yuuの一人芝居

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倫子先生、地方の行政に対して維持または申請には恫喝しかなくなっています。刺青を入れそれを見せての交渉、多勢に無勢での朝鮮人の威圧があらゆる交渉を成功させている事実があります。それはさておき、世の中の趨勢として、国民の心には神仏稀釈という概念が広がりつつあるということでしょう。そう言って逃げているのかも知れません。国民の心にその余裕が全くなくなっている、無神論、諦観主義、堕落倫理、ただ己だけが贅沢に暮らせればいいという個人主義が蔓延しているということでしょう。神社仏閣にゆくにしても物見遊山にしかすぎません。昔は幼い子らも道端に立つ地蔵に手を合わせていたものですが、今はその心もない。大人がそれを見せないからなのです。幼い心にその敬ぶ心を取り戻させなくてはならない。人間としての清廉な思いを伝えなくてはならない。生きることの感動を共に生き悟らせなくてはならない。子供たちと学び、今の子供たちの干からびようとしている心に潤いと言う英知を気づかせなくてはならない。現行の学校教育ではその心は芽生えない。先生のような塾が全国に出来て人間とは何か、神、仏の大切さを説かなくてはならない。物の大切さ、伝承されている遺産に愛着を持たせなくてはならない。まずそこから始めなくては脈々と続いたそれらの遺産はまさに廃棄されます。森羅万象(いきとしいけるもの)を内包し生きることを取り戻さなくては、日本としてのあり方がなくなることであろう。

新聞、メディアの劣化は急速である。洗脳し煽るだけの役目をはたして、国民をどこへ連れて行こうとしているのか。協定があるにしてもなぜ中韓のことに触れない。公平な姿勢が使命ではないのか。昔は朝日と言えば便所紙に最適と言われていたが、今は何の役にも立っていない。そのことに焦り人を貶め、虚偽の洗脳記事に終始している様はまさに断末魔の叫び、一部の国民を道連れにするだけだ。いい加減に自分たちが嘗て人間であった事を思いだしたらいいだろう。今の朝日は人間の正常な行いでなく常軌を逸脱している。戦中の戦争高揚記事といい、最後の楽天地北朝鮮と言い、慰安婦、南京、細菌兵器による人体実験と言い、ありもしない捏造記事で人心をもてあそび、その反省も訂正もなく、なお今は戦争法案と虚偽をまくしたて国民に恐怖を与えている、ならば、これからの日本はどのように進むことが正しく、平和と幸せを享受できるかの具体的な提案を提供してもらいたい。

o 私は何かを買う時、店の姿勢、店員の態度で判断しています。今まで大きなものは家、車にしても対応してくる人の心を買ってきた。安いという誘惑に勝ったのも信頼と言う付加価値を大切に思ったからです。若いころ毎日のように喫茶店でコーヒーを楽しんだのも、そのコーヒーの味だけでなくマスターの言葉からこぼれる味を楽しんだのです。つまり雅の味であったかも知れない。昔のマスターは博識でよく世間のことに精通していて、返ってくる言葉は心地よかった。この小さな茶店が私を育ててくれたのです。そこには人が集まり客との話の交換もできた。そのやりとりに参加して自説を吐露する存在は大きかった。そんな青春時代を経て貧しい知識をもとに人様に演じてもらうものが書けたと思う。いっぱいのコーヒーとは言えそのなかには情熱と人となりが含まれていた。今は、そんな茶店はなくなっているが、商いとは客の心を豊かにさせ喜んでくれる笑顔を求めるマスターの人徳なくして成り立たないものだと知った。そう言えば久しく外で飲み食いをしていない今日この頃ではあります。
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この程度の頭と認識で作家と名乗り文字をつらねられるほど日本の文学は劣化しているのか、どうして世界の中の日本と言う視点に立てないかのか、現実に何が起こっているのかを問えないのか。この人の読者は気の毒である。かつて、福永武彦がいたころはまさに日本の文学は最盛期であったが、やはり親の七光りの愚息ではこの程度か。情けなさを通り越して腹が立つ。かつて、ベトナム戦争に関わった開高健、小田実という先輩たちの爪の垢でも飲んで目を覚ませ。やるのならそこまで命をかけるのが、体験を持ってそれを作品の文低に沈めて書き著わすのが作家と言うものではないのか。この人は物書きできなく恥かきである。

