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「書いてはいけない:日本経済墜落の真相」(森永卓郎著、三五館シンシャ)を読みました。とてもにわかには信じがたい内容でした。財務省は事実上、日本の三権分立の上に立っていること。そして、日航機墜落の真相は自衛隊の誤爆によるものだということ。それは多くの人が承知している事実であるにもかかわらず知っている誰もが口をつぐんでいること。その理由はメディアや関係者の、我が身を守ることを優先した忖度であること。しかし、衆人承知の事実でありながら誰もが表向き触れなかったもう一つ大きな問題「ジャニー喜多川事件」はBBCの報道や勇気を持って告発した被害者らによって真相が明るみに出ることになりました。そこで森永さんは、ジャニー喜多川事件と同様に、財務省や日航機事件の真相も勇気を持って告発しなければならないと考えました。森永さんはいまステージ4の癌患者であることを公表しています。まえがきで森永さんは言います。これらのことを書くことによって「大きなリスクがあるのは承知だ。逮捕されるかもしれないし、命を狙われるかもしれないし、訴訟を起こされるかもしれない」(同書10ページ)。それでも「命あるうちに」真実を知らせたかったことを思うと、本書の伝えたかった事実の重みを感じます。発行社はあの日記シリーズで有名になった三五館シンシャ。驚いたことにここは社長が一人で経営するひとり出版社だそうです。この、忖度無用な二人がタッグを組んだからこそ実現できた企画なのかも知れません。実際、森永さんは本書の企画を多くの出版社に持ちかけ断り続けられたと書いています。関西空港で飛行機に乗る前にふらりと寄った本屋さんでふと目に入ったこの本。暇つぶしにと思った本でしたが、重たいものをつきつけられました。
2024年04月21日
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「もうあかんわ日記」(岸田奈美著、ライツ社)を読みました。以前NHKで「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」というドラマを見て著者のことを知り、それからドラマの原作本をはじめ著者の本はすべて読んできました。何せドラマの印象が強烈。主演は「不適切にもほどがある」でブレイクした(私の中では『愛したのが・・・』でブレイクしたと思っていますが)河合優実。関西弁が完璧で「絶対関西の子」と思っていたら東京出身で驚いた、のはまた別の話。タイトルにあるとおり、この本は著者岸田さんの日記。どう考えてもフィクションだろうと思われるあり得ない日々の連続を綴ったものです。そもそも岸田さんは若くして父親を亡くし、その後もお母さんが病気で車椅子生活になり、弟がダウン症、おばあちゃんが認知症と、たくさんの「もうあかん」になりそうな要素を抱えています。次々と襲いかかってくる、思わず「もうあかんわ」とつぶやきたくなるできごとが連続する日々。と書くと壮絶な話のように思えますが、それを彼女のユーモアあふれる文章で軽く読ませてしまいます。いや、本当は軽くはなく重い話ばかりなのですが、全然そんな感じはありません。前述のドラマ「愛したのが・・・」もこうした家族の話をドキュメンタリー風に描いた軽妙なタッチのもので、だからこそ岸田さんのファンになりました。岸田さんは「もうあかん」と思ったことを文章にし誰かに読んでもらうことを自らのエネルギーにしてきました。私も「もうあかんわ」と言いたくなることもあります。彼女に比べれば全然たいしたことではないことがほとんどですが、それでもこうして日々のできごとを綴ることが何かの救いになっているのかなあと思いました。いま深刻な状況に陥っていて「もうあかんわ」と思っている人に読んでもらいたい本です。
2024年04月16日
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「バカ老人たちよ!」(勢古浩爾著、夕日書房発行)を読みました。書店に並んでいたこの本、表紙の絵と帯のことばが気になって手に取ってみました。適当なページを開いて読むとなかなかおもしろそう。実際に買って読んでみることにし、一日ですぐに読了しました。さて、読後の感想ですが、ちょっと評価が分かれそうな気がします。共感できる部分もあれば、ただの年寄りのたわごとのように思える部分も(著者は70代後半)あるからです。プーチンや習近平らをクソミソに書いているところは胸がすきます。これぐらいの歳になるともう怖いものはないのかという気がします。一方で、老人に関するたくさんの書籍の書評では的確なものもあれば単なる言いがかりのような論も目につきます。いわゆる街で見かけるバカ老人、昭和を引きずって周囲に老害をまき散らしているリタイヤ老人に関する批判はそれほど問題がありません。でも、書評の中には難癖をつけているような、やや強引かなと思える箇所も。著者自身がちょっとそんな老人のひとりになっているところが見える部分もあります。本書の帯に「ひとのバカ見てわがバカ直そう」と書き、「まえがき」で自分もそのバカ老人に入るとおっしゃっているのは免罪符のつもりでしょうか。そうした謙虚な気持ちからでた「老人批判」であれば問題はなかったでしょうが、自分を棚の上に置いておいて大所高所から見下ろす部分がなきにしもあらずだったのは、全体としてはおもしろかっただけに少し残念な気がしました。と、こう書いている私も人のことは言えないバカ老人のひとりなのではありますがね。
2024年03月25日
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「障害者支援員もやもや日記」(松本孝夫著、三五館シンシャ発行)を読みました。本書もその一つである三五館シンシャの日記シリーズを私は好きでよく読むのですが、最近のシリーズでは「看板に偽りあり(いい方に)」の本が多くなってきたように思います。シリーズの「〇〇日記」の〇〇部分には「よれよれ」「へとへと」「こそこそ」など否定的なことばが入り、本書でも「もやもや」となっていますが実際にはそれほど「もやもや」した話ではありません。著者はもやもやしながらではなく信念を持って働いており、読後感はむしろさわやかなものでした。著者は経営していた会社が倒産した後、家庭の事情もあり70歳になって非常勤として障害者支援施設で働き始めます。高齢者施設のつもりで応募したのが障害者支援施設だったとの偶然の出会いはありましたが、元々好奇心旺盛で仕事熱心な著者は障害者支援の仕事に前向きに取り組み、間もなく80歳の大台を迎えようとする今も働く意欲は衰えません。たしかに本の帯のような大変なこともありますが、それでも彼が支援員を続ける「理由と意味」はあるのです。本書を通して障害者を取り巻く環境、家庭や社会、授産施設などの実態、国の取り組みなどを私たちは詳しく知ることができます。精神障害、知的障害とは何か、またその当事者に対してどのように接すればよいか。彼らの人権への配慮や性の問題にも踏み込んでいき、読者は著者の軽い筆致を通してしかし実際は重い問題に向き合わされることになります。「羊頭を掲げて狗肉を売る」ということばがありますが、狗頭を看板にして羊肉を売る、そんな印象の本でした。
2024年03月23日
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「もう一度読みたい 教科書の泣ける名作」(編者 Gakken、発行 Gakken)を読みました。「ごん狐」「かわいそうなゾウ」「ちいちゃんのかげおくり」など各世代にとってなつかしい、教科書で読んだことのある名著にあふれる本です。「泣ける」話ばかりではなく、考えさせる内容であったり、教室で子ども同士意見をたたかわせる内容であったりと、まさに教科書掲載にふさわしい名作が揃っています。「ごん狐」と「かわいそうなゾウ」は自分自身子どもの頃に読んだ気がします。「ちいちゃんのかげおくり」は子どもの教科書で見たように思います。「ちいちゃんの・・・」は最初に読んだときから涙があふれ、いま読み返してみてもまた目頭が熱くなってしまうのですが、こんな物語を授業で読んだりしたら教室中が大泣きしてしまって授業にならないのでは想像してしまいました。ある知り合いに、ことばが出るのが大変遅い子どもを持ったお母さんがいました。お誕生を過ぎればたいていの子どもはひと言ふた言しゃべりはじめ、2歳にもなれば2語文や3語文が出てくる子どもが大半ですが、その子は3歳近くまで自分から話すことが全然なかったそうです。上におしゃまなお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんが彼の要求を全部分かって代わりに話してくれたことも影響していたのだろうと言っていました。でもその彼、聞いて理解することはしっかりできていたのです。それが分かったのが「ごん狐」でした。自分から全然話そうとしないときから彼は母親に本を読んでもらうのが大好きだったそうです。そして「ごん狐」を読んでもらうと必ず泣いてしまっていたというのです。全然しゃべらないくせに「ごん狐」のお話を聞かせると必ず泣く。それがおもしろくてお母さんは何度も何度も「ごん狐」を彼に読んで聞かせたとか(悪い親です)。それを笑って私に伝えてくれました(悪い親です)。ことばがまだ出ない子どもにも「ごん狐」の悲しさはしっかりと届くのだとある意味感心しました。本書に収録されたお話は、上記の3編以外にも心に残っていてるものがたくさんあります。お話の中には読んだはずだけど忘れてしまっていたもの、初めて読むものもありました。知っている話も知らない話もひとつひとつどれも心にしみるもので、教科書を通じて子ども達がこんな話を学んでいれば日本の情操教育は安心だと思いました。ちなみに「ごん狐」を読んで涙した、ながくことばが出なかった彼はいま小学校の先生をしています。
2024年03月19日
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「母という呪縛 娘という牢獄」(齊藤彩著、講談社)を読みました。内容は写真にある通りです。母親の学歴信仰の呪縛にがんじがらめになった医学部志望で9浪をした娘が、「モンスター母」から自由になるために母を殺すしか解決方法を見いだせなかった事件。発売当初から各方面で話題になっていて私も数ヶ月前には購入していたのですが、内容の重さからなかなか読めませんでした。奈良にいるときは沖縄で、沖縄では奈良で読もうと、この本は何度も飛行機で往復をしました。なかなか読めませんでしたが読み始めると一気に読んでしまうんだろうなと思っていました。いつかは読まないといけないし読みたいとは思っていたので、昨日意を決して読み始めることにしました。すると、やはり止まりません。話の展開が気になって、途中でやめるきっかけが見つかりません。一つの章を読み終えて小休止はするのですが、結局すぐにまた次の章に取りかかってしまう、の繰り返し。結局数時間の後には300ページ弱を読了していました。娘はなぜ母を殺さなければならなかったのか。母はなぜここまで娘の学歴や人生にこだわったのか。それが元共同通信社の記者、齊藤彩さんの丁寧な取材によって明らかにされていきます。留置場や刑務所での『娘』との面会の様子、娘から受け取った手紙も多く掲載されていて「これは私と彼女の合作だ」とも述べられています。本書には子どもの頃から事件を起こすまで、そして殺人を否認し続けた1審の供述を覆して第2審で殺人を認めるまでの娘の心の動きが詳細に示されています。周りの人たち、弁護士、裁判官、父親をはじめ彼女の人生にかかわった関係者の証言から、彼女が事件を起こすに至った経緯を読者は理解していきます。しかし死人に口なし。母親がどうしてそこまで娘を牢獄に閉じ込め監視してしまったのか。それは分かりません。「この程度」の学歴信仰や子ども支配は世間にはよくあることなのか。子どもを縛り付けるやり方を見ると彼女が飛び抜けてエキセントリックな性格だったのか。それは彼女が死んでしまった今となっては分からない部分も多々あります。ただ、客観的に見ても娘に対する折檻や精神的支配にはかなり度を過ぎたところがあるのは事実です。何とか児童相談所や警察が関われていたらここまでの悲劇にはならなかったでしょう。殺人を否定し続けて出された1審の18年の刑期が、2審では殺人を認めたにもかかわらず10年に短縮されました。そこには事件に至った「娘」の人生に対する裁判官の理解の深まりがあったからでしょう。本書を通じてそのことは深く伝わってきます。犯罪者には事件に至るストーリーが、それこそ犯罪者の数だけある。それはこのような忌まわしい事件についても同じ。そう教えてくれるノンフィクションを書き上げた齊藤さんには一読者として敬意と感謝を捧げたいと思います。素晴らしい本でした。
