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倉敷は晴天ではないが穏やかな風が流れ過ごしいい天気であった。 いつ花を開こうかとひまわりたちがざわついている。満開だったニラの華は少しずつ定めを感じもののあわれを見せている。 そんな中でも私の体調は頭痛によりどんよりと重たいものが乗っているようだ。覇気がない、書く気がしなかった。 先の日曜日に倒れた。すぐに救急で病院に搬送、そこであらゆる検査、心電図、血圧、各所のレントゲン、CTをという具合に調べられた。 自覚としては目がはっきりと見えていた、言葉もはっきりと喋れた、思考回路に変化はなかった、ということは脳の血管が漏れてもはじけてもないという実感はあった。両手両足に全然力が入らず歩けないということだった。MRIの検査をして脊髄と骨盤の検査をするという。 当直が内科ではなく、整形外科であったことが幸いした。その検査にも何の以上もなかった。薬も注意もなく帰された。少し安静にしていれば、自律神経の異常かもと言われた。この自律神経は私と友達関係にあるがこのように症状をきたしたのは初めてで狼狽したことがストレスと重なり症状を作ったともいえるらしい。 私は気が気ではなかった、7日にはラジオの対談がある、それまでに動けるようにし頭を整理してなくてはならない。がまあなるようになると安穏と考えることにした。移動はすべて息子とその嫁が付き添い運んでくれた。 FMラジオは20分間、意外と話をして、本の宣伝もしてくれ終わった。 ラジオ局の調査では本は売れているということだった。ありがたいことだが、本の持つ命の問題で作者がやきもきしても何もできない。 私にとっては一つの事件は終わったと言える…。 そんな身体的なものがあり書き込みはしなかった。 この国は三文芝居が好きな国民である。宝塚、劇団四季、吉本興業らが大好きなのだ。テレビが好きで、揚げ足取りの新聞の偏向報道が大好きという真実という民度の劣化は激しい。 AV女優張りか女性議員が不倫をして党を離脱した。ホテルにはいったが何もしていない、この人は本当に検察官だったのか、裁判ではホテルに入ったら行為がなされたということになっている。どこの国の話なの、この手合いを議員に選んで民主の支持者のいかれた頭にはついていけない。 まあ、議員会館に堂々とデリバリ嬢を呼ぶくらいの下半身に理性のない連中が跋扈しているのだから言葉はないが…。 さて、北朝鮮、今の私には情報が交錯していて書き表せない。 明日は今日より素晴らしい・・・。と言えるのか…。 わからない、
2017年09月09日
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明日は今日より素晴らしい…。10 倉敷は30度だがどことなく秋を思わせる風が流れていた。私のいる部屋は年中25度にエアコンを設定していて止めてはいない。金のことはさておいて快適を一番に考えている。 そんな中、私の暑い夏は終わった、が、世間ではまだ夏の日差しは厳しい。 8/22に本を出版し、地元の図書館に配布、読んでくれると思われる知人に贈呈した。ふらふらとなりがら送付したり、友に届けたりで疲労は頭痛と不整脈で現れたがいつか南限は死ぬと思えばやれるものだ。 私の夏は終わった。 厄介に事はFMラジオから出演要請がある。もともと外に出ることの嫌いなも人前に出ることが苦手な私にとっては責め苦でしかないからだ。これも長年田舎町の倉敷で生きていたから多少の付き合いや世話になっている手前断われなかった。 「砂漠の燈台」は私の手から離れて独り歩きをしている。意外と淡泊にとらえその作品が持つ命に託している。また、売れるとかという願望もない。ではなぜ出したのか、遺書として完成させる葬式だと思っている。 人は私の遊び人の人生はうらやましいと言い楽しかったでしょうという。 私は「はい、楽しく生き、書き、勝手に過ごし申し分はありません。やらなくてはならないと決めたことはすべてやり遂げました。おまけといえば語弊がありますが、書いたものは「日本演劇協議会」に登録され、公演のテープやDVDは文化庁の要請で早稲田大学が保存してくれています。私がかかわった「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」は日本と世界の演劇をつなぐ役目を果たしています。テレビも映画の仕事も十分させてもらいました。 小学生のころ近くにあった駅舎の庭の大きくそびえる銀杏の木との約束は果たしました。思い残すことはありません。 被害者といえばこんな私と連合いになり、こんなはずではなかったと思う家人くらいで、ほかの人には迷惑はかけなかった。それがせめてもの僥倖か・・・」 今回の出版はおまけ…。いいえ、道楽者の贖罪か…。男の純情か・・・。 この本も出版社との縁が切れたら著作権は放棄することにしている。今まで書いたものはすべて放棄している。 作者は書いたものに責任を持つが、一人で歩きだしているものに対してまで面倒は見切れないということです。 いい日旅立ち、可愛がってもらえればこれに越したことはない。 ただ、それをも守るだけ…。 それは書いているときに至上の喜びをもらったものとしてわがまま、執着はよくないと思っているのです。 今、ようやく書くことができる気力がわいています。ここには覗いても書き込みはしませんでした。 新聞というものに対しては出来た時から国民を洗脳し先導する道具でした。それは歴史を振り返ればわかります。 まず期待をしないことにつきます。 日本国憲法は日本国民のために作られてはいません。アメリカ、シナ、北朝鮮、韓国、ロシアのものなのです。なぜかというと国民を守るという文言は一言も書かれていない不思議な憲法です。9条を守れと言っているのはそれらの手先です。 今、稀代の総理がそれを変えようとしている、その真意に賛同して支援するのがこの国民の愛国心です。 白人社会のキリスト教はどんな悪行狼藉をしたとしても勝てばそれを正義とするものです。歴史を見ていただくとその矛盾がよく見えてきます。 報道の欺瞞とキリスト教の教義ではなんでもできるということです。 さて、日本人はどうか、性善説と限りない愛とやさしさを持ち、教養は世界で一番高かったが、今はどうか…。この国をリードするという知識人、文化人たちは偽物です。責任と覚悟という言葉を知りません…。 また、金がなくては生きられない人間になっている、生き方を知らない人たちの群れです。 そんなことを考えて過ごしています。 私は、今の世界の進歩を止め人間は進化するなと書きました、そうでなくては人類は滅亡するからです。 京都の真ん中を流れていた川を東に運河を作り変えています、それを加茂川として…。なぜ、平安京を作る前でした…。 人間は文明を作りその文明によって滅んでいます、その輪廻が続くのです…。 明日は今日より素晴らしい…といえる明日があることを思いながら書き進めました…。
2017年09月02日
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2017年08月19日
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明日は今日より素晴らしい…。9 倉敷は曇りのち晴れという暑い一日…。 頭がおかしくてしょうがない…。これは台風の影響、いいえ、道連れの病なのです…。 今日はご迷惑でしょうが、出版のご案内をさせていただきます。 「砂漠の燈台」幻冬舎発行の私の小説の宣伝を・・・。 いよいよ、8月22日に全国発売が決定しました。新聞の広告も出ます。アマゾンにても販売いたします。 こやつは何を書いているのか、日ごろ御託を並べておいてといわれる方は書店の店頭で立ち読みでもしてください。買ってくださいというのは不遜なことでとても言えません。 創作秘話 「砂漠の燈台」 この作品は、私が読みたいから書いたものだ。この歳になって若かったころに読んだ物を引っ張り出してと言うのも億劫なので書きながら読むと言う事で書き始めた。五年前に書斎をリフォームして五千冊以上は破棄した。あとには、図書館でもないというものを遺したが六畳の間に平積みをしていて、昔の書斎のようになにが何処の棚と分かっていた時と違って何処にあるのかも分からなくなったからと言う事もある。 今は背表を見てこの本を読んだのはあの頃だったなと記憶を呼び醒ましてほくそ笑んでいる。私は読んだ本はすぐに忘れて次々と乱読していたから覚えていないと思っていた、が、背表を見ていると何処にこのような事が書いてあったと思い返している、と言う事は記憶のなかに蓄積しているということになる。そんなに精読をしていないのにと、作者に申し訳ないと思うが、今思い出されると言う事はある意味で作者が作品を通して私の心をつかみ、私はその思いを心に畳んでいたという事なのだ。 忘れていること、そのなかから私の書くものに影響を、人間を教えていてくれたことに感謝しなくてはならない。 多い時には二・三万冊はあったから、積読ものもかなりあったが、そのなかから知識となり知恵に切り替えられたものも沢山あったろう。それが私の頭の中で私なりの表現に変えながら書いたと言えよう。 福沢諭吉氏が、国家、民族、と言う言葉を発明し、作り、今では世界中で使われるようになっていることもありがたいもので、総ての言葉を先人が発見し、名前を付け、たものである。が、それらを使い書いて創造物だからと言って著作権を欲しがる作家の多くは何と言ういやしい考えしか持ち合わせていないのだろうか。 作家が金に執着をし欲を持つと碌な事はない、それが今の日本に文学が育たないと言う事に通じている。まず先人が残した言葉を使って今を書き後の世まで遺すと言う事は無いらしい。今、金が欲しい乞食根性なのである。 私はそんな本を読みたいとは思わないから、自分のために書いている。 爾来、書きものをするという事は自分の備忘禄として、また、子孫のために書いたものだ。作家は金に目がくらんだ亡者、著作権なんか溝に捨てることをお勧めしたい。 この「砂漠の燈台」は自然と人間の一体化を基軸にして人間のこころに巣くう曖昧な心の中から光を見つけると言う物語にした。 敗れ成就しなかった恋、青春の思い出が何時までも心に燃えていて、それを心の糧にして人生に挑戦すると言う物語を書いた。そんな小説を読みいと思ったからだ。歳をとると若い人たちの物語を、はかない時の巡りのなかに生きる人達の物語を読んでみたいと言う事も書く動機であった。 今を生きている人達に文句は一言もない。その人たちになにが正しいかを言う資格は何処の誰でもない。ます、自分はこのように生きると言う事を持って生きることだと思うからだ。それを世間に対してこれが生きることの大切さだ、と言うのは宗教家、哲学者である物書きではない。物書きはその人たちよりもっと先に進んでいなくてはならないと言うのが持論だ。これは、歴史家、郷土史家の人達と大いに違う点だ。物書きはロマンを持たなくては書けない、常識ではなく知恵がなくては書けない、足元を見て全体を想像する力を持っていないと書けない、時間を感じてその時代に飛んでいける感性がなくては書けない、人の死を見てその人の全人格、過去と現在と未来を感じなくては書けない、雲のあり方を見て世界の趨勢を感じ取る機知がなくては書けない、顔や名前を物語の中で人格を持ったひとりの人間として書かなくてはならない、それがなくては一行も書けないものなのだ、が、今の作家はそれがなくては書くことが出来るらしい。見上げたものである。 私は、明治大正時代の偉人の物書き宮武外骨が大好きである。見えていたから何ものにも動じず書きたい事を書き放り出したのだ。この反骨精神こそが人間の証しである。 また、坂口安吾、この人からは狂気とあくなき執着を見て取れることになぜか親しみを感じる、堕落、それは一番に人間らしいなどとほざくあたりは喝采ものだ。この人の物が今は読まれているのか、これほど心やさしい作家はいないと言える。何をしてもそれが人間と言うものだからいいのだ、この言い訳は見事としか言えない。 宮武外骨と坂口安吾の共通しているものは人間の優しさであり、それゆえに持たなくてはならないものは狂喜なのだと教えてくれる。 私は二人ほど優しくはない、だからきれいなものを書いた、書きたいと言う自己満足をしているのだ。 砂漠の中で道に迷う人達のために砂漠の中で明りを灯そうと言う一人の女性の姿を書き著わした。それは、人の心に巣くう不遜と傲慢なことなのかも知れないと思いながら書いた…。 明日、私はサハラ砂漠にいるかも知れない…。と言う言葉を最後として閉じた…。 続編は、人間と自然との関わり合いについて、また、これからの人間の進む道を問うという形で書いた。 燈台、それは人の心にある事を書きたかった ここに謹んでご報告いたします…。
2017年08月01日
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明日は今日より素晴らしい・・・。5 倉敷は空に重たい雲がたけ込めていたが、いつの間にか晴れて日差しが厳しくなった。 私にとって今年の夏は今までに経験したことがない日常感がある。年をめぐると昨年のことか言えなくなる。 今年は小学校と高校の同窓会のお誘いがあった。往復はがきを眺めながら同窓の友の息災と幸せを思った。私には鮮明に記憶する思い出がない。宿題は忘れていたというよりしなかったので。廊下に立たされたりバケツを提げて立たされたことを思い出す。思い出すといえば近くの駅舎に聳えていた銀杏の木は今まで生きて忘れたたことがなかった。 その頃に少年のすべてが、野球少年であり映画少年であった。そんな日々の中で、こっそりと銀杏と約束を交わしていた。 「将来、映画の仕事をしたい、物書きになりたい」というものだった。 そのことは「銀杏繁れる木の下で」という作品を書く動機にもなった。その作品は「砂漠の燈台」の中に載せている。その場所を訪れてはいないが心のよりどころとして生きた。 学生時代に暮らした町は昔の面影のかけらもなくなって近代的にビルの町に変わっている。私が見たものではなくもれ聞いたことだ。 東の岡大医学部は変わってしまっているだろう。西の大本教の宗忠神社は昔のたたずまいでそこにあると聞いた。倉敷にいて岡山に行くこともなく、東京へ行くことの方が多かった。 75歳で同窓会を閉じると書いてあった。今の世の中だから半数は残り生きていることだろう。 私はたくさんの人の中に入ることは苦手にしている。 子どものころには茶目っ気があってオチバケばかりしていた。明るい子供だった。その頃の同窓会も秋にあるという。 私は今まで堅気の生き方をしたことがない。遊び人として自由に生きた。みんなの中に入ることを避けてきた。ひたすら銀杏との約束を果たすために生きてきた。 「砂漠の燈台」の後書きでそのことに触れている。 「砂漠の燈台」と「天使の子守唄」「麗老」、これらの作品は六十歳で書く事を辞めていたが、十何年かぶりに書くことになった。書いていて、若い頃の事を思いだしていた。浅草のストリップ小屋の喜劇役者の方々に舞台の面白さを教えられ、新橋演舞場では、新派の北条秀司先生、台本を書いておられた池波正太郎先生に教えていただいたこと、また、岡山県下の多くの文学を志していた人たちとの交流、原稿を読み雑誌を発行し全国に配ったこと、特に『新日本文学賞』を受賞したが断らせた大江壮さん、「女流文学賞」をとりながら作家にならずに日本舞踊の流派を作った梅内女史の事は心に残っている。小説を書いていた私を倉敷で演劇の世界に引っ張り込んでくれた倉敷演劇研究会の土倉一馬さん、とその仲間たちから沢山の思い出を頂いた事。未熟な台本を公演してくれた事。また、私の作品で岡山県代表として日本青年大会に四度も出場し数々の賞に輝いたこと、それは倉敷の青年たちの熱意ある功績として、また、それを率いた土倉一馬さんのお手柄であること。そこで学んだものが貴重な歴史のページである。それらは走馬灯のように心の中で再現されていた。若かったころの夢物語である。 後に日本一の演出家、鈴木忠志さんにも手を差し伸べていただき、全国の演劇人たちと「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」を立ち上げる一役を担い、鈴木メソッド演劇の真髄を魅せられた。鈴木さんの温情は忘れてはいない。日本劇作家協会に不満があり辞めたこと。映画の世界では表現社の篠田正浩監督、鯉渕優さん、永井正夫さんらのプロデューサー、岩下志麻さん他たくんさんの俳優さんと何作も仕事が出来たことも記憶を新たにした。それらの人との関わりで多くの思い出を貰った。そんなことを考えていたら書き上がっていた。子供たちと青年たちに支えられながら劇団滑稽座は存在した。七十二回も公演が出来たのも彼らが私を支え学ばしてくれたおかげである、子供達も育ち青年たちも成長していった。それも心に残る残照がある。私の我儘といたらなさのために傷を与えていたとしたらお詫びをするしかない。 「砂漠の燈台」は文明と自然の再生を追いながら人間の務めと幸せについて書こうとしていた。幸せ、それは人さまざまな形でそこにある。その中の一つの姿をとらえられていたらと思う。作中小説として「銀杏繁れる木の下で」を入れた。この作品は銀杏と言う自然の総体に対して人間の心の動きを追ってみた。私は無神論者で運命論者ではないが、何か不思議なものに導かれていると感じている。草稿は二・三日で書きあげた。六十歳までがむしゃらに走り抜けたが、年を経て気づくことが多い。後悔はない、私の心のままに生きてきた。夢を実現するためにいばらの道を、ぬかるんだ道を、多少の中傷も、試練として受け止めただ前に歩いた。これはすべての人が歩んだ道だろう。名利名聞には関心がなかった。ただ歩いた。人の評価に対しては反省の材料にしたが心には遺さなかった。 それだけになまいきだと叱咤されたかも知れない、それも私は前に進む材料としていた。 私は常々ありがとうという意味で言葉を書いた。 「人の世の哀しみにも華を咲かせ、人の世の悲しみにもたわわに実をつけよ」 「人には大切な種が心にある、それを育てるためには夢という肥やしがいる」 「この娑婆には、悲しい事、辛いこと、が、一杯にある、わすれるこった、日が暮れて、明日になれば…」 これらの言葉に幾度助けてもらったことか。 今思えば沢山の人に応援をしてもらった、沢山の人に出会えた。その人達とめぐり合えたことで何百という作品が生まれた。出会いに感謝している。 日本を代表する沢山の名のある人達から温かいまなざしと言葉を沢山頂いた、また、人とは何かを学ばせて頂いたが、その人たちに返す事はしなかった、私が生きていて出会った人達にその人たちの想いを伝えることでお許しを願うしかないと思って接した。この作品を手を差し伸べてくださった人達と支えてくれた人達、私と出会った総ての人達に捧げたい。不遜であるが…感謝をこめて…。 七十五歳 吉 馴 悠
2017年07月25日
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明日は今日より素晴らしい・・・。4 倉敷は晴れていたが先ほどから雨が落ちてきた。てきめんに私の頭を直撃し頭痛が起こりしばし茫然自失・・・。慌てて血圧を測る。年齢+90より少し高い…。 昔は雨が降ったら天気が悪いとよく言ったものだ。書き込みながら思いだしている。 イラクでモスクを奪還するために銃撃戦がありイラク軍に200人以上の死者が出たと報じていた。これはテレビ、新聞ではなくパソコンで読んだこと、私は見ないし読まないからそこからいただくしかない。 シリア問題も硬直状態が続いているらしく動きがみられない。 目を転じて日本の状況を見ればこの国は戦争しているのかと見まがうほどである。 放送局、新聞各社が表現の自由と称して、書かない権利もあるとほざいている。全く独断で、読者に対しての忖度がない。崖ぷちの最後のあがきがそうさせているようにも見える。 書かない自由がありそれを表現の自由というのなら、公器としての存在はないから、機関紙にならなくてはならない。国民はもういい加減飽き飽きしているからそれをお勧めする。 国民の活字離れは加速している。テレビにすがっているのは年寄りたちという少し認知症がかかっている人たちだ。私はも年寄りたがその人たちを弁護するつもりは毛頭ない。その年に到たるまで何を考え生きていたにか、要するに勘違いをして金があるときには身の程知らずの贅沢をし年を取った時のことは一切考えてなくて生きた、つまり生きていなくて時間の浪費と徒労な生活をした付けである。が、その人たちがマスコミに洗脳されて思想信条もないのに金のためにデモに駆り出され看板を掲げるさまはいとおかしいというべきものだ。そのほとんどが国民の税金で生きている人となるとあほらしくて言葉が出ない。 この国はいつから金のためには何でもするという国になったのか、何も国民がマスコミの金儲けなら何でもうそを書くということになじんでも結局一銭にもならず己の至らなさを披歴していることに気が付いてない愚かしさである。 また、官僚たちの横暴ぶりには目を見張るものがある。認可権を盾にしての暴尺無尽ぶりにはあっけにとられる。総理より偉いと思っている証拠である。国民に信託された人と一回の公務員との差がわかっていない。パジャマパーテイー、しゃぶしゃぶパーティー、幼児売春に至っては開いた口が塞がらない、そのために天下りに関しては懸命に働くという為体 である。それでやめ刺されるとあることないことリークして官邸と対立する。認可権という特権を持っていて官邸が主導したとうそぶく、人間の良識など持ち合わせてはいない。ただ恨みつらみを叫んでみても己に非があることに気がかない下衆である。 ここは総理が総理の権限でそうしろといった、それに不都合でもあるのかといえば済むことだ。認可権があるから官僚 この問題もテレビと新聞に後押しされて共産、民進が議会を混乱させている。主犯は朝日である。下らない三文芝居はごめん被りたい。 そんな混迷する日本にあって、為替111円に、株は2万円に達し、失業率は2.5%になっている。ここで安倍総理が消費税をなくしたら人のデフレは解消するのだが、財務省という壁がある。 第一次安倍内閣の時に、財務官僚をリストラするといったばかりに社会保険庁の無能を長妻にリークされて退陣に追い込まれた経緯があるが、ここは踏ん張っての英断がほしい。そうすればデフレは解消し税収も増えるというものだ。 蓮舫の二重国籍、四重国籍問題…。 石破の獣医師会の癒着、北朝鮮からの砂利の利権問題・・・。 鳩山前の蓮舫の二重国籍問題を知っていた発言の共犯性・・・。 マスコミの金まみれの報道…。 8月初めの内閣改造問題・・・。 NHKの受信料は在日は免除の実態…。 反日評論家の一層…。 日本は今年も厚くなりそうなことが多い…。 認知症、体を壊すことなく乗り切ってほしい…。
2017年07月23日
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明日は今日より素晴らしい…。3 倉敷は昼間を灼熱地獄、夕方には涼しくなった…。 私は暦では生きていない、海の日、山の日、も知らない。 梅雨が明け、夏休みが始まっていることも知らなかった。 世間音痴なのか、いいえ、自分のサイクルで生きているのであまり関心がない。 そんな日々にも日本の現状が耳に届く。 テレビと新聞社の情けない真実にはうんざりしている。国民の無関心さには腹が立っている。 国民は国に憲法を盾にして権利だけを要求しているが、国民には義務も付きまとっている。義務ありての権利であることを知らない。 なぜそんな品性下劣な国民になったのか、考えることを忘れて時の流れに身を任せたというのか。欲望に負けて将来のことを、歳をとることを忘れていたのか。快楽に酔いしれ溺れて慎みまでなくしたのか。自分は悪くない政治が悪いと言っておれば楽な暮らしができるのか。いつも被害者の演技をして端役でいたいのか。生きることの何たるかを知ろうとしないで終わりを迎えるのか。 世界の中にあっさて日本国ほど恵まれている国はない。その認識はなくもっといい国があると錯覚して叫ぶのか、努力もしないで。 水道水がそのまま飲める国は世界でも20国もない、停電することもなく、鉄道、道路は整備されている。200万の年収でも食べられる、健康保険は国民に平等に与えられている、年金も贅沢をしなかったら飢えることはないだけもらえる、車は全員が持っている、市場には商品があふれていて持っている金に見合った生活ができる・・・。 イギリスでいうところの生まれて墓場までを日本は国民に約束しそれを実行している。世界でも長寿としてはこの国である。高校まで授業料の無料化、子供たちの医療費は無料、馬鹿でもはいれる大学は無視の数ほどで教育補助を一人の生徒当たり年間300から1100万円を国民の税金で払って教育環境を作っている。何を言っても罵倒しても言論の自由として罰せられない。夜に女性が独り歩きをしても襲われることはない。玄関にカギをかけなくても泥棒は入らない。 こんな国に住めて何の不都合があろうか、とはいえもっともっとと激しい欲望に振り回され叫ぶ人たちがいる。 自然の四季に恵まれ山海の珍味を味わうことができる。国民の贅沢が自給率を下げている、それは食べ残しをすることに起因していることを知らない。 日本は領海を含めると世界で6番目の領土を有している。 私は若いころ東京にいたが家人の故郷へきてもう50年になろうとしている。本当に良かったと思っている。公害の町だが、そこには自由があったから…。東京にいたらたぶん死んでいただろう。圧し潰されていただろう。 今思うことは昔の東京の姿である。いいところしか思い浮かばない。 「砂漠の燈台」で東京を書いたがそれは想像で書いた。55歳から60歳まである組織を作るために月に2回ほど東京の会議にでていたが倉敷に帰りたくてしょうがなかった。その時に眺めた東京を書いた。 3年間で3000万円提供するから演劇公演を活発にやってくれないかと言われたが、政府の金をもらうことに憚れてお断りをした。ひも付きになった劇団もたくさん出た。 そんなことで拘束されることを望まなかった。 博打の儲けで文化が振興できるとも思えなかった。私は、人は身銭を切らなくては正しい成長がないという考えに固辞していた。 自由を謳歌しながら劇作家と演出家の道を歩んだ。それも60歳ですべてを棄てた。足らずを補うために深呼吸をした。 「砂漠の燈台」の最終部をここに…。 縄文期の出土される土偶には女性の妊婦の姿をしたものが大量に発見されています。そこに縄文期の男と女の濃厚な愛を見るのです。男は妻になる人のために首や手首を飾る装飾品を作り頭に載せる飾りを作るのです。求愛する、素朴な出あいで純真な関係が生まれ、女は初潮を迎えると一緒に暮らすようになり、やがて子をはらむのです。何の打算もなくただ愛という絆が続くのです。男は女の妊婦の姿に似せて土を練り作るのです。完成して壊して住居地にばらまいて隠すのです。妊婦の息災を願い、身代わりとして壊すことで女を守ったのです。二十数歳の寿命の中で彼たちは次の世代に託す命を誕生させ命を終えるのです。ただ遺伝子を残して…。 そこに今では考えられない幸せな時間を共有していた歴史があるのです。縄文期の男と女の時間、それは動物の女としても、私は羨ましさを感じてしまうのです。そこに人間が存在した証拠として真の人間社会があることを思うのです。なぜ、そのような縄文期という時代が一万七千年間という長く続いたのか、そこには動物として、人間としての誕生と死んでいく中に愛という相互の関係の中になにか最も大切なものがあったとしか思われません。それは命を運ぶこと、その本能の中に充実した愛による生活の支配があった、だから縄文期が長く続いたという結論を見るのです。 人間の心の中に巣くう遺伝子を解き明かし引き出してこれからの人間を創造することに生涯をかけたいのです。あなたと一緒に…。 滅びることのない二人の文明を作るために… 砂漠の燈台の灯りに導かれた人類のためにも…。 生きることも死ぬこともそれを超えた時に本当の人間の姿が見えてくることも…。 そして、愛する思いを永遠にしようとするとき、その永遠は遺伝子しかないことも…。 あと数日の後、私は緑なす北海道の大地の中に、今までと異なる思いを抱いて立ち尽くしているでしょう…。 出版は8月の中頃か、全国の書店にて販売される。 これは私の遺書として書いた…。
2017年07月20日
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明日は今日よりすばらしい・・・。1 倉敷は今日も燃えている。 風は熱風が流れ拒否しているようだ。 北陸や北海道では集中的に高雨量であるらしい、事故のないことを願っている。天災は毎年あっている、そのための防災の準備ができていない、この国は人が死ななくては何も前に進まない。 自然をないがしろにしている証だ。台風や地震に対しての付き合い方も忘れたというのか、自然が作り上げた斜面を造成すれば水害による家屋の崩壊は想像できたはずである。一部の人たちのために日本国土の一つの県に相当するゴルフ場、自然の営みから生まれた自然林を植林地にする、植林されて物は大きく育っても根を張らないから保水能力はなく流され流木となって川を下り堰き止めて一層氾濫する。毎年のその繰り返しである。 江戸時代の藩の殿様は領内の防水を第一に考えていた。 政府も、地方地自体も考えているとは思われない。温暖化、エコに3兆円も使い、防災には何百億とは情けない。 反対の人がいるかもしれないが、私はインフラにもっと投資しろという考えである。必要としない設備投資も盛んだが、全国の各県になぜ飛行場があるのかと訝る人も多かろうが、それは有事を設定して作られている。私の住む倉敷にも100メートル道路があるが、その道路は三菱重工の前まで続いている。これは普段は全く必要のない道路である。が、飛行場になる。また、全国を高速道路が走っているが、それは自衛隊の車両が緊急に走るために作られている。これも国防の一環である。 このように書くと私を右翼に染まっているという人もあろう。しがない戯作者をし、その頭で妄想をしたこととして聞いてほしい。 が常に国民を守るために作られているという考えもあっていいのではないか。 私は幸か不幸が反日教育を受けてはいない。戦後の教育を受け復員してきた先生に教えられた。その先生から戦争の実態と人ではない心理の状態を学んだ、と言っても当時は勉強などしていなかったからまともに聞いていなかったともいえる。 その頃はみんな貧しかった。平等にひもじい思いをしていた。 あの頃の子供たちはそんな状況にあっても明るかった。ポケットには夢と希望があふれていた。 学校給食が始まったのは小学3.年生の時だった。机の上にコッペパンと脱脂に乳がのった。 野球少年であり映画少年でもあった、そんな中で生活していた。 ラジオでは「赤胴鈴之助」「新諸国物語」などが流れ、子供たちはラジオにかじりついて聞いていた。菊田一夫の「君の名は」で風呂屋が空になっていた。 源氏鶏太、北条誠、などが週刊平凡、明星に連載小説を書いていた。そのような大衆小説にも自虐史観は見られなかった。 楽しい恋愛物語だった。 時代小説では、柴田錬三郎、山手樹一郎、海音寺潮五郎、山本周五郎氏らが活躍していた。 その頃からたくさんの小説家が登場することになる。 志賀直哉、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎、太宰治、坂口安吾、川端康成、そして少しして三島由紀夫、安倍公房、遠藤周作、松本清張、水上勉らの時代へと移る。 この当時には私も20歳を超えていたがなんでも読み砕いていた。ここに列記するには多すぎるので省略した。 映画の世界では何といっても、長谷川一夫、中村錦之助、市川雷蔵、勝新太郎、三船敏郎、石原裕次郎を上げなくてはならない。 その人たちによって日本の映画産業の頂点を期した。 それらの作品を読んだり見たりしても自虐史観はどこにもなかった。 「新日本文学」系の野間宏、埴谷雄高らの作品は読んでいない。 歌謡曲では、東海林太郎、藤山一郎、岡晴夫、小畑実、春日八郎、三橋美智也、並木路子、美空ひばり、菅原津ズ子、コロンビアローズ、以下と続いて島倉千代子につながりそこから大挙して歌手が増えている。 私たちより少し早く各県に国立大学が作られ駅弁大学といった。 今振り返ってみても、今のように千々に乱れるという世相ではなかった。60年70年を境にして大きく様変わりしていくことになる…。 そのことはまた別に記したい…。 明日は今日より素晴らしい…と書いているが人の心が豊かになり幸せになったかは、どうなのか・・・。
2017年07月16日
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いつか何処かで…。49 倉敷は33度の暑さで外には出られなかった。体調は頭がぼーとしているが思考力に変化は見られない。目がほちほちする。 「頭痛肩こり樋口一葉」ではないが、そんな中貧しいながらも心穏やかに暮らしている。 「小町うたびと六歌仙」を途中で終わったが、今平安初期の小町を訪ねることは体力が持たないので、ここまで読んで下った人たちには誠に申し訳ない。 この件は、柿本人麻呂と同じで殺しておいて「柿木神社」を立てて、怨念や恨みを被らないとした当時の習わしが、小町を「六歌仙」に仕立て、全国にその話をばら撒いたという事です。 これ以上は今は書けません。差しさわりが大きい…。 さて、小町にうつつを抜かしていたら、日本国民に📺テレビ、新聞、俗にいマスメディアから宣戦布告が届いているではないか、テレビと新聞の情報を信じる年寄りたちが亡くなるまで維持できないとわかり国民に喧嘩、交戦状をたたきつけている。 正常ではないことは見当がついていたが、ここまでとは、なりふり構わず安倍総理を引きずり降ろそうとしている、つまり民意を無視して狂ったように制御能力までなくしている。 今、政府では朝日の押し紙について審議されている。発行部数の80%が購読されていないと事業を閉じなくてはならないという法律がある。が、朝日はそんなこと知ったことかという押し紙を刷って、発行部数に対する広告料を詐欺していたことになる。広告主は詐欺として訴え賠償を要求できるのだ。今、朝日は新聞の使命を無視しねつ造記事と変更記事を書き散らかしている。新聞記事には著作権はないが、盗作の問題なら鬼の首を取ったように書きなぐる。が私の劇作の中の創作した文章を許可もなく記事にしていて文句を言えばなしのつぶてであった。サンゴの自作自演のころのことである。 私も愚かにも朝日を取っていた。やめるというとやくざ屋さんが来てどうしてやめるのか、何が不満なのか、景品がほしいのかと威圧的に脅迫的な態度で喚いた。 朝日は「赤が書いてやくざが売って馬鹿が読む」と言われているがこのことはには信ぴょう性がある。 水島で石油会社がタンクから原油を流出し、構内はおろか、水島灘、瀬戸内海まで広く原油が流れて汚染した事件があった。その時、現場に駆け付けた記者がストロボを焚いて写真を撮ろうとし、工場の保安課にカメラを取り上げられ叩きつぶされたこともあった。この程度の記者たちが記事を書くのだから、引火していたら大変なことになるという認識はゼロだった。 さて、 新聞社を潰すのには、購読をやめて部数を減らす。広告主に文句を言い不買運動を行う、国民の怒りを教える、押し紙の実数を知り拡散する、国民にできないことはない。朝日の葬式は国民が出す…。 新聞社がつぶれると自然にテレビ局もつぶれる、放送記者など何の役にも立たなくて系列の新聞社から記事をもらっているからだ。 今、朝日はその危機を感じて死に物狂いの反抗をしているがそれが死期を早めることを知らない。 毎日は聖教新聞、公明新聞を印刷している。部数としては200万部そこそこと聞いた。聖教、公明を印刷してようやく維持しているともいえる。 テレビにしても新聞にしても電通事件で広告がたやすくはいらなくなっている。また、テレビでは電通の息のかかった俳優で跋扈していたがそうはいかなくなっている。 それにしても理念も倫理もないマスコミが多いことに驚く。 青息吐息・・・その悲鳴はより政府批判を増し、国民には虚偽による洗脳が増すことになろうが、国民は成否をしっかりと判断して惑わされ振り回されてはならない…。・ 私の尊敬する言論人でジャーナリストの宮武外骨氏は、 「たくさん新聞はあるが尻を拭くには朝日が一番いい、だから売れている」 と、滑稽新聞で書いている…。
2017年07月13日
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いつか何処かで…。48 倉敷は今日。晴天が続き暑い日になるという。32度と予報…。 それにしても昨今の日本国は異常事態である。この混乱はテレビと新聞が理性を失ったことで始まっている。また、それらは金というものしか見えていない。それをさえている資金源潰すしかない。 今日もそんな中小町を載せようとしている。浮世の憂さ晴らしというところか…。 十三歳の清子様には・・・。 「あなたは殿方を知っているのですか」 殿方の文が届くようになるとそのように私にとったのでございます。 「はい」私は小さく言葉を膝に落としましてございます。 「そうですか・・・。私は殿方が嫌いなのです」 利発で明るい清子さまの裏の面を見たようでございました。 「更衣として上がられると・・・」 私は呼び水をさしました。 「怖いのです・・・このごろどうして女に生まれたかを嘆くのです、考えるのです」 今まで見たこのないくぐもった顔と理性を捨てた声でございました。清子さまの本音を見たのでございます。 「それでどのような・・・」 恥ずかしそうに言われて、 「いいえ、もう・・・」 うなじが赤く色をつけておられました。 「男は獣でございます。心と体をばらばらにして弄ぶのですから・・・」 私は初めてのときのことを思い出しておりました。 いかつい獣が襲い掛かり体を引き裂いたときのことを・・・。 「なんという・・・おぞましいこと」 「ですが、その獣が・・・」 「私が・・・この肌が・・・あなたのように白くないと・・・湖に向かって立ち尽くすあなたの白い体を見たとき・・・」 「いいえ、肌の色ではございません、これから・・・。男を知れば瑞々しい肌に・・・」 あの夜の事を見られていた。そう思うとなんだか意地悪心が頭を擡げてきたので御座います。 「そんなものなのですか・・・」 思案げに言葉を落として、 「女とは悲しいものなのですね」 といわれたので御座います。 そんな日が御座いまして・・・ 館様が訪れになられたときに、さわりを語りまして御座います。 「それは困ったな、男嫌いでは・・・」 館様は私の肌を愛おしく撫でながら、 「地黒が仇になっているのか・・・」 「いいえ、あのお年ですとそのようにお考えになられます。自然なので御座います。ですが・・・」 「男を知ったら狂うか、お前のように・・・」 「はい。押しつぶされたい、壊して欲しいと考えるものなので御座います。女の体とはそのようなもので御座います」 「ならば、清子の教育はお前に任そうかのう」 「そうしますと、もっとしばしばのお運びがなくては・・・」 「そうじゃのう」 館様は頬を緩めて・・・。 琵琶湖からの風は心地よい流れで御座いました。 3 わびぬれば身をうき草の根をたえて さそう水あらばいなんとぞ思ふ 小野小町 はい、清子様も更衣として上がられたのでございます。におうばかりのお美しさと申せば良いのでございましょうか・・・。咲く前に咲く密かな一輪の花が表舞台へと歩を進められたのでございます。 十四歳とは思えぬほどの立ち振る舞いで、堂々としておいででございました。更衣の吉子様、清子様、館様の出世はもう誰がなんとも言えない所まで上がろうとしていたのでございます。 私は館様の「待っていてくれ」の言葉を恋しがるそんな女に代わっていたのでございます。 咲く前に毟り取られた花は蜜を滴らせて待つ、そんな花の命にようやく芽生えていたのでございます。 館様は足しげくお運びになられました。官位が上がれば蝶の羽ばたきはより旺盛になるのでございましょうか、狂ったように蜜を欲しがりましてございます。 ここまで書いて、言葉として書いていない。なぜここで、と考えても、在原業平、深草の少将、紀貫之、ここで立ち止まった…。私の構想のミス、弥生式部を吉子に伴をさせた、これでは清子が書けなくなったということもある…。が、ひとまずここで、今回で閉じたい…。 認識として日本は狂ったテレビと新聞による国民への宣戦布告である…。 これは何の序章であろうか・・・国民は自己防衛しかない…。
2017年07月13日
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いつか何処かで…。47 倉敷はどんより曇り時に薄日が差していた。気温は固い、じっとりとした風がまとわりつく。 私は読んでくれる人もないものを載せている。時間つぶしの行いをして、心のイライラを和す利用としている。 今の日本は戦争中である、秩序の乱れは、人の心は、・・・。 秋風に逢ふたのみこそ悲しけれ 我が身空しくなりぬと思えば 小野小町 ときの訪れと同じであろう女の定め、その苦悩を知らずに、純白の衣を風に泳がせ蝶に戯れるそのお姿はまるで天女のさまでございました。 何も知らずに天女として過ごされるか、衣を汚しながら女の命を全うされるか、清子さまの生き行く道を思い浮かべながらひと時の想像をめぐらせ心躍らせたのも確かでございます。案ずるゆえの悪戯の心がそうさせたのでございます。 殿御の文に身を焦がす事がそれほど遠いときの運びを待たなくてもすぐであろう事は・・・。そのときのお顔を頭の中に描きながら成長する一輪の花を眺めていたのでございます。 純白の敷物の上に扇状に広がる豊かで長い黒髪、戯れる一匹の蝶、その姿を心の奥に期待していたのでございます。 美しいものに対してないものが求める悲しい性なのでございましょうか・・・。 華麗なものを壊したいという寂しい女心なのでございましょうか・・・。 私のことを・・・。 弥生式部と名乗っておるが、それは真っ赤なうそ。 小野の荘のこの館で雑仕女をしていた女ですわ・・・。 吉子さまと年は同じ、更衣としてあがられる女もおれば、里の館で雇われて手伝う女もおりました。身の不運、いいえ生まれた家の違いとあきらめていたことと申せ、あでやかな御出でたちの吉子様を知らず知らずに比べ羨ましく眺めているいたいけない少女だったのであります。 湖面に顔を映してもさして変りのない容貌と思ってもその隔たりはあまりにも大きかったのでございます。 吉子さまが更衣としてあがられたその夜、お酔いになられた館様が・・・。 琵琶湖の漣が大きなうねりに変り私を飲み込んでいきました。 風が吹き雨がたたき雪に弄ばれながら嵐が通り過ぎた後・・・。 私は琵琶湖からの風を体に受けようと衣の前を大きく開き何時までも立ち尽くしていたのでございます。 ―女になった、この館の女より先に、おんなになったーー 心の中でそう叫んでおりました。 だけど、その居丈高もこれからの道のりへの歩みの不安と恐怖で揺れ、それゆえの叫びであったのでしょうか。 引いてゆく更け待ちの月明かりがそんな私を照らしていたのでございます。影は足元にうずくまりじっとしていたのでございます。 頬は微かに笑みを浮かべていたのでございます。 熱い獣の血がざわざわと動き出しているのを感じながら恐怖におののいていたのでございます。 回廊を渡る風は雨を予感させるように・・・。火照った体から噴出した汗を奪い取ることはございませんでした。 そんな日がありまして・・・。 館様は思い出したように・・・。私の幼い性はだんだんと開花していったのでございます。 十二歳になられた清子さまは相変わらず和歌に親しみ書に励み女子としての素養教養を身につけておられたのでございます。 その頃から館の池にお顔を映して化粧をほほに広げるようになりました。だけど白い化粧をなされても地黒の肌は隠せなかったのでございます。 それに引き換えこの私はだんだんと透き通ったような肌に変わり、乳房も大きく張りを持ち腰の括れも滑らかになっていったのでございます。 男が女の体を変えていったのでございます。 館様の寵愛を受けながらの雑使女の働き・・・。 いつかそれは吉子さまが更衣として宮中に上がられたすぐ後、館様が、時あらば書を習い、歌を鍛錬せよとのお言葉を・・・。 それはほんにうれしいお言葉でございました。 今こうして弥生式部と・・・。 父が式部の将ゆえ名をそのように・・・。 いいえ、いいえただのばばでございますが・・・。 そのことには後がございました。 清子さまが十四歳になられると宮中に上がられることが決まり、私もお側つきの女としてお供いたすことになったのでございます。そのための支度であったのでございます。 小町は成長して、その思惑に翻弄されることになる。 人が生きた時代には社会のしがらみから逃れられず、その流れに逆らえず、ただかいだんを上った…。
2017年07月12日
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いつか何処かで・・・。46 倉敷は今日はすこぶる暑い日であった。今でも余熱が残り外は蒸し暑い。 といえば。性゛市の世界にはまだ三文芝居が続いている。国民の在り方は日々の安らかなはずだが、その中に入り主人公を演じたい人たちがあふれている。 今日は少し長くなるが、小町を載せたい お妹子はお姉さまよりご活発で何をなさっても華が御座いました。それは見事に大輪が咲くと申せばよろしいのでしょうか、黒髪が腰のくびれに届く頃には立派な花びらを開いたようにあでやかに咲き誇っておいでで御座いました。黒髪が少し赤みを帯びていたのですが、それがまた違った美しさを見せていたので御座います。 切れ長の澄んだ瞳、その瞳は何かを訴えようとしているいたずらの光がちらりと、幼いお子のものではございましたが、男はその光に当たると痺れて立ち尽くすので御座いました。男を誘い込むというのではなく、男は花開き滴らせる蜜に吸い寄せられる蝶のように群がってきたので御座います。 琵琶湖の畔の館には二つのあでやかな大輪が陽の明かりのもとすくすく成長し花開くときを待っていたので御座います。 吉子さまは北国の育ち、純白のきめの細かい肌をお持ちで御座いました。北国のときのめぐりがより肌を磨いたのでしょうか…。 幼き頃よりお側で面倒を見させていただいていた私でも惚れ惚れするおいでたちで御座いました。お姿で御座いました。先にも申し上げましたように清子さまはお日様に当たりすぎたような肌であったことは申し上げました。それが健康的に映りお元気な姿に見えたので御座います。お二人のことは都にも噂は届き、男達が一目でも見たいと訪れるので御座いました。まだ開かぬ蕾を見られて大きなため息をつかれるのが常でございました。 穏やかな琵琶湖の水面に映る朝焼け夕日、風が起こす漣、渡る鳥の群れ、囁く虫の声、自然のめぐりに様々に色を変えるその様を眺めながら心に蓄えられて大きくなられたのでございます。心躍らせながら眺め万葉の世界を歩む、書き物の修養で心を整えられて、その道を辿りながら大きくなられたのでございます。 館様の心配の種は清子さまのおぐしが栗毛の馬のような色をしておいでで、カラスの濡れ羽色のような黒髪が長く腰に流れ、床に届こうかというのが当たり前、女子の値打ちだったころのこと、それを案じておいでで御座いました。 また、男のように地肌が黒いと言うことも、雪のように白く透き通っているのが女子の価値をきめる基準であったため、ひどう心を悩ませておいでで御座いました。 たしなみに筆を持ち景観をものにする事の好きな館様も、それにもまして外に出て琵琶湖の風や鳥の渡りを小筆で絵にすることも慰めにはならず、胸を痛めておいでで御座いました。 吉子さまと清子さまをお比べになり、ため息をつくことも多かったので御座います。 吉子さまは十五になられてすぐに仁明天皇の更衣にあがられまして御座います。唐風の衣を脱ぎ捨て十二単に着替えられた吉子様は静かな中にも凛とした美しさを備えられいたずらの風にも揺るがない出で立ちでございました。 更衣への道のりには館様の思惑が多くはらんでいたようでございますが・・・仁明天皇の寵愛を受け親王を授かるとなりますと館様の地位はどこまで上がりますか・・・。そんな駆け引きがちらほら見え隠れしておりましてございました。 お孫が天皇にでもなればその一族は政の中心に・・・というのが世の習いでございましたゆえ・・・。 屈託のない清子さまは大空を白い雲が遊ぶようになすままに日々を営んでおいででございました。 女としての体の変化を見たのはそんなときでございました。 そのころから清子さまはおぐしもわずかに黒味を持ち始め濃いい栗毛に変わりまして御座います。ですが、黒色では御座いませんでした。 肌も地黒では御座いましたが僅かに白くなり果実が熟れて粉を吹くようなみずみずしさを保つ健康な色に変わりまして御座います。 清子さまは水仙の白い花の中に一輪の黄色の花が目立つようにより人の目を引いたので御座います。 とき過ぎれば頭を垂れる水仙の花の中にあって凛としてたち花香を放ち見事に咲いて見せたのでございます。 同じ年頃の女の子の中にあって誰もが目を見張りため息をつき、近寄りがたい不思議な雰囲気を持っておられましてございます。肉薄き少女の体からふくよかな張りのある女の体へと脱皮しつつあったのでございます。 怪しげな女の色香に満ち満ちておりました。匂たつとでも言うのでございましょうか・・・その芳情の香は、幸か不幸か清子さまの持って生まれた資質でございました。その香りがどこから出ていたかは・・・おそばに仕えていました私だけが知っていたことでございました。 男の行く極楽には女がいないと聞いた・・・。 女の行く極楽には男がいないと聞いた・・・ なんと理不尽なことを・・・女と男・・・そこに極楽も地獄もうまれ悲喜こもごもが生まれるというものでございましょう。・・・男があってのゆえに女は体に香を染込ませ一重の絵模様に心砕き顔に化粧(けわい)を施し黒髪に櫛を流し花びらを開き・・・。 切ない、花の開かぬ極楽なぞ・・・ このわしは地獄に落ちてきっと花開こうぞ・・・ あの清子さまの匂いは極楽の、または地獄のものあったのでございましょうか・・・。 人と同じ煩悩の色に染まるもみじ 身を変えたいと生まれ変わって女の道を生きたいと舞う女舞い もみじの化身として赤く身を焦がしてなお求め行く女の哀れな性、悪戯の心・・・。 女の滴る蜜は尽きることなく滴り落ちて地獄へ流れつくのでございます。 まだ開かぬ清子さまの蕾は花の命をはじめようとしておいででございました。 やがて天女の衣を脱ぎ捨て単衣の重ね着を羽織られ女となっていく・・・。 いつの世も争いはある。こくたみの思いは日々の平安である。今まで人間が生きてその心の安らぐときは果たしてあったのか…。
2017年07月11日
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いつか何処かで…。45 倉敷は朝方に雨が降ったが、今はやんで薄日が差しいている。 この季節は小野小町が生きた時代と少しも変わっていない。 同じ環境の中で同じ生き方をするということはない。そこには機根があり、時代を背景にしていとなみがある。その一コマを覘いたといえようか…。 これば小町を書いた時のノートです。 「小町」創作ノート 小町がだんだん形になっていく。小町の姿が見えてきた。顔かたち、瞳の大きさ、鼻の高さ、朱唇、腰に垂れる豊穣な黒髪などがだんだん見えてきた。こうなればこっちのもの90パーセントが出来たようなものです。 才色兼備の美人であった。が謎が多すぎる。文徳天皇の皇太子惟仁と惟喬太子との確執に、藤原家と紀家の争いに・・・詰まり政変に巻き込まれた形跡が見えてきた。 小野家と文徳帝の中宮紀静子の第一太子惟喬との関係、文徳帝と藤原明子の子惟仁皇太子後の清和天皇、この図形になにやら謎が隠されていそである。 小野滝雄には二人の女の子があった。姉は仁明天皇の更衣であった。が、妹は姉を大町というので妹を小町と綽名したとしたら・・・。そして、なぜに六歌仙となったか・・・。政変に巻き込まれ不遇の死・・・。そして歌の神へと立てまつわれたのか・・・。 前回の本文に続いて…。 季節で申せば春であったのか・・・。それとも冬への道のりの秋・・・。 この館にはお二人のお姫ごがおられました。上のお姫子は吉子さま、下のお姫ごは清子さまと申されました。お二人の歳の開きは四歳、吉子さまはこの琵琶湖に面した小野の荘でお生まれになられ、清子さまは北国の出羽でございました。お父上の小野龍雄様が出羽に国司としておいでになられていたときに清子さまはお生まれになったので御座います。 当時流行の唐風の衣をまとい、髪を両の耳の上に束ねて組み庭に出て遊んでおられる姿はまるで天女のようでございました。いつもお二人は同じお伊達をなさっておいでで御座いました。二人の天女が風に舞って空を泳いでおいでのようで御座いました。 幼さをちりばめたお顔にも育ち行く後のお顔が見えるようで、それは咲く前の蕾の開いた花を思い起こすことが出来たのでございました。 吉子さまは肌の色は卵の白みのように透き通っておられ、それに引き換え雪国生まれの清子さまは雪焼けした肌のように地黒で御座いました。なんと言う不思議なえにしで御座いましょう。 お父上の出羽守の任が解かれ琵琶湖畔の小野の荘へ帰られたのは吉子さまが十二、清子さまが八歳のときでございました。 幼い頃からそれは利発なお子でございました。万葉集を学び、書を習い、お父上の文章博士のお勉強もずいぶんと積まれておいでで御座いました。そんな従順なお方で御座いましたから館様もお喜びになられ大事に育てておいでで御座いました。 お二人とも劣らぬお元気なお姫子で御座いました。 人の世の習い、小町は女人として成長するに従いそこに無常を感じるようになる。 この続きは明日にのこして…。 昨今は自分の至らなさを棚に上げて被害者ぶり横柄な態度でまかり通る輩が多くみられる。すべて自分のため、社会を騒がす愉快犯のように…。幼稚園のおっさん、ロリコンの官僚、定見なき政治家、自分の言葉を持たぬ似非文化人たち、金のために転ぶ学者、人権なき弁護士たち…。 狂っているとしか思えない。 この国は海に漂う島なのか、行き着く港は遠く果てしない…。
2017年07月10日
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いつか何処かで・・・。44 倉敷は曇り激しい雨…。 この季節になると自然の災害が増える。 大雨と台風、日本風土はそれが特徴として成り立っていた。 昔からの神社仏閣は言い伝えにより災害が少ないところに作られている。それは風水とも一致するという。地震と台風にも崩壊されることなく今も威容を保ち存在している。 神社仏閣の雌雄には巨木が林立して風邪を防ぎ、根を張って地盤をしっかり捕まえている。これが日本の姿であろう。信仰の対象としてはあるものが常にあるということが原則なのだ。それがあることで安心して生きてきた歴史がある。 私は「砂漠の灯台」の中で、自然のままで放置されている森林を国家が買い国有林にすることを書いた。また、自然の自己の再生に期待してはどうかという提言もしている。さらに今の人間の進歩を、進化を止めることも書いた。 それは日本人ほど自然とともに生きた民族はいないという観点から生まれている。それは日本人の中に自然を精神の主軸にして生きたということだ。 それには日本国の生成にさかのぼりその時代を生きた人達の魂との交流し必要と思った。 古典の中にそれを見つめた。和歌の中に当時の世相と風俗、当時の人たちの心を探す旅をした。 花の色は移りにけりにいたずらに わが身世にふるながめせしまに 小野小町 美しいの…綺麗じゃのう…ここからの眺めは極楽への道のりでふと立ち止まって須弥山を眺めておるようじゃ。 琵琶湖には沈み行き隠れてゆく夕日がさかさまに映りのみこまれ・・・。 緑の風が湖面に白い漣を立たせて…。その上を小さな生き物が飛んでおるようじゃ…。陽炎か・・・あれは…。 自然の景色の移ろいは何にもかわっとらん…。変わるは人の心か…。 穏やかな紅い湖面に映る周囲の山々も波が立つとゆれて変わっていく…。人の心も物思うとその時々で変わり行く…。三千の煩悩一瞬にしてまた変わり行く…。 人とはなんと倣岸な罰当たりの業を背負っているものか…。 嫌じゃ嫌じゃ…。何もかも忘却の川に流し…。 ひと時この風に誘われ自然の懐にあって癒され和むことにしよう…。 なにこのわしに聞きたいのは、京への道かそれとも越前への道かな・・・。 人がひと時のんびりと風と共に遊び心地よい夢を見ていたというのにそれを起こし、この現実に引き戻すとは何というお人じゃ。 人の世の苦しみから夢はひと時何もかも忘れさせてくれる・・・。 なに・・・。うん・・・うん・・・。 それは・・・それは遠い日のことじゃ。わしの空っぽの頭の隅に残っておるじゃろうかのう・・・。このばばがまたうら若い乙女であった時の事じゃゆえ・・・。 東山科の里から琵琶湖畔の小野の荘、この地は今日と変わらぬ時の日差しが降り雪いでおった・・・。 それは一日として変わってはおらん・・・。 長閑な日々の繰り返し、風たつ日、雨の雫の落ちる日、雪の舞う白い花びらの散るような日、陽が滾々と降り注ぎ心乾く日、それぞれがこの琵琶湖の美しさをより際立たせ、変化のある景色のさまを飽きることなく見せてくれましたぞ・・・。 あれは・・・。遠い古の思いを手繰り寄せ・・・。 今は人の影とてないこの館、風雪にさらされ朽ちゆき、館の外塀も破れて剥げ落ちて・・・。 夜盗にあらされ破れた簾が垂れ下がり・・・几帳は倒れて壊れこなごなに・・・。磨きこまれていた部屋の板の間は土煙が立ち・・・。 明かりをなくした屋敷はなんともおぞましいものでしょうかな・・・。 あの頃、この館は花が咲いたように・・・。 これは「小町うたびと六歌仙」に幕開きの一説である。 小町というのは女官の位を指している。局、更衣、町という名で呼ばれていた。小町は町の位の名前である。その小町がなぜ全国にわたりなおつけられているのか、ここには政変の犠牲になった小町の存在がかかわっている。 ここで書くと少し長くなるので、なぜ、そんなにもうまくない歌詠みが六歌仙に名を連ねているのか、百日通いの逸話が残っているのかは・・・。 次回に書きたいと思う…。 常により中の不条理によってその犠牲になった小野小町をなぜ書いたか、私は三島由紀夫氏の「卒塔婆小町」を読んではいない‥。 小町と平安の初期に遊び話すうちに小町を想像して書いた…。
2017年07月09日
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いつか何処かで…。43 倉敷はどんより曇って時に雨がぱらついた。相変わらず工場群の空はばい煙が作った厚い雲が垂れ込めていた。 空にはツバメも雀も、カラスさえいなくなっている。川にも魚が泳いでいない。公害は負ったという感゛終わってはいない。目に見えなくなっているが動物たちの動きから予測したら見えない公害が広がっている。 毎年検診があるが、肺のレントゲンは真っ黒け、肺機能の検査で肺活量は極端に少ない。もうこの生活をして50年になる。 シナのスモッグについて日本の公害を知らぬ人たちが盛んに激しいというが日本も相変わらず公害が空を川を海を汚している。調査もしないで無責任に論じる似非文化人たちには困ったものだ。 水島の病院、医院は公害病患者を抱えようと必死ななった時がある。公害認定病患者は国費で肺に関する治療費は無料となっていて、それらの患者を抱えることは儲けにつながったからだ。 50メートル先の家が瞬く間に消えた。スモッグによるものだった。洗濯物は乾いても黒ずんでいた。ぜんそくで幼い子供たちはなくなり、年寄りもなくなっていた。PPMというわけのわからない基準値が横行していた。 海に匂いのしない魚を、空に自由に飛び交う鳥たちを、川にたくさんの魚が泳ぐ、それらを返せと叫んだ。 爆弾が落ちた様な音が昼夜続いていた。工場の爆発だった。 新聞各社は専従の記者を置いていた。各政党はただ見ているだけで何も手を打たなかった。邪魔者にしか見えなかった。 私にはそれを遠い昔とは言えない。 安全基準のPPMでごまかされ、煙突はさらに高くなり公害を拡散させただけで、工場の排水がいかにきれいかを証明するために川の水を流していた。 港には大型の船が着眼し、工場建設、従業員が夜の店に集まり何でもが売れて素人でも商売ができていた。従業員たちは事故に巻き込まれて重傷を負っても労災にかからない処置が病院との間でやり取りされていた。医院がたちまち大きな病院へと様変わりしていた。企業の労組から市会議員になった人たちとは公害問題に対して取材をしたが発言はなかった。加害者意識があって公害のことは絶対に私たちの取材には答えなかった。 ただ 煙突を高くして拡散し、水で薄めてキレイを装ったのが日本公害対策だった。公害先進国、シナに技術をと何も知らない人たちはそういうが今の実態も知らない人たちである。 そんな街で50年が過ぎていく…。自然の浄化で一見元に戻ったかに見えるが、海も空も川も絶対にもとには戻っていない。 人間は環境になれる、そんな汚れた環境に慣れて生活をしている。 当時栄えた街並みは今はシャッター通りに変わり、人影もまばらで、当時の面影はない。 漁師たちは漁業権を売り、家を建て今では工場の従業員をしている。農家は土地を売り本家普請をし借家やマンションを賃貸しし優雅に暮らしているが、ものを作る喜びを棄てたものにはもうその喜びも帰らないし、金であがなえる安物の生き方しか出来なくなっている。 生まれ、発展し、成熟し、退廃し、やがて瓦解する、それが自然と人間の関係、定義でもある。 私はそれをここにいてかかわった関係でぜひその過程を見届けたいと思う。 世界の情勢を見ても、その定義は変わらない。 海賊国家と言われていたイギリスの凋落と混乱は目を見張るものがある。また、植民地政策で成り立ち豊かであった国ほど、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、アメリカ、が経済危機に直面しているが、それも自然の采配であろう。 日本がシナで戦っていたのはドイツとアメリカであって蒋介石の国民党軍との戦いは記述するほどではない。山賊の野盗の親玉の毛沢東との戦いは一つもない。 ドイツもこうも世界から嫌われたらおしまいだ、シナの発展と成熟は過ぎて滅びゆく道に入っている、世界への野望はその焦りであろう。 ロシアの困窮ぶりは筆舌に余る。国民の生活を見ればその事実が見えてくる。韓国の民族性が世界から嫌われていることは周知の事実である。北も孤立を深めている。シリアの問題もロシア、イラン、トルコ、イスラエル、アメリカの思惑があり終結を見ることはないだろう。元凶を作ったのフランス、イギリスはもう蚊帳の外、石油利権がほしいからとイラクとシリアを分断し、そこの国民から人頭税を取りがこの戦いの元凶だが、ここにきて何もなすすべがなくアメリカに助けられているとは、移民による混乱と疲弊はしかるべく与えられた退潮への道のりてある。 フランスは世界の核廃棄物の処理を一手に任されてやっていたが、そのほとんどは西太平洋にドラム缶に入れて投棄するか、ロシアに金を払いシベリアに運び野ざらしに積み上げられている。フランスの原発は海岸線ではなく内陸の川沿いに50何基も作られているが、核廃棄水が今のところ汚染されていないが今後はわからない。下流の水で作られたワインを喜んで買って飲んでいるのは日本人である。日本人に福島の汚染を論じる資格があるのか…。 原発といえばシナのその施設は老化してきた。ダムや河川のインフラもその例外ではない。少し大きな地震が来れば三峡ダムは崩壊し何億の人たちが飲み込まれる。原発に事故が憂きれば周辺国は甚大に被害がもたらされる。 人間は危機に直面しながらも平々凡々と過ごしている、これは偉大というほかない・・・。 そんなことを雨の音を聞きながら書いていて惨めな思いに駆られらいる…。 これも人間の定めなのか…。
2017年07月08日
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いつか何処かで…。41 倉敷は朝方激しい雨に見廻われた。梅雨という実感がしている。 そんな夏の初めに私は昔を思い出していた。 「夏告げ鳥とはツバメのことを言う。ツバメは渡り鳥で環境を熟知していて巣を作るにも居心地のいい環境を選んで作る。それは風水的にも正して作り方であるらしい。昔からツバメは縁起がいいとしてきた、それは環境と風水が整っているということだ。水田の稲作において害虫をたべてくれ益鳥として収穫をもたらしくくれる。 またツバメが巣を作ってくれるとその家には幸せが来るという。つまり繁栄するということだ。巣を作るときには作る家の人を見て作るともいう。その判断力を持っているということだ。 恋愛、子宝、商売繁盛をもたらし成就に高家するとも言われている。 そのツバメが最近全くいなくなり姿を見ることができない。私にそれだけの徳がないということなのか…。 夏を告げてくれるツバメ、ツバメだけではない秋を告げてくれる雀にも何年か出会っていない。 生き物についてはいろいろな説があるが、それだけ自然は崩壊しているのだろうか。生物は環境によってつねに絶滅の危機にさらされている。その繰り返しの歴史でもある。 先に書いたことで思い当たることがある。50-60歳の10年間には私の家のスタジオの天井に毎年ツバメが巣を作っていた。その頃はものすごく充実しい裾が獅子吼楽しい期間であった。ツバメのことを今書いていてツバメによる幸運の縁起を感じている。何もかも捨ててからはツバメは巣を作らなくなった。私ほ毎年応援に来てくれていたのかと思う。 皆さんの家にはツバメが巣を作ってくれているのでしょうか。 これはあくまで延期話かもしれないが、ふるくから伝承されている言葉でもある。 巣を作る家を選ぶときにそこに住む人を見て作る、燕には本能的に良し悪しがわかるということなのだ。恐れ入りましたというほかない。 ツバメといえば昔の仲間、梅内女史の小説「片つばめ」を思い出す。この作品は女流文学賞の佳作に入ったものだが、女性の運命をツバメに託し今年巣を作ってくれたら何も醸す捨て恋する人のとこへ行こう、来なかったら今のままで耐えて生きようという物語であった。 この作品にはとことん付き合わされた。毎晩書いたものを電話口で読むのを聞かされる、女優を目指していただけに滑舌も鼻濁も完璧で感情をこめて読まれる。それを聞いたことは私にとっても勉強になった。が毎晩、朝までということもしばしばで私が原稿を書けなくて困るということもあった。が、一日一日と作品として完成する、それは聞かされている私も楽しく自分のことのようにうれしかった。 私が相槌を打たずに黙り込むと、 「ここがだめだといいたいのでしょう」 と言い切り返してくる。それは一種の禅問答のようなものだった。 選者の三浦哲郎氏に激賞されたが惜しくも佳作だった。 彼女はそこで書くことをやめた。 「文学をしたのは人間としての生き方をさぐるため、言ってみればこころのせんたくなのよ」 と言ってのけ、つくば市でフランス料理店を経営し、その後には岩井半四郎につついて舞踊を習い流派を作った。彼女のそれが最終の目的で作家になることではなかった。 若かったころ、文学座の杉村春子に内弟子に来ないかと言われるほどの役者根性を持っていたが、彼女には付きまとう父の影があった。それは戦争中のものだった。彼女の父親は人間魚雷の製作にかかわっていたことがc級戦犯に問われ拘束されその罪が解かれても居場所がなくて逃げ回っていたと聞かされた。 私はそこに戦争の一つの影を見た。 彼女の父親が公職追放になったのではないかと思う。 のちに呉服屋の次男坊さんと結婚して二人の女の子の母になった、そんなころ文学仲間として知り合った。 着物の似合う人だった。いつも着物に身を包んでいた。 そんな過去をもって「片つばめ」を来るか来ないか、そこに人生を託する女性の生きざまを書き綴っていたのだ。 父親のこと、母親のこと、そして自分の運命をツバメに託したということだ。 花があり才能はこぼれるほど持っていたが賞を区切りとして別の人生をえらんだ。通過点として次なる挑戦をしていった。 私が今あるのは彼女からもらったものが心に残ったからだと思う。 書く執念と開き直り、人に歴史ありを知らされた。 ツバメ、それは未来を予言するものと認識している。 今、ツバメを見ることはないが私の心の中にはたくさんのツバメたち、人生を背負った人たちの姿が思い浮かんでいる…。
2017年07月08日
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いつか何処かで…。40 倉敷は午前中は雨が降っていた、風はそんなに強くない。今年初の暑さを記録、外は熱風が流れいたたまれない不快さを感じた。これは台風は影響なく午後からすっかり晴れて台風一過というところ…。 今の日本を見ているとあほらしくなる、言葉が出ない、国民の民度がなぜ低くなったのかと情けなくなる。 これでは戦中の朝日の戦争を煽る記事と一緒ではないか。それに振り回される国民は戦中と変わらないのか…。 自民大敗、国民はこの問題の裏を見る力もないのか、都民、国民が自己防衛を計っただけ、建設的に行動ではない。また、立候補者からそれが出なかったという事か。世界の選挙を見ても好きか嫌いか、風体が、顔がという範囲で投票している。政索なんか聞いていない、寧ろ邪魔としている。マニフェストでいれたのは前回の民主党の詐欺にかかっただけ。 後は小泉旋風の後を見ればいかに国民が苦労されていたかがわかる。ただムードで入れた、呑気な国民である、将来のことなど考えていない。 今回の都議選、風が落ちてきた小池であったからここで止まったが、もう少し前だったら自民は一けたになっていたかもしれない。 問題はこれから、小池は代表を野田に返した。さてここからが第二の小池劇場の幕があがるのはこれから、シナリオは私の中ではできている。 豊洲の早期移転、築地の後にテーマパークとはちゃんちゃらおかしい、時代錯誤も甚だしい。築地は五輪のために使われることは決まっていた。道路整備と選手村、前の渋谷の選手村は老朽化していて使えない。そこを新しく作り変えていれば、東京体躯館、国立競技場は歩いて行けた。それが出来ているとは聞こえてこない。小池の豊洲反対で10カ月遅れている。その間税金は垂れ流された。これは共産党の責任でもある。が、都民はほとんど知らない。 江戸は家康が来る前にはまだ沼地であった。太田道灌のころは潮が波打っていた。江戸時代も地下水は緯度として使ったがそれはわずか、川の水、玉川から江戸の町に用水を作り上水道としていた。築地で魚を洗うのに地下水を使っていたと知りびっくりした。はっきりと言って東京の地下には地下鉄が網の目のように走り、洪水を避ける為に幅20メートルのトンネルが走りまわっている。そこから地下水が出るのかと言いたい。豊洲も地下水を使うというような架空の物語で都民を誤解させている。 豊洲より築地の方がはるかに汚染されているのに共産党は継続を後押ししている。何でも反対という愚かなことをしているのだ。専門家が入って検査をして無害という判断を下したがそれは信じられにないという、根拠は何かを語っていない。それに振り回されたのが小池である。諦念のなさである。つまり理念がないという事が判断力を低下させている。またこの問題を議会をと通さずに独断することは民主政治に反することである。この一つをとっても徳川幕府が上水道を玉川から引いたという決断には負けている。 このままでは東京五輪が危うい、という事は前に書いたが、その危機感は都民にはない。それを反対する都民が多いという事ことなのか・・・。 小池は安倍総理との間で国政選挙は自民でと約束している。 これも何時反故にされるか分かったものではない。 小池も代表を野田に帰した、この二人は改憲主義者・・・さてどうか…。野田はもともと維新の人、松井大阪知事とは親しい。 それにしても泡のように生まれた素人議員に政治を行われるだろうか・・・。堕落した議員を選んだ愚かな都民は自己責任としてこれからを共有しなくてはならない。 私はもう今のマスコミに見切りをつけて国民の国民によるマスコミを作り国民の利益になる情報を伝達すべきであると思っている。その機運がまるでないことにがっかりしている。 私は公害運動をしていた時に、店の前に壁新聞を毎日書いて掲げていた。道行く人が読んでくれていた。新聞社が取材に来ていた。その頃はまだ新聞も理性があつたが今はない。 教育補助を莫大に使っても国民の知性は向上していない。酒と女と男と金に振り回されているのが日本人の実態である…。
2017年07月04日
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いつか何処かで・・・。38 倉敷は曇り空・・・。 良く雨女という言葉を聞く、何かの約束や行事の時には必ず雨が降るという事で名づけられた。昔の女性は着物姿で番傘を指していると一つの情緒を見せてくれていた。男の目から見たらみなおしとやかに見えたものだ。 私は雨の日が嫌いではない。気圧の関係で体に変調をきたすが、それでもなお雨の足音は好きだ。いろいろな振り方が心に片輪系くれるように感じる。激しい土砂降りの音にはベートーベンの戦慄を思いおこし、軽快な響きの雨音にはモーツアルトを思いでしていたりしている。 風も、雷も、雪も嫌いではない。自然が差配してくれるものは阿振りがたく受け止めることにしている。自然の中に生まれ自然の中に帰る、自然の営みはすべてが人間にとって、慈愛だと感じている。だからすべてを受け入れる。その方が穏やかに日々を過ごせるからだ。いわば自然という筋書きのない未知の世界を彷徨っているようなものだ。自然に抱かれながら日々の暮らしの中で忘れているのだ。生き物の中で人間だけが自然を都合のいいように作り替えようとしている。それは傲岸でもある。 時はひととき、私の一日は・・・。 夜空け前の四時に起き、お隣の井戸から一番の閼伽水(あかみず)を汲み戴き。それは仏様へのお供えする清浄水になります。手足を清め、朝の勤行・・・。お勤がわりますと、お堂の掃除を丹念に熟し、麦飯を炊き、味噌と漬物で頂き、洗い物を済ませ 、庵をい出て自然のなかへ、立ち木の生きる息吹、健気な草のいのち、鳥の囀り、鳥といえば鳥を私 は羨んだことが御座います。あの翼があれば、雪の塩入峠をいとも容易く跨ぎ良寛さまの囲炉裏端へと。この暫しの散策が私に色々のものを感じ取らせてくれるのです。 良寛さまのように・・・。私にも、生きものと、話すことが出来るようになるのでしょうか。 帰って頼まれ物の仕立てに取り掛かります。大店の奥さまの打掛けから、可愛い娘さんの人生の角での嫁入りの晴れ着、遊女の褥着、ありとあらゆる針仕事が、私を頼りに持ち込まれます。さして得意ではなかった嗜みの針仕事、根を詰めて糸で綾なします。その間は、良寛さまのことを忘れて着る人 の幸せを糸に託して・・・。ひと段落すると、明かり取りの下に転がる手毬のかがりに時を使います、良 寛さまはいつか、 「貞心尼の手毬は飾りも見事なら良く弾む」その世辞とも思える賛嘆を頂きたいと精を注ぎまする。良寛さまと今まで過ごした時の楽しさを思い起し、これからなにをどうと考えていますと、頬はぽかぽかと 、身体の中に温石をい抱いたように火照り、仏に仕える身でありながら不謹慎な事でございます。その 念いが、次には墨と硯の世界へと・・・。 「なあに~何事も自然が一番じゃ、逆ろうことが何であろうかな」 良寛さまの言葉が軽やかに鈴を鳴らすように響きます。 この、何の変わりのない繰り返しが、私の修業、解脱への道程・・・そんな一日はほんの一時。時の流れの速さに繰り言のひとつもと・・・。ですが、雪の季節はむしろ有り難いと念う、人間とはなにかと思いて・・・。深く祈念を仏典の中に求めて彷徨、あれこれと応えのな い思を巡らせ、その一時が御仏に寄り添える時でございますゆえに。 「はちすの露」を公演、その貞心尼のセリフです。 何時の世も繰り返される心の文様、その単純な日々が穏やかな生活なのかもしれない。自然の巡りはこころに波風を作りそれを乗り越えて成長を促す。自然からのいざないである。 自然の営みに支えられながら生きているという実感を持って・・・。 決して地球温暖化でco2 の削減などと言う詭弁の迷わされることなく自然をたたえることが自然への恩返し返しかと…。 私は自然の織りなす変化の中で生きることの至福を感じている…。
2017年07月02日
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いつか何処かで…。37 倉敷は晴れているがむしむしして暑い。 7月に入った、歳を取ると月日流れはまるで五月雨のように早い。 毎日が青息吐息である。 若かったころには夏と冬には集中して作品を何本も二、三日で書き上げていた。それはもう夢とぞと思うになっている。 「めぐりくる季節の中で」の構想がまったくまとまらない、主人公の秋子が見えてこないのだ。見えてこないと何も分析が出来なくて途方に暮れることになる。途中まで書いて寝かせている。何も焦ることはない、これは現代女性へのメッセージとして書いているので頼まれたものではない。 この歳になっても人間がわからない、暗闇を彷徨ている。女性も男性も私の思考の範疇からはみ出していて理解の壁を越えられない。 この物語は女性の本能の美しさを書こうとしている。だから、古代からの女性を見詰めてその実態を捜そうとしている。男からしたら女性は永遠に神秘の中にいることになる。 物書きにとっては男女の恋愛は主要のテーマであるが、果たして本性まで書ききれているのかはわからない。 私が初めてそれらの作品を読んだのは、武者小路実篤さんの「友情」であった。今までも筋書きは覚えている。強烈に心に沁み込んだのだ。恋に悩む青年達の姿が描かれていた。明治維新後の女性の処女性を重んじていた時代だから簡単に恋することでは結ばれることもなかった。 その頃に、華厳の滝に身を投げた一高の学生、藤村操氏の辞世の句に衝撃を受けた。 「ゆうゆうたるかな天上、朗々たるかな古今、この五尺の小体をもって大を計らん・・・万有の真相一言にして尽く曰不可解・・・」華厳の滝にはこの文が碑として刻まれている。 何もわからないことが真相であると言っている。これもまた生き方なのだと思えるようになったのは時間が過ぎたころである。 森鴎外の「高瀬舟」により安楽死を自覚した。罪を犯した弟を安楽死させる兄の物語であった。 田山花袋の「蒲団」、幸田露伴の「五重塔」志賀直哉の「小僧と神様」芥川龍之介の「蜘蛛の糸」夏目漱石の「三四郎」菊池寛の「無名作家の日記」それらをある時期枕にして眠った。 外国のものも、ジィド、サルトル、ベケット、ゲーテ、トルストイ、ツルゲーネフ、イプセン、チェーホフ、ドフトエフスキー、 このころはなんでも読み漁っていた。哲学書、心理学書、マルクス、スミス、などもわかりもしないのに読んでいた。 読んでいまもこころにのこっているまのは、チェーホフとドフトエフスキー、ジィド、ラシーヌ、ヘミングウェー位だ。今ではすっかり忘れているが名前だけはこころに引っかかっている。 坂口安吾の「風博士」は脚色して公演した。懐かしさがある。 戦後、日本文学で影響を受けたのは、読んだのは安倍公房だろう。坂口安吾、谷崎潤一郎、三島由紀夫らの作品はすべて読んでいる。また、当時芥川賞を貰った作品はすべて読んでいる。書いていけばきりがない、芥川賞の作品では三浦哲郎「忍ぶ川」宮本輝「蛍川」柴田翔「されどわれらが日々」などが印象として残っている。 劇作家の端くれとしては日本の戯曲を読まなくてはと思ったが読んではいない。 なんでダボハゼのように読み漁ったという事だ。 この20年間は全く読んではいない。誰が何を書いているのかもさっぱりわからない。それがいいのか悪いのかもわからない。世間を騒がす作家が出てきていないという事か…。 出版界も大変らしい、活字離れが激しいという。 笹沢佐保、松本清張、水上勉、などは1カ月に何千枚も書いていた。今はそんな作家はいない。世界では1作がロングセラーになるからそれで次作まで食べられたが、日本はとにかく書かなくてはならない作家の宿命があった。 今では大小合わせて全国で5百ほどの荘があるが、それを取っ手作家と名乗る人もいるが作品も書けずに食べられないフリーターである。 苦節何十年という執念で出てきた作家には早晩出てきた作家との違いは歴然だ。要するに蓄積がない、当然の結果である。 そんな人が地方において賞の肩書で文化振興などしていたらたまったものではない。疲弊するのは当然である。 人間を書く人が人間ではない怪獣あれば人の心のひだなど読み取ることはかなわない。その人たちが地方の賞の審査員をしている、これは困ったものだ。 昔もあった、文学少女を食い放題していた人が審査員を、高校生を胎まして退職させられた先生が児童文学の審査員とは呆れたものだった。 今、日本には文学も哲学もその芽はない…。 色々と読んだり書いたが今はすべてを忘れている、時が過ぎれば何もかも過去になる。 が、頭のどこかに残り降臨するものかもしれない…。
2017年07月01日
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いつか何処かで・・・。34 倉敷は梅雨の晴れ間とはいいがたい。どんよりとして空。昨日から今朝にかけては激しい雨音が続いた。雨は落ちていないがいつ落ちて来ても不思議ではない。たぶん明日は降るだろう。私は気圧を敏感にとらうることが出来て気象庁より正確に変化を読み取ることが出来る。 アジサイ、またライラックという。この花を市区町村のものとして指定しているところは全国で多い。北斎がアジサイを画いているので探したが見つからなかった。 ドイツの医師シーボルトは愛妾の小滝さんをおもじって「おたくさん」と呼んだ、後にオランダで「日本植物誌」を書き日本のアジサイ14種を紹介している。 アジサイを「七変花」「八仙花」と呼ぶ。「またぐりぐさ」とも・・・。 花言葉としては「辛抱強い愛情」「一家団欒」「家族の結びつき」という事だ。 だが、美しいものには常に毒があることを忘れないこと…。 いや毒があるから美しいともいえる。 私はアジサイを見て思い出すことがある。 季節もちょうど今、雨が激しくはないがしとしとと落ちていた。 私は、書き物が一段落したので家人がやっている茶店のカウンターに座りコーヒーを飲んで書いたことを頭に並べて整理していた。普通なら店は終わっていて明かりを落としているところだが、カウンターの上だけはつけていた。 ドアに着けている鐘が揺れて音がかすかに響いた。風の悪戯かなと思ってほっておいた。その音は断続的に響いていた。 「あの、まだいいですか・・・」とドアの外から届いてきた。 私はドアに近づき鍵を外してあけた。そこには傘もささず立たずむ30くらいの女性が立っていた。 「すいません、こんな時間に、御無理でしょうか」 言葉の端にこの人の性格が出ていた。 「いや、コーヒーくらいならお出しできますが…」 「いつも昼間にこの道を通って店の前に咲くアジサイを眺めていたのですが、夜分に無性に見たくなって…」 店の前にはアジサイが咲き誇っていた。雨に濡れてより鮮やかに見せていた。 「どうぞ」 厨房に入りサイホンでコーヒーを淹れた。 30歳前後でしっとりとした女性で何か憂いを含んでいる顔だった。 彼女はコーヒーを口に運んで、 「おいしい」と言った。 「このご近所ですか」 「はい、会社の社宅です、今日は主人は夜勤なもので、トーレスの仕事をしていたのですが、雨のあじさいがみたくなり・・・ご迷惑をおかけいたします」 「そんなに恐縮していただかなくてもいいです。私も暇でコーヒーを楽しんでいたところですから」 「少しお話を聞いていただけますか」 「構いませんよ、答えを求められると困りますが」 「私って駄目な女なのです。主人にたくさん隠し事あって、亡くなるまでもっていかなくてはならないのです」 「・・・」 彼女は自分の過去を語り始めていた。 だれにも言えなかったことを私に吐き出すように語った。 「聞いて戴き心が軽くなりました」 彼女の顔に今までにない微笑みがこぼれていた。よほど思いつめていて誰かに聞いてほしかったのだろう。 私は聞いている間、何か不思議な思いに駆られていた。 それは彼女の若かったころの壮絶な体験だった。 倉敷水島の公害闘争に関わって東京から男女5人で入ってきていた。 運動資金を稼ぐために、彼女たちは夜の街に立って客を取っていたという。 そのあと主人と巡り合い結婚していた。 このことは主人には絶対に言えないことだと言った。 私もその闘争に関わっていたので、なぜ、という感じがした。 「子供たちが、お年寄りがなくなるのをじっと見つめていることが出来なかった」 彼女は最後にそう言葉を落とした。 私は何も言えなかった。呆然として公害闘争のことを思い出していた。 ドアの鐘がかすかになり、彼女の姿が消えていた。 アジサイは家族の絆。人間の絆、一つの命を尊ぶ行いが彼女を街角に立たせていた…。
2017年06月28日
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いつか何処かで・・・。33 倉敷は鬱陶しい憂鬱に一日、雲はどんよりと低く垂れこめている。いつ雨が落ちて来ても不思議でしない。元気に花ビラを開いているのはアジサイ、ひきわりが時期に遅れまいと急に成長の度合いを増している。 そんな自然の営みに頬が緩む。 衰えを感じている。もともと持病として持っていた自律神経失調症は交感神経と副交感神経のゆがみから来ていて、体の随所に支障をきたす。医師に行ってもどこも悪くなくという人になればこの病名をくれる。 まあ、人間は生き過ぎているという事なのかもしれない。明治のころまでは平均寿命は50年、平均身長は5尺、よくもよくも体躯で大男の白人と互角に戦ったものだ。識字率では日本は群を抜いていた。60%の人たちが読み書きそろばんが出来ていた。その頃、イギリス、フランス、アメリカは10%に届いてはいない。シナにしても朝鮮にしてもほんのわずかの知識層しか読み書きは出なかった。アジアの向学心と向上心を持っている人たちは日本に来て世界の文学思想を学んでいた。日本は諸外国のものを日本語に翻訳して国民はそれを読んでいたから、その中に混じって日本に勉強をしに来ていた人たちは学んだ、シナは世界の名著の翻訳はしていなかったから日本でそれらを習得して帰っていた。「阿Q正伝」の魯迅も日本で学びそれを持って帰ってシナの文化に貢献した。 今シナで使われている漢字の単語の70%は日本人が翻訳時に作った漢字である。そんなことを知るシナ人はいない。漢字の単語はシナが作ったと誤解している。日本が作った漢字を使わなくては意思の疎通などできないのだ。 今日本でも盛んにカタカナを使って表現している方が多いが、そのカタカナでは日本独特の意味をあらわすことはできない。それを知ってか知らずか得意になって使っている。言語の表現で飯を食っている作家と称する人たちがカタカナを多用していることはほとほと嘆かわしい。日本固有の細やかに表現ができないことの気が付いていない。 それは朝鮮のハングルで表現するときにおおざっぱな言葉しか書けないという事と同じで、朝鮮人の心を書けないという事だ。 人間にとっての言語はなくてはならないことで、しかもそれを表現する文字がないという事はその人たちの限界になる。 日本語ほど一つのものを見ていろいろな感情を表現できる言葉はない。世界のどこを探してもそれはない。 素晴らしい日本語だけの表現の言語があるのだからせめて物書きはそれを使って書いてほしいと思う。 今、私は新刊など読んでいないし、芥川、直木賞など相手にしてないので皆目分からないが、カタカナの置き換えはたくさんあるだろうことは感じている。言葉の端々にそれが出ているという事は書き物にも多用されていることだと結論が出来る。 古典を読み砕いて詩を書き曲を付けて歌っているのはさだましさ 位か。日本語の言葉の中にカタカナが混じるので理解できない人も多かろう。 まず、カタカナの表現をなくして日本語で語れと言いたい。英語をカタカナにして語ることがさも立派なと勘違いをしている日本人の偽文化人はここを改めてほしい。 広辞苑を開いて見てほしい、一つの漢字で幾通りにも表現が書かれている。物書きはその一言にこだわるところから始まる。もっともっと自分が表現したい漢字がないかと探す。それが一つの喜びになってこそ物書きの端くれになれる。今はその漢字も使用は制限されている。が、一度書いてあとは編集者と話し合うことだ。若い頃新聞に書いていたころには漢字は中学校1年生程度でという制限を与えられた。物書きとしたらこの制限は殺されたようなものだった。3年間ほど連載したがそこで逃げた。 劇作も同じで話し言葉で書かなくてはならない、それはそれで理解できたのだが、小説の世界ではその制限はどうか…。 今、自分のために書いているから自由に漢字が使え、表現も書き連ねることが出来る。 長い道のりで今漸くに物が書ける、社会が認めようが認められなかろうが、そんなことは知ったことではない。 自分の好きなことを書いているとき程楽しく生きていると感じることはない。 メソポタミア文明の中のシュメール文明の文字と日本のカタカナが酷似している、これは何らかの交流あったという事…。縄文紀人には文化があり文字が作られていた…。
2017年06月27日
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いつか何処かで・・・。32 倉敷は一日中曇り空、つい少し前から雨がちらついている。梅雨であることを実感している。 人間が季節を感じるのは長くて80、普通で70回、いくら桜を見たいと言ってもそれ以上は見られない。その季節の巡りが人間の寿命という事になる。長いようでたいした時間ではない。日にちにして27500日、その間に様々な生き方人生がドラマティクに繰り広げられる。その間どの様に生きてもいい、人様に迷惑をかけるような生き方をすれば法律により裁かれる。また、宗教によっていろいろな戒律が齎され生き方を決められるという事もある。 宗教と法律らによって縛られることは人間にとっては楽な生き方だと言い続けてきた。そのようなものに縛られなくても人間の理性としてそれを行うということが出来なくてはならないという事を言いたかった。 孤独とは一人の時ではなく多くの人の中で初めてそれを実感する。孤独を愛するという事は精神を自由に保つことだ、が、この自由というのが厄介なものですべてが自分の考えで行われるからこれほど難しい生き方はない。人は自由をほしがりながら法律と宗教の戒律を喜んで受け入れている。その方が楽なのだ。 今の世の中、様々な生き方の流行があってその流れの中にいる方がこれも楽という事。まんまと乗せられているのが現代の女性と言える。肉食という言葉に惑わされてセックスをオープンにして積極的になっているのが今の女性社会だ。それについて何も反論の言葉がない。 性欲は男より女性の方が強い、男は誘因性性欲熱で女性によって誘導されて初めてスイッチが入る仕組みになっている。 女性は何か勘違いをしていないか、何を求めて太ももを晒し短いスカートをはいてピップをあらわにし、カップを乗せて胸を強調するのか、それは女性の勘違いというものだ。男たちは目のやり場がなくて困っているという現実を知らない。女性の体験は低年齢化している。男の経験はその逆で高齢化している。そこに不幸がある。正常ではない構図がある。 私はそれを不道徳だという事は言えない。が、メスがオスを選ぶときには強くてたくましく頭のいいオスを本能として選んでいた。それが動物を繁殖させ増やした規範である。人間も昔はその例にもれなかったから人類の今がある。 維新以前には人間は意外と本能で生きていた。性におおらかさというものがあり比較的に自由であった。 江戸時代の職人は2時ころで上がり銭湯に行き汗を流しはて家に帰り家族団らんの後吉原へ繰り出すという生活パターンであった。江戸時代は物価が安定していて、例えば職人の一日の稼ぎで1か月分の家賃が払えたから宵越しの金はいらなかった。安かった原因は便所のくみ取りで家主は稼ぐことが出来ていたというのもある。 「大根一本、小便一回」と言われた時代だ。 おおらかと言えばかかあが産めば誰の子であろうが我が子として育てた。 処女性などには見向きもしなかった。吉原はおろか、銭湯も、飯屋も宿屋の女中も夜になると男と女に代わっていた。 維新の伊藤博文などは遊女を妻にしている。 処女性を問題にしだしたのは維新後の明治政府である。これは戦前まで続いた。 男女の中にはタブーがなくていい。それが世界の風潮であった。 が、過ぎたるは及ばざるがごとし、いま女性に対しての男の反乱が起ころうとしている。男には風俗があるが女性にはないところから不倫が増加の一途をたどっていて離婚が急増している。男は怖くて結婚に躊躇している。 江戸時代には女性が男を買える場所があった。歌舞伎役者である。舞台に投げ銭をする、そこで金額により落札をするという制度があったのだ…。 私は古代に男が女性を求めなくなった時代を知っている…。そんな時代が来るような予感がしている…。 つつましさが最大のエロスなのだという概念をもっているからなのだろうか…。
2017年06月26日
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いつか何処かで・・・。31 倉敷は一日風もなく日が照らずどんよりとした時間が過ぎていった。梅雨にふさわしい一日だ。 この5年ほど倉敷の町に行っていない。という事はどこにも行っていないということになるが、家人を連れて県北の美作の湯郷温泉に行った。その記憶がもとで美作は「砂漠の燈台」の舞台にもなった。自然に囲まれた長閑にところだが、山林はやはり崩壊の一途をたどっていた。自然は常に自らが再生を繰り返している。木々は枯れて倒木し朽ちて自然に返る。その朽ちた土から芽を出して成木を目指す。花を咲かせ胞子を飛ばして新しい木々を広げていく。光と風と雨に任す。鳥たちが実を食べて拡散していく。その営みは地球が誕生した時から変わらない。 そんな自然の中で果たして人間はどうであろうか…。 今、古代の歴史は大きく変わろうとしている。例えば黄河文明より長江文明が古いという説がある。私はその文明には否定的である。中国が広大に見えるが、それは今を見て判断している。シナに限って言えば日本より遥かに狭い。イギリスも、ドイツも、フランスも日本より小さい国である。人口もイギリスが6500万人、フランスが5000万人、ドイツが7000万人位だ。さてシナにどれほどの人口があったのか、文明が栄えるほどの成熟した人々が住み成長があったのか、その遺跡はあるのか…。 マルクスの「国家の起源」に例えるまでもなく、古代にはみんなで食料を作るために土地を耕していた。農機具が改良され生産は飛躍的に増加する。他の鉱石とは違い鉄は地上に露出するほど多かった。これは地球が出来たときにすでにあったCO2と雨により酸化していた場所にあった。鉄の釜や鍬が作られたのはもっと古い時代だ思っている。それにより食料は豊富になり溢れていた。働かなくていい人が生まれ、山ら登り天と地の稜線を眺めて人間とは何か、という真理を考え始め、瞑想するようになった。人口が増えたために土地を確保するために戦う人も必要になった。人々を安心させるためでもあり、土地を拡大するためでもあった。それらを指揮する人たちが生まれ国家という組織が作られた。マルクスはそう書いていた。つまり農耕が規則的に始まって国家が生まれたと…。マルクスのかいたものが真実かどうかはわからない、貧乏な学者が食べる為にロスチャイルドに書かされた「資本論」があるので疑わしいともいえる。なぜ、ヨーロッパに古代の文明がなかったのか、それは常に戦いの場所であったからだ。国家が形成されていたか、あっても直ぐにつぶされていた。つまり国境というものはなかったという事だ。爾来、隣国とは仲が悪い、スイスが永世中立国を維持するために、徴兵制を敷き、国民に火器の所持を認めているのは敵に対する侵略への防蟻である。 まあ、これは世界の歴史家にお任せしよう。道がそれている。 私が言いたいのは人間と自然の共生、いや一体なのである。 今、自然がなすことに慣れてはいないか、これが当たり前と思ってはいないか。 花粉症で問題になっている杉と檜は自生したものでなく、人間の都合で植林している。自然のものならば花粉が飛ぶような繁殖はしない、人間が植えたから自然の受粉が出来ずより多くの花粉を飛ばさなくては繁殖しないのだ。これを一体とは言わない。人間は共生という便利な言葉でごまかす。 自然を尊ぶならば自然を管理するなという事だ、自然の再生に任す、良く自然に人間の管理が届かないから洪水が起こるというが、、それはどうか、山の頂上まで家を建て、一つの県の面積に等しいゴルフ場を作り、ダムを作り、人間の欲望のために自然を壊していれば当然だ。自然破壊を憂う、それは傲慢である。人間が作ったという事を忘れている。雷に依っての山火事、焼き畑は自然の再生を助けているのだ。 今、日本近海で魚が取れなくなったというがそれは当たり前のことだ。 考えても見てほしい、昔漁師たちはなぜ山に入りその生成にこだわったか、雨が降り山の表土を川に流し海を魚たちにとっての餌となるプランクトンを作ってくれることを熟知していたからだ。 静物にしても動物にしても時が来れば自らが絶滅をしてきた。それが自然の生業である。 人間はどうか、何か忘れていることはないか…。 アジサイが美しく咲いている、人の心と同じでいろいろに色を変えて、まさに人の心を代弁しているように…。 ルソーのことば「自然に帰れ」・・・それはモクモクと大地を耕していた無欲の時代への誘いと理解している…。
2017年06月25日
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いつか何処かで…。30 倉敷は空に雲がかかり晴れない一日であった。 風もなくよどんでいた。工場の煙突からいつもより多くの煤煙が吹きあげられていた。書いていると雨の足音がだんだんと激しくなっている。 今日は少し良寛さんのことを書いてみたいと思う。 良寛は出雲崎の大庄屋、橘屋の跡取り息子山本栄蔵として生まれた。平らに時が過ぎていれば山本栄蔵として何不自由もなく人生を全うしていたことだろう。 だが、ひとの定めとは時に悪戯をする。父親の左門泰雄は商いに向いてなく五七五に魅せられ惹かれ以南と号を持つ程の歌うたい。だんだんとお日様が当たらなくなって家督を栄蔵に譲ってしまった。 栄蔵は十七歳で庄屋見習いになった。 代官所と村人の仲を取り持ち、佐渡の金山から送られてくる金を荷揚げすることになる。 その頃、飢饉が続き百姓一揆が起こりその斬首に立ち会い胃のなかのものを吐き卒倒した。栄蔵は名主の重圧を受け止めることができなかった。栄蔵は女に酒にと溺れる日々が多くなって行った。そして、何もかも放りだして光照寺へと逃げ込んだのであった。 そこで寺男のような生活をしてのんびりと本ばかり読んで暮した。 以南はそんな栄蔵に見切りをつけて弟の由之が後を継いだ。 実家から仕送りを受けながら四年間過ごしたことになる。 二十二歳のときに大忍國仙和尚が越後に来られ得度し剃髪をして仏門に入った。 國仙和尚は栄蔵の顔をじっと見て「大愚良寛」と名付けられた。 良寛は國仙和尚に連れられて備中玉島の円通寺にやってきて、そこで十三年間修業をすることになった。 良寛はその修業の中で縋るように仏の道を修めた。が、知れば知るほど、縋ればすがるほど身を縛られる事を感じた。 良寛は円通寺の庭に出て遠く瀬戸の海を眺めることが多くなっていった。小波に操られながら漁をする舟を眺めながら人間の道もまだ同じなのだと思った。 同輩の仙桂が田地を耕して作物を育て汗をかいているのを見ても何も感じなかった。道元の教えの「只管多坐」のなかには「一日作さざれば一日喰わず」という教えがあるがその言葉の真意を理解しようとせず、経典の中に救いを求め生き死にの導きに縋ろうとしていた。 そんな日々の中に良寛はいてもなにもすることなく日向ぼっこをしながら内海の波が返すまたたきを見つめるだけだった。この当時にはうたの心も持ち合わせてはいなかった。 そんな日々で良寛の心に芽生えたのは虚無であったのか、師の國仙和尚が示寂された後良寛は円通じをさった。手には國仙和尚から下された「印可の下」、どこの寺の和尚になってもいいと言うお許しの言葉が書きつけられたものを持っていた。 良寛のそこ後の足取りは良寛しか知らない。 この数年間の行方は分からない。その後に国上の五合庵、乙子神社の境内で30年間ほど暮らすことになる。 俗説に良寛は子供たちと毬遊びをし、商家の屋号を書いたり、祝いの言葉を書いたりして、酒台を貰っていたというのがある。高名な寺の住職にと声がかかったというがこれは怪しい。良寛は越後に帰って自由に生きていたので声がかかるとは思えない。 「愛語,戒語」書いているがそれは若かったころのものとして笑っていた。 人に戒めなどいらないというのが良寛の精神であった。むしろ戒律の中で生きる方が楽なことは知ってそれを否定している。 自由に生きることは自分を律しなくてはならないからこれは苦行である。それをなぜ選んだのか、生き方の上で考えるという事を彼は望んだ。教えられて学ぶのではなく、自分で考えて学ぶ事の大切さを、「何事も教えられて学んではならない、自分で作るのじゃ」と良寛は語っている。 70歳のころ30歳の貞心尼と巡り合う、この出会いは良寛を人間として完成させることになる。 今までのすべてを棄て、なくなる4年間に良寛の心に芽生えたものは老いらくの恋であった。 「貞心さん、この世は総て夢、夢に生き、夢に遊び、この良寛、貴方のお陰で好い夢が見られた」 形見とてむ何か残さむ春の花 夏ほととぎす秋は紅葉(良寛) 生き死にの界はなれて住む身にも 避けぬ別れのあるぞかなしい(貞心) 生きることは自らが作る、道を開くのだという事を私は感じた…。
2017年06月24日
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いつか何処かで・・・。29 倉敷は30度近く気温が上がった。スッキリと晴れたというのではない。何かむしむしする一日、そんな事あることだろう。 人間の日々が同じではないように…。 人間は常に煩悩に作用されて生きてきた。その煩悩がなかったら人間は成長しなかったともいえる。 「人生のすべての知恵は幼稚園の砂場で拾った」 幼い頃の経験が人生を左右するという例えであろう。今の幼稚園の砂場に落ちているかどうか、それを確かめることできない。が、おちていたらぜひ拾ってほしいという思いはある。 世界で一番に幼稚園を作ったのは、ドイツのフレーベル、教育学者。幼児教育がそのあとの人生に及ぼす影響を考えて幼児教育の重要性を説き、自らも八角園舎の幼稚園を作りそこで幼児の教育をした、それが日本に入ってきたのは明治の中頃か、日本にもその八角園舎が全国に広がり、まだ存続しているところもある。 人間関係、円滑にするすべ、遊びにおいての感性の芽ばえ、知ることの好奇心、許すことの情け、強調して作り上げる達成感、それらを砂場で拾うのだ。教えるのではなく学びながら気づかせるその自立を大切にしていた。 その名残として倉敷にも八角園舎は現存している。今の幼児教育について私には何も言えない。とにかく元気で明るく過ごしてほしいとしか言えない。 私はその教師に取材をしたことがある。 「園児というより親に教えてあげたいことが沢山あります」控えめにそう言っていた。 昔は幼児教育の場なく家庭ですべてが行われていた。これは世襲だったから出来たことだ。 私は常々教育の貧困は幼児教育の問題だと言ってきた。 その声はむなしく響き届くことは無い。子供たちの瞳の輝きを見れば何をほしがっているのかがわからなくてはならない。 今の日本社会がわかっていない、いくら教育を付けてもその家庭が貧しければまず官僚にはなれず、一流の企業には就職は出来ない。どこどこの息子という事が優先されている。その人間の資質などまるで関係なくそれが優先されている。勉強が出来れば大企業に就職が出来高給がもらえ幸せな結婚が出来、家庭が作れるという幻想は捨てるべきだ。大学に通わせている家では母親がコンビニで深夜にパートをしている風景をよく見る。だが、いくら頑張っても金持ちと続いている名家にはかなわないと知るべきである。そんな社会構造がまだまだ残っている。子供の特質を考えて進路を語り合うべきである。 佐藤義清、後の西行法師は徳大寺という公家の血筋で、鳥羽帝の北面の騎士として御所を警護していた。朋輩には平清盛もいた。彼は鳥羽帝の女院の待賢門院に恋をした、同時期友が若く急逝しこの世をはかなんで、紀伊の国、田仲の荘に残した妻子を棄てて出家する。これが西行の生き方であった。生きて何が起こるかわからない、将来を約束されていてもなお別の道へと歩むのが人間というものだ。西行は後に、 「歌を作るという事は仏を作るという事だ」と語っている。月に花をこよなく愛し、南河内の葛城山麓の弘川寺で円寂するまでの彼の生き方を見詰めて思うことはこころに沿った生き方だったと言える。 西行については「花時雨西行」として舞台で公演しているのでここにはこれ以上書かない。 が、人は何かのきっかけですべてを棄てて生き方を変えるものだという事だ。ここで書いておきたい。西行の父は彼が幼少の時になくなっているという事だ。これは西行にとって何を意味するのか、育ちゆく中で父のうしろすがたを見ることが出来なかったという事だ。 これは、釈迦にも言える、このことは皆さんも知っておられるので書かない。 今、必要なのは教育を付ける為にコンビニで深夜パートをすることなのか、人間の本当の姿を見せることではないのか、 私は答えを探している。 人に必要とされる人間になれと姿で心で教えることではないのか。 生き方に差別はない、それを作ってはならない、それを作るのは教育だ。それにこだわっているは親たちである。 夜の11時に塾の前に子供を迎えに来ている親たちの車の列を見る。 「今のままで、そのままで、何も世間に振り回されることがあろうか、自分の人生じゃ、思う様に生きなされ・・・」 良寛に語らせた言葉を付けたしておこう…。
2017年06月23日
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いつか何処かで・・・。28 倉敷は梅雨空になっている、いつ雨が降っても可笑しくない…。こんな日は何をするにも億劫だ。 もう無理をせずに病と道連れで生きていこうとしているが。私のおねも枠のようにはいかない。毎日違ったところが文句を言う。まあ、不養生して生きた付けなのか…。 先日老いについて書いたが、いくら男が誘因性性欲だと言っても、け世間では女性が勇ましく露出をして誘惑する。ここには確実に表現の自由がある。と確認する。取り締まりは掛け声だけで放置している。緩衝地帯を割くるという事で性犯罪を緩和させているともいえるが、若者ならいいが、年寄りにとっては地獄である。歳を取っても男は男である。 私が東京に招かれても行きたくないのは目のやり場がなく立ちどまるしかないという事もある。過激すぎ、ついていけない。 そんな中で昔書いたものを思い出した。 創作秘話 「天使の子守り唄」 この作品を書いたのはもう四十年も前のことだ。私の住む水島の公害が緩やかになり喘息の死者もそんなに出なくなっていた。と言うのは工場の煙突を高くして煤煙を拡散させ遠くの土地に其の被害が出ている時だった。 私を文学に導いてくれた、先輩の山本信夫さんの哀悼として書いた。 山本さんにはアントン・チェホフを私に教えてくれた人であった。其の造詣は近隣では及ぶ人はいなかった。 この作品の中で私は人間の老いにおける本能を問いたかった。男に取っての本能は自分の血を繋げると言うものだ。そして、女の本能もよりたくましく頭のいい種を持つ男との子孫を残すことであることだと思っていた。 老いても其の欲望は消えることのない本能の業火に身を焼かれる一人の男を、ヘルパーと言う職業で出会う女性との時間と偶然を書いて問題を提議すると言うものだった。当時私は三十そこそこの若造であった。年寄りのことなど知る由もない立場にいた。 訪問看護をするヘルパーの事は承知していた。あくまで其の二人の本能をあからさまに書くのではなくそうなる必然を筋立てた。 夫を事故で亡くし子供を抱えた未亡人を、ヘルパーとして登場させた。 まだ今のように老人介護の福祉基盤は作られてはいなくて手探りの状態の中に無いよりはましと言う程度の政策の上に成り立っていた。 この頃私は努めて取材をしている。また、ヘルパーの実態もある程度つかんでいた。 一人暮らしの年寄りを介護して金品をせしめているというヘルパーの実態も知っていた。また、其の年寄りを慰めることもあったという事も感知していた。 年寄りの性、今その年になってつくづく厄介なものであると手に余ることが多い其の現実に直面して、よくも其の当時に書けたものだという感慨を持つことがある。若さゆえ、今だったら書けたかどうか、年寄りの性への執着、それが生きることの辛さと重なって悲哀すら感じることをよくも書けたものだと思う。 この二人を私は鬼と表現した、人間ではなく鬼、なぜ、人間の倫理も理性もかなぐり捨てて本能だけで遇いまみえる行為を鬼畜としか思えなくて書いた。 今、歳を取って読み進めていたら、真実が見えることに驚愕している。人間の悲しい実存なる行為、これは現代社会においても避けては通れない福祉の現実だった。 年寄りは行為の対価をそっと落とす。それを子供のためと拾う、其のドライな感情は人間の欲なき自然営みに思える。 私はこの作品で性を書こうしたのではなく、人間の在り方のひとかけらを明らかにしたかった。 図らずも、この作品は現在の高齢化、障害者の性に対しての問題に対してのテーゼーとして、そんな大層な事を思ったのではなく、年寄りもただの人間の男女の生きざまを私が歳をとった時に対しての定義であることには違いない。 歳をとる、それは何を意味するのか、快楽と言う、本能、またはそれを凌駕して生きる人間の業を問いかけることで人間のもののあわれを、悲しみを書き遺しておきたかったという事だ。 今、其の歳になって遺された本能だけに振り回されている多くの人達が其の業火の中でのたうちまわっている現実を前にして茫然と佇む影が長い事を知る。 それは国による福祉の枠では到底おさまるものではなく、これからの世代の人達はそれを凌駕出来る手立てを日頃から整えなくてはならない…。 この作品も「砂漠の燈台」の中に収めた。 生きるという事は何時までもその執着が消えないという、これは一種の拷問である…。その業火の中で生きる男の悲哀と切なさを書けていれば・・・。
2017年06月22日
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いつか何処かで・・・。27 倉敷は朝方の激しい振り込みと違って薄日の刺す一日だった 梅雨のしとしとという降りではなかった。風が吹き植木が飛ばされ木が倒れていた。 余り熱く無い日でも頭を冷やす為にクーラーは欠かせない。 今回、出版するものの中に「麗老」という短編も載せている。 老いていく中でどのように生き考えるの書き連ねたものだ。 「麗老」は定年をした男がいかに生きるのかを一面的な視点で書きたかった。綺麗に老いる、それはどういう性質のものか、真実などあるわけもないことを承知していた。少し遊び心を入れて重たいテーマを軽く書こうとした。老いという側面を多少なりとも書けていればと思いたい。書いた後、私には弁解の余地などないことを承知しています。読まれた方がなんだーと思われてもそれについて煩労をする勇気もない。こんな生きかた、があってもいいとご寛容に理解していただければ、書いた甲斐があったというもの、書き手のいい逃れは一切しません。 今、老いた人達の生活苦や生きがいについての問題も取り上げられているが、老いは等しくみんなに訪れる。 若い時から老いた時間をどの様に過ごすのかを、私なりの観点で書いた。 釈迦は人生を4区切りしている。 25までを学業期、25-50までを家住期、50-75までを林住期、75-100までを遊行期としている。 定年のころは林住期、人生で一番充実した時期であるという。今までの生き方を閉じて新しい人生を新しい気持ちで優雅に生きよという事だ。生きて感じたものをもってその時代を充実して生きよという。 なにかの転換期、今までしたいと思ってもできなかったことをする時間だという。 私は50歳ではないが60歳で劇作家も演出家もすべて捨てて75歳まで遊び人に徹した。その間できなかった、世界の歴史、日本の歴史、世界の宗教、古代の文明の中に15年間遊んだ。その期間で書きたくてしょうがない時期があり、拘らなく書いていた。それはそれぞれ出版した。やはり過去を引きずるものだが、それもありだと五木寛之氏は言っている。 それは言って見れば年寄りの玩具の様なもので子供がほしがるように年寄りもほしがる物と実感した。 この遊び人の期間があったことで「砂漠の燈台」という本が生まれることになった。 老いと生きる、そこに時間の無駄をないことを知った。 人は利他的に生きてこそ利己を評価されることも、人に必要とされる生き方が健康を呼んでくることも・・・。 老いて経済的に困窮しても今の日本の福祉では最低の生活でも生きられる。金がないからと何もくよくよすることは無い社会である。 定年制の廃止、年金支給の延長、人は体が動けばその時間があれば働くべきである、それが社会に役に立っているという自覚が持てる。 生きているとはそうしたものだ。 「麗老」の中の歳よりも突き詰めて考えるがなるようにしかならないことで今を生きることで明日を待つという生き方にたどり着く。 私は劇作家から小説家へと流れたが、皆さんも今までしたかったことに果敢に調整して新しい生き方に挑戦してみてはどうか、そこには今まで見えなかった世界がひられていることは間違いない。 老いるとは新しいあなたを作るためのチャレンジなのだという事で、林住期を、遊行期を第二の人生として歩み始めるチャンスの始まりである。 老いて何も失うものはない、そして何かを作ろうなどと考えることはない自由に生きて結果を期待しないことだ。その過程が楽しければいい、そして、明日を迎える喜びを迎えてほしい。 そんな意味で「麗老」を書いた。 年寄りの人たちに、幸あれ、健康であれ、そして遊び心を失わないでほしいと思い書いた。 物語の中ではいろいろに問題に直面し心惑わされ人とは何かを考えるが、自分が人間であることを認識したところで終わりにした。 老いは素晴らしい時間である。生きた人生を整えるのではなく、旅立ちの時である…。
2017年06月21日
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いつかと何処かで・・・。26 倉敷は一日中どんよりしていた。風もなく、雲は梅雨空に見えたが雨は降りそうになかった。背中が痛く、頭が重い、呼吸も浅い症状だった。 昨日晩、幻冬舎から最終校正提案がメールで届いた。文字の統一が主だった。時をとき、事をことにしていいかという事でそれが編集のルールだと言った。私はどちらでもよかったからお任せすると返事をした。 これからそれを直して製本にかかるという。来月の終わりには完成し全国の本屋さんや、Amazonにて通販されることになる。 今小説なるものが読者に受け入れられるとは思っていない。まあ、読んでくれる人がいれば奇特なお人と思いたい。 なぜ、遺作として書いたものを出版するのか、お祭り騒ぎが好きなのかもしれない。最後の花火と思っているのかもしれない。 劇作は「日本演劇協議会」が戦後の戯曲の変遷として全国で公演されたものを全10巻に収めた、その中に120作ほど紹介されている。また、文化庁の要請で早稲田大学が公演の映像をデジタル化して保存してくれている。 これらは私が劇作家も演出家もやめた後のことで、出演した多くの人たちにとってよかろうと資料を提出したものだ。 決して私から望んだものではない。私は自分の作品が舞台で公演されているものを観客席から見たことがない。劇作を書いた時点でその作品から離れていたからで、次作を書いていた。 劇団を主宰しているときに3年間で3千万円提供するからという提案が国のある機関からあったが、国民の税金を演劇に浪費することと、ひも付きになることを良しとしなくて断った。貰った人もたくさんいた。 私は好きなことをする人たちはまず身銭を切れという考えだったので、身銭を切らずに人間は成長も責任も生まれないと考えていたのだ。いとも簡単に行政の支援を受けて公演する団体の衰退を見てきた。金がなくては何もできない実態はあるが、好きなことをするのだから何かを節約しても身銭を切れという事だった。 私の考えが正しいかどうかはわからない。が、それが私の矜持でもあった。 今の日本では、宝塚と劇団四季くらいしか儲けてはいないことだろう。後はひも付きで公演しているところが多い。 俳優も役者も食べられるのはほんの一握り、あとはアルバイトで食いつなぎながらスポットライトが当たる日を待ち続けているのが現状だ。ひと昔前の演劇人たちは酒も女も男より舞台が好きだという人たちがやっていたが、今では女に男にもてたいという人たちの方が多いし、金をほしがる人達であふれている。 私達との時代との乖離を感じている。 60歳に何もかも辞めてから新聞も、テレビも、映画を見ていないからそのあたりのことには疎いが、流れてくる情報をもとに書いている。 作家も今の人たちは知らない。買わないし読んでいない。 そんなこともあって現在の出版社のことには疎いというところがある。昔、編集して本を出していた時とは違うようだ。 私は三島由紀夫氏が自決して以来日本の文学は終わったと思っている。作品を書く上で辻邦生氏の作品を読んだ程度だ。 私は60歳で遊び人になってからのために若い頃から5千冊ほど買いそろえてきた。そこには文学、哲学、心理学、などなく、人間の細胞、遺伝子、地球学、宇宙、歴史、古代文明、など今まで読まなかった本を買い求めていた。 計画通りにはいかずに開いていない本が多い。 蔵書を図書館に寄付したいと言ったら断られた。 5千冊ほど書斎をリフォームするときに破棄した。図書館にない本だけを残したがよくも読んだ、買ったということで呆れた。 今は原稿用紙に書くこともなくワードに打っている。 だが、原稿用紙に書き連ねることに哀愁を感じる歳になったのか、今では時にその升目をうずめている自分がいる…。
2017年06月20日
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いつか何処かで・・・。25 倉敷は今日は暑い、何か頭がぼんやりとして熱ポイ感じ…。 頭の重さから明日は天気が崩れる予感。 今、ぼんやりと考えている…。 時代が進んで過去の歴史が書き換えられている。文明で言えば世界最古の4大文明は確実にもっと古い文明があることが実証されて崩れた。 その一つに1万3千年前の山形の遺跡から出土された一体の土偶である。当時は縄文紀で、そこに文明が栄えていたことが明らかになった。縄文の女神である。その土偶は今の彫塑家でもあれだけの表現が作れるかという精巧なものだ。当時の土偶には女性のものが多く、驚くことにすべてが妊婦の土偶である。今と異なり、男は女性に手飾りや首飾り、頭を飾る冠を作り求婚し、身ごもれば彼女に似せた妊婦の土偶をつくり、それを壊して住い地の各所に埋めている。それは妊婦を思う土偶による身代わりであった。 なにかほのぼのとしていて心が安らくものだ。当時の寿命は25歳位だったろう。女性は初潮を迎えると直ぐに男と生活し身ごもった。その頃は温暖化で北海道、東北は食料が豊富で高度な文化圏を作っていた。 旧石器、石器、青銅器と言われているが、鉄器はもっと時代を廻らないと出てこないが、意外と早く人々によって使われていたと思っている。 鉄は、地球が生まれた時から地球のどこにでもあったもので人々にとって身近なものだった。大気の中のCO2が海に溶け込んで石灰を作り地殻変動で露出して今があるように、鉄はもっと昔から人々によって使われていたという方が文明の布石から見て正しいように思える。貴金属、宝石はマグマによって吐き出された火片石である。鉄はもともと地上にあったものでそれに含まれない。 縄文紀の女性たちは幸せだったのか、男たちがなぜ妊婦の土偶に託したものはなんであったのか、子供を作り次世代に繋ぐその遺伝子の本能 だった。 動物の世界ではオスは子孫を作る能力がなくなると死んでいく、メスは閉経すると死んでいく、人間にはこの自然の動物界の摂理は理解できないことだろう。 人間が手本としなくてはならないのは狼であろう。一夫一婦制を厳重に守り、子供を育て、 愛をはぐくむ動物だ。また、群から離れた動物を自分の子のように育てている。 この狼の生態を見ているといまの人間が愚かしく思えてしょうがない。 今の人間の姿は本当に男女にとって最善なのかと問いたい…。 本能で生きるのではなく、ただただ快楽だけを求める、物欲と性欲だけの動物に見えてくる。 繁栄が必ずしも人間にとって幸せとは言えない、 私は子を孕んだ連れ合いのためにその安否を心配し土偶に託した縄文期の男女の思いに限りなく思いを深めたい…。
2017年06月19日
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いつか何処かで・・・。24 倉敷は今日はあまり暑くない穏やかな日だった。6月の風は5月の風と違って緑ではない、緑が枯れていく褐色のようだ。 人間は自然によっていろいろと様々な恩恵を抱いている。例えば雨の音には心の安らぎを、風にざわめきには生きている証を、雪には落ち着いた精神を、その変化に人間は順応し過ごしてきた。そこから生まれ築かれたものは大きい、季節と日々の気温の変化が強靭な肉体を作ってと言える。自然と共生というが、ともに生きてきた歴史はない。あるとしたら一体という事だ。自然の共に自然の中に溶け込んだ歴史は幾らでもある。自然と合体して作ったのが古代の歴史である。自然を人間の手で毀している、その生成に手を貸す、これは人間の傲慢というものだ。人間が都合のいいように自然に手を入れて作ったものがそれを共生というだろうか、それは利用という事にしか過ぎない。 自然の営み、その再生にまで人間がかかわることはどうだろう。植林は自然破壊、そのサイクルを無視した行為だ。森林をほっておいたから森林は死滅しているというが、さてどうだろう、自然には自己のその再生力がある。それは歴史が物語っている。風が吹き付け弱い木々を押し倒し腐って土にかえりそこには新しい芽が育つ、、雷が山火事起こさせ焼き払い、新芽の森林を再生する。日の循環が営々と続いた自然の再生であった。森林に手を入れなかったから洪水になった、それは人間の考えである。自然はそれをめぐって続いてきている。山に降る雨がやま旗の肥沃な土を海に流すから魚が繁殖して海の幸が豊魚となるという仕組みなのだ。昔から漁師たちが山を大切にしたのはその摂理を知っていたのだ。 自然に人間は手を貸すことは無い、自然の持つ再生力を信じて見守る勇気が必要だ。灌木などしなくても自然の競争力と生命力によって淘汰されるものが出る。日当たりが悪いところにしか育たない木々もある。朽ちた木々から新芽が必ず生えて成木する。 木々はCO2を吸収し成長して果実を作る。吐き出される酸素は動物がそれを戴く、また、余分な酸素は地球の上空にオゾンの幕を作り太陽の熱を和らげている。これが自然の循環である。 私達が食べている米は半以上がCO2であることを、そして人間の口に入っている植物もCO2であることを知らなくてはならない。今、この地球上に0.04パーセントのCO2しかない。 かつて恐竜が2億年も続いていた時には20%もあって植物が栄えに栄えた時期であったから恐竜の時代は長きにわたったのだ。恐竜だけではなくあらゆる動植物にとっては楽園でもあった。 食べ物が豊富であったから恐竜は巨大化し、心臓の血圧が頭まで到達できなくなって絶滅することになる。隕石がという説もあるが、確かに恐竜時代の末期にそれは起こって死滅した後の事である。 人間の誕生はCO2と海水、雷が作ったと言われている、両性の小さな生き物。体を分けて繁殖していた。これはアダムとイブの物語によく表れている。アダムが胸の骨からイブを作る、まさに初期の人間は体を分けて増えていったのだ。 全てが自然の生業であったと言える。 私はメソポタミアのシュメール文明に遊んで、その文明が忽然と地球上から消えたのは、チグリスとユーフラテスの川の流れによって豊だった大地を破壊し喰いつくしたこと知った。 人間が作った文明はその文明によって駆逐されていた・・・。 この地球はCO2によって作られている、事を知り地球温暖化を阻止するためにCO2を削除しなくてはならないという出鱈目を信じないことだ。削減すれば確実にこの地球上の動植物はすべて絶滅をする…。 京都議定書、パリの温暖化を蹴とばしたトランプ氏は正しいが、果たしてこのことがわかっていたのかどうかは不明だ・・・。
2017年06月19日
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いつか何処かで・・・。23 倉敷は晴れていても気温が上がらない…。がクーラーはいる…。 こんな日も頭は重い、考えるのか億劫だ。 今日は少し横着をさせて頂きます。 創作秘話 「ふたたび瞳の輝きは」2013/8/4 この作品は、「あの瞳の輝きとわに」続編として戦後の焼け野原で生きていく子供たちの姿を書いた。私も其の世代に其の中にいたので是非書きたかった。 あの瞳の…の女教師は登場させているが戦後の日本の現実を書くことで、其の中で生きた子供たちの事を書くことに専念した。 子供たちはどんな境遇にいても、明るく、笑顔を忘れず、瞳はきらきらと輝いていた。そこには子供としての未来に対しての夢と希望が満ち満ちていた。食べるものがなかったから腹をすかしていたが、これから何が始まるのかと言う好奇心はあふれていた。 戦争が終わって自由になれたというのではない、爾来子供たちが動物として持っている生命力を遺憾なく発揮していたのだ。何ものにも恐れず逞しい、まるでライオンの子のように悠然と構え未来を見据えていたと言える。 戦後は酷かったという言葉をよく聞くが、子供たちに取ってそれは的確に該当するだろうか。自然が何の力も必要とせずに再生するように、人間は其の生命力を持って立ち上がる事を知っていた。これは古代から、戦火の中で生きてきたすべての人達にも言える。 この公演には五十人に及ぶ出演者がいる。その人たちに戦後の悲惨な生活を演じさせるつもりはなかった。それは一つのエピソードとして入れた、テーマを盛り上げるための、専門用語でいえば反貫通行動、戦争で打ちひしがれる姿をそれに使い、子供たちがいかなる環境の中にも友情が芽生えそれは永遠に続くと演じさせた。 肉親との離別はさらなる社会の中で生きる活力を生むものだと叫ばせたかった。 出会えたことの素晴らしさを感じてほしいという思いを持ってくれと切望した。 人間なんて小さな物でこの地球の中ではなにの役にも立っていないのだから、まず、自らを律し前に進み、何が本当に必要なものかを見つけよ。と言いたかった。 子供たちの生き方、そこに友情を生む素地があること、時間と偶然が結びつけた人と人との出会い、それは人知では測れない奇跡なのだ、其の奇跡を大切にし、感謝してはどうかといいたかった。 どこにいてもどんな暮らしをしていても生きることには変わりはない、ならば、人として最高を目指そうではないかといいたかった。 この作品を書いたのは五十代の半ば、演劇人会議の実行委員、篠田正浩監督の映画製作に参加、新聞にコラムを、小説を連載していた時、子供たち五十人と演劇を作っていた時、私は其の時間を充実したものとして過ごした。 そんな中、この作品は二時間もの、一晩で書きあげている。 この後、大変に忙しい時を経て、子供たちを卒業させ、演劇人会議を「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」として立ち上げ発足させ、総ての物を一区切りつけ、六十にして総てを捨てた。 総ての作品には思い出があふれている、花盛りとは言えないが心に一輪の花を咲かせたということであれば本当にうれしい。 今、この世の中に、戦後拾ったものを捨てた時代をもう一度考えてみて拾えるものがあったら拾う事を勧めたい…。 それは、限りなく崇高な友情と言う宝石だと断言できる。 あの夕陽に真っ赤に焼かれた田舎の駅舎の庭にそびえる銀杏の姿を今も思い興し銀杏に恥じない生き方が出来たのかと自問自答しているのだが…。
2017年06月17日
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いつか何処かで・・・。22 倉敷は晴れて蒸し暑い日、梅雨に入ったのに梅雨らしくない日が続いている。頭は今日も重たく何かかぶっているようだ。 このところ書きたくてしょうがない。 作品が書けないから「いつか何処かで…。」を書いている。 世界の動き、日本の動きを見ていると人間の劣化を感じる。教育は金を儲ける手段なのかとも思う。物欲に支配された世界、宗教の教義などまったく関係がない。民主主義、共産主義など相反するようだが欲望、金銭欲に操られている。 宗教戦争、民族戦争は終わりがない。常に我執の中でその争いは起きている。それを起こすのは政治家、後ろに軍事産業が控えていて操られている。 アラブの春ときれいなことを言って、リビアのカダフィ、イラクのフセインを殺した。今またシリアのアサドを歯牙に懸けようとしている。この内乱を意図的に作ったのはヒラリークリントンだという。石油産出国を内乱に導いた、その裏にはきな臭いものがある。 国連決議など何の役も塊ていない。常任理事国、戦勝5か国の使い走りに過ぎず、失業者救済でしかない。いろいろな委員会では敵国条項の残る日本を晒しものにしているだけ。日本もおめでたくそこに分担金を払っている。お粗末すぎないか日本は…。 その間シナは世界に金をばらまきしたい放題の蛮行を重ねている。 今シナがやっていることは自国の戸籍のない人たちに戸籍を与え パスポートを支給し海外への移民の国の奪略である。 今、イギリスで問題になっているのは過疎の町や村に不当に移民が住み着きコミュニティーを作ってそこの住民なりすまし、 占有していることである。これはイギリスだけでなく世界的に行われていて、日本も過疎地帯にシナ人が、朝鮮人が無断で住み乗っ取っている例は書ききれないほど生まれている。 世界は民族の移動で確実に恐怖にさらされている。かつて、アーリア人が世界を制覇したようにである。 寝ぼけた日本政府はその手立てをまだ作っていない、移民受け入れに動いていることは危険過ぎる。 アメリかは日本海に空母の大部隊を展開しているが、シリアの問題が解決しなければ攻撃が出来ないという問題がある。シナに北朝鮮を抑えさしているが、秋の全人代の大会が終わると一転アメリカとのいざこざが起こり南シナ海での戦闘に発展する恐れが大きい。 また、アメリカ国内ではマスコミがこぞってトランプの排斥の放送を流し続けている。何が起こっても不思議ではない。第二のケネディーになる恐れもある。 一方日本に目を転じてみれば国会で玩具をひっくり返して遊んでいる。 日本国民が心すべきは、国民のレベルで議員となっているという認識だ。 議員の中にはシナや朝鮮のスパイが入り込んでいて、また、フリーメイソンに所属する人たちもたくさんいるという事だ。つまり紐付きである…。 ここで、国民は政府をあてにせずに自分の命は自分で守ることを心掛けてほしい…。
2017年06月16日
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いつか何処かで・・・。21 倉敷は晴天が、余り気温は上がらなかったが、私の病気にはクーラーが適しているので入れている。 気圧が人体にどれほど作用するのかはホ通に健康の人には皆無だろう。 今、書こうとしている「今の女性は本当に幸せなのか」をテーマにした作品、「めぐりくる季節の中で」の構想は行き詰まっている。あまりにもテーマが壮大で出てくる人たちもかなりの数になりそれをかき分けなくてはならないという事は大変な作業になる。舞台の戯曲は50-80人の書き分けをしたことがあるが小説ではそんな長編は初めてである。 古代の女性がどのように生きたか、歴史の中の女性の生き方を生活を見本として現代の女性の本幹を書くことになる。 構成としては「春告げ鳥」「夏告げ鳥」「秋告げ鳥」「冬告げ鳥」4章にして書くことにしている。 祖母が残した日記を娘と孫たちが読み祖母の生き方の中から女性の真実の姿を見出し、比較するという流れである。 下書きは筆ペンで書いているが、その日によって思いが変わり前に進まない。 戯曲の2時間物120枚は一晩で書けたのにという思いもあり焦りもある。衰えを感じることもある。 今回、幻冬舎から出版する「砂漠の燈台」200枚「銀杏繁れる木の下で」100枚「天使の子守唄」60枚「麗老」50枚の作品が納められる。 創作秘話 「砂漠の燈台」 この作品は、私が読みたいから書いたものだ。この歳になって若かったころに読んだ物を引っ張り出してと言うのも億劫なので書きながら読むと言う事で書き始めた。五年前に書斎をリフォームして五千冊以上は破棄した。あとには、図書館でもないというものを遺したが六畳の間に平積みをしていて、昔の書斎のようになにが何処の棚と分かっていた時と違って何処にあるのかも分からなくなったからと言う事もある。 今は背表を見てこの本を読んだのはあの頃だったなと記憶を呼び醒ましてほくそ笑んでいる。私は読んだ本はすぐに忘れて次々と乱読していたから覚えていないと思っていた、が、背表を見ていると何処にこのような事が書いてあったと思い返している、と言う事は記憶のなかに蓄積しているということになる。そんなに精読をしていないのにと、作者に 申し訳ないと思うが、今思い出されると言う事はある意味で作者が作品を通して私の心をつかみ、私はその思いを心に畳んでいたという事なのだ。 忘れていること、そのなかから私の書くものに影響を、人間を教えていてくれたことに感謝しなくてはならない。 多い時には二・三万冊はあったから、積読ものもかなりあったが、そのなかから知識となり知恵に切り替えられたものも沢山あったろう。それが私の頭の中で私なりの表現に変えながら書いたと言えよう。 福沢諭吉氏が、国家、民族、と言う言葉を発明し、作り、今では世界中で使われるようになっていることもありがたいもので、総ての言葉を先人が発見し、名前を付け、たものである。が、それらを使い書いて創造物だからと言って著作権を欲しがる作家の多くは何と言ういやしい考えしか持ち合わせていないのだろうか。 作家が金に執着をし欲を持つと碌な事はない、それが今の日本に文学が育たないと言う事に通じている。まず先人が残した言葉を使って今を書き後の世まで遺すと言う事は無いらしい。今、金が欲しい乞食根性なのである。 私はそんな本を読みたいとは思わないから、自分のために書いている。 爾来、書きものをするという事は自分の備忘禄として、また、子孫のために書いたものだ。作家は金に目がくらんだ亡者、著作権なんか溝に捨てることをお勧めしたい。 この「砂漠の燈台」は自然と人間の一体化を基軸にして人間のこころに巣くう曖昧な心の中から光を見つけると言う物語にした。 敗れ成就しなかった恋、青春の思い出が何時までも心に燃えていて、それを心の糧にして人生に挑戦すると言う物語を書いた。そんな小説を読みいと思ったからだ。歳をとると若い人たちの物語を、はかない時の巡りのなかに生きる人達の物語を読んでみたいと言う事も書く動機であった。 今を生きている人達に文句は一言もない。その人たちになにが正しいかを言う資格は何処の誰でもない。ます、自分はこのように生きると言う事を持って生きることだと思うからだ。それを世間に対してこれが生きることの大切さだ、と言うのは宗教家、哲学者である物書きではない。物書きはその人たちよりもっと先に進んでいなくてはならないと言うのが持論だ。これは、歴史家、郷土史家の人達と大いに違う点だ。物書きはロマンを持たなくては書けない、常識ではなく知恵がなくては書けない、足元を見て全体を想像する力を持っていないと書けない、時間を感じてその時代に飛んでいける感性がなくては書けない、人の死を見てその人の全人格、過去と現在と未来を感じなくては書けない、雲のあり方を見て世界の趨勢を感じ取る機知がなくては書けない、顔や名前を物語の中で人格を持ったひとりの人間として書かなくてはならない、それがなくては一行も書けないものなのだ、が、今の作家はそれがなくては書くことが出来るらしい。見上げたものである。 私は、明治大正時代の偉人の物書き宮武外骨が大好きである。見えていたから何ものにも動じず書きたい事を書き放り出したのだ。この反骨精神こそが人間の証しである。 また、坂口安吾、この人からは狂気とあくなき執着を見て取れることになぜか親しみを感じる、堕落、それは一番に人間らしいなどとほざくあたりは喝采ものだ。この人の物が今は読まれているのか、これほど心やさしい作家はいないと言える。何をしてもそれが人間と言うものだからいいのだ、この言い訳は見事としか言えない。 宮武外骨と坂口安吾の共通しているものは人間の優しさであり、それゆえに持たなくてはならないものは狂喜なのだと教えてくれる。 私は二人ほど優しくはない、だからきれいなものを書いた、書きたいと言う自己満足をしているのだ。 砂漠の中で道に迷う人達のために砂漠の中で明りを灯そうと言う一人の女性の姿を書き著わした。それは、人の心に巣くう不遜と傲慢なことなのかも知れないと思いながら書いた…。 明日、私はサハラ砂漠にいるかも知れない…。と言う言葉を最後として閉じた…。 続編は、人間と自然との関わり合いについて、また、これからの人間の進む道を問うという形で書いた。 燈台、それは人の心にある事を書きたかった
2017年06月16日
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いつか何処かで…。19 倉敷の朝方は涼しいというより寒かった。 私は書き物をしない時にも夜型の人間で5時位就寝する癖がついている。この生活は50年間も続いていて変わることは無い、が、最近とみに3時ごろになると眠くなる。これも歳かと思う。 病との道ずれの生活をしているが、体はだるくても頭が重くても思考力は関係がないのかものを考えることが出来る。 今、作品を書いてはいない。構想を練るという段階である。まあ、これが出来上がると90%は完成したのも同然だ。が、しんどいテーマに取り組んだと後悔している部分がある。 人間の本能と遺伝子、専門的な勉強もしていないから今まで生きて来て知っている人を解剖することになる。そこから生き方の中に本能と遺伝子を見るのだ。 日ごろ、人の顔を見てその人の生き方、ものの考え方を推量し判断をする訓練は積んできた。顔を見れば先祖が見えるというところまで感じるようになれた。これは大変失礼なことで不遜であることは承知している。が、物書きにはそんな部分が不可欠なことなのでお許し願うしかない。 今の科学では平安の末期の待賢門院の月経の周期までわかる。待賢門院とは、白河法皇の寵愛を受け鳥羽帝の女院になられた女性でその頃美貌を謳われ人なのだ。この人の局としては堀河の局がつとに有名である。百人一首にも取り上げられ待賢門院堀河として登場している。西行法師がまだ佐藤義清と名乗りまだ北面の武士として御所の鳥羽帝警備していたころ、歌を習ったのが堀河の局の父親であった。 「心のひだまで読みおる」と言わしめている。その堀河によって待賢門院と知り合うことになる。この二人のことはここには書かない、 待賢門院は崇徳帝と建礼門院を出産しているが後にできた子は不遇で早くなくなっている。 このあたりのことは戯曲「待賢門院堀河」で書いた。西行と女院の間を取り持ったのは堀河と書いた。この件があって西行は出家して、妻子を棄てるのだが、友の早死に心痛めての出家と言う説もある。真意は歴史の中で分からない。女院は疱瘡でなくなっている。西行とは徳大寺家の一門で縁戚関係があった。 また平清盛とは鳥羽帝の北面として同期である。荒法師文覚は白河帝の北面であった。源氏の名前がここでは見られない。このあたりのことはまだつまびやかには語れない。 滝口入道と横笛の悲恋もこの時代である。 まあこのあたりは想像して楽しめばいいということなのだ。 西行法師は南河内の葛城山のふもとの弘川寺で円寂されている。 西行については女性がしなを作り近寄った女性の相手を辞退しなかったという話もある。 また、 「歌を詠むことは仏を作ること」という有名な言葉がある。 私は 「小町歌人六歌仙」を書き小町が政争に巻き込まれて亡くなり、その祟りを恐れて六歌仙に入れたということも書いた。全国に小町塚があるが、それはその祟りを恐れての逸話であろう。 平安京、その下には琵琶湖に相当する地下水が蓄えられている。 また、今の鴨川は京都盆地の真ん中を流れていたが平安京を造設するときに東に運河として流し水神様として時の陰陽師賀茂氏に任せている。賀茂氏こそ陰陽師の開祖である。 京都には隠された歴史がいっぱいに詰まっている。 それを知ることが出来るのは何時か、また、表に出ない方がロマンを醸すか・・・。 京の都には長く行っていないが、昔の面影だけは鮮明に心に落としている…。
2017年06月13日
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いつか何処かで…。18 倉敷は今日は曇り空…。気温も上がらず肌寒い…。 私にとって、煙草は体の調子を計るバロメーターでもある。調子が悪い時には煙草を歯牙もかけないが、調子がいい時には自然に煙草に手がでいる。 煙草について禁煙派は罪悪人のように責め立てる。が、たばこの害について科学的には証明されていません。 禁煙を推奨するhホームドクターも私には禁煙を進めない。自律神経を患っていることを知っているからそのストレスの方が怖いという。 煙草は私にとってストレスを緩和させてくれると医師は言っているようなものだ。 また、物を書いていると無性に煙草の煙がほしくなる。飲むと頭が冴え理論をくみ取ることが出来る。 今の世で人の嗜好品までとやかく言うのはどうか、酒を飲むなと言うこともそれではあっていい、攻撃してもいいということになる。ゴルフも自然を破壊するのでやめろともいえる、旅客ジェット機も排気ガスを車に何千台分も吐き出すから乗るなともいえる、それは車にも言えそうだ、それらに対してたばこ排斥の如く批判しているというのか…。 ばかばかしい、やがて酒もやめろという排斥が始まりそうである。 原発が、温暖化が、政府が悪いなどと言う声に国民のレベルを高めるということを提唱してこのくだらない政治を変えることに情熱を燃やしたらどうか、それには国民が国民の嗜好品まで文句をつけるという低レベルな行いがあっては改善の余地はない。自由の中に基準をはっきりとしてけじめをつける、不当な差別的発言、例えば自分が嫌いだからと言う一方的な言葉を履くことのないと柔軟さがいる。傲岸な態度はやめにしなくてはならない。 これが世界的に行われているということはドイツのヒトラーが行った政策そのままである。 なぜ日本がそんなに堅苦しい世の中になったのか、これは個人主義の行き過ぎであることを認識しなくてはならない。 また、自転車の駐輪について罰金を科せる、これなど警察の利権でしかない。地方自治体は自転車道路も作らずに事故に対して損害賠償に加担している。地方自治体がその保険を作ればいいだけである。有権者が困っていてもそこの議員は何も手立てを行わない。 選挙の立候補のうたい文句には安全のためどこどこにミラーを付けたとさも仕事をしたと言わんばかりのことを堂々と載せている。それは議員の仕事なのか、警察の仕事である。孫に議員としての職分もわからぬ人が議員になっているのも市民の人を見る眼がないということだ。これは国会議員にも言える。 何度も書くが、 国民のレベル以上の議員は誕生することは無い。国民がより良い選択をするしかない。 人は哲学、宗教によって生き方を学ぶというが、それが本当に人間の徒って規範となり幸せになる方途なのか、教えられるということはそれに準じて生きていれば楽なことだ、法律によって縛られていた方が楽に暮らせる。何もカモ何かに頼って生きていいのだろうか。本能をゆがめられてはいないか。 私は作品を書き為にメソポタミアのシュメール文明に遊んだ。そこにエデンの園はなかった。 天文学、医学、建築学などの最高の功績を見てもなぜか感動はなかった。ただ驚いただけであった。 星座に名を付け、地球の生成を説き、太陽系に名を付け、月の満ち引きで1か月を計算し1年が12月あることを示し、天動説を説き、脳腫瘍、白内障の手術をし、数学を用いて巨大な建造物を作り、ビール、ワインを飲み、穀物の飛躍的に収穫を齎す農機具し、文字を作り、芸術作品をたくさん残し、その文明は周囲の木を切り倒して何もなくなり消滅していた。 この例を引くことなく人類は同じ過ちを犯しつつある。 やがて何万年か後に、 日本では、日本橋と皇居の石垣、明治神宮の鳥居の遺跡しか発見されないということになるだろう。 このことは出版される「砂漠の燈台」の中に書いた。 今の人間の進化はその時代に形を変えて存在することだろう。 進歩も進化もしなくていい、今の世の中を人類のユートピァにする努力が必要だと書いた。 文明によって人類は駆逐されたその遺跡は世界に数多く存在しているのを見ても明らかであろう。 これは私の妄想にしか過ぎないことだろう。が、せめて…。
2017年06月12日
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いつか何処かで…。17 倉敷は晴れたり曇ったり、夜になって少し冷え込んでいる。梅雨の日の一日である。 近所では田植えが行われている。川には水量が増え田地に入れている。もうじき稲を植えた田地が緑に代わることだろう。長閑な田園風景がみらることだろう。 それにしてもこの時期にこんなに寒い夜が続くことに少し戸惑っている。私のような夜型の人間にとってはつらいことだ。 世間のことにあまり触れたくない。その思いはある。あくまで専門家でもないので知ったかぶりはしないことにしている。 世界の、日本の動きに対して適切な提言を持っていないからだ。私はこう思うという範疇でしか語れない。 はっきりと言えることは、 国民のレベルで政治も社会もレベルは決まるというしかない。と言うことは世界のレベルが低下しているということだ。いくら大学がたくさんできても人間としての資質は向上していないということになる。 哲学はなくなり、文学も低迷している。人間の精神を高めるものがこの体たらくであるから仕方がない。また、国民はそれレベルを上げる努力をしていない。相も変わらず仕事ができない議員に投票をしている。その人に自分を信託していいのかの判断はない。マスコミの先導や周囲打算に迎合しての思惑の中でそれを決めているということは人間を洞察するこころの目を持ってはいないということだ。 国民のレベルを上げない限り相変わらずの議会になる。それをとやかく言うことは自らを貶めることに気づいていない。 例えば、今盛んに言われている天皇陛下の譲位の問題にしても、平安時代には譲位は当たり前に行われていた。天皇が譲位すると上皇になられ、また、その上の法皇になられ院政が行われていた。いまさら皇室の在り方に政治が言うべきことなのかと疑問に思う。 また、女性天皇、女系天皇という問題が浮上しているが、この違いが判る人はそんなに多くない。これは昔にはよくあったことで女性の天皇も何人か出ている。これらは政権争いに関係していた。この女性と女系の問題を書かないがどうか調べて認識を新たにしてほしい。そこには遺伝子の問題がかかわっていることを知るだろう。 天皇についてあまり書くと快く思わない人も多いのでやめておく。 私は西行法師を書くために平安時代の末期に遊んだことがある。そのことは戯曲「花時雨西行」として書いた。ここに大きく色を落とすのは鳥羽天皇の女院の待賢門院だ。崇徳帝の母親である。また建礼門院の母でもある。平清盛にも深いつながりがある。平安の時代を遊んでも末期が創作意欲をくすぐることがなんと多かったか。この時代から鎌倉にかけて7大仏教が誕生している。天台の僧兵が盛んに活躍をしたのはこの時期である。それぞれの仏教の宗派を調べると大変面白かった。 親鸞が男の性に苦しんでいた時に、 「越後の冬はまるで墨絵のような世界であった。その極寒の地直江津に私は流されたのであります。時は鎌倉、この私は愚禿親鸞と申す乞食坊主である。比叡山で二十数年の修業を捨て山を下り、彷徨い歩いた末に比叡山よりもっと激しく辛い百日間の六角堂での荒行に挑みました。煩悩、女人が齎らす苦しみを乗り越えたかったのであります。天台真言臨斎曹洞の教えは殺生をしてはならん、つまり肉を食ってはいかんということと、女人と媾合うてはならん、と言うものであったのだが・・・荒行も終わりに近ずいたある日、聖徳太子の化身といわれます、救世観音が現われ、「もしお前が女人なしでは生きて行けぬと言うのであるならば、この私が玉のように美しく清らかな女身になりお前に身を任せよう」との言葉をむつがれ、肉食妻帯をお許しくだされ、「これから法然の許へ身を寄せよ」との道を指し示してくださったのです。私はその足で直ぐ様法然上人を尋ねました。その教えに心洗われ涙を流し、弟子の末席に加わることを許されました。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土へ往ける、ただただ念仏を唱えれば、何も小難しい経も読まなくていい、そのことが民衆に受け入れられて、広がりつつあったときでありました。伸びよう、大きくなろう、民衆の受けがいいということは、比叡山延暦寺としては快い事ではありますまい。僧兵の武力による嫌がらせ、非難中傷が巷を駆け廻りました弟子の何人かが、朝廷に出入りしていた女人に手を出し、檄に触れ、女犯の罪で、法然上人以下すべて流罪を言い渡されたのでありました。直江津で恋をいたしました。地領を持つ身分の高い家の子女、その子女が後の恵信尼であります。流罪の身でありながら所帯を持ち、なした子が八人。流罪が解かれても京都には帰らず、恵信尼と信州は笠間で、浄土真宗を布教いたしました。法然上人の教え、ただただ「南無阿弥陀仏」と唱え参らせば、どんな極悪人でも極楽浄土へ行ける。その教えは広く広まっていきました。子供は一世夫婦は二世その絆を説きました・・・ 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや 」 平安時代はとても面白かった…。
2017年06月12日
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いつか何処かで…。14 倉敷は今日も一日曇りが多く晴れたのはひと時であった。 梅雨入りが宣言されジメジメした日が続くと私の頭は重く目がちかちかして思考力は極端に低くなる。 昔から春と秋にはものは書かなかった。その間いろいろと様々な馬鹿なことをしながらその中から知識を知恵に変える作業をしてきた。 ほんまかいな、と書物から得た知識を体験し実行してその真意を推し量っていた。 書く材料の真意を、裏を取ってきた。あまりそれらを詰め込むと独自の想像力がそがれるので書かれたものより想像力に重きを置いていた。 つまり書き手の妄想を重視したということだ。私にとって妄想こそ、妄想から生まれた社会の人間の新しい発見こそが書く必然でもあった。 今、世界を俯瞰して見て一番危ういのはイギリスだという結論に達した。日本と非常によく似た島国である点と、EU加盟での移民で苦しめられ、離脱を国民がなぜ支持したのかは国内の秩序が乱れに乱れたことに対しての危機感であった。 日本はイギリスの現状を注視し分析してそれを反面教師としなくてはならないということだ。 学校の崩壊、教室の秩序のなさと暴力によって教師は次々とやめていき外国から教師を招く事態になっている。教団の机の下にはベルが設置され身の危険を感じた教師はそれを押して助けを呼ぶ、学校の周りには警官が常駐していてすぐに駆け付けなくては教師は生命の危機に瀕するのだ。英語がわからない子供たちに教育をすることはできない。教室は暴力教室に代わっている。そんな学校が急速に増加しているという。 所得税は40%と、消費税は30%近い、その代り医療は無料と言うことで病気を治すためだけにイギリスに来る人であふれているという。むろん税金は一銭も払ってはいないが治療はただで受けられる。なんだか日本の姿を見ているようでもある。教育に対しては莫大な税金が使われているがその金は無駄なものになっている。 イギリスの財政は日本人が考えているよりはるかに貧困である。 経費削減のために警察官がリストラされ治安は頗る悪くなっていて、テロ捜査もままならなくなっている。テロを止められないわけだ。このままでいくとイギリスと言う国は沈むだろう。また、これは日本に取っても注視して見守りその弊害を避けるような政策を打ち出さなくてはならないことは言うべくもないことだ。何か日本を想起した人も多かろうと思う。在日特権、健康保険をただで渡航者に使わせていることなども解決しなくてはならない明白である。 イギリスは中間層が音を上げている。今のところは経済成長率はいいからどうにかなるかもしれないがお先真っ暗なのだ。 EUはドイツの一人勝ちである。中国のバブルの崩壊に引きずられることは確実でさらなる発展は望めない。 まあ、ドイツと言う国は三国同盟を結びながら中国において日本と戦っていた国で、それは表向きであっただけ。なんでもありの国である。が今までのようにEUの覇者でいつまでおられるかはわからない。 長く続いた白人至上主義の終焉に向かって拍車がかかりそうである。 要するにヨーロッパの文明が終わるということである。 今も民族の大移動の時代だと考えている。歴史上この移動は度々と行われ世界の地図は変わってきた。 植民地政策を取った国々は強奪とレイプと虐殺をほしいままにして土地とを奪ってきた。その遺産がなくなって消える定めを迎えたというだけである。その復讐を受けていると言ってもいい。 今日必しぶりに為替と株の動きを見た。日本の株価が2万円近くになっていた。 これを見てまず戦火はないと判断した。 金持ちがそのことを予想していない、陰で世界を動かしている金持ちが動いていないということは戦火は今のところないと言える。 それにしても日本国民は呑気なものである。その呑気さが国会にも表れている。朝日、毎日、東京新聞が売れていることである。 この国は国民が死ななくては何も動かないという不思議な国である…。
2017年06月09日
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いつか何処かで…。13 今日も頭が重い、昨日も重い中をたくさん書きすぎていました。 外に出ると冷え込んでいます。梅雨の便りもちらほらと出ているのにこの寒さは…。 地球は確実に寒冷化に入りつつある。人口の移動は寒冷化と不思議に合致している。 ここで温暖化の嘘がばれてしまった。CO2の排出が温暖化を促進させるなどと戯言を言っていた気象学者や専門家やそれにより利権に群がっていた人たちの嘘がバレたことになる。まあ、言葉の責任は取らないだろうが。 まず、NHKは特集を組んで温暖化だと叫んだがその責任は取らなくてはならない。またそれに賛同した学者やコメンテーターの面々はまず頭を丸めなくてはならない。 アメリカのトランプ氏がパリの議定書の離脱を宣言した。まあ、温暖だエコだと言って削減をしていたのは日本だけだから、アメリカがそれを正式に離脱をするということは環境問題を経済問題のネックになることを問題として捉えたからだろう。エネルギーを使って増産する、それを抑えて日本から家電が消えていった。 クーラーの温度も制限され、クールビス、デフレは改善しない、消費は落ち込む、少子化、晩婚、日本のあらゆる負の遺産を抱え込んだことになる。 日本人は何も考えないらしい、自然環境を守ること、再生エネルギーを推奨してエネルギーを大幅に消費していることに気が付いていない。また、それが自然環境を壊していることも関係ない。目先の金に右往左往している。 南極の氷も北極の氷も解けてはいない。この何十年間で気温が上がったということは無い。まあ、都会で、その近くで測ったものから温暖化と決めつける、都会のヒートランド現象では正確な数値は出せない。これはインチキという。 安倍公房氏は「第四間氷期」「水中都市」で温暖化していく日本を書いているが、この作品が書かれてのは日本は寒い時期だった。 温暖化だけではなく利権に絡んだ嘘がはがされている。 医学界では血圧、コレステロール、メタボ、抗がん剤、人工透析、これらの儲けと癒着は国民が認知するに至っている。 政府の借金を国の借金だとして国民に負わせようとしていた。財務省の消費税の増額を目論んでの嘘であった。 議員も公務員も国民の公僕というのも嘘である。国民のためには最善を尽くさない。言って見れば税金泥棒である。 寝たきりを増やしたのは、定年制なるものである。働けるものを失業者にさせ生きる活力と生きがいを奪ったということだ。 人間は自由を欲するものだが、自由には制限がかかっていることを知らなくてはならない。今の世の中には嘘の自由がまかり通っている。本能を劣化させることを自由とは言わない。義務と権利が果たされて初めてそれらは与えられるものだ。 また、自虐史観という言葉でいとも簡単に片付けられている現実がある。これも嘘である。真実を知ろうとしなかった、考えることをしなかった付けである。GHQがと言うだろうが、そんなに簡単にその誘惑にかかってしまうほど日本人は純粋で未熟であったのだろうか。日本人の精神は脈々と続いた遺伝子によって継承されているものがある。それまで奪うことはできないものだ。 堕落でしかない。堕落の方が生きやすい、それを選んだだけである。今の状態を次世代に引き継がせたくはない。それが遺伝子からの死生観でもある。そこには反省と責任と覚悟がなくては生まれない。ただ生きている亡霊である。過去の遺産を無駄に使い未来に遺産を残そうとしないわがままな生き方である。 マスコミも嘘の羅列である。国民を奈落へ向かわせる洗脳に余念がない。国民はそのことにいち早く気づく、それは危機に関して反応する防御がないということだ。 ここに嘘を書いてきたが、 国民のレベルで政治もマスコミも文化も経済も決まるということだけは知っていてほしい。すべてが国民にあることを・・・。 すべからく国民はそれらの嘘を見抜きそれに振り回されないことだ、それはみんなが持っている本能である、偏に危機に対しての身を守る本能の劣化である。奴隷のように飼いならされていることに気づき何が本当に必要かを判断することなのだ。 人間の証として・・・。 生きるということは目的ではなく一日を無事に終わって明日を迎えることの喜びなのだ、その喜びを確認するには利他的な生き方をしなくてはより多くの喜びはないことを知らなくてはならない…。 嘘か真か、それは皆国民のレベルで決まることを…。
2017年06月07日
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いつか何処かで…。12 気圧に作用される健康も何十年と経験すれば慣れようというものだが、そうはいかない。今日も頭は鬱陶しい日だった。そんな日が続いている。作品など書ける状態ではなくこうしてここに書くのがようやくというところ…。 「めぐり来る季節の中で」で女性を書く為にいろいろと思考し構想を練っているのだけれど、 今の女性は本当に幸せなのか、という疑問をもってしまいます。それは幸せ、生きがい、という概念に関してだが、私にはわからないことが多い。 動物のメスとしての女性の本能を書こうとして、それがどうしても現実を見ていると書けない。女性の本能を書こうとして、昔からの女性の生活の中での本能を見ていくと、日本は決して性奴隷ではなく、 平塚雷鳥が言った「かつては女性は太陽であった」という言葉にぶつかる。かつてではなくいつの時代も太陽の様な存在であったことをあらゆるものから確認できる。雷鳥はなにを言いたかったのだろうか。女性解放、馬鹿な、女性は常に開放されていた。振り回されていたのはむしろ男であった。大正デモクラシーの盛んなおり、あの開放的なモダンないでたちを見ても女性は隷属されていなかったということがわかる。 また、足尾銅山の鉱毒事件に物申した福田英子氏、大獄自県の時菅野菅氏を見ても堂々と政府と渡り合っている。そこに自由がなく考えがなかったとは思えないし、つまり、自立して自我をもって生きてなくてはその行動は出来なかったということだ。 松井須磨子氏のことを書かなくてはなるまい。 「カチュウシャの唄」を歌い一世を風靡したこの歌はトルストイの「復活」を島村抱月が訳して脚本にしたものでその主役のカチュウシャを松井須磨子が演じて歌ったものだ。この時代には眼を見張るべき活躍は素晴らしいものがある。日本の一人者になった。「人形の家」のノラを演じ、あまたの作品に出ていて日本の演劇界をリードした人である。 妻のいる島村抱月と恋愛関係になり世間を騒がすことになるが、寧ろこのスキャンダルは世間に好意的に受け入れせられ、女性の自立として持て囃される部分もあった。 抱月がスペイン風邪で亡くなるとその2か月後の命日に花と線香を二人の写真に備えて首をつり人生の幕を閉じた。これは大変な衝撃を与えたものであった。 ここに女性の自我をとらえるべきか純真な愛とみるのかで意見は分かれることだろう。 が、私はこの自殺は完成ではなく未完成とする考えがある。何か太宰の甘えを見、愛というものを勘違いしているとみる。 このように流れがどのように女性に変化を与えていくのか、江戸時代には戒めとして姦通罪があったが、維新以後にはなくなり性に対しても非常におおらかな時代、家庭持ちの男とのいわば不倫が正当に恋愛という形を取り受け入れられた社会へと変貌していく。与謝野鉄幹と晶子、それも奪略婚である。晶子の「君死に給うことなかれ…」という弟に書いた詩など男を奪った女性がよくも当たり前のことを書いたものだと可笑しくなる。 このような時代の女性の遍歴を見ていてもなお解放と叫ぶ雷鳥の言葉の意味が分からない。 私はむしろ安倍貞のように愛するあまり男を独占するために男根を切り取った貞の方がいとおしく感じている。爾来、女性の本能は貞に軍配を上げたい。 女性は子供を育て、男は戦場へ赴く、これが世界の歴史であった時代、子供を育てる為に精一杯に働き育てている。夫の戦死後は決して孤高を守ったのではなく、戦争未亡人として社会に貢献している。例えば夜這いの相手をする、この風習は男を経験させ男女の夫婦生活にとって何にが必要かを感じ取らせて貢献をしている。未亡人は決して不幸ではなく一番にもてはやされた階級であった。 昭和33年3月1日に売春禁止法が出来、日本の伝統的な制度はなくなった年だが、それが正しいものであったのかは疑念だ。今。世界の風潮としてはそれを合法とする国が先進国で多いということでもその必要性を認めている。その制度がなくなってレイプが増えたという報告もあり、政府は売春は禁止しているが風俗営業には見て見ぬふりをして緩和地帯を作っている。いってみれば合法ではないがそれを恋愛としてなら構わないということに塗り替えたのである。 市川房江氏などがやさしく女性はこうあるべきだということでウーマンリブが盛んになり男女社会の変革を問う時代もあった。がすぐ下火なった。それは何もデモなどしなくてもそれらのは女性の地位は保たれていることを知って後退した。 私は現代の女性は極言すれば不幸であると思っている。結婚が出来ない、少子化だと、世間から騒がれているが、自立と自我のバランスが崩れていて社会に取り残されているという感じだ。女性の体験の低年齢化、男の体験の高齢化など、中高で何もかも知り尽くした者が結婚という縛られた関係を作ることはできないと思う。結婚してもこの浮気の多さ、離婚の増加を見ても、性に呈してわがままに享楽的な行動をしてのふるまいは、男を委縮させ結婚願望を喪失させる以外何もない。一部の男にとっては喜ばしいところだが、大方の男は女性から逃避し一人の方が良いという現象が生じている。 早い未来には男が女性を求めない時代が来ることを予見する…。 このあたりのことはまとめて書き続けたいと思っている。なぜ。 これが次作のテーマであるからです…。
2017年06月05日
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いつか何処かで…。11 最終のゲラ校は送った。あとは幻冬舎の編集下平さんがやってくれることになっている。私がしなくてはいけないことはすべて済んだ。あとは本が完成するのを待つだけである。 なんだか不気味な静けさを感じている。北朝鮮、シナ、ロシア、韓国、アメリカ、そして日本。ここに戦火が起こればそれにかかわった国がなくなることを恐れ手が出せないのが現状だろうか…。果たしてアメリカの国民は本当にこの戦いを後押ししているのだろうか、アメリカの財政は皆さんが考えているより厳しい、それは国民が一番知っていることだ。先にシリアに打ち込んだミサイルは賞味期限が切れそうなもので、軍事産業は儲かった。最新の攻撃機器は常に研究開発しなくては儲からないし金を使う。それを戦争で使ってもらうことで成り立つのが軍事産業だから使ってもらわなくては研究もはかどらない。 今、世界で使われている家庭用の便利な製品はすべてが軍事産業からの技術である。技術革新は戦争に使うものから派生している。 次世代の戦争機器によりこれからの家庭用の便利な品物が生まれるということだ。 今、完成を急いでいるものとして、レールガン、レーザー砲がある。レールガンの技術はすなわちリニアモーターの技術がなくては作ることが出来ない。これが完成すれば一番安価な武器になる。日本にはリニアの技術があるからその研究も盛んで完成が待たれる。 人々は平和を望んでいるが、平和では儲からない産業、軍事がある。 これを翻って考えたら、ロシアがあれだけの軍事産業を持っていてほかの産業がないのか、人工衛星、などの技術は世界に誇れるものなのにである。それは家庭におけるものへの転用がなされなかったということに尽きる。戦車があり軍用トラックがあっても自家用自動車を作る技術がない。ロケットを飛ばすことが出来て家庭電化製品が作れない。その他の技術産業もない。軍事産業で儲けていた国の弊害であろう。それは何かシナとか韓国のようにコピーを良しとしなかったことである。大国の面子か…。 まあ大国と言っても国民生産力は日本の半分である。原油とガスで息をついていたがその売値が下落して所得が大幅に減少した。 油田の閉鎖が行われている。ロシアの今後を握っているのは安倍総理である。 トランプ氏がパリ議定書の脱退を宣言したという。これは正しい認識として捉えている。CO2が地球温暖化を促進していないということを宣言したに等しい。テレビがこの件で喧しく騒いだというが、温暖化の根拠を示して文句を言ってほしい。ただ幻想で 自分の錯覚で反論はしないでほしい。科学的に証拠を示すことだ。南極の氷が解けているとアメリカの元副大統領が書いて一躍評判になったが、まったくのでたらめにおどろかされたことを忘れたらしい。トランプ氏は正しい判断をしたということだ。 また、アメリカは北の大陸弾ミサイルを想定して迎撃に成功したということも、核には核をもって迎撃をしたのだ。 2千発も核実験をしていて地球は放射能で汚染されているから空での核爆発は地上では日常の放射能と変わらない。 そんな世の中も好きではないがこれも地球の生成から幾度なく繰り返されたことで、人類の滅亡は何回もあった。その時に人類は進化している。 まあ、進化の途上と考えればいいが、これほど人間が死を恐れた時代はない。戦場の歩兵は銃弾の矢面に進軍し死んでいる。死を全く恐れることはなかった。その人たちは人間の本能である子孫を残したということでその恐怖を持たなかった。 今はも死を恐れ死生観も持ち合わせていない。これは一重に本能の減退、喪失である。 今の世の中を見ても助成の反乱があり、その反乱の素は男性が女性を求めなくなったという焦りである。この件は別に書きたい。 小池東京知事が自民党を離脱した。これは当たり前のことで遅すぎる。また、豊洲の問題を解決が出来ないということは知事として失格である。税金を垂れ流しているだけ、東京都民は怒らなくてはならない。支持者の後退が顕著に表れている。歯止めが来そうにない。くだらない人間ばかり集めて新党を作り、橋元氏を真似てみても知識と理論が異なる。都議選は彼女の奈落への道になるような予感がしている…。いろいろと渡り歩いた末にたどり着いたところが終焉となりうる。都民の勘違いで知事になれたがそれに気づいた都民は愚かなことはしないだろう…。 後がない、終わりという文字が見えている…。
2017年06月03日
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いつか何処かで…。10 強い雨が大地に突き刺さっている。遠雷が響き渡っている。 今年初めての雷である。 こういう日も私は苦手である。気圧の変化に体がついていけない。 そんな中、幻冬舎から最後のゲラ校が届いた。私は書いたものを直すつもりはない、書いたときの心をそこに置いたのだからそりことを大切にしたいと思っている、今直すとその時の気持ちが消えることになる。 幻冬舎の校正者は丁寧に校正をしてくれている。広辞苑を引き漢字を適切なものに変えてくれている。人物事典をもとにして実名を探し出してくれている。さすが名のある出版社だけの仕事ぶりである。私がその校正に対して同意の〇を入れればいいのだ。すべて〇を入れた。ワードで書いているから変換ミスがかなりある。爾来私は横着者であるので書いた作品は1カ月後に読み返すことにしているから、そこでも手抜きをして書いているとして読んでしまうところがある。 流行作家のゲラ校も見たことがあるがほとんど真っ黒だった。校正者が指摘し、作者がそれをなおして汚すのだ。それに比べれば汚すことはなかったが、作者校正はは得意ではない。先に先に読むから間違いに気づかないのだ。人のゲラ校は校正するときに間違ってはダメだという心があるから十分に時間をかけてやったものだ。 一度来てほしいと言われた。 東京は15年前に月に1-2回会議に出席をしていた。5年間も続いた。往復の新幹線とホテル代は出してくれたのでこちらの腹は痛まなかった。だが、私は窮屈なに事は苦手、たくさんの人に会うのも気恥ずかしいという性分で億劫で仕方がなかった。パーティーは国際的なものが多くいろんな国の人がいたが、言葉など分かるわけもなく、その人たちの大きさにびっくりしたものだ。 飲めないからやたら食べていた。早く追われて祈っていた。 ここで東京に行くとなると15年ぶりの上京になる。「砂漠の燈台」では東京の風景を書き連ねているが、行っていたころから15年間の発展を予想して書いた。舞台を東京にしなくてはならなかったから書いた。たぶん書ききれていないと思う。 体の調子もあまりよくないから返事はしていない。 今夜ゲラ校をするがなるべく早く返したいと思っている。手元に置いておくと気になってしょうがないからだ。 私は小説家ではない、劇作家だったのでこだわりはない、が読んでくれる皆さんのためにも丁寧にやらねばならないと思っている。 作品を書いたものとしてその責任を逃れることは許されない。 雨は小降りになったが稲妻の光が走っている。 出版が決まったときは興奮したが、今は冷静さを取り戻している。 それより、 来年、この中の作品を脚色して公演する準備が行われている…。 無性に舞台がしたくなった。 小説を書くという個人の作業でなく、舞台は何十人との連係プレー、観客と一体になれたときはこれほど体が歓喜することは無い。 役者は舞台に上がると観客の目が突き刺さって切る。その時には何にもまして恍惚とし体が宙に浮く、オルガスムスを味わうのだ。 映画、テレビの女優が舞台をやりたいというのはその喜びを知っているから。 昔は、男より、食事より舞台に上がりたいという女優がたくさんいた、舞台役者が晩婚なのはそのせい。 食欲と性欲をはるかに超えた喜びが体中を駆け巡る。 が、今の役者はなんとその喜びより、ギャラをほしがっている。 今の現状の環境では優れた役者が育つはずがない。 大根役者がいなくなった。と書いたら大根役者ばかりの間違いではないかと思われるかもしれない。が、この大根役者という言葉を間違って認識しておらわれる、大根役者とはオールマイティーな役者のことで煮ても焼いても刺身のつまにもと食べられるという役者のことを言うのです。 東京の劇団は在日ばかり、映画もテレビも在日の演出家、日本の文化的なその世界はもう終わったと言える…。 日本人による文化の継承がなされていない…。
2017年06月02日
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いつか何処かで…。9 皆が許してくれたから好き勝手に生きて、色々なものを作り、手に余るほどの思い出をありがとう。家族にはいい手本を見せてあげることが出来なかったと思う。許してほしい。これでも精一杯に生きたつもりでいる。 どのように生きても構わない、後悔は常に付きまとうものだ。その思いが成長をさせてくれる。総ての行いは次へのステップと考えてほしい。受動的にならずに能動的に生きてほしい。 まず体の健康を整え、人に対し、社会に対して生きてほしい。どのような環境にあっても感謝の心は持っていてほしい。それがあれば幸せに生きられる。そんな思いで生きてきた。 常に君たちの幸せを祈っていた。それしかできなかった。 ただ一つだけ言わせてほしい。どのような不平不満があってもありがとうと受け止め最善を尽くしてほしい。 私が生きてきた歴史として「yuuの一人芝居」に載せている。後半の人生の生き様である。それ以前は自分史を見てほしい。総ての作品の著作権は放棄している、どのように使ってもらってもいい。言いたい事は、総ての人間の命は皆等しくとおといという原点を忘れないでほしい。 色々と言う人の言葉を精査して判断して生きてほしい。頑張らなくてもいい、人に迷惑がかからなければゆったりのんびり適当と言う事が人間の精神には必要なものだ。 思うままに生きる、それでいいと思う。 「東大に行って国を動かす人になるより、人様の邪魔になる石を動かす人になれ」これは蓮井家の家訓の様なもの、だが、このように生きる事はなくていい。もうひとつ、死生観を持って生きてほしい、これは私の作品の骨子となっているので見つけてほしい。名誉も金も縋るべきではなく、平凡のなかに幸せを感じ取ってほしい。 「人が生きると言う事は、一人一人の心のなかにある大切な種から芽を出すものを育てること、それには夢と言う肥やしがいる」 この言葉を残す。夢を持ち夢のある生活をしてほしい。 これから人間の世界は大きく様変わりをすることだろう。そんな中、良心をもって生きていれば生きられる。それも大きなものでなくていい、小さくて深いものを持ってほしい。誠実と言う言葉に尽きる。社会においての評価など気にする事はない、真摯に生きていることであれば何も怖がる必要はない。 学歴社会は終わった。人に役に立つ生き方を見つけて生きてほしい。それを見つける時間を大切にしてほしい。一つのことに打ち込むその生き方を会得すれば、社会に役立つ人になるだろう。人生において無駄という時間はない、総てが貴重な時間であることを知ってほしい。 私は、私の父と母は心の中で生き続けてくれていた事を伝えたい…。 また、ともに歩んでくれた妻には感謝していることも…。 そして、みんなから沢山の感動を貰ったことも併せてありがとうと言う言葉を残したい。 人はどのような言葉を残すのからわからない。私はこのように言葉を書き残そうとしている。 それは私が生きて感じたことを書いただけだ。私の演劇台本の幕を下ろす前の言葉として…。 思えばいつも死を感じて生きてきた。そして、人間の偉大さを書き続けてきた。 日本に生まれてきたことを、そこで生きられたことをいくら感謝しても言い尽くせない。自由な精神で暮らせたことはありがたいと思う。たくさんの素晴らしい精神を持った人たちと出会いその人たちから頂いたものは多い。その人たちから頂いたものはその人には返していない。次代に生きる人にその思いを伝えることを使命とした。 これから後いくら生きられるかわからないからやることだけはやりたい。人類の歴史を作ってくれた人たちの後の歴史を書き残したい。そして、普遍の人間の在り方を綴りたい。 それが生きている証として…。
2017年06月01日
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いつか何処かで…。8 倉敷は今日一日鬱陶しい日だった。が、気温は上がっていた。私はこんな日は苦手としていた。頭に雲がかかっているような状態である。思考力はなく深くものを考えることはできない。こんな日は一日ぼんやりと過ごすことにしている。書き物をすると直すのが大変、変換ミス、脱字、語彙の間違いに気づかないということが頻繁にある。だから書くことはしない。 今日、夜這いというアマゾンの話を書いておられた人がいた。 何時の世も同じであるが日本には夜這いの風習が戦前まであった。男はそこで男になり世の中に出ていき女性を愛することを学んだ。これは非常に合理的な風習であった。その手ほどきをしたのは行かず後家さんと未亡人の人たちであった。これは相互の利益が一致した。昔は女性は子供を産み育て、男は戦場に赴く、そこで未亡人がたくさんいた。この人たちは女性の本能と男の本能を結び付ける天使になった。これらの人たちがいなかったら今の様な男女関係になって殺伐とした世の中になっていただろう。取り締まられることもなくみんな合意で行われていた。一番社会の主役でもあった。 今、その風習があることを聴かなくなった。 女性の体験の低齢化、男性の高齢化、中高でみんな飽きが来て結婚、恋愛も億劫になっている。そこに男女参画とかいう社会を作りより男女の隔たりを広げた。男は結婚をしたがらなくなった。遊びなれた女性などいらないということだ。また、結婚の高齢化、遺伝子に傷ある男女からは生まれてくる子供がかわいそうである。昔は初潮を迎えると嫁に行き十代で子供を作った。すこぶる健康な時に生んでいる。それが、世界の常識としていたころである。人間が今あるのは動物が持つ子孫をいかに残すかということを凌駕している。人間は人口を増加させた。 世界の王朝などは、自分の財産を人にやることを良しとしなくて近親の風習があった。それ故に短命で奇形児が生まれその王家は没落し、また侵略によって消えている。この姿はどこの国にもあった、朝鮮の試し腹などの風習が残っている。この風習も世界のどこでもあったことで朝鮮だけではない、が、今も残っているのは朝鮮ということになる。また、黒人社会にも根強く残るものだ。 古代、男が女性を求めなくなった時期は何度かあって、女性がいかに困ったかということは記されている。 私はその筋の専門家ではないので、その時困り果てた女性が唇に朱を引いたら男が寄ってきたと記している。そこから化粧というものが始まり口紅を引くということが男にスイッチをいれるということに通じると女性はみんな紅を差すことになった。また、スカートを短くし肩も露出する、下着も男の心をくすぐるものに変えて行く苦労は今も続いている。これは両性の一種の戦争なのである。また、このことが男女の本能の発露と言えよう。 今、不幸にもそれが激しすぎて男女の感覚がマヒしていることだ。 私は何も大正デモクラシーにおいて女性解放を叫んだ人たちを非難しているわけではない。甘い言葉で優しく女性とはと囁いた人に罪を問うものではない。 今のように男女の社会を作ったのは女性ではなく男性なのである。それは女性の欲望を盾にして「解放」を謳い今の不均衡な世の中を作った罪でもある。 私は夜這いという風習があれば少しは違った風習が今を良い方向へといざなったのではないかと思い書いている。 頭が重い、働かない、・・・。 結論として優しい女性が男によって操られそれを信じて不自由な世の中にあることを憂いているのだ。 これは人類にとって決して最善ではない。このままだと男が女性を求めなくなることを予感する…。 これは私の個人の思考であり偏見であることを認識してくださればと…。
2017年05月31日
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いつか何処かで…。7 性鬼の前川氏の問題も墓穴を掘ったようだ。あの世界の人は最近口が軽くなっているからすぐばれる。日頃の行動が明らかになると国会証人としても言葉に信憑性がなくなり、芸能界のパラエティーと同じ価値しかなくなる。朝日もとんだ人に関わったものだ。爾来朝日は裏を取らないことで有名である。つまり反省のないところに進歩はないということか…。昔もくだらない新聞記者が多かったが、朝日にはまだこの手のゴク潰しを飼っていることになる。新聞という使命も感じず、記者魂というものを持ち合わせていないということだ。 昔からそんな記者もいたが中にはまじめな記者もいた、が、皆やくざの様な振る舞いをする人が多かった。記者クラブは市役所、警察署、駅などにあったがそこでの発表をみんな同じように聞き記事を書いていた。だから暇でしょうがなく、クラブには麻雀、囲碁、おいち株など遊び道具は揃っていて発表のない時間には遊んでいた。クラブの壁という壁には業者からの差し入れのビ―ルがうずたかく積まれていた。企業のパーティーに呼ばれればお土産をいっぱい貰っていた。記事など書けないように差し入れやお土産を貰っていたからまず記者は書けなかった。 「記事で人を殺すな」「ペンは剣より強」などというが上前をはねていたのは彼らであった。 彼らはまず交通違反で罰金を払うことは無かった。それは暇なので所轄の警官の素行を調べ上げていて裏取引をしていた。 大手新聞から地方紙へ天下りをすることは恒例になっていた。 その体質は今でも変わっていないようだ。今ではやめて大学で教鞭をとるというが何を教えるのだろう。ろくに専門分野もなく勉強もしていない記者上りが、生徒がかわいそうだ。 今の地方紙には共同通信から記事を買うので専門の記者はいない。ローカル面をうずめる提灯記事で事が足りる。 新聞を取る方もチラシが多く入る新聞を取る。記事なんか読まないのだ。が、朝日より反日の新聞が多い、それは共同通信の配信を載せるからだ。 今、これだけ情報が満ち溢れていればテレビも新聞もいらなくなる運命を背負っている。 テレビがひどい、制作も、役者もなんと在日に満ち溢れているのか…。 一番ひどいのはディレクターで日本のドラマなのに、風俗も、仕来りも、礼節も、時代考証も、衣装考証も知らない人がやっているからドラマはどこの国のものかわからない。また、脚本家が無知なのもそれに拍車をかけている。 映画の世界も題名が何を指しているのかわからないものばかりだ。だれが観ているのか不思議である。 文化は雪崩のように崩れている。 日本人は何に心を癒されればいいのか・・・。 これは一人の一人の価値観であり文句は言えないが、せめてよかったという感動を与えてほしいと思う。 作り手も見る側も乾いた感性しかないのだろうか…。写真は脊山真理子さん、これから注目…。
2017年05月30日
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昨日、不思議な夢を見た…。50 梅雨が近づいていることを実感している。空気が肌にしっとりと絡んで来るように思える。私の様な自律神経失調症を持っている人間には気圧が微妙に体に変化を与えてくるので分かることも多い。頭は無論、目がしょぼしょぼし、息苦しく、手足は冷たくなり、心臓は不整脈を起こし、便秘になり、脚も浮腫こともあり、気圧の変化で症状が出るところが異なる。これは若い頃、突然発病した。 倉敷の青年たちに演劇を教えていた倉敷演劇研究会の台本を書いて面倒をみ、岡山県青年祭に出場させ、最優秀賞を取り、全国青年大会の会場の東京に行くときにそれは起こった 東京駅の階段で息が切れて動けなくなった。宿舎は渋谷区の神宮前のオリンピックセンターだったが青年の介護でようやくたどり着けた。そこの診療所に行くと風邪です薬をくれて飲んでも症状は一向に良くならない、演劇発表の場の目黒公会堂の近くの医院に飛び込んだが、風邪という診断だった。当時はまだ精神的疾患に対してはわからないことが多かったのだった。まだ心療内科などというものがなかった時代であった。 岡山県の代表として最高の舞台を涙を流しながら見ていた。 最優秀舞台美術賞、優秀演技賞、脚本賞は岡山でもらっていたが、その賞に見事輝いた。 が、私は名前のない傷病に苦しんでいたが青年たちに賛辞を惜しまない言葉を伝えた。宿舎に凱旋して私は最初に胴上げをされた。宙を廻っていた、頭はとっくに宙を回っていたのだが。 そんな青年たちの努力に報いる為にアイスノンを頭に巻いて4作台本を書き全国大会へ出場させた。 その時の夢をよく見るようになっている。小説を書きながらの台本の執筆であった。その頃は懸賞小説に応募していた時期でもあった。太宰治賞は宮本輝氏の「泥の河」に敗れ、オール読物新人賞は志茂田景樹氏に持っていかれていたが私にはそれより得難い青年たちの心意気を受け取っていた。 このころから公演台本を書くことになる。岡山の演劇のエポックリーダーとして青年とともにあった。 今でもその当時の今は60歳を過ぎた昔の青年から賀状をいただいている。 演劇の御蔭で全国の演劇人との交流によってその世界に浸ることになる。 60歳で演劇を棄てるまでその中で生きてきた。 私の足跡は、日本演劇協議会によって戯曲は百数作羅列され、公演の映像は文化庁の要請により早稲田大学が保存してくれている。 若かったころの足跡はそこにある。 これらは若き日の夢なのかもしれないと思う…。嫌、残がいなのかもしれない…。 今、遺書のつもりで書いたものが出版されるということは夢の続きなのかもしれない…。 全て突然衝突をして始まるものかもしれない…。 だが、一つだけ言える、その偶然の衝突が無かったら人生は味気なく過ぎていったことだろうと…。 夢はただ夢でしかないという人がいる。そんなつまらない生き方をしたのですか、と…。 50回でひとまず終わりたいと思います。読んでくださった皆さんありがとうございました。 「いつか何処かで…」はこれから暇を見つけて書き込む予定です。よかったそこでお目にかかりましょう…。
2017年05月29日
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いつか何処かで…。5 二、三日前から背中が痛くなり息がしづらいので今日かかりつけの医者に行った。症状を語り診断を待ったが、 「それでは、腰と、背中のレントゲン、胸部のCTを取ってみますか、たいしたことは無いと思いますが念のため」 結果、骨はボロボロになっていてその関係で背中が痛くなり息が苦しくなるという診断を受けた。 まあ、75歳にもなれば骨はちびるし傷んでくるという。 何の治療もできない、このままで暮らしていくしかないという。ほかの臓器には悪いものはないという。 私も務めて健康に留意したことがなく、運動もしない、ただ、一日中パソコンに向かって言葉を綴っているという生活なので自然現象として納得するしかない。骨の老化を道連れに生きていくしかない。 人間とは歳を取ると何もかも草臥れていく定め。文句を言う体と相談しながら仲良く道連れで生きていくしかないということだ。 最近、医者に行くなということをよく聞くが、病気にされるから行くなということらしい。それは医師につらいところを治してもらおうと思うからだと思う。安定剤、医師に診てもらったという安心感だけでいい。見てもらって帰ってから背中の痛みがなくなっている。薬など安心薬と思えばいいということだ。信心も薬も同じ、信じるから効くというものです。 よりにとって骨の老化、正常である方がおかしいともいえる。今まで使ったものを再生できるものではない。 話は少し道をそれるが、人間の臓器と一番良く似ているのがブタであるらしい、豚の臓器を移植する時代は近づいているという。何度もその実験はなされて使えるという判断が出ている。やがてブタの心臓を移植した人たちが生きながらえる時代が来る。なんだか、豚に悪い気もする。これは人間の傲慢なのか、何時までも生きていたいという人たちのわがままなのか、それには皆さんの考えもあることだろう。 人間は肉体は死んでも魂は残る、という科学者による研究が今急ピッチで進められている。 死んでも生き続けられるということは古代から人間は知っていた。 先祖の魂は遺伝子となって今の子孫の中で生きている、今自分で生きているように思っている人たちも先祖の遺伝子からテレパシーが出ていて時に窮した時にはサポートを受けている、そのことにはまったく無頓着でいる人が多い。 いい因果を持った遺伝子の人たちは顔の層が異なる。顔を見ればその人の先祖の遺伝子が見えてくる、それを第六感という。ひらめきなのです。人間はとくべつに修行をしなくてもシャーマン的な霊媒を持っているものだ。霊媒師の予言は顔に現れた先祖たちの魂との交感をすることから生まれているのだ。この顔だったら何々という風にである。人間、そんなに特殊に生きている人は多くない、からいとも簡単に信じてしまうことになる。 医師もその実例を知っているから治療ができる。 今回のことは心において骨の老化による崩れと仲良く道連れしろということらしい。 定めに流されるのではなく定めを流れることにしている。自分の命は自分で責任をもって生きていくしかない。 私はより良い遺伝子を子供たちに残せただろうか…。
2017年05月26日
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昨日、不思議な夢を見た…。49 倉敷は今日一日中小雨が落ちていた。5月というのに暑かったり寒かったり、季節の変わり目の気圧は体や心までもてあそぶ。そこの気候に左右されて自律神経失調症は体の場所を攻撃してくる。まあ、毎年の恒例になっている体への攻撃だから慣れてもいいようだが、この病気でまず死ぬことは無いのだから鷹揚に構えていればいいものを小心者で弱虫の私は常にびくついている。そんな日々の中で「めぐりくる季節の中で」を書くために登場人物の箱書き(職業、教養、ものの考え方、性格、癖)書き込むための準備をしてている。今までいろいろと書いたが、構想にこれほど時間をかけたものはない。ます、私が女性7人の書き分けをしなくてはならない、それもセリフではなく地の文でとなると今までやったことがない。 今回出版する作品も女性主人公の人生を自然と歴史を題材に沿うて人間の普遍的な生き方を書いたのだが、これは意外とすんなり書き上げることが出来た。幻冬舎の編集者も作品ついては直すところは何一つありませんと言ってくれていて今月の終わりには最終ゲラが私の手元に来ることになっている。それが終わればあとは表紙のデザインと帯び符ということで印刷にかかることになるだろう。意外と早く完成し出版が出来ることになる模様。 その作品と比べて私の頭は回転しすぎで纏まらない。300-500枚の作品を考えているがそこで終わるか疑心暗鬼だ。 昭和元年に生まれて平成30年で没する、戦前、戦中、戦後の時代背景を知り尽くさなくてはそこで波間を彷徨う人たちのことは書けない、そして、また、どれほどの家柄なのかも書く上で貴重なことになる。 この日記は、私が命を終える前に書こうとべージをあけておきました。まず、この日記の前文を読んで、最初から読んでほしいのです。そこには一人の女の生き方が見えてくるでしょう。着飾った表現は、いつまりのものは書いてはいません。 一人の女がどのようにして生き何を考え何をしたかということを丹念に書き込みました。 それは娘たちや孫に伝えたいという思いもありますが、それをあなたたちがどのように取り入れるのかは自由です。 この日記を読む人たちの心の葛藤を書き込んでいきます。 最初の書き出しと、最後の言葉が出来上がると作品の90%は出来たとも言えます。 この作品には4つの区分として、 「春告げ鳥」「夏告げ鳥」「秋告げ鳥」「冬告げ鳥」というサブタイトルがついている。 季節の中で、その季節に遭遇する自然の光景をぜひ入れたいと思っている。また、場所は倉敷、東京、京都の季節感を入れたい。 人間は環境で変わる。 作品を書きながら、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」を聴きながら書き進められたら楽しく書けるかもしれない。 前に書いたものは本当に楽しく書けた、のびのびと表現を綴られた。 今回の作品もそのように書けるといいがなと夢を見ている…。私にとって夢は精神の滋養でありゆとりとして大切にしているものです…。
2017年05月24日
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昨日、不思議な夢を見た…。48 久しぶりに日本映画を見た…。 「わが母の記」井上靖氏の小説を原田眞人氏が監督脚本を手掛けていた。 この原作を書いた井上靖氏の母御のことを書いているが母と子の、その一族の血という問題を絡めていて喧噪であっても情というものを感じ取らせていた。 まだこのような映画が作られていることに驚き感嘆した。映画製作に携わった人たちの良心を見せられた。このような映画が製作できる土壌があることを喜んだ。 そして、まだまともな俳優がいて演技が観る人の心を揺さぶることも感じた。 タイトルバックが流れ、俳優は何人か知っている人がいたが、制作スタップの中には一人も記憶する人がいなくなっていた。時は流れ私はその忘却の中にいることを知った。 皆さんも時間があれば見ても時間の浪費にはならないと思う。GYAO無料映画サイトで見られる。 流行作家とその母の物語だ。母は認知症が出て来て奇行を繰り返す、家族はそれに振り回される、その認知症の母の言葉の中に昔のわだかまりを説くカギが、その真実が明かされる過程は脚本監督のお手柄である。決して安物ではない。井上靖氏の原作を読んでいないので何とも言えないが、ここまで映像を作り上げる腕と才覚には狂喜乱舞をさせられた。 秀逸は役所広司である。作家が持つ風貌と気骨さと細やかな愛を併せ持った演技だった。それに宮崎あおいの娘役はこの人しかできないだろうと感心させられた。母親役の樹木希林さんは、爾来老け役と個性的な役どころは演技がたやすいということでこの女優なら楽にこなせていた。また、わきを固めていた俳優の確かな演技、見せ場と落としどころを知っていた。カメラの自然を切り取る目はこれもほめなくてはなるまい。奇をてらったものでなくアップとロングを巧みに使い分けて流れを止めることもなかった。 作家は母に捨てられたと思い母に懐疑的な思いがあるが、 「わが子の中で一番強い子を日本に残した」台湾に赴任した夫の所へ向かう戦時中の家の血を絶やさない思いを知ったときの激しい後悔と愛情を気づかされる作家、また、幼い頃書いた詩をいつも持ち歩いていた母を知り母の思いの深さを知るところなど今の作家に書けるはずはない。深い思いは決して表に出したらそれは安物に代わることを教えられる。 戦前のあった日本の伝統、風習も的確に表現され、昨今の時代考証、衣装考証のなさにうんざりさせられていた私は目を見張った。 この映画に引き込まれ、まだ日本に映画があることを確信した。 今私が書いているテーマとダブるところもあり影響を受けないように注意が必要であることも感じた。 全ての芸術作品はそれに接した人たちを生きていてよかったと思わせなくてはならない、それが作り手の信念でなくてはならない。決して空振りをさせてはならない、その審問で想像してほしい。 私が夢を大切にといつも言うが、そう簡単に夢が実現しないから夢が必要なわけで、それは心の安らぎでもありゆとりがあって初めていい夢が見られるということなのです。
2017年05月18日
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昨日、不思議な夢を見た…。47 木立を縫って五月のみどりの風がわたってくる。その風はなんと快く人の心に安らぎを与えてくれるものなのか。草木は息を吹き返したように芽を出し新緑の葉を広げお日様の恵みをいっぱいに受けつぼみを付け花びらを開こうかと準備している。五月の季節の戸惑いが時に滋雨を振らせてその成長を励ましている。我が家の草花は満開乱舞の様相を見せている。名も知らぬ草花に「ありがとう」と声をかける。その言葉は肥しのように感じて一層花を美しく着飾らうとする。バラが今開こうとしている、アジサイも準備が出来たと言っているようだ。 最近の母の日にはカーネエションよりアジサイを贈る人が多くなっている。家人はカーネェションを貰って飾っている。 母に感謝する息子たちの志である。 花の命は短いが、次の年のこの季節を知っていてまた新しい芽を出し花をつける。 私は物語を書いていて人間を省察するとき果たして人間は何時花を咲かすのかと思う。人間が何時か、最近不確かだが老いていく中で今花を咲かしていると感じている。若い人はその若さで美しく、歳を取る過程でもみんなそれぞれの美しさを見るのだ。が、人生の終焉期に開く花は、生きて感じた知恵を持っているだけにより美しいと感じるようになった。 今の世界の老人はいかに美しく老いるのかを考えて生きてほしいと思っている。これはもう迷うことなく生きることだ。考えて生きることで答えを出すべきなのだ。 今どのように生きるかを花にたとえると散る時を感じて生きることだ。 歳を取ることは欲心を棄てることなのだ。澄んだ心で生きることなのだ。 これは花に学ばなくてはと思う。咲いて散り枯れていく、その姿を私は好きなのだ。もののあわれにこそ美しさがある。 これは私の美学であり概念であるので納得する必要はない。 残りの生き方の中であとひと花、などと考えることもいらない、自然体で過ごし出来れば、人のためになることが必要とされていれば完璧である。 年寄りには玩具がいる。「麗老」という作品の中で若い頃から定年退職したら読もうと5千冊を買いそろえた男を書いたが、その本の背表紙を見ているだけでも心が持たされ豪快ではないか。また、保育園、幼稚園の子供たちの中に入ってその無邪気さを生きがいにすることも心を開放することで生きている実感を持つことが出来よう。 定年退職をした一人の男がそのあとの人生をどの様に生きるのかを書いた。 この作品も出版する中に入れた。現代の高齢者の問題としてのメッセージとした。 今、緑の若葉とみどりの風の中で大きく胸を張って深呼吸をしている。 今年の春は昼は暑く夜になると冷え込んでくる。花も戸惑っていることだろう。春を告げる鶯もカッコウも・・・。だが、毎日名も知らぬ花の姿に勇気付けられ生きる力を戴いている。 「あなたに差し上げられるものは、五月のみどりの風とあなたを愛するこころだけです」 イギリスの作家、クローニンが書いた言葉が思い浮かぶのだ。スコットランドの五月の自然の営みから生まれたものだろう。 春は私の持病、自律神経失調症が気圧の変化に糾合して私の体を狂わせる時期でもある。長い付き合いでも耐えられない苦しみがある。 が、夢を見ることにしている。夢は決して成就するものではなく、心の滋養なのだ…。
2017年05月17日
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昨日、不思議な夢を見た…。46 あとがきに変えて 古希の時に、 「倉子城物語 倉子城草紙」を出版して五年の歳月が通り過ぎている。 歳を取るということは何かおもちゃが必要であることを感じた。 戯曲を書くのをやめてもう十五年になる、が、何かしなくては退屈でしょうがない、世界、日本の歴史、世界の宗教、文明の遺跡などに興味がありその方面のことをつぶさに眺めていた。 そんな中で、「砂漠の燈台」を書き始めていた。これほど時間をかけた作品はない。爾来、私は速筆な方で構想がまとまれば一晩で書き上げたものだが、やはり歳なのか、それに書き進めているうちに新しい発見をしてついついそれをどのように入れ込むかという問題もあって、書き始めて、気分のいい時には書き進めることが出来るが、自律神経失調症に左右され何か月を費やした。 この物語は一人の女性の心の成長を日本の文明と重ねて書いた。人様に読んでいただくためではなく私がこのような物語が読みたいと書き進めたものです。 そして、三十歳で書いた「天使の子守唄」添えさせてもらった。老人の性を問いました。 「麗老」は定年をした男がいかに生きるのかを一面的な視点で書きたかった。綺麗に老いる、それはどういう性質のものか、真実などあるわけもないことを承知していた。少し遊び心を入れて重たいテーマを軽く書こうとした。老いという側面を多少なりともかけていればと思いたい。書いた後、私には弁解の余地などないことを承知しています。読まれた方がなんだーと思われてもそれについて煩労をする勇気もない。こんな生きかた、があってもいいとご寛容に理解していただければ、書いた甲斐があったというもの、書き手のいい逃れは一切しません。 本にするつもりはありませんでした、が、草稿の原稿を読んだ人から本にしてという要望が多くあった。その人たちに後押しされて出版することにした。貧しい知識の中に出来上がったものをと思うけれど開き直っています。 この作品集を出版するに至って「幻冬舎」の編集者下平駿也さんに多大なる支援を頂きましたことを御礼申し上げます。 今、書こうとしている「めぐり来る季節の中で」の構想がまとまらない。これは秋子の一生を書くことにしている。戦前に生まれ戦中を過ごしそして戦後、平成29年の春、桜の満開のもとで旅だつとしている。その生きた期間に何を感じ生きていたのかがこの作品のテーマでもあり、そこに新しい女性の生き方を、今まで感じなかったことを書き加えるつもりでいる。秋子の子供たち、孫たちの人生は秋子の人生の中に組み込まれているものとした書き、そこに色々な亀裂を乗り越えなくてはならない秋子の生き方が絡んでくる。 「春告げ鳥」夏告げ鳥」「秋告げ鳥」「冬告げ鳥」と章を分けて、秋子が書いた日記を読み孫たちの人生に対しての真摯な生き方を問うことになる。 人が生きていくうえでどうしても避けられないものがある、そのことを重点的に書き表したい。 こんな夢のような作品が、なぜ今なのかということは、現代の世相が男も女も本能というものを考えないで生活し、未来を予言することが必要だと考えたゆえんでもある。 誇大妄想の夢を書き表そうとしている75歳の春の終わり、夏告げ鳥の鳴く燕の声に託したいと思っている。
2017年05月14日
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