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2025.03.15
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アリ・バタネン──逆境を乗り越えたフィンランドの名ラリードライバー アリ・バタネンは、WRC(世界ラリー選手権)の歴史に名を刻む伝説的なドライバーの一人です。彼のキャリアは、華々しい勝利と深刻な事故、そして驚異的な復活に彩られています。今回は、彼の生涯とドライビングスタイル、そして彼が多くの人々に与えた影響についてご紹介します。



1. フィンランドが生んだ天才ラリードライバー
アリ・バタネンは、1952年4月27日にフィンランドで生まれました。幼い頃からモータースポーツに興味を持ち、20代でラリーの世界に足を踏み入れます。1975年、イギリスのフォードと契約し、ワークスドライバーとしてのキャリアをスタート。1977年にはWRCで表彰台に上がり、その速さを証明しました。

彼のスタイルは、高いコーナリングスピードと正確なドリフト制御が特徴でした。フィンランド特有のグラベル(未舗装路)で鍛えられた技術を武器に、彼は数々の名勝負を繰り広げました。

2. 1981年、プライベートチームでのWRCタイトル獲得
バタネンが最も輝いたのは、1981年のWRCです。この年、彼はワークスチームではなく、**プライベートチーム(デビッド・サットン・カーズ)**から参戦。これは非常に異例なケースで、当時のWRCではワークスチーム(メーカーの公式チーム)が圧倒的に有利とされていました。

しかし、バタネンはその状況を覆し、

アクロポリス・ラリー
ラリー・オブ・ブラジル
1000湖ラリー(現在のラリー・フィンランド)



3. プジョーGroupB時代と壮絶なクラッシュ
1984年、バタネンはプジョー・スポールに移籍し、当時最先端の「プジョー205ターボ16」を駆ってグループBラリーに参戦しました。彼は開幕戦で2連勝を飾るなど、順調に結果を残していきます。

しかし、1985年のラリー・アルゼンティーナで、大クラッシュに見舞われます。**車は大破し、バタネンは重傷を負いました。**この事故により彼は約18カ月間の療養を余儀なくされ、競技復帰が危ぶまれました。

4. 奇跡の復活とダカールラリーでの成功
しかし、バタネンはここで終わりませんでした。驚異的な回復を遂げた彼は、1987年にレースへ復帰。その後は、WRCだけでなく、ダカール・ラリーにも挑戦します。

彼はダカールラリーで4回の総合優勝を達成し、オンロード・オフロード問わず圧倒的な速さを示しました。特に1991年のパリ~ダカール・ラリーでは、ライバルたちを圧倒し、フィンランド人初の優勝を飾りました。

5. 引退後の政治活動
ラリー界での活躍を終えたバタネンは、新たな舞台へ進みます。1999年、彼は欧州議会議員に選出され、約10年間、自動車関連の政策や環境問題に取り組みました。レーシングドライバーが政界に進出するのは珍しいケースですが、彼はラリー経験を活かし、交通安全や自動車産業に関する提言を行いました。

6. バタネンの遺したもの
アリ・バタネンは、その勇敢なドライビングと困難を乗り越える精神で、多くの人々に影響を与えました。彼の人生は、単なる「速いドライバー」の物語ではなく、

どんな逆境でも諦めない姿勢
挑戦し続ける勇気
復活する力
を教えてくれます。

彼が駆ったフォード・エスコートRS1800やプジョー205ターボ16は、今でもファンの間で語り継がれています。そして、彼の言葉や走りは、現在のラリードライバーたちにも大きな影響を与えています。

まとめ
アリ・バタネンは、WRCとダカールラリーの両方で輝かしい成績を残し、政界にも進出した「異色のラリードライバー」でした。彼の挑戦と復活の物語は、モータースポーツファンだけでなく、多くの人々に勇気を与えるものです。

今後も、彼のレガシーは語り継がれ、ラリーの世界で「アリ・バタネン」の名が消えることはないでしょう。


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Last updated  2025.03.15 20:05:28


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