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こんちは!YamaHeyです。またまた、久しぶりのブログです。口内炎が多発する体質でしてね、今も大きいのが二つできてます。これができると食欲が落ち、体調を崩します。口内炎にまつわるお話はまた別にして、今日はうれしいご報告です。昨日は、そう!父の日でしたね。毎年、父の日には、長男の嫁(義娘)からプレゼントが届きます。今年も届きました。昼前にデパートから送られてきました。さあー何でしょう?僕にはだいたい想像がついています。そう、僕の大好きな「焼酎」です。それも三本も!!まずは大分県は縣屋酒造の大分むぎ焼酎「縣屋」(「あがたや」)次は鹿児島県の岩川醸造製 本格芋焼酎「薩摩邑」(「さつまむら」)三本目は宝酒造が宮崎県で作っている本格米焼酎「巌窟王」(「がんくつおう」)どうです! 麦、芋、米の三拍子です。それもすべて本場の九州産です。長男夫婦とは年に一回程度しか会う機会がないのですが、僕の焼酎好きを知っています。長男夫婦は二人とも飲めます。ですから、戻ってくるといっしょに祝宴です。格別に楽しいひと時です。二人とも焼酎が好きで、その点も気が合います。二人が戻ってきたときにもう一つ楽しみがあります。嫁はピアノを習っておりかなり弾けます。そうです。彼女の伴奏でカンツォーネやシャンソンを歌うことです。ですが、これはまだ実現していません。お互い会う機会が少なくまだ練習できていません。いずれということで楽しみに取ってあります。ともあれ、しばらくは嫁のプレゼントを楽しみます。
2008年06月16日
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こんちは!YamaHeyです。体調がすぐれないこともあり、長いことご無沙汰していました。3,4月の寒暖の差が大きい時期、僕の体は弱いのです。 さてさて、前回 12年ぶりに合唱を再開したことと、所属混声合唱団の第25回定演があったことをお伝えしました。そして定演の当日の夜 僕に大変な(?)ことが起こったと書きました。定演では、モーツァルトの「Missa solemnis in c」(いわゆる孤児院ミサと呼ばれる曲)、邦人組曲で大中恩作曲の「島よ」、最後は企画ステージとして日本の童謡、歌曲、歌謡曲など14曲を歌いました。当日は38度近い発熱で体調悪く(前日までは寝込んでました)、2時間ほどの各ステージなんとか歌い終えたという状態でした。本当にやっとたどり着いたという感じです。そんな状態ですから、打ち上げの途中で帰りました。僕としては珍しいことです。これまでは当然2次会も参加です。女房殿に会場まで迎えに来てもらい帰宅しました。夕食は打ち上げで食べ残したもので済ませました。まずそれが良くなかったか? 僕の体は15年ほど前に胃の手術をしてから、油で揚げたものは受け付けないことがあり、そんな時は腹痛と下痢に襲われることになります(症状1)。食べた物の中に揚げ物があったのです。てき面に症状1が顕われました。でもある程度予想していたことで、ああ、やっぱり来たかとの思いだったのですが、これまで経験した中で、かなり重症でした。「おい、おい、いい加減におさまってくれ」と手洗いで堪えていた時です。突然 両手の手首から先に猛烈な痛みを感じたのです。痙攣です。手のひらとこうが攣るのです(症状2)。両手で患部を摩ったり、揉んだり、まったく利きません。ただ、堪えるのみ。その後、症状1はなんとかおさまり始めました。症状2は続いています。手洗いから出られません。一時たち、症状2がおさまりかけ、何とか手洗いから脱出しようと焦っていた時、今度は症状3がやってきました。左足のうち腿からふくらはぎにかけて、またも猛烈な痙攣がやってきました。これと付き合っていればいつまでも手洗いから出られない、とにかく出ようと、必死の思いで居間のソファーに倒れこみました。さあ、これから左足の激痛との闘いです。体をどんな形にしても痛みは弱まりません。まさに七転八倒です。「こりゃいかん、救急車のお世話にならなきゃならないか」と思案していましたところ、ようやく痛みのピークを過ぎたようです、小康状態が見えはじめ、徐々に痛みが弱くなってきました。その間、小一時間だったでしょうか。後日、かかりつけの鍼灸医と外科の医者に尋ねたところ、弱っていた体に定演の激務が堪え、蓄えていたエネルギーを使い果たし、筋肉に尿酸や老廃物がたまったためだろうとの見解を得ました。このような激烈な痙攣は高校時代に一度経験していますが、合唱での経験ははじめてです。歳とともにいろんなことが起こってくるのですね。66歳のYamaHey、体力の維持、向上に本当に取り組まなければと痛感させられました。
