☆いんてりあちっく☆

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2007年08月18日
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カテゴリ: コレクション
葛飾北斎「富嶽三十六景」







    幼名は時太郎。後に鉄蔵。
1764年 幕府用達鏡師であった中島伊勢の養子となったが
    後に実子に家督を譲り家を出る。
    その後貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、
    実家へ戻る。
1778年 勝川春章の門に入った。
    狩野派や中国画、西洋画などあらゆる画法を学び、
    風景画を多く手がけた。この頃は「春朗」という号だった。
   「春朗」は春章と春章の別号である旭朗井(きょくろうせい)
    からそれぞれ1字をとったもの。
1779年 勝川派を破門される。
    理由は、最古参の兄弟子である春好との不仲とも春章に隠れ
    狩野派の画法を学んだからともいわれるが、
    真相は不明である。
1795年「北斎宗理」の号を用いる。
1798年「宗理」の号を門人宗二に譲り、自らは「葛飾辰政」を用いる。
1805年「葛飾北斎(葛飾 北齋)」の号を用いる。
1810年「戴斗」の号を用いる。
1814年 北斎漫画の初編を発刊。
1820年「為一」の号を用いる。富嶽三十六景は、1823年に開版し、
    1831年に完結する。
1834年「画狂老人」、「卍」の号を用いる。富嶽百景を手がける。
1844年 信州小布施に旅行する。1848年まで滞在。
1849年 5月10日、浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没する。
    享年90。
    辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」






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最終更新日  2007年08月19日 01時20分12秒
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