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1
マグカップの中に小人がいた。 私は夜中に仕事をしていた。仕事をするときにはPCのすぐ脇にコーヒーを置いておく。飲み残したそのコーヒーの中に、一人の小人がいた。はじめてみる小人だった。何食わぬ顔で足を茶色い液に浸し、白磁の壁に寄りかかっている。 のぞき込むと、あ、どーも、というように手を上げて、ちょっとお腹が痛くてね、悪いわね、と言った。悪いわね、の屈託のない調子に、人が飲んでいるものに足を突っ込むなんて無礼じゃないかと言いそびれた。虚を突かれたということもある。「お腹が痛いとコーヒーに浸かるんですか?」おずおずとわたしは訊いた。 あったまるから。肌にもいいのよ、ほらね、と、小人は竹細工のような足を持ち上げて見せた。艶やかな足の先にミュールを履いている。コーヒーに土足で入るなんてと悲しくなったが、小人のすることなので我慢した。 それにしても、きめの細かな美しい足である。じっと見とれていると、持ち上げた足をくねくねとくねらせた。自分の身体が相手に与える影響を知りつくした所作である。顔が小さすぎてよくわからないが、若い女であるらしかった。「このコーヒー、資生堂のコラーゲンが入ってるでしょう。アミノ酸入りのやつ」 ちゃぷんちゃぷんとつま先でコーヒーをかきまわしながら、小人が言った。ミュールの甲に星型の飾りが光っている。「資生堂のって、どうしてわかったの?」 匂い、かな、と小人はそつのない調子で答えた。 そのコーヒーにはまさしく、資生堂の缶入り粉末コラーゲンが入っていた。二週間ほど前に駅前の恵比寿薬局で求めたものだ。 その日、ヨードチンキを買いに行った私は恵比寿薬局のおじさんとの戦いに敗れ、コラーゲンを買い求めたのだった。 探していたヨードチンキは棚になく、おじさんに出してくれるように頼んだら、いつまでたってもヨードチンキを出してくれずに、当のコラーゲンを強く推奨してきた。 あたしなんかも飲んでるんだけどね。そう言っておじさんは、こんがりと日に焼けたあごから額、頭頂部から後頭部にかけて、一筆書きにつるんと撫で上げ、撫で下げた。その一連のつるんを見ていたら無性に煮卵が食べたくなって、矢も盾もたまらずに千円札を二枚投げつけて、コラーゲン缶の入った買い物袋を引っつかんで店を飛び出した。まいどー、というおじさんの声が信号を無視して横断歩道を渡るところで聞こえたが、煮卵のことで頭がいっぱいだったので無視した。 家に戻った私はゆきひら鍋に冷蔵庫の卵を残らず入れて、水を注ぎ、優しくかき回しながら沸騰を待ち、きっかり十五分経ったところで冷水につけ、卵の殻をむきはじめたところで、しまった、またやられたと思った。 恵比寿薬局ではいつも余計なものを買わされる。先だってはバンドエイドを買いに行って海苔を買って帰ったし、その前は宇津救命丸を買いにいってウコンを持ち帰った。他の客の動向を見ていると、なにやら法則があるに違いないのだが、この街に引っ越して日が浅いので未だ読みきれていない。 悔しかったので、ゆでた卵は煮卵にせずにコラーゲンをかけて一気に食べた。ひどくまずかったが、かまわずに飲み込んだ。これで案外、私も負けず嫌いである。 コラーゲン入りコーヒーに足先を浸した小人は、光江と名乗った。年はと訊くと、当ててみて、などとウィンクするので、バカらしくなって質問を引っ込めた。光江が何歳でもわたしには関係ない。合コンしているわけではないのだ。 コーヒーを諦めて再び仕事に戻ると、ぬるいんだけどお、と光江が言った。カップを触ってみると、なるほど冷え切っている。一時間も前に淹れたコーヒーだから当たり前である。少しばかり不憫になって、お湯を足す? と訊くと、いいねい、と言う。 私はカップをわしづかみにして台所に行き、電気ポットの湯を足してやった。火傷をしないかと気がかりだったが、八十度くらいの湯では平気であるらしかった。小人とはそういうものかもしれない。 二十から二十五までともに暮らした、同じく小人の正夫もまた、熱い湯を好んだ。正夫はコーヒーカップに入り込むようなことはしなかったが、真っ裸で味噌汁の椀の真ん中に座っているので往生した。なめこの味噌汁が気に入りで、両の脇の下に箸を差し込むと、くすぐったがってうひゃうひゃと笑ったものだった。 ちょっとお、コラーゲンは? と光江が声を上げた。上目遣いでしなしなと腰を振っている。慌てて粉末コラーゲンをふり入れると、光江はごほごほとむせた。熱い湯は大丈夫でも、粉ものは苦手であるらしい。割り箸を立てかけてやるとよじ登ってきたので、再度コラーゲンをふり入れて、薄くなったコーヒーを人指し指でかき混ぜてやった。 光江は割り箸によじ登ったまま、器用に服を脱いだ。足湯では飽き足らず、風呂に入るつもりであるようだ。とさっ、とさっ、と着ていたものをカップの縁から外に放り投げ、素裸になってカップの底に降りていった。そして、うす茶色の湯に身を沈めると、ふうとため息をついた。 湯はちょうど、座った光江の胸ほどの高さまで来ており、いくらのように丸い胸が湯の上に盛り上がっていた。半透明のコーヒーに透けて見えるウエストはきれいにくびれており、小人ながら均整の取れた見事な体である。 じろじろと見ても特に気にもしていないようで、生理痛にはお風呂が一番よね、などと言いながら、溶け残ったコラーゲンのダマを全身に塗りたくった。 お腹が痛いといっていたのは、あれは生理痛だったのか。少しばかり気の毒になって、風呂上りには温めた牛乳を飲ませてやると決めた。ブランデーをひとしずく垂らしてやろう。体が温まる。 光江が風呂に入っている間に仕事を片付けてしまおうとPCの前に戻ったが、どうにも手につかない。久しぶりの小人であるので、恥ずかしながら興奮しているようだ。 私は仕事をあきらめて、昔、正夫が使っていたバスタオルを探すことにした。しかし、もうずいぶんと昔のことなので、どこにしまいこんだかがわからない。ちょうどいい大きさのやわらかい布を考えあぐねて、恵比寿薬局のおじさんを起こしてガーゼをわけてもらおうと財布をつかんだが、行けばまた何を買わされるのかわかったものではないと思いなおした。こんな夜中にゴキブリホイホイなど買わされたら悲しみが募る。 仕方がないので古いハンカチをはさみで切って代用することにした。裁ちばさみでハンカチを四つに切って、ひとつはバスタオル、ひとつはインドのサリーのように体に巻いて洋服がわりに使ってもらって、残りの二枚は替えということにしよう。仕事が一段落したら、正夫にしてやったようにじんべえを縫ってやってもいい。なんだか、楽しくなってきた。 そろそろ、光江が湯から上がる頃だ。わたしインターネットでサリーの巻き方指南のページを探してプリントアウトすると、いそいそと台所に戻った。 台所の床にキッチンペーパーのロールが転がっていた。それを拾い上げて、光江の脱ぎ捨てた服がないことに気づいた。 光江が、いない。 キッチンペーパーで体を拭いて、脱いだ服を再度着込んで出て行ったに違いなかった。正夫は一度来た服は、洗濯しない限り、絶対に袖を通そうとしなかったが、小人にもいろいろいるのだろう。 カップの縁に立てかけたままになっていた割り箸で、うすく垢の浮いたコーヒーをかき回した。からんと小さな音がして、割り箸を持ち上げると、光る星の飾りが先端に引っかかっていた。光江のミュールについていた飾りだ。 光江、光江、光江、と三回呼んだ。 それから、仕事に戻った。仕事は朝までかかっても終わらなかった。
2006.08.04