2024年03月08日
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「東大教授がおしえる やばい日本史」(本郷和人監修 ダイヤモンド社)を読みました。売れ筋本が平積みで並ぶ書店の本棚にあるのを最初みたときは汚いマンガだなあと思って「読まず嫌い」を決め込んでいましたが、ちょっと手にとってパラパラと眺めてみると内容が秀逸でした。取り上げ方といい、全体解説といい、とても分かりやすい。分かりやすいだけでなく、面白すぎました!私には信号待ちをしている車で読書する(よい子はまねをしないでね)習慣がありますが、そのときに読む本は2~30秒でもインパクトのある短編と決めています。この本は日本史に登場する人物をマンガつきで見開き2ページほどで解説していて読むところはとても少なく、信号待ち読書に最適です。ところが信号待ちだけでは物足りず車をとめて続きを読み、最後は家に持ち帰ってしまいました。取り上げられている人物は卑弥呼から始まって、聖徳太子やいま話題の紫式部、信長、家康から西郷隆盛、伊藤博文、そして吉田茂、太宰治まで。歴史に登場する有名人40人弱について、ひとりひとり「すごいところ」と「やばいところ」を取り上げています。それぞれは歴史の上で「すごい」ことを成し遂げた人ばかりですが、一方では人間として「やばい」ところもあったと面白おかしく解説しています。たとえば葛飾北斎は世界の画壇に影響を与えた天才画家だった反面、家はゴミ屋敷だったとか。こんなエピソードを人物ごとにそれぞれ2~4ページを使って解説。しかもそれを子どもにも分かりやすく現代の風潮になぞらえて説明しているので、日本史を学び始めた子ども達の興味を引くことは間違いありません。そう。この本は子ども向けなのです、たぶん。その証拠に読みがながついていますし、「芸者」のように大人にはわかりきった用語の簡単な解説も載っています。この本を読んで思い出したことがあります。子どもの頃から「マンガで見る日本の歴史」みたいな本が好きでした。歴史だけで無く、あらゆる教科についてマンガつきの学習書をいつも図書室で借りて読んでいました。小学校で読書カードというのがあって一年を通して読んだ本がリストになっていましたが、あるとき友達が「どんな本を読んでいるの?」と言って私の読書カードをのぞいてきました。そこにあったのは全てマンガ。文字だけの本はリストには一冊も無くちょっと恥ずかしかった記憶があります。私はマンガ大好きな子どもでした。大人になり文字だけの本も読むようになりましたが、やはり原点はここだったようです。
2024年02月20日
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「大学教授こそこそ日記」(多井学著 三五館シンシャ)を読みました。この日記シリーズは好きで、結構読んでいます。たいていはその業界の過酷さが描かれています。しかし、本書に出てくる大学教授の仕事はそれほど過酷に見えません。私も知らない業界ではないのでどんなことが暴露されているのか興味津々で読みましたが、世間によくある職業の一つ程度に描かれていました。著者が大変だと書いている長時間にわたる会議や全員参加の慰安旅行は他の業界でもあること。大きな問題が発覚した場合は長時間会議はあり得るし、全員参加の慰安旅行も小さな企業ではある話です(さすがに最近は減ったでしょうが、本書の話も数十年前の話)。タイトルの「こそこそ」も、こそこそ仕事をやるのではなく本書を出して身バレしないかが気になる「こそこそ」です。多井教授の仕事ぶりは何もこそこそしていません。むしろ堂々と研究や教育に邁進する姿は立派ですし、帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」と書かれている割りには全然手を抜くこともなくしっかりと立ち向かっています。研究業績にちっとも関心がない教授の話も出て来ますが、それはむしろ例外です。ただ最近は教授も業績を上げることが必須になったとか博士号があっても就職できないとか、業界が厳しさを増しているのは事実。文部科学省は教授も含めて毎年業績を上げ報告しろと締め付け、文系学部でも就職するために博士号は必須となり、博士号があったところで教授職に就けるのは宝くじに当たるようなものになっています。その意味では大学教授という職業は若者にとって目指したい職業でなくなってしまいました。大学教授はあまり過酷ではないようだと最初に書きましたが、それは小規模短期大学→地方国立大学→関西大規模私大と多井さんがたどってきた、これまでの過去の話。今後は教授を目指す人にとっても教授になった人にとっても、いずれも厳しい世界になることは覚悟しておかなければなりません。少子化が進むなか大学の数は減らないどころか増えている実態を見ると厳しくなるのも当然でしょうね。
2024年01月27日
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「扉の向こう側」(ヤマザキマリ著、マガジンハウス)を読みました。漫画家でエッセイストのヤマザキさんの経験談をご自身のイラストつきで掲載した短編集です。元は雑誌の連載だそうですが、私は本書で初めて読みました。絵のスペースを含めて4~5ページずつのショートストーリーが30編弱。ヤマザキさんの子どもの頃から最近までの色んな人との出会いが時間を前後しながら描かれています。沖縄に移動する機内の2時間で読めるとふんでいたのですが、読んでいると一気に読んでしまうのがもったいなくなりました。短編ながら一つ一つの物語に透明感があり、何気ない日常が描かれているようでいてドラマがあり、良質の短編映画を見ている気分です。新たなストーリーを繰るとそれまでとは全く別の世界に誘われます。どんどん読み進めないで一つ一つをじっくり味わった方がいいと思い、沖縄に行く飛行機では半分ほどで本を閉じました。沖縄にいた2週間の間は読まず、昨日、関西に戻る飛行機のなかで「満を持して」残りの半分を読みました。初めてひとり旅をした少女時代のイタリア、ブラジル移民日系一世の人との機内の出会い、幼い頃の祖母との短い同居生活、ボランティアで訪れたキューバで会った貧しい大家族。ヤマザキさんは軽々と国境を越えさまざまな世界に生きる人々を読者にとって身近な存在にしてくれます。そして、本の帯にあるように「自分に見えてる世界なんてほんのちっぽけ」だと私たちに気づかせてくれるのです。おかげで沖縄から関西への2時間の飛行機の旅があっという間でした。
2024年01月24日
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「思春期のトリセツ」(黒川伊保子著 小学館新書)を読みました。私には孫が4人います。そのうちの一人、中学生男子がもうすぐ誕生日を迎えます。私は孫達が誕生日を迎えるたびに、毎年その子に合う(と私が思う)本を一冊ずつ送ってきました。小さいときは文字のない絵本だったり、少し大きくなると日本や世界の名作だったり、また子ども向けの図鑑だったり。孫の顔を思い出しながら本屋さんであれこれ吟味するのが楽しい時間の過ごし方でした。そして最年長の孫はいま思春期まっただ中。大人向けの本でも読む年齢です。そこで今年送ることにしたのがこの本。本の題名からしてこれは思春期の子どもを持つ親に向けた本ではあります。たしかに親である私の息子と嫁にも読んでもらいたいと思います。でも、同時に中学生が読んでもいい本ですし、私としてはどちらかと言えば彼に読んでもらいたいと思いました。著者の黒川さんも親子で読めばいいと記しています。黒川さんは脳科学、そして人とAIの会話の専門家。その立場から男性脳や女性脳の特徴を踏まえた本を著しています。内容は科学的知見に基づいて書かれているためにどれも胸にストンと落ちるもので、しかも人にあたたかいのです。トリセツ、すなわち取扱説明書の体裁を取りながら読んでいて私には感動の連続でした。たとえば思春期を迎えた子どもに対する性教育を扱ったところでは、女性の身体的特徴を科学的に説明した上で、思春期男子に「一生をかけて命がけで相手を守る」ことがなぜ大切なのかを述べます。倫理や道徳の教えではありません。それが人類のオスとしての役割であるということを知識として伝えているのです。とかく思春期の子どもは扱いにくい。でもそれが彼らの発達段階において当然やってくることであり、否定することでもない。どんなに理不尽な行動をとっていても、とんでもない要求をしてきても、それが子ども脳から大人脳への変化の過程で起こる一時的な現象なのだとする著者の物言いにはとてつもない説得力があります。思春期の子どもを持つ親にも子どもにも是非読んでもらいたい一冊だと思いました。
2024年01月20日
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「くらべて けみして:校閲部の九重さん」(こいしゆうか著 新潮社)を読みました。一風かわったタイトル「くらべて けみして」は校と閲の漢字の訓読みだそうで意味は最後まで読めば分かります。新頂社という架空の出版社の校閲部に勤める九重さんが主人公のコミック。コミックという体裁はとっていますが、出版社の中での校閲者の立場や仕事を淡々と描いた、仕事紹介エッセイのような印象の本です。私は校閲という仕事にも携わったことがあるので興味深く読みましたが一般の読者はそれほど興味がないのではないですか。紹介されている校閲者の日常もまた、オタッキー(死語?)で変化のないもの。一日中だれとも話さないこともあり第一声を発するのに声が枯れるエピソードもありました。ライターの書いた文章の誤字や事実の誤りなどを、あらゆる知識を総動員しながら探していく、一種のあら探しというか重箱の隅をつつくというか、校閲者は見方を変えれば意地悪な人。それも読者に正しくライターの意図を伝えたいがための高い職業意識ではあります。私自身、本や論文を執筆したり、また校閲したりする経験があるので、この仕事の大切さが分かります。地味で根気の要る仕事ですが、まさにこうした表にあらわれてこない人たちが縁の下の力持ちになって出版文化を支えているのは事実です。ただ登場人物はみんな暗めで変人ばかり。彼らのプロ意識をリアルに描いているのだとは思いますが、これでは読者は九重さんはじめ丹沢君やとっとこちゃんたち濃ゆいキャラたちになかなか感情移入ができません。彼らを単なる変人ではなくもう少しコミカルに描いた方が、この世界を知らない読者にもっと興味を持ってもらえるのでは思いました。ただ、読み進めていくと段々とじわじわしてくる本ではありました。
2024年01月14日
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「パブリックアート入門」(浦島茂世著 イースト新書Q」を読みました。パブリックアート、すなわち駅や公園など公共空間に置かれている彫刻や絵画を紹介したものです。パブリックアートは「ハチ公」の銅像や太陽の塔、ロダンの像など有名なものもありますが、全国にはそれと知らず触れているものがかなりあって、本書を通して日常的に知らずに通り過ぎているものも多いと気がつきました。この本ははそんな全国に散らばるパブリックアートの紹介が中心ですが、単なる紹介ではありません。たとえば銘板。多くのアートには銘板が近くに据えられていてアートの名前や作者、説明などがあるので、周りにあるそれを探してみることも勧めています。変わったものと言えば(だいたいパブリックアートは変わったものが多いのですが)水木しげるロードの妖怪達や長野県立美術館の霧の「彫刻」、東京オペラシティギャラリーの音の「彫刻」なども紹介されています。最後の章ではちょっとしつこいくらいに「パブリックアート」の楽しみ方が語られ著者のパブリックアート愛が見られます。本書には取り上げられていませんでしたが、沖縄には家の門柱や屋根の上によくシーサーが乗っています。ゆいレール牧志駅の近くの広場や読谷村の残波岬には巨大なシーサーがあり、これらもパブリックアートの一種でしょう。どちらも何度も目にしたことがありますが、銘板を見たこともありませんしあまり注目していませんでした。そう言えば那覇空港近くの瀬長島に巨大なカニがいたり漫湖公園にはクジラがいたりします。あれは遊具かとも思いますが、パブリックアートと言えないことはないでしょう。こうして考えていくとパブリックアートは意外と近くに潜んでいそう。脚の痛みが引いたらウォーキングを再開する予定ですが、パブリックアートを見て回るとより楽しさが増すかも知れませんね。
2024年01月11日
