つ 東京 空港の人波に疲れて ふと立ち止まり めまぐるしく変わる 標示板を見つめてる みんな独り 君が生まれて育った町 東京 もうそれだけで好きな町だった 川の流れも 歩道橋から見た 車の流れも 人の流れも 時の流れも 東京 東京 孤独で 切なくて 虚しくて 冷たいくせに優しくて弱い 思えばみな僕の 心が町に写っていただけ 舞い上がるジェットの爆音が 君と君の町にさよなら もしもまた会えたら笑ってほしい 君や君の町のやり方でいいから 東京 東京 ゆるやかに傾く小さな窓から 拡がる街の灯がきらめいて そのひとつひとつに 愛と哀しみが暮らしてる 東京 東京 摩天楼に咲く光の海が いつしか銀河にながれこんでゆくよ とても愛していた 僕にはいい町だったさだまさしの曲をリピートさせてね。高速のうえからホテルがみえて。6月に来たときもみたこと思い出す。芋づる式に、過ぎちゃった時間が頭の中に出てくる出てくる。なににも増して辛いのは理解されないことだと思うね。40,50歳の一人身がさみしいのは、人生を共有できる人のいないさみしさじゃないかと思ったりする。それも人生そのものと言えるようなことを共有できる人がいないとだめで。若い時の勢いがなくなったとき、自分を支えるのは思いでを共有できる相手であり関係かな。バスのなかで思い出した記憶は共有されようがないね。人の思い出は作り話と同じ厚みしかないから。自分の人生を語っても他人には作り話と同じ厚みだから、共有されない。この場合にはななを除いて。思い出とは歴史で歴史は自分さ。他人に共有されない歴史は悲しいし、その裏返しで一人でも共有できる人がいることがうれしい。この場合にはななと自分の歴史であり、歴史を積み重ねれば絆が固くなる。そこにあるのは二人の思いで、二人の人生。
2009年01月05日
お正月の日の出と他の日の日の出となにが違うんだ。元旦が他の日にはとって代えられない「お正月の本質」を内包しているものであれば、お正月の日の出は他の日の日の出とは違うかもしれない。しかしお正月はお正月の本質ゆえにお正月なのではなく、お正月を祝う文化のなかで、個人がそれを一年という概念のスタートとして決めているからお正月なのだ。中国の正月は別の日にある。お正月をお正月として過ごさなければ、それはお正月ではない。だからお正月はその準備のために大掃除をして迎え、その日が来たらお屠蘇を飲み、雑煮を食べるものでなければお正月ではない。一年の始まりを元旦として、一年を計を建て、お正月をお正月とする。形がなければお正月ではない。お正月に限らず他の行事ももちろん同じである。そのような形をなくしていけば、行事もなくなると同時に自分もなくなってしまう。
2009年01月01日
今日は朝3時半に起きてしまって眠れなかったので、起きだして、まずリビングでチャイをいれてから、自分の部屋で正法眼蔵と学校のテスト勉強をして、6時過ぎに朝明けを見に行った。そのあとは朝食を新聞をじっくり読みながら食べた。そののち一、二時間ほどだらだらしてから、年末の街の様子を高幡不動尊という電車で10分くらいのところのお寺に行った。今夜のお祭り騒ぎのための屋台の準備をしてた。寒かった。帰ったら12時半ごろで昼食はインスタントラーメンと、食パンにクリスマスの余った生クリームをつけて食べた。ばあちゃんとしばらく話、部屋にもどってからベッドに寝転がっているうちに寝てしまった。起きたのが4時。妹とチェスをやったあと、夜に食べるそばに入れる天ぷらを買いにいったら、高くて馬鹿らしいからやめた。山菜のパックを買って帰宅。チェスをもう一試合をやって、晩御飯。紅白を見ているうちに父親が起こりだしはてな・・・?。部屋に戻って、テスト勉強を再開。紫外線カットの化粧品に入ってる酸化チタンがなぜ紫外線を吸収するかわかった。いまひと段落したから家族の機嫌を伺いに行きますか。
2008年12月31日
毎日毎日金使ってどこか行ってもむなしいですよ。どこ行ったって何が変わるわけじゃない。帰ってきたら中途半端な思いでだけ残ってむなしいですよ。なにもしないと時間を無駄にしているような気がするけど、外出して忙しくするのは無駄ではないのか。何もしないのが無駄に思えるから何かしようとしてごまかすのなんて、錯覚に振り回されているだけで、無駄そのものだ。なにをしたかが重要じゃない。どのようにするかが重要なんだ。欲に振り回されて生きるなら、それは欲に振り回された人生以外のなにものでもない。偉くなりたくて努力して尊敬されるようになっても同じ。欲に振り回される人生。欲に振り回された自分。欲に従う存在、その在り方がその人そのものだ。それ以上の何物でもない。自分というものを風にたとえてみればいい。風がどのように吹くかと考える、同じように、自分がどのように生きるかと考える。しかし風が吹くということはなくて、吹くものが風じゃないか。風というのは、常に吹くものじゃないか。止まっているものを風とは呼ばない。吹いているものが風だ。同じように自分がXする、ということはなくて、Xするのが自分である。だから欲に従っていれば、その在り方が自分になる。だから、間違いなくどのように物事をこなすかが重要なんだ。もっとわかりやすく言えば、「在り方」そのものが重要なんだ。その在り方こそが自分であり、それ以上でもそれ以下もない。