こんなにたくさんの神が存在するのは日本くらいか、八百万の神、それが日本人の精神の根底をなしている。敬うことができない人に人を導きことはできない。現実を見ない人に真実は語れない。歴史を知らずしてまた真相を話せない。その多くの神が存在したのはおそれだった。たたりを恐れてその人を神とした。その畏敬が神への信仰心をはぐくんだ。そんな国はこの日本しかない。祈願するのは神、人を送るのは仏と使い分けるのも独特のものだ。私は倫子先生のように神との付き合いありません、が、人が生きて成長する過程で色々な儀式が行われていますがそれには倣っています。その神仏混合の催事は日本人の心の奥深くに潜み伝えられたものなのです。歳を加えていく過程で自然にそのことを行うようになっています。この心のあり方は科学では絶対に解き明かすことのできないことです。その神秘こそが神の存在なのかも知れません。私も日本人だったとの安堵を持つこの頃です。日本国の誕生2600年から未来永劫に変わることのない精神のおきどころと考えて生きています。

• 私が東京から帰った時には倉敷水島の空は燃えていた。農作物は枯れ始め、煤煙は100M先の景色を奪った。汚染水は魚を異臭を放つ奇魚に変えた。人はぜんそくで相次いで土に還っていた。そこにはたくさんの左翼の運動家が集まった。私は市民運動に参加していた。海を返せ、川に魚を返せ、空に鳥を返せと叫んでいた。入ってきた運動家の資金はそこの女性が体を売り賄っていた。住民と運動家たちとは連帯を組まなかった。いや、組めなかったという方が正しい。私たちは車を捨て、洗剤を捨てた。あらゆる公害のもとを廃止することにした。教師たちは洗剤を作ると言って石油を燃やして公害を出していた。企業は高梁川の上流の水をためて魚を泳がせこんなにきれいな水しか排水していないといった。煙突を高くして煤煙を拡散してその場しのぎをしていた。だが、今でも曇った日、夜には黙々と煤煙は空を覆う。公害はなくなったというが、それはみなさんの錯覚である。
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神々しい…。一劫の時の長さはいかほどか、蒼き地球が誕生して、人々は生きることに汲々とし、また、争いの連続で、人としての業を刻み続け、阿頼耶識にその様を残して。だか、自然はどうであったろう、温暖期、氷河期、いつ終わることのない雨が降り続き、その繰り返し、隕石の落下、火山の噴火、地域変動、そのなかにあってなんと美しい景観を残してくれたのだろう。はたして人間はその恵みを感受することを許されるのだろうか。自然の営みをともにすごしつかの間の幸せを太陽に、山に、月に祈ったのは人間の進化であったのか。今問われる人間の進化とは、あらゆる宗教は欲心を捨てよと説くが、儘ならぬ傲岸な人間は我欲を育てあげている。なぜに、釈迦、キリスト、マホメッド、の教えを超えた新しき実証は生まれないのか。ヒマラヤにむかってしずかに坐して瞼を閉じ瞑想することで生まれた現行の教えを超えるものを人は求めなかったのか。それは科学で証明されていないがためなのか。人の心は科学では説き明かすことはできない。それらの摩訶不思議な世界のなかでいかように生きるのが人間の進化であろう。

