引き続き英光丸の設計を行った、2重底という特徴を持つものの、船体強度上は、一番問題がない、小型のタンカーであったために、さほど悩むこともなく、殆どエポックメーキングな事はなく順調に推移した。設計が終わるかどうかというころに、次のS1227(KAPAL):中華系の船主のバラ積み貨物船だ。少し嫌な予感がした。しかし、本船は、玉野の船台で建造出来るぎりぎりの載貨重量13万トンの巨大船である。今でこそ、VLCC(Very Large Clued Carrier)やULCC(Ultra Large Clued Carrier)と30~50、100万トンクラスまで出現しているが、当時の玉野では、巨大船だった。 それまでは、佐世保重工で建造された、日本船主が有する世界最大の「日章丸」10万トンがあり、ミドシップブリッジ(船長方向中央に操舵室を有する)の華麗な船であった。流石、本船が、進水する式典では、佐世保の町中の人が造船所に詰めかけたという。しかし、ドックでの進水式だけに、注水して浮揚を待つだけで、船台を滑り落ちるという、圧巻は見られなかったようだ。
私は、一般商船なら殆どの船種は手がけて来たし、これ以上リピートしても意味がないと思っていた矢先だったから、嬉しかった。一般貨物船(Cargo)、油槽船(Tanker=Oil carrier)、バラ積み貨物船(Bulk Carrier)、コンテナ船(Container Carrier)、冷凍運搬船(Reefer)、鉱石運搬船(Ore Carrier)、自動車運搬船(Pure car carrier)、自走式重量物運搬船(Roll on Roll off)と2軸、3軸船も経験した。 ふと親父が関係した、幻の不沈戦艦大和は4軸だったなぁ、(平賀譲先生は、立派だったのだなあ等と感慨が走った)。 しかし、私も手がけていない船種があった。LPG CarrierとLNG Carrierだった。LPGタンカーは液化石油ガス(LPG)を運ぶ船舶。石油ガスの成分のうち、プロパン、ブタンなどを加圧または冷却して液化し、船倉内のタンクにいれて輸送する。大型船では冷却方式がもちいられている。沸点は-42.1°、LNGは沸点-162°と低温のエネルギーであり、貴重なエネルギー源の一つである。LPGは、他の担当者がやっているのを横目で見るぐらいだったので、その問題点が如何なる所かは知り得なかった。しかし、沸点が-42.1°と比較的に温度が、低くないので(と言っても常識上は低温も良いところである)、さほど問題視はされなかった様に記憶する。LNGの方は、もっぱら千葉で製造していたので、担当すべくも無く、出張の度にドックを訪れた時見るだけだった。異形ではあった。
こうして、F564(Gulf Canada)送り出し、しばらくの後にF570が来た。OwnerはMr. Henry Goodrichで眼光鋭い中にも柔和な人物であった。その名がそのまま船名として使われた。如何に力が入っていたかが分かる。潜水部のポンツーンの前後は、単なるRで良い。しかし、極端に言って、四角いもの同士の交点は、リグが波に揉まれた時異常な高い応力を発生して、(応力集中という)亀裂を発生し易くし、それに対応することが、当然求められる。私たちは、並の解析方法では、駄目であり、当時導入し始められ、今では常識になっている、有限要素法(FEM)を用いて、応力集中部の板厚の選定などを行った。 もちろんプロトタイプ(初設計)である。要目は長さ=97.7m、幅=76.5m、上甲板下部までの深さ=39m、150人を載せ、掘削深度は7620mと立派なリグであった。安定した4本足の上に上甲板を載せ、その上に数十メートルの高さの櫓を組み、そこから掘削のためのパイプを繋ぎながら海底を掘削するのである。
Henry Goodrichの上部構造は地切りされた。1700トンある上部構造はふっと数センチ横へ揺れただけだった。私はほっとした、重心の計算は間違っていなかった。でも強度の方は・・・。吊り上がりゆっくりと4本のコラムの上に落ち着くまで、固唾をのんで、見守った。3000トン吊りクレーン船はじれったいほどゆっくりと、スリングを撒きながら、上甲板構造物を徐々に高くつり上げていった。あちこちで笛の音や、大声で叫ぶ声が聞こえた。やっと、所定の高さまで、吊り上げると、今度は、クレーン船は、岸壁を離れ、ドックの方に向うくべくタグボートに押されて、向きを90°回転した。私の頭の中には、必死に検討した補強図面がくっきりと浮かんできた。あの点は、ドアがあって、仕方なく塞いでいたとか、あの点は、補強のため板厚を増して対応したとか、構造物の吊り点だけでなく全体の強度はどうだったかとか、走馬燈の様に計算結果と図面が私の頭の中で渦巻いた。