2008年12月29日
胃薬を飲んだけどまだ胃が重い。食べ過ぎでもないと思うけど、まぁ今度から食事の量を減らそう。そうでないと食後をなにもせずに過ごすことになってしまう。満腹だと怠け者になるし、自分勝手になるし。食べるだけ食べて、気持ち悪いと言って寝転がって、迷惑かけてるようじゃ自分勝手も度が過ぎる。あるべき姿じゃないね。あー、明日あたり大掃除をしよう。早いこと済ませよう。もっと律された生活を送りたい。。
2008年12月26日
テスト勉強したくないナー。外は晴れてるし、ちょっと駅前へぶらぶら、と。。……ぶらぶらしてばっかりじゃないか。こう、自分というものを顧みると、逃避ということが非常に多い。なんとなく外に行かないといけない気がして、朝から一生懸命頭ひねって、山に行ったり、電車乗ってみたり、喫茶店に行ってみたり。夜になると、今日も過ぎてしまったか、と思う。逃避が永遠に続けばいいと思ってんだろうか。この逃避というものには多大な時間と労力を費やしてしまっている。向き合わないといかん。
2008年12月25日
「なぜこんなに生きにくいのか」という本のなかで、なるほどと思ったことが書いてあった。生きにくい世の中だと。世界にひとつだけの花という曲があったけど、オンリーワンを求められるほどつらいことはないと。ナンバーワンなら一番、二番、三番のなかの1番ということでわかりやすい。安心する。でもオンリーワンとはなんだ。しかもそれは「花」でなくてはいけない。世界にひとつだけの石ではいけない。お店に並べられた花であり、人の目にさらされたきれいな花のなかで、他と区別して「ひとつだけの花」ということが初めて言える。それは具体的にどういうことかというと、社会的に役に立つ人間とみなされたオンリーワンでなくてはいけないというメッセージにもなり得ると。他人から認められたいという欲求は誰にもあるけれど、そのためにはきれいな花、すなわち役に立つ人間でなくてはならず、お店に陳列された花、すなわち他人から評価され続けなくてなくてはならない。それが前提になくてはいけない。少なくとも「それを咲かせる種」は持っていなくてはいけないという。そのうえで他人と区別されてオンリーワンとして認められ、ひとつだけに花になり、自分のアイデンティティを得ることのできる。確かにそれは大変なことだと思ってしまった。みんながそういう価値観を持っている中で、苦労しているからこそこの曲が流行ったのかもしれない、と書いてあった。確かにこの価値観はみんな感じているだろうし、そのためにストレスも感じてる。そのストレスを満たしてくれるような曲が流行る時代なのだな、なるほどな、と思った。
2008年12月24日
最近はあさがつらいですね。寒さのせいもある。寝るのが遅いということもある。朝に急ぐと一日中いそいそとすごしてしまうからよくない。朝は早めに起きて、チャイでもゆっくり入れて、読書でもしてからゆっくり出かけるのがいい。今日は起きるのが遅かったね。8時20分だった。それから「だんだん」を見て、9時から出かける準備をして9時25分にでた。まぁ学校は遅いからこれで間に合うわけだけど、気持ちとしては授業の15分まえにはつきたいから、9時15分には家を出たいものです。実験があると帰りはやはり9時ころになってしまうけど、朝ゆっくりできれば9時なのもまったく苦痛じゃない。忙中暇あり、でありたいですね。そのためにはやはり早寝早起きか。
2008年12月18日
心は超自我(自分の価値観)、イド、周囲の物理的世界、社会的価値観、身体的状況、周囲の人間関係など認知したものすべてを考慮して最適な行動をとっていく。これをとりあえず主体と呼ぶことにする。ところで主体は精神的に抑圧されたものを考慮できない。知らないことについても考慮できない。つまり認知をしている主体が自分ではない。主体とは自分の一部でしかない。主体とは全体の一部でしかない。その主体によって世界から断絶されている生き方こそが無明である。そしてその生き方とは具体的に、「あーこれが起こっているな」と考えていない生き方である。そうでない限り主体が自分のアイデンティティである。「あーこれが起こっているな」と考えれば主体から離れ、無明ではなくなる。なぜそう思うことが鍵なのかについて説明する。