先日、自治会運動会が地区の小学校でありました。

私はずっと、地元で暮らしてきましたので

運動会をしたこのN小学校の卒業生でした。



先日の運動会の時は競技役員でバタバタしておりましたので

小学校の時の思い出に浸る余裕などはありませんでしたが

昨日、近くまで用事があったのでグランドに立つと

風景は当時と変わりすぎてはいますが

小学生の頃をいろいろ思い出しました。



私は人間が暗く出来ているのか、思い出すことは

何故か悲しいことが多くて、中でもひどい殴り合いの喧嘩を

した時のことを思い出して少し胸がキュンとなってしまいました。






私が小学生の時はまだ食料事情も厳しく、今のように

その気になれば何でも手に入る時代ではありません。

小学校の給食の時間は牛乳ではなくて脱脂粉乳 という

お世辞にも旨くないやつでした。しかし、贅沢は言っていられないので

それを飲んでいました。パンは味も何も付いていないコッペパンの

ような形をしたものが配られていました。




学校を休んだ子にはそのコッペパンを紙にくるんで

帰り道の子供が届けてやっていました。

当時の私の一番の親友が風邪をひいて学校を

休んでいた日に、帰りに通りがかりになる者が

パンを親友に届けてくれました。届けたのは

クラスでもよくイタズラをする体の大きな力の強い

ボスザルみたいな奴でした。



この日もイタズラ心でコッペパンの中に砂を入れて

親友に渡してしまったのでした。

次に日に自慢げに昨日の砂入りコッペパンを食べた

親友の様子を面白おかしく喋っているボスザルがいました。



親友はまた次に日も学校を休みました。

また、ボスザルが砂入りコッペパンを親友に届けました。

私はボスザルのあとをつけて行って、親友がコッペパンを

頬張る姿と口から砂をぺっ、ぺっと吐き出すのを見ました。


ボスザルが大声で笑って、何が可笑しいのか親友までも笑っています。

親友の家はお父さんが働いていない家庭でした。

私のうちも決して裕福ではありませんでしたが、この親友の

生活ぶりと比べれば文句など言えない状態でした。

私ならコッペパンを捨てていたと思いますが親友はおそらく

大事な食料で捨てることもできなかったのだと思います。



私はそばにあった木の枝を持って敵うはずのないボスザルに

突進していきました。何か熱いものが自分を突き動かしているのが

わかりました。  「こいつ、絶対許さん」と思って枝で殴ったボスザルの

顔から血が吹き出していました。



あとはどうなったのか、いまでもはっきり思い出せない部分が

多く、その事件のあとからクラスのみんなが自分を見る目が

変わってきたのだけははっきり覚えています。



当時、私の父親とか先方の親御さんとか担任教師には

とんでもない迷惑を掛けたというのは容易に察しが付きますが

今の時代にこんなことしたらどうなるでしょうか?

大それたことをした割には、そうひどく怒られた記憶がないのは

それを丸く収めた方がおられたからでしょうか?



その後も、性懲りもなく何度か喧嘩に巻き込まれたことは

ありますが、以来物を使って人を殴るということはしたことは

ありません。



※脱脂粉乳
 保存性がよく、蛋白質、カルシウム、乳糖などを多く含んでおり、栄養価が高いことから、戦後しばらく学校給食に用いられた。学校給食に用いられたのは主にユニセフからの援助品である。戦後間もない頃の日本の食糧事情を知ったアメリカ合衆国の市民団体が、日本の子供たちの為に実行した支援だった。ただし、当時アメリカには脱脂粉乳が過剰に余っており、支援にかこつけて在庫処理したとする説もある。メロンパン、マフィンなどの菓子作りにも使われる。







小さい頃から悔い改める
必要がありそうな人生です。

彼女の美貌も然ることながら
この曲を聴けば何かが流れていきそうです
アベマリア  ヘレン・フィッシャーさん
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