2008年05月09日
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こんちは!YamaHeyです。13日の日曜日、所属している混声合唱団の第25回の定演でした。38度近くの発熱で体調は極めて悪かったのですが、何とか全ステージこなしました。さあ、その夜が大変でした。何が大変だったか? それについてはまた後ほどお伝えることにし、今回は以下をお読みください。12年間 休眠していましたが、いよいよ合唱を再開したのです。'81年(s56)のことです。l日本社会は絶好調の'80年代を迎え"Japan As Nomber One"とおだてられ、遂にアメリカを追い越したと浮かれていたのです。僕なんかは日本株式会社のまさに企業戦士そのものの生活でした。子供はすべて専業主婦の女房殿にお任して、仕事・仕事の会社人間でした。すでに完全週休二日制になっていましたが、ほとんど休めませんでした。社宅と工場のある臨海工業地帯の往復で、住んでいる地域の人たちとは没交渉でした。そんななか、朝比奈隆ひきいる大阪フィルハーモニーが年末に我が街にやってきて第九を演奏する、ついては合唱団員を募集するとの市の広報誌の呼びかけを、女房殿がみつけ「いったらわ!」と勧めてくれたので「それではやってみるか!」となったのです。練習に出てみると、そこは別世界でした。日ごろの仕事では、数々のストレスを感じてくたびれることもありましたが、そこにはそんなものありません。存在することが非常に楽で、居心地が大変いいのです。土曜日の練習日が待ち遠しいのです。仕事ではうまくいかなかったり、失敗して怒られたりします。が、そこはもともと好きな合唱の場です。長年の経験から歌うことには多少の自信があります。第九は経験しています。ドイツ語も苦になりません。声も出て、12年間のブランクをまったく感じませんでした。女声が圧倒的に多い中、男声は貴重な存在で、私の所属するテノールは特に少なく大事にされたものです。この頃アマチア合唱団で第九を経験している人はまだまだ少なく、16年前に学生だけで第九を演奏した経験を生かすことができました。本番は大盛況であったのは言うに及びません。久しぶりに打ち上げを充分楽しみました。そして'82年(s57)この第九合唱団メンバーが中心になり市合唱団が発足しました。僕も参加しました。その第25回定演が13日(日)にあったというわけです。その夜、僕に何が起こったのか、次回お伝えします。
2008年04月20日
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こんちは!YamaHeyです。手術後の1週間の絶食時、今まで食べた物の中でもっともおいしかったのは何かと振り返った時、あれやこれやと思案の後、強力なインパクトと共に思い出したのは、豪華な食材や高級料理さらには郷土の伝統料理でもなく、ただの「野菜炒め」であったことをお伝えしました。それを食べたのは1962年(s37)、大学に入った年です。初めての親元を遠く離れた寮生活でした。寮は三食つきで専門の栄養士はいましたが、乏しい寮費のもと最低限をやっと確保する食事でした。粗食はいいのですが、量が足りません。特に夕食の数時間後の空腹感は堪えました。まだ要領の分からない新入生でしたから、ただ早く寝るだけでした。そんなある夜、同室の上級生が「オイ!飯くいに行こう!」と誘ってくれ、連れて行ってくれたのが、10人もお客が入れば一杯になる小さな食堂でした。そこでは、やや割腹のいいご夫婦が懸命に働いているという感じの店でした。注文したのが、野菜炒めにどんぶりご飯。出てきた野菜炒めはキャベツが中心で野菜の種類は少なかったですが、その中に「豚の角肉」が入っており、野菜との調和が絶妙で一口食べたとたん「こんな旨いものは今まで食べたことがない」と、強力な衝撃を受けました。その感覚は46年後の今も残っています。その後、数々美味しいものを食べてきたはずですが、それが残っていないということは、人の記憶に残るとかどうかは、その時どのような環境にあったかが、大きく左右するということなのでしょう。皆さんのもっとも美味しい食べ物は何ですか?