まず重要なのは、主体は与えられたものを与えている行為そのものだということである。周囲にある価値観を映し出し反射する鏡ように、主体は周囲を認知して整理したのちその外部の価値観を自分のものとして与えている。その繰り返しの働きが主体である。ここにおいて与えられた主体が成立し、自発的な存在としての主体がいなくなる。一方で観察者としての自己を導入することで、主体から離れたところに軸足をおくことができる。そもそも主体とは自分の一部でしかないのに、それがすべてを統治できると考えるところに無理ができ、自己と世界が断絶するわけだから、主体から離れたところに軸足を置いて、主体は自己の一部であると観想したところに無明でない(主体によって断絶されていない)自己が現れるということだ。
2008年12月11日
喧嘩になる原因は、大概自分の心のなかのわだかまりにある。そう思って、彼女のメールに返信するには時間をおかなくてはいけないと思った。そうでないと自分のいらいらを投影してしまうからね。とりあえず一日時間をおいてメールの返信だけすませた。でもメールではなく電話で話すにはまだ時間がかかりそうだと思った。それは自分のいらだちの問題であって、彼女への嫌がらせというわけでもなく。しかしメールの返信を見る限り、どう思われるかはわからないものだと思った。ところで人それぞれがそれぞれの状況のなかで努力しているわけであるから、大概誰もが自分をそう悪い人間だとは思わない。数学のテストをやれば60点のひとも80点の人もいるけど、それぞれが精いっぱい努力していれば、とった点数がそれぞれの100点になるのと同じように、努力していれば自分の行動は自分の100点であるわけだ。そういうわけで喧嘩の弁解というのは、大概自分は正しいという言い訳になりやすい。いまの自分もそうであるわけだ。共通して思うのは頭に血が昇っているのはよくないなということです。しかし頭を冷やすには時間がかかるんですね。(以下4行目の後半に戻り、無限ループ)
2008年12月10日
努力して得たものでもないのに自慢する、おかしいと思いますね。もっと太刀悪いのは、それを盾にして他人を非難することだと思う。本当に自分を大切にする人は他人を非難しないさ。非難する人々は不幸としかいいようがない。ところで世の中の真実っていうのは矛盾をしている。自分の存在についてもそうだ。自分という存在は与えられる一方で、作っていくものだ。以下昨日の日記から。「自己は与えられるものである。与えられるものというのをより正確にいえば、思い通りにできないということである。自分にはどうしようもないものはたくさんある。感情や身体の健康などもそうだ。また望み通りのものが手に入ったとしてもはかなく消え去っていく。そのようなものが自分を構成しているからこそ、自己は与えられるものである。自己は自ら作るものである。自分の価値観は自分で作っていかなければいけないし、盗人になるかならないかは自分で決めることだ。いまここをどう生きるか。それは自分にかかっている。一超直入如来地でもあり、一超直入盗人地でもある。いまここをどう生きるか、自己をどう作っていくか。それはすべて自己にかかっている。」 この矛盾が心地に印すればいいんだけども。ただただ自分を生きればいい。自分が自分を生きる。これについて言える価値判断なんてない。先にいった、努力して手に入れたわけではないものを盾に批判する人というのは、結局本当に自分を大切にしていないのだ。それは不幸なのだ。 あるいは病人や老人を嫌悪するというのも同じだ。自分だって年をとれば病気になる。ならば自分が彼らを非難する立場にあるかと言えば、当然ない。それぞれが与えられた状況を生きていることについて言うことがあるか。そこにいかなる価値判断もあってはならないと思う。自分に与えられたものと自分の本質を同一化している人間は本当には生きていないのだ。自分はなにもしてこなかったと死ぬ時になって思う。酔生夢死の人生だ。それは、自己が生きていなかった人生だ。自分が生きる以外に、自分を生きる人はいないのだ。
2008年12月04日
今日から日記をかくことにした。自分がなにしてたか振り返る機会があるのはいいことだろうと思って。毎日書けば、一日一回は何をしたか思い返せる。そしたらけじめがついて、翌日の気力がまた出るのではないかと思う。あと食事の内容くらいは毎日メモしたいと思う。こないだ今年の四月にリビングでとった写真があった。坊主にしたとき、冗談でサングラスをかけてとった写真。よく見るとテーブルにビーフシチューがあった。「それをみたら、あーこのときの自分はこれを食べたのか、」と。自分は毎日三回あるいは4回こうやって食べてきたからいまいる、4月から今日まで230日くらいだから、、、700回俺は食事をとったわけで、それでいまいるわけだ。というかいまの自分はその700回を含めて今まで食べたものそのものであるわけだ。おれ=たべもの、観念の問題じゃなくて本当にそう。いやいやこれってすごいことだ。自分の周りにある人間関係があるというのは、前提としてみんな一日3回の食事をとっているからあるわけだ。というわけで日記をかくことにした。それでさっそく22日からの日記をまとめて書いた。おやすみなさい。