• 吉馴 悠 太宰は芥川賞をとれなかったから作品が多く残せたと思っている。川端康成にも必要に懇願したという。なぜ、賞にこだわったのか、菊池寛が雑誌文芸春秋を売らんがために芥川を、直木を利用しただけのものを。創設時にはそんなに問題視されていない。有名であった太宰がなぜにそれにすがったのか、新人に与えられるべきその賞がそんなに欲しかったのはなぜ。その権威か、自分を高く見せるためになのか。精神が病んでいたのか、貰っていいたら悲劇の人にはなれなかったであろう。桜桃忌のよる太宰を偲ぶ催しもなかったか。私はもらえなかったことをよしとしている。今、なぜ、未だに賞に拘りお祭り騒ぎをするのかわからない。物書きのあこがれ、その賞によって作家として認められる、だがその補償は芥川賞にはない。その賞をとり1作で消えていった人は数知れずである。受賞すれば友人たちがそれを祝して祈念パーティーを開いてくれる、そのお返しに受賞者が受賞パーティーを開いてお返しをする。文人とはおめでたいものである。賞金と金時計をもらい悦に浸ってどうするのか。時計はすぐ壊れると聞いた、賞金はパーティーの費用に消える。残るのは貰ったという喜びだけなのだ。自尊心を満足させるだけなのだ。だが、その賞金をたとえば障害者に寄付したという人を知らない。そうした行為によって引き起こされる社会現象が人間としてのあり方だと思うがいかに。このたびの佐藤春夫への懇願の手紙も失笑である。未熟で幼稚としか思われない精神構造から生まれているとしか思われない。甘ったれているのだ。もと津軽藩主の家系、その名誉のために欲しがったとしたらあわれとしか言えない。が、ここにも人間としての成長を忘れた生き方を見る。何度も自殺をしようとして、それも女性とである。作品は好きではないが読んでみてひ弱な覚悟のなさ、生きる自覚に欠けていることを見る。当時はいいところの出の人たちによる趣味と道楽で文学という世界は作られていた、が、何か引きずるものを太宰は持っていた。それは華族としての崩壊であった。が、それゆえに再興を願ううえで賞が必要であったのか、その程度の認識なのか、太宰に問ってみたい。が、女性と玉川上水で自殺をしている。作品は好きだが人間としては好感が持てない。芥川のように道連れなして逝くべきであった。その対象に坂口安吾の生き方がある。無頼の作家、人格障害を持って多くの作品を残しているが、薬物依存で破滅している。だが、この人は自己に忠実であったがために破壊したのだ。作家とは細心で神経が研ぎ澄まされ、強靭な精神の上にあってものを書くという生き物であるということを、これから作家になろうとする人は自覚すべきであろう…。江戸時代の戯作者を見習うべきなのかも知れない…。
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私は常に不思議に思っていました。漢字がシナからもたらされたという疑問でした。漢字になる前には神代文字が使われていました。それが漢字に変わった、平安時代には女性はかな、文字男性は漢字を使っています。神代文字はどうなったのでしょうか、私はそのなぜを捜すべく旅に出ることにしました。メソポタミア文明にです。その中のシュメール文明でかなにそっくりの文字を見つけました。それは象形文字から作られたものでした。日本にもその文字を刻んだ神社があります。日本独自のかなから元の漢字をたどった見たのです。日本にはシナ、朝鮮民族のDNAはわずかしかありません。トルコ、インド、ベトナムの方がはるかに多いのです。それにユダヤのもの、日本は南方からの渡来人が多くてその混血が今の日本民族であるとかが科学的に証明されています。中国漢字に多少は影響を受けているけれど独自の漢字を作ったと思います。そのもとはシュメール文明が作った文字、が基礎になっていると思うに至りました。四書五経の意味を日本語として読めますか、神代文字から日本独自の漢字を時間をかけて作っていった。なぜ、たくさんの人種の違う渡来人に共通する文字が必要であったと考えるのが妥当だと思います。戦後のGHQの政策で漢字の制限が行われたが、ではなぜ日本に溶け込んでいるヘブライ語をその対象にしなかったのか、例えば、平安京をヘブライ語ではエルサレムとなるのです。私も物書きの端くれとして日本語でなくては的確に表現できない言葉の数々に支えられながら作品を書いてきました。日本の作品も翻訳されて世界で読まれています。が、果たして伝わっているのでしょうか、語彙の豊富さ、それを訳すことが出来ているのでしょうか。たとえ、世界に理解してもらわなくても其れこそが日本の文化であり資産なのです。私も新聞に連載をするときに新聞漢字で書いてほしいという制約を受けました。これでは読者に対して失礼の極み、書くのが楽しくなく早く辞めたくてしょうがなかった。3年間苦しみました。日本語のすばらしさを書いて、それを読者が理解出る、それは読者の知性です。残すためには書き手と読者の真剣勝負がなくてはならない、日本には今、その真剣さが書き手も読者もないという不幸があります。渡辺さん、これはあくまで個人的な思考から書いたものとしてお受け止めください。石川さんに対しては失礼があることも承知しておりお詫びいたします。