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最近話題の本を読みました。「新版 科学がつきとめた運のいい人」(中野信子著 サンマーク出版)。この本を手に取ったのは、運がよくなりたいとかといった動機では無くて(今でも自分は運が悪いと思っていませんから)、科学がつきとめたという部分が気になったのが理由です。「運」というものをどう科学的視点から料理するのかに興味が沸きました。簡単に言うと「病は気から」や「幸せは自分の心がけ次第」を脳科学の点から説明しようとした本です。5章構成のこの本の章題を書き出すとこうなります。「運のいい人は世界の中心に自分をすえる」「運のいい人は『自分は運がいい』と決め込む」「運のいい人は他人と『共に生きること』をめざす」「運のいい人は目標や夢を『自分なりのものさし』で決める」「運のいい人は祈る」人生の教訓や啓蒙の書としてはありふれたテーマです。それを脳科学という視点から説明したところがこの本のミソ。ただ、素人にも分かりやすく説明しようとしたからなのか、ちょっと物事を単純化している気がしないでもありません。「こう考えればこんな脳内物質が出る。だから、そういうふうに生きましょう」といった具合。「運の悪い人」はそれができないからいつまでも幸せになれないのだと思いますが、そういう人がこれを読んでどれだけ考え方を変えられるかそれは分かりません。この本は啓蒙書ではなく「運」を客観的で科学的な分析に委ねたものですから。私のこれまでの生き方を振り返ってみると、だいたい著者の言う「こうすれば運が向く」的な生き方の通りに生きてきたように思います。そういう意味で私は運のいい人生を送ってきているのかなあと思います。そういう楽観的な人生観を持っていることが運を向かせているのか、運がいいからそう思えるのか。こうした、卵が先か鶏が先かのような雰囲気が本書にも漂っているように思ったのは私の読み方が浅いのでしょうか。
2023年12月29日
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「よかれと思ってやったのに:男たちの『失敗学』入門」(清田隆之、双葉文庫)を読みました。「男たちの失敗学」とあるとおり、世の男性の女性に対する数多の失敗や取り扱い方の間違いを列挙し、分析した本です。各パートのタイトルには「モヤモヤさせていること」「軽く引かれていること」「迷惑だと思われていること」「悲しい気持ちにさせていること」「理解できないと思われていること」と、女性に対して男性が犯している数々の「罪」が並びます。私も男性として本書に書いてあることは思い当たる部分はあることもあるのですが、ちょっと違うなと思うことも少なくありませんでした。帯の裏には次のようなことが列挙されています。男性あるあると思う方もたぶん多いのでしょうが、私にはどれも当てはまりませんでした。 女性を悩ませる男性たちの“謎”行動 ・飲み物やトイレットペーパーをちょい残し ・周りを無視してガンガン冷房を効かせる ・「ありがとう」「ごめんなさい」を言わない ・黙り込んで話しかけるなオーラを出す ・イキってムリめな約束をするが結局守れない ・不健康自慢 etc・・・これって単に子どもなだけではないですか?男だから、というのにはやや無理がある気がします。ただ、我が国の男は子どものままでいて許されてきたというのがあるのでしょうか。本書に出てくる「ホモソーシャル」の男性社会の話も、私には縁遠い話に思えました。著者が言う男社会のなかで生きてきた覚えが私にはあまりありません。著者は千人を超す女性からもらった意見に基づいて本書を著しており、上記のようなことはよく当てはまるとか。ということは私が例外で、子どものような、男同士でつるんでいる輩が世の男どもなのでしょうか。私も色々な面で昭和を引きずっている人間ですが、仕事のなかでジェンダー問題を扱ったり、また20年近く前から独り暮らしとなり「自立」した生活をせざるを得なくなったりといった環境にいたのが、本書に見られる男性の典型からズレてしまった原因なのでしょうか。本書に書いてあることが今もそっくり当てはまるなら、我が国の男にはもっと大人になってもらわなきゃと思ってしまいました。私もどれだけ人のことが言えるのか、わからないんですけどね。
2023年12月12日
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「女ことばってなんなのかしら?-性別の美学の日本語」(平野卿子著、河出新書)を読みました。翻訳家である筆者が、いかに日本語の中には男女の役割分担が深く根ざしているかを広く語っています。嫉、妬、媚、奸など女偏の文字にはネガティブなものが多いことは一般にも知られていますが、そういった分かりやすいところだけでなく女性を下に見ることば遣いは日本語にいくらでも見られる、と筆者は山ほど例を上げて説いたのが本書です。読んで驚いたことが三つありました。 1.現代知られている女ことばと言われるものができたのは比較的新しい。 2.女ことばは共通語に見られるもので、方言にはない。 3.女ことばは実際の場面ではそれほど使われていない。語尾に「~だわ」や「~よ」「~かしら」などをつけるのは明治時代に女学生の間で始まったものだそうです。それまでは語尾の違いにそれほど男女の区別がなかった。また、これが東京で始まった共通語での男女の言い方の違いなので、方言にはこうした違いは見られないとか。たしかに関西弁の男性話者である私は「~してしまったのよ」とか「それはちがうわ」とかの語尾は当たり前に使います。LINEなどでも同様の言い回しをするので、関東出身の嫁(息子の妻)は最初のうち戸惑ったと言っていました。また、こうした語尾はたとえば外国語を翻訳するときなどに女性の発言であることが分かるように敢えてそう訳すことがあります。これはおじいさんが語尾に「~じゃ」をつけたり関取が「~でごわす」と話したりするのと同様、役割語というものだそうです。そう話させることで誰がしゃべっているかを分かりやすくします。でも現実の場面で、実際にそのように話している人を見かけることはあまりありません。私たちはこうした「典型的な」女ことばをドラマで聞いたり本で読んだりすることに慣れてしまっているため違和感を持たないのだとか。でも実際3次元の人間に目の前でそうした話し方をされると、きっと演技のように感じるでしょうね。こうした例をたくさん上げながら、平野はいかに日本語が私たちにジェンダー意識を植え付けているか警鐘を鳴らします。読後私は、日本語ということばのなかに見られる無意識の女性差別をこれからは見逃さないようにすることが必要と感じました。そうは言っても日常当たり前に使っている母国語は、意識のとても深いところまで入り込んでいるので、そこからジェンダーバイアスを見つけ追放する作業はそう簡単なものではなさそうですけれど。
2023年11月20日
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40年待ちました。そう思うと阪神タイガースの優勝より長かったわけです。待ったのは「窓ぎわのトットちゃん」の続編。いまどの本屋にも平積みで並んでいるこの本、発売と同時にとは言いませんが割りと早い時期に買いました。トモエ学園の印象が強烈だった前作を読み、最近の黒柳さんの活躍を見て「この後トットちゃんはどうなって今の黒柳徹子さんになったのだろう」と思っていました。今作は前作のような、強烈な個性を持つ子どもがその個性をさらに周囲に引き上げられた、ただあっけらかんとした楽しい話ではありません。黒柳さん自身がまえがきで書かれているとおり、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけにして書くことを思い立った、戦時下の子どもを思って戦争体験を描いた本だからです。東京空襲の話、それを避けるべく青森に疎開する話、お母さんの奮闘、そしてお父さんの戦争・抑留の体験。昔の話だと思いながらどうしても今の黒柳さんを思い浮かべてしまうので、どの話もそんなに悲惨な感じが伝わってこないのですが、客観的に読むと実際は相当な苦労をしていたはず。一生歩けないかも知れない病気になったり、次々と重い病気にかかったりしたこともサラッと書かれています。同様、戦後の自身の就職活動の苦労話もあまり苦労のように聞こえません。天性の天真爛漫さで窮地を切り抜けているように思えるのはあの、「徹子の部屋」でのあまり感情がこもっていないように思える黒柳さんの受け答えのせいかもしれません。しかし感情の起伏が激しくそれが表にも出ていたならば、後のユニセフの親善大使の大役などこなせなかったかも知れないですね。最近また、40年前の「ザ・ベストテン」での黒柳さんの涙の訴えが話題になっています。私はそのときの映像を鮮明に覚えていますが、最初わたしは子どもからのシャネルズへの質問「シャネルズは黒人のくせになぜ香水の名前をつけているんですか」を何とも思わず聞き流していました。ところがCMの後、黒柳さんが涙ながらに「国籍が違うからといって『~のくせに』と一段高いところから見下ろすような言い方はしないで」と訴えていたのを聞いて、ハッとしました。考えてみれば「黒人のくせに」というのはすごい偏見ですし、明らかに蔑視した発言です。しかし、それを何となく聞き流してしまった自分。言い訳ではありませんが、そういう時代だったかも知れません。男性への性加害が大問題となっていますが、あの頃はテレビやマスメディアでは男色を面白おかしく取り上げるのが常でしたし、人種問題にも世間は疎かったように思います。しかしそんな時代にも人権意識をしっかりと持ち、おかしいことはおかしいと言った黒柳さん。こんな黒柳さんを育んだ家族や周囲など、彼女の生い立ちを本書は伝えてくれています。前作とあわせて是非たくさんの人に読んでほしい一冊だと思いました。
2023年11月15日
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「沖縄:時間がゆったり流れる島」(宮里千里著、光文社新書)を読みました。2ヶ月ほど前に第一牧志公設市場の前にある「市場の古本屋 ウララ書店」でふと目にとまったのが本書。題名にゆったりとあるからではありませんが、自動車の助手席に置いて信号が赤になったときにだけ読んでいたので、読了までに長い時間がかかってしまいました。タイトルからはのんびりした島で観光客が癒やされる類いのガイドブックを思い浮かべるかも知れませんが内容は全然違います。著者の宮里千里は自身が古書店を経営し、沖縄に関するエッセイも書き綴っている発信者でもあります。宮里は沖縄の言葉や暮らしを生活者の視点から見て論ずる、郷土歴史家ならぬ郷土民俗研究家と呼べそうな人で、沖縄民俗関連の書物をたくさん著しています。内容は沖縄に現代も残る風習、民俗関連の行事中心で、第一章は地元紙に載る死亡広告欄をめぐるあれこれ。続けてさまざまな角度からウチナーンチュ(沖縄人)の特性を語ります。沖縄の人々は予約より当日券を求め、台風でも結婚式には万難を排して参列し、清明(シーミー)や十六日(ジュールクニチー)で先祖と一緒にご飯を食べ、オバァたちは他県にはない独特の名前を持ち、民謡からジャズまでを愛します。それはもはや「県民性」のレベルを超え、ナイチャーから見ると異文化、異国の様相を示しています。これまで県内外の人がさまざまな視点から沖縄を語ってきましたが、ナイチャーにとっては知っているようで知らないウチナーンチュの特徴が分かり、この一冊で沖縄の魅力をかなり知ることができるのではないでしょうか。ただし、人によっては以前から抱いていた沖縄への違和感を強めることになるかも知れません。しかし、ここに描かれた沖縄はただありのままにある沖縄の姿です。ナイチャーが魅力に感じようが違和感を持とうが、沖縄は普通にそこに存在しているだけ。昔からの伝統を守り、新しいものを付け加え、あるときは内地と距離を縮め、あるときは距離をとり、あるがままに存在し続けていることが本書を通じて伝わります。沖縄の風習を面白おかしく取り上げるのではなくウチナーンチュである著者が地に足をつけて、自らも属する世界を丁寧に描いています。発行が20年前のためそこに出てくる統計の数字などは今とは異なっていたり、雰囲気が若干違っている場合もありますが、底に流れるウチナーンチュのスピリットや伝統は変わりません。気軽に読めて現代の沖縄を知れる好著だと思いました。
2023年11月04日