2008年04月11日
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こんちは!YamaHeyです。もうすぐ66歳になります。その間40年近く合唱をやっています。これまで十数回にわたり、合唱漬けであった11年間の高校、大学の活動をお伝えしました。卒業後はしばらく合唱とは無縁な生活が続いたんです。1981年(s56)住んでいる街に朝比奈隆ひきいる大阪フィルハーモニーがやってきて第九を演奏する、「ついては合唱団員を募集する」旨の市発行の広報誌を目にし、合唱を再開したのです。その翌年、第九合唱団員が中心になり、町に混声合唱団ができ現在まで続いています。こちらの活動については折に触れ紹介したいと思ってます。今回は合唱をちょっと離れて食べ物のはなしをしてみます。お付き合いください。皆さん、いろんなものをお食べになってこられたでしょうね!その中で一番おいしかったものはなんでしょう?というお話です。私の場合です。ちょうど15年ほど前、胃の手術を受け2ヶ月ほど入院したときのことです。術後、1週間ほど絶食期間がありました。その間24時間の点滴です。ベッドの枕元のレンタルテレビからは食べ物のシーンもよく見かけましたが、不思議なことにあまり食べたいとは思いませんでした。そこでフト考えました。これまで食べた物で一番おいしかったのは何だろう?どうしてそんなことを考えたのか? 治ったら、そいつを食べてやろうと考えたのかもしれませんね。それまで、京都、札幌、東京、横浜、大阪で生活し、出張では神戸、広島、九州、四国さらに海外も何回か経験していました。また各地の観光地にも行っています。おかしなもので海外であまりおいしい食べ物に出会ったことがないと多くの人がいいます。僕もそう思います。もっとも体験したのは北米とヨーロッパですが、イタリア、スペインは知りません。あちことで食べた物を思い出しては比較しましたが、これだというものがでてきません。もうひとつインパクトがないのです。やや疲れてきたころです。ハット思いついたものがあります。それは「野菜炒め」でした。なぜ「野菜炒め」のような平凡なものがもっともおいしい物なのか、次回お知らせします。
2008年04月09日
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こんちは!YamaHeyです。前回はもっとも影響を受けたI先生の音楽の授業で菜箸で作った指揮棒で指揮法を教わったことを、お伝えしました。今回はレコード鑑賞授業をお話しましょう。今から50年近く前、音楽教室はおんぼろの木造校舎の端にありました。建物は古くても教室には当時の田舎の高校には不釣合いな、高級なオーディオセットが揃っていました。先生は個人として2千枚ほどのレコードを所蔵されていて、それらを惜しみなく授業で使われました。作品が生まれた時代背景、作曲者の人となりやエピソード、指揮者やオーケストラの説明など、作品の音楽的、技術的解説は先生ならではのものでした。交響曲の場合、各楽章のモチーフ、主旋律などを印刷したプリントが配られます。先生がモチーフ、モチーフの展開、各楽器の主旋律などをピアノで弾かれます。「ここからこのように転調する」「この打楽器のリズムはこうだ」「ここではめずらしく大砲が撃たれる」など、、、。このように十分に予備知識を得てから、いよいよレコード鑑賞です。その後のテストがこれまた徹底してました。レコードを聴き、曲名、作曲者、何楽章を答えます。次に先生が主だった曲のある部分をピアノで弾かれ、聴音の試験となります。「エリーゼの為に」の冒頭部の「ミ ♯レ ミ ♯レ ミ シ レ ド ラ」に大変苦労したのを憶えています。このようにして鑑賞した曲は、不思議なことに気に入ってしまい、そのあとも良く憶えており、いつ聴いても当時を思い出し、胸にくるものがあります。このようにクラブ活動に音楽の授業に先生は情熱的で誠実でした。音楽祭、コンクールなどの練習は厳しい面もありましたが、合宿、ハイキング、クリスマスの集いと十分に楽しみました。友との語らい、友情、反目、信頼、青春、恋、、、、まさにそれはドラマでした。そのドラマは「音楽・合唱」を共通項にしたもので、先生はわれらの織りなす青春ドラマのいわば演出家、コンダクターでした。かくて、僕は完全に合唱にはまってしまい以来この年まで(もうすぐ66歳)途中休み期間もありましたが、40年近く合唱をすることになったのです。高校にI先生がおられなかったら、まったく別の人生を歩んでいたはずです。先生は僕の卒業後 数年で転校されたのですが、それで合唱部もなくなりました。人生80年のほんの数年の偶然の出会いで決まってしまう、不思議な想いです。それではまた、、、。
2008年04月06日
