天は人の上に人を造らず
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ホセ・オルテガ・イ・ガセットの代表的論文に「大衆の反逆」というものがあります。この論文と「ドンキホーテに関する省察」が、オルテガという人物の代表的著作なのですが、この人物の主張を乱暴に一言で表現するなら、「バカは死ななきゃ治らない」論です(笑)大学に入ったばかりの頃、バーク→トクヴィル→オルテガと読み進め、ボクのその後の価値観形成に大きな影響を与えた人物の一人です。それまでは、どちらかというと、ニーチェ主義だったんですがね(笑)この人物、保守論客として分類される事が多いのですが、スペイン共和国(フランコに打倒された左翼共和国)で、憲法制定委員会の委員になる等、政治的イデオロギーは、必ずしもアンチ・ボリシェヴィズムではありません。ただ、民主主義に対して、常に厳しい警告を発し続けていたのは、事実です。この人が他の保守系の思想家と違っていたのは、民主社会の爆発的なパワーが増大した二つの大戦の戦間期に、論陣を張っていたことであり、大衆の力を認めながらも、そこにある種のアンチテーゼが必要である、とした事。実は、この時期の保守理論というのは、(日本もそうですが)一気に国家統制理論へと傾きました。ある意味、国家福祉主義のなれの果てだとも言えます。反面、現在の平和運動にも繋がるニヒルで、奴隷的に平和を求める人種が増大した時期でもあります。ドイツにおいて、共産党とナチズムの、両極端が力を付けていったのは、当時の世界的風潮の縮図だったといえます。こういった時代背景において、オルテガは、民主社会の価値をまず肯定します。そして、純粋な意味での資本主義も民主社会でなければ、成立しません。何となれば、資本主義は、大衆資本を結集し、大規模経営を為す事に目的があるのでですから、その前提条件である「大衆」が安心して投資できる為には、取引の安全が保障された、民主社会である必要があるからであります。しかし一方で、大衆が資本主義を生むのと同様、資本主義が大衆を生む、という作用もまた現実であります。オルテガは、これを大変危険視しました。かつて、国中にちらばっていた「大衆的属性」を持った人間が、都市部に集中し、それこそ細菌のように増大していった結果、大衆の意思こそが、意思決定の最大要因になります。そして、今や神を忘れた大衆は、財貨を絶対的価値と崇めるが故に、財貨の奴隷と成り果てる。それを否定する為には、「貴族的精神が必要である」と、彼は説きます。要するに、国を浄化するには、ある種、ストイックでへそ曲がりな人種が、必要だという事です。これに近い言葉は、ボクの愛読書であるモンテスキュー「法の精神」にもあります。名誉が、どうして専制君主のもとで容認されるであろうか。名誉は、生命を軽んずることをもって、誇りとする。そして、専制君主は生命を奪い取るという理由によってのみ力を持つにすぎない。どうして、名誉が専制君主を容認出来るであろう。名誉は、遵守される規則と、抑制される気紛れさとを持っている。専制君主は、何の規則も持たず、その気紛れは、他の全ての気紛れを破壊する。(「法の精神」第一部第三篇第八章)「専制君主」を「大衆」と読み替えると、そっくりそのまま、オルテガの主張に符合するでしょう。猶、モンテスキューは上記の説明と同趣旨で、このようにも語っています。非常に愚かな手段で処理される、賢明な事柄が多数あるように、非常に賢明な手段でなされる愚かな事柄も多数ある。(「法の精神」第六部第二八篇第二五章)実に示唆に富んでいますね。現代社会は、オルテガの生きた時代以上に、ますますこうした傾向が強まっています。財貨の奴隷になる事は、悪い事ではない、という価値が一方で支配的になりつつあります。しかし、これを国家権力が抑制するのは、不当な統制であり、民主社会を危機に陥れるだけの事です。神なきご時世、貴族的なる諸個人の「意地」だけが、退廃を食い止める、唯一の手段ですね。
2007.05.20
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