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「おやじはニーチェ」(高橋秀実著、新潮社)を読みました。60代の著者が父親を介護する話。若干私とシチュエーションが似ていると、興味を引いた本だったので手に取ってみました。しかしそれはよくある、単に介護に苦労した顛末を述べている本ではありませんでした。認知症の父親の言動を、著者は「人間とは何か」との哲学的問いに結びつけざるを得なかったからです。認知症と診断された父親との会話を通じて著者は知症とは?認知とは?人間とは?と考えさせられます。父親との会話の中に著者は人間の認知に対する根源的な疑問を見出し、ニーチェをはじめとする古今東西の哲学者の言葉に答えを見つけようとします。哲学者達の引用部分は著者が分かりやすい言葉で言い直してくれてはいるものの、やはり難しい部分もあり正直言って読み飛ばしたところもありました。しかし読み進めていくうちに古今東西の哲学者達こそが実は認知症だったのかという気にさえなってきます。いつしか「ニーチェおやじ」ワールドに引き込まれ、著者の軽妙な筆致にも支えられて最後まで読書意欲は衰えませんでした。著者と父親の交流は心温まるものがありながらときには迷走していると言った方が適切な表現だと思うときもあります。が、途中から頻繁に登場する著者の妻の視点がそこに加わり、方向性は定まります。というか、妻に方向性を教えられていきます。副題に「認知症の父と過ごした436日」とあることからこの話には最後があることが分かっています。手を焼きつつも愛のある親子の交流、「ぼけているのか、とぼけているのか」分からない父親と著者との日々はしかし突然に終わりを告げます。それを分かりつつ読み進めていっていたはずですが、一読者としてあのニーチェおやじと会えなくなる場面はしんみりしてしまいます。とぼけていた分、より寂しく、悲しくなりました。私の両親も101歳と98歳。元気そうに見えても別れはいつやってくるか分かりません。本書が方向性を示してくれている通り、淡々としかし楽しんで日々交わっていきたいと思います。悔いが残らないように。というわけで、明日から帰省します。
2023年10月26日
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「妻が口をきいてくれません」(野原広子 集英社)を読みました。サラリーマンの旦那からの目線で描かれた夫婦間のいさかいを扱ったコミックです。サラリーマンの誠はある日を境に、妻の美咲から無視されるようになってしまいます。一切口をきいてくれません。しかし、誠にはまったく思い当たる節がありません。原因をあれこれ考える誠。口はきかないけれど家事やパートは続け、弁当は毎日作ってくれる妻。子どもや近所の人たちとはにこやかに接する妻。ただ、夫とだけ口をきかないのです。理由が見当たらず日だけが過ぎていきます。懐柔しようとしたり、強く出てみたりしますが効果は無し。口をきいてくれない期間は1日が3日になり、1週間になり、1ヶ月になり、さらに延びていきます。5年が過ぎたところまで読み進めていくと、今度は妻の目線からの物語が始まります。夫の目線でのみ話が進んで行くと思っていた私には意外でしたが、目次を見ればわかったことでした。なのでネタバレは嫌いな私ですが、この話の展開だけは記しておくことにします。妻の目線で物語が始まり、今度は妻の心理が描かれていきます。彼女が口をきかなくなった理由もすぐに分かります。内容についてはこれ以上触れません。長期にわたって口をきかない夫婦。いわゆる仮面夫婦です。程度の差こそあれ、誰にも思い当たる節のある話。だからこそ多くの人の共感を呼びベストセラーにもなったのでしょう。また「なぜ」口をきかないのかを夫、誠といっしょに考えるところが謎解きのようになっていて、ミステリー的な面白さで読み進めていく読者もいるのではないですか。この手の話はナゾ解きが納得でき、大団円に至るプロセスが論理的に構築されていないと一気にしらけてしまいます。その点は、帯にもある「手塚治虫文化賞」を受賞したことが保証しています。妻や夫がいる(あるいは過去にいた)読者は誰もが身につまされるストーリーです。一読の価値あり。楽しく読ませていただきました。
2023年10月20日
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「97歳母と75歳娘 ひとり暮らしが一番幸せ」(松原かね子 松原惇子著、中央公論社)という本を読みました。超高齢の母親と娘が二人の格闘の日々を綴ったエッセイで、我が家の状況と似たところがあるかと思い、本屋で手に取りました。そしてちょっと読んで爆笑。これは是非買わねば、と思いました。何しろお母さんの方がパワフルすぎます。そして、母も娘も超がつくぐらいの独立心のある人たち。母親が97歳、娘が75歳、そして弟が一人。家族構成的にも年齢的にも我が家とよく似ています。購入の際は我が家と似ているから参考になるかもと期待したところはあるのですが、似たところもありながら全然ちがうところも多々ありました。我が家とちがうのは母娘がとにかく独立独歩の精神を持っているところです。やむを得ない理由で娘が40年ぶりに実家に戻り二人で同居生活を始めるのですが、とにかくリズムが合いません。二人の生活パターンが全く違っていて、知らず知らずお互いが迷惑をかけ、かけられてしまいます。同居し始めたとき母親は80歳半ば、娘は60歳半ば。世間の多くの親子ならもう少し妥協し合い、うまく同居生活をこなしていきそうなものですが、この親子はとにかく個人主義が徹底しています。数年の間は我慢して暮らしますが、結局はまた別居する道を選びます。それができるのも母親が高齢にかかわらずスーパーパワフルだからです。二人は決して仲が悪いのではなく互いが相手の生き方を尊重している、本当の個人主義者たちなのです。しかし母親が怪我をしたりしていよいよ施設に入るときが訪れます。同居生活は合わないけれども互いの信頼は深いこの母娘。母は娘の判断を信じて何ら施設に関する希望を出さず、娘の提案してくれた施設にすんなり入居。実はこの母、家が大好きでいつもぴかぴかに掃除をして料理も上手でオシャレな人でした。そんな自分の城である家を離れ、施設に入るのは無念だろうと娘は思っていました。しかし、母は渋ることもなく入居。最初から喜んで施設の生活にとけ込みます。そういう潔さや切り替えの早さ、決断力というパワーも母にはあったことに娘は感心します。本書は娘の言い分と母の言い分のパートに分かれて、それぞれが自分の心境や意見をかわりばんこに述べ合う形で構成されています。同世代の親を持つ私としては、この母親の頭がしっかりしていることに驚くばかりです。母親のパートはおそらく談話で話したものを編集者がまとめたのだと思いますが、話がとても論理的で出てくるエピソードがとにかく面白いんです。私の家族と似ているかと思って買ったのですが、とても似ているとは言えませんでした。その意味では介護や対処の仕方の参考にはなりませんでしたが、内容が面白くて読んで元気を一杯もらえる本でした。帯にある通り「この97歳、すごすぎる」お母さん。私もしっかりと生きる力を身につけて、こんな超高齢者を目指します。
2023年10月13日
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「君が校長をやればいい」(柴山翔太著、日本能率協会マネジメントセンター)を読みました。30歳にして高校の校長になった柴山さんの自伝、というか報告書のようなものです。柴山さんは赴任2年目にして30歳という若さで福岡女子商業高校という地方の私立高校の校長になりました。校長になったことは色々なタイミングが重なったひょんなことからですが、赴任1年目の年にはそれまで誰も思いもよらなかった(期待していなかった)商業高校の生徒を国公立大学に20人も進学させるという「偉業」をやっています。そして、その偉業によって校長に推薦されたわけでもありません。国公立への多数の進学に代表されるように彼は、生徒のチャレンジを後押しする教育観を持っていました。1年目から生徒を大量進学させるというチャレンジを行ったことから分かるように、彼自身がチャレンジの重要性を体現する人でした。その年度末、彼のチャレンジを認めてくれていた校長が退職することになり、それを食い止めようと理事長にひとり掛け合った結果、「それなら君が校長を」という流れになりました。元々チャレンジャーであっても野心家ではない彼は大いに悩み悪戦苦闘して要職に就くことを受け入れていきます。ひとたび校長になるとその立場を最大限利用して、学校を大改革していきます。彼の挑戦は生徒ファースト(そういう言葉は使っていませんが)の精神の上に置かれた、シンプルですが説得力のあるものでした。高校生の子どもを持っている親はこんな学校に子どもを通わせたくなるのではないでしょうか。2021年に校長になったばかりの彼のチャレンジは今もリアルタイムに続いています。これからはどのような展開を見せ、学校が彼の下でどう変化していくのか。学校のホームページを見ながら楽しみにしています。
2023年09月29日
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「最後に『ありがとう』と言えたなら」(大森あきこ著、新潮社)を読みました。お父さんの死をきっかけに40歳手前で転職し、納棺師になった方のエッセイです。納棺師の経験から見た、たくさんの家族との別れの話が出てきます。この本は少し前に購入していたのですが、「はじめに」を読んだだけでつらくなり、読むことを躊躇してしばらく開いていませんでした。でも読みたくて買ったのだからいつまでも「積ん読」にしていてもと、勇気を振りしぼって読むことにしました。最初のいくつかの話を読んだだけでやはり胸が詰まってしまいます。急な別れになった旦那さんにもう一度「いい子、いい子して欲しかった」奥様の話。可愛い盛りの2歳のハナちゃんを突然奪われたお父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの嘆き。遺族の一番近くにいる納棺師の語りは続きます。そしてそれぞれの話に救いはあります。ひとつひとつのエピソードを読みながら、自分自身が経験してきた家族の死と重ね合わせてしまいます。そう言えば、あのときも体をきれいにしてくれたり着替えさせてくれたりした人が来ていたなあ。あれが納棺師という方だったのか、とおぼろげっだった記憶が蘇ってきます。あのときの納棺師さんも私たち遺族に様々な言葉を語りかけ、気持ちに寄り添ってくれていたことを思い出しました。半年以上も寝かせていた本ですが、読み終えて「読んでよかったな」と思える本でした。
2023年09月15日
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「三省堂国語辞典から消えたことば辞典」(三省堂、見坊行徳編)を読みました。私には人にはおススメできない、信号待ち読書の習慣があります。車を運転しながら信号待ちの数十秒間にちょこちょこ本を読むのですが、そのためにはじっくりと読み込む本を持ち込むと信号が変わっても気がつかず後ろの車に迷惑をかけてしまいます。その点、この本は一応「辞典」ですから一つ一つの項目が短く信号待ち読書に最適。言葉はときとともに変わっていきますから、辞書に載る言葉も変わっていくのは世の習い。言葉の意味が変化したり説明内容が不適切と判断されるものもあれば説明対象そのものがなくなってしまう場合もあります。自分ではまだ生き続けているという言葉が辞書からなくなるのを知り切なくなることもあります。パッと開いてみるとちょうど200ページでした。まみむめもの最初のページ。そこからちょっと拾ってみます(カギ括弧で示す引用はすべて同書200~201ページより)。そこにある消えた言葉のひとつが「マイナスイオン」。かつては「これをふくむ空気は健康によいといわれる」とも説明されていたそうですが「正式な用語ではないとして廃項」となりました。次の項目は「まえうた(前歌・前唄)」。まえうたとは「主役の歌手が出る前に歌う歌手」や「中心部分に先立つ歌」を指すそうです。その次が「まえばり(前張り・前貼り)」。説明は「はだかで演技する俳優が、陰部を隠すためにはりつけるもの」となっています。ページの最後は「まくり」。これもなくなったそうです。私にとってはなじみ深いものばかり。どれもなくなったと聞くと驚いてしまいます。いま、エアコンや空気清浄機は「マイナスイオン」効果を謳ってないのですか?歌謡ステージでは主役が出る前に歌う前座歌手というのはいなくなったのでしょうか。それに「はだかで演技する」俳優は前貼りをしなくなったのですか。ま、今なら映像技術で何とでもできるようになるのかも知れません。「まくり」はたしかに最近は見ませんが、海草を原料とした回虫駆除を目的とした飲み薬です。まくりに関してこれまで誰にも話したことはありませんでしたが、子どもの頃の文字通り「苦い」思い出があります。ある時ちゃぶ台の上に置いてある茶碗に入った茶色の液体を見て私はきっとコーヒーだろうと思い、周りに誰もいないことをさいわいにひとくちだけいただこうと思ったことがありました。ところが、ひとくち口にしただけでその飲み物は私の意に反してものすごく苦かったのです。言葉が辞書から消えたということは「まくり」を飲む人もいなくなってしまったということでしょう。周りに回虫を持っている人なんて、聞きませんものね。私には忘れられない思い出ですが、言葉と一緒に私のいたずらもフェイドアウトしていく運命のようです。あのまくり、誰が飲むんだったのでしょう。いまでも謎です。