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こんちは!YamaHeyです。僕がもっとも影響を受けたI先生の続きです。合唱クラブでの先生の指導を紹介してきましたが、3年間の音楽の授業にも感じるのもがいっぱいありました。その一つが指揮法の授業です。生徒全員に指揮棒を作ってくる宿題がまずあたえられます。家庭にある天ぷらを揚げるための長いハシ(菜箸)を手元から数センチ残し先を細く削ります(先生は演奏会用もこれでした)。いよいよ授業です。先生が、目をつむった僕の右腕の手首をつかみ上にあげ、少しゆすりながら「腕、肩の力を抜いて!もっと楽にして」と先生。「はい抜けました」と僕。そこで先生が手をはなされます。ところが僕の手は持ち上がったままで、下に落ちてきません。指揮法の基礎は力を抜くことにあるとのことで、この取得にかなり時間が必要でした。そして最後には試験がありました。一人ずつピアにの前に立ち、課題曲を思い思いに棒をふります。先生はその棒(指揮)にあわせてピアノを弾かれます。これで成績がついたのです。自分の気持ちとは随分ちがう、およそ音楽的でないピアノの演奏を聴き、情けなくなったり、指揮は難しいものと感じたものです。昭和35年('60年)ごろのことでした。次回は授業中のレコード鑑賞について書きます。
2008年03月31日
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こんちわ!YamaHeyです。我が人生に最も影響を与えたI先生の続きです。前回、I先生の声は私たち合唱団員に「こうだ」と示される時も、音楽の先生として生徒に激しく叱責されつる時も、そのヴォイスはバリトンでオペラのようだったとお伝えしました。さて、3年間の高校合唱団、やっぱり悔しく残念なこともありました。団創立3年目の私の1年生の時(昭和33年)朝日新聞の主催する関西合唱コンクールに初参加したのです。結果は等外でした。次の年は会場は新設されたフェスティバルホールでした。張り切りましたが6位でした。いよいよ3年目、高校生活最後の年です。当時も府県での予選会はなく、いきなり関西大会です。広島から和歌山までの学校が集います。京都からは我が校のみだったのです。つね日ごろ、我が団は京都府下の高校ではトップクラスとの評は聞いていて、そのことに誇りも持っていたのですがね、残念ながらその証がありません。卒業までに何とか証がほしいと切願していました。当時の関西合唱コウクールでは5位まで発表され表彰されます。ですから、目標は5位以内です。幸いなことに、この年、同期は30数人おり団はこれらを中心に充実していました。みんな「今年こそは!」と燃えていたのです。先生の指導も熱が入っていました。そしてついに当日、緊張しつつも思い切り歌いました。そして、いよいよ発表!!しかし、結果はやっぱり6位でした。悔しいというより、体から力が抜けていくのを感じました。ああ! 終わったなという感じがしていました。コンクール終了後は会場で出場者全員により、課題曲を合唱することが恒例になっていました。この時もうこれで最後だとの想いが高揚し、周りの人が振り向くのを一向に気にせず、あらん限りの大声で歌ったのです。あとで、先生から「君の気持ちは良くわかるよ!」と慰められ胸が熱くなったのを今も、覚えています。僕の「甲子園」でした。次回に続きます。
2008年03月14日
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こんちは!YamaHeyです。僕の人生、最も影響を受けたI先生の続きです。'58年(s33)春に混声四部合唱のハーモニーのとりこになり、その半年後に「感激の本性」を知ったのです。I先生の指導に接しはじめてから、驚いたことがいくつかあります。発声練習で複式呼吸をしめされた先生の大きくふくらむお腹と、そこから出てくるすばらしい美声、張りのあるバリトン。しかもその声量は教室の窓ガラスが響くごとくであり、百人の部員でも太刀打ちできないほどでした。どんな難しい曲でも初見で伴奏されながら各パートを歌われるのにも感心しました。先生は音大の指揮科でピアノとヴァイオリンをマスターされたことを後に伺いました。その指導は、情熱的ではありましたが、いつもにこやかで優しさがありました。一度だけ、その先生が大変 立腹されたことがありました。音楽の授業で、誰かが先生の指摘にふざけて答えたのだと思います。先生はツカツカとその君に近づき、猛烈な大声で怒鳴りつけられました。それは本当に、すごい声量でした。顔は高潮しており、「あの先生が、、、」と驚くような声でした。でもバリトンの美声で、まるでオペラのようでした。次回に続きます。
2008年03月05日
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こんちわ!YamaHeyです。高校混声合唱部での部活が始まりました。音楽室は木造のおんぼろ教室でしたが、I先生指導で100人以上が歌う4部合唱は熱いものがありました。練習は暑い夏休みも続きました。僕の家から学校まで自転車で30分。行きはかなりの上り坂があり夏は学校につくと、汗だくだくでしたね。でも一日も休まずかよいましたよ。さて、夏の練習を経て、秋を迎えます。秋には合唱部のメインイベントの一つ、定期音楽会があります。その年('58年)第三回を迎えていました。4月に混声四部合唱のハーモニーの「とりこ」になった僕は、その半年後のこの秋、今度は「感激の本性」を体験すつことになったのですよ。第三回定期音楽会は例年どおり、我が校の木造体育館が会場です。体育館には舞台はありましたが、オーケストラ付きの100人の合唱には狭すぎます。机をいくつも集め上にシートを敷いた急造の張り出しステージが設けられました。この作業には先生方が総出で当たられ、僕たちはただ練習でした。