これでは歌い手がかわいそうです。作詞家、作曲家には余禄がある。手あたり次第付録付き。作家協会には法治部という著作権を管理保護する部が設けられていてそれがメーンとしている。私は著作権は儲けたカスであるから放棄するという考えを持っていたので嫌気がさしたやめた。芸術家、文人が金に汚いというのは困ったものである。品性が汚らわしい、まあ、作品が出来ないのはわかる。日本には悪しき伝統がある。賞をもらうと賞金でパーティーを開いて喜び有頂天になる。そんな物書きがいい作品を書けるはずもない。賞金は施設に寄付するくらいの心根がほしいものだ。そんな人たちが作家として長く続かないことは歴史が証明している。私は無名作家だが、賞金はすべて寄付した。また、著作権は放棄している。また、著作権の意味も知らない人たちが横行している。著作権は想像したものにしか与えられかく保護されている。新聞の記事にはそれが該当しない、科学の論文にはコピペが許されている。昔、歌手はレコード店の店先でリンゴ箱に上で歌ってレコードの宣伝をして買ってもらっていたが、100枚買うと歌手が夜のお相手をしていた時期もあった。そのようにして涙を流し汗を垂らしてのし上がった人は一握り、あとは夢になかに消えた人達の亡骸だけが残ったものです。その人たちの印税としては少ない、だが、1曲ヒットを出せば人生の終わりまで飯が食べられるという世界でもある。それに群がるハイエナたちには困ったものではあるが…。

わたしたちは学校で世界第四文明として黄河を習ったが、果たして黄河に優れた文明があったとは思えない。今、メソポタミア文明の一つのシュメール文明の中にいますが、今の文明に劣らない文明が栄えていたことを知る。この文明はインダス、エジプトへと流れているが黄河には流れていない。黄河の時代、日本はどうであったか、蝦夷、東北、北陸に負けることのない文明があったことはこれから明らかになることだろう。縄文期は地球の温暖化の時期でその地方には稲作、鉄の鍬に鎌など、それよりも残された焼き物には、その繊細さに驚かされる。翻って黄河を見てもシュメールの影響はあまり受けてなく、エジプトにはかなり影響を与えビラミットの造営など計算はシュメールの影響が強い。シュメールの文明に対してはここに書くより検索してみて貰えばいかに優れていたかは理解できるでしょう。中国を理解するには歴史を知ることで大方分かる。すべてが作られ歴史である。歴史を掘り起こしても全く価値がない。そこに暮らす人たちも常に征服者のよって洗脳され自我がない。毛沢東という馬賊の棟梁の時代は、かつての殺伐の歴史の繰り返しでしかない。今、日本の漢字が本当に中国からのものかを調べている。かなはシュメールの文字とかぶさっている。日本もその影響を受け、古い神社にはシュメール文字で書かたものが点在していることかからそれは言える。また、ヘブライ語が日本語となっている数は500を超えている。南方から渡来した人たちが伝えたものだと理解している。日本には黄河に劣らない文明があった…。