2023年08月19日
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黒川伊保子さんの「60歳のトリセツ」(扶桑社)を読みました。自身も60歳代の黒川さんが60歳代の生き方、とらえ方を彼女の専門である脳科学の視点から描いていて、イチイチ納得出来ることばかり。読んでスッキリする胃薬みたいな本です。曰く、若さと競争する必要はない、子ども(いてもいなくても)を気にする必要はない、老いや死を受け止めて人生の達人になる、夫(妻)や友人と適度な距離を取ってつきあおう、などなど。どれも精神論や経験に基づく自分勝手な主張ではなく、あくまでも科学的に理詰めでおっしゃっているのでよく理解できます。物忘れやも体の衰えはなぜそうなるのか、どう前向きに捉えるかが分かり、生きやすくなります。NHKラジオで肩に力を入れず小気味よく話される黒川さんの口調や姿勢がそのまま文章にも表れていて、60代になって「もう若くない」と嘆いている人にも「自分が60になるなんて考えられない」と若さを謳歌している人にも、一読の価値がある本だと思いました。
2023年07月29日
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岸田奈美さんの「傘のさし方がわからない」(小学館)を読みました。テレビドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を見て、同名の本を買って読み、以降わたしの中に岸田さんのブームが来ています。ドラマはNHKーBSでやっていたのでBS放送が受信できない沖縄にいるときは見ることができません。そこで録画しておいて奈良で遅れ遅れで見ています。放送としてはすでに終了しているのですが、私は最終回をまだ見ていません。映画にしても小説にしてもネタバレが嫌いな私は基本、原作はドラマが終了するまで読みません。でも「家族だから・・・」は、あと1回を残して我慢できずに読んでしまいました。早めに本を買っておいたのがよくなかったのかも知れません。そして、一緒に買った「家族だから・・・」に続く岸田さんのエッセイ集「傘のさし方・・・」は「家族だから・・・」を読み終えるとすぐに何の躊躇もなく読んじゃいました。しかし、なんで岸田さんには人の十倍、二十倍増しぐらいでこんなに色んな出来事が起こるのでしょう。ちょっとタイトルを見ただけでもそのすごさが分かります。「歩いてたら30分で6人から『ケーキ屋知りませんか?』ってたずねられた」話とか「深夜、タクシーで組織から逃げる」話とか。似たような話は一般の人にも起こっているかも知れませんが、岸田さんの感性がそれを何倍にも増幅させて「これは絶対ネタになる」と面白おかしい文章をひねり出していくのでしょう。でもそれだけでなく、この本にはこれまでの彼女の失敗談や感動譚なども収録されています。自己肯定感が低かったり他人にさまざまな迷惑をかけたりした話もあけすけに書き綴り、でもそうして書いてきたことが「作家」として実を結びその仕事を通じて自分は救われたと素直に表明しているところがまた岸田さんの魅力でもあります。関西人は自ギャグ的(自虐的から連想して作った私の造語)なところがありますから、多分これまでの岸田さんの人生はそれほど悲惨な経験に満ちているわけではないのではないですか。自分をギャグにしておとしめて、面白く語るのは関西人の得意技。岸田さんは、その関西人の特性を素晴らしくうまく楽しく表現できる作家さん。この本を読んで岸田さんをかわいそうに思った関西以外の方、それが彼女の作戦ですからいい意味で「話半分」に読むのが彼女のエッセイを楽しむコツですよ。
2023年07月26日
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「沖縄の事件史100のナゾ」(比嘉朝進著、風土記社)という本を読みました。1989年に発行された本で、グスク時代から第二次大戦前までの沖縄で起きた「事件」を書き綴っています。版を重ねた様子もなくおそらく古本屋でしか手に入らない本です。私も古本屋(牧志公設市場前にあるウララ書店)で、偶然見つけて何となく面白そうだと思い購入しました。正直、あまり学術的な期待はできません。ナゾでも何でもなく各時代の史実(?)を収録したものです。どちらかというと歴史こぼれ話的な内容だと言った方がいいかもしれません。筆者もまえがきで「本書は史話として、気軽に沖縄史を楽しめるように書いた」としているとおり、寓話のようなものが並んでいます。内容は第一、第二尚王朝の王様の話から北谷村の村長の某が悪政を施していたといった話まで多彩。とにかく参考文献として扱ったものがたくさんあり、中山正譜から市町村史まで種々雑多。単にそれらの一部を抜き出しただけの(に見える)ものも多く、ナゾ解きというよりも歴史おもしろ読み物として(おもしろいかどうかは別として)読んだ方がいいかもしれません。これを読んで琉球・沖縄の歴史を知ろうとはしない方がいいです。ある程度歴史に通じている人が読めば得るところもあるかな、程度でしょうか。この本、四半世紀以上前に定価1000円(税込み)だったものが900円の値付けで売られていました。おそらく初版が多く見積もっても千部程度だと思われるので欲しい人が探してもなかなかないでしょうから、そういう意味では希少価値はあるのかも知れません(そもそもこの出版社、今でもあるのでしょうか)。でも一度読めばもういいかな。手許に是非とも置いておきたいほどでもないのでまた売りに行くか。さて今度はいくらで買ってもらえるでしょう。
2023年07月21日
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養老孟司さんの「ものがわかるということ」(祥伝社)を読みました。ランキングとかにも入っていて、よく読まれているようです。この本を読んでものがわかったということはありません。でも、何かスッキリするんです。ものがわかるということについて考える姿勢がわかった、というか、腑に落ちた感じがするからです。養老さんの饒舌な説明のおかげで、何がということは言えないのですが、デトックス効果みたいなものを感じます。全然、読後の感想になっていませんね(笑)。養老さんは言います。「わかる」とはどういうことなのか、「それが分からない」と。でも「分かっていなくても説明ならできる」。この本を読んでいると会得するとか体得することと知識として理解することとは全然別のことだという気がしてきます。都会化した場所で情報としてものごとの意味を理性で理解するのではなくて、自然のなかで体験しながらひとつひとつ体が納得していくことが「わかること」につながるのかな、と思いました。「分かること」そのものではないにしても。うーん、言葉を重ねたところでこの本をうまく説明できません。でもひと言いえるのは、「養老さんってわかっているな。」
2023年07月13日
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今日は先日生まれた孫と初の対面をしに東京へ。その道中、往復の新幹線で本を一冊読了しました。「家族だから愛したのではなくて、愛したのが家族だった」(岸田奈美著、小学館)本屋で平積みにされているのを見かけて以前からタイトルが気になっていたのですが、NHKのBSプレミアムドラマになったのを見てようやく内容が分かりました。こんな話だったんだ。ご存じの方も多いでしょうが岸田家を次から次へと襲う「不幸」にめげず、それをすべて笑いに変えてしまう岸田奈美さんの実生活を元にしたお話です。「不幸」のはじまりは弟がダウン症で産まれたこと。その後、岸田さんの父親が著者が中学生の時に急死。そして母親が脳梗塞で車椅子生活に・・・。これらの「不幸」をことごとく乗り越えて(と言っていいのかどうかよくわかりませんが)障害をプラスに捉えていくユーモアいっぱいの家族の物語。岸田さんが創業メンバーの一人になって起業したミライロ(ドラマではルーペ)ではバリア・フリーならぬバリア・バリューという概念が出てきます。障害には健常者にはない、独自の視点をもたらしてくれる、ある種の価値があるということです。私の知り合いにアメフトの試合中に脊髄を損傷し、車椅子生活になった若い人がいます。その彼からも「障害を負ってよかった」という言葉を聞いたことがあります。もちろん、その境地に至ったのは障害を負ってから何年も経った後のことですが、その言葉は強がりから出たわけでもなく、心の底から本気で言っているのが分かります。彼も何にでも挑戦し、車椅子でダイビングをしたり本場のアメフトの選手と交流したり。車椅子生活になっていなかったらできなかったこと、出会えなかった人たちと出会えたこと、その一つ一つに彼は「よかった」と思っているのです。彼からもらうのと同様、岸田さんの本やドラマからも元気や希望、新しい物の見方などをいっぱいもらいました。今度の日曜日でドラマは第10回の最終回を迎えます。本は少し前に購入し、ドラマが終わってから読もうと決めていたのですが、ついつい我慢できなくてフライングしてしまいました。京都から新横浜の新幹線の往復があっという間でした。
2023年07月12日
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黒川伊保子著「英雄の書」(ポプラ新書)を読みました。いわゆる啓蒙書のたぐいですが、他の啓蒙書と違う点は彼女の専門の脳科学やAI研究の成果を主張の根拠としているところ。そのために言っていることに説得力があります。副題の「すべての失敗は脳を成長させる」も古くからの言い伝え「失敗は成功のもと」を科学的に裏付けているものです。この本は「失敗の章」「孤高の章」「自尊心の章」「使命感の章」「餞の章」の5章構成です。それぞれ失敗は脳の進化に必要だ、創造するには孤高であれ、自己愛ではない自尊心を持て、使命感は他者を思うことから生まれる、上質な異質になれと説き、英雄になろうと謳い上げます。これだけ見ると一般の啓蒙書のようですが私が気に入ったのは、それぞれの主張がちゃんと納得できるところでした。いま生成AIが大きな話題になっていますが、あのAIの進化にも失敗が必要で、失敗を含めて多く学習することでより高次の発達が可能になると言います。人間の脳の進化も同じような性質を持っているので失敗をどのように進化に結びつけるかが重要で、失敗を他人のせいにしたり過去の失敗をいつまでも引きずるのはいかに「もったいないことをしている」かを彼女は説明します。本書を読んでいると、結論がスッと腑に落ちる上質なSF小説を読んでいるような錯覚に陥りました。世の中には強引につじつまを合わせているだけの説得力のないSF小説が多くて、最後まで読んでも何か納得できないもやもやしたものが残ることがよくあります。それと同じように啓蒙書でも「なぜそうなのか」を突き詰めないで「ああしよう」「こうしよう」というものが目につきます。その点、「英雄の書」はただ単に「失敗を恐れるな」ではなく「失敗はなぜ成功のもと」なのかを分かりやすく教えてくれる、好著だと思いました。
2023年05月24日
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「芭蕉布:普久原恒勇が語る 沖縄・島の音と光」(ボーダーインク社)を読みました。以前普久原本人が書いた「僕の目ざわり耳ざわり」を読み、面白かったので普久原のことをもっと知りたいと思ったのが本書を読もうと思ったきっかけ。残念ながら普久原が著した本は「目ざわり」しかなく、本書は普久原へのインタビューをまとめた読み物となっています。普久原の作曲家としての才能は万人の知るところですが、その生い立ちや写真の腕はあまり知られていないのではないかと思います。それがこの本では余すところなく述べられています。第1章が生い立ち、第2章が写真家としての普久原、第3章が音楽関連の交遊録、そして第4章が作曲してきた数々の音楽の解説という構成です。第1章では大阪で育った少年時代から沖縄に戻ってきた後の作曲家になるに至る様子が本人の口から語られます。驚くのが音楽プロデュースをしながら写真家としての彼の活躍。レコードジャケットは彼の作品とか。第3章の、名だたる沖縄の唄者や音楽家らとの交友の話もとても面白く、沖縄音楽の生き字引と言ってもいい人です(残念ながら普久原は昨秋亡くなりましたが)。それでいて全く飾らない人柄がインタビューの中に感じられて好感が持てます。言葉の端々からは彼のもつ天賦の才が感じられますが、本人は芸術家というよりも職人だと自己を表現しています。代表曲「芭蕉布」にしてもその他の曲にしても、内からあふれ出したり上から降りてきたりして出来上がったというよりも「作曲を依頼されたから作ったまで」との姿勢を崩しません。世界各国の古今の音楽に精通していた普久原は、沖縄民謡にクラシックの要素を注入したりジャズやロックを取り入れたりして新しいジャンルを作った人でした。私にはまだまだ知らない普久原の曲がたくさんあります。この本を参考にしながら少しずつ彼の歌を聞き、普久原恒勇の世界を堪能するという新しい楽しみができました。