そうこうしている内に、クレーン船は一旦取り払われたドックゲートから海水で満たされたドックの入り口にさしかかり、静かにドックの中へと侵入、所定の位置に止まりスリングを下ろし始めた。海上クレーン船で吊られる側と、ドック内のコラムの上で待ち受ける、下ろされる側はお互いにハンディートーキーで連絡しあい、そのポジションを決めて、4本コラムの上に無事落ち着いた。(とび職の、華の出番である)とにもかくにも、セットされたのを見て、私は、ほっと安堵の息をついた。それから始まるであろう、完成に向けての作業を思いながら、ドックを後にし、一旦設計室に帰った。「どうだった?」と同僚が声を掛ける。「ああ、うまくいった様だ」と私は、言葉少なに返事した。もっと高ぶっていても良いはずなのに、不思議な感情に支配されていた。 Henry Goodrichの構造は、2本の潜水するポンツーンという浮体構造(この中にジェネレーター等が入っている)と、4本のコラムと、上甲板構造。それに、それらが、バラバラにならない様に互いにたすきがけするブレーシング構造とで成っており、その上に、掘削のためのパイプを載せる、パイプラック、更にそれを繋ぎ合わせる、作業台構造、そして、高い櫓である。遠洋に出るために交通手段であるヘリポートも用意されている。大概、ヘリポートは、端の方に取り付けられるため、構造屋泣かせである。補強がやりにくいからだ。更に、レスキューボート、船側遠く排出ガスを燃焼させる装置(フレアブーム)、様々な機械を積んだ工場である。
SSDBの設計は、終焉を迎えそうになった。でもその時重大なことを船主から要求された。係船用のフェアリーダーがコラムから飛び出ているのがまずいという。もう工作に掛かっており、現場には即ストップが掛けられた。それをやり直すのは、物理的には、可能だが、お金の問題と、納期との関係をキープしてとのことだ。金は払われるという。後は納期だ。設計変更が私達を待ち受けた。殆ど徹夜に近い業務が要求された。私を初めスタッフは、一生懸命頑張った。しかし、過大な荷重の掛かるコラムの下部にリセスを造る訳だから、それだけでも大変だ。そこには応力集中もあり、並の板厚では、間に合わない。私は、善後策を協議に、急遽神戸のNVに出向いた。色々協議をして、NVの連中も、本国とのやり取りをしてくれたが、如何せん出先ではそれ以上は進展しない。 私の上司は、私にオスロ行きを命じた。「なるべく早く構造を決定し、決まるまでは帰るな」そして、「飛行機に乗る時、君は、Full Fare Passengerだから堂々と行ってこい」だった。最後の意味はその時分からなかったが飛行機に乗って、やっと分かった。私にとって、業務での海外出張はそれが初めてだった。当時、未だ洋行気分の名残があり、壮行会的なことが小規模で行われた。「大変だなぁ、納期も掛かっているし、造船所の威信に拘わるね」などと、半ば強迫観念を植え付けられる出張になった。 海外へはそれまでは、兄が、違う造船会社で、シンガポールの駐在所長をしていて、そこに行ったことがある位で、余り縁がなかった。商船時代も、振動計測で、ペルシャ湾を往復するとか、オーストラリアのWWF(Water side Workers Federation:オーストラリアの海員組合)への交渉、台湾への出張、カナダへの船主交渉、・・・そのたびにパスポートにビザの判子はつくものの、実際には、立ち消えになってしまい、今回が本当に初めてだった。
私は、出張は10日と踏んで、身支度をノルウェーの気候に合わせて準備した。荷物はさほど大きなものにはならず。ビジネスマンらしい出で立ちとなった。正門からバスで出発するのを数人が見送ってくれた。成田までは通常の出張で、成田で1泊しアラスカ・アンカレッジ周りのコペンハーゲン経由オスロ行きとなった。成田で、飛行機に乗った時、ビジネスクラスだった。当時は、ヨーロッパへの直行便はなかった。 正規料金を払っている「Full Fare Passenger」の意味が分かった。ゆったりとしたシートだが、気持ちは、とても窓外を眺める余裕など無く、頭は、如何にノルウェーでの交渉を短時間に有利に進めるかと言うことばかり考えていた。アラスカまでは、比較的短い飛行時間だった。もちろん北へ向かう飛行機は国内でもなく、出張とはいいながら何かしら心が躍る気分だ。機内は、まだ日本人が多く、とても外国への旅だとは感じさせなかった。 アンカレッジについて飛行機を乗り換えるために空港内の免税店を回る時間があった。 無聊で店を冷やかして歩いた。トランジットの制限時間が来たので、コペンハーゲン行きの搭乗口に向かった。待つこと数十分やがて搭乗が始まった。今度は大圏航路で、ヨーロッパまで行く。日付変更線こそ横切らないが、長時間の空の旅になりそうだ。私は、ビジネスクラスのシートに深々と腰を下ろした。