会場は満員で後ろには立ち見の人もいました。だんだん盛り上がり、いよいよ最終ステージを迎えます。このステージ 出し物は先生が指揮をされていた大学のオーケストラをバックに「美しき碧きドナウ」。はりきっていました。この頃、京響は発足3年目でまだまだ一般の人には知られていない存在でした。そんな頃に京都市に南接する小さな町の田舎の高校にオーケストラがやってくるのです。会場の多くの方もはじめて生のオーケストラに接する機会でした。オケ合わせには京都市内まで出かけ夜遅くまで苦労し、この日のために練習しのです。でも、それがまた楽しく誇りに思うひと時でもありました。さあ!「美しき碧きドナウ」そのいよいよフィナーレを迎え最高に盛り上がった時です。突然拍手が起こりだし、それが会場いっぱいに割れんばかりに広がりました。舞台の上の僕は、拍手と同時に足の先から震えだし、それが、だんだん体の上に昇ってきて、やがて体全体に電気に感電したようなショックです。「これが感激なのだ!」。曲は終わりましたが、拍手は鳴りやみません。体はジーンとしたままです、、、、、、、。仲間も同じように感じていたようです。演奏会終了後もみんな興奮さめやらずで、どうしていいかわからず誰かれとなく話しかけると友、ボーとしている友、様々です。岐路につくまでには、ずいぶん長い時間が必要でした。今振り返りますと、これで「感激」を知ったことが、その後の「合唱漬け」の人生を決定づけたようです。次回に続きます。
2008年02月25日
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こんちわ!YamaHeyです。僕の人生にもっとも影響を与えたI先生がどのような人であったのかお伝えします。昭和30年代前半の頃です。高校に入学しました。新入生はどこかの課外クラブの入ることを指導されました。今で言う「部活」です。しかたなく(かな?)「混声合唱団」に入りました。なぜ「混声合唱団」なのか? 小学校の頃、ピアノ教則本のバイエルを教わりましてね、楽譜を読むことには多少、経験があったからです。クラブはI先生の赴任で発足し3年目を迎えていました。先生は当時30代なかば、学校内で輝いてみえました。団員は100名以上集まりました。当時は「男の音楽の先生はめずらしい」時代でした。期待に胸ふくらませ、最初に歌ったのは「森の教会堂」でした。練習がすすむにつれ、4つのパートが織りなす和音の響きが、木造教室の床をとうして伝わってきました。「本物」に接する嬉しさと、初めて身体に感じる混声四部合唱の重厚なハーモニーに胸が熱くなり、震えました。こうして僕の合唱生活が始まりました。次回は完全に合唱にはまってしまう事になった体験を書きます。
2008年02月22日
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こんちは!YamaHeyです。僕の人生にもっとも影響を与えた人、それは高校に入学したときに音楽の教師としておられたI先生です。'58年(s33)でした。I先生がおられなかったら、僕は合唱をやっていなかったはずです。この先生のお陰で(?)合唱にはまることになったのです。以後11年間の合唱漬けの生活さらに'81年(s56)から現在までの27年、つごう38年間も合唱をすることになったのです。合唱をやっていなかったら、まったく違った道をあゆんでいたはずです。先生の教えを受けた仲間の中にも、僕と同じ想いの者が何人もいます。後年、先生にそのことをお話しすると、いやな顔をされます。「それで本当に本人のために良かったのか?」との想いだと思います。では、先生はどんおような人なのか、どのような教育をされ、僕たちはどのように感じていたのか?など、僕の高校時代を次回からしばらく紹介します。よろしくお付き合いください。
2008年02月13日
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こんちは!YamaHeyです。最初の第九の続きです。大学4年生のとき('65年)、僕は合唱団の代表をしていましたのです。同じ学科の同期に大学オーケストラの団長がいました。4月のある日、彼から秋の定期演奏会で、2晩連続でベートベンの第九交響曲をやるので、合唱部をお願いしたいとの依頼がありました。なんでもその年はオーケストラ部にとって、記念すべき年だったようです。ですが、こちらは男声合唱団です。女声はどうするのかとの僕の問いに、それは任せるとの返事。さてどうするか?学生だけの第九というのは、当時はかなり画期的で魅力的なことでした。やりたい気持ちは十分です。ですが、我が団のメインイベントは秋に開催する定期演奏会です。そのための練習を割いて第九に持っていくことはできない。第九は2~3回の練習で歌えるような曲ではない。議論を重ね、通常の団の練習以外に第九の練習日を設ける。第九の練習指導者は現正副指揮者以外から選び、特別役員とする、ということで引き受けることにしました。さあ、次は女声パートをどうするか?二つの候補がありました。その一つとは前年 大学合唱連盟の合唱際で合同演奏をした関係があります。やっぱり声をかけないと失礼だろうということになり話を持っていったのですが、彼女らには荷が重いからと断られました。残るは一つ。女子大と併設短大の合同女声合唱団が引き受けてくれ、5月から週一回の割合で練習が始まりました。団の通常の練習の上に、第九の練習と二つの合唱団での活動となり、大変でした。でも、練習は女声陣のがんばりもあり、また女性といっしょの練習ということが、男ごころを刺激し出席率は大変良好でした(これは女性にもあてはまるようでした。たまには混声もいい!)。学生だけの第九ということが評判になり、報道機関も取り上げてくれました。当時、札幌市交響楽団が活躍していました。市が運営する交響楽団はめずらしく、他には京響、群響ぐらいだったはずです。札響は例年 年末に第九を二晩 演奏していました。ところが、この年は一晩だけになりました。学生だけの第九を意識したものだろうと僕たちは鼻高でした。本番は二晩とも大盛況、1500人ホールが満席で大感激をしました。まだ第九が今ほど、大衆化していない時期でしたので、大変いい経験をしました。この経験が16年後に合唱活動を再開することにつながりました。
2008年02月09日
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こんちわ!YamaHeyです。コーラスをやって40年近くなります。ベートベンの第九交響楽曲「第九」は、コーラスをやり始めた者にとっては、ジョギングをしている人にとっての「フルマラソン」と同じ程度の目標だろうと思います。余談ですが、わが国で第九を歌った人と、フルマラソンを完走した人はどのような人数になっているのでしょうね。興味のあるところです。僕の合唱団の仲間で両方を経験した人がいます。どちらがしんどいですか?との問いに、「マラソンは一人でやれますが、合唱はあわさねばなりません。この辺は相当ちがうところですね」との答えでした。僕は、マラソンは経験ありませんし、これからも無理です。第九は何回も歌いましたが、もう体力的にしんどく、この数年は歌っていません。僕の最初の第九は合唱漬けであった11年間の8年目(昭和40年)、大学4年生の時でした。続きは次回、お届けします。
2008年02月08日
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こんちわ!YamaHeyです。バレンタインデイが近づきましたね。みなさんはこの日をどのようにお過ごしですか?僕がこの日の意味を知ったのは、高校時代でした。ちょうどその頃 日記をつけていましてね、2月14日の項に「本日は2月14日なり、別に変わった事はなしなり」とあります。この頃(昭和30年代前半)、女性が男性にチョコレートを送るという習慣はまだありませんでしたよ。誰が考えたのでしょうね。チョコレート会社が企画したのだと思いますが、その後だんだん普及していったようです。僕が初めてバレンタインデイに女性からチョコレートをもらったのは大学の2年生のときでした。前に書きましたように、この年は合唱付けであった11年間のうちでも最も合唱付けであった年でした。チョコレートを手にするまでのいきさつが、ちょっと変わっています。2月のある日、学科の掲示板に「左記の者、学科事務所に来るように」との知らせの横に僕の名が書かれてあります。どもね、僕には思い当たることがありません。僕だけ出て来いということはどういうことだろ、何か不祥事でもやったんだろうかと、不安になりました。恐る恐る事務所に出頭しました。すると事務官がまったく事務的に「これが、君に来ている」と小さな郵便封筒を渡してくれました。何か拍子抜けした感じでしたがホットしました。でも、事情がまだのみこめません。事務所出た後、早速点検しましたが、あて先は大学の学科で確かに僕の名前になっています。裏面の差出人の住所は途中まででしたが、伊東さん(名前は失念しました)女性です。封筒を開いてみました。なんとチョコレートが出てきました。封筒が暖かいところに保存されていたのでしょう、そのチョコレートはすこし融けだしていました。これで分かりました、「これはバレンタインデイのチョコレートだ」と。うれしくなりました。差出人に思い当たりありませんが、字体からは大人ではなく中学生だろうと思いました。この年、大学合唱団の副指揮者としていくつかの演奏会で指揮をしています。どこかの演奏会に来てくれて、そのプログラムなどから、僕の所属を知り、送ってくれたのだろうと想像しました。もちろん仲間には自慢しました。だけど、残念ながらお礼の返事は出せませんでした。差出人の正確な住所が分からなかったのです。最も合唱付けだったこの年を締めくくるちょっとしたご褒美だったと考えています。
2008年02月05日
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こんちは!YamaHeyです。'69年(s44)から、会社勤めをはじめました。それまで住んでいた場所も、環境も大きく変わり、とにかく現状に慣れることが先決だったんです。そんなことから、合唱とは無縁の生活が'81年(s56)まで続きました。その12年の間で、一度だけ、思い切り男声合唱を堪能しました。'76年(s51)、大学合唱団を卒団してからちょうど10年目でした。大学創期100周年記念年行事として、OB合唱団が演奏会を企画しました。当時大阪在住でしたが、札幌にかけつけたんです。参加する以上、ちゃんと歌えることが必須うですね。送られてきた楽譜にそい一人での練習が始まりました。一ヶ月以上猛特訓していざ札幌へ、、、。日常は合唱とは無縁の生活でしたが、札幌に滞在した数日間は、まったく非日常の毎日でした。特に本番では、10年前の懐かしい仲間の顔が、ひなだんのあちこちに見られます。これをどう理解していいか、戸惑いました。歌いなれた寮歌は、胸が熱くなり涙で歌えなくなりました。当日 遅くまで飲み歩いたのはいうまでもありません。このOB合唱団の演奏会は今も続いていましてね、'06年(h18)第8回目を迎えたんです。僕はこれに5回参加してるんですが、これはあくまで非日常の合唱活動です。地元での定期的な合唱活動を始めるまでには、さらに5年待つことになりました。
2008年01月23日
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こんちは!YamaHeyです。もっとも合唱漬けであった時期のつづきです。大学2年生の一年間(昭和38年)がもっとも合唱漬けの時期であったことを前々回お知らせしました。そのわけは、大学合唱団にのめり込みながら、さらに別に二つの合唱活動の場があったことでした。前回、その一つ目の場はふるさと京都の高校OB合唱団だと書きました。大学合唱団が休養する夏のつかの間の3週間ほど、北海道から京都に飛び帰り、母校の現役の定期演奏会に参加したのでした。さて、今回は二つ目の場です。当時、寮生活でね、一部屋5人で60室、300人の大所帯だったんです。木造2階建て4棟と食堂が生活の場でした。建物は耐用年数をすでに超えており、よく火災が起こらないものだと地元の消防署の7不思議の一つでしたよ。長い寮の伝統で、各部屋はサークル活動をすることになっていました。体育会系では大学のクラブに所属する者同士がいっしょになる部屋や、寮独自のサークルの部屋がありましたが、なかには「無の会」や「アンチクラブ」など何をするのか不明のあやしい部屋もありました。僕はやっぱり男声合唱の部屋に所属したんです。前年は部屋の5人が中心で外からの人も加え20人程度のサークルだったのですが、この年は5人だけで活動しました。5人のカルテットです。日中は5人それぞれ寮をはなれた生活があるんですが、夜には部屋に戻ってきます。さあ、そこでやろうということになります。もちろん毎夜というわけにはいきませんが、日を決めて食堂の古びたオルガンの前で練習したものです。秋には寮を一般の方に解放して、寮祭があります。ある部屋は喫茶店になります。その喫茶店でお客さんを前に、歌ったりしたものです。よくハモりましたよ。昼間は100人近い大学グリーで歌い、夜は5人のカルテットです。大合唱と少人数のアンサンブル、その両方を満喫していたわけですね。またプロ野球の話なのですが、一軍半の選手は、昼間は二軍で試合し、夜は一軍に呼ばれるようですが、当時の僕も昼も夜もの合唱漬けでした。大学グリーの活動の傍ら、夏の高校OB合唱団と夜の寮でのカルテット、そんなわけで、大学2年生のこの年がもっとも合唱漬けの時期だったと思うわけです。合唱漬けの11年間もいよいよ終わりです。26歳の3月(昭和44年)、札幌オリンピック(昭和47年)に向け始まった地下鉄工事を見ながら北海道を後にしたのです。雪解けの 七歳住みし札幌を いまぞ去り行く われ泣きぬれてなぜ泣きぬれてなのか、入学したとき、学業と合唱と伴侶との三つの目標を持ちましたが、三つ目が達成されていませんでした、この時点では、、、。これについては、またの機会にお伝えします。
2008年01月21日
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YamaHeyです。 もっとも合唱漬けの時期の続きです。大学2年生のひと時、副指揮者での一年でした。4月から翌年2月まで合唱漬けの一年間を前回 お知らせしました。でも、お知らせしたのは表の場でしてね、実は、表のグリークラブのほか、別の合唱の場が二つあったのです。その一つは、ふるさとの京都です。前回、8月の演奏旅行の後、9月の新学期まではつかの間は休養の時期だと書きました。ですが、実は休養していなかったのです。ふるさと京都では、高校合唱団OB会が活躍してましてね、定期的に練習していました。そして8月の末の現役定期演奏会に参加するのです。その年(昭和38年)の定演は京都会館が会場でした。8月の初めに大学グリークラブの演奏旅行を終え、たしかその年の最終演奏地は函館だった、はるばる京都まで踊るように帰ってきます。昔の仲間と久しぶりの再会なのです。僕と同じように日ごろはふるさとを遠く離れた生活の者もいます。なつかしい顔、顔です。本番まで3週間ほどしかありません。懸命に練習はしましたが、大学合唱団でもまれたせいか、わりと楽でした。本番でOBは単独のステージのほか、現役との合同ステージももちました。そのとしの曲は清水修さんの「山に祈る」だったんです。当日は大変盛り上がりました。おそくまで川原町、寺町あたりを散策(?)したものです。つかの間のふるさとの仲間とのひと時を満喫したのです。でもその余韻に浸るまもなく、すぐに僕の主たる活動の場の札幌に戻ったのです。これがこの年がもっとも合唱漬けであった年と考える一つです。当時のプロ野球界にプエルトリコ(?)から来ていた選手がたしかパリーグのチームにいました。彼は秋に日本プロ野球がオフシーズンに入ると、母国に戻るのですが、休養するのではなく、地元のチームでまた選手として野球を続け、春に再来日という野球漬けの人でした。僕もよく似たことをしていたのですね。もっとも合唱漬けであった年と考える二つ目については次回、書きます。
2008年01月15日
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こんちは!YamaHeyです。前回の続きです。合唱漬けの11年間(16歳から26歳)の間で、最も合唱漬けであったのは大学の2年生の時期でした。この年、副指揮者をやってました。4月に活動が始まって、新入生が入ってきます。そして5月の連休は合宿です。余談ですが、僕の学生時代ゴールデンウィークは毎年男だけでの合宿でね、楽しいこと(旅行、ピクニック、デイト?)など一つもなかったのです。近郊のお寺に、鍋釜から寝具その他すべて持ち込みで、完全自炊の1週間です。なんせ100人近い男世帯ですので、食事の用意だけでも大変でしたが、中には飯炊きの上手な団員もいて、重宝したものですよ。そんなこんなで、とにかくこの時期にその年に取り組む、数十曲すべての譜読みを終えるのです。その後は、通常の練習に戻りますが、やっぱり副指揮者として自分が指揮する曲の掘り下げだけではなく、合唱のベースとなる和声の勉強など、いろんなことがこの時期に身についたようです。そのころ、寮に住んでいたのですが、寮の食堂に運よく古ぼけたオルガンがありました。よくこのオルガンを夜遅くまで弾いていたものです。合唱際に参加したり、中学、高校などの依頼による演奏会などをこなしながら、夏の演奏旅行へ向け、曲創りに励みます。母校は北の大地 北海道の札幌にあります。演奏旅行はたいてい1週間ほど道内を回ることになります。当時(昭和30年代後半)は今ほど人・物・情報の移動はありません。とくに北海道はそうでしたね。ですから、僕たちのような学生男声合唱団にも人気があり、教育委員会の先生方から子供たちまで歓迎されましたよ。ある中学校で歌ったときなど、かわいい女の子からサインをせがまれました。演奏旅行は7,8箇所で演奏し、たいてい8月の初めに終わります。そのあと新学期がはじまるまで、つかの間の休養期間です。その間はふるさと京都で過ごしていました。9月に入ると、10月にある全国合唱コンクール地方大会に向けての練習が中心になります。このころ、北海道では大学の部に参加する団が少なく、我が団は常に1位で全国大会の出場権を得ていました。地方大会で首尾よく1位をもらいます。さあいよいよ今度は僕たちの活動のメインイベントの11月はじめの定期演奏会へむけて、練習に拍車がかかります。定演は当時もっとも設備の整っていた札幌市民会館大ホールで2晩にわたってやってました。2晩とも1500人収容の客席が一杯だったんですよ。僕は2ステージ、正指揮者(学生)が3ステージ指揮をし、それにOB合唱団の賛助出演を加え6ステージの演奏会で、聴衆のみなさんはさぞお疲れだったでしょう。その夜は遅くまで、すすき野界隈を俳諧したものです。余談ですが、札幌市民会館は残念ながらごく最近 閉鎖になったようです。定演の余韻に浸っているひまはないのです。11月の末には全国大会が待ってます。課題曲と自由曲 完全に2曲だけの練習が毎日続くのです。その年(昭和38年)の全国大会は京都の京都会館でした。そうです僕の出身地です。高校時代の友人も聴きにきてくれましてね、僕もはりきっていたのですが、結果は残念ながらかんばしくなかったのです。京都でいったん解散した団員も三々五々札幌に戻ってきます。戻ってきたところで総会・役員選挙・納会と進みます。女子大の女声合唱団とクリスマスパーティーをもったこともありましたね。年があけると、次は2月はじめの卒業演奏会に向けての練習に入ります。いわゆる卒演で、卒業生にスポットライトをあてた演奏会です。そして、2月中ごろでようやく1年の活動が終わります。これでも十分 合唱漬けだと思われるでしょうが、実はこれまで書きましたのは表の活動で、裏(?)の活動があるんですよ。もちろん合唱活動です。それにつきましては次回、書きます。
2008年01月10日
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こんちは!YamaHeyです。今年66歳になります。高校1年から合唱を始めたのです。高校合唱団の3年とそのOB合唱団の1年(浪人時代)、この4年間は混声合唱でした。その後、大学に進み男声合唱団に所属したのです。男声合唱は高校時代からの憧れでしてね、4年で大学合唱団は卒団したんですが、その後も大学に残り、OB合唱団などで男声合唱を楽しみ、結局7年間、男声合唱を堪能しました。でもね、卒業後は環境も生活場所も様変わりしましてね、合唱は休眠状態に入ってしまいました。再開したのは12年後の'81年で、現在もつづいていますので継ごう38年になるわけです。16歳から26歳の11年間は合唱漬けでしたね。この時期に、特にその前半でその後の自分の全てが決まったみたいです。この11年間を前期活動期とさせてください。この合唱漬けの11年間のうち、最も合唱漬けであった時期について次回お知らせしましょう。
2008年01月07日
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