2008年11月25日
「未来永劫破壊の義なし」戒律について言われることであるが、戒律とはべからず則ではない。戒律とは自分が自分であるということなのだ。戒律そのものが自分と同じである。言ってみれば自分という立派な箱を先に作る。それが戒律である。箱が空っぽじゃ話にならないから、一生懸命でモノを詰める。それは安心を詰めるのだ。自分が自分であるための実感がなくてはなんの意味もない。立派だが空っぽの箱だ。中身が詰まっていようがいまいが外見は変わらない。しかし本人にしてみれば大違いであるし、その箱を持ってみれば、他の人にもわかることだ。実感がつまってこそ本ものであるわけだ。実感がなくてはなんにもならない。自己を作るとは達成するためにあるのではない。達成しておしまいというものではない。他の感情の例にもれず、実感は過ぎ去るものなのだ。一度中身を詰めたから、その型を石膏でとって、「どうです立派でしょう」ということにはならない。戒律が空虚であってはいけない。なくなっていく中身を常に補填し続けなくてはいけない。それが自己を作るということである。今ここを生きるということである。
2008年11月21日
彼には彼の価値観があり、自分には自分の価値観がある。誰が偉くて誰が偉くないということはない。各々が自分の中に他人と比較できない世界を持っている。しかし一方で、人間なら同じような体を持っていて、同じような心を持っているわけであるから、そこに共通した偉い、偉くないといったことも確かにある。これを踏まえてどう生きたらよいかということを考えれば、その答えは「エジソンのようにならなければならない」「ガンジーやマザーテレサのようにならなければならない」というものではないだろう。あくまで自分の価値観の問題なのである。頭のよい人間は大学教授や会社のお偉いさんになる。大きな責任を背負わされる。音楽ができる人は音楽家になる。大変な時間を音楽に奪われる。他方身体の弱い人間は、病気と闘わなければいけないし、頭の悪い人間は劣等感と付き合わなくてはいけない。各々が状況に応じてやらなければいけないことがある。それをチャンとしてきた人にはそれなりの風格も備わる。しかもほとんどの人が、病気もするし、頭がよいとほめれることもあるし、劣等感に悩まされることもある。大概の人間は似たようなことで悩むわけである。人生に要求される宿題は似たようなものなのである。その似たような世界をチャンと生きたか生きてなかったかで、偉いえらくないという区別もできてくるだろう。だがやはりあくまで自分の問題なのである。「俺は生まれがよくないから駄目だ」と言っても始まらない。自分の世界の監督者は自分なのだから、プライドをもって自分の世界を創っていかなければならない。そうやって自分の世界を創るということが生活であるわけである。ではどうやってつくっていけばいいのかということであるが、まず考えるべきなのは、「自分はなにを知っているか」ということである。やらなければいけないことを知っていて、せずにいるのは怠けである。ごまかしである。学校の宿題があるとする。やらないといけないのは分かっているが、やりたくない。しかしやらなければならない。でもやりたくない…といつまでもやらないのは怠けなのである。やらなくてはいけないことを知っていたら、それをやるべきだ。そしてそれをやるのがいやなのであれば、なぜ嫌かということも考えるべきだ。自分が納得できるまで突き詰めて考えることが、自分の人生を生きるということである。
2008年11月20日
She is so-o-o-o cute . Totemo totemo.I became happy when I saw her pictures . kesa mo sakkimo.Totemo tookute kyousyuu nimo nite zibunnn wo Koete syuukyotueki de sura aru .mukashi mukashi ni kannzita ihu ga kawaisa wo hukunnde .,,kawaisa toha nanndaroukana.motto shitano shitano soreha shitano.shikashi boku ha yahari yoku mayou.