2023年05月08日
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群ようこさんの「じじばばのるつぼ」(新潮文庫)を買ってきました。本屋さんで最初の方を立ち読みし、面白そうと思い即購入。ご本人も高齢者枠に入った群さん、もう少し上の後期高齢者の方の困った行動を観察しています。目次を見ると「ばばと乳首」「情けないじじ」「レジ前のばば」など刺激的な見出しが並んでいます。齢を重ねて何かと厚顔無恥になってくる老人の行動を取り上げているようです。いわゆる「お年寄りあるある」が並んでいて、色々と共感できそう。寝る前の読書は気楽に読めるものがいいので、重いものよりこれがぴったり。そう思って読み始めたのですが・・・。読んでいるうちにだんだんとつらくなってきました。そこには誰が見ても困惑し迷惑する老人の行動がたくさん出てきます。群さんの言っていることに間違いはありません。ですが、群さんの文章からはこれらの非行老人に対する愛が感じられないのです。群さんの意見は正論ですが、大所高所から一刀両断して当の老人達に弁解の余地を与えません。群さんは第三者的、客観的観察者の立場に立っていて具体的な非難行動はとっていません。高みから見下ろして、ときにあきれときに哀れみ、軽蔑そのものの目で見ます。そして心の中で困った老人達に言葉を尽くして罵詈雑言を浴びせかけます。ここには一歩踏み出しさえすればマスク警察になってしまう危うさがあります。高齢者たちへの非難が延々と書き記されているのを読み、疲れてしまいました。たしかに、ここに描かれている高齢者達は困った人たちであるのは間違いありません。でも個々に事情がありそうな人もいるのに群さんは自分のもつ最悪の想像をそこに加えます。もうちょっとあたたかい目で見てやれないものかなあ。いくらページをめくっても高齢者に対する非難は止みません。読んでいるうちに群さんがだんだんとのぞき見趣味のいやなおばさんに思えてきました。多分そんなことはないと思います。高齢者達の行動に本気でNGを出しているのだと思います。でもこの本、私には合わない。私にしては珍しいことですが、読了せずに読むのをやめました。群さん、ごめんなさい。
2023年03月20日
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私は映画やドラマを見る前に内容を知るネタバレが嫌いで、極力避けるようにしています。自分が見た映画の感想をここに書くときも、ストーリーの展開や結末は書きません。でも、世の中にはネタバレというか結末を知っておいてから映画やドラマを見る人が多くいます。それが私にはどうしても理解できなくて、不思議でなりませんでした。「映画を早送りで観る人たち」(稲田豊史著 光文社新書)を読み、理由が納得できました。この本には「ファスト映画・ネタバレ-コンテンツ消費の現在形」という副題がついています。映画を倍速で見る、10秒飛ばしで見る、予めネタバレを見る、には共通の理由があると言います。映画やドラマを見る目的が、一種の「コンテンツの消費」だからです。私は映画に「感動体験」を求めます。最後の最後に、いい意味で作者に裏切られる快感を求めます。しかし早送りで見る人は話のネタを仕入れるために流行のものは見ておかなくては、と考えます。したがって「コンテンツ」は、できるだけ効率的、合理的に消費することが優先されます。また、他人によって裏切られることで快感を得るのではなく、自分の「好き」を補強しようとします。他者の視点よりも自分の視点を最優先し、自分の価値に合うものかどうかを基準に映画を見ます。だから早送りをし10秒飛ばしをしネタバレサイトで結末を予め知っておかないといけないのです。そうしないでまるまる2時間を費やしたあげく価値に合わない映画を見てしまうのは「失敗」です。ここでは映画に感動を求めるのではなく、自分の「好き」を補強してくれる快感が求められています。ただし、筆者はこうした傾向を否定しているわけではありません。曰く、技術の進歩は常に”良識的な旧来派”によって不快感をもって論じられてきた、と。いま世間を見渡すと、この早送り視聴は旧来派にはあらがえない流れになっている。コンテンツの作り手も、それに合わせた作品作りをするようになっている。旧来派が何を言っても、それが世の中の流れなのです。この的確で説得力のある文章を見て、ネタバレサイトを先に見る人たちの気持ちが分かりました。ただ、私は映画に感動を求め、どんでん返しを求め、もう少し旧来派のままでいたいなと思います。いやー、映画って本当にいいものですね(死語)。
2023年03月16日
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「関西人vs関東人 ここまで違うことばの常識」(博学こだわり倶楽部 編)を読みました。よくある豆知識本の一種かと思って購入。最初のうちは関西弁と関東弁の違い「あるある」ネタが多く出てきてそれなりに楽しめます。途中からはより学術的な考察や関西のなかの京都と大阪、神戸などの違いが増えてさらに面白い。ふと最近全国的にはやっている「知らんけど」は関西アクセントで言われているのか気になりました。関西人は「知らん」にアクセントを置き「けど」を付け足します。それによって「いま言うた話は話半分に聞いといて」と責任逃れをします。「知らん」より「けど」にアクセントを置くと不確実なことを認める発言になります。関西弁の「知らんけど」はあることないことべらべらしゃべってから付け加える免罪符。関西人のコミュニケーションは事実の伝達よりもその場のノリや盛り上がりが大事。「知らんけど」はそのために使う小道具、というような意味合いのことを本書に書いてあります。まさに関西コミュニケーションの神髄。ところで、朝ドラ「舞いあがれ!」の主人公母娘の関西弁が気になります。二人(福原遥、永作博美)は関西人ではありません。しかし、イントネーションはかなり完璧に近く関西人と同じような言葉づかいをしています。耳で聞いただけでは関西人と間違うレベルかも知れません。でも気になるのは、話をするときの二人の表情。音を消してしゃべっているときの表情や動作を見ていると関東弁をしゃべっている感じなのです。(永作博美は茨城県、福原遥は埼玉県出身)大阪出身のくわばたりえはあのような表情をしません。関西人は二人のような意味深な(後を引くような)表情はあまりしないのではないでしょうか。永作博美の役は長崎県出身とのことなので、もしかしたらああいうことがあるかも知れません。でも福原遥は生粋の大阪人の役どころ。主役ということで力が入っているのか、関西人にしては「きばりすぎ」な演技に見えますね。二人ともセリフのイントネーションに関してはよく頑張っていると思います。でもあの表情が関西人に見えないのがちょっと残念。関西弁方言指導の方も表情指導までは任されてないのでしょうね(知らんけど)。
2023年03月06日
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「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記」(宮崎伸治著 三五館シンシャ発行)を読みました。この本、「交通指導員ヨレヨレ日記」や「マンション管理員オロオロ日記」と並んでおかれていました。表紙も「日記」シリーズに類したものだったのでそのようなものを期待して読み始めたのですが。シリーズの他の本と似ているところもあるものの、他とは少し内容が違います。基本このシリーズは不平不満が中心なのですが、なかでも宮崎氏の不満は飛び抜けています。それだけ彼が訴えている出版業界は執筆者を軽く見ている不良業界、ということでしょうか。私も多少出版社とかかわった経験がありますが、宮崎氏が被ったような「被害」はありません。私はおもに書籍や論文の執筆を行ってきましたが、宮崎氏は翻訳が専門。執筆分野の違いが根本にあるのでしょうか。宮崎氏によると翻訳の仕事はなかなかスケジュール通りに行かないことが多い。訳書でなくても分担執筆をしていると締切を守らない人がいた場合予定が遅れることはあります。しかし、丸ごと一冊を1人で書いていると予定通りのスケジュールが遅れることはありません。少なくとも私がかかわってきた書籍の場合はいつもそうでした。宮崎氏の話では、訳者はいつも超特急で仕事を仕上げているのに発売延期になることの多いこと。そして、延期になった理由をごまかし続ける出版社、編集者の多いこと。裁判を起こすことすらあるというのですから、出版業界は相当こわいところとの印象を持ちます。私もいくつかの出版社とはご縁がありましたが、知る限りそのような経験はありません。雑誌原稿の内容が問題になって、編集者が東京から奈良まで来てくださったことがありました。私ひとりのためにわざわざご足労くださったのもあり、私は差し替え原稿を書きました。それでも発売延期もなく、月刊雑誌は通常通り発行。定期刊行誌だからまあ当然でしょうが、個人で執筆した書籍も発売延期になったことはありません。印税も当初の約束通り支払われ、宮崎氏のように発売直前になって値切られたこともありません。翻訳本の業界は事情が異なるのか、宮崎氏がたまたま不運な目にばかり出合ってしまったのか。本当のところはよく分かりませんが業界に対する印象が宮崎氏と私は違うなと感じた一冊でした。
2023年02月07日
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いま各地の書店に平積みされている「日本史を暴く」(中公新書 磯田道史)を読みました。内容が面白く、しかも読みやすい文章だったのですぐに読み終えてしまいました。磯田さんはかつて朝日新聞土曜版「be」に連載していた歴史コラム以来のファン。どちらかというと歴史の表舞台に出てこない話を取り上げ、説得力を持って解説していました。今回の本も「闇歴史」をきちんとした史料をもとに分かりやすく語っています。内容だけでなく磯田さんの書くものは文章の読みやすさに定評があります。無駄な修飾を除いて、核心を短い言葉でズバリと書く。しかも一つ一つのコラムが短く、すぐに読み切れるのが特徴です。適当にページを開いて、そこから少し引用してみましょう。(同書p.162 「龍馬の遺著か『藩論』の発見」より 1~3行目)そうなのである。この『藩論』という本は極端に残存数が少ない。原著は太平洋戦争で消失したとされる。200部限定で出版された木版本も同志社大学人文科学研究所に、ただ一冊残るのみである。この100文字に満たない文章の中に5個の句点があります。つまり、5つの文章があるということです。一つの文が平均20文字足らずで、読点も最後の文のなかに一つあるだけです。最初の文を除けばすべて主語と述語が表され、当然ながらきちんと対応しています。これだと歴史にあまり興味がない人でも読みやすさに惹かれて、ついつい読み進めてしまうのでは。私は歴史の専門家でも愛好家でもないのですが、磯田さんの文章は好きで思わず読んでしまいます。私自身文章を書いたり人に教えたりすることがある時、磯田さんの姿勢はとても参考になります。私ももっと短く、もっと分かりやすく書きたいのですが、どうしても説明的になってしまいます。このブログはできるだけ短く書こうと、すべての文章を1行45文字以内に収めようとしています。でも、なかなかうまくいかないことも。そんなとき磯田さんの文章を思い出し、参考にし、自分を戒めている私です。
2023年02月04日
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半藤一利さんの最後の著書「戦争というもの」(PHP研究所)を読みました。第二次大戦の開戦から終戦まで、日本はいかに愚かな決断を繰り返したのかがよく分かります。子ども、とくに小学校高学年から高校生ぐらいを念頭に置いて書いているような分かりやすさです。ゆっくり読むつもりでしたが、面白さに次々とページをめくり一気に読み切ってしまいました。なんでこんなにやさしさのかは最後まで読むとその理由が分かります。孫に戦争のことを伝えたい、というのが半藤さんの執筆の動機だったのです。今は出版社の編集者になった孫ですが戦争のことをどうしても若い世代に伝えたかったのです。経験も知識のない若者にもよく伝わる太平洋戦争の解説書です。私はこれまでもったいないことをしていました。半藤さんは昭和史を中心とした歴史家だとは思っていましたが、その著書は読んでいませんでした。これまで何となく難しそうな気がして半藤さんの著書にはあまり興味を持っていなかったのです。どちらかというと敬遠さえしていたかも知れません。本屋さんでなぜこの本を手に取る気になったのは分かりません。沖縄戦のことが書かれてあったのでそこに興味を持ったのかも知れません。少し読んだだけでその面白さはすぐに分かりました。こんなに論理的に分かりやすい文章を書く方だったんですね。なにごとも、食わず嫌いは損なのだということが分かりました。これからはもう少し半藤さんの本を読んでみます。
