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2018年06月16日
6月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
ナジ・イムレ(Nagy Imre)が没した日です。ソ連軍に拘束され、極秘裁判で死刑執行が下り、処刑されました。
東側陣営を形成する ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連。1922-1991)の衛星国であった ハンガリー人民共和国(1949年-1989年)では、1949年の成立期に憲法が制定され、スターリン主義色の強い国家形成を促されました。しかし1953年にソ連の最高指導者であった スターリンが没し、社会主義形成が揺らぎ始め、ハンガリー国内でも低賃金労働者や言論規制をうけていたジャーナリスト、大学生などの反スターリン運動が沸き起こりました。この時 ラーコシ・マーチャーシュ人民共和国閣僚評議会議長(ハンガリー人民共和国の首相の地位。在任:1952.8-53.7)はこれまで親スターリン派の筆頭としてスターリン主義国家政策を一貫して行ってきましたが、スターリン批判が高揚し、しかも食糧難によるデモや工場ストライキが相次いだため、ラーコシ・マーチャーシュは辞任、当時農相を努めていたナジ・イムレに首相を譲りました。
ナジ・イムレもラーコシ・マーチャーシュと同じ ハンガリー勤労者党(MSZMP)の党員でありましたが、首相就任後は行き詰まった社会主義政策の見直しを行い、集団農場の緩和、経済と宗教の開放、そして労働者に強い支持のあったものの、マーチャーシュ政権に嫌われて干されていた カーダール・ヤーノシュの復権などを行いましたが、右翼偏向、資本主義寄りとの非難を浴びて1955年に辞職、党除名処分を受けてしまいました。
1956年2月、ソ連では 共産党第20回大会が開催され、そこでソ連の最高指導者 フルシチョフ(在任1953-64)は、スターリン時代に大量粛清が行われたことや、平和共存の外交政策、行き過ぎた社会主義を是正して議会を強化することなど、 スターリン批判の演説を行いました。こうした背景にハンガリー人民共和国では、労働者、大学生、知識人らによるハンガリー勤労者党の第一書記を務めていたスターリン主義者のラーコシ・マーチャーシュに対する批判が強まりました。ラーコシ・マーチャーシュは党第一書記を辞職させられました。また情勢に応じて、ナジ・イムレも復党が認められました。
こうした流れの中で、1956年10月23日、ハンガリー市民が暴徒と化し、首都 ブダペストを中心に大規模な動乱となりました( ハンガリー動乱)。この反乱により、ソ連軍は鎮圧のため出動しました。その翌日にナジ・イムレは首相に復帰しました(在任1956年10.24-56.11.4)。
首相に復職したナジ・イムレは独自の社会主義路線を歩もうとしました。一党独裁体制ではなく、議会重視と連立政権体制をすすめ、また東側陣営の軍事の中心であったワルシャワ条約機構からの脱退を主張しました。反乱収拾の手段に至っては、戒厳令をしいて民衆支持の政治犯の釈放などを行いました。
しかし25日、ブダペストでソ連軍が再び介入、再び火花が飛び交い、多くの市民が命を落とし、ブダペストはソ連軍によって包囲されました。ソ連はハンガリーの新しい指導者として、カーダール・ヤーノシュを推します。カーダール・ヤーノシュは、ハンガリー勤労者党を解体させて ハンガリー社会主義労働者党を再編成しました。動乱はカーダール・ヤーノシュによる新しい政権で鎮圧することになり、ナジ・イムレはソ連軍に捕らえられました。11月4日、ナジ・イムレは首相を辞職、首相はカーダール・ヤーノシュが任命されました(在任1956.11-58)。その後、2万人近い死者を出したハンガリー動乱はようやく収まりました。
ナジ・イムレはソ連の極秘裁判にかけられ、1958年6月16日、絞首刑に処されました。しかし1989年、忌日と同じ6月16日に陽が当たり、ナジ・イムレの再埋葬が行われて彼の名誉が回復しました。その後ブダペストにナジ・イムレの功績を称える銅像が建てられました。
東側陣営を形成する ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連。1922-1991)の衛星国であった ハンガリー人民共和国(1949年-1989年)では、1949年の成立期に憲法が制定され、スターリン主義色の強い国家形成を促されました。しかし1953年にソ連の最高指導者であった スターリンが没し、社会主義形成が揺らぎ始め、ハンガリー国内でも低賃金労働者や言論規制をうけていたジャーナリスト、大学生などの反スターリン運動が沸き起こりました。この時 ラーコシ・マーチャーシュ人民共和国閣僚評議会議長(ハンガリー人民共和国の首相の地位。在任:1952.8-53.7)はこれまで親スターリン派の筆頭としてスターリン主義国家政策を一貫して行ってきましたが、スターリン批判が高揚し、しかも食糧難によるデモや工場ストライキが相次いだため、ラーコシ・マーチャーシュは辞任、当時農相を努めていたナジ・イムレに首相を譲りました。
ナジ・イムレもラーコシ・マーチャーシュと同じ ハンガリー勤労者党(MSZMP)の党員でありましたが、首相就任後は行き詰まった社会主義政策の見直しを行い、集団農場の緩和、経済と宗教の開放、そして労働者に強い支持のあったものの、マーチャーシュ政権に嫌われて干されていた カーダール・ヤーノシュの復権などを行いましたが、右翼偏向、資本主義寄りとの非難を浴びて1955年に辞職、党除名処分を受けてしまいました。
1956年2月、ソ連では 共産党第20回大会が開催され、そこでソ連の最高指導者 フルシチョフ(在任1953-64)は、スターリン時代に大量粛清が行われたことや、平和共存の外交政策、行き過ぎた社会主義を是正して議会を強化することなど、 スターリン批判の演説を行いました。こうした背景にハンガリー人民共和国では、労働者、大学生、知識人らによるハンガリー勤労者党の第一書記を務めていたスターリン主義者のラーコシ・マーチャーシュに対する批判が強まりました。ラーコシ・マーチャーシュは党第一書記を辞職させられました。また情勢に応じて、ナジ・イムレも復党が認められました。
こうした流れの中で、1956年10月23日、ハンガリー市民が暴徒と化し、首都 ブダペストを中心に大規模な動乱となりました( ハンガリー動乱)。この反乱により、ソ連軍は鎮圧のため出動しました。その翌日にナジ・イムレは首相に復帰しました(在任1956年10.24-56.11.4)。
首相に復職したナジ・イムレは独自の社会主義路線を歩もうとしました。一党独裁体制ではなく、議会重視と連立政権体制をすすめ、また東側陣営の軍事の中心であったワルシャワ条約機構からの脱退を主張しました。反乱収拾の手段に至っては、戒厳令をしいて民衆支持の政治犯の釈放などを行いました。
しかし25日、ブダペストでソ連軍が再び介入、再び火花が飛び交い、多くの市民が命を落とし、ブダペストはソ連軍によって包囲されました。ソ連はハンガリーの新しい指導者として、カーダール・ヤーノシュを推します。カーダール・ヤーノシュは、ハンガリー勤労者党を解体させて ハンガリー社会主義労働者党を再編成しました。動乱はカーダール・ヤーノシュによる新しい政権で鎮圧することになり、ナジ・イムレはソ連軍に捕らえられました。11月4日、ナジ・イムレは首相を辞職、首相はカーダール・ヤーノシュが任命されました(在任1956.11-58)。その後、2万人近い死者を出したハンガリー動乱はようやく収まりました。
ナジ・イムレはソ連の極秘裁判にかけられ、1958年6月16日、絞首刑に処されました。しかし1989年、忌日と同じ6月16日に陽が当たり、ナジ・イムレの再埋葬が行われて彼の名誉が回復しました。その後ブダペストにナジ・イムレの功績を称える銅像が建てられました。
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