2008年11月16日
10月26日の補足をしました。軽く10月の方に目を通してから今日の補足を読んでいただけるとわかりやすい思います。 10月26日「無明というのは変わっていくはずの自己を唯一普遍のものと考えることですが、仏教の考えかたというよりも、よくある誤解をよくいい当てた言葉だと思います。実際の自分とは関係性のなかで規定されるもので、それはたとえば目の前に箱があったとして、それを私が机として使うか、踏み台として使うか、イスとしてつかうかで、箱がなんなのかということが変わるわけです。つまり箱と自分の関係のなかで初めて在り方が現れるわけです。同じように自分というものもまわりとの関係のなかで規定されるわけですが、そこを誤解して、周りと切り離された自分を想定することで、自分自身が分裂し、自己の存在がわからなくなり、「私とはだれか」という無駄な問いに落ち込んでいくことが多い。 自分とはだれかという問いと似ているものになぜ自分は存在しているのかという問いがあります。しかし自分とは気づいていた時には生まれてしまっていたわけで、言ってみれば他者の力によって受動的に生まれてしまった以上、そのなぜを知ることはできません。だからなぜ今自分は生きているのか、なぜ味覚や聴覚があるのか、なぜいまこのように感じているのか、などの問いに、絶対的な答えはなく、いってみればその問いはブラックボックスであり、それにどうこたえるかは、それぞれの解釈以外にはないわけです。答えとは個人の解釈であるわけです。 この解釈が答えになるというのは、私とはだれかという問いに対しても同じです。私とはだれかという問いの答えとは、それに応えていくなかに現前してくるものです。関係性のなかに現れる自己を生きることや、自分が自分を自分で自分していくなかに応えがあるわけです。とここまでは一般的な内容ですが、はたしてこれがわかったところで、なにかの足しになるのか、と思います。先のことをせんじ詰めれば、関係性のなかで自分を作っていくということで、だから自分の思い通りに生きていてはいけない、自分を造っていく戒律が必要だなどという考えになっていくわけですが、いま言っているのは、それがなんだということです。所詮つまらん考えだということです。うつ病の患者に医者が食事と睡眠の指南をするようなもので、確かに将来的に効果はありますが、一方で、いまこの瞬間に必要なものには、カウンセラーのように、いまのこの苦しみと向き合うことがあるのではないかということです。 ただ個人の解釈が現実である以上、いまある苦しみをなくす本当の真実はありません。いまある苦しみとは具体的に・否応なく自分の心がさみしさを感じる・人を怖いと感じる・なにをしてても違和感がある。・とにかく苦しいなど。これらの苦しみに対して、関係性のなかに現前する自分を生きること、戒律をもって自分を造っていくことという考えは、つまらん考えなのです。ですが解釈が世界である以上一般的なことしか言えないのが現実で、そこでまた以下の話は一般的な話になっていくわけです。 自分にはわかりえないものや、知りえないものや、どうしようもないものを、自分のことは自分でどうにかできるはずだという誤解があります。さみしさや苦しみなどはその一つです。どうしようもないものを自分でどうにかできるというところに誤解があり、無理があり、苦しみがあります。先に言った通り自分とは受動的に、「生まれてきてしまった存在」「いまこの感覚を持ってしまっている存在」です。自分がいまこうしてあること自体が不可解ことで、その意味で周囲はもちろん、自分の中の感覚すらもすべては未知で、意味もわからずに与えられたものです。 だからたとえば誰かが生きることが苦しくても、自分が思ってしまっていることに責任をもてないのです、できることはただそれを見つめることでしかなく、「自分は苦しいと思っているな、自分はそれに責任を感じて自殺したいと思っているな」と自分にわき起こる感情を、ただ見つめることしかできないはずです。深く掘り下げてわかるのは自己が受動的に生まれてきてしまった存在であるということで、本当の自分とは与えられた物事を見つめる視点であるということです。視点とはいまここに現前する世界を見つめる視点です。ある身体を与えられて、ある環境のなかで、わき起こされる感情を与えられながら人生を生きていく自分を見つめるものが視点です。 これが心地に印するとき、ふっと張りつめた糸が途切れるように、いまここのなかに溶けきっていく自分がいます。あなたは現前する今に溶けるわけです。これが心地に印するとき、ふっと張りつめた糸が途切れるように、いまここのなかに溶けきっていく自分がいます。あなたは溶けきって、そしてすべての悲しみは、時に流されていき、また新たな感情のなかで生きていくことになるわけです。」11月16日 ここ(10月のもの)で前提となっているのは自己は与えられたものであるということです。「いまこの環境のなかである感情をもって生きてしまっている存在」だということです。しかし一方で将来の自分を変えていくことはできるのです。だから自己は与えられたものという考えは、腑に落ちないかもしれません。またそもそも自己とはなにか?ということもよくわからないかもしれません。そこでこの二つのところの補足説明をすることにします。 まず自己とはなにかということですが、ここでいう自己とは今ここに現前すべてを指します。つまり自己=主体+器官+環境ということです。今ここの総体が自己であるという考えは一見奇妙に見えるかもしれませんが、自己が周囲との関係性なしに自己はまったく存在しないのです。 たとえばあなたが花を見るとします。自分がこちら側にいて、あちら側にある花を見ると普通は考えます。しかしここで、花を見ている自分を見ることのできる自己がいるかということを考えてください。ここが重要です。もしこちら側に自己がいて、あちら側に花があるとすれば、花を見ている自分を、さらに見ることのできる自分を発見できるはずです。それがあちら側にない「こちら側の自己」だからです。ここは重要なので、目の前のコップでも、リンゴでもなんでもいいので考えてみてほしい。あるいは音でもいい。ある音を聞いたとき、それを聞いている自分を、さらに聞く(認知)している自己を発見できるか。 発見できないのではないでしょうか。これはすごい発見です。あなたが花を見るとき、その花と別にいる自己はいない。そこにあるのは、花をみている自己でしかない。花を見ている自己が自己であって、花と別に自己はいない。つまりあなたは唯一普遍どころか、花をみればみている「その状況」があなたであり、音を聞けばそれを聞いている状況があなたであるのです。また一方で、これは、あちら側にいる「花」も存在しないということでもあります。あなたと離れて花はいず、花と離れてあなたもいないのです。あなたと花がいる状況があなたであるのです。 それを端的に表現すれば「自己とは、器官を焦点に主体と環境が交渉する全体」ということ言いえることができ、すなわち「自己=主体+器官+環境」なのです。ちなみにこの「状況」が自己であるということを僕は常々「今ここに現前するすべてが自己」と表現しています。次に今言ったその「自己」は与えられるものかどうかということに移ります。前回の文章で「自分とは生まれてきてしまった存在、いまここに生きてしまっている存在」ということを言いました。実際感情は生まれてしまう存在であるし、命を持ってしまった存在である以上、自己とは与えられたものであるということは確かです。しかし一方で将来は自分である程度作っていけるということも確かなのです。では自己は与えられるものか、作るものか、という問題があるでしょう。それがここの問題です。 この問題を解決するためには「(将来を)規定することと(将来を)作ることは違う」という視点が必要です。 つまりたとえば公認会計士になりたいと思って自分の生活を律してゆくことと、その結果公認会計士の自分が作られてゆくことはまた別問題であるということです。公認会計士への方向性を規定することできますが、その結果現前してくる自己の中身は与えられるものです。先の式「自己=主体+器官+環境」に従っていえば、方向性を決めるのは主体ですが、その結果現前してくる自己(状況)は与えられるものであるということです。その状況がさらに主体を動かして、さらにそれが新たな自己(状況)を創っていく。この主体と自己の二人三脚の進歩が自己を生きることでありますが、ある本が非常に簡潔に表現してくれています。 「我々は真の個物として、自由の自己として生きるとき、これまでの世界を造り変えていく。自己が単に全体の部分にすぎないとしたら、自己というものはありえない。体制が全体主義になってしまったら、自由は抹殺されてしまう。自己はむしろ全体を規定し返す自由を持つものであり、それが個物ということである。その自由は、現実の世界の中に発揮される。それはすなわち、主体と環境が器官を焦点に交渉するということの中で、環境は常に新たに形成され、それがまた主体を動かしていく、ということである」 このことを考えたとき、自己は与えられるものか否かという質問には、規定はできるが自己は与えられるものである。しかし規定する主体と現前する世界は二人三脚で進んでいくものであり、さらにそれらすべてが自己でもある。という程度にしか答えられないのではないかと思います。 今ここに現前するすべてが自己であるということはなんと開放感に満ちていることか。自己が与えられるということがいかに安心か、これが日々是好日ということであります。辛いはつらいでよし、悲しいは悲しいでよし、追いかけるものも追われるものもない。現前する今ここが自己であるならば、精一杯悲しめばいいし、楽しめばいい。自己を生きるということにおいて、すべてはそれがそれである、という安心があるのです。さらに補足。自己は視点であり、すべてである。そこは矛盾しているようであるが、矛盾してない。そこは実感として。
2008年11月16日
なんのために生きているかということはない。宇宙いっぱいの自己、時間からいえば今ぎりを生きていれば、そんなことは考える暇もない。暇がいやだといい、積極的にいきるのも嫌だという。自分以外に自分を生きる人間はいないのである。常に自分を生きるということでなければならん。自己を生きていなければ、自己は死んでいるのである。しかし積極的に自己を生きるようになれば生き返る。そうして輪廻を繰り返しながら宇宙いっぱいの自己になることが成仏ということである。積極的に自己を見つめて、それを規定していかなければならん。無為に毎日を過ごすことが生きることでもなんでもない。
2008年11月12日
考え事が進んで充実している最近だけど周りから見たら学校と家を往復しているだけ。積極的というのは、どこかに出歩いたり、スポーツをすることじゃなくて、しなくていいことをするところにあるわけだ。なにかしないといけないという焦燥感から出歩いたり運動をするというのは、実際は消極的なことだ。いやしかし、昨日は本やで立ち読みしていたら、き○じまさんがいて、ドトールで話を聞かせてもらったんだった。なぜそんなに数学が好きなのか、北島さんは生きている意味だとかそういうことは考えないかなど。いわく、なぜ生きているかという質問には、「数学がやりたいからという答えで十分だと思っている」、なぜ数学が好きなのかという質問に対しては、「自分で積極的に関われるものだから。自分の根底にはそういうことがあるのかもしれない」、積極的に関われるものは他にもあるではないか、なぜ数学なのかという質問には、「それが真実だから。正しいかどうかを自分が数式を追って判断していける。」ということだった。参考にさせていただく。てゆかかっこよすぎました。
2008年11月10日
最近はさぼり気味ですね、日記。オバマさんが大統領になったことに改めてびっくりしました。今日は実験がなく、普通の授業でした。つまりレポートなし。ちなみに先週の実験レポートと火曜日のレポートはすでに終わらせたので、今日は悠々自適の夜でした。そういうわけで駅前へ夜遊びにいってしまい、、、。さっき帰ってきて、今日はもう寝ます。てゆか最近はやらないといけないことはないということをよく考えます。神様が決めた自分の生き方なんてのはないんだろうなと。ということはなにかに追われる必要もないし、おう必要もないということで、そうすると、自分が一日何をして過ごせばいいのかわからなくなる。本読んで勉強する必要もなければ、考えないことを焦る必要もないと。そのゼロのところから自分がやることを自分が決めていかなければいけないんだと思って、それが積極的ということなんだろうかとか思う。エーリッヒフロムも言ってますね、「自由からの逃走」を望むと、そっちのほうが楽だと。積極的になるというのは、結局自律が必要なわけで、大変なことです。
2008年11月06日
最近なぜかじっけんが以上にはやくおわる。たぶん自分もいっしょにやる人が適当だからだと思う。今日も早くおわった。4時過ぎには終わったとおもう。今日はそういうわけで早く帰れた。ということは帰りの電車もすいていた。今日は早く寝ますか。ベッドのなかでのんびり過ごしたいですな。
2008年10月30日
無明というのは変わっていくはずの自分を唯一普遍のものと考えることですが、仏教の考えかたというよりも、実際をよく言い表した言葉だと思います。実際の自分とは関係性のなかでしか規定されないもので、それはたとえば目の前に箱があったとして、それを私が机として使うか、踏み台として使うか、イスとしてつかうかで、箱がなんなのかということが変わるわけです。つまり箱と自分の関係のなかで初めて箱の在り方が現れるわけです。同じように自分というものもまわりとの関係のなかで規定されるわけですが、そこを誤解して、周りと切り離された自分を想定することで、自分自身が分裂し、自分の存在がわからなくなり、「私とはだれか」という無駄な問いに落ち込んでいくことが多い。自分とはだれかという問いと似ているものになぜ自分は存在しているのかという問いがあります。しかし自分とは気づいていた時には生まれてしまっていたわけで、言ってみれば他者の力によって受動的に生まれてしまった以上、そのなぜを知りえることはできません。だからなぜ今自分は生きているのか、なぜ味覚や聴覚があるのか、なぜいまこのように感じているのかという問いに、絶対的な答えはなく、いってみればその問いはブラックボックスであり、それにどうこたえるかは、それぞれの解釈以外にはないわけです。答えとは個人の解釈であるわけです。この解釈が答えになるというのは、私とはだれかという問いに対しても同じです。私とはだれかという問いの答えとは、それに応えていくなかに現前してくるものです。関係性のなかに現れる自己を生きることや、自分が自分を自分で自分していくなかに応えがあるわけです。とここまでは一般的な内容ですが、はたしてこれがわかったところで、なにかの足しになるのか、と思います。先のことをせんじ詰めれば、関係性のなかで自分を作っていくということで、だから自分の思い通りに生きていてはいけない、自己を造っていく戒律が必要だなどという考えになっていくわけですが、いま言っているのは、それがなんだということです。所詮つまらん考えではないかということです。うつ病の患者に医者が食事と睡眠の指南をするようなもので、確かに将来的に効果はありますが、一方で、いまこの瞬間に必要なものには、カウンセラーのように、いまのこの苦しみをどうするかということではないかということですただ個人の解釈が現実となる以上、いまある苦しみをなくす「本当の真実」はないのです。いまある苦しみとは具体的に・否応なく自分の心がさみしさを感じる・人を怖いと感じる・なにをしいても違和感がある。・とにかく苦しいなど。これらの苦しみに対して、関係性のなかに現前する自己を生きること、戒律をもって自分を造っていくことという考えは、つまらん考えなのです。ですがやはり解釈が世界である以上具体的な解決策は言えないのが現実で、そこでまた以下の話は一般的な話になっていくわけです。(もしやらなくてはいけないことをやらずに良心の呵責で苦しむ場合は別。明らかな原因があるなら、それは医者がするようにさっさとやるべきことをするのがよい。)ところで起こってしまう感情などは自分ではどうしようもないにも関わらず、「自分のことは自分でどうにかできる」という誤解があります。さみしさや苦しみなどはその一つです。どうしようもないものを自分でどうにかできるというところに誤解があり、無理と苦しみがあります。先に言った通り自己とは受動的に、「生まれてきてしまった存在」「いまこの感覚を持ってしまっている存在」です。自己がいまこうしてあること自体が不可解ことで、その意味で周囲はもちろん、自分の中の感覚すらもすべては未知で、意味もわからずに与えられたものです。だから個人にできることは、それを視点として見つめることしかできないのです。世界の反対側でとんでもなく残酷なことが起こってしまったとき、黙ってテレビを通して見つめることしかできないように。だからたとえば誰かが生きることが苦しくても、自分が思ってしまっていることに責任をもてないのです、できることはただそれを見つめることでしかなく、「自分は苦しいと思っているな、自分はそれに責任を感じて自殺したいと思っているな」と自分にわき起こる感情を、ただ見つめることしかできないはずです。深く掘り下げてわかるのは自己が受動的に生まれてきてしまった存在であるということで、本当の自分とは与えられた物事を見つめる視点であるということです。視点とはいまここに現前する世界を見つめる視点です。ある身体を与えられて、ある環境のなかで、わき起こされる感情を与えられながら人生を生きていく自分を見つめるものが視点です。これが心地に印するとき、ふっと張りつめた糸が途切れるように、いまここのなかに溶けきっていく自分がいます。あなたは現前する今に溶けるわけです。 カウンセラーと医者の両方のアプローチがなくては苦しみはなくなりません。ゆっくりと生きていけばいいのだと思います。いまここにあることがよしと思えるように。そのためにどうするかという話です。
2008年10月26日
昨日は11時に寝たのだけど、ものすごくよく寝れた。よく寝ただけなのに休日明けのようなさわやかさだった。休日明けでもだるいときがあるけど、要は睡眠の具合なのかもしれない。とりあえず今日は身体が軽かった。実験もものすごくうまくいった。一時から始まって、4時くらいには終わった。教室から釈放されたのは5時45分だけど。ということで帰ったのも木曜にしては早い。今日も早く寝よう。
2008年10月23日
今日は心配ごとなく寝れるー。しあわせー。のどは早くなおればいいけど、まぁぜんぜん気にならないからいいや。ひどくならなそうだし。ひどくなりさえしなければぜんぜんだいじょうぶ。てゆか咳してる人とかかなりおおい。電車乗ってても、周囲の人の二人くらいは咳してる。手で押さえるくらいしてほしいですな。自分は一時間に一回は手洗いとうがいをしてる。風邪ひきたくない時には手洗いうがいに限る。いつも通ってるないかの医者に、以前なんで風邪ひかないのかと聞いたら、手洗いうがいと言ってた。ということで手洗いうがい。手洗いうがいをして寝ます。おやすみ。
2008年10月21日
金曜日からのどが痛いので早く寝る。日中は普通に活動してるしそんな悪くなるような気はしないけど。。今日は晴れて布団も太陽に当たったし、なかなかいい。午前中は母親と教会にいって、帰りにラーメンを食べた。11月に彼女がきてくれるけど、そのときに教会にいきたいと思っていて、その話をした。どうやっていくかとか、昼ごはんどうするとか。結局母親の、まず家にきて、家の自転車で教会まで往復するのがいいんじゃないかという意見になっとく。その日は文化祭らしいので、彼女がよえればついでに行きたい。たぶんメキシコ料理だとか、エスニックな屋台があるんじゃないかと思う。ラーメンを食べてからその足で俺はマクドナルドに読書をしにいって、母親は帰った。マクドナルドのあと駅前の本やで一時間弱立ち読みをして、牛筋肉とモモ肉、トマト缶、セロリを買って帰宅。本やで読んだ料理雑誌に載っていた牛肉のトマトスープ煮を作るため。にんにくを二かけらと、たまねぎいためて、肉いれて水いれて、、、、カレーを作る要領で。簡単にできた。自分が何食べているかわかるっていのはいいね。地に足のついた生活をしているような気がする。では寝ます。おやすみ
2008年10月19日
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