2023年01月19日
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「マンガでわかる! 認知症の人が見ている世界」を読みました。実家に暮らす現在97歳の母は、やや認知症気味。同じことを何度も尋ねたり、食器や食べ物の場所を忘れたりします。先日は私と私の甥っ子を取り違えて、しばらく誰が誰か混乱してしまったこともありました。認知症の人が失敗する理由を絵の解説付きで分かりやすく説明してくれているのがこの本です。以前に「認知症世界の歩き方」という本を読みました。認知症患者の立場から世界の見え方を捉え、行動を理解しようという本でした。それに比べ具体的なマンガ仕立てになっているこの本は、さらに取っつきやすい印象です。そして、まさに認知症の母と同じ行動が取り上げられ、失敗のメカニズムがよく分かります。何度も同じことを聞くのは短期記憶の低下はあっても本人も覚えようと必死に努力しているからだ、と。同じことを聞く、迷子になる、顔を忘れる・・・など、本人の焦りや不安が失敗を加速させているようです。単に「ボケ」てしまっているのではなく本人もそれを補おうと努力しているのです。要は認知症患者を「できない人」と捉えずに、幼児や外国人と同様に理解しようすればいい。幼児は発達の途上だから、外国人は異文化だからと、その「間違った」行為を私たちは受容します。認知症の患者も、認知の仕方が異なっているので「間違った」ことをしていると捉えればいい。そう思うと、困ることはあってもいらいらしたり怒ったりすることは減るはずです。私の両親は二人で何とか実家暮らしをしていますが、それも姉とその旦那のサポートがあってこそ。ときどき帰省する私に姉はさまざまに愚痴をもらします。腹の立つこともあるようですし、心が疲れたり体の不調が起こったりすることもあるようです。今度帰省するときはこの本(と続編の2冊)を持ってかえって姉に是非読んでもらおう。親の「失敗」をより深く理解することで気持ちだけでも姉が楽になってくれればいいと思っています。
2023年01月08日
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「超傑作選 ナンシー関リターンズ」(世界文化社)を読みました。ナンシー関は20年前に40歳で早世した、消しゴム版画家です。消しゴム版画というユニークな分野で活躍し、当時は人気もありました。色々な雑誌に芸能人や政治家などの似顔絵を消しゴムで彫り、コメントをつけた一種の社会批評でした。存命当時からある程度注目はしていましたが、このたび新たに集大成の本が出たので読んでみました。ややサブカル的で、歯に衣着せぬという言葉がぴったりのストレートな風刺が心地よく胸に響きます。ただ、もちろん彼女が生存していた20年前の人を取り上げているので現在全く見なくなった人もいます。また取り上げられた人物の「芸風」が変わったからか、彼女の批評が少しズレている場合もあります。20数年前の視点で見ると的確なコメントだったのが今ではちょっと同意できないところも。でもそれは彼女の罪ではなく、当時といまの時代の空気が変わったのが大きな理由でしょう。逆に言うとミレニアム前後の芸能界の、時代の空気を知るには貴重な一冊と言っていいかも知れません。そのなかで何年たっても色あせないものが巻末に掲載されていました。ナンシー関が書いて当時のいろんな雑誌に掲載された、以下の三編の小説です。 「彫っていく私」ナンシー関自伝 世襲-この家に生まれて 長寿日本一 殺人事件これらの短編小説は消しゴム版画以上に彼女のユニークな才能を現していると思いました。版画に取り上げられた人を知らない世代であっても、小説だけでも読む価値があるお薦めの一冊です。
2022年12月30日
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下重暁子さんの「老人をなめるな」(幻冬舎刊)を読みました。美人(アイドル?)アナウンサーの走りとして活躍した下重さんも御年86歳。でも、老いてますます盛んに執筆活動をされているご様子です。最近出版されたこの本、帯に「日本のタブーを一刀両断」とある通りまさに痛快のひと言です。老人に住みにくい日本を嘆き、嘆くだけでなくいかにして住みよくするかを彼女は説きます。それは老人の視点、老人の立場からみた日本社会に対する批判。批判の矛先は年金、介護、終活、免許返納など老人特有の話題から、断捨離、原発再開にまで及びます。小気味よい文章が次々と出てきて思わず読みふけってしまいました。下重さんはこれらの話題の多くに対して、素人と言っていいでしょう。やや論理に飛躍があったり根拠が十分でないのではと思われるところもあります。でも、素人だから、専門知識がないからと、黙っていることを彼女はよしとしません。素人は素人なりに考えて、おかしなことはおかしいとはっきり言うべきだと示してくれます。タイトルは「老人をなめるな」ですが、これは「素人をなめるな」と言ってもいい本です。下重さんは自分が「老人」という立場なので老人問題をとくに取り上げたのでしょう。でも老人問題批評家にとどまらない文明批評家としているのがこの本の面白さ。下重さんがエッセイストとして活躍しているのは存じていました。でも、これまではあまり関心をもっていませんでした。それでちゃんと彼女の本を買って読むことはしていませんでした。でも、考えが変わりました。読後、こんなにスッキリと胸がすくのなら彼女の他の本にもあたってみよう。ちょっと佐藤愛子さんとダブって見えたりして、佐藤さんが書いている錯覚に陥ることもありました。いずれにしろ元気な老人が発する、歯に衣着せぬ言葉は面白いということでしょう。
2022年12月21日
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ときどき、ベッドに入ってもすぐには眠りに就けないことがあります。それでこれまで横になったままスマートフォンを見たりテレビを見たりしていました。でもスマホやテレビはブルーライトが出て睡眠の妨げになると聞きます。それが理由なのか分かりませんが、実際1時間以上スマホを見たりテレビを見続けることもありました。あるとき、スマホやテレビよりも寝られないときは読書をしろと聞きました。そこでベッドで本を読むことにしました。読み始めるとしっかりと読んでしまい、すぐには寝つけません。ページをめくっていると本当にこれで眠れるのかなと心配になってきました。でも気がつくとしっかり寝てしまっているではありませんか。昼間に読書をしているときもたまに眠気が襲ってくるときはあります。でもそれは自覚した眠気。眠くなったら少し読書を中断して他のことをしたり読書を終える選択をしたりします。でも、ベッドのなかでは知らないうちに目をつぶってしまっており、そのまま寝てしまうんです。なんて効果的。スマホやテレビを見ているとなかなか寝つけず見続けてしまうことがよくありました。でも、読書をしているとものの10分やそこいらで眠ってしまうことが多くなりました。こんなに読書が睡眠を誘うとは。それは内容が固い本でも軟らかい本でも同じ気がします(どちらでも試してみた)。知らないうちに寝てしまっているので、次の夜にどこから読み始めたらいいのか分からないくらい。栞を挟むこともできないほどコロッと寝てしまっています。そのためふと気がつくと前夜と同じところを読んでいたりします。読書就寝法、誰にでも当てはまることではないかも知れませんが私には効果覿面でした。入眠に困っている人がいれば一度試してみては?と言いたくなる方法かと思います。おかげで私は毎晩8時間睡眠を確保しています。
2022年12月13日
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「菜の花の沖縄日記」(坂本菜の花著、ヘウレーカ)を読みました。石川県出身で沖縄県のフリースクールに3年間、高校留学をした坂本菜の花さんの手記です。これをもとに沖縄テレビが制作し映画化された「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」も上映されました。残念ながら私は観るタイミングを逸し、そこで前から気になっていたこの本を買いました。高校1年から3年までの彼女の日記から分かるのは、菜の花さんのとっても素直な人柄。フリースクールで経験するちょっと変わった「授業」を彼女は精一杯受け止めます。身のまわりや沖縄という社会で起こっていることにも自然に溶け込んで入っていく菜の花さん。一生懸命たちむかうものの、最後には来るものは拒まず、去る者は追わず。そのような自然体にも見えますが、頭のなかには実は色んなことが一杯駆け巡っていたようです。素直な感性が様々な体験のなかでさらに磨かれた結果、すばらしい「沖縄レポート」になっています。「沖縄の問題」に関わるほどに、それは「日本の問題」になり「彼女の問題」になっていく。フリースクールや沖縄での体験をすべて体にしみこませ、それをさらに咀嚼する力を養っていく彼女。「沖縄」を知る書籍のなかでもとくに素晴らしい素材を発見しました。沖縄にそれほど関心がない人も、この本を読めばきっと興味を抱くようになる。そして少しは沖縄をわがこととして捉えられるようになる。そんな気にさせてくれる本です。どうしても映画も観たくなりました。上映情報があれば今度こそ見逃さないようにします。
2022年10月16日
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先日、那覇空港内の書店、宮脇書店でディスプレイされている本が目に入りました。「どこにもないテレビ:映像が見つめた復帰50年」です。同タイトルの、NHK沖縄放送局きんくる(金曜クルーズ)の特集番組が面白かったので買ってみました。NHK沖縄放送局ディレクター、渡辺考(わたなべこう)さんが著した本でした。第二次大戦後、占領軍の統治下にあってどのように沖縄では放送が再開できたか。テレビだけでなく、ラジオの放送再開も含めて沖縄の放送に携わる人たちの悪戦苦闘の記録です。ノウハウも資材も少ないなか、沖縄でいかにラジオ、そしてテレビが始まり発展していったのか。「どこにもない」とは日本の他の地域とはまったく別の発展の仕方をしていったことを指します。驚く話の連続です。まだNHKがなく民放だけだった時代にCM入りで紅白歌合戦や大河ドラマが放映されていたこと。「お笑いポーポー」(沖縄の伝説的お笑い番組)が取り戻させた沖縄人の矜恃。ナイチャー撲滅運動を謳った、ラジオ深夜番組の大人気。そして、今に続く米軍基地負担による数々の問題。沖縄のテレビ、ラジオはこの問題を繰り返し繰り返し取り上げます。しかし、沖縄人(ウチナーンチュ)に自明のことが本土のメディア、人々になかなか届かない葛藤。それでもなんとかして「本土に問いたい」放送人は様々な工夫をします。放送再開のドタバタ物語として面白く読んでいたのが、最後は本土と沖縄の向き合い方の問題に。沖縄の放送は一貫して平和と差別の問題とともにあったということがよく分かりました。もう一度きんくるの「どこにもないテレビ」を見返してみたいな。
2022年09月14日
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世の中至る所でSDGsの大合唱が聞こえてきます。言わずと知れた国連の提唱する「持続可能な開発目標」ですが、私は何となく違和感を持っていました。8月の終わりに某テレビ局が行う、あの自己愛に満ち正義を振りかざす番組同様の匂いを感じます。掲げられた17の開発目標のひとつひとつは文句のつけにくいものばかりです。でも何か違う。何かおかしい。なぜ今そこなんだろう。そんな感じを持っていて、SDGs、SDGsと騒ぐ輪の中に入るのを躊躇していました。そんなとき書店の棚でこの本を見つけたので読んでみました。なるほど~。私の抱いていた違和感の正体が分かりました。帯にも書かれているとおり、SDGsは何らかのビジネスの意図を持って仕掛けられたもの。某テレビ局の番組にもある種の意図を感じるところが似ています。一見人々が反対しにくい、しかし独善的な「正義」を振りかざしている。それが本当に望む結果を生み出すことはなく、根本的解決からむしろ目をそらせている。SDGsはなぜ始まったのか?誰が儲けているのか?なぜ広まったのか?サステナビリティ(持続可能性)とは? ・・・そういった疑問に答えてくれる本です。最後に本書が紹介しているヨーロッパのことわざを引いておきます。 「地獄への道は善意で敷き詰められている」
2022年06月17日
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そして、我が家の新聞はデジタルだけとなりました。もう、宅配紙は来ません。今までいつもそばにあったものがないのは何となく勝手が違います。ちょっとテレビ欄を見よう、と思っても新聞を手に取ることは出来ず。パソコンやスマホの画面を見なければなりません。(もっとも地デジは画面上に番組表が出ますが)それでも何となく不便になった感、なきにしもあらず。でも、いちいち配られた新聞を新聞受けに取りに行く必要なし。リビングにチラシなどゴミがあふれることもなし(新聞も読んだ後は即、ゴミ)。読み終わった新聞を整理して袋に詰め、古紙回収に出す必要もなし。ソファでくつろいで新聞を広げるという習慣はなくなりました。その代わり、ソファでスマホを広げ(?)ます。ベッドでもスマホを広げます。大きい画面で見たいときはパソコン。PCはデュアル・モニターを使っているので、サブの画面にはいつも新聞を出しておきます。デジタルの新聞は朝刊・夕刊に加えてリアルタイム版もあるのです。写真もカラーが満載。ときどき動画もあるのが、デジタル版の魅力です。ただ、4コマ漫画と土曜版が今のところないのがちょっと寂しい。これが掲載されると、もっとデジタル版の読者がつくと思うんですけどね。いまはお試しキャンペーン中で7月末までデジタル版は無料。私は思いきって今月で宅配版をやめたので、6月の数日分もタダにしてもらいました。そんなわけで、6月分と7月分は新聞代を払わずに新聞が読めることに。浮いた8千円を何に使おっかな~。
2011年06月04日
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決めました。新聞はもうアナログをやめて、デジタル一本でいきます。デジタルがないときは、朝のせわしない時間帯にパパッと読んでおしまいでした。夜、帰宅したときには夕刊に目を通す。朝刊は15分も読まないで終わっていました。夕刊もそんなものでした。そのために月3,950円はかなりもったいないと思っていました。言わば習慣で、新聞がないと寂しいという気持ちで取りり続けていたに過ぎません。ネットで見たい記事ばかり読むより、向こうからやって来る記事も読まなきゃ。たしかにプル型ではなく、プッシュ型のメディアにはそれなりのよさがあります。にしても、費用対効果はどうなのか。デジタル版ができたことで、これがかなり改善されました。携帯(スマートフォン)パソコン、どちらでも読めるとなると、それなりに読みます。たとえば就寝前、ベッドの中で新聞を広げる気にはなりませんが、携帯ならOK。病院の待合室では新聞を広げているおじいさんの横で、私は携帯で同じ記事を。そんなことをしばらく続け、もうデジタルだけでいいと思うようになりました。アナログには別のデメリットもあります。それは紙の処理。本体だけでなくチラシも大量に配布されます。なぜ勝手に入れていくゴミをこっちが処理せねばならないのか、いつも疑問でした。テレビの民放のように広告料収入があるので無料にする、というなら我慢もします。でも、購読料はしっかり取られたうえに、ゴミの分別までやらされる。そんなこともあり、今日でアナログは中止することにしました。今のところ、7月末までデジタル版は無料。となると、ほぼ2ヶ月間、新聞はタダで読めることになります。そんな計算もちょっとあったかな?
2011年06月03日
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「完全カンニング・マニュアル―どんな試験でもラクラク合格! 」という本を読みました。 有栖 脱兎さん他の著で、第三書館から1997年に出た本です。名前につられて買いました。いや、私がカンニングしようと思ったのではありません。試験監督もするので、その立場からどんなテクニックがあるのか知るためです。名前負けでした。古今東西のありとあらゆるテクニックが紹介されていると思いましたが、期待はずれ。カンニングペーパーや隣の試験をチラ見するなどがやはり主。二人組、三人組でやるなどというのもありましたが、新鮮味はそれほどありません。あとは東西の映画の紹介や体験談の紹介、ネット記事などでページを埋めていました。若干古い本なので、安室奈美恵が若い頃に出演していた映画なども紹介されています。でも映画に出てくるテクニックを始め、ほとんどは現実にあり得ないようなものばかり。この本を読んでもたいして参考になりません。そういえば以前、互いに相手の名前を書くという不正行為を摘発したことがあります。たぶん合格できなさそうな人が、その試験の合格が不要な優秀な人に頼んだのでしょう。これは単純な割りに見つかりにくい方法かも知れません。ではなぜ私が見つけたか。明らかに女性の名前が男性の試験用紙に、男性の名前が女性の用紙にありましたから。提出直前に名前を交換して書くのならともかく、最初から名前が書いてありました。これなら、誰でも見つけますよね。・・・馬鹿すぎる。せめて女装や男装してきたら、こっちも楽しめたのに。
2011年02月25日
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オーストラリアから帰ってきて思いました。やっぱり電子書籍リーダー、要ります。往復の飛行機の中でかなりの時間、本を読んでいました。往復で合計4冊ほど読みました。それぞれがそこそこ分厚い単行本。電子書籍リーダーも大きいものは重いですが、かさは本1冊分ほどでしょうか。本4冊を1個の電子書籍リーダーに代えられれば、荷物も減りそう。前もって用意したのはこの4冊ですが、足りなくなると思い空港でも1冊買いました。その本はオーストラリアで読み切りました。6泊7日の滞在でこれですから、今夏に2週間滞在することになったら10冊は必要?そうなるともう、電子書籍リーダーを買うしかありません。iPadのような何でも屋さんは要りません。私としてはキンドルのような、リーダーに特化したeインクの読みやすいのがいい。でもキンドルはまだ日本語のコンテンツが少ない。現地の人にもDo you read a paper book or an electronic book? と聞かれました。彼女、paper book派だと話してましたが、旅行の時はe-bookが便利よね、とも。ガラパゴスやソニーリーダー、galaxy tabなども検討していますが、どれもイマイチ。8月までには希望にぴったりのが出ますように。
2011年02月23日
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『武士の家計簿-「加賀藩御算用者」の幕末維新』を読み終えました。(磯田道史著、2003年、新潮新書)年末にやっていた映画の原作です。映画化の話より何年も前から買っていたのですが、今ごろようやく読みました。最初はタイトルに惹かれて、数年前に買いました。でも積ん読状態で何年も放置。そのうち、著者の名前に、ふと思い当たりました。「あ、この人、新聞に歴史の裏話のような話を連載している人だ!」その連載は読みやすい文章で書かれ、内容も興味深いものでした。この人の著した本なら面白いだろう。そう思って、寝る前の本として読むことにしました。でも、私は寝つきがいいので、なかなか進みません。そのうち、堺雅人主演で映画化されるという話を聞きました。こりゃ大変、早く読んでしまわないと。とは思うものの、相変わらずバタンキュー。寝つきのいいのも考えものです。昨夜になってやっと読み終えたのですが、ロードショーはもう終わってしまったようです。これは物語や小説ではありません。タイトルの通り、加賀藩の士族、猪山家の数代にわたる家計簿の紹介です。言わばドキュメンタリー。しかし、これが面白い。家計簿はその家の暮らし向きから、その時代の空気までを反映します。猪山家は代々御算用者(ごさんようもの)という、藩の会計係でした。エクセルもない時代、和算、算盤の能力に長けていることが必要でした。これは特殊能力なので、世襲というわけではないけれど子に引き継がせました。会計さんですから、家の家計簿もしっかりつけていたようです。そうして、猪山家の家計簿が何代にもわたってずっと残ってきました。その貴重な古文書を、著者の磯田さんが古本屋で発見したのです。私もかつて家計簿をつけていたことがあります。20数年前の話。まだそれほどパソコンが普及していなかった頃です。私は早くから(30年ほど前から)パソコンを使っていました。でも、今のように簡単な家計簿ソフトなどありません。自分でデータベースソフトを工夫して作っていました。それをフロッピーに保存し、連続用紙に印刷していました。当時ある研究者(ロシア人の生活を研究している人)にその話をすると、「それは貴重な資料だから残しておくといい」と言われました。まさか。ただの家の家計簿が、とそのときは思いました。でも、そんなこともあるのかも知れませんね。私の家計簿は家族の反対などにあったりして(笑)、数年で断念。(何だか使い道を監視されているようで嫌だったそうです)印刷したものも捨てちゃいました。でも庶民の記録も、ちゃんと続けておくとそれだけで何か意味を残したかも。惜しいこと、したかな。まあでもヨッサン家の家計簿を誰かに見せてもしょうがないですね。
2011年01月29日
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「日本史のおさらい」という本を読み終えました。 自由国民社から出ている「おとなの楽習」シリーズの一冊です(山田 淳一著、2008年)。中学校の教科書くらい(かな?)の情報が、先史時代から現代まで出てきます。各時代はそんなに詳しくないけど、流れをつかむには十分。江戸時代と戦国時代はどっちが先?それには答えられても、じゃ戦国時代の前は?と言われると、なかなか分かりません。なぜ戦国の世になったのか、それもすっかり忘れています。江戸時代にしても260年もあって、記憶はとてもいい加減。忠臣蔵の元禄時代ってそのうちのどの辺だったのでしょう。室町時代とかになると、さあいつだっけ?てなもの。平安時代で知っているのは「鳴くよウグイス平安京」ぐらいです。そこでこの本で「おさらい」をしました。読み終わった今も、日本の歴史があんまり頭に残っているわけではありません。けれど、読んでいるときは流れがよく分かって一つの物語として面白いんです。当たり前ですけど、歴史ってつながっているんですよね。だから、「今日はこの時代だけ読もう」と思っていても、つい次が読みたくなる。前の時代があって、その続きとして次の時代がある。それもいきなり、パっと変わる訳じゃなく、徐々に変わっていく。その辺が惹きつけられるところです。しかも、少しはどこかで聞いた名前の人が出てくる物語。結局、この本を読んでも何が何年にあったかは覚えていません(私の場合)。けれど、ものごとが順々に起こっていく様子がよく分かりました。さすがに歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)は、同根のことばです。
2011年01月25日
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とある大学院の入試問題(英語)を見ていて面白い意見に遭遇しました。試験はある長文を読ませてその内容について問うものです。よくあるタイプの試験ですが、面白いのはそこに引用された研究論文の内容。論文の主張は「片付けないことや無計画なこと、先延ばしするのはいいことだ」です。片付けることに時間や神経をすり減らすより、大ざっぱでいいじゃないか、とのこと。研究室が乱雑で有名だったフレミングは、放置したペトリ皿からペニシリンを発見した。この世紀の大発見は、もし彼がきちんと実験器具を片付ける人だったらなかったろう。世界に誇るアメリカの海兵隊も、十分な計画を立てた上での訓練はしない。そんなことをすると、突発的な出来事に対してとっさの対応が鈍くなる。などなど、うまく当てはまりそうな例をいくつも紹介しています。野口悠紀夫も『超整理法』で、「資料や書類は片っ端から順に並べるだけでいい」なんて言ってるしなあ(上記の論文は『超整理法』より後の2007年のもの)。私の机の上もごたぶんに漏れず、片付いていません。こんな駄文を書いている間に片付けないとなー。今まではそう思っていましたが・・・。まいっか・・・読んでいるとだんだんそんな気になってきました。
2011年01月22日
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