ねずさん、これは世界的な風潮ですが、日本人は生きるという意味を知らない民族に成り下がっている。ほかの動物は本能で生きる意味をしっている。人間はもっと自由で自己責任を取る生き方をするのが本来の姿、5000年前の文明のあり方であったろうと思う。今の人間は宗教の戒律の中で生きていることに何も感じないらしい。つまり宗教の戒律に縛られている方が楽に生きられるということに他ならない。それは法律にも言える。人は自分で生きているのではなく機縁の中で生きている、そこにねずさんが書いている価値観の間違いが生まれる。爾来、人間は宗教での戒律がなくても自分を律し最も厳しい自由になかで生きてきた。法律に束縛されなくてもそれを犯すことなく生きることを知っていた。宗教が生まれ、国家という支配が出来て人間は自由という価値観を棄てている。戒律を、法律を知らないでも人間の生きる道筋を知ることが自由に生きるということだ。西行も良寛もなぜ仏教から逃避したのか、人間の本来の生き方、何物にも縛られない自由、そのための責任が自己の生きる価値観なのだと悟った。西行は自然の中の桜と月をその総体として、良寛は子供たちの姿にそれを見たのです。価値観という人間を拘束する考え方は人間の自由を奪うものに他ならない。それらは人間が動物としてその本能を復活することなのでないでしょうか…。文明が、欲心が人間の本能を奪い価値観をもあいまいにしている。現在の日本の状況で危機感という保身の本能を無なくした人がなんと多いことか…。

わずかの庭に面した六畳の畳の部屋には障子越しに木漏れ日が差しその上で明かりが遊んでいるように見えた。部屋には何も装飾になるものはなく小さな座机がぽつんと置かれていた。この主の部屋であった、武士の佇まいは洗いざらしの一重の上にそれも洗い晒しの薄い肩掛けを付けていた。机の上も整然としていた、その前に正座し書物を読み、書き物をして一日は終わるのだ。この簡素で精錬な暮らしがその武士の日常であった。あくまで死してその恥をさらさないという考えからであった。武士の本分は戦いに出でてくにたみを守るというもので常に死を覚悟して生きたのだ‥‥。この人の論は正しく受け止められる。中でも維新クーデターが国民に与えたものは貧民の格差です。また、維新以降に日本の文化は生まれていないということです。あの薩長の下級武士5名を密航させて100万ポンドという金を使いながらイギリスが見せたものはひとえに彼らを使い日本という国を間接的な植民地にすることだった。文明が人間を幸せにするという洗脳である。竜馬はせっせと国内にあって武器弾薬軍艦までも売り捌く武器商人であった。これらはイギリスとロスチャイルドによって準備されたシナリオであった。伊藤博文以下4名は文明に酔いしれて帰り、天皇を頂きクーデターを起こして明治を打ち立てた。それからの日本は彼らの指図によって間接的に支配されていく、つまり、江戸時代を壊すことから始められた。それが今でも続いていることなのだ。私は江戸時代を書いていて本当にくにたみが望んでいたこととは思えなかった。今も日本の文化は日本のものではない。くにたみの心を縛るものでしかない・・・。廃仏毀釈、戦後の公職追放により日本は終わったと思っている。今江戸をなぜ恋しがるのか、そこには日本民族の吐息があるからだと思っている…。舌足らずになりましたが、ここには書ききれませんので…。

大人、賢人は生と死を乗り超えて真実を見るという。この人は小人閑居して不善をなすことも知らない。生への執着、欲心がこの老醜を放つ生き物を迷わせている。歳を取り心に蓄えなくてはならぬものは何もかも捨て自由でなくてはならない。この人は「飼育」から始まり、「沖縄ノート」で本性を現した。世界の、日本の行く末を見るのなら、己が持つ生死を乗り越えた真実を見なくてはならない。認知症と白内障と黄斑変性症、何を言っているのかの区別がつかない、視野が暗くなる、物が歪んで見える、気の毒と思うがそれらの症状は因果応報なのだ。私たちが日本の公害闘争をしていた時に何をしていたのか、障害を持つわが子の「光君」をだしにして障害者支援を訴え叫んでいた、それを我欲と言う。人のためではないわが子のためのにとどまって他は見捨てた。電力に対してモノ申す姿勢は原発でぜいたくな生活をしていた時には何も言わずに、今更とは笑える。原発が作られるときには反対もせずに今更それはないだろう。己のしたことを振り返り反省をしたとは思えない。今も「沖縄ノート」の虚偽を謝罪していない。女に迷って自死をした川端康成の方が人間らしく見えるのは私一人だろうか…。今振り返ってみてもこの人の作品が後世までのころ物がないことを確認した…。所詮人間は必要とされなくなると反対を叫びまだ生きているぞと伝えたいらしい、動物は必要とされなくなった時に死んでいくものだ。その